第39話:「毛沢東、シャバに出て来る」

 林彪の目付きがだんだんと鋭くなり、動きも大きくなり始めていた。周囲の客たちも徐々に二人の異様な雰囲気に気付き始めた。

 「仮にそうだとしても私は受け入れることなどできない! そもそもお前がお姉さまの周囲十キロメートルに接近する資格すら持ち合わせていないのに、何が腹立つって、お姉さまがお前のような人間を信用されているというその事実なのだ! お前一体どんな薬をお姉さまに飲ませたっていうんだ! 白状しろ!」

 周恩来はバランスを保ちながら、一方で林彪に答えた……

 「お前だってあいつのことを知っているというのなら、あいつが同志のための労力を惜しまない人間だってことは知っているはずだ。あいつが信用しているのは僕一人だけじゃない。李之龍同志だってそうだし、お前だってあいつが信用している人間の一人なんだぞ! 僕はあいつが信用をしている沢山の人間の一人に過ぎないんだよ!」

 口でそんなことを言いながら、周恩来の心には名状しがたい欝々とした感情があった。

 「そんなに簡単な話なはずがあるか!」林彪は口を尖らせながら、複雑な表情で周恩来を睨んで来た。「お姉さまがお前のことを看病されていたあの晩、私はすっかり見てしまったんだ。お姉さまがお前のことを一心に案じていらっしゃる様子を思い出す度に……私は怒りの炎が三丈(おおよそ十メートル)ほどにも燃え上がるんだよ!」

 「待て待て! なんでお前そのこと知ってるんだよ! 僕の部屋は三階だぞ!」

 周恩来はそこで唐突に、目の前にいるこの女性が自分が想像しているよりも遥かに恐ろしい相手ではないか、と思った。

 「そんなことはお前には関係ないだろう! やはり考えを改めるべきだな! この場でお前に恥をかかせてやる!」

 「おいって! バカなことするな! まだダンスは終わってないんだぞ!」

 考えを切り替えてしまった林彪は、足先で周恩来を転倒させようと仕掛けて来た。さほど手間なく周恩来を転倒させてしまえると思っていた林彪だが、意外にも周恩来も粘り強く抵抗を続け、林彪の攻撃の手を阻んでいた。彼女がどんな風に足先を動かしても、周恩来は必死に彼女の足を避けてしまうのだった。

 そうしているうち、却ってダンスを踊りながら周恩来に攻撃をしかけていた林彪は、だんだんとバランスを失いつつあった。

 「くそっ! とっとと倒れろ!」

 「ごめんだ! お前こそはやく足を止めろ!」

 林彪はダンスに合わせて体を反転させると同時に足を踏み出し周恩来を転倒させようとしたが、またしても彼に避けられてしまった。彼女が足を引っ込めて再度攻撃を仕掛けようとした時、足が滑り、後ろに倒れそうになってしまった。

 「あっ、くそ……!」林彪は事の不味さをさとった。

 「危ない!」

 周恩来は慌てて、林彪の腰に回していた腕を自分の方へと引いた。重心を失った林彪は、抵抗できず、周恩来に全身でぶつかってしまうことになった。

 「あっ!」

 林彪が本能的に周恩来の腰に腕を回してしまったことで、彼の胸元に顔をうずめることになった。この時、軍楽隊の演奏が終わり、照明が回復した。ダンス用のスペースにいた全ての人々が、蒋中正も含めて、口と目を大きく開けながら、恋人のような恰好で抱き合っている二人を目にすることになったのだった。

 「ふふ。これぞ情には勝てないというやつですなぁ」

 「若いっていいですわね」

 「周主任と林彪ってそういう関係だったんだな……」

 二人の周囲でざわざわと言葉が沸き起こった。林彪は数秒かけて自分が置かれている情況を理解すると、すぐさま周恩来を押しのけた。

 「おま、おまおま……なにするんだ!」

 林彪は周囲から投げかけられる視線に耐えられず、目に涙を浮かべ、顔を真っ赤にして周恩来をそう罵倒した。

 「さっき転倒しそうになっただろ? 僕はただ倒れないようにしただけだよ」

 「お前に非礼を働かれるぐらいだったら床に倒れた方がマシだ!」

 「な、なにが非礼だよ!」周恩来は焦り始めた。「お前が暴れたりしなかったら、そもそもバランスを崩したりもしなかったんだろ! 謝るならともかく、僕のせいにしようっていうのか?」

 しかし林彪は周恩来の抗議になど耳を貸さず、「パン」という音と共に、彼に一撃を見舞った。

 「バカ! 変態! 色情狂! 死ね!」

 彼女はそう喚き散らすと、人並みを押しのけて舞踏会場から出て行ってしまった。

 周恩来は痛む頬を撫でながら、深く溜息をついた。

 「……翔宇」

 周恩来が声のした方に顔を向けると、蒋中正が微笑を湛えながら近づいて来るのが見えた。

 彼女が浮かべている笑みは、ダンスが始まる前に林彪と彼に向けていたのと同じ笑みだった。

 「舞踏会が終わったら。校長室に来てく・わ・し・く今起こったことを説明しなさい」

 「先輩、僕はその……」

 「わ・か・っ・た・の・か?」

 蒋中正のその笑顔の「眩しさ」は、周恩来にそれ以上直視させないほどだった。

 「は、はい……」

 

 「では、お姉さまが改めて自由を獲得されたことを祝って、乾杯!」

 「乾杯!」

 足掛け三か月に渡る拘留の末、毛沢東はとうとう「大飯店」から出て、日の目を見ることとなった。

 人数にして数百人ほどになる小組のメンバーたちは、朝早くから「大飯店」の門の外に集まって彼女が現れるのを待ち受けていた。周恩来と林彪も当然ながらその場に駆け付けていた。毛沢東が「大飯店」から出て来た時、集まっていた人々は歓声を上げた。毛沢東は最初いくらか恥ずかしそうな様子だったが、人々の熱気が高まるにつれ、彼女もまたその輪の中に加わり、一同揃って祝いの言葉を声高に叫んでいた。

 その日の夜、人々は毛沢東のために厄払いを催す予定だったが、彼女がその日の晩に周恩来と話したいことがあるというので、やんわりとその誘いを断っていた。他の小組メンバーは彼女の意思を尊重することにしたが、林彪だけは必死に毛沢東の参加を頼み込んだため、毛沢東は彼女も話し合いに誘うことで、三人で周恩来の宿舎において小さな飲み会を開くことになったのだった。

 広東では、習俗上監獄から解放された後は火盤と柚子の葉を用いて体を洗うことになっていることもあり、林彪は毛沢東の背中を流すことを申し出たが、毛沢東は断固としてこれを断り、三人で普段から口にしている食事で会食をするとしか答えなかった。そこで周恩来が普段の料理を支度することになった。

 「ああ! 紅焼肉だ!」

 毛沢東は彼女の大好物を目にすると、林彪や周恩来にお構いなしで、両の目を輝かせてテーブルの端に座った。アツアツの紅焼肉を口の中に放り込み噛みしめながら、「うう~!」という幸せそうな声を上げていた。

 「ああ! 暴飲暴食のお姉さまもセクシーです!」

 「暴飲暴食のどこがセクシーなんだよ!」

 周恩来はいつもの習慣でそんな突っ込みを入れたが、林彪もまたいつものように彼を無視し、続けて毛沢東にこういった……「お姉さま、聞いてください! お姉さまが牢獄で苦しんでいた時、私はそのお傍にいることはできませんでしたが、しかし私はこの悲しみを力にして、一生懸命に仕事にまい進していたのです!」

 林彪は興奮しながら彼女にそう報告してみせた。まるでテストで満点をとった子供が母親にその成果を報告するような感じだった。

 「ふふ。数日前もですね、私の部隊がボロディン神父を歓迎するための儀仗隊として活躍した他にも、彼の前で演武までやってみせたのですよ。話によれば彼は私たちをとても高く評価していたそうなんです!」

 「ボロディン神父? 儀仗隊? なんの話だ?」

 毛沢東はそういって困惑の表情を浮かべた。この時になって彼らは彼女が牢獄から出て来たばかりで、そもそもソ連の大使が中国までやって来たことを知らないでいることに気付き、周恩来は彼女の説明をしてみせた。

 「彼が広東にやって来たのに合わせて、先輩は汪精衛と近い内に正式な北伐の開始を宣言することになると思う。これからはどんどん忙しくなるよ。お前は今日はゆっくり休んで、明日から仕事に戻ってくれるといい。くれぐれも何か月も牢屋で座っていたからって、そんなこと言い訳にしないでくれよ」周恩来は口ではそんなことを言いながら、内心ではとても喜んでいたのだった。

 「分かってる、分かってる、明日は時間通りに仕事場まで行けばいいんだろ」毛沢東は箸を置くと、厳粛な面持ちでいった……「そうだ……私が牢屋に入った後で、之龍同志はどうなったんだ? 彼はまだちゃんとやってるのか? 艦長の職を失ってしまったことは、彼にとって相当大きな打撃になっていると思うんだけど……」

 李之龍の名前を聞くと、他の二人は思わず黙り込んでしまい、熱気に溢れた空気はすっかり氷点下まで落ち込んでしまったようだった。

 周恩来は溜息を漏らすと、こういった……「最初の頃は僕も心配で様子を見に行っていたんだ。当時の彼はただぼんやりとしているだけで、僕としても今回の結果を受け入れられないでいるせいだろうと思っていた。その後から僕の仕事もだんだんと忙しくなって行って、彼の様子を見に行く時間も無くなってしまってね。部下からの報告を受け取るだけになっていたんだけど、それによると彼はずっと宿舎の中に籠っていて、出て来ることは稀だっていうんだ。食事も食堂から料理を運ばせているらしい。正直言ってかなり心配な状況なんだよ」

 「だったら私たちでこれを食った後に彼を見舞いに行けばいいじゃないか!」

 周恩来はハッとしてから、壁掛け時計を指さしてみせた……「今何時だと思ってるんだ? お前が彼のことを心配していることは分かっているけど、彼はもうとっくに休んでいるはずだ。今見舞いに行ったところで迷惑になるだけだよ」

 「だけど私は本心から彼のことを心配しているんだ! それにお前はそんな風に言うけど、私は仮に今尋ねに行ったところで、彼は迷惑だなんて考えるはずがないって。逆に私たちのことを歓迎してくれるよ!」

 「お前の考え方は常識が無さ過ぎるんだよ! 頼むから行動を起こす前に、先に頭使って後のことを考えてくれよ!」

 周恩来はそういって怒りを露わにすると、テーブルを叩いてみせた。

 「もともと明日話そうと思っていたことだけど、お前がそんな風に言うんだったら、僕だって遠慮はしないぞ!」彼は憤然と立ち上がると、毛沢東の鼻先に指を突きつけた。

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