第38話:「林彪と周恩来、ダンスする」
それまで演奏されていたのはテンポの速いタンゴだったが、次は優雅な円舞曲だった。パーティ会場の照明はダンスの調子に合わせて暗く落とされ、軍楽隊が柔らかな楽曲を奏でると、ボロディンと蒋中正も踊り始めた。周恩来はダンス用のスペースの端で、注意しながら林彪の腰に手をまわし、彼女に足を踏まれてしまわないよう、視線を下げて自分と林彪の靴を見詰めつつ、勇気を奮ってダンスを始めた。
(これがいわゆる狼と踊るってやつだな……)
周恩来はヨーロッパに留学していた時、一度か二度、大学が主催するダンスパーティに参加したことがあった。そのため多少はダンスについて理解はしていたものの、腕前に関しては熟達しているとは到底言えない代物で、彼の相手である自称ダンスパーティの常連、しかも攻撃性を備えた彼女は、彼にとって何倍ものプレッシャを与えるものだった。
けれど、彼の杞憂はすぐに消えることになった。
周恩来はてっきり彼が間違いをしでかすと同時に林彪が留めを差して来ると考えていたのだ。たとえば故意に彼を転倒させることによって、人々の前で彼に恥をかかせるといったようなことである。けれど林彪はそういった行動に出なかったばかりか、暗に彼のダンスを正確に導いてくれたのだった。
林彪の協力の下、周恩来のダンスはじょじょにみられるようになっていった。彼はだんだんと自信を持ち始めると、ついに顔を上げ、彼女の顔を直視するまでになった。
林彪は一貫して笑みを浮かべてはいるものの、周恩来はそれがあくまで見た目だけのものであることは分かっていた。彼女が自分とのダンスを本当に楽しむはずがないからだ。そんな中で唯一幸運だったのは、彼女が先ほど見せていた殺気が、煙のように消えてくれていたことだった。彼にとってみれば、殺気を伴うことなく自分と対面している林彪というのは、相当に新鮮なものだった。
同時に、林彪のその態度は彼を大いに困惑させるものでもあった。
「……どうしてエスコートしてくれるんだ?」
ダンスの途中、周恩来はとうとう我慢し切れず、低くした声で林彪にそう問いかけてみた。
林彪は淡々とこう答えた……「誤解するなよ。私はただ蒋校長の命令に従っているに過ぎんのだからな」
「なるほど」
「ああ」
二人は無言のまま何歩かダンスを踊ると、周恩来はまた口を開いた……「実のところ僕としては分からないんだけど……お前があいつのことを気に入ってることは充分分かっているんだ。中正先輩があいつを拘留したことにだって、お前はきっと相当怒ってたんだろ。だけど今のお前は先輩の命令に忠実に従っているし……お前としては先輩のことは恨んでないのか?」
「今の今まで私はずっと承服できていないままだ」林彪はその荒々しい眉を少し寄せ、ゆっくりと笑みを引っ込めた。「但し、私は心から蒋校長のことを尊敬している。正直に言ってしまえば、彼女はお姉さまとは比べ物にはならないが、それでも一般的な女性の中で頭一つ秀でている人物であることは間違いない。彼女はお姉さまを苦しめ続けていることは事実だが、それでも一人の指導者として、私は彼女の能力を認めているんだ」
「中正先輩は確かに尊敬に値する人だ。お前が道理の分かる人間で良かったよ」
周恩来は今しがた口にした言葉を、すぐに後悔することになった。
林彪と平和的に会話を交わすことができる得難い機会なのだ。その中で互いに対する理解を増すことができるのに、どうして自分から相手を挑発するようなことができるだろうか。
「どうもお前は私に対して相当誤解しているようだな」林彪はポーカーフェイスでそういった。「まず言っておくが、私だって教育を受けた人間なんだ。野蛮人のように思うのはやめてくれないか?」
「ごめん。軽率だったよ」
「次に、私としてもお前がそんな偏見を持つ理由は分かっている。私は別に全ての男に対して恨みを抱いているということじゃないんだ。ただ落ちこぼれが嫌いなだけなんだ。ガリ勉だの、中身のない奴、あともっさい男が嫌いなだけなんだ。つまりお前のことが嫌いってことだな」
「僕、そんなにもっさいのか……」
周恩来は自分の欠点に気付いてはいたものの、依然としてそれは衝撃的だった。
「いいや。僕がもっさいのはいいけど、でも分からないのはどうしてお前が僕に対して強烈な敵意を抱いているのかってことだよ。僕たちは互いに同じ理想の社会を目指す同志だろ?」
「それは私としても言いたいところだ。最後に、私たちが同志だという話だが、初めの頃は私はお前のことがただ嫌いだというそれだけだった。この世の中には沢山気に入らないことがあるし、何事に対しても一度カッとなってしまうと歯止めが効かない。しかしお姉さまと出会ってからは、私はだんだんと、お前のことが嫌いで嫌いで仕方がなくなっていったんだ」
「どうしてだよ? あいつが一体どんな関係があるんだ?」
「お前がお姉さまとべったりだからだ!」
林彪は声を荒げ、ダンスの足取りもそれに伴って激しくなり始めた。幸い円舞曲も最高潮に達し始めていたお蔭で、彼女の口ぶりは他の客に影響を及ぼすことはなかった。
「は?」
「お前に自覚があるのかどうかは知らんが、お姉さまが拘留される前まで、お姉さまはお前の傍で、影みたいにくっついて離れたりしなかった! お前これがどれだけ人を嫉妬させるか……羨ましいことか分かってるのか?」
「嫉妬なのかよ!」周恩来は思わずそう言ってしまった。「あの時僕たちは李之龍同志を助けようとしてただけで、だからそれは……」
林彪の目付きがだんだんと鋭くなり、動きも大きくなり始めていた。周囲の客たちも徐々に二人の異様な雰囲気に気付き始めた。
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