第4話

ぱちゃりと、耳元で水のはじける音がして僕は目を覚ました。気を失っていたのは、時間にしてせいぜい数分だったと思う。

 水が漏れていたのだろうか、顔の周りが水浸しなのが気になったが、暗闇のせいでなにも確認できなかった。おまけにあちこちを りむいたらしい、体を起こそうとするとあちこちが痛みだした。水にぬれた ひたいがやけに熱い。

「みんな無事? そばにいるの?」

 僕は、いっしょになって落ちたかもしれないまわりの人間に声をかけた。その声で気がついたのか、衣擦きぬずれの音やうーん、といううなり声がそちこちから聞こえてきた。

「いててて……くそ、穴に落ちるなんて」

「まったく、とんだ災難ね……ん、なにコレ? なんかふにふにやわらかいものがあるわ」

「あ、や、や! あかねさわんないでっ!」

「うわぁっ! なんでお尻のしたから声が聞こえんのよッ!」

 言葉から察するに、どうやら雅人は無事で、明音と木之美さんは合体まんじゅうになっているらしい。それがうらやましかったのか、雅人は、

「くそっ、暗闇の中でさえ俺に天使は微笑まないなんてッ」

「雅人、いいから明かりをつけてよ。これじゃなにも見えないよ」と僕は言った。

「いやそうしたいのは山々なんだけど、あ、そうか携帯のライトがあったんだ」

 ちか、と光が灯ってあたりを青白く照らし、石壁にみんなのシルエットが映し出される。

 右手前にいるのが雅人で、奥でごっちゃになっているのが明音と木之美さんだろう。

「よかった、みんな無事そうで。雅人、ついでにタオルかなにか貸してくれない? なんか顔がびしょぬれで、」

 僕はそう言って光源にむかって あゆみ、雅人のとなりに座った。

 携帯のライトが僕の顔を照らし、同時に雅人のにこやかな顔が見えた。彼は僕に向かって手をあげ、

「やあ、裕樹くんも無事そ、」

「うや――――――――――――――――――――――っ!」

「うわあ、なになにっ?」

 女性陣ふたりの地下室を破壊するほどの悲鳴が響きわたり、これには僕も大慌てした。

 雅人はすぐそばで声もなく、舌をべろんとして白目をむいていた。

 うん? と僕が思っていると、木之実さんががくがくと震えながら、

「ゆゆゆ、ゆーきくん、血が、ちが、ちががががががが、」

「え?」

 僕の顔を一面ぬらしていたのは、まっ赤な血だった。


「うわあああ、うわあああ、ゆーきくんが、ゆーきくんが死んじゃうーっ!」

 僕の両肩が、木之実さんによってがくがくと揺さぶられる。その度に、額の周りの血がぴっぴと飛び散る。このままでは本当に死んでしまうかもしれない。僕は木之実さんにむかって言った。

「お、おちついてよ木之美さん。きっと落ちたときに額を切ったんだ。額は血管が集まってるから血はたくさんでるけど、傷は深くないからだいじょうぶだよ。

 それにほら、漏れてた水と混ざって量が増えたように見えたんだよ」

「いやあ――――――っ、死なないでーっ!」

 木之美さんが今度は僕の胸に飛びつき、ぶわーんと泣き出した。あっちこっちがやわらかいのはうれしいけど、それよりなにより血を拭かせてほしい。さっきから僕の血がぴっぴぴっぴ飛び散って、木之美さんの栗色の髪の毛やキャラメル色のカーディガンに染みをつくってしまっているのは見ていて痛ましい。

 気付くと明音が横に立っており、腰に手まであてて僕を見下していた。

「まったく……血みどろの化け物かと思ったのよ。どんな驚かせ方してくれるのよ」

「いや僕に言われても」

「ほらまっちょも。いつまでも口から魂吐いてないで帰ってきなさいよ」

 げし、と明音が雅人の背中を蹴飛ばすものだから、その拍子にすぽん、と口元から魂が飛び出してきってしまったように見えたが、とにかく雅人は帰ってきた。

 正気をとりもどした雅人は、頭をぶるぶる振ったあと後頭部をぽりぽりとし、

「いやぁ……びっくりしたなぁ。心臓が口から飛び出るかと思ったよ」

 おなじくらい大事なものを飛び出させていたようにも思う。

「それにしても、」

 僕は言った。

「ここは地下牢? でも、木之美さんが捕まってたところとは場所がちがうみたいだ」

 僕の言葉で明音はあごに手をあて、『考える人』になる。

「監守室のむこうにも、おんなじように牢屋があったのかしら……あのばーさん、まとめて地下牢にひきずり込むって、こういう意味だったのね」

「獣用の罠とかだったのかなぁ。にしても、こんなとこまでつながってるなんて……」

 と言って、雅人も辺りを見渡した。

 僕は、化け物と壮絶な鬼ごっこをしたはしごの長さを思い浮かべた。あの高さを一息に落ちたのだとしたら、こうして無事でいられるはずがない。だとすると、あれは罠ではなく通路だったのだろうか。それとも、こちらの牢はあちらほど高低差がなかったのか。

 とにかく、ここから出ることが先決だ。そう思い、僕は言った。

「いずれにしても、このままここにいるわけにはいかないね。はやくしないとまたあのがいこつ婆さんがやってくる」

「つかまったぁ、かわはぎにさぇちゃうよ……」

 と木之実さんが、惚れ惚れするほど最悪の滑舌で同意する。

「それに、」と雅人が口をはさんだ。

「それに茉莉花さんの姿が見えないんだ。離れたところにいたから落ちなかったんだと思うけど、すぐに助けにいかないと」

 明音はその言葉に腕を組んで、

「茉莉花ちゃん……気になること言ってたわね。お姉ちゃんって、あの言葉、本当なのかしら?」

「あんまり……信じたくはないけどね」

 そう言って、僕は立ちあがった。こんな場所に長居する理由はない。

 牢獄の扉へ向かう僕の背中に、明音が声をかけた。

「鍵、開いてるのかしら?」

「まさか。でも、」

 僕は牢の入り口に近づき、鉄格子の間に両腕を通した。手に持っていたものが、しゃらりと音を立てる。明音は気付いたようで、

「あ、そっか! 鍵を持ってたのよねっ」

「そういうこと」と僕は言った。

 1本目、2本目、3本目。

 鍵はまたしても3本目が正解だったようだ。かちりと小気味のいい感触がして、ぐりんと鍵が回転した。数十本もぶら下がっている鍵束の中から、3度目で『当たり』を引くのが2回続く確率はどれくらいだろう、と僕は一瞬考えたが、意味がないのでやめた。


 そのまま牢をでると、目の前にはちょうど明かりのスイッチがすえつけてあった。こがね色のそれを押し下げると、ぼんやりとした裸電球がともり、タイル状になっている石壁を映しだす。

 僕らが立っていたのは、長い長い通路だった。今までいた牢屋の幅を考えて並べてみると、7つではとても足りそうにない。その両端は、どちらも頑丈そうな鉄扉に突き当たっていた。

 それにしても、この地下牢は広すぎる。まるで前世紀の遺物のような地上の村に比べて、なぜここだけはしっかりと舗装されているのか? 村には電化製品すらまともにないくせに、なぜここだけ電気がとおっている?

 分からないことばかりだ。でも、こうしてたって分かることなんかないのだから、やっぱり僕らは進むしかない。

「って言っても、どっちへ?」

 と雅人が僕にたずねた。道は二つに割れている。右奥の扉か、左奥の扉か。僕は答えた。

「さあ」

 ぴえっ、と木之実さんが謎の奇声をあげる。明音は気楽そうに、

「ま、地図がないんだからしょうがないわ。とりあえず近いほうの扉からあたってみたら?」

 と言い、それを聞いて雅人が、

「そうするしかないかぁ」とため息と言葉をひとまとめに吐き出した。



 ごつごつとした足音が怪しく響く。みんながおしだまって歩くものだからよけいに怪しさを際立たせていたが、だからといって口笛をふきながら歩くわけにもいかない。

 黒い染みがあちこちに広がる石床には、用途を想像したくもない道具のなれの果てがごろごろと転がり、頼りない明かりに照らされた石壁には、縦横無尽にひびが走りまわり、どこかから、生臭いにおいがしきりに流れこんできていた。その生臭さの正体を知ってしまった今、こうしてかいでいるだけで気が狂いそうになる。

 ましてや、今むかっている方向は地表に近づいているとも限らない。吊り下げられた無数の死体に自ら近づいている可能性もあるのだ。そう思うと、前に進もうとする足取りすら重くなった。

 そして実際よりはるかに長く感じた距離を歩いて、かたほうの扉に達したとき、ごおおん、という内臓を直接振動させるようなおぞましい音が地下道いっぱいに響いた。

 信じたくないけれどそれは、あのヒトガタの化け物が発するうなり声がいろんなものを振動させて、あちこちに反射して、ゆがみにゆがみんでかたちを変えたものであることだけは確かだった。

 明音が背後を振り返る。

「来たのね!」

「今の……うしろからっ? だったら俺らは前に進まないと!」

 叫んだ雅人の声は、深い残響ですっかり形を変えている。

 僕はとびつくようにして前方のドアノブを引いた。しかし、がちりとした手ごたえがあって、ドアはびくともしない。それに気付いた木之実さんが、絶望的な悲鳴をあげる。

「か、かぎかかってぅのっ?」

「だいじょうぶ! 鍵はもってるんだ!」と僕は答えた。

「裕樹、いそいでっ!」と、明音も叫ぶ。

 地響きのようなうなり声がどんどん大きくなる。輪郭がどんどん鮮明になっていく。近づいてきてるのは明白だった。

 けれどこういうときに限って、鍵束がポケットに引っかかって出てこない。焦れば焦るほど、深くズボンの裏地にくいこんでいく。背中の雅人がしびれを切らす。

「な、なにやってんだよ裕樹くん!」

 やっとの思いで鍵束をポケットからひきずりだし、鉄の円環に取りつけられた数十の鍵たちをみて、僕ははじめてその意味を理解し、戦慄せんりつした。

 今までは気楽に鍵を挿しこんでいたけれど、次も3本目で開くなんて保障はどこにもない。正解はこの中に1本。たとえスペアが用意されていたとしても、確率は決して高くない。木之実さんが心配気に僕の顔を覗きこんでいた。僕は深呼吸をひとつして、

「明音、これを」

 そう言って、明音に鍵束を手渡した。

「あ、あたしがやるのっ?」

「そういうこと」

 くじ運が悪そうなのは分かっている。責任を押しつけるようで酷なのも分かってる。だけど、扉に近いほうが結局は一番最初に逃げられる。それこそ僕が盾になれば、少しは時間もかせげる。のどをならして深くうなずいた明音は、

「やるしかないわけねっ!」

 そう言って、ねじりこむようにしてがむしゃらに鍵を挿しこんだ。

 1本、2本、3本、4、5、6――

「倉名さん、まだなのっ?」

 耐え切れずに雅人が叫ぶ。

「やってるわよ! けどッ!」

 どんどんと音は近づいていた。木之実さんが心配気に、なんども背後を振り返る。

「こんなのッ! 鉄でできてなかったら蹴破ってやるのに……!」

 もはや、明音の手元は怪しかった。 全身はがくりと震えて、目元には涙が浮かんでいる。そして、

「あっ……」

 明音の手から、鍵束が飛び出した。そのまま硬い音を立てて、鍵束は地面にひろがる。英単語帳をめくるようにひとつずつうしろに回すことで、どこまで試したかを確認していた鍵束は、これでもうすっかり分からなくなった。

「そんな――ふりだしからなの?」

 明音は呆然と床に散った鍵束を見下ろしていた。もはや、それを拾いあげる気力もないようだった。長い髪の毛がすっかりうな垂れていた。その姿を見て僕は、足元に落ちていた鉄パイプのようなものを拾いあげた。

 雅人がぎょっとした表情をして、

「ゆ、裕樹くんそれ鍵じゃないよ。それじゃ扉は開かないって、しっかりしてよ」

「分かってる。鍵はみんなに任せるよ」

「え? あ、ああ」

 明音ががばりと頭を上げて、

「任せるって……じゃあ裕樹は!」

 僕は、背後をふり返って長い長い廊下と対峙した。握りしめた鉄パイプから、ひやりとした感覚が伝わってくる。僕は言った。

「たたかう」

 背中のみんなが息をのんだのが分かった。だけど僕の心は決まっていた。

「な……なに言ってんのよ! 相手は化け物なのよ? 怪力なのよ? 人を食べて生きてるのよ?」

 背後で明音の声がする。それに僕は答える。

「それも分かってる」

「分かってないわ! 裕樹みたいな運動神経もよくない男が、逆立ちしたって勝てる相手じゃないのよ!」

 僕はふり返り、明音に笑いかけた。

「だいじょうぶだいじょうぶ。別にやっつけて退散させようっていうんじゃない。みんなが逃げだすまでのあいだ、ちょっと時間をかせぐだけだよ。さっきだってなんとかなったんだ。ちょっと足止めしたら、僕もすぐに逃げ出すよ」

「裕樹、でも……」

 明音の後ろで、雅人が床から鍵束を拾い上げた。

「納得なんてしないけど、でも、いまはとにかく鍵を開けないと!」

「頼んだよ雅人。じゃあ、ちょっと行ってくるよ」

 僕はみんなに背をむけ、廊下のむこうに一歩を踏み、

 そこで腕をおもいきり引っぱられた、と思って振りかえったら、今度は胸倉をつかまれた。

 木之美さんだった。

「な、なに……?」と僕は言った。

 木之美さんは答えもしなかった。顔がものすごく近い距離にあって、その距離は大目にみつもったところで10センチ足らず。いつもふんわりほんやかとしていた表情はみたこともない真面目な表情で、僕のYシャツの胸元を両手でにぎりしめていた。その手元も震えている。息がつまるほど締めつけられているわけでもないのに、呼吸ができない。

 彼女はただただ黙って、にらみつけるようにして僕の瞳を覗きこんだ。その視線を反らす術を僕はもたず、石像になったように固まることしかできなかった。

「なんで、そうやって――」

 下唇をかんだ彼女は、それだけつぶやいてうつむいた。それは、まるで僕の聞いたことのない声だった。

 数秒ののち、胸元をつかんでいた両手がゆっくりと落ち、木之美さんは聞こえないぐらいのため息をついた。深くうつむいて、そのままひざを折って、そして足元のさび付いた斧のようなものを拾いあげて立ち上がった。

「な、なにしてるの?」と僕は言った。

「わたしもたたかう」

「ポコ実っ?」

 明音が言葉とともにがばりと振り返る。僕も言った。

「な、なに言ってるんだよ! 無茶だよそんなの!」

「どーして? ならなんでゆーきくんはむちゃじゃないの?」

「そ、そう云うわけじゃないけど、でも!」

 木之美さんの視線がまっすぐに僕にむけられていた。転校してから今まで、彼女のこんな表情をみたことなんてなかった。そして僕は、ため息をついた。

「……分かったよ。でも、時間をかせぐだけだ。隙をみつけたらすぐに逃げるよ」

 納得したわけじゃない。あきらめただけだ。今の木之美さんになにを言ったところで、時間を無駄に浪費するだけなのは目に見えてる。

 ごりごり、と重いものが床をこする音がしたと思ったら、明音がいびつに捻じ曲がった 鉄銛てつもりを胸に抱いていた。

「そう云うことならしょうがないわね。あたしも手伝うわ! 勝ち目なんかほとんどないようなもんだけど、3人いれば確率は3倍になってもいいじゃない? それに、なにもしないでいるなんてできないもの!」

 あかね、と木之実さんが口の中で呟き、

 ごおうん、と地を揺るがす凶悪なうなり声がして、とうとう廊下の先の扉が吹き飛ぶようにして開いた。

「ちょ、ちょっとそういうことなら俺だって戦うよ!」

 雅人が振り向いて叫び、それに対し明音が、

「まっちょまで戦ったらだれが鍵をあけるのよ? あんたは退路を確保するのに専念しなさい!」

「でもッ!」

「あんたは先に出て、茉莉花ちゃんを助けてあげなさいって言ってるのよ!」

 僕は、今しがた開いた前方の扉を見据えて言った。

「明音ッ、来るよッ!」

 それは、奇声と雄たけびと地響きをごっちゃにしたような音の壁が迫ってくるようなものだった。扉も石壁も鉄格子も、すべてを粉砕しながら四つ足で 猛然もうぜんと突進してくる姿は、迫りくる大型の肉食獣そのもの。そのうしろにはがいこつ老婆の乗った車椅子がつながれていて、さっきからきぃきぃとしきりに奇声を上げていた。そのまま空中分解するんじゃないかと思うほどに車椅子はゆれ、弾み、まるっきりトロッコのようだった。

 僕は、鉄パイプを静かに構えた。木之美さんが斧を構えて横にならぶと、その逆どなりに明音が並んだ。3人で横に並べば、せまい廊下を塞ぐにはそれで十分だ。

 木之実さんが、構えた斧を固く握りなおす。

「ぜったい止めてみせる。まさとくんのところには行かせない」

 その言葉に、明音も答える。

「分かってるわポコ実。負けらんないのよ、あたしたちは!」

 心拍数の上昇が止まらない。腹の下のほうがむずむずする。僕も、鉄パイプのもち手を握りなおし、一歩を踏み出して言った。

「さあ、からかってやろうじゃないか――!」



◆side story -marika-

 頭の中がチリチリする。白い光がいくつもいくつも破裂して、思考をノイズだらけにする。

 なにも考えられない、なにも思い出せない。

 自分がどこから始まって、どこで終わるのか。

 世界はどこから始まって、どこで終わるのか。

 自分の中に世界がないのか、世界の中に自分がいないのか。

 ごめんなさい、ごめんなさい、誰かがしきりに謝っている。

 縦半分に割れた太陽が、

 首のない鳥が、

 百本足の猪が、

 しきりに見つめてくる。

 そしてもっと近くから自分をみつめていたのは、眼窩がんかからはみ出しかけた魚のような目だった。

 

お姉ちゃん。

 覚えずその一言を紡ぎだした 柊茉莉花ひいらぎまりかは、そこで目を覚ました。正しくは、自我を取り戻したと云うべきだろうか。茉莉花はしっかりと地面に立っていたし、瞼を閉じることすらしていなかった。しかし、こうして取り戻した自我は、哀しいまでの 虚無きょむだった。

 柊茉莉花として生きてきたはずの真実の記憶も、この村ですごしたと云う偽りの記憶も、 すべてが存在しなかった。唯一取り戻したのは、姉である『ぬしさま』の瞳だけだった。

 ふとまわりを見渡してみると、足元の地面には大穴が開いており、みんなの姿も、老婆の姿も見えない。ひょっとして、谷内口やちぐちや荒巻の存在が植えつけれらた記憶であったように、裕樹や明音、みんなと出会った記憶も作り物だったのではないか――茉莉花は、そんなことを考えていた。

 ごめんなさい、ごめんなさい、女の子の声が空っぽの頭に響く。

 ああ、謝っているのはだれだろう。

 どうして謝っているのだろう。

 足元がおぼつかない。それなのに、気づけばどこかにむかって足が勝手に歩き出している。声がどんどん大きくなる。ひょっとして、謝っている子のもとにむかっているのだろうか。視界はノイズ交じりで、水の中のように不鮮明で、現実感がひどくあやうい。それでも歩いている。頭のノイズがじょじょに薄れ、次に自我を取り戻したとき、茉莉花は倉の前に立っていた。

「ここは――」

 おばあちゃんの、いや、おばあちゃんということになっていた老婆の屋敷の倉。開かずの倉。絶対に入ってはいけないと云われていたはずのその倉は、いつでもしっかりと施錠されていたはずなのに、ぽっかりとその口を開けていた。

 ひょっとして、『いつも施錠されていた』と云う記憶がそもそも作り出されたものに過ぎないのだろうか――茉莉花は、そう いぶかった。

 けれど、こうなればもう自分がここに立ち入っていけない理由はない。だれかが謝る声は、この中から聞こえる気がする。

 確かめてやるんだ――

 そう意気ごんで、茉莉花は倉内に足を踏み入れた。

 倉内には数年分の時間が 堆積たいせきしているばかりでぽっかりとしていて、そのほかにあるものといったら、深部に据えられた神棚くらいのものだった。近寄ってみると、供えられているのは羽が一枚。なんの鳥のものとも分からない純白の羽が一枚、大切そうに供えられていた。長い年月も、そこだけは避けて通ったかのように羽はいきいきとして美しかった。その下には、一振りの短刀と、小さな かめのようなものが蓋をされて置かれている。茉莉花はそれを目にして、天啓のようなものを感じた。

 声が頭の中でわんわんとなる。震える手が、その かめの封を破る。つん、と えた鉄のような香りが立ち昇った。

 ああ、血だ――

 瞬間、頭をたたきつけられるような衝撃を感じて、滝が逆流するほどの 怒涛どとうの勢いで、光が頭になだれ込んできた。目の前がぐるぐるぐるぐるなって、右も左も上も下も分からない。ちかちかちかと視界のすべてが明滅する。

 それは記憶だった。記憶が光の渦となって、私の中にうずまいているのだ。

 そして、茉莉花はそうか、と思った。

 そうか。

 謝り続けていたのは――私だったんだ。



 あれはたしか、中学3年のころだった。

 ラグビーと総合格闘技とを足して割ったようないい加減なスポーツを考案してクラス仲間と たわむれていたところに、中学生にして190センチ、120キロの巨漢、内藤が参入してきたのが運のつきというもの。彼はその重量級ボディーの持ち味をあますところなく発揮し、僕らは休み時間のあいだじゅう、ピンボール玉のようにあちこちに弾き飛ばされていた。

 その日以来、僕らがそのスポーツに興じることはぱったりとなくなった。


 と、云うことを思い出したころには、僕はもう、天と地を交互に眺めながら数十メートルも床を転がったあとだった。突っ込んできたヒトガタの衝撃を飛んで受けながすことには成功したらしい。ようやく止まったと思ったら顔の前には天井と自分の足があって、その足の間から雅人の顔がのぞいてて、僕は目をぱちくりさせた。雅人が僕の顔を覗きこんで、

「だ、だいじょうぶなの裕樹くん!」

「ああ、だいじょうぶだいじょうぶ」

 あちこち擦りむいたところは痛いというより熱いだけで、動くぶんには支障はなさそうだった。

「それに、ゆっくり寝てるわけにはいかないみたいだし!」

 そう言って僕は勢いよく立ち上がり、とちゅう取り落とした鉄パイプを拾いあげ、ふたたびみんなの下へと走り出した。

「か、鍵があくまでは頼むよっ!」

 後ろから、雅人の声が聞こえた。

 前方では、明音と木之実さんが、ヒトガタの化け物に対し懸命に応戦していた。

「このッ、化け物だかなんだかしらないけどッ!」

 明音の突き出した もりは、的確にヒトガタの横腹を捉えた。案外華奢なその腹に深々と鉄銛がねじりこまれ、

「い、痛そうだけどこれなら!」

 ヒトガタの眼球が、じっとりと明音を見ていた。

「えっと……効いてないし。っていうか、抜けないし……」

 明音は慌てて鉄銛を引こうとするが、それもできない。そのままヒトガタの、鉤爪のついていない右腕が耳の後ろまで引き絞られる。

 僕は叫んだ。

「明音、よけるんだッ!」

 ヒトガタから生えた鉄銛をにぎりしめたままの明音はすっかり硬直し、せまりくる凶椀の前にぎゅっと目を閉じるのが見えた。

 繰り出された腕はもう、放たれた砲弾のようだった。

 間に合わない――! 僕の脳裏に、顔面を強打され、頭蓋骨を割りながら吹き飛ぶ明音のすがたが浮かんでは、焼きついた。

 だがその凶椀は、なかばで壁に打ちつけられた。木之美さんの振り下ろした斧が、ヒトガタの腕を的確に縫いとめていた。腐ったような赤黒い血液が、どろりとした うみが飛び散って、明音の前髪を染めた。へたりと、明音がその場に尻をついて、そして、その次の一瞬で、打ち付けられた腕とは逆の腕、ヒトガタの鉤爪が ひらめいていた。

 あ、と僕が思ったころには、木之美さんはすかさず刃を返し、びついた刃先でそのすべてを受け止めきっていた。

 続く2閃を、3閃を、あるいは体をひねって、あるいはかがめてかわし、続いた4閃目は振りきる前に斧によって押しとめられていた。まるでそこに次の一閃を振り下ろす腕があることが分かっていたかのような、あまりにも華麗な戦技だった。

「す、すごい……」

 思わず言葉が口をついて出た。明音も目を丸くして、

「あの子の運動神経、並じゃないわ。剣道部のキャプテンだってボコボコにしたことあるのよ。それがまさかこんなとこで、」

「とにかく、それだからって任せきりにはしておけないさ!」

「そ、そうよね! 裕樹、加勢するのよ!」

 たしかに、木之美さんはすごかった。人外と言っても過言ではなかった。手にしたこともない得物を武器に、人の枠に捉えられない動きをする化け物の猛攻を的確にいなしてしまうのは、ひとえに彼女の人並みはずれた運動神経によるものだろう。

 だからと言って、防戦一法では状況が不利になるのはまちがいなかった。事実、木之美さんはさきほどから時折バランスをくずしたり、相手の行動を読み違えたりしては髪先一重のところを刃先がかすめていた。そしてそれは、僕らがヒトガタに取りついて必死に得物を振りまわしたところで、なんら変化をもたらすものでもなかった。

 木之美さんは、そして僕らはヒトガタの鉤爪を交わしながら弾きながら、じりじりと追いつめられていくばかりだった。

 下がれる廊下もあと僅かになり、明音は背後に向かって叫ぶ。

「ま、まっちょまだなの? まだ鍵は開かないのッ?」

 老婆がきしんだ音を立てて車椅子を前に押し出し、

「ひ、ひ、あきらめることさな。おまんら、ただの人間にしちゃあようそこまでやるが。

 でんも無駄なことさ」

 その言葉に明音が噛み付く。

「う、うるさいのよばーさん、歩けもしないくせに! どいてないで、怪我したって知らないのよ!」

 そしていつの間にか相当の距離をあとずさっていたのだろう、思いのほか近くからがちり、という硬い音がした。続いて雅人の声が、

「あ、開いた開いた開いた! 開いたよみんなッ!」

 明音は舌打ちをひとつして、

「遅いってのよっ! ばかまっちょ!」

「え、ええっ?」

 すぐにでも振り返って逃げ出したいが、機動力はむこうの方が上なのだから、目の前のヒトガタを足止めしないと、それもできない。それなら、と僕は思った。

 それなら、足を狙えばいい。いくら人外の力を持ち合わせているとはいえ、足を傷つけてしまえば機動性は落ちるはず。差し違えてでもいい。ここでなんとかできればみんなは助かる――

 僕は腰を大きく落として、みんなの前にすべりでた。そのままの姿勢で、ヒトガタの足元を回りこむようにして駆けだした。

 背中から、明音の叫び声が聞こえた。あ、と思ったときにはもう遅かった。僕はヒトガタの化け物にシャツの首根っこをつかまれ、宙ぶらりんにされていた。そのまま視界が、どんどんと高くなる。

 浮遊感。数メートル、天井すれすれまで僕の体はすっかり放り投げられていた。そしてその落下地点には、残忍な 五又いつまたの鉤爪が待っていた。がぱりと開いたその様子は、僕を串刺しにしようと舌なめずりをしているように見えた。

 なにをどうしたところで、空中で軌道を変えられるはずもない。眼下に死が待ち構えていたところで、僕はそれをおとなしく享受するしかない。

 下から明音の悲鳴が聞こえた気がした。

 耳元で、風切音がぶおんぶおんなる。

 黒々とした死の入り口がぐんぐん迫る。

 その瞬間、空間を鈍い光が薙いだ。上に気をとられたヒトガタの足元を、木之美さんが駆けぬけたと思ったら、的確にその足の けんを、その錆びついた斧で刈り取っていた。

 ゴムの弾ける音を鈍くしたような音が足元から聞こえ、ヒトガタが怒号とともに地にひざをつくのが見えた。瞬時に判断を下した僕は、そのまま全体重に位置エネルギーを乗算させて、くず折れたヒトガタの双肩を踏みつけた。たまらずヒトガタは地に伏せ、その体に乗ったまま僕は叫んだ。

「みんな、走ってッ!」

 はじけるように明音が、木之美さんが、雅人が走りだした。廊下の先の扉は雅人の手によって開けられていて、みんなはなだれ込むようにしてそのむこうへ駆けこんだ。

 僕もうかうかとはしてられない。ヒトガタの足が少なくともしばらくは使い物にならなさそうなことを確認して、みんなのあとを追った。

「きさまら……きさまらああぁあああぁあッ!」

 身の毛もよだつような擦り切れ声が背後から聞こえてちらりと視線を送ると、老婆が今の衝撃で倒れた車椅子から、ゆらりと立ち上がるところだった。

 ――立ち上がる?

 僕は、思わずその場に足を止めてしまった。ゆらりという感じに立ち上がった老婆は、窪みきった 眼窩がんかの奥底から恐るべきまなざしを僕におくると、

 びたんびたんびたん!

 裸足で高らかに石床を打ち鳴らしながら、猛然と突進してきた。

「う――うわぁあっ!」僕はたまらず身をひるがえし、みんなの後を追って走り出す。

 ドアを抜けた先は、はしごか階段かで地上につながっているかとも思ったが、またしても長い廊下が続いていた。その廊下が、途中からゆるい階段にかわっている。階段があるということは、出口はもうすぐそこだ。そう思った。

 びたん、びたん、びたん。

 背中の足音がどんどん近づく。いったいどんなスピードで走っているんだろうか。足音の間隔がいやに長いあたり、飛び跳ねているのかもしれない。

 恐ろしさのあまり全力疾走していると、すぐにみんなの背中が見えてきた。足元までの髪の毛を振り揺らしていた明音が僕の足音に大きくふり返り、

「裕樹! あの化け物だってさっきので動けなくなったんじゃ――」

 言葉を発したその口元は なかばで硬直し、僕のうしろのものを見とめては、さっと顔が青ざめた。それは明音だけではなく、同時にふり返った雅人と木之美さんにしてもおなじことだった。みんなが叫ぶ。

「う、うわ――――――――――――ッ!」

 3人分の叫び声が地下道中に木霊すると同時に、婆さんのきへぇーっという奇声も響き渡った。

 明音はバタバタと階段を上りながら、

「な、なによあのばーさん! 歩けんじゃないのよ! 走れんじゃないのよっ!」

「し、しかもめちゃめちゃ速いよッ!」

 と、雅人も同意する。

「ああもう! 詐欺だわこんなの! ターボばあちゃんだっけ? あの都市伝説の正体はこのばーさんにちがいないんだわ!」

「そ、そんなこといってぅばあいじゃないよー!」

 木之実さんの言うことも、もっともだ。

「くそーッ! 出口はまだなの?」

 雅人の声に僕も前方を見据えると、階段を上りきったそこには再び扉があるようだった。これだけのぼってきたのだから、扉の向こうは地上であってもおかしくない。

 幸運にも、その扉には鍵がかかっていなかったようで、雅人が飛びつくようにしてドアを開け、そこにみんながなだれ込んでいった。けれど3人がドアをくぐりぬけたのを見届けるころには、ぎたぎたとした奇声はもはや僕のうなじのすぐ後ろから聞こえるようになっていた。

 だめだ、と僕は思った。残念ながら僕より老婆の足は速いらしく、とても逃げ切れそうになかった。そして僕が覚悟を決め、体ごと後ろにふりむけた瞬間だった。はたしてそこにいた老婆の姿がぐにゅうん、とすべり、そして不意に、僕の足が宙に浮いた。

 また落とし穴? そう思ったが、今度は違った。僕の足が浮いたのではなく、地面が横にすべったというのが正しい。

 そしてその足を地につけた瞬間、投げつけられるようなものすごい衝撃がきて、僕は石壁におもいきり肩をぶつける羽目になった。

 振動。まるで地面が水面に浮かんだような、巨大な地震のような振動が、僕らを襲った。揺れはあまりに大きく、動くことはおろか、立ち上がることすらできない。みんなの悲鳴が遠くに聞こえる中、2度、3度、船を揺らしたような振動が続いて、

 僕は今しがたしたたかに肩を打ちつけた石壁に、びしりと破裂音をたててひびがはいるのを呆然と見つめていた。瞬間、自分が今いる場所がどういう意味をもつ場所なのかを理解し、刹那のあとに起こるであろうことを予感し、電撃のような 悪寒おかんがつま先から 脳髄のうずいまでを駆けぬけた。

 みんな、無事で――

 それだけを心に浮かべるのが精一杯だった。ばしりとすぐ横の石壁がはじけ、次の瞬間には崩壊し、そのむこうの空洞をぽっかり僕にさらした。そう思ったらそのまま、石片の雨が僕に降り注いだ。

 轟音のさなか、僕は、誰かが名前を呼ぶ声を聞いたような気がした。



◆side story -masato,konomi-

「あ、あてっててて……」

 瓦礫と化して降り積もった石壁の中から身を起こしたのは、木村雅人だった。

 扉をくぐったと思ったら、いきなり大地を揺さぶる振動に襲われた。あれは地震だったのだろうか、それとも化け物が暴れたのか――と雅人は思った。

 どうやら、天井がくずれたらしい。あたりには大量の瓦礫が散乱していたが、幸いにも自身にたいした怪我はないようだった。

「くそっ、落ちたり揺れたり崩れたり……踏んだりけったりだなぁ」

 雅人がぼやくと、すぐ近くでうぅーん、とまのびした声が聞こえた。

「あ……木之下さん? だいじょうぶっ?」

 木之美は瓦礫の上にぺたんと座り、

「あっちこっちいたいよぅ」

「うっ、たた……もう、なんだってのよ!」

 木之美の横の瓦礫からはい出してきたのは、倉名明音だった。どうやらその声を聞くかぎり、ふたりに大きな怪我はなさそうだ。そう雅人は判断して、

「そ、そうだ裕樹くんはっ? まさか、まだ扉のむこうに?」

 慌ててもと来た方向をふり返り、雅人は絶望する。

「そんな――嘘だろ?」

 扉がなかった。そこには天井やその他の瓦礫がみっちりと降り積もり、完全に埋まっていた。木之実もその様子に絶望的な表情を浮かべる。

「ゆーきくん……まさかそのむこうに?」

「まさか、地下道全部が崩れて埋まったなんてことないと思いたいけど」

「うそ……なんでしょ」

 背後から近づく足音に雅人がふり返ると、そこには、明音が呆然とした表情で立ち尽くしていた。その表情を見て、まずい、と雅人は思う。明音の震える手のひらが積もり積もった瓦礫にのびて、ぺちり、と気の抜けた音を立てた。

 ぺちり、ぺちり、そのまま2度3度と瓦礫を叩く。たたくたびに音が、明音の手の震えが大きくなる。雅人は叫んだ。

「く、倉名さん! 裕樹くんはきっとだいじょうぶだ! だから早く、」

「あたしのせいだ……」

 ぐにゃり、明音の表情が一息にゆがんだ。

 と思ったら、突然やけくそのように目の前の巨大な瓦礫に飛びつきだした。拍子に髪の毛がぶわりとなって雅人の顔を洗って、

「うわぷ、倉名さんっ?」

 明音は、懸命にその壁のような瓦礫を引いていた。びくともしないその大岩をきり、とにらみつけて、ごつごつした岩肌を軍手もしていない手でつかんで、がむしゃらに力任せに、引いていた。もう一度雅人が叫ぶ。

「や、やめてよ倉名さん! そんなことしたって無駄だよ! 手を怪我するだけだ!」

「あかねっ!」

 木之実も叫ぶが、明音は止まらなかった。手の皮はとうに擦りむけて血がにじんでいたけれど、それでも動かない石壁をどうにかしようと 躍起やっきになっていた。雅人はその様子に、悔しそうに歯噛みをし、

「くそっ、こんなの素手でどうにかしようなんてのが無茶なんだ! 木之下さん、スコップはっ?」

「す、すこっぷ?」と木之実は目を丸くする。

「なければつるはしでもシャベルでもいいよ! そ、そうだ! さっき斧みたいなものを持ってたじゃないか!」

「あんなの、にげてくぅときに捨ててきちゃったよぉ」

「くそッ、なんだってまた! とにかくなんでもいいから道具を!」

「道具なんて……」

 明音はがむしゃらに動かしていた手を止め、とうとう瓦礫に額を擦りつけてつぶやいた。

 ちょっとやそっとの道具ではこの瓦礫は除けない。明音は今まで手にしていた 鉄銛てつもりをにぎったままだということに気づいたが、その先端で引っ掻いたところで、みっちりしたこの瓦礫になにができるでもない。

 絶望的だった。それを実感し、明音の両腕からいっせいに力が抜ける。がらん、と音をたてて銛が転がる。擦りむけた手のひらが、いまさらじんじんと熱を帯びたように痛み出す。胸が焦燥感と 諦観ていかんでぎしぎしなる。明音は、瓦礫に額をつけたまま、人形になった。もう指一本が動かない、そう思った。

 そしてそのとき、わずかな、本当にわずかな冷たい風が、明音の額を撫でたのだった。明音は不思議に思って顔をあげる。いつのまにできたのか、それともさいしょからあったのか、積もった瓦礫のあいだにわずかな隙間ができていた。風はそこからひぅひぅともれる。つられるようにして、明音はその隙間を覗きこんだ。

「……あ」

「ど、どうしたのさ倉名さん」

 声をあげた明音に、雅人が尋ねた。明音はくるりと振り返り、

「地下道じゃなかったんだわ……」

「え? なんだって?」

 明音はひとりごとのようにつぶやいたあと、そのまま思考を重ねた。しばらくの 逡巡しゅんじゅんののち、手元の鉄銛をふたたびぎゅっと握りなおし、飛び出すようにして駆けだした。驚いた木之実が、

「あかねっ? どこにいくのっ?」

 突如として埋もれた壁とは反対の方向に駆けだした明音は、そこにあった扉の前で足を止め、足元までの髪を ひるがえしてふたりをふり返り、

「ふたりは!」

 せまい空間に明音の声が響きわたる。

「ふたりはそのまま逃げて村を出て! きっとよ!」

 明音はそう言って扉を開く。その背中に木之美は、

「そんな! あかねはどこにいくのっ?」

「責任とってくるのよ!」

「倉名さん待ってよ!」

 木之美と雅人の制止の声をものともせずに、明音は扉のむこうへと消え去った。残されたふたりはすっかり途方に暮れる。雅人は木之実のほうを振り向いて、

「倉名さん、いったいどうしたってんだろう。ここまで一緒にやってきたのに。なにかを思いついたみたいだったけど……」

「あかね、むちゃしないといいけど……とにかく、おいかけぅしかないよっ」

「あ、ああそうだね!」

 雅人と木之美は立ち上がり、明音が消えた扉を目指した。雨漏りでもしているのだろうか、その木目調の扉は、すっかり変色して腐りかけていた。そしてその扉を雅人が引いた瞬間、そのむこうからむわりとした、かいだこともない匂いがなだれ込んできた。

 香ばしいと言おうか、あるいは青臭いと言おうか。とにかく、どろりとした濃厚な匂いであることはたしかだった。

 躊躇ちゅうちょしているひまはなく、その部屋に飛び込むと、黄白色の白熱灯にさらされたレンガ造りのその部屋の全貌が視界に飛びこんでくる。

 風呂。とその時雅人は思った。

 ゆうべ地面に頭をつけるようにして裕樹とふーふー焚きつけながら入った、ドラム缶風呂。それとおなじようなものが、整然といくつもいくつも並んでいるのだ。それは一種、異様な光景だった。雅人は木之実のほうを振り向き、

「これ全部お風呂? ひょっとして、この村の銭湯なのかな。番頭さんもこんなにふーふーして酸欠にならないのかな?」

「そ、そんなわけないよ。こぇ、なにかを保存してあるんだよ」

 木之実の保存、と云う言葉で雅人は思いだしていた。

「そ、そうか油庫だ!」

「あぶぁこ?」

「茉莉花さんが言ってたんだ。このドラム缶の中身、全部油だよ。ほら、蛇口みたいのもついてるし、漏斗ろうともあるし」

 木之実はしゃがみこみ、ドラム缶の下部に取り付けてあった蛇口をいじり回して、

「こんなにたくさん……なんかこぁい」

「それにしてもアンバランスだなぁ。 村は古い家ばっかりなのに、ここだけ頑丈そうだ」

「そぇだけ、あぶないってことなんだよね」

「でもおかしいな。茉莉花さんはたしか、村のまん中くらいにあるっていってた。分からないけど、花火のときに気をつけろって言ってたくらいだから、こんな地下にあるはずないんだ。それがなんで、」

 ふたりは、はっとして顔を見合わせる。

「ひょっとして、」

 木之実がつぶやいたそのとき、びょう、と強い勢いで風がなだれこんだ。

「地下じゃないっ?」

 ふたりは同時に叫んだ。びょうびょうと風は吹き続ける。その意味を悟った雅人は、あたりをぐるりと見渡し、

「そ、そうか! いつのまにか地上に出てきてたんだ! 同じ石造りだからすっかり地下道だと思ってたけど……」

「だかぁあかね、あんなこと言ったんだ。わたしたちに逃げろって、きっと地下じゃないことに気づいてたんだ」

「だとしたら、倉名さんは?」

「たぶん、べつの場所かぁ壁をこわそーとしたんじゃないかな……」

 明音によるものだろうか、油庫の入り口にすえつけられた見るからに頑丈そうなスライド式の鉄扉は開け放たれ、そのむこうには、暗くなりはじめた空と 茅葺かやぶきの屋根がのぞいていた。風が地上の香りをここまで運んでくる。ひどくひさしぶりに地上に這い出た気分だと、雅人は思った。

「あかね、どこいっちゃったのかな」

 ぽつりとした木之実のつぶやきを聞きとめた雅人は、ぐるりと振り向いて、

「ねえ木之下さん、俺思ったんだけど」

「ふあ?」

「今危険が迫ってるのは、倉名さんじゃなくて裕樹くんだ。だとしたら、倉名さんを探すのに時間を くより、俺たちで裕樹くんを助ける方法を探したほうがいいんじゃないかな。合流するのはそのあとでも」

「あ……そっか、そうだよね!」

「よし、そうと決まればなにか壁をぶっこわせるような道具を探そう! ここにある漏斗やタンクじゃ穴は掘れそうもないけど、村の中ならきっとなにかあるはずだよ!」

「うん、いってみよー!」

 そう言って、雅人と木之美は油庫の外へと駆けだした。

 村を流れる風は、いつの間にかすっかり冷たくなっていた。



 目を開くと、うすぼんやりとした明かりが目の前にゆがんで垂れ下がっていた。寝ているあいだに僕の背がそんなに大きくなったのかと思ったがそんなわけはなく、天井が落ちてきただけだった。僕はその光景をみてようやく、地震のような揺れがあって、壁と天井が崩れ落ちてきたことを思いだした。

 おおきな破片が頭にぶつかって目の前がチカチカしたのを覚えているけれど、幸い命だけは助かったようだ。あちこちからやってくる痛みをもとに、大まかながら自分の身体状態を確認すると、僕は、くずれた石の山から半身を起こした。

 ぶるりと頭を振るうと、石灰のように細やかな粉が一面に舞う。

 右手が動くことを確認し、

 左手が動くことを確認し、

 両手をつかって体を引き起こそうとして、

 ももから下が岩でがっちりと固定されていることに気がついた。

 腿から足先までじんわりとして感覚があいまいなくせに、無理に引き抜こうとすると信じられない激痛が走り抜けた。

 足を挟みこんでいる崩れた石は絶望的な大きさで、人の力で、ましてやこんな不安定な姿勢から持ち上げることができないものだということは明白だった。

 僕は、胸中の酸素を残らず吐き出した。それは 諦観ていかんのかたまりと、安息の息吹を足して割ったようなものだった。

 幸い、みんなはうまく外に出られたようだ。そしてその出口をふさぐ鉄製のドアはさっきの振動の影響か、崩落した石壁の影響か、大きくひしゃげ、降り積もった石材の中に埋まっていた。あれなら、ヒトガタの化け物相手でもさすがに越えられないだろう。

 そしてもうひとつ。天井から崩落した石片は、僕と老婆を分断するように降り注いでいた。つまり、僕はくずれた石壁に囲まれた、せまい空間に閉じこめられたことになる。

 破片のむこうからは、がいこつ老婆の 呪詛じゅそのような声が聞こえていた。脚力だけは異常だったが、そのしきいを越えることはさすがにできないようだった。

 ヒトガタの足が回復して、ここにやってくるまであと何分かかるだろうか。

 いずれにしろ、この崩れた石壁を 粉砕ふんさいし、僕を手にかけ、むこうのひしゃげた鉄扉を攻略できたとしてもそのころには、みんなはきっと村の外だ。だったら、それでいいじゃないか。そう僕は思った。

 崩落した天井の穴を見上げてみたが、当然のようにそこに空は映っていなかった。外はそろそろ、陽が暮れはじめるころだろうか。夕日を見るのが一番の楽しみだという、ひとつ歳下のいとこの顔が浮かんでは、ふわりと消えた。

 その笑顔のもとに、もう一度帰りたい――そんな欲望が持ち上がりかけたが、僕は必死にその衝動を抑えた。そう、みんなが無事に帰ることができればそれでいい。それ以上は望まない。

 時間が経つにつれて、石壁に隔たれた部屋が、じりじりと暑くなってくるのを感じた。陽の角度が変わって、西日が地下道をあたためているのだろうか。だとすると、そこの扉はきっと外につながっているのだ。

 でも、と僕は思った。

 でもそれにしては、暑すぎる。サウナというのは大げさだが、炎天下に窓を閉め切った車のなかのようだった。空気の循環が悪いせいだろうか、だんだん頭もクラクラとしてきた。密閉された車中で廃ガス自殺をするときは、こんな気分なんだろうか。ああ、つまり僕は本当にこうしてこのまま、岩の布団の下で死んでしまうのかもしれない。

 視界を かすみが閉ざしていくさなか、そんなことをぼんやりとした頭が考え、次の瞬間ばっさり目の前にあらわれたのは、光のカーテンだった。

 ああ、と僕は思った。

 絹糸で織ったような光のカーテンが、目の前をさらさら流れて細やかな光のつぶてを押し流す。その 深紅しんくの光粒は、舞い散る火の粉のようでもあったし、夕べ見た花火の光をぱらぱらと細かに砕いてちりばめたようでもあった。

 そんな光をまんじりともせず眺めていると、頬元に冷たい空気が流れてきていることに気づいた。その冷たさが、霧におぼれた思考感覚をじょじょに取り戻させていく。そしてようやく霧が晴れわたったころ、僕は、目の前にある光のカーテンが、オレンジの光を照りかえした深紅の髪であることに気づいていた。

 僕は言った。

「……明音」

 明音は、なにも答えなかった。彼女はただ黙々と、目の前で長い髪の毛と制服のすそを揺らして、僕のまわりに積もった細かな石つぶてをとりのぞいていた。

 つまり彼女は、わざわざ戻ってきたのだ。わざわざ僕の後ろの石壁を崩しに。村から脱出するに足る時間を ついやして、手にした 鉄銛てつもりのさきっちょで地道に岩を砕いて、こうして戻ってきた。化け物が待つこの場所へ。

「明音」

 もう一度呼んでも、やはり返事はなかった。僕は、機械のように石を取り除く明音の腕をつかんで言った。

「そんなことしても無駄なのは分かるよね? 足を挟んでる岩をどかさないと僕は抜け出せないし、この岩が明音に持ち上げられるようなものじゃないっていうことも、見ればわかる。ショベルカーでも持ち出さないかぎり、ムリだ。だから、こんなことをしてないですぐにでも逃げるべきだよ」

 そのとき、崩れた石壁のむこうからまた、ヒトガタのうなり声が聞こえた。どうやら、もう動けるようになってそこまでやってきたらしい。ついでに、いい加減この声を聞くのにもうんざりしてきた。

「さぁ、明音」

 そう言って僕が明音の腕を放すと、彼女はまた石拾いにもどった。僕は少しいらついて、

「明音、ここでこうしてたって仕方がないんだ。早く、」

「ヤダ」

 下をむいたまま、石を拾いながら、彼女はぽつりとそれだけつぶやいた。幼い子供のようなそのいいぐさに、僕のいらつきは少し大きくなった。

「明音、いやだとかそんなことを言ってる場合じゃない。早くしないとまたヤツがくるんだよ! このままじゃふたりとも殺されるんだ! ほかにどうしようもないし、しかたがないんだよ!」

「ヤダ」

「……明音ッ!」

「ヤだぁッ!」

 明音が髪を振り乱しながらたたきつけるように叫び声を上げた時、そのうしろでは大地を揺るがす振動とともに、ふりつもった石片が 木っこっぱと化した。

 そして壁のむこうからうなり声とともに現れたのは、当然のようにヒトガタの化け物と、がいこつ頭の老婆だった――



◆side story -masato,konomi-

 スコップ、つるはし、シャベル。なければこの際、くわでもなんでもいい。

 そんなことを思いながら壁を掘れるような道具をさがして、木村雅人は木之美と共に村の中を駆けずり回った。

 どうやらさっきの地震は相当大きかったらしい。村の様子はすっかり様変わりしていた。 古びた建物は根こそぎ傾き、崩れ、あちこちに柱だったはずの木片や、屋根だったはずの かやが散らばり、まるで巨大怪獣が好き放題に散らかしまわったあとのようだった。これだけ散らかっていたら、目的のものだって簡単にみつからない。雅人はそう思い、焦燥感がむくむく大きくなるのを感じていた。

「あれ」

 雅人が声をあげると、木之美はくるりとふり返り、

「どーしたのまさとくん?」

「いま……誰かいたような」

「どこに?」

 木之美は雅人の視線を追うが、その先ではすっかり様変わりした村の様子に途方にくれたのか、一羽のカラスが空にむかってがー。と鳴くだけだった。雅人は木之実のほうを振り向き、言う。

「ちらっと人影が見えたような気がしたんだ。倉名さんかな? でも、ひょっとしたらカラスかなにかだったのかも」

「みまちがいじゃなくても……いまはあかねよりゆーきくんをたすけぅのが先だよね」

「ん……そうか。そうだった。こうしてるあいだにも、裕樹くんは」

 そうなのだ。こうして一分一秒が経過しているあいだにも、その分裕樹の命が危険にさらされるのだ。ほんとうに人の、友人の命がかかっているのだ。

 だからと言って、道具がないことにはどうしようもない。雅人は、もうがむしゃらに叫んで暴れまわりたい衝動に駆られていた。そうすることがなんの意味も果たさないとは分かっているのに。

 こんなにも焦っていると云うのに、空はのんきに晴れわたり、風は涼やかだった。その平和すぎる情景は、雅人の心のどこかを動かす。

「ね、ねえ木之下さん。今なら、この村から出られるのかな……?」

 木之実はその言葉にがばりと振り返り、

「な、なにいってぅの! みんなを、おいてくのっ?」

「き、聞いてみただけじゃないか。怒んないでよ。みんなを置いてくなんて、できるわけないよ」

「う、うん。そうだよね、ごめんね」

 ふたりのあいだに気まずい空気がただよう。だが一瞬でも、すべてを捨てて逃げ出すことを考えた自分がいたのを雅人は理解していた。胸の奥がぐ、と苦しくなった。その感情をどこかにぶつけてしまいたくて、雅人は次の家へと駆け出そうとし、

「うわあっ!」

 そして雅人はバラエティ番組に出演しても立派に胸がはれるほど、盛大に転げた。すてーん、と云う言葉がぴったりだった。崩れた かやの上を数メートルも滑って、雅人の体はようやく停止した。木之美はすっかりあわてて雅人にかけよろうとして、

「だ、だいじょーぶ、まさとくんっ?」

「あ、そこは!」

「……ふぇ? なに?」

「あ、い、いや」

 そこは、につづく言葉は、すべるから気をつけて、だったのだが、木之美はいともあっさりと乗り越えていた。バランス感覚のちがいだろうか、と雅人は思った。雅人はそのまま盛大に打ちつけた尻をさすり、

「いててて……危ないなぁ。なんでこのわらみたいの、こんなにぬるぬるしてるんだろ」

「うん?」

 と言って木之実もしゃがみこみ、足元の萱をいじりだした。振動の影響で、くずれた屋根から散らばったのだろう。試しに木之美が拾いあげると、それにはべったりと何かが塗りたくられおり、たしかにぬるぬるとしていた。木之美は指についたそのぬるぬるを擦りあわせたり、匂いをかいでみたりして、はっとして顔を上げた。

「こ、こぇっ、ひょっとして油?」

「油? ってさっきの油庫の? いったいなんだってそんなものが」

「わかんないけど……でもたぶんまちがいないよ」

「そうか……」

 雅人はそう言って、怪訝に思いながらも立ち上がった。村を見渡せども人影はなく、カラスの姿ばかりが目立つ。

「うん?」

 雅人は、そのカラスのむこうにオレンジの光を見た。どうしたの? 木之美がつられて立ち上がる。

 風が吸い寄せられるようにふぶいた。雅人はオレンジの光を指差して、

「ほら、あそこに炎みたいな光が……」

 木之実があっ、と叫び声を上げた。雅人もすぐその意味に気がついた。

 次の瞬間、雅人と木之美は、その炎が大地を猛烈な速度で村中を 縦横じゅうおうに駆け回るのを、目に留めていた――



 絶望的だった。

 ヒトガタの体がどう云う構造になっているのかは知らないが、さきほどのダメージなどまったく残っていないように見えた。

 こうして石に半身を挟まれている僕が、平均よりもむしろ運動神経の悪い明音が、太刀打ちできるはずもないのは明らかだった。そんな僕らを見て、がいこつの老婆は顔をくしゃくしゃして笑う。

「ひ、ひ、ひ。やあっと、あきらめたんか」

「だ、だれがあきらめるってのよ! 裕樹はあたしひとりでも守るのよ!」

 明音が両手を広げて僕の前に立ちはだかると、するりとその美しい髪が舞った。僕は、その後ろ姿に声をかけた。

「明音、もういいよ。もういい」

「あ、あたしがみんなを連れてきちゃったのが悪いのよ。だから、ちゃんと無事に連れて帰るわよ」

 その健気な姿を見て、僕はなんだか悲しくなった。

 明音の手足は、がくりと震えていた。それはもう、いまにも崩れ落ちそうなほどに頼りなかった。それでもそのことをひたかくして、明音はこうして僕の前に立っている。本当は怖いだろうに、本当は逃げだしたいだろうに、なぜ明音はここまでしてしまうのだろう。

僕が今目にしている、震えたこの背中には、いったいなにが背負われているというのだろう。

 体が動かないと云う事実を、これ以上ないくらいに口惜しく思った。まるで、じたばたと暴れまわりたいくらいだった。

 ヒトガタの化け物が、がいこつ頭の老婆が、にじりにじりと寄ってくる。とうとう明音の目の前に立ち、

「ひ、ひ。にげんのかぁ? なったら、ここで息の根とめて、むこうで皮ぁ剥いだるんさ……」

 ヒトガタの左腕が、残忍な刃を光らせた 鉤爪かぎづめが、ゆっくりと持ち上げられる。

明音の背中が、ぎしりと硬直する。

 僕は気づいた。明音はもう、その鉤爪を避けようともしていない。

 そして僕は、がむしゃらに岩の布団から這い出そうとした。悲しみと焦りが渦となって、僕のなかをしっちゃかめっちゃかにする。明音は殺させない、明音は殺させない、明音は殺させない。

 足がぎしぎし痛む。それでもまったくびくりともしない。だからと云ってやめることだってできない。僕は力の限り叫んだ。

「明音! 逃げてよ、頼むよ!」

「あたしは! もうだれかが弱ったり、傷ついたりするのを見てるのはうんざりなのよ!

 見てるだけなんて!」

 ヒトガタの残忍な 鉤爪かぎづめが振り下ろされる。明音の頭上いっぱいに、死の翼が広がる。残酷なほどに時間はゆっくり流れる。

「だから! あたしが守るのよ! だから――」

 明音の悲鳴にも近しい叫びが響きわたる。ふぃえっへっへっへ、老婆の狂笑が響きわたる。僕も渾身の力で叫ぶ。

「明音ええぇえええぇッ!」

「負けらんないのよ、あたしはああぁッ!」


 鮮血が、ほとばしった。

 僕は 呆然ぼうぜんと、その光景を眺めることしかできなかった。老婆も、そして明音もまた、唖然あぜんとしていた。

 ヒトガタの鉤爪の先端は――かちりと押しとめられていた。ヒトガタの意志が、かたくなに鉤爪を振り下ろすことを拒んでいた。

 その先には、そして明音の手前には、ひとりの少女の姿があった。

 海にでも山にでも行けそうなハイカットのスニーカー。

 軽快な印象のショートパンツ。

 けがれない純白のキャミソール。

 ぴこりとしたふたつ結びのしっぽ。

 手作りの麦わら帽子。

 茉莉花ちゃんだった。

 もろ手を広げて僕をかばう明音をさらにかばうようにして、茉莉花ちゃんは立ちはだかっていた。その喉元にはヒトガタの鉤爪が食いこみ、今も鮮血を流していた。

 唯一幸いしたのは、それが命にかかわるほどの深手でないことが、見た目にも分かることだった。

 ヒトガタはかちりと硬直したまま動かなかった。そのままどれだけの時が流れたろうか。 僕はもとより、明音も、老婆も、ビデオの一時停止を押したようだった。茉莉花ちゃんの喉元から流れる血だけが、ぴち、ぴちと岩肌を打ちつけ、世界で唯一動くものだった。

 そんな中、最初に氷結の時をやぶったのは茉莉花ちゃんだった。彼女は喉元に押し当てられた鉤爪を、慈しむように両手で包みこみ、一寸遅れてヒトガタが驚いたように飛びのいた。そこでようやく僕らの呪縛も解け、明音は茉莉花ちゃんに手を差し伸べる。

「ま、茉莉花ちゃん危ないわ! そいつは、」

「いいの、だいじょうぶ。お姉ちゃんは、あたしのこと覚えてる。そうでしょ?」

 問いかけられたヒトガタは、何の反応を返すでもなかった。けれど、茉莉花ちゃんをそのぎょろりとした瞳に写したまま、棒のように立ち尽くしている。

「茉莉花、まさかお前……」

 老婆のしわがれた声が響いた。茉莉花ちゃんは老婆のほうをゆっくりとふりむき、

「うん……思いだしたよ。あなたが押しこめてた記憶も、全部」

 とうとう明音の腕が茉莉花ちゃんに届いた。そのまま明音は茉莉花ちゃんを胸に抱きとめる。

「茉莉花ちゃん、それじゃあその化け物がお姉さんだっていうのも、どうしてそんな姿になってしまったのかも……」

「うん。悪いのは……私だった。謝ってたのは、私自身だった」

 そこで茉莉花ちゃんは、僕に視線を向けた。その瞳の奥には、深い悲しみが宿っているように見えた。彼女は言葉を続ける。

「ねえ裕樹くん。聞いてくれる? 私の、罪を」

 僕がこくりとうなずくと、茉莉花ちゃんは 滔々とうとうと語りだした。



 お姉ちゃんは、病気でした。重い、重い病気。いちいち病名をつけるのが馬鹿らしくなるくらいの。

 村のお医者さまもまっきり手に負えなくて、痛み止めと解熱剤を与えるばかりでした。その『痛み止め』が一種の麻薬だと知ったのは、だいぶ後のことだったけれど。田舎の村っておそろしいね。

 お医者さまは、お姉ちゃんの聞こえないところで、私たちに覚悟だけはしておいてくれ、と言いました。私たちはそのお医者さまがなんの治療もしていないことは知っていたし、いまさらなにをいうの、と云う感じに いきどおったけれど、別にその人じゃなくても同じことをするだろうってことが分かっていたから、なにも言いませんでした。

 日に日に衰弱して、どんどん骨と皮になっていくお姉ちゃんの看病をおばあちゃんに任せて、私は山を降りました。

 諦めきれなかったから。

 お医者さまがなんと言おうと、どれだけ専門的な知識を持っていようとも、私は自分の目で確めないことには気がすまなかったのです。だって、西洋医学なんて数ある医療のひとつでしかないもの。

 私はそのままいくつもの町をまわりました。そしてお姉ちゃんを助ける方法をしらみつぶしにして、やっぱりどうしようもないことを認識して、私はいったいなにがしたかったんだろう?

 そしてそのとき、気づきました。私はお姉ちゃんを助ける方法を探すと云う事実を口実に、日に日に弱っていくお姉ちゃんから目をそらしただけなんだって。その看病を、その痛みを、おばあちゃんに押しつけただけなんだって。

 それでも、それでも私は見つけてしまいました。お姉ちゃんを救う方法を。

 それは、偶然たどり着いた村に古くから伝わる話でした。古来からその村にだけ伝承され、決して おおやけの場に姿を現さない、万病に効く特効薬――

 もちろん私だって、そんな 胡乱うろんな話を鵜呑みにしたわけじゃありません。けれど、最初から『駄目もと』の精神でどんな方法でも試してやろうと誓って町に降りてきたのだから、そんな話にも飛びついてしまったのです。

 ひょんなことから、公に姿を現さないという くだんの特効薬を手に入れたという男は、とんでもない額のお金を要求してきました。

 私の頭は、お姉ちゃんを救うという気持ちでいっぱいで、きっとどうにかしていたのでしょう。私は、その特効薬を男の家から盗みだしました。だから、男の家から持ち去った『特効薬』がホンモノだったかどうかは、いまでも分かっていません。ううん、ホントは特効薬なんてそもそも存在しなかったのかもね。

 とにかく、私はその特効薬を村に持ち帰りました。それはあまりに 禍々まがまがしい赤色をしていて、まるでなにかの血のようでした。もちろん胡乱には思ったのですけれど、せっかく手に入れたものだし、まずは自分たちが飲んでみて、身体に害がないことを確認して、その上でお姉ちゃんに飲ませることにしたんです。

 そして――お姉ちゃんの病気は治りました。


 明音は、がばりと腕元の茉莉花ちゃんから、ヒトガタの化物へ視線を移した。

「治ったって言ったって、だってこの姿は!」

 茉莉花ちゃんは明音の腕の中でより深くうつむき、

「そう……死ぬはずだったお姉ちゃんは死ななくなったわ。ううん、死ねなくなった。

 その日から、お姉ちゃんは人の血肉を求めるようになったの」

「ああマリカ!」

 叫んで老婆は、ヒイラギマリカに抱きついた。

「マリカは今もくるしんでるんさ! からだじゅうから 血膿ちうみどうろどうろながして! あれからずっと……あのときよりもずっと、くるしみつづけとんさ! んだきゃあ、アタシは……」

「そうだね、おばあちゃん」

 茉莉花ちゃんが一歩を踏みだした。その様子に 胡乱うろんな気配を覚えて、僕は思わず口を開いた。

「茉莉花ちゃん?」

「おばあちゃんは悪くない。きっとこれは、お姉ちゃんから逃げ出した私に神様がばちをあてたんだと思うの。だから……」

 茉莉花ちゃんがもう一歩を踏みだす。ふ、とその表情が哀しく笑って、

「もう、終わりにしよう?」

「た、大変だよみんな!」

 突然雅人の声が、あたりにひびいた。明音が驚き振りかえり、

「まっちょ! あんたなんで戻ってきたのッ?」

 飛びこんできた雅人のうしろには、木之美さんの姿もあった。けっきょく、だれひとりとして逃げだそうとしなかったらしい。こうなればもう、呆れを通りこして笑うしかなかった。明音は、自分と同様に崩れた壁の隙間からやってきた雅人に向かって、

「な、なにが大変だってのよ!」

「もえてぅの!」

 雅人の代わりに、木之実さんが叫んだ。明音はきょとんとして、

「はぁ? もえてる?」

「村が燃えてるんだよ! だれかが油庫の油を使って火を付けたんだ! このままじゃ、そのうちここだって!」と、今度は雅人が叫んだ。

 先ほどからじりじりが増しているこの熱気は、炎によって温められているものだったのだ。そのうち、石釜オーブンのようになってしまうにちがいない。あるいは、煙がなだれこんでくるのが先か。煙は空気より比重が軽いと云うが、こんな密閉された地下空間に煙がなだれこんできたらたちまち全滅だ。

 信じられないことが起きた。

 茉莉花ちゃんは僕のほうをふり返りしゃがみこむと、僕を かたくなに挟みこんでいた巨岩を、やすやすと持ち上げてみせたのだ。

「ま、茉莉花ちゃんその力は?」

 僕が問うと茉莉花ちゃんは、てへ、と可愛らしいしぐさで舌をだしたあと、みんなは逃げてね。と言った。どうやら力については語る気はないらしい。

 ふとがいこつの老婆を見ると、口元をわなわなさせ、窪んだ眼窩の底に 驚愕きょうがくの眼差しを浮かべていた。

「まさか……お前が?」

 老婆の問いに対し、茉莉花ちゃんは りんとした眼差しで答えた。そのしぐさに老婆は激昂する。

「お前が……お前がッ! アタシが生涯を して守りぬいた村を、マリカの人形となるべきお前がああぁあああッ!」

 茉莉花ちゃんはいっそう哀しい笑顔を浮かべ、言う。

「これは、私の罪だから」

 茉莉花ちゃんはヒトガタにゆっくりとふりむき、そして懐からなにかを振りぬいた。撫子なでしこに染め上げられたつややかな鞘を持ったそれは、短刀だった。

 老婆はまた 驚愕きょうがくを顔中に浮かべ、

「ど、どうしてそれを?」

「どうしてって……おばあちゃんが倉に置いておいたんじゃない。私に使うつもりだったの? それとも自分?」

「マリカは! マリカは殺させん! アタシがこれまで、両手を血に染めて守ってきたマリカをッ!

 あいつらは、あいつらは『御霊替ノ儀』を行えばマリカが還ってくるっちゅうとったんが! 『成りそこない』から高位の存在に昇華するちうとったんが! だからアタシは……」

 激昂げきこうしてつかみかかってきた老婆を、茉莉花ちゃんはやすやす受け止めた。 じたじた暴れる老婆のうでを絡めとり、

「やめてよおばあちゃん……あんまり暴れると、」

 そこでぎり、と恐るべき視線を老婆にむけて、

「もいじゃうよ? 腕」

「ひッ……!」

 老婆は、へなへなとその場にくず折れた。

 僕らはと言えば、もう かせになるものはなにもないと言うのに、どんどんと熱くなる室内から出ることもできず茉莉花ちゃんの様子を、ことの 始終しじゅうを見つめていた。

 壁にあいた穴のむこうで、ちろちろと炎が舌なめずりをしているのが見える。だからと云って、茉莉花ちゃんを置いていくわけには行かなかった。

 その茉莉花ちゃんはふたたび自分の姉に、ヒイラギマリカにふり返り、

「おとなしくしててね、お姉ちゃん。私が、ぜんぶ終わらせるから」

 茉莉花ちゃんが 撫子なでしこの短刀を構えなおしてヒトガタに歩み寄ると、自身の危機を悟ったのだろうか、さっきまでぼうと棒切れのようにつっ立っていたヒトガタが、警戒するように腰をおとした。茉莉花ちゃんは小さく息を吐き、身をかがめて、そしてまるで幼児か動物をあやすように、ヒトガタに手を差しだす。

「だいじょうぶ、怖がらないで。いま、助けてあげる。助けてあげるんだから」

 ヒトガタは、まるで捨てられた子猫のようだった。茉莉花ちゃんが一歩を踏みだすたびに、びくりと震える。けれど、おずおずと云う感じでよってくる。ヒトガタは……救いを期待していたのだろうか。

 そしてとうとう、茉莉花ちゃんの手がヒトガタに触れた。そのまま、彼女はその血膿に まみれた身体を抱きしめる。

「ごめんね、お姉ちゃん。こんなにまでして、ごめんね。苦しかったよね? 悲しかったよね?」

 茉莉花ちゃんは、ヒトガタを抱きしめたまま涙した。ヒトガタはと云うと、両手をだらりと垂らして立ち尽くしているばかりだったが、その瞳に憂いのようなものが浮かんでいるように見えた。

 茉莉花ちゃんが、短刀の切っ先をヒトガタの胸にむけた。わからないけれど、それはきっと、死ねなくなったヒトガタの魂を浄化させるものなのだろう。

 やめてくれ、やめてくれと老婆の涙声が響く。

 ヒトガタは黙したまま動かない。

 茉莉花ちゃんの 滔々とうとうとした声が響いた。

「だいじょうぶだよ、お姉ちゃん。私がすべての罪を背負うから。お姉ちゃんの罪も私があっちまで持っていってあげるから。だから……」

 老婆が涙する中、僕らが 固唾かたずを飲みこむ中、彼女は言った。


「――さようなら、お姉ちゃん」


 絹を裂く悲鳴があがった。

 それはヒトガタのものではなく、老婆のものでもなく、茉莉花ちゃん自身のものだった。 茉莉花ちゃんは絶叫を上げながら、顔面を、正確には右目のあたりを両手で押さえ、地面をのた打ち回った。短刀がきしりり、と音をたてて床をすべっていった。

 同時に、ごづん、と音を立てて奥の壁が崩落した。さっきの振動の余波か、炎の影響か。 崩れた壁のむこうから、ぶわりと猛烈な勢いで炎と煙が舞いこみ、空間を赤黒く染め上げた。

「ま、茉莉花さんッ!」

 驚きのあまり声もあげられない僕らのなかで率先したのは、雅人だった。彼は一番遠いところにいたにも関わらず、飛びつくようにして茉莉花ちゃんを抱き起こす。

 瞬間、茉莉花ちゃんの傷口を抑えていた手がずれ、僕らはそれを見て戦慄した。

 顔が、えぐられていた。あの可愛らしい顔が、みるも無残な姿をさらしていた。ヒトガタの鉤爪からは、茉莉花ちゃんの顔面を抉ったその凶刃からは、いまもぼたぼたと血肉が したたっていた。

「ひ、ひ、ひへへえへへへへへへ!」

 老婆が狂ったような笑い声をあげ、顔中からいろんな体液を噴出させ、やはり狂ったように立ち上がった。

「へへへへへへへへ! ころさせん! マリカはだれにもころさせんん!」

「くそっ……貴様あああぁああ!」

 激昂げきこうした雅人が急速に立ち上がり、あろうことかヒトガタの化け物にむかっていく。僕はその背中に叫んだ。

「雅人! 丸腰でなにができる!」

「まっちょ、死ぬだけなのよ!」

 そう言って僕と明音が同時に飛びだし、

 ヒトガタの鉤爪がふたたび持ち上がり、

 ひげへへへと老婆の狂笑が響きわたり、

 いたいいたいと茉莉花ちゃんが泣き叫び、

 無情にもヒトガタの鉤爪が雅人にむかって振り下ろされ、

 それに対して僕らはなにもできず、

 旋風。

 それは、僕らのほほもとを掠めて 投擲とうてきされた 鉄銛てつもりであり、それにつづく木之美さんの身体であった。

 明音が持っていたはずの鉄銛は振り下ろされんとしていたヒトガタの左腕をまたしても的確に縫いとめ、そしていつのまに僕が取り落とした鉄パイプを拾いあげたのか、木之美さんはその新しい武器をもってヒトガタの眉間に殴打を決めこんでいた。その一連の動きはまるで美しく、川の流れるが如くであった。

 たまらずひるんだ動きを僕は見逃さず、ヒトガタの左腕へと飛びつき、そして叫んだ。

「雅人! 明音!」

「そ、そうか!」「はがいじめってわけね!」

 意思の通じたふたりは、僕に続いてヒトガタに飛びつき、僕らは4人がかりでがんじがらめにした。はじめて触れたヒトガタのからだは異様なまでに冷たく、血膿のようなものがべったりしていて腐臭もしたが、僕はそのことを知ってなんだか悲しくなった。

 ともかく、4人がかりともなれば、少しのあいだくらい、ヒトガタの動きを封じられるようだった。

「茉莉花ちゃん! 今なら!」

 僕が叫ぶと、茉莉花ちゃんは片手で傷口を押さえ、うめき声をもらしながらも立ち上がる。炎に紅く照らされた顔には、確かな決意が浮かんでいた。

 炎が空間を焼き尽くす中、黒煙がもうもうとはいまわる中、彼女は一歩一歩をしっかりと踏みしめる。手中の短刀をぐ、とにぎりしめる。あと数歩。

 されどそのとき、させええええん、という雄たけびとともに老婆が僕らのもとに突進してきた。

 その衝撃で僕のからだは大きく揺さぶられ、

 踏ん張ろうとした足にはあろうことか先ほどはさまれていた折の激痛が走り、

 あ、と思ったころには大きく振りまわされ足が宙に浮き、

 次の瞬間には明音が大きくバランスを崩し、

 老婆が奇声をあげながら雅人の喉元につかみかかり、

 それをみて木之美さんが一瞬の油断をつくり、

 ヒトガタの くさびはすべてうちとけて、再び 凶刃きょうじんがひらめき、

 しこたま吸い込んだ煙のせいで頭がじんじんして、

 またひとつ壁面の崩落が起きて、火の粉がばっと一面に舞って、

「ごめんなさい。―――お姉ちゃん」


 茉莉花ちゃんの短刀の切っ先が、ヒトガタに届いた。

 ごおおおおおおおおおおおん

 巨大クレーンがビルの屋上から落下したかのような音が、ヒトガタののどの奥から発せられた。それは、断末の 咆哮ほうこうだったのか。心臓に短刀の柄を生やしたヒトガタは、その咆哮を皮切りに、すっかり 弛緩しかんした。僕らがその身体を離すと、どう、と地面にうつぶせた。巨大な肉食獣のようだと思っていたのに、こうして倒れている姿はおどろくほどに小さく見えた。

「終わった……の?」

 明音がつぶやく。

「あ、ああ」と雅人も同意する。

 老婆がそのばにどつりとひざをつき、倒れふしたヒトガタに覆いかぶさった。その下にどろどろと血溜まりが広がっていく。

 慟哭どうこく

 老婆はヒトガタの まとった血だらけのぼろ布をひしとにぎりしめ、おいおい泣いていた。その姿を、茉莉花ちゃんはやりきれない表情で見つめる。

 僕は、なんだか心がぽっかりするのを感じた。けっきょくのところ、この惨劇のあとに残るものなんて、なにもないのだ。そう思って思わず見上げた天井は、とりつくしまもないくらいにのっぺりとしていた。

「裕樹……」

 明音が僕のYシャツのそでをつかんでくいと引く。言われなくても分かっていた。この煙が舞いしきる中にこれ以上いれば、命にかかわる。事実、さきほどから木之美さんと雅人はこんこんとむせていた。僕の頭もじんじんとして感覚が遠い。熱気だって、まるっきりサウナの状態だ。

 僕は言った。

「茉莉花ちゃん、行こう」

 茉莉花ちゃんは無言のまま眼下に老婆の背中をおさめて、いまだ立ち尽くしていた。その悲しげに立ちつくす少女を置いていくことなんて、できるはずもない。そう思ってもう一度声をかけようとしたとき、

「アタシは、」

 ただでさえしわがれた声をいっそうかすれさせて、足元の老婆がしゃべりだした。

「アタシは、正しかったんか。こんな姿になってもマリカを生き続けさせてしもうた…… 人の血肉食らわんせて、生きながらえさせてしもうた。アタシは……」

「おばあちゃん……」と茉莉花ちゃんがつぶやく。

 人に。僕は思った。

 人に罪を背負うことなんて、できるのだろうか。罪が人の心に宿るものならば。それを他人がさらっていくことなんて、できるというのだろうか。

 老婆はヒトガタの、ヒイラギマリカの身体を抱いて立ちあがり、ゆっくりと歩きだした。僕はその行く先を見て、慌てて声をかけた。

「ど、どこにいくのさ!」

「とむらうんさ……」

「弔うって! そっちは火の海だ!」

「ふん……」

 僕の肩を引く手があった。振り返ると、明音がやりきれない表情をして立っていた。

「裕樹、気持ちは分かるけど」

「あ、ああ」と僕は答えた。

 老婆はそのまま、崩れた壁の奥に、火焔かえんが満ちたそのむこうに消えていった。ヒイラギマリカを胸に抱いて――

 僕は後ろを振り返り、言った。

「茉莉花ちゃん、おつかれさま」

 うん、とつぶやいた彼女の手を僕はとった。驚くほどに小さな手だった。そして、いつの間にか右目から手が離されていることにも気づいた。

「あれ?」

 と僕が言うと明音が横から、

「ヤダ茉莉花ちゃん。傷、治ってるの? なんで?」

「えへへ……私も、お姉ちゃんとおんなじようなものだから」

 そう言って彼女ははにかんだ。どうやら説明する気はないらしいが、僕は彼女の可愛らしい顔が元にもどったんならそれでいいと気楽に考えた。僕はその手をしっかりとにぎりしめ、言う。

「さあ茉莉花ちゃん、いっしょに帰ろう」

 ほほはすすで汚れていたけれど、茉莉花ちゃんはその名にふさわしい、純白の茉莉花まつりかがいっせいに咲きほこったようなまぶしい笑顔を浮かべて。

「うんっ」


「あああああああああぁあぁあぁあああああ!」

 絶叫と、耳を塞ぎたくなるようなぼりんぼりんという異質な音が奥から聞こえてきて、僕らのだれもが硬直し、絶句した。

「今の――」

 茉莉花ちゃんの唇がわなわなと震えている。彼女と繋いだ手に、ぐ、と力がこめられる。さきほどの絶叫は、まちがいなく老婆のものだった。

 振り返りたくはなかった。振り返りたくはなかったけれど、だからといって逃げ出すわけにもいかない。僕の視線の先、揺らめく炎のむこうからゆっくりとすがたを表したのは――

 老婆の、ヒイラギツバキの生首を右手に吊り下げた、ヒトガタの化け物だった。

「お、おばあちゃん……」

 それは、つぶやいた茉莉花ちゃんに見せるにはあまりに残虐な光景だった。老婆の頭部は、眼窩の底の瞳が 捻転ねんてんし、舌はでろりとたれさがり、おそらく引きちぎったのであろう、首の骨がねじくれかえり、その断面はずたずたで、肉のつららをいくつも垂らしていた。けれど僕は驚きのあまり、その光景をみんなの目から隠すこともできなかった。

「そんな……」

 明音が絶望の嘆きをあげる。ヒトガタは、そのまま老婆の首を火の海へと投げこんだ。

 僕は、胸に怒りの炎が渦まくのを感じた。そばに落ちていた鉄パイプを拾いあげて、ヒトガタにむけた。

 酸素が足りない。頭がじんじんくらくらする。室内を焦がす 火勢かせいはますますに増し、乗じて黒煙の量も多くなる。

 あと何分無事でいられるだろうか。だからと云って引くわけにはいかないし、なによりも許せなかった。茉莉花ちゃんを傷つけ、老婆を殺し、今こうして僕の友人の命までもをおびやかしているこの化け物を。

 だが、どうしたらいいのだろう。

 胸に突き刺さってたはずの短刀はいまやない。あるいは、老婆が抜いたのかもしれない。 だとしたら、短刀は今ごろ火の海の中であり、それをとりに行くことなど到底できはしない。仮にできたところでその短刀を僕がつきたてることができるかも怪しいし、その短刀の効果が絶対とは言い切れないのは、今こうして目の前に立つヒトガタが、なによりの証明だ。

 くらくらする頭の中で思考が渦を巻き、そのさなかでヒトガタの腰が落ちるのが見えた。

 僕の頭は、自分が思っているよりよっぽどバカになっていたのだ。よけなくちゃ。そう思ったときにはヒトガタの姿はすでに視界から消えうせ、刹那、

「うがッ!」

 信じられない衝撃がみぞおちに走り、胸中の酸素と胃の中身をすべてばら撒きながら、 一瞬の浮遊感ののちに、僕は草の地面をすっ転がっていた。

 どこか遠くから、茉莉花ちゃんの悲鳴が聞こえ、続いて明音の声が聞こえる。

「もう! なんで裕樹ばっかり狙うのよこのおたんこなす!」


 空気が冷たい。草の感触からしても、外に放り出されたようだ。運よく明音が開けた穴から外にでられたのだろうか、ぼんやりと霞みきった目の前に散っているのは、火の粉なのだと思う。どうやら、村がまるごと燃えているというのは本当だったらしい。

 身体を起こそうとすると、おそろしいまでの吐き気と胸部の痛みが襲ってきて、とても立ち上がることなどできそうになかった。

 そう思っていると、ぐぐい、とだれかが抱き起こしてくれた。ありがたい、と僕は思った。

 でもそれにしてもやけに乱暴だし、なにも胸ぐらをつかまなくてもほかに起こしかたはいくらでもあるんじゃないかなぁ、とぼんやりとした頭で考えながら、ふしゅうふしゅうと言う息音のようなものと、魚が腐ったような腐臭を間近に感じていた。

 そこでようやくかすんだ目をこらして見ると、あたりまえのようにヒトガタの姿が目の前にあった。左腕の鉤爪は今まさに、僕の頭に振り下ろされんとしていた。

 みんなが、そのうしろをばたばた走ってくるのが肩越しに見える。

 どうやら、ここまでらしい。僕は観念して瞳を閉じた。もとより、抵抗する気力などもう残ってもいなかった。早くこの全身の痛みから解放してほしいとさえ思った。できることなら、死の恐怖がぞわりぞわりと這い登ってくるまえに殺してほしい。せめてみんなだけは無事に帰してあげたかったけれど、どうやら僕では役不足だったみたいだ。

 ふしゅう、ふしゅう、ヒトガタの息音を耳元で感じる。

 しかし、まてども僕に終わりの時間はおとずれなかった。なにをじらしているのだろうか。そう思って、僕は瞳を開けた。

 ヒトガタは、ぴたりと硬直していた。僕に鉤爪をつきつけたまま、まん丸の瞳でじっと見つめて、ふしゅうふしゅうだけをしきりに繰り返す。やがてみんなが僕らの元へかけつけ、

「裕樹を放しなさいよこのっ!」

「ま、待って明音ちゃん!」

 叫んで飛びつこうとした明音を、茉莉花ちゃんが押しとめるのが見えた。どうやら茉莉花ちゃんは、ヒトガタの異常な様子に気づいたようだ。

 ヒトガタは動かない。

 右手ががしりと僕の胸ぐらをつかみ、

 左手はぴたりと鉤爪をつきつけ、

 喉元から息もれのようなふしゅうふしゅうと云う音をもらし、

 まん丸の瞳でじっと僕を見つめ、

 その瞳から、きらりと零れ落ちるものがあった。

 ――涙だった。

「イッショニイキタイ……」

 僕ははっと息をのんだ。茉莉花ちゃんもいっしょだった。ヒトガタの喉元から声が、人の声が発せられていた。

「イッショ、ニ、イキタイ……」

「お姉ちゃん……」

 呟いた茉莉花ちゃんは心底辛そうに、きり、と唇を噛む。

 明音もその様子をみて、こうべをたれた。

「人のこころ、のこってるの? こんなになってるのに?」

「イッショ……に……」

 ヒトガタのうでからするりと力が抜けた。鉤爪もだらりと垂れ下がる。地響きを立てて、すぐ近くの家がまたひとつ燃えくずれる。

 そのときだった。ふわりと、薄紅うすべに色の光が僕とヒトガタのあいだを舞った。僕は、あ、と思った。明音もその光景を見て、

「これ、あの、あったかい光……」

 光はぷかりぷかりと地面という地面から浮かび上がってくる。天から火の粉がふりしきる中、光は天に昇ってゆく。雅人と木之実さんも上空を見上げ、つぶやく。

「すごい数だ……」

「なにがおこってぅの?」

 ヒトガタは両肩を落とし、そのあたたかな光の中に立ち尽くしていた。閉じられもしなくなった瞳から、涙だけがとつとつと流れていた。その右手を、きゅうと茉莉花ちゃんがにぎりしめた。

「行こっか。お姉ちゃん」

「茉莉花さん?」

 雅人が怪訝な声をあげて、茉莉花ちゃんが続けた。

「ほら、みんないる。いっしょに行けるよ。さびしくなんかない。だいじょうぶ、私もいっしょに行くから」

 その言葉に、雅人が言葉を飲んで絶句する。明音もあわてた様子で、

「ま、茉莉花ちゃん、いっしょって、」

 茉莉花ちゃんはいつもの華麗なターンを決めて、僕らのほうをふり返った。同時に、ぶわりといくつもの細やかな光が舞いあがる。その光景はがあまりにも幻想的で、僕も言葉を失った。

「ごめんね。私、お姉ちゃんと行くね」

 一面に花が咲いたような、まぶしいほどの笑顔だった。悲しいまでの、満面の笑み。

 足元から上る 薄紅うすべにの光が、天上から舞い降りる だいだいの火の粉が、彼女の笑顔をいっそう鮮やかに染めあげる。

 隣で靴音がした。そこにいた雅人の表情も、唇も、わなわなと震えていた。

「な、なに言ってんのさ」

 雅人が泣きそうな表情で言う。

「なに言ってんのさ茉莉花さん。行くってどこに? 行くってどこにっ?

 なんで……なんで茉莉花さんまで行くんだよ! おかしいよ! もとの生活にもどってさ! 学校に通って、俺、俺、遊びにいくよ! 家だってすぐ近くなんだ! おんなじバイトにしたっていい! だから、」

「ありがと、雅人くん」

 茉莉花ちゃんのその一言で、雅人は口の中の言葉を一切吐き出せなくなった。

 僕らのとなりでまたひとつ、家屋が崩落し、ばっと火の粉の雨を天に投げかける。それを見た木之実さんはあわてて、

「ゆーきくん、火がすぐそこまで!」

 僕は、はっとした。あたりはすっかり火の海になっている。このままでは炎に取り囲まれてしまう。そしてなにより、雅人のすぐとなりの建物が大きな火柱をふきだし、今にも崩れそうになっていた。僕はきしむ体に鞭をいれて立ち上がり、雅人に向かって叫んだ。

「雅人、早くこっちに! そこは、」

「いやだよッ!」

 雅人は、頑なにその場にとどまった。無理やりにでも引き剥がさなくてはいけないが、体がまるで思うように動かない。胸部の痛みで満足に息をすることすらままならない。

 そのとき、光がふわりと広がり、茉莉花ちゃんとヒトガタを包みこんだ。まっ白な光。茉莉花まつりかの花のような純白の光。それは、茉莉花ちゃんとヒトガタの足元から発せられていた。光は徐々に大きくなり、ふたりの輪郭があやふやになっていく。その光景を見て雅人が叫ぶ。

「な、なんで! なにが起こってんだよ! なんで茉莉花さんまで!」

 僕は、ヒイラギマリカと刻まれた墓標のことを思い出していた。あのとき僕は、そのとなりに彫られていた文字を読み取っていたのだ。

 ヒイラギ マリカ

 そのすぐとなりに刻まれた文字、それは。

 ヒイラギ サクラ

 きっと、と僕は思った。

 きっとふたりの命は、はるか昔に――


 光がいっそう強くなった。

 その純白の光に溶けこむようにして、ふたりの身体がゆっくりと薄れていく。ゆっくり、ゆっくりと。

 バイバイ、みんな。

 透明な声があたりにひろがる。雅人がおよそじたばたと暴れる。

「なんでだよ! やだよ! 俺やだよっ!」

 なんとか雅人のもとへたどりついた僕は、雅人に抱きついて燃えさかる建物から引き剥がそうとした。けれど彼は頑なだし、僕は体に力が入らない。胸の傷が痛んで、胃の中身をばらまきそうになる。

 バイバイ――

 鈴を鳴らしたような声とともに、そのまま、白く、白く、ふたりの姿は消え去った。その中心には、いっそう鮮やかな薄紅の光玉が残され、それがシャボン玉のように、ふわりふわりと天に昇ってゆく。

「そんな、どうして――」

 雅人は呆然と地面にひざをつき、光玉の行く先を見つめる。僕がその雅人の肩を引いた、そのときだった。

 ちりん。

 鈴の鳴るような音がした気がして、僕が上空を見上げると、天に昇ったはずの光のひとつがふわりふわりと空間を泳ぐようにして、舞い戻ってきた。いっそう色鮮やかな薄紅色。光はちろちろと横にふるえる。おかしげに、かわいげに。

「茉莉花さん――なの?」

 雅人が光にむかって呟くと、その目前に舞い降りた光は、うなずくかのようにちりん、とまた音をたてて揺れた。そのままくるん、とまわるようにして揺れ、そして、ちょこん、という感じで雅人の唇に口付けをした。雅人の顔がおよそきょとんとする。そのまま、茉莉花ちゃんだった光は、再び空に舞い上がった。

 ――それと同時に、そのあとを追うように、地面からいっせいに光の渦が立ち昇った。今までの比ではなかった。数え切れないほどの桃色の光が集まって、集まって、滝を逆さにしたようだった。

 雅人がはじかれたように立ち上がって、空に向かって爆発したような叫びを上げた。

「待ってよ! もどって来てよ! うわああっ!」

 そのまま走り出した雅人に対し、僕は体当たりをするようにして飛びつき、押さえつけた。信じられないほどの痛みが胸元から這い上がってきたが、それでも腕を離すことなどできなかった。

 もみくちゃになった僕らは草むらに倒れこみ、すぐ耳元から雅人の悲しげなうめきが、聞こえてきた。僕は、彼女たちがむかった空を見上げた。


 ああ、と僕は思った。

「光が、昇っていく――」

 それは、この世にこんなに美しい光景があるのかというほどのものだった。光の塊が空で爆発したかのよう。しんしんと雪の舞い降りる光景を砂時計につめて、逆さにしたかのよう。きららかな光のつぶてが、空一面を染め上げて、いっせいに昇っていく。それはあたたかで、美しくて、哀しい光景だった。

 雅人は草わらにひざをつき、とめどなく涙していた。僕は、その姿に声をかけることもできなかった。その背中を、明音がうしろからやさしくつつみこむ。

「明音」と僕は言った。

 明音はさびしげに答える。

「今だけは――」

 雅人のもらす 慟哭どうこくだけが、切なげに、風に流される――

 立ち昇る光の 奔流ほんりゅうはやがて薄れ、消えていく。あとにはまっ赤な炎がのこされた。空をなめる炎が、すべてを浄化する。罪に まみれた土地も、人も。

 黒煙は中天に昇り、夕空を一心に焦がしていた。炎塵えんじんは一面に舞い散り、空を 赤銅しゃくどうに焼き尽くしていた。

 たどり着けたのだろうか。そう僕は思った。

 みんなは、たどり着けたのだろうか。

 彼女たちも、たどり着けたのだろうか。

 その、煙のむこう側に。

 紅満ちる、その空に――



  【エピローグ】

 その夜、僕は仲のいいふたりの姉妹と、それを温かい目で見守る祖母の夢を見た。姉妹はおそろいの麦わら帽子をかぶり、小川で水をかけあい、たわむれていた。

 姉は妹を上まわるはつらつさで駆けまわり、妹はそれにぴったりとくっついてまわる。老婆は家の縁側に腰かけ、光を照りかえす水つぶてに目を細める。

 他愛もない夏の一日。それは、哀しい光景だった。けれど僕は、せめて夢のなかだけでもそんな光景を見ていたいと願った。

 僕はもう、覚えずほほをぬらしていた。


 七塚谷における原因不明の大規模な山火事は、3日3晩続いたとメディアによって報ぜられていた。低俗なワイドショーは、山が自殺の名所と化しているという事実を不確実な情報に基づきでっちあげ、誇大させており、

『怨霊の仕業か? 自殺者が吸い寄せられる七塚谷で謎の山火事!』

というテロップを画面にべったりと張りつかせ、インタビュアーは山火事の起きている場所で、天に昇る光が見えたと証言する男にマイクをむけていた。そしてその折、僕はそこに存在していたという村、萩人村の情報を得たのだった。

 その報道によると、村が機能していたのは20世紀のはじめまでだという。それからは家屋だけが放置され、現代に至るまでずっと朽ちるに任されていた――そうメディアは語った。その萩人村は、今回の山火事で跡形もなく消失した。おそらくは、たくさんの人皮が吊るされていた地下道とともに。黄泉への入口といわれていた、トンネルとともに。

 この事件以降、七塚谷で自殺者がでたという話はない。

 僕は、茉莉花ちゃんのことを、いや、ヒイラギサクラのことを思った。そして、哀しい結末を迎えてしまった、ひとつの家族のことを。

 誰からも忘れ去られ、消えてしまった家族のことを。


 後に『合宿大冒険』、と云うセンスのかけらもない名前がつけられた一連の事件を乗り越え、その日から、事件を起こした張本人の倉名明音はと云うと――

「それーい、美術の授業の前にポコ実のへったくそな絵を大公開よー」

 休み時間の教室の中で、幼稚園児の落書きのような絵が、僕の頭上を通過してゆく。ふえあわああと奇声を発しながら木之実さんが追いかける。クラス中のみんなが、またか、といった様子で事の始終を見届けている。

 相変わらずだった。なにひとつ変わっちゃあいなかった。

 ちなみに僕は、制服をずたぼろのすすまみれにした挙句、骨にひびまでいれて帰ってきたので、同居中のいとこ家族にこってりやられた。というか泣かれた。

 その際に、部活の合宿中にすべって転んで摩擦熱で火がついたといいわけしておいたが、どこまで信じてるかは謎だ。どう転んだら額がばっくり切れて肋骨にひびがはいって足がぶっつぶれて裂傷だらけになって、挙句に火がつくのかなんて、僕にだって分からない。それ以来、僕は日々をおとなしく、かつ慎ましやかに過ごすことに全力を注いでいる。

 そしてバストバンドという肋骨を固定する器具と、湿布を貼りつけたまま登校する僕に、明音は言った。

「ちょっと裕樹、まっちょをなんとかしてよ。あの合宿以来、どんよりどんより暗いのよ。一時間目は美術で移動教室だって云うのに、立ち上がる気力もないって言うのよ」

「明音がたくましすぎるだけだと思うけどね。やれやれっと」

 そう言って僕は立ち上がり、ひとつ前の席、つまりは雅人の席まで歩き、

「雅人、おはよう」

 じつに緩慢な動作で、雅人が頭をあげ、寝ぼけたような目で僕を見あげた。

「ああ、裕樹くんか……」

「元気ないね」

「ほっといてよ。俺はこのままこの空のむこうにきえてゆくんだ……」

 僕はため息をついた。雅人を元気づけるにはどうするか。答えはひとつしかない。

「元気だしてよ雅人。 そんなときは、彼女の名前を呼ぶんだ」

「そ、そんなっ! そんなことっ!」

 僕はゆっくりと首をふった。

「いいんだ。さぁ、呼んでごらん。『ののだあい』って」

 僕は、雅人の大好きなAV女優の名前を挙げた。

「の……、ののだあいっ!」

 がたんっ、瞳をきらめかせた雅人が立ちあがった。ちょろい、と僕は思った。

「そうさ、彼女はいつでも雅人のことを見てくれている。テレビ画面の向こう側でね。あの笑顔を、忘れたのかい?」

「そ、そうだよねっ! あのまぶしい笑顔! さらりとした黒髪! それとでっかいにくまん!」

「そうさ。あのふたつのにくまんは、神が人類に与えたもう、至宝なのさ」

「うんうんうんっ! いやぁ裕樹くん、やっと分かってくれたねぇ! 世界の四大秘宝といえば、『乳神様』、『百合』、『はいてない』、『絶対領域』って決まってるんだ!」

 どんだけ偏った秘宝なんだ。とつっこみたかったがぐっと堪えた。僕は雅人の肩を抱いて、

「さぁ。帰りに彼女のビデオを借りていこう。勇気のない雅人のために、僕がいっしょについて行ってあげるよ」

「ああ! あ、俺女教師ものがいいなー。それとマジックミラー! でへへー」

「さ、とりあえずは美術室に行くよ」

「あ、ああっ」

 任務完了。僕らは肩を抱き合ったまま美術室へと向かう。

 後ろを振り返ると、女性陣ふたりが僕らに生ごみを見るような視線を投げかけている。うう、と僕は思った。


 美術室にむかうとちゅうのわたり廊下で、僕はふと足を止めた。開かれた窓から誰かの声が聞こえた気がした。

 僕がそちらに目を向けると、窓の外には田園が広がり、その上には深緑の山々が連なり、そのもっと上には青空が広がって、ぽかりぽかりと白雲を浮かべていた。

 遠くに海が見渡せる。風がふわりと流れて、初夏の香りを届ける。陽光は容赦なく降りそそぐ。僕は、なんだか不意に飛び上がりたくなるほど楽しい気分になった。

 雅人が変な顔をしてこっちをみている。

 うしろからばたばたと明音と木之美さんが走ってくる。

 とうとう授業開始のチャイムが鳴り響く。

 終わらない日常。

 変わらない日常。

 夏は、すぐそこまできていた――

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紅満ちる、その空に ―混沌― @rururu

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