第3話

 日はすっかり昇りきり、見渡す 萩人はぎと村の屋外に闇の名残はなかった。それだと云うのに、人ひとりでてこない。ささやき声ひとつ聞こえない。がぁがぁとしたカラスの泣き声だけが、不気味に響いていた。

 そして飛び出してきた柊家の屋敷に舞いもどると、そこはひっそり静まっていた。明音は入り口の横戸に手をかけ、恐る恐るといった感じに中を覗きこむ。

「だれも、いないのかしら」

 落胆した様子で、茉莉花さん、と雅人がつぶやく。いたたまれなくなって、僕は言った。

「あんまりのんびりしてるわけにもいかない。とにかく、屋敷のなかを一周まわってみよう」

 かまどの据えられた、『だいどこ』、

 畳敷きの『ちょうだ』、

 加齢臭の漂う老婆の部屋、

 みかんの木が生えた中庭、

 すえたにおいのする納戸、

 がらんどうの女中部屋、

 錠のされた開かずの倉、

 魔界のような外便所――

 一周し終わった僕らは、ふたたび昨晩食事を囲んだ、『おいえ』へともどってきた。

 雅人はがくりと肩を落とす。

「やっぱり、いないみたいだ」

「どこに行っちゃったのかしら……心配ね」と、明音も眉根を寄せる。

 くい、と僕の服のそでが引かれた。振りむくと、木之実さんが泣きそうな表情をしていた。そのままぽつりと、

「ゆーきくん、はやく……」

 僕は黙って頷いた。茉莉花ちゃんのことは心配だ。見捨てることなんてもちろんできないけれど、だからといって悠長に探している時間もない。この間にも、危険は刻一刻と迫ってきているのだ。僕はみんなにむかって言った。

「しょうがない、先に電話を探そう。ふもとからなら、車で来ても、1,2時間はかかるはずなんだ。茉莉花さんはそのあいだにさがせるはずだよ」

 雅人は僕の言葉に噛みつくように、

「でも、電気がきてないんだ! なのに電話なんて!」

「いや、電気はあるところにはあるよ。この家にないだけで。

 茉莉花ちゃんが言ってた。院長先生のところには電話があるかもしれないって。だから、」

 ざうわー。

 突如として背中から聞こえた怪音に、心臓が跳ねた。まるで、『電気がある』という言葉に答えたかのように、電気音が背中から聞こえていた。ざわりとしたホワイトノイズのようだった。僕は振り返り、その音の正体を確認した。

「……ラジカセ?」

「でも、どーしてきゅうに鳴ぃだしたのっ?」

 と、木之実さんが叫び声を上げる。

「そうか、ラジオだ」

 僕は 桐箪笥きりだんすの上にあった、たまご型のラジカセを引き寄せ、アンテナをぎゅう、と引きずり出した。そのままみんなのほうを振り返り、

「電源が入ってる。きっと点きっぱなしだったんだ。たまたま、電波をひろったんだよ」

「び、びっくりしたなあ」と、雅人が胸中の酸素を吐き出す。

 ひょっとしたら地域放送が聞けるかもしれない、なにか役に立つ情報があるかもしれないと思って、僕は軽い気持ちでラジオの周波数を合わせだした。けれど、いつも聞いていた地元チャンネルの周波数が合うわけもなく、手探りで番組を探す羽目になりそうだった。

「あ、俺やるよ。けっこうラジオとか聞くんだ」

「うん、じゃあまかせるよ」

 雅人がラジオをがーぴーやるのを聞き流しながら、僕は先のことを考えていた。

 電話は本当にあるとは限らない。あったとしてもつながるとも限らない。つながったところで、迎えがくるとも限らないし、迎えがきたところでそれまでの時間を安全な場所で過ごしきれるとも限らない。

「お。なんか聞こえた」

 雅人が、ハムノイズのなかに人の声を見つけて微調整をしているのを、僕は横目に見ていた。よかった、こんな山奥村にも電波は届くものらしい。

「あれ? なんだコレ、おかしいぞ……」

 つぶやいた雅人の様子に異変を感じて、僕は振り向いた。彼は、がちゃがちゃとでたらめに手元のダイヤルをいじっているように見えた。けれど、その動きとは裏腹に、吐き出される音は変化する由もない。

 ノイズの嵐のなかに聞こえたのは、笑い声だった。お笑いでもやっているのだろうか。それにしては、やけに耳に突き刺さる、甲高く気色のわるい笑い声だった。それが、だんだんと鮮明になり、だんだんと大きくなっていく。

 ひへっへへへ、けひへへへ。

 僕は後ろ寒いものを感じ、明音が耐え切れずに声を上げた。

「ちょっとまっちょ、これ以上音量あげないでよ。だいたい、なんなのこの気色わるい放送は、」

「ちがうッ! 俺なにもしてないよ! 音量も、周波数も!」

 雅人の手元は、すっかりラジカセを離れていた。それなのに、音量だけがひとりでに大きくなり、ノイズ交じりの音声は、ひとりでに鮮明になっていく。木之実さんが悲鳴にも近しい声を上げる。

「じゃあ、なんでおおきくなぅのっ?」

 冗談じゃない、と僕は思った。

 冗談じゃない。こんな気色のわるい笑い声だけを流し続ける局なんて、あるもんか。このラジオ、一体なにをひろってる?

 ひへへへへ、くきけけけけ、うひえへへえへへ

 くひ、ひひひへーへへひ、ふひいひいひ

 雅人は、たまらずラジカセのスピーカーを両手で押さえる。

「だ、だめだ! どんどん大きくなる!」

「は、はやく止めてよッ!」明音が金切声を上げる。

「やってるんだよ! スイッチはとっくに落ちてるんだ!」

「電池をぶっこ抜きなさいって言ってるのよ!」

「そ、そうか!」

 雅人は弾き飛ばすようにしてラジカセ後部の蓋を開け、臓物を引きずり出すようにして、なかの電池をのこらず引き抜いた。

 電池がなければ、ラジカセに音をだせる道理はない。そんなのは当然のことだった。

 これで止まるはず――誰もがそう思っていた。

 ひいひ、ひへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへへ


 僕らをあざ笑うように、笑い声が一息に大きくなった。明音が、木之実さんが、両耳を押さえて叫び声を上げる。その声すらも、もはやしかと聞こえない。僕もたまらず耳を押さえるが、鼓膜を直接突き破るような甲高い笑い声はまるで防ぎようもなく、脳みそを刃物で切り刻まれるようだった。

 いひ、ひいひ、ひ、ひひひひく

 くへひえひ、えふくひいひいいいえひふふふふ

 ふふひひひふふいひっふふうひふふひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ

「く、くそおぉおッ!」

 雅人はラジカセをちからまかせに投げ出し、ラジカセは裏の川に水没してようやく沈黙した。驚くほどの静寂が、一息にかえってきた。耳はすっかり綿をつめたようで、遠くでがあと鳴くカラスの声が何かの冗談のように聞こえた。その静寂の中で、雅人は肩で息をしている。その吐息だけが、なぜか鮮明に聞こえる。

「な、」

 明音が辛うじて、言葉を押し出す。

「いったいなんだったのよ……」

 だれも、答えなんか出せるはずもなかった。ただ黙って、ラジカセが水没した川を眺めるだけだった。それきり、どぽどぽ川が流れる音と、ざわりざわりと木々が嗤う声だけが聞こえた。雅人が汗まみれの頭を振って、顔を覆う。

「おッ、俺やだよこんな場所! でも、でも茉莉花さんは助けないと!」

「裕樹はやく、はやく電話を!」

 明音も懇願するような目で僕を見ていた。

 そうだ、と僕は思った。そうだ、僕がしっかりしなくちゃいけないのだ。

「分かってるよ。とにかく、電話がありそうなところにいこう」

 僕がそう言って縁の下に脱ぎ散らかした靴に足を通すと、みんながついてきた。そして僕らは、一目散に外へと駆け出す。

 ひへへへ、けへへへ

 聞こえもしないはずの笑い声が、鼓膜の内側にこびりついて、とれそうにもなかった。



 目指すべき『院長センセの家』を探すのに、手間はかからなかった。上を見上げて電線をたどれば、きっとそこにたどり着く。そうでもなかったら、僕らはとうに気がおかしくなっていたかもしれない。いつ化け物が飛び出すかもしれない村内で、一軒一軒、院長先生のお宅はこちらでしょうかと尋ねるだなんて、冗談じゃない。こんなに明るい時間の開けた屋外で、こんな恐怖感に さいなまれるだなどと、思いもよらなかった。

 陽射しは感じようによっては麗らかだったのかもしれないけれど、僕にはすべてが気味のわるいものに思えた。

 僕は、目の前にあったインターホンの呼び鈴を押した。角ばった古めかしいデザインのそれはさび付いていたが、辛うじて音はなるようだった。少なくとも、ここに電気が通っている証拠にはなる。そう思って僕は、安堵のため息をついた。

 だが、こうしてチャイムが鳴っているあいだの時間を待つことすらもどかしい。その応答を待っているあいだはもっともどかしい。今にも、そこの物陰からなにかが飛び出すかもしれない。それだと云うのに、待てども応答用の小さなスピーカは沈黙したままだった。

 僕がもういちど呼び鈴を押し、

「いいわ裕樹、緊急時だもの。言いわけなんてあとでなんとでもするわ。どうせ鍵なんて開いてるわよ」

 明音はずい、と僕を押しやり、玄関の戸をあけた。

「ごめんください。お邪魔するわ」

 明音は返事を待つことすらせず、靴をぬいでずかずかあがりこむ、僕らがあわてて続く。

 玄関には電灯が吊るしてあり、いかにも古めかしい田舎の家と云う感じだったが、柊家の屋敷のような前世紀の遺物ほど古びてはいなかった。少なくとも、電話機のひとつやふたつおかれていても不釣合いではないと云う様相だった。

「だれもいないのかなぁ」

 と雅人がぼやいて、

「あ、あぇっ! でんわっ!」

 そのうしろで木之実さんが声をあげた。

 果たして本当に求めていたものがそこにあった。台に据えつけてあるプッシュ型の電話。

僕はその背後に後光が射すのを見た。

これで繋がろうものなら、一生電話機に足をむけずに寝たっていい。毎日供え物をしたっていい。

「お願い、繋がって――」

 明音が祈るように電話機のスピーカーホンを押した。

 ぷうー。

 僕は生きてます。ひどく聞き慣れた440ヘルツの正弦波が、そんな生存反応に聞こえた。

「つ、つながったわ! どうしようポコ美、どこにかければいいのっ?」

「あかねおちついてっ! けーさつにかけぇばいいんだよ!」

「そ、そうよね。そうだったわよね」

 明音は深呼吸をひとつして、そのまま震える手で番号をぽちぽちと押しはじめた。

 繋がって――僕らのだれもが、そう思ったはずだった。

 とぅるるる。まあ任せてよ、そんな感じの頼もしいコール音がして、

『はい、こちら七塚警察――』

 繋がった。スピーカーホンで聞いている僕らは、安堵の表情で顔を見合わせた。明音は握りしめた受話器に向かって、

「あ、あのもしもし? 警察ですよね? 助けてッ!」

『はい。まずはお名前と、今いる場所を教えてください』

「あの、あたし倉名明音っていいます! それで、ここ 萩人村はぎとむらっていうらしいんですけど、あたしたち迷いこんじゃって、それで――」

『萩人村?』

「は、はい。あのそれで、もうわけがわかんなくて、人が……人がいっぱい吊るされてて、化け物みたいのがいて、とにかく、」

『ああ、そんなのは別にめずらしいことじゃあない』

「――え?」

『めずらしいことじゃないんだよ、その村じゃ。人が死ぬのも、消えるのも。化け物がでるのも。

 こまったなああんたら。そんなとこに迷いこんじまったのか? それじゃあもう、助けてやれんなぁ』

「な、なにを――」

萩人村はぎとむら――

 その村には、むかしからヒトを殺して、その皮を剥ぐ習慣がある。そう、つまり、もともとはだったわけだ。なかには『殺人村さつじんむら』なんて呼ぶ連中もいたな。ほら、なぁ? 漢字がそっくりだろう?

 ひっひひ……まぁ、その村に迷い込んだが最後、生きてでられることはまずない。あきらめることだ……』

「な、なにわけわかんないこと言ってんのッ! あんた警察でしょう? 頭イカれてんの? あ、ちょっともしもし? もしもし!」

 ぷう。ぷう。

 古めかしく角ばった受話器が、しつこく通話の終了を告げる。途中で電話を切られたことは明白だった。明音は受話器を握りしめ、立ち尽くす。僕はその背中に声をかけた。

「明音、今のは」

「切られたわ……信じらんない、このあたりは警察の人もおかしくなってるのかしら」

「ど、どうする?」

 雅人がおどおどと尋ねる。僕は答えた。

「とりあえず、今度はべつの場所に連絡してみよう。そうだ、予約してたペンションは?

 一晩たっちゃったけど、事情を話したら迎えにきてくれるかもしれない。明音、電話番号分かるよね?」

「そ、そうね、そうしてみるわ」

 明音は神妙な面持ちで頷き、受話器をあごと肩のあいだにはさみ、ポケットから例の『旅のしおり』を取りだし、そこに書かれた電話番号の1桁目をプッシュする前に、

「……あら?」

「どうしたの?」と、僕は尋ねた。

「変ね。ウンともスンともいわないわ。ひょっとして、こわれちゃったのかしら?」

「ええッ?」

 雅人がこの世の終わりだ、とも言わんばかりに驚く。明音は眉間にしわをよせ、何度もプッシュボタンを押すが、電話器はむっつりと押し黙ったままだった。

「あ、あかね……」

 足元から震える声がした。見ると、木之実さんが四つんばいになって床を漁っていた。明音はその尻に向かって答える。

「な、なによ? あたしじゃないわよ、こわしてなんかないわよ?」

「ちがう、ちがうの。これ……」

 振り返った木之実さんの顔が、みるみると青ざめていく。震える手が持ち上がって、大量のほこりと一緒に床からナニカを持ち上げる。

「これ、電話線、つながってない……電源コードも……」

「え―――?」

 木之実さんが持ち上げたのは、電話機から伸びている黒い電話線だった。たどっていくと、それはなかばからぶっつりと途切れていた。完膚かんぷなきまでにズタズタに裂かれたそれは、中身の銅線がそちこちに跳ねまわっていた。つまり、この電話は初めから――

 明音の全身が、驚くほどに震えている。そして彼女は震えた声で、

「な……なに言ってるのよ? だって、今までつながってたのよ?

 じゃあ……じゃあ、今まであたしが話してた相手は、だれだったの? 今の電話、いったいどこにつながってたの?」

 僕らのあいだに、沈黙が降り積もった。だれも、なにも、口にできなかった。

「……と、」

 僕は、必死の思いで口をひらいた。

「とにかく、電話は無理そうだ。こうなったら、自力で村をでる方法を探すしかなさそうだね」

「う、うん……」

 明音もとりあえず、といった感じにうなずく。

「ほら、でようよみんな」

 僕がみんなの背中を押して先頭を歩くと、みんなは無言で僕についてきた。その表情は、どれも 暗澹あんたんとしていた。

 自力で村をでる方法……口にしてみたはいいが、そんな方法はあるのだろうか。僕は次ぎに自分ができることを考えて、入ってきた横戸に手をさしかける。

 固定電話はダメだ。携帯電話も電波がない。歩いて出て行くには、山奥すぎる。何か乗り物はないだろうか。たとえば、


 とるるるるる


 誰もが、その場に凍りついた。僕の右手も横戸の取っ手にかかったまま、動かせなくなった。

 とるるるるる

 背後から音がする。よくよく聞きなれた音がする。僕らの求めていた音がする。けれど、どうしても振り返ることができない。音はなり続ける。僕らを急かすように。あるいは責めたてるように。

 認めたくない。認めたくないけれどそれは、間違えようはずもなかった。

 とるるるるる

 電話の音だった。電話線のつながっていない、電気の通っていない、『

 僕は、必死の思いで振り返った。電話機の鳴動に合わせて、赤いランプが点滅していた。それは血の色を連想させるような、毒々しい赤色で、薄暗い部屋の中を照らしていた。

 コノデンワ、イッタイドコニツナガッテイル――?




 こうなったら自力で歩いてでも村から出るしかない――そう提案した雅人の意見に、反論する人間はいなかった。

『院長センセ』の家の横戸をひき開け、いやに静まりかえった村内にふたたび一歩を踏みだしたところで、木之実さんが声をあげた。

「うん? ひとがいぅよ」

「ど、どこよ? まさかまた化け物じゃないでしょうね」

 そう言って明音は、せわしくあたりを見渡す。それに対し、ほぁ、と木之実さんが前方を指差す。指さした先を辿ってみるとそこには、小高く地面のもりあがった丘のような場所があった。そして木々が茂り、まるで目立たないその場所に、ぽつんとした麦わら帽子の人影を見つけた。雅人が叫ぶ。

「あ、あれ! 茉莉花さんじゃないか!」

「みんな、行ってみよう」

 僕が言うと、みんながついてきた。


「茉莉花さーん!」

 雅人の呼びかけにふり返った茉莉花ちゃんは、そのまま声もあげずに雅人の胸にぎゅうとしがみついた。雅人はおよそわたわたとし、

「うわっ、とと……な、泣くことないじゃないか」

「雅人、役得だね」

 僕はいつぞやのバスの仕返しをしてみた。明音も頷いて、

「なんでかしら、そんな状況じゃないと分かってるのに無性に蹴りたくなってくるわ……」

 その一連の流れに、木之実さんは苦笑いを浮かべる。

「それで茉莉花さん、どうしてこんなとこにひとりで?」

 雅人が茉莉花ちゃんの身体を離して訊くと、栓を抜いたようにふわーん、と茉莉花ちゃんの泣き声が上がった。

「うわわっ」

 雅人があわててがばりとすると、泣き声はぴたりと止んだ。ちょっと面白かった。

 とうとう耐え切れなくなった明音が、

「ちょっとまっちょ、なに女の子泣かしてんのよー」

「俺のせいっ? っていうか、どう考えても俺のせいじゃないよ! むしろいい人だよ!」

「うるさいわ。あんたがいると話が進まないのよ。

 ね、茉莉花ちゃん、何があったの? どうしてこんな場所にいるの?」

 ふるふる。

 茉莉花ちゃんはゆっくりと雅人から体を離したが、がくりと下げた麦わら帽子を横にふるだけだった。明音は眉を八の字にし、木之実さんに助けを求めるような視線を送るが、そもそも木之実さんは茉莉花ちゃんと初対面だ。

「わかんない……」

 茉莉花ちゃんが蚊のなくような声でつぶやいた。

「え?」

 と明音が聞き返し、

「わかんない……気づいたら、ここにいたの。おばあちゃんの様子がへんで、そのままふらっと出てっちゃって、歩けないのにひとりで外へでるなんてあぶないって、私、おいかけたと思うんだけど……」

「うん……ごめんね茉莉花ちゃん、もういいわ」

 今度は明音が、茉莉花ちゃんを抱きしめた。茉莉花ちゃんは黙ってその胸に頭をあずける。とりあえずそれで、彼女の混乱は収まったようだった。

「ねぇ、ここって、」

 雅人があたりを見渡して、誰にともなく言った。

 僕も、その異様な光景は気になっていた。林立する木々の根元の土はどれもこんもりと盛り上がり、それらは一様に、船の かいの先だけを切り出したような、のっぺりした形の鉄板をはみ出させていた。それが、ずらりずらりと一面に並んでいる。そしてそのどれにも、長い時間がかすれさせたのであろう、文字が刻まれていた。

 僕は思った。ああそうか、と。

 そうか。ここは――墓場なんだ。


 オガワラ タケイチロウ

 ナガセ ヘイスケ

 ミドウ ハルヒコ

       ミツ

 マンノスケ

 トダ チカアキラ

       シン


 これは、この土地独特の風習なのだろうか。姓名せいめいが刻まれた鋼鉄の 卒塔婆そとばの裏にそびえる木々は、亡くなったひとたちが姿をかえたものに思えた。

 風が流れては、人々の葉を、枝をざわざわとゆする。彼らの声は、泣いているようでもあったし、呼んでいるようでもあった。ひょっとしたら茉莉花ちゃんは、この中の誰かに呼ばれたのだろうか。

 そんなことを考えていたら、背中をたたかれた。振り返ると、雅人が真剣な表情をして僕を見ていた。

「裕樹くん、のんびりしてられないよ。はやくこの村から出ないと……またあの化け物がきちゃうよ!」

「化け物……ひょっとしてぬしさま?」

 茉莉花ちゃんが麦わら帽子の下に瞳をのぞかせて言った。

「知ってるの?」と僕は訊いた。

「知らない、知らないよ。むかしからたまに、年に1回くらい聞こえるの。今日みたいに、地面の底からうめき声みたいな……そのときはぜったい外に出るなっておばあちゃんが。

 みんなも怖がってるんだけど、これはもうどうしようもないんだって。でも、本当に化け物だなんて……」

「なるほど、だからこんな時間になっても村には誰ひとり出てこないんだね。とにかく茉莉花ちゃん、僕たちといっしょに行こう。ここにいるのは危険だよ。なにがおきるかわからない」

「でも、おばあちゃん……」

 そう言って茉莉花ちゃんは深くうつむいた。その肩に雅人が触れようとし、ビビッて途中でやめていた。ヘタレ、と明音がつぶやく。雅人はその代わり、といわんばかりの大声で、

「あのばーちゃんなら大丈夫だよ! 長生きするって! あと100年は生きるって!」

「長生きしすぎだよ」と僕は言った。

 明音はため息をひとつついて、

「それに茉莉花ちゃん、あたしたちは助けを呼びに行くのよ。別において逃げるわけじゃないわ。もうバスも走りだしたころだし、たとえバス停じゃなかろうが、ふんづかまえてでも停めてやるわよ」

「よし、行こうよ茉莉花ちゃん」

 僕が手を差しだすと、

「う、うんっ!」

 茉莉花ちゃんは笑顔で僕の手をとった。

 やっぱり、この子には笑顔がなによりも似あう。本人はあまり気に入っていないようだけど、僕はふわりと花びらを散らしたような笑顔をみて、彼女に『茉莉花』と名前をつけた両親の気持ちが分かったような気がした。



 僕らが茉莉花ちゃんの手をとり村のはずれの墓場から駆けだし、

 幅のせまい花火の小川を跳びこし、

 ごろごろとでかい石が転がる砂利道を踏みつけ、

 上空から浴びせられるカラスの鳴き声をくぐりぬけ、

 歴史の教科書に登場するような木製の耕作機もどきと千歯こきのとなりをすり抜け、

 ひっそりと静まった 十間長屋じっけんながや古行灯ふるあんどんの小道を駆け抜け、

 村の入り口であるふたごトンネルを眼下にしたときだった。


 うごおおぉおぉおぉおろぉん

 僕らの歩みがぴたりと止まった。

「う……いまの……」

 木之実さんがぶるりと震える。明音もあたりを見渡して、

「地面からじゃ……ないわよね」

 その通りだった。地底の底から響いていたはずのうめき声は、僕らの『背後から』聞こえた。それも、決して遠くない距離に。

 死の 使徒つかいのようなカラスの鳴き声のあいだに割ってはいったその声は、明らかに声質が変わっていた。重い金属どおしをこすり合わせた軋みにも近い、低く、にぶく、恐ろしい こえ。それはもう、とても生きものの のどから発せられているとは思えないようなものだった。

 とうとう『ぬしさま』は、地表に姿をあらわしたのだ。


 ぬしさまぁ、いつも腹がへらしとる。たんまに我慢できんくなって、むらまでひょっこらのぼってきょうる――


 老婆の低くしわがれた声が、脳髄のうずいの奥からにじみだした。

 腹をへらしている……じゃあなにを食べる? そんなの、地下の監守室に吊るされた大量の人皮を見れば、考えるまでもない。

 明音ががばりと振り返り、叫んだ。

「みんな、急いでッ!」

 その声を皮切りに、みんなが走り出す。目指す先は、村の入り口、トンネル。

「だいじょうぶ、トンネルさえぬければこっちのもんだッ!」

 雅人の言葉に、僕も同意した。

「ああ、なんだかそんな気がするよ!」

 背後の声がだんだん大きくなる、残響が少なくなる、化け物が追ってきてるのは明白だった。あの脚力なら、すぐにでも追いつかれる。

 先頭を明音が走り、そのうしろを僕が走り、いちばんうしろを木之実さんが走っていた。悔しい話だがこの中でよーいどんをしたら、いちばん速く駆けぬけられるのはまちがいなく木之実さんで、彼女をアンカーに置いておけば誰かが脱落することもないし、いざというときの機転も利く。そんな配慮からの配列だった。

 そしてついに、先頭の明音がトンネルに足を踏み入れた。

 僕は叫んだ。

「明音、駆けぬけるんだッ!」

「分かってるわ!」

 雅人も僕らの後ろに続く。

「怖いなぁくそ! 今度はだれもいなくなんないでよッ!」

 僕らの10の足音がトンネル内にわんわんと残響し、あたりはコンサート会場みたいになった。昼間は照明も消えているらしいそこは、入った瞬間は暗闇に思えたが、すぐに出口の光が見えてきた。そう、来るときにも言ったとおり。出口までは、しょせん数十メートル。全力疾走すれば、それこそ10秒とかからない距離なのだ。

 2番手を走っていた僕は明音の背を追うようにして走り、

「うわっ!」

 出口付近でその背中が急に止まり、僕はあやうくぶつかりそうになった。

「明音、なんで止まるっ?」

 明音は口をぽかりとし、声もなく立ち尽くしていた。

「明音っ!」

 僕は明音の肩をゆすった。何があったのかは知らないが、後ろから化け物が迫っているのだ。悠長にしている暇など、あるわけがない。

「なんだよどうしたってのさっ!」

 追いついた雅人も、僕らの様子を見て声をあげた。

「――そんな」

 明音がぽつりと言った。僕は明音の視線を追って、前方に目を らし、そして、愕然がくぜんとした。


 道の先に村が見えた。

 建ちならぶ老朽化した家屋。

 十間長屋に古行灯。

 耕作機もどきに千歯こき。

 ずっと聞こえていたカラスの鳴き声。

 トンネルを抜けた先には――萩人村があった。


「そんな、どうして――?」

「で、でられないってことっ?」

 木之実さんと雅人もその光景を目の当たりにし、絶望的な声を上げる。

「……そんな現実ッ!」

 僕が走り出そうとし、そのとなりを駆ける風があった。茉莉花ちゃんだった。僕はその背中に声をかける。

「茉莉花ちゃん、どうするのさ!」

 茉莉花ちゃんは僕らのほうを振り返って、

「この下にもうひとつトンネルがあるの! そっちなら!」

「そ、そうか! 『ふたごトンネル』だ!」と雅人が叫ぶ。

 そのまま上のトンネルを抜け出て、茉莉花ちゃんを先頭にした僕らは団子のようになって沢を駆け下りた。

 どうかもうひとつのトンネルはまともに抜けられますように――そんな願いをこめて山の斜面をすべりおりると、眼下にもうひとつ、もっと古びた作りのトンネルが見えてきて、

「なに、コレ――」

 そこで茉莉花ちゃんが、足を止めた。その理由を、僕は瞬時に理解することになる。

『ソレ』はまるで――

 そうまるで、だった。

 トンネルの入り口には、わらわらわらわらとたくさんの物がむらがっていたが、それらはぴくりとも動かず、そもそも生きものですらなかった。

 ―――車。

 たくさんの車が、まるでそこに逃げ場をみつけたように、あるいはそこで逃げ場を失ったかのように、みっちりと押し詰まっていた。

 そのいちばんうしろに、もっとも蟻を連想させる漆黒の車があった。

 不吉なまでに黒塗りされたセダン。

 リアパネルにも打ちこまれた王冠のエンブレム。

 今も貼りつけられたままの粘着テープ。

 排気口から運転席にひかれたホース。

 もうまちがえようはずもない。あの夜消えた、死体を乗せて勝手に走り出した、車だった。


 ここは自殺者の集う山。死体の消える山。

 つまりあの大量の車たちは―――

「だ……だめだ! あれじゃ通れるわけもないよ! だからってここにいても!」

 雅人が絶望的な叫びを上げる、木之実さんも途方にくれて、

「ど……どーしよう?」

 その横を、またしても茉莉花ちゃんが駆け抜けた。まだ何か、彼女は打開策を持ち合わせているのだろうか。そう僕は期待したが、彼女の向かう先はあろうことか、萩人村のほうだった。たまらず明音が声をかける。

「茉莉花ちゃん今度はどこに行くのよ! そっちは!」

「やっちーが! まっきーが、村のみんながいるもん! みんなが助けてくれる、守ってくれる!」

「だからって! ひとりで行っちゃだめだ!」

 僕はそう叫んだが、茉莉花ちゃんに止まる気配はなかった。どこからあのヒトガタの化け物が飛び出してくるか分からないというのに、一目散に屋敷のほうへと駆けていった。

「くそっ!」

 そう毒づいて、雅人が足元を蹴り上げる。明音も悔しそうに歯噛みして、それでもがばりと顔をあげて、

「行くしかないのよっ!」

 走り出した明音を先頭に、僕らは茉莉花ちゃんを追いかけた。


「やっちー、あけて! 助けて! 茉莉花だよっ!」

 僕らが追いつくころには、茉莉花ちゃんは柊屋敷から近しい、古びた家屋の戸を必死に叩いていた。乾いた音を立てて、戸がなんどもしなる。待てども中から返事は聞こえない。

 それを見ていた明音がとうとうしびれを切らし、無理やりこじ開けようと戸に力を込めるが、戸は開かなかった。

「あーもう! ど田舎のくせに、こういうときだけは鍵かけるんだからっ!」

 こうしている時間がもったいない、僕はそう思い、後ろを振り返って言った。

「雅人と木之実さんは、それぞれとなりの家を!」

「ああっ!」「おっけー!」

 二人はほぼ同時に返事をし、それぞれとなりの家の様子をみに走ったようだった。それを見届けて、僕は再び振り返った。そしてなおも戸をたたきつづける茉莉花ちゃんの肩ひいて、僕は言った。

「茉莉花ちゃん、もういいよ。きっとしんばり棒だと思う。申しわけないけど、無理矢理あけさせてもらうよ」

「非常時よ、問題ないわ」そう言って明音は、なぜか得意げに腕を組む。

 僕は腰を低く落として、戸に肩からぶつかった。戸はいとも簡単にはずれてそのまま砕け、余韻をひいて、砕けた戸の跳ねる音が響いた。

 後ろから明音の声がして、

「裕樹、やりすぎじゃ、

 え……」

 僕らは家の中を見て、声を失った。それは、茉莉花ちゃんも含めてのことだった。

 なぜって、家の中は、だったのだから。

「ねえ……これって、」

 明音が言葉を絞り出した時、外からは雅人と木之実さんの声が聞こえてきた。

「なんだよっ、こっちの家は廃屋じゃないか!」

「こ、こっちもだよっ!」

 背筋をひとつ、冷たいものが駆け下りた。息をすると、どろりと粘ついた空気が喉にひっかかる。がらんどうの家屋の中に足を踏み出すと、むわりと大量のほこりが舞い上がった。

 いったいこれは……どういうことだ?

 家の様子を見るからに、使われていないのは1年2年の話じゃない。

 腐りきった床板と柱。

 崩れ落ちた はりと天井。

 ほこりと昆虫の 巣窟そうくつ

 少なく見積もっても、数十年は使われていそうにもない。

 つまり……これって、これって、もう何十年も前から、この村は、

 

 ざうわー。

 背後から聞こえた異音に、僕らは驚き振り返った。信じたくないけれどそれは、またしても聞きなれたノイズ音だった。その音源に近づいて茉莉花ちゃんは、

「あ、ら、ラジオだよ。ほら、私が持ってきた。でもなんでこんなとこに」

「だ、だってそのラジオは!」

 明音が叫び声を上げた。

 つるりとした卵型。冷ややかな銀色。雅人が川に投げたラジカセ。その背部の電池ボックスは今もがぱりと開いたままで、中身が入っていないことを明確に示していた。明音はそれを見て髪をふり乱す。

「なによコレ……なんで……もどってきてるのよッ!」

「で、出るよふたりともっ!」

 今にもあの笑い声が聞こえてきそうで、僕はそう言って、あわてて廃屋を飛びだした。

「うわっ、と」 

 飛び出した先には木之実さんと雅人が待っていて、僕はあやうくふたりにぶつかりそうになった。木之実さんなどは今にも泣き出しそうな表情をしており、僕を見とめるなり、

「あ、ゆ、ゆーきくん! おかしいの空き家なの! この村にひとなんていない!」

「くそっ! なんだよこの村!」と、となりの雅人も毒づく。

 その横で明音は青い顔をしており、茉莉花ちゃんを問いただしていた。

「ま、茉莉花ちゃん、これはどういうことなの? この村、だれもいない……いるわけないっ!」

「し、知らない……そんな、だって私、しょっちゅう……

 みんなだって、やっちーと、村がないなんて、こんなの……」

 僕は茉莉花ちゃんに聞いた。

「ここが、そのやっちーさんの家なんだよね? でもこの様子は……」

 茉莉花ちゃんは両手で頭を抱えこんで、その場にうずくまり、

「知らない、知らない知らない知らないっ。私なんにも……だって私、」

 雅人もしゃがみこみ、茉莉花ちゃんに目線を合わせて言った。

「ま、茉莉花さん、落ち着いてよ。なにがなんだか分かんないよ」

「嫌だあああぁああぁあぁあああぁッ!」

 突然がばりと立ち上がった茉莉花ちゃんは、そのまま駆け出してしまった。

 明音が呆然としている雅人の背中をばしりとたたき、

「もうッ! まっちょがデリカシーのないこと言うからっ!」

「俺のせいっ? ……今のはそうかもしんないッ!」

「おいかけぅよっ!」

 木之実さんの言葉をきっかけに、僕らはまたしても茉莉花ちゃんを追いかける。


 パニックを起こして駆けだした茉莉花ちゃんの姿は、あっという間に家々のかげに消えた。唯一幸いしたのは、あのヒトガタの姿がどこにも見えなかったこと、声が聞こえなかったことだろう。

「おかしーなぁ、たしかにこっちのほうだと思ったのになぁ……」

 先頭を走っていた木之実さんが立ち止まって辺りを見渡した。さすがは陸上部のエース。辛うじて追いついた僕らとは違い、その呼吸は安定していた。

「け、けっきょく、村はずれまできちゃったわね」

 そう言って明音は、両膝に手をつく。

 夢中で走っているうちに村を 縦断じゅうだんしたらしい。そこは、村でもいちばんさびしい場所だった。

 ぽっこり盛り上がった雑草だらけの草地。

 一定の間隔をもって林立した木々。

 その肩にはやせ細ったカラスが何匹も止まり、

 その根元の土はどれも盛りあがり、船の かいがさしてある。

 墓場だった。

 なにもない、とそのとき僕は思った。

 この場所には、なにもない。

 かなしさも、楽しさも、くるしさも、色も、音も、風も、温もりも冷たさもにおいもなにもない。

 草、花、木、虫、鳥、たくさんの有機物に囲まれたそこは、どんな無機物よりも無表情だった。この場所に長く滞在すれば、それだけで人格を根こそぎ吸いとられてしまうのだろう。

 気づけば、明音がいつの間にか僕の前に立っていた。風にまっ赤な絹糸を流したようなその後ろ髪は、まるでそこだけが彩りを取りもどしたかのようだった。その横顔が言う。

「茉莉花ちゃん、どこにいっちゃったのかしら。遊びに来てたはずの村がないなんて……どう云うこと?」

 その言葉に、雅人が答えた。

「そんなの、分かるわけないじゃないか。だって、分からないことなんていくらだってあるんだ。だからって、あれじゃ茉莉花さんがかわいそうだ!」

 そこで明音は、はじめてみる人間を目にしたような顔をして、

「まっちょ……あんた本当に、」

「なにさ?」

 明音の服のそでを、くいと引く手があった。木之実さんだった。彼女は軽く頭を振って、

「あかね。……いいの」

 その一言で、明音は何かを悟ったようだった。

「ん……そうね。なんでもないのよ、まっちょ」

 分かっていない雅人が、頭上に?マークを浮かべ、およそぽかりとする。

「でも、」

 と僕は一歩を踏みだして、

「これで八方ふさがりだ。助けは呼べない、自力では出られない、化け物はいるのに村人はいない。これじゃあもう、どうしようもない」

「ほかにでぐち、ないの? とんねぅのほかには?」

 僕は木之実さんの言葉に答える形で、木々のむこうを指さした。その先からは、急に地面が消えていた。要するに、ここから先がなのだ。

「見てのとおりだよ。ここは、言うなれば岬のような地形になってるんだ。急な斜面を無理におりようとして足をすべらせれば、あっというまにボロ雑巾になれる」

「ボ、ボロ雑巾はいやだなぁ」と雅人が苦笑いを浮かべる。

「じゃあ!」と明音が叫んだ。

「じゃあ、あたしたちもう帰れないの? ずっとここにいるの? あの化け物に殺されるの、黙って待ってるだけなの?」

「そんなわけにいかないよ。それに、あきらめたってしょうがない。でも、今は有効な策が思い浮かばない。とりあえず茉莉花ちゃんをさがしだして、そのあとこの村で安全な場所をさがして隠れるくらいしか……」

 できることならば、明音の不安を取り除いてあげることを言ってあげたかった。けれど、今の状況ではそれすらもかなわない。

 重い沈黙が流れた。誰も口を開かないどころか、顔もあげられなかった。そんな時間がしばらくつづいて、

「と、とにかく!」

 と勢いよく雅人が立ち上がった。

「ここでこうしててもしかたないんだ! とにかく茉莉花さんをさがそうよ!」

 僕は、その勢いに便乗する形で、

「ああ、分かってるよ。すこし危険だけど、2グループに分かれてさがそう。そうすれば効率は2倍、」

「ゆ、裕樹待ってあれは?」

 そう言って明音が指さした先には、光があった。丸く、ぽっかりとした 薄紅色うすべにいろの光。それが、水の底から気泡が浮かび上がるようにしてぷかりぷかりと湧いてきた。

 そして胸の高さくらいの場所にとどまっては、ぷかぷか浮かびながら、ときおり炎のようにふらりと揺れる。

 ひとつ、ふたつ、みっつよっついつつ、

 見る間にどんどんと増えていった。無彩色だった墓場は突如として薄紅の光に照らされる。一面に舞う蛍火。それはまるで、この世の光景だとは思えないものだった。幻燈げんとうのように 目映まばゆかで、儚い光景だった。

 ゆるる。

 紫炎しえんが明音のまえでひとつたなびいた。

「あったかい……」

 明音はそう言って、近くによってきた光に対し、まるでストーブにあたるように手をかざした。そのまま両手で水を汲むようにやわらかく受けると、光はするりとなめらかに空間に溶けこんだ。僕もおなじようにしてみると、やはり光は手元でとろけた。あとには、かすかなぬくもりだけがのこされた。

 理解はできないけれども、その光はあたたかくて、優しくて、とても怖がる気にはなれなかった。

 そうか、と僕は思った。そうか、これ、木の根元から湧いてるんだ。

 ぽこりとした墓標から湧き上がる薄紅の光。だとしたら、これは、人の残したものなのかもしれない。かたちあったものの、かたちなき名残なのかもしれない。

 ふるふるふる。

 湧き上がった光はそれぞれにゆらめいて、やがて風に流れるようにふわふわとひとつの方向に流れていった。

「あ……行っちゃうの?」

 言葉を発した明音の手元からも光が流れた。ちりん、耳のなかに直接ひびくような軽やかな音がして、光のひとつが縦にふるえ、そのままゆるゆる流れていった。まるで、明音の言葉にうなずき返したかのようだった。

 光はやがて流れきり、温かさだけをのこしてなくなった。僕らは、ぽかりとしてその場に立ち尽くすだけだった。

「な、なにいまの?」

 木之実さんが光の流れた先を見渡し、言葉をもらす。僕は答えた。

「さあ……分かるわけないよ。でも、あれは悪いものじゃなかった。それだけは分かる」

「そうね。なんだか……優しさを感じたもの」と、明音も同意した。

「ひょっとしたら、この中に眠ってた人たちなのかな」

 そう言って、雅人は墓標の前にしゃがみこんだ。

「お、名前が彫ってある」

 ミトベ マンジロウ。

 タキザワ ゴヘイ。

 そのまま、彼は墓標に彫りこまれた名前を読み上げはじめる。

「なんか、古風な名前ばっかりだな。村の慣習だったのかな。それともそれぐらい昔からこの村は……」

 アリヨシ タダミネ。

        キチ。

 ソエダ キイチロウ。

 面白くなってきたのだろうか。雅人が次々名前を読み上げる。

 ヒイラギ マリカ。

「え――――」

 雅人は、自分で読みあげながら、顔面を蒼白にしてこちらを見た。その口がもぐもぐと動いて、言葉を押し出す。

「俺……いま、なんて――」

 僕は雅人のとなりにしゃがみこんで、彼がいましがた読み上げた墓標を確認した。



 ヒイラギ マリカ



 まちがいなかった。

 彼女の名前だ。

 彼女の――墓標だ。


 いちばん端のすみのすみ。ぽつんと生えた小さな若木の根元に打ちこまれた鉄の かいには、たしかに茉莉花ちゃんの名前が刻まれていた。それはまるで、できのわるい冗談のようだった。

「なんだよこれ、どうなってんだよ―――」

 絶望的な顔をして漏らした雅人の言葉に、誰も答えることができなかった。明音も、木之実さんも、口を押さえて立ち尽くすばかりだった。

 雅人はがばりと立ち上がって、

「おかしいよこんなの! 柊茉莉花がここに眠ってるんなら、俺らの前にいたのは誰なのさ! おかしいよ!」

「ま、雅人、落ちついてよ」と僕は言った。

「落ちついてなんかいられるかよッ! こんな!」

「まっちょ! あんたが騒いだって、どうにもならないのよっ?」

「まさとくん……」

 明音と木之実さんの言葉に、雅人はかろうじて平常を取り戻したようで、

「そ……そうか。ゴメン裕樹くん」

 と僕に謝った。僕は答える。

「別にいいよ。それよりこれは……

 ん? なんだコレ。となりになにか――」

「え? 祐樹くん、どうしたのさ」

「あ、な……なんでもないよ。とにかく、このことは茉莉花ちゃんには―――」

「なに、ソレ―――」

 後ろから聞こえた声に、僕らはぎくりと固まった。まさか、なんでどうしてこのタイミングで、

 聞き覚えのある声におそるおそる振り返ると、果たしてそこには、

 茉莉花ちゃんが、立っていた―――




「なに、ソレ―――」

 茉莉花ちゃんは、僕らの足元にあるものを、しっかりと見とめていた。そうなれば、いまさら隠すことなどできるはずもない。

「ち……ちがうんだよ茉莉花さん! これは……」

 雅人が必死に取り繕うが、茉莉花ちゃんは焦点の定まらない瞳でふらふらとちかづき、その墓の前にどつりとひざをついた。

「ヒイラギ、マリカ――これ、私の名前」

「だ、だからちがうんだって! これはつまり……そう、別の人なんだよ! たまたま苗字と名前が、」

「そんな……そんな、柊茉莉花がその土のしたで眠ってるなら、今いる私はだれなの? なにかの冗談なの? 存在しない村でおばあちゃんの世話をしていた私は、何者なの?」

「にんぎょうさぁ」

 黒板を爪先で掻いたような嫌悪感をもよおす音をしきりにたてて、車椅子に乗ったがいこつがやってきた。どうやら、残っていてほしくない人に限って、残っているものらしい。

 それにしても、こんな村はずれの丘の上まで、その車椅子でどうやってやってきたのだろうか。そう僕が思っていると、茉莉花ちゃんが老婆に向けて聞いた。

「人形って……なによ。おばあちゃん、いったいなにを知ってるの?」

「ひ、ひ、おばあちゃん、なぁ」

「そうでしょっ? いつもお世話してあげた、おばあちゃんなんでしょっ?」

「世話、なぁ。なにをだ?」

「え――――」

 老婆の声に、茉莉花ちゃんは固まった。僕は茉莉花ちゃん? と名前を呼ぶが、彼女はこちらに視線を送ることすらなかった。老婆の言葉は続く。

「おんみゃが、アタシに、なにをした? おぼえとるなら、いってみりゃあええ」

「な、なにを言いだすの。私いつも……あれ―――」

「ひ、ひ、ひーひひひ!」

「そんな……ちがうもん。ちょっと忘れちゃってるだけだもん。いつも、いつも……あれ? あれ? なんで――」

「そうさぁあ。おぼえとりゃあせんのだろおぉ……そんがぁ記憶は、うえつけとりゃせんからなあ……」

「う、植え――」

「こんがぁ村におるうちはな。記憶なんかぽんっ、ぽん飛んでくんさ。なら、ぎゃくもあらぁな。ありもせん記憶をうえつけるなんて、造作もないんさ……谷内口も、荒巻も、ひ……ひひっひっひひひ!」

「そんな……私の記憶が植えつけられたなんて、そんなの、」

「なあらついでに思いだしてみりゃあええ。父親のなまえ。かよってた学校。生まれた日付。ほら、なぁ? 思いだせんのだろおお?」

「そ、な、ああ、ああぁあああ……」

「ま、茉莉花ちゃん……」

 意味のある単語すらまともに口にできなくなった茉莉花ちゃんを、明音がうしろから抱きとめた。茉莉花ちゃんの瞳は、僕のことも、明音のことも、老婆のことすらも見ていなかった。ただただ、ときおり口をぱくぱくしては、意味のない呟きを天に吐きだし、うつろな涙だけが、麦わら帽子にのぞいた黒髪に吸いこまれていた。老婆は、その姿を見ては鍋が煮えるようにぐつぐつと わらうばかりだった。

 僕は、一歩を踏みだした。

「……教えてよ」

 老婆が、ああ? と答える。

「この村は……いったいなんなの? どうして自殺者が集まる? 吊るされてた人たちは? 『ぬしさま』っていったいなに? 本当はいつ、この村は滅びた?」

 老婆は くぼみきった 眼窩がんかの底から、めつけるような視線を僕に投げかけると、またぐつぐつと嗤った。その暗闇に支配されたような、いびつな視線に、僕は吐き気をおぼえた。

「こん村、こん村ぁな。むかしぃっから人を喰うっちゅわれとったんさ。村人が喰うんじゃね。村そのものが、人を喰らうんさ」

「村が、人を?」

「そうさぁ。人魂ひとだまはふたごトンネルの上からやってきて、下へとぬけよる。そん先は、奈落につながっとるっちゅうはなしさな。むかしは単なるあなぐらだったけんど、工事してトンネルにつくりかえたくりゃあでこの連鎖はとまんね。古墳こふんにねむっとる王さんたちが生きとるころからの連鎖だぎゃぁ、ひ、ひ、むだ骨っちゅうわけさな」

 老婆の言葉に、雅人が叫ぶ。

「じゃ、じゃあ、俺がネットで見た、この土地にむかしから墓地が集まるって云うのも、ようするにそういうことっ?」

「ひ、そうさぁ。奈落にちかけんりゃ、死んだあとにさまようこともね。生霊いきりょうや自縛霊にならんですむ――そう考えたんさぁ」

 明音も言いかえす。

「な、なによ 人魂ひとだまだか、おしるこだか、ぜんざいだか! そんなの、プラズマのほうがまだ信じられるわよ!」

「ひ。ひひひひ。おんみゃあ、さっきそのめでみたんが。桃色のひかりだまがふんわふんわうかんどったが。あんれが、人魂さぁな」

「あ、あれが人魂? うそでしょ?」

 明音は言葉を失う。

 やっぱり、と僕は思った。

 やっぱりさっきの、あの温かい光が、人が死んだあとに残ったものだった――?

 僕は、そのぬくもりを、その 目映まばゆかな光を、その優しさを、思い返していた。光たちは最後におなじ方向に流れていった。あれはつまり―――

 僕の思考をよそに、老婆の言葉は続く。

「山で死んだぁすべてん 御魂みたまが村ん集まってきょうる。つまり、こん村ぁ黄泉よみの門そのものっちゅうことさ。死のにおいがぷんぷんしとるやつらぁ、みぃんなすいよせられちまう。

 門はにしか開かね。いちどこん村にあしをふみいれたなんら、でるには人魂んなって奈落のそこにいくことだけなんさ」

 老婆のしわがれ声ががらがらと流れる。明音と雅人が一歩をふみだして、老婆に噛み付く。

「そ、そんな……そんなの冗談じゃないわよ!」

「そ、そうだよ! 人魂ひとだまになるのはまだしも、奈落だなんて!」

「ばかまっちょ! 人魂だってたまったもんじゃないわよ!」

「そ、そうか」

「でもっ、わたしたち死ぬ気なんかぜんぜんないっ! なのにどーして?」

 今度は木之実さんが噛みつくように言った。老婆はその言葉に雲がかってきた中空に視線をさまよわせて、

「そうさ……こなんこたぁはじめてだがな。おみゃあら、どうやってはいってきた?」

「ど、どうせあたしのせいですよ! 世界初だってやってやるわよ」

 明音の言うことは相変わらずよくわからないが、とにかくそれなりに責任を感じているようだった。

「でも、」 と僕は口をはさんだ。

「仮に今の話がほんとうだとして、それでどうして化け物が? それに、あの吊るされた人たちは、明らかに人の手によるものじゃないか!」

 また笑いだすだろうか。そう覚悟していたが、ばあさんはしばらくかたまったあとゆっくりと天を仰いだ。

「ばけもん……ぬしさまんことか。あれぁな、ひとの血肉をもとめる。けれんど、むかしみたんに村人をささぐわけにゃいかねえんさ。この村におりゃあ、死にたいやつなんかいくらでんも、ひょっこらひょっこらようてくる。しかたなんさ」

「だ、だから……自殺しようとしたひとたちをああやって? むごいことを!」

「ふん……おんみゃになにがわかるさ。それに、おんみゃだって喰ろうたんだろう?」

「喰らった? なにをさ」

「ひ、ひ、ひ。うんまかったかあぁ……めいぶつのまんじゅうは」

「―――!」

 僕らは顔を見合わせた。


 まんじゅう。

 やけに大きな、中にどろどろの あん挽肉ひきにくがぎっちりつまったまんじゅう。

 温泉まんじゅうと肉まんの中間の、きれいな肌色をした――

 老婆は追い討ちをかけるように、

「『まんじゅう』ちゅうんわな、人のんかわりなんさ。もともとは首を切りおとして墓前にささげるはずだったんを、それじゃあんまりだってぇんでかわりにささげるようになったんさ。

 なあ? だから、『』なんて字をあてるんが」

 のどの奥がぐるぐると渦巻く。胃がイヤイヤをし、でんぐり返しをしそうになる。こみあげてきたものをなんとか飲み込んで、僕は、絞り出すように言った。

「ま……まさか、僕らが食べたあのまんじゅうの中身は――」

「そう。最後にはみんなでいただくんさ。そすりゃあ、そいつの知識もてにはいる」

 うおえええぇええええ

 とうとう雅人が、うしろで胃の中身を地面にばら撒きだした。明音も、死人のような顔色をしていた。老婆はふい、とそっぽをむき、

「ふん、じょうだんさ。心配せんでも、あらぁこのへんで捕まんたイノシシのにくだぁがな」

「な、なんだよ。びっくりした」

 そう言って雅人が胸をなでおろし、

 明音が馬鹿にしてッ、と 激昂げきこうし、

「うおろぅううん――」

 みなが、いっせいに息をのんだ。

 予兆もなくあらわれたその声は、ごくごく近く、老婆のすぐ背後からした。

 飛びだした眼球と、血膿ちうみにそまったボロ布と、残酷な 凶刃きょうじんを持ったヒトガタの化け物は、わずか数メートル先の岩の上にいた。声を耳にした老婆はゆっくりと首だけを後ろにふりむけ、

「理性もなんもうしなって、のぼってきょうったんか……おんみゃが傷つけるからさな」

 ゆっくりこちらに首をもどした老婆の視線を受けて、僕はぎくりとした。落ちきった 眼窩がんかのそこにある瞳は、静かな怒りを宿らせて 爛々らんらんと光っていたのだ。

 そしてその老婆のとなりにヒトガタがならんだ。がいこつ老婆と化け物のタッグ。こんなに 禍々まがまがしい組み合わせは他にない。

 老婆の瞳がまたちかりと光って、

「おみゃあら全員、地下にひきずりこんで、いきたまま生皮ぁ剥いでやるんさ。はもちろん、ぬしさまに喰わせたるんさ」

 僕は、みんなをかばうようにして両手を広げた。

「明音、茉莉花ちゃんを」

「な、なに言ってんのよ! できるわけないでしょう? だいたいばーさん! そんな車椅子でなにができるっていうのよ! それに、その化け物、ぬしさまだかなんだかしらないけど、なんだってそんなものをかばうのよ! あんたも喰われなさいよ、理不尽よ!」

「――――」

 老婆は明音の言葉に黙りこみ、沈黙が流れた。なまあたたかい風がひとつ流れたと思ったら、魚の死骸をたっぷり浮かべた水池のような、生臭い香りをはこんできた。そのままびょうびょうと、木々をまきこんで風は流れ続けていた。

 カラスがぎゃあぎゃあとやかましく鳴き叫ぶ。

 化け物にも、老婆にも、動く気配はなかった。それどころか、さっきまでの殺意がみるみるしぼんでいくように感じた。

 襲いかかってはこないのだろうか。

 そう思って僕が気をぬいた頃になって、老婆はゆっくりと口をひらいた。

「孫、なんさ―――」

 つぶやきは、風にまかれてたちまち霧散してしまうような弱々しいものだった。

「孫?」と僕は聞いた。

 この老婆が孫と言うのだから、それはてっきり茉莉花ちゃんのことだと思った。だからこそ、その意味が浸透するまでには、ひどく長い時間を要した。

 僕が茉莉花ちゃんのほうをふり返ったときには、彼女は涙にぬれた瞳をきょとんとさせていた。僕は老婆に向き直り、

「孫っていうのはつまり、」

「そ、その化け物が孫だっていうの? その化け物が、人間だったっていうの? だって、ぬしさまって……」

 明音の言葉に、老婆は遠い視線をするりと空に投げる。

「そうさぁ。こなんすがたんなるまえは……そりゃあそりゃあ、めめこいむすめだったんが。それが……」

 老婆はひどく傷ついた表情をして、顔をそむけた。となりにぬらりと立っていた化け物は、変わらず重い金属をすり合わせたような うなりを、のどの奥で鳴らしていた。

 となりにさくりとした足音がしたと思ったら、両手を胸の前で合わせた木之美さんが立っていた。

「あの、ひょっとしてぬしさまの名前って……」

 老婆は答える。

「そうさ。ヒイラギマリカ……」

 雅人が、どつりとその場にひざをつく。

「そんな、あれが、ヒイラギマリカ……」

「え?」

 声をあげたのは、茉莉花ちゃんだった。

 瞳に光をとりもどした彼女は、這うようにして僕らのほうへやってきた。

「その子……本物のヒイラギマリカなの? じゃあどうして私にその名前を」

「ふん、おんみゃがしることじゃねぇんさ。人形は、たんだ役をはたしゃあええんが」

「役? 私に役目があるの?」

 老婆はふん、と鼻をならすだけで答えなかった。

 そしてとなりのヒトガタは、ねっとりとした視線を僕らに投げかけるだけで、ぴたりともしなかった。そのすがたはまるで、僕らに声なき言葉を届けようとするかのようだった。その視線を一心に受け止めたまま茉莉花ちゃんは、ゆっくりと立ち上がる。

 そうか。ヒトガタの視線は僕らにむけられていたんじゃない。

 茉莉花ちゃんに、ずっと注がれていたのだ――


 立ち上がった茉莉花ちゃんは、ヒトガタの化物を、まっすぐに見つめる。そのままぽつりと、

「……哀しいひとみをしてるんだね。なんで、そんな姿に―――」

「なんでだとぉ?」

 地獄の底から声がした。雅人が、明音が、木之美さんが、一斉に息をのんだ。言葉を発した老婆のその表情をみた瞬間、ぞぐ、と全身を悪寒が走りまわった。

 憤怒ふんぬ形相ぎょうそう

 顔をあげた老婆の顔は、ぐらぐらと煮えたぎる溶岩のようだった。そしてふたたび、地獄の底から響くような低い、低い声がした。

「すべては、すべてはお前のせいだ。お前のせいでマリカが……だというのに、きさまぁ……」

「そ、そんなっ! 私なにをしたの? なにもしてない! なにもしてないよっ!」

「ひぃ、ひぃ、ええんさ……きさまぁもうすぐ人形んなる。そのからだをなえしろにして、マリカはふたたび還ってくるんさ。そのためん、きょうまでお前を……」

 その言葉に雅人はあわてふためき、

「な、そ、そんなことさせるもんかっ! 茉莉花さん、逃げてよあとは俺たちがっ!」

「ひ、ひ。おみゃんらもにがさあん……この老体にはちとつらいが、まとめて地下牢に引きずりこんでやるんさね」

「ふん、そんな車椅子で! やれるもんならやってみなさいってのよ!」

 明音が勢いこんで一歩を踏みだし、

 それを僕がいさめようとし、

 木之美さんがめったにみられない真面目な表情で僕らのうしろに付き、

 雅人がへっぴりごしで茉莉花ちゃんを逃がそうとし、

 そのときだった。

 くううるおうぅううん

「な、なに?」

 明音がその異様な声に、辺りを見渡す。

 くうるああぁああああん

 突如として動き出したヒトガタは、天を仰いで中空の下に雄たけびをあげだした。

 その声は地の底からひびいていたようなものとも、金属をすり合わせたようなものともちがい、ひどく哀しい響きを帯びていた。

 ヒトガタの雄たけびがなんどもなんども木霊し、僕らをつつみこむ。

「泣いてぅの……?」

 その光景を目にし、木之実さんがつぶやく。となりでは雅人が、

「あのばけものが……ああっ! 茉莉花さん!」

 茉莉花ちゃんは突然つれて逃げようとしていた雅人の腕をふりほどき、こともあろうに、あの化け物にむかって走りだした。僕は叫んだ。

「ま、茉莉花ちゃんだめだ! それはヒトじゃない、化け物だ!」

「ひ、ひ、ひいッ!」

 となりで奇声をあげた老婆がなにかを斧でたたき切ろうとするのが見え、僕があわててふり返ろうとし、

 その矢先だった。茉莉花ちゃんの叫び声があたりに響く。

「お姉ちゃんっ!」

 おねえちゃん?


 茉莉花ちゃんの叫びに驚いた僕らは、その瞬間、浮遊感につつまれた。

 あ、と思ったときにはすでに足元の地面が根こそぎなくなっており、とこしえのような暗闇だけが広がっていた。明音の、雅人の、木之実さんの叫び声が聞こえる。僕らは状況を把握するまもなく、足元の闇に吸い込まれた――

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