第2話

オレンジの光があちこちで、はらはらと揺らめいていた。行灯あんどんのあかりだった。

 最悪は廃村であってもやむなし、と思っていたが、家々の軒先に揺れる明かりを見るかぎり、それなりの数の人間があつまって暮らす村のようだった。

 電気は通っていないのだろうか。

 土壁の上にかぶせられたゆがんだ瓦屋根。

 手習てならい塾の木造校舎を一部切りだしたような古びた倉庫。

 江戸時代から抜けだしてきたような 十間長屋じっけんながやなどまだいいほうで、

 中には本当に茅葺き屋根をカブト造りにして、かぶせている家まであった。

 そのほかにはとりたてて何もなかったし、その家屋だって、見渡す限りで終わってしまっていた。少なくとも、映画かドラマのロケ以外の目的で訪ねるのは難しそうな村だった。

「よかった。人がいるのね。さっきの車、きっとここの人たちの車だったのよ」

 僕は、明音の言葉を聞いて思わず身震いをした。

 冗談じゃない。だとしたら、この村を歩きまわっているのは、みんな死者だということになる。もしも出会った人間の目が黄土色に にごっていたら、僕はもう正気でいられない。

 明音は言葉を続ける。

「とりあえず電話ね。車で迎えにきてもらうのよ。貸してもらえるかしら?」

 雅人が答える。

「ひょっとしたら、村で車を持ってる人にふもとまで送ってもらうよう、頼んだほうがはやいんじゃないかなあ。こんな山奥だし、きっとみんな車はもってると思うんだ。ねえ裕樹くん」

「…………」

「裕樹、なに暗い顔してるのよ? せっかく村についたのよ?」

 僕は、明音の言葉でふと我に返った。

「ん? ああ……そうだね。電話を借りないとね」

 とにかく、と僕は思った。

 とにかく、電話を借りればこの村からは出られるんだ。今は、一刻もはやくこの村を出るのが先決かもしれない。そう思って外を歩いている村人に声をかけようとして、

「こんばんはっ!」

「え?」

 少女だった。こんな辺ぴな村におよそ似つかわしくない女の子。今どきめずらしい麦わら帽子の下にはちょこんとうしろでふたつ結ばれた黒髪がぴこぴこ弾み、その顔のまんなかでは、活発そうな瞳がくりくりとしていた。

 歳は僕らとおなじか、少し下ぐらいだろうか。ホワイトのキャミソールにデニムのショートパンツ、ハイカットのスニーカー。今すぐに山登りでも川遊びでもできます。そんな感じの格好だった。

 少女は自分を見つめる目線に気づき、

「ん? あれ、どうかしました?」

 僕は慌てて、

「あ、あ、いや……」

 少女はきょとりと首をかしげる。生まれながらにして、かわいらしいしぐさを持った子なのかもしれない。老人に好かれるタイプだ。そのまま少女はくすりと笑いだした。

「よその人がくるなんてめずらしいな。みなさんは? 旅行かな?

 あれ、でもどうやってきたのかなぁ……」

 女の子はぴょこりぴょこりと跳ねるようにして尋ねた。

 それに対して僕は、

「い、いや……ちょっと道に迷ったんだ。まちがえてこの山に来たんだけど、帰りのバスがなくなっちゃって……」

「ああ」

 少女はくるりとうしろをふり返って、そっかそっか。とつぶやいた。よく動く女の子だなぁ、と僕は思った。もういちどくるり、となって、

「ひどいですよね、あそこのバス。ホントは廃線になるはずだったんだけど、運転手だったおじいさんがバス会社に無理言って、走らせてもらってるの。だから、ほとんど道楽なんです」

「そ、そうなんだ」

 運転手もバスもとっくに定年を迎えていたのだろう。だとすれば、あのじじむさいため息も、サスペンションが岩になったかと思わせるようなお尻の痛くなるような揺れも、納得できた。

「君は?」と僕は言った。

「私ですか?」

 また首をきょとんとさせて、少女が答えた。僕は続ける。

「ひょっとして、この村に住んでるとか?」

「あ、ううん。さすがにこの村にはちょっと住めないかなあ……おばあちゃんの家に遊びにきてるんです。 えっと、ひいおばあちゃん。88歳。お世話にきてるっていったほうが正しいのかな。だからしょっちゅうなの。おばあちゃん、腰が痛くなるたびに私を呼び出すんだもん。しかも頑固だから、この村から動きたくないんだって」

「ああ」と僕は言った。

 たしかに、過疎化どころか限界集落に達していそうなこの村に、こんな少女が暮らしているとはとても考えられない。僕は少女に言った。

「あの、それで悪いんだけど、」

「ん? なんですか?」

「電話を借りられるかな? ふもとのペンションに予約をしてるんだ。事情を話したら、車で迎えに来てくれるかもしれないし」

「あ、電話ですか? どうだろ、院長センセのとこにはあったかなぁ……あ、この人、村で唯一のお医者さんね。この村、電気使う習慣ってほとんどないんですよ。馬鹿みたいでしょ? 冷蔵庫だって使うの私くらいで、わざわざ村の倉庫まで出し入れしに行かなきゃいけないんだもん。

 あ、ケータイとか村のお年寄りに見せないほうがいいですよ。みんなびっくりして、心臓とまっちゃうかも」

 言って、少女はくすくすと笑った。僕もつられて少し笑ったが、あまりのんきにしているわけにもいかず、

「でもごめん、今晩寝るところも食べるものもないんだ。だから、」

 少女は大きな瞳をさらに大きくさせて、

「なんだ、だったらおばあちゃんのうちに泊まっていけばいいですよ。朝になったらバスもでるし、ダイジョブです。ちゃんとごはんくらい作るよ? おばあちゃんの食べるのなんて、干物とかお漬物ばっかりでちょっとうんざりなの。材料、買いだめするからいっぱいあるし」

「え、でも……いいの? 悪いよ」

 雅人が、慌てた様子で口をはさむ。

「え、え、裕樹くん、せっかくだからここはお言葉に甘えようよ。またとないチャ……じゃなくって、人の行為を無駄にしちゃいけないって、死んだばーちゃんが」

 少女はにっこり笑って、

「うんうん。おばーちゃんのゆうことは大事だよぉ? おいでおいでっ!」

 言って、少女はぴうー、と駆けて行った。今どきめずらしい麦わら帽子の少女は、今どきめずらしく、物怖じも人見知りもしない子だった。老人だらけの村に出入りして育った恩恵だろうか。僕はそう思った。

「ほ、ほら裕樹くん行こうよ。あの子、行っちゃうよっ?」

 雅人は、小躍りするようにして少女のあとを追いかけていった。その背中を見送って、僕は明音と顔を見合わせる。

「……これは」

「惚れたわね……」


 少女は、ヒイラギマリカと名乗った。

 姓がヒイラギ、名がマリカ。漢字にしてならべると柊茉莉花となり、どこで区切るのか、どう読むのか、さっぱり分からないのだと言う。

「だいたいね、苗字が悪いのよ。ヒイラギなんて、苗字だか名前だか分かんないもの。

 そう思わない、裕樹くん?」

 茉莉花まりかちゃんが大きく身を乗りだして、僕の鼻先にゆびを突きつけた。僕は、はぁ。としか答えることができなかった。

「それに、苗字が『木』だから名前が『花』だなんてセンスないわ。『ツバキ』ひいばあちゃんも、『キク』おばあちゃんも、『小百合』母さんも短絡的なんだからっ。もし私に子供ができて花の名前を強要されたら、『どくだみ』にしてやるって脅してやるんだわっ。ぷんぷん」

 そんなことを言いながら茉莉花ちゃんは僕らの前を、後ろむきになってさくさく歩く。

 彼女が案内してくれた『ひいばあちゃんの家』とやらは、村でもいちばん大きな建物だった。母屋おもやのほかにもさまざまな建物が敷地内には立ち並び、茉莉花ちゃんは母屋に入るより先にそちらを案内してくれたのだった。

「はいっ、こちらが女中部屋ですよー」

 茉莉花ちゃんの指がくるくるなって、ひとつの建物を指差した。

「女中部屋?」と僕は尋ねる。

「すごいでしょ。柊家はけっこうちゃんとした家柄だったから、昔は住み込みの使用人さんがいたんだって。窓どころか畳どころか板間すらないから、今は使ってないけどね」

「じゃあ、茉莉花ちゃん、こっちのは?」

 そう言って明音が指差したのは、壁のかわりに柵でまわりを囲ったような小屋だった。

「それは『うまや』。お馬さんのおうち」

「へぇ」と明音が答える。

「ぱけらっぱ」

「うん?」と僕が聞き返した。

「今はいなくなっちゃってるけどね、お馬さん」

 今のは馬のひづめの音のつもりなんだろうか。不思議な子だった。

「じゃあ茉莉花さんっ、これ、これは?」

 雅人が心底浮かれた様子で指差したのは、離れにある1畳ほどの小屋だった。

 茉莉花ちゃんは答える。

「お便所」

「ぐぁ……」

 雅人は、やっちまった、と云う声を上げた。

 茉莉花ちゃんは追い打ちをかけるように、

「いく?」

「い、いや……」

 しょんぼりしながら下がった雅人に、なんとなく分かるでしょがバカ、と明音が声をかけていた。茉莉花ちゃんはそれを見てくすくすと可愛らしげに笑う。そのうしろにもうひとつ建物を見とめて、僕は聞いてみた。

「じゃあ茉莉花ちゃん、後ろのあの倉みたいのは?」

 僕らのほうをむいていた茉莉花ちゃんはくるん、と華麗にふり返り、

「ああ、あれは倉ですねー」

「そのまんまだね」

 もう一度くるん、となって、

「土蔵、のほうがかっこいいかな? あれね、開かずの倉なの」

「鍵でもなくしちゃったの?」

「うーん、たぶんおばあちゃんが持ってるんだけどね、はいっちゃダメだって頑固なの。石頭なの」

「うん?」

 僕は、首をかしげた。

「それって、べつに『開かず』じゃないよね」

 茉莉花ちゃんはにかりとした笑顔を浮かべて、

「ロマンが命」

 よく分からなかった。


 屋敷の外を一周し終えた僕らは、ようやく 母屋おもやに案内されることとなった。

 とちゅう茉莉花ちゃんは、母屋に続く踏み石をぴょんぴょん跳び越えながら僕らの前をゆき、玄関に到着するなり一回転、

「はいっ、ここがおばあちゃんのおうちですよー」

 極端に古めかしい建物だった。唯一の明かりといえば、鉄皿の上で燃える油くらいのもの。その油がはき出す煙のせいか、建物の内部はすすで汚れはて、かいだこともない匂いがわんわんと漂っていた。こんな建物が平成の世に現役で活躍していることを、不思議に思わずにはいられない。

「あれ」

 その場にそぐわないものを目にして、僕は声をあげた。よく磨かれた 桐箪笥きりだんすの上に、ぽつんと現代科学の産物が乗っかっていた。電化製品らしい冷ややかな銀色。たまごを横にしたようなデザインのそれは、

「ラジカセ?」

 茉莉花ちゃんが気づいて答える。

「あ、それ私の。だって、テレビもなくって暇なんだもん。わざわざ持ってきちゃった」

「あれ、でも」

 この家に電化製品がまったくないというのはつまり、

「あ、ううん。それ電池で動くヤツ。だから電池が切れたらおしまい。もー、なんども家に電線引こうっていってるのに、おばあちゃんそんなの必要ないの一点張りなんだもん。電化製品なんて50年も前から普及してるのに、ホント頭固いんだからっ」

 僕は、つややかなラジカセの表面をちゅるりとなでてみた。

 そう云うものなんだろうか。

 祖父はとうに亡くなったし、祖母にだってほとんど会ったこともない。老人の気持ちを知るには、判断材料が欠けすぎている。

 そのまま僕は、ラジカセを 箪笥たんすのうえにもどした。


 しばらくして、僕らは茉莉花ちゃんが『だいどこ』と紹介してくれた場所で、料理の準備をしていた。明音は茉莉花ちゃんに渡された、『まん丸ぐーまる』がプリントされたエプロンを制服の上に巻きつけながら言った。

「それにしても、茉莉花ちゃんのその麦わら帽子可愛いわね。どこで売ってるの?」

 茉莉花ちゃんは答える。

「あ、これ? やだな、これホントは野良仕事用なんだよ? 谷内口やちぐちさんが手先が器用で、あ、この人おとなりさんね。で、そのやっちーさんが村のみんなの、作ってくれるの。えへ、あたしのだけは季節のお花がついてるの。だから季節ごとに新しいのくれるんだけど、もらうたびに結婚してくれーっ、てせまられるのは、正直こまるかな。やっちー、もうすぐ還暦だし」

 十代の女の子に手編みの麦わら帽子を差しだし、結婚をせまる還暦間近の男。なかなかシュールな光景だ。

「ふーん、手作りの帽子なんてなんかいいわね。頼んだらあたしのも作ってくれるかしら?」

「やっちー、女の子好きだから明音ちゃんならイチコロだよ。明音ちゃん髪の毛すっごくきれいだし、帽子似あいそうだし、やっちーも張り切っちゃうと思う。あ、でも気をつけてね。下手したらあの人、ふもとの町までついていくかも。

 こないだなんか私、麦わら帽子にウェディングベールまでつけられちゃったの。さすがに受けとれないからそれ、おばあちゃんにあげちゃった。ほらおばあちゃん、虫除けつきだよって言ったら、すごく気に入っちゃって。だからおばあちゃんそれ、今でも愛用してるみたいなの。やっちーは泣いてた」

 茉莉花ちゃんはニコニコしながら答えた。それを見て明音は、苦笑いを浮かべる。

「け、けっこうエグいことするのね……」

 それにしても、よくしゃべる子だ。

 そしてその中には、人を不快にさせる成分がまったく入っていない。人徳のなせる わざだろうか。

 気づけば、茉莉花ちゃんは話の中心になっていた。少なくとも、初対面の僕らがこんな辺ぴな村で落ち着いていられるのは、ひとえに彼女のおかげだった。

 そんな中で雅人はと云うと、さっきからもふー、もふーと、かまどにむかってラップの芯を使って息を吹き付けっぱなしだった。その突き出した尻に、明音がエールを送る。

「がんばんなさいまっちょー! 茉莉花ちゃんのためよー!」

「も、もうだめだぁー」

 雅人が尻を突き出したまま、目を回してどさりと倒れると、明音は「死んだわ」とつぶやいた。

「だ、だいじょうぶ? 雅人くんっ。あんまり吹きすぎると頭クラクラしちゃうんだよっ?」

 茉莉花ちゃんは慌てて雅人の下に駆けつけた。涙がでるほどいい子だ、と僕は思った。こんな子がうちのクラスにいてくれたら、僕の学校生活はもっとおだやかで、学生らしいつつましさを備えたものになるのかもしれない。

「もっとこう頭を低くしてね、先を火種にむけて……」

 しかも茉莉花ちゃんは、雅人に対してやさしく解説までしていた。

 それにしても、電気とガスがあたりまえのようにそこにあり、全自動家電製品が食卓を侵食し尽くした昨今、まさか同年代の女の子が、かまどの起こし方を伝授している光景を目にするとは思わなかった。

 茉莉花ちゃんは雅人に花が咲いたような笑顔を向けて、

「どうかな? うまくできそう?」

「う、うんっ。俺なんだか、かまど職人になれそうな気がしてきたよっ! 裕樹くん、今日から俺のことをカマドニアンとか呼ぶがいいっ!」

「えっと、カマドウマの仲間かな?」と僕は言った。

 茉莉花ちゃんはニコニコして、

「じゃあカマドニアン、そこが終わったら次はお風呂をお願いねっ」

「職人の道はきびしいなぁ……」

 そう言って雅人はしくしく泣いた。


 そうこうしているうちにも夕食の仕度がすんでいた。

 だいこんの煮付け、

 絹ごし豆腐の冷やっこ、

 ゼンマイのおひたし、

 あゆの塩焼き、

 あさりとみつばのお吸い物、

 ふっくらとした白米、

 デミグラスハンバーグ。


 デミグラスハンバーグ?

「あ、あは……私こう云うのついつい買ってきちゃうの。レトルトだけどね。だってお魚ばっかりでイヤになっちゃうもん。でも、みんなは食べるでしょ?」

 茉莉花ちゃんはあわててつくろった。そりゃあ、毎日精進料理に毛が生えたような食事をしていたら、誰だって気が滅入るだろう。

「あ、それと、みかんっ!」

「みかん?」と僕は聞いた。

 食卓にはみかんらしきものは見当たらなかった。冷蔵庫の中だろうか? いや、そもそも家に冷蔵庫がみあたらない。

「ちがうちがう、そこだよっ」

「うん?」

 茉莉花ちゃんが両手をひろげて示したのは縁の下の中庭だった。明音が物珍しそうにやってきて言う。

「これ? これがみかんなの? このみどりの、全部?」

 茉莉花ちゃんはまたにこりと笑って、

「そうだよっ。ハウス物にくらべるとちょっと酸っぱいけど、すきなだけ食べていいからね!」

 そこには、ライムみたいにあざやかな緑色をしたみかんが、ぼこぼこぼこぼことたわわに実っていた。一本の木に、これだけ多くのみかんがなるものなんだろうか。僕は、不思議に思った。

 だが調子にのった枝は、あまりのみかんの重さに息も絶え絶えのようで、すっかり地面に垂れ下がっていた。ひいぃ~、と云う枝の叫びが、今にも聞こえてきそうだった。

 僕がそこに置いてあった小さな 草履ぞうりをひっかけて縁のしたに降りると、明音がくっついてきた。

「へえ、あたし果物が木になってるところなんてはじめて見たわ。これ、そのまま食べられるの?」

「明音、都会人まるだしの発言だね。まあ、僕もあまり人のことはいえないけど」

 僕らを眺めてにこにことしていた茉莉花ちゃんは、かかとを使ってくるりと華麗なターンをひとつ決めると、

「いっけない、おばあちゃん呼んでこなきゃ! 私、ちょっと行ってくるね。みんなはくつろいでてっ」

「あ、うんありがとう」と僕は答えた。・

 そして茉莉花ちゃんは部屋から出ていく。あたりには僕らだけが取り残され、じじ、と油が燃える音がひとつ聞こえた。

「でも、よかったわね、裕樹」と明音は言った。

「一時はどうなることかと思ったけど、これならなにも心配することはなさそうだわ。村の人も、ひょっとしたらいい人ばかりじゃないかしら」

「……どうだろう。あんまり安心しないほうがいいのかもしれない」

「どうしたのよ?」

 後ろから雅人もやってきて、

「なんだぁ裕樹くん、心配性だなぁ。あんなかわいい子が暮らしてる村に、危険なんかあるはずないじゃないか!」

 その理屈もさっぱり分からない。

 だがふたりがどんなにくつろいでいても僕は、胸にわだかまる暗雲のようなものを、拭い去ることができなかった。


 きりきり、きりきり、廊下の奥から怪しげな音が聞こえる。それがだんだん大きくなる。

 おまたせ~、と茉莉花ちゃんの明るい声がして、

「うわああああああぁあああっ!」

 僕が大騒ぎしたのも無理はない。

 驚くべきことに、部屋にがいこつがやってきたのだ。しかもそのがいこつはまるで生きているかのようにカタカタと震えひ、ひ、ひ、と笑いだした。

 茉莉花ちゃんは苦笑いを浮かべて、

「そ、そんなにびっくりしないでよ。おばあちゃんだよ」

「あ、ああなんだ。びっくりした……」

 しかし、がいこつと見まがうのも無理はない、と僕は思った。

 窪みきった 眼窩がんか。こけ落ちた頬。まっ白にそまりあがった髪の毛もまばらにしか生えていなく、まるで、頭蓋骨に必要最低限のものだけを乗っけてみました、という感じだった。

「ひ、ひ、ひ」

 車椅子に乗ったその老婆が、しわだらけの口元をさらにくしゃくしゃにして怪しげに笑う。

「あ、あのね、こちらツバキひいばあちゃん。88歳」

 と、茉莉花ちゃんが慌てて紹介をした。

 僕は思う。

 88歳? うそだ。1000年、2000年を生きていてもまったく不思議じゃない。ちょっと目をはなした隙に、いまにも白骨化しそうだ。

「あ、あ、こんばんは! いいお天気ですねっ! お洗濯日和ですよねっ!」

 すすだらけの木屋根に囲まれた中で、明音がわけの分からないことを言った。茉莉花ちゃんは車いすの老婆に向かって、口をとがらせる。

「ほらおばあちゃん、ご挨拶しないからみんな困ってるじゃないっ」

「ひ、ひ、よう……ようきなぁさったな。こんがぁ、なぁんもねえむらですが、ひ、まちにゃねえもんがいっぴゃあだがな」

 茉莉花ちゃんはにこりと笑って、

「そうそう! いっぴゃあですよっ!」

「は、はあ」と僕は答えた。

「ほれ、ほれ……まんじゅうくいなせ」

「あ、ありがとう」

 なんだかわけのわからぬまに、僕は老婆から人数分のまんじゅうを受け取っていた。しかもまんじゅうは、目をむくほどにでかかった。かの有名な横浜中華街の豚まんなんか目じゃない。枕にして眠れそうだ。そんな巨大まんじゅうを4つ胸に抱えていると、おもむろにくっつきだして消えるんじゃないかと心配した。

 そのままキコキコと、老婆は去って行った。

「いっぴゃあ?」

 と明音がたずね、

「いっぴゃあ」

 と雅人が答えた。


 珍妙な食事風景だった。制服を着た高校生の男女グループと、それとおなじくらいの年の少女と、老婆。

 この光景だけを見て状況を推測しろと言われたら、人はなんと答えるだろう。僕は、今朝『むかいの荒巻さん』が釣ってきたばかりだという、アユの塩焼きを食べながら、そんなことを考えていた。

 茉莉花ちゃんは久しぶりに若者に囲まれていることがうれしいのか、先ほどからすっかりはしゃいでいた。

「でねでね、まっきーは釣りが上手なの! だから、この村の魚は大概、まっきーのお手柄なんだよ」

 がいこつは、もとい、『ツバキばあちゃん』は昔の人間らしく、黙々と食事をしていた。 茉莉花ちゃんはそんなことお構いなし、と云わんばかりだったが、それについて咎めるつもりはなさそうだった。それよりも老婆が口にしている魚が、はたして本当に『おもに血となり肉となる』のか、そっちの方が気になった。

 明音が、机上の鮎の塩焼きに箸を伸ばす。

「本場のイタリアンはすてがたいけど、こういう食事も悪くないわね。おいしいわ、茉莉花ちゃん」

 茉莉花ちゃんはにっこり笑って、

「みんなが採ってきた材料を、みんなで調理して、みんなでいただくの。そういうのって、ほかじゃ味わえないんじゃないかな。だからちょっとめんどくさいけど、私は好きだな」

 雅人は茉莉花ちゃんの言葉に、ずずいと身を乗り出して、

「うんうん! 俺このごはんが毎日食べられるなら、この村に住んでもいいかなっ!」

「あ、あはは……それはさすがにやめといたほうがいいかな。おどろくほど不便だから、ここ」

 そう言って苦笑いを浮かべた茉莉花ちゃんは、席を立つとかまどにむかい、せいろを手にしてもどってきた。

「あ、ほら、おまんじゅう蒸しなおしたのっ。このあたりの名物なんだよ。よかったら食べて食べて!」

 湯気を上げるせいろを、明音は大きな瞳で見つめ、

「あ、いいの? それじゃあせっかくだから……」

「うんうん! いっぴゃあ召し上がれっ?」

 せいろの中をのぞくと、さっき老婆に渡された巨大まんじゅうがでーん、と鎮座してほこほこ湯気をあげていた。

 こうして見ても、やはりでかすぎる。温泉まんじゅうだろうか、肉まんだろうか。皮の色はふたつをたして割ったような肌色で、どちらともとれなかった。

 だが、普通の温泉まんじゅうと比べれば体積にして10倍はありそうなそれをすべて平らげれば、それだけで満腹になり、そのほかの料理が入らない気もする。

 そう思っていたら、茉莉花ちゃんは当然のようにまんじゅうをナイフで切り出しにかかった。ふくふくしたまんじゅうに肉厚のナイフがずぶずぶとめりこむ光景も、きれいに6等分されたまんじゅうがでろ~ん、と半透明の あんをはみ出させている光景も、あまりに珍妙極まりなく、こうして眺めているだけでお腹じゃないどこかがいっぱいになりそうだった。

「お、中身はやっぱりあんこじゃなくて肉だ」

 と、まんじゅうにかじりついた雅人が声をあげた。

「雅人のだいすきな肉まんだね」と僕は言った。

「おほっ、このふっかふかでぷるぷるな感じがたまんないよね! これはまさに……スイカ級だぁ!」

「うん? まさとくん、スイカ食べたいのかな?」

 茉莉花ちゃんは親切にも雅人に尋ね、それを聞いた明音は実にアホらしい、と言った感じの表情をする。

「あのね茉莉花ちゃん。こいつのことは掃除されない体育館わきのトイレの空気とか、

 冷蔵庫を動かしたあとのむじゃーってしたほこりのかたまりとか、

 掃除ロッカーにおきっぱなしのデッキブラシに生えたキノコとか、

 そういうのとおんなじだと思って、そう扱っておけばまちがいはないのよ」

「ひどすぎるよっ! それに、木村菌はキノコ胞子みたいに飛び散らないってば!」

 雅人が叫んで立ち上がった。僕はそれを見て、明音に向かって言う。

「そうだよ明音。雅人だってそんなに馬鹿にしたもんじゃない」

「だ、だよねっ! いやぁ裕樹くんはさすが分かってくれるなあ」

 明音は少し驚いた様子で、

「なによ。めずらしくまっちょをかばうのね」

 僕は続けた。

「たしかにぱっと見はただの変態にしかみえないかもしれない。

 こないだは川原にすてられたエロ本を探し求めてついには海までたどり着いたし、

 いつものぞきと痴漢とストーカーに関する妄想をたくましくしてるし、

 そのくせフォークダンスで女の子と手もつなげない筋金いりのビビリだし、

 たとえひゃっぺん生まれ変わったって、世界を救う英雄になんてなれない人間だってことは誰にでもわかる。

でも、そんな雅人でも、こうしてクラスメートとして友人として、ともに短くない時間を過ごすと……」

「過ごすと?」と明音が尋ねる。

「えっと」

「うんうんっ!」

 雅人は笑顔で首を縦にぶんぶん降る。僕は言った。

「過ごすと……つまりはただの変態だってことがよくわかる」

「最悪だよッ! 落としたならちゃんと持ち上げてよッ!」と雅人が叫んだ。

「ごめん。話してるあいだになにかいいところが思いつくかと思ったんだ。けど、なにひとつ思いつかなかったよ」

「よっぽどひどいよッ!」

 けらけらけら。

 大騒ぎする僕らを見て、茉莉花ちゃんが笑っていた。胸の中がほっこりするような、気持ちのいい笑みだった。

 そして僕のとなりでは、雅人がすっかり顔を赤くしてその笑顔に見 れていた。

 茉莉花ちゃんは涙を指先でぬぐって、

「あっはは……みんなおっかしーんだぁ。

 あ、おまんじゅうまだまだたくさんあるから気にせずたべてねっ」

「う、うん……ありがとう茉莉花さん」と雅人が答える。

 明音は切り分けられたまんじゅうを手元の皿に移し、その匂いをふんふんと嗅いだ。

「でもなんかこのおまんじゅう……ちょっと変わった味よね。においも……このへんの豚なのかしら?」

「あは、それじつは私もよく知らないの。名物だっていうのは聞いてるけど。でも、おばあちゃんの家にくるといつもあるのよ。おばあちゃん料理なんかしないくせに、いつ作ってるんだろ?」

 そう言って茉莉花ちゃんが首をかしげたとき、

「ちーっす! 茉莉花ちゃあん、よそから人がきたってほんとうかい?」

「あ、やっちーだ」

 まるで自分の家にあがりこむかのように玄関の戸をあける音、ずかずかと廊下を歩く音、

『おいえ』ってゆーんだよ、と茉莉花ちゃんが教えてくれた客間のふすまが開き、おもしろいくらいに縦にのびた顔がにょきっとのぞき、

「おおおぉお! ほんとうだ! ほんものだ! ほんものの女子高生だ!」

 そこかい。と僕は思った。

 茉莉花ちゃんは頬をぷくーと膨らませ、

「なによぅ。私だって、普段は制服着てるんだよー?」

「おぉおぉそうかい。じゃあ、こんどおじさんといっしょにお花畑に行こうね」

「やっちー、それじゃ冴えない誘拐犯の言い草だよ……」

 どぅははは、とおじさんが笑い、ころころと茉莉花ちゃんが笑った。家族の枠を超えたあたたかさ、そんなものが垣間見えた。

 それに加えて、

「茉莉花ちゃん、どうだい……今日の あゆは」

 今度は全身に苔が したような、けむくじゃらの老人がぼう、と 軒先のきさきに立っていた。髪もヒゲも伸びほうだいで、どこが目で、鼻で、口なのかさっぱり分からないが、釣竿を持って立っているあたり、さっき会話にのぼった荒巻さんでまちがいないのだろう。茉莉花ちゃんは立ち上がり、ででで、と軒先まで駆けていく。

「あ、まっきー! ありがとありがと、おかげで今日はお客さんの分もだせたよっ」

「そうかい。そいつは……よかったね」

 口元ののびきったヒゲがもしょもしょと動き、のびきった前髪のあいだにのぞいた目尻が、柔和にゅうわに垂れた。それはまるで、かわいい孫をみるような目だった。

 そして谷内口氏と荒巻氏はまるでそこが自分の席であるかのようにどかりと腰掛け、高校生の男女グループに老人が3人。あたりは、もっと珍妙な光景になってしまった。

 僕はおよそぽかりとしていたし、ほかのみんなにしても同じなようだった。茉莉花ちゃんだけが、輪の中心で笑っていた。

 食卓ではあさりと三つ葉のおすいものが湯気をくゆらせていた。

 天井の はりをガガンボがちくちくしていた。

 かけられたすだれが、風にゆらゆらしていた。

 燃える油が、みんなにオレンジの光を投げかけていた。

 境界線がずっとあやふやな家の外では、夜虫がしきりに愛をうたっていた。

 そばに川があるのか、水音がちょろちょろとやさしい音を奏でていた。

 僕は、まるで村そのものが家族なのだ、と思った。

 人里を離れた山奥村で、

 老人だらけの限界集落で、

 僕は、なにか大事なものを知った気がした。


 その後裏庭に置かれたドラム缶みたいな風呂を、雅人とふーふー焚きつけながらはいり、

 女性陣がおなじようなことをしているのをどきどきしながら待ちわび、

『ちょうだ』ってゆーんだよ、と茉莉花ちゃんが教えてくれた、いわゆる寝室に人数分の布団と枕を敷きつめると、

「花火しよっ!」

 と、茉莉花ちゃんが声も高々に提案した。

「花火?」と僕は聞き返した。

 明音は腕を組んで得意げに、

「火をつけると火花がしゃわしゃわなってきれいなのよ。夏の風物詩なのよ」

「知ってるよ。ただ、この季節にめずらしいなと思って」

「去年の残りものなの。だから、ちょっとしけってるかも。火、つかなかったらごめんネ」

 と茉莉花ちゃんが言って、

「楽しければいいのよ」

 と明音が言って、

「花火なんていつぶりかなぁ」

 と雅人が笑った。

 いつぶりだろう、と僕も考えてみて、記憶をかなり さかのぼらなければいけないことに気づいた。脳裏に浮かんだのは、線香花火の光と9歳のころに離ればなれになった妹の困ったような顔だったから、少なくともそれくらいには昔の話だった。

 妹が困ったような顔をしていたのはきっと、僕が彼女の靴ひもとロケット花火を、懇切丁寧に接合して火をつけたからだろう。火花の噴射から射出、破裂までひとしきりを足元で体験した彼女はくるくる目を回しながら、なんで『ゆい』が発射台になってるのよぅ。と不満をあげ、それに対し、いや、夜空に舞い上がるかなと思って。と言いわけをしたような気がする。

 そして、数が足りないのかな。と僕が言い、全身にロケット花火をくくりつけようとしたらぴう、と妹は逃げ出した。今となってはいい思い出だ。

「あ、バケツとかいるのかしら?」

「お風呂場の桶でいいよ。裏に川が流れてるから、そこでしよっ」

 明音と茉莉花ちゃんがきゃいきゃい言いながら先陣を切り、僕らはそれについていった。

 一足先の夏休み。そんな気がした。


「あ、そうだ」

 玄関の履物石でスニーカーのつま先をとんとんした茉莉花ちゃんが、思いだしたように声をあげて、くるんと僕らのほうをふり返った。

「うん?」と僕は声をあげる。

「えっと、もちろんだいじょうぶだとは思うんだけど、村のまんなかぐらいにある油庫にはぜったい近寄らないでね?」

 明音が聞きなれない単語に瞳を大きくさせる。

「あぶらこ? なにそれ」

「ほら、この村って電気もガスもないでしょ? 明かりとか、燃料とか、ぜんぶ油なの。 お料理にも使えるし、みんなよく使うから、切らさないように油庫に貯蔵してあるんだ。

 こないだ今年のを搾り終わったばっかりなの。だから、いま中は油でいっぱい。 すっごく危険だから、入るには村長さん、つまりおばあちゃんの許可がいるの。花火で火なんてついたら、この山あっというまにハゲ山になっちゃう」

「そ、そんなに溜めてあるの?」

 雅人が聞くと、わかんないけどね、と茉莉花ちゃんは笑った。どうやら、ロケット花火と打ち上げ花火は十分に気をつけたほうがいいらしい。


 花火は去年の残りもの、という割にはずいぶんと古めかしかったけれど、バケツみたいな容器に大量にはいっていた。それに灯がともるたび、みんなの顔がさまざまな色に照らされていた。

 花火の先端から ほとばしる閃光は、笑っているようでもあったし、喜んでいるようでもあった。みんなの笑顔がそこにはあった。

 夏休みでもない時期にこんな山奥村で、僕らはなにをしているんだろう。

 わからないけれど、楽しければいいのよ、と云う明音の声が聞こえた気がして、僕は笑った。

 手元でぴしぴしと火花を散らしていた線香花火が、とうとうぽつりと落ちた。それを見て僕は、由依は元気にやっているだろうか、と妹の姿を思い浮かべていた。

 らしいわね。

 頭上から降ってきた声に顔を上げると、足首までまっすぐに伸びた髪の毛をさらさらと揺らした明音が、となりに立っていた。

「らしい?」僕は答えた。

「はじっこで線香花火だなんて。一家を見守るお父さんじゃないのよ?」

「別にはじっこが好きなわけでもないけど、」と僕は言った。

「線香花火は主役になるにはちょっと火力不足だと思うし」

 僕の言葉を聞いてから、明音は優雅に髪の毛とスカートを押さえこんで、となりに腰かけた。

「だったら、主役級の火力をもった花火を選べばいいじゃない。だれも制約なんてしてないわ」

「なるほど、じゃあ山ほどのロケット花火を持って、雅人にくくりつけてこよう。ひょっとしたら今度こそ、夜空に舞いあがるかもしれない」

「あら、人間花火ね。それはいい考えだわ」

 わはははは、と雅人の笑い声が遠くから聞こえてきた。一寸遅れて、ぼすん、と音を立ててなにかの花火が息絶えた。

「なんか、いいわね。こう云うの」

 明音は遠くに視線を投げて言った。その先では、今度は噴き上げ型の花火が、星色ほしいろの光を夜空の下にはき出していた。閃光はやっぱり、みんなと一緒にはしゃいでいたのかもしれない。

 気づけば茉莉花ちゃんは、スニーカーと靴下を放りだし、墨のような夜の川に入りこんでいた。

 川の上流の上流。冷たく澄んだ、ジャンプで飛び越えられるほどの小川。

 この川が海にたどり着くまでに、

 いったいどれだけ川幅が広がって、

 いったいどれだけ生活排水が加わって、

 いったいどれだけ水色が土色に変色するんだろう。

 その美しい川の上部が、月明かりを返して、きららかに輝いていた。


 雅人くーん! おいでよーっ!

 え、いやあはは……う、うん!

 遠くで雅人と茉莉花ちゃんのはしゃぐ声が聞こえる。月明かりに、ふたりのシルエットが浮かんでいる。その光景を見て、明音は眉間にしわを寄せる。

「げ。まっちょが女の子に誘われてるわ」

「優しすぎるよね、茉莉花ちゃんは」と僕は言った。

「あのまっちょに声をかけられる女の子なんて、きっと世界でもあの子くらいのものだわ」

「そこまで言わなくても……って言うか、明音だって声かけてるし」

「茉莉花ちゃん、おうちはあたしたちの学校の近くだって言うのよ。きっと、帰ってもまた遊べるわね」

「ああ、よかったね明音。友達、増えたね」

「……うん。それとっ!」

 明音が髪の毛を揺らしながら、立ち上がる。

「まっちょにとっても、なのかしら?」

 ああ、と僕は言った。

「さ、あたしも川に行ってこよっと! それにあんまりほっとくと、茉莉花ちゃんの身の危機よ」

「明音、転ばないようにね」

「分かってるわよ。子供じゃないのよ?」

「それと、明音の場合、髪の毛結ぶかなんかしないと、川の水に浸かるからね」

「……しまったわ」

 明音は去っていった。しばらくすると、川をじゃぶじゃぶする水音がひとつ増えた。

 背中で夜虫がひときわ大きな声をあげ、ばたばた、と僕の前を蛾の親分みたいなのが通りすぎて行った。星月ほしつきはいっそうその輝きを増していたし、花火の光はもう、すっかり川の上にあった。その 虹光にじびかりを返した水面が、誰かの手によって砕かれる。 いっそう細やかな光がいちめんに飛び散る。みんなの笑い声も飛び散る。僕はまるで、幻燈げんとうの世界にいるような気がした。

 ちろちろと音を立てて川が背中を流れる。

 さらりとやわらかに夜風がほほをなでる。

 ぼしゃーん。

 盛大な音を立てて、明音がコケた。



 なにかの声を聞いたような気がして、僕は目をさました。携帯電話で時間を確認すると、時刻は午前4時をまわったところだった。

 僕は、おなじ部屋に寝ることを いといもしなかった女性陣を含めた、みんなを起こさないよう、そろそろと慎重に部屋を抜け出した。

 べちょ。

 急に顔に触れたものに僕はキャッと悲鳴をあげそうになったが、それは 長押なげしに吊るされた生乾きの明音の制服だった。明音の一張羅がこうしてここに吊り下がっていると云うことは、明音は今いったいどんな格好をして眠っているのだろうか。僕は、なんだか不意にどぎまぎした。

 廊下に顔をのぞかせた僕は、こんな時間に目を覚ましてしまった自分を、心底呪うことになった。月明かりに青白く浮かび上がる、老朽化していまにもくずれそうな木板張りの廊下。どこぞのお化け屋敷だって、ここまでホラーな雰囲気はそうそうだせるものじゃない。すぐにでもしっぽを巻いて逃げ帰りたかったが、さきほどからのっぴきならない様子で尿意が 膀胱ぼうこうをノックするのだから、そうもいかない。

 僕は、闇の廊下に一歩を踏みだした。

 くらい。しっこ。こわい。しっこ。いくしかない。

 廊下がぎぃ、と怪しげな悲鳴をあげるたびに、僕はしっこ! と悲鳴をあげてその場を切り抜けた。

『ちょうだ』のある母屋を出た先の、離れにある外便所はまるで魔界で、

 気が遠くなるような臭気を放つ肥溜め式の便器はまるで奈落へ通ずる穴で、

 地獄の底から響く、うろぉーん、という声のようなものがそこから聞こえる気がして、

 僕は両手で耳をふさぎつつ、ひざこぞうで便器のふたをおさえつつ、しっこをするというアクロバティックな戦法を強いられた。

 そして命からがら、といった感じで魔界便所を這いだし、


 うろおおぉおん――


 聞こえた。

 それはまるで 黄泉よみの門から漏れだしたような うなり声で、それを気のせいと片づけるには、あまりにも大きすぎたし、はっきりしすぎていた。


 うろおぉおぉおん――


 首筋を、ぬらぬらしたものが舐めた。鳥肌が全身に広がりわたり、僕は転がるようにして家の中へと駆けこんだ。なんとか寝所前の廊下にたどり着くと、不安そうな表情をした明音が迎えた。

「裕樹? いまの音はなに?」

 続けて、みんなも起きだしてきたようだった。僕は言った。

「わからない。とりあえず、」

 うろおおおぉおぉうん

 誰もが、言葉をうしなった。

 鳴きはじめたカラスの不吉な鳴き声の合間を縫って響くそれはあまりにも暴力的で、おどろおどろしくて、まるで生きとし生けるものすべてを呪うような たけり声だった。 それが、地響きと共に、地の底から地表に響きわたる。とめどなく、とめどなく。

 明音は半狂乱になって叫ぶ。

「な、なんなのよこれは? そうよ、茉莉花ちゃん、これはなに? こんなものがいつも聞こえるの?」

 茉莉花ちゃんは沈黙するばかりだった。ともされた 行灯あんどんに照らされたその顔は、深くうつむいていて、表情はまるっきり分からなかった。明音はさらに声を大きくして、

「茉莉、」

「ぬしさまさ」

 きりきりきりきり。

 軋んだ音を立てて、車椅子のがいこつ老婆がぬらりとやってきた。僕はその姿に言った。

「なんだって?」

「ひ、ひ、ぬしさまさぁ、こんのやまの。ぬしさまぁ、いつも腹がへらしとる。たんまに我慢できんくなって、むらまでひょっこらのぼってきょうる」

「のぼってくる?」

「ひ、そう。じめんの、そこからなあ」

「な、なによそのぬしさまって。冗談じゃないわよ!」

 明音の叫び声に、ばあさんはくつくつと笑った。くぼんだ 眼窩がんかの中で、ぎらぎらしたものが底光りしていた。

 僕らは本当に人間と話しているのだろうか? あるいは、洋服を着た白骨死体と話しているのじゃないだろうか? 僕がそんな逡巡を浮かべているあいだもずっと、気味のわるい猛り声は聞こえていた。僕は、口を開いた。

「黒い車が、こなかった?」

「黒い車?」

 そう言って、茉莉花ちゃんがようやくに顔をあげた。その声は震えているようでもあったし、泣いているようでもあった。僕は言葉を続けた。

「さっき確認したんだ。この村は裏が崖で囲まれてる。つまり、車でくればどこに抜けることもできない。じゃあ、この村にむかったはずの車はどこへ消えた?」

 明音が叫ぶ。

「だ、だからあれは、この村の人の車だったんでしょ?」

「それはない」

「な、なんでそんなこというのよ」

「おかしいと思ってたんだ。この村には電気を使う習慣すらまともにない。それなのに、車なんか持ってるはずがない。実際、村のどこにも車は見当たらないし、車庫だってない。もちろん、車がまともに走れるような整備された道だってない」

「じゃ、じゃあ、あの車は? 中に乗ってた人は?」

 明音の言葉を聞いて、ひ、ひ、ひ、と老婆が笑った。ようやく分かったか。そんな感じの笑い声だった。

「消えたんさ」

「消えた?」と僕は聞き返した。

「こんがぁむらじゃあ、めずらしうもね。ひとが、くるまが、きえるなんてこたぁな」

「お、おばあちゃんやめてよ! どうしちゃったの?」

 茉莉花ちゃんが声をあげて老婆に飛びついたが、老婆はいっそう深く、くつくつと笑うだけだった。

「消えるって、」と、僕は言った。

「消えるっていうのはどういうこと? なにを知ってるの?」

「消えるぅもんは消えるんさ。そんがほかに、なーもありゃあせん。すがたが消えりゃあ、つぎゃあ記憶が消えるばんさ」

 雅人が顔を青くして叫ぶ。

「ひ、人がそんな簡単に消えるなんてあるもんか! ましてや人の記憶からもだなんて、」

「ひ、ひ、ひーひひひ!」

 老婆が気味悪く嘲笑し、茉莉花ちゃんがおばあちゃん、と叫んでその肩をゆする、それでも老婆は止まらない。

「まぁだ気づかんかあぁ! おまんらの仲間がひとり、

 とっくのとうに消えとるっちゅうんになああぁああ!」



 頭の中を駆け巡ったノイズを、僕は頭を振って追い出した。目の前では明音がぺたりと床に尻をついている。その口をぱくりとさせて、言葉を押し出す。

「な、あ、なに言って……」

「明音、聞かなくていい。人が消えるなんて、そんなことあるわけがない。ましてや、僕らの誰かが消えたなんて、」

 僕が言うと、雅人も続いた。

「そ、そうだよ! 俺たちは最初っからこのメンバーだったじゃないか! いつもの仲良し組み――あれ?」

 ばつり。頭のノイズが大きくなる。明音も同じようで、目の前で頭を抱えている。

「あ、あれ、なに? 頭が、ぼやけて……」

 僕は独白する。

「本当に、本当にそうだった? 僕らは本当に、最初から3人だった? 学校でも3人だった……?」

 ひひひ、ひーひひひ

 おばあちゃん、おばあちゃん

 うおろおぉおん

 わけの分からない雑音がいっぱい聞こえる。頭のなかが、いっそう かすみで、もやもやしていく。明音は、長い髪を振り乱して叫んだ。

「な、なに言ってるのよ。あたりまえじゃないの! あたしたちは、いつも学校で遊んでたのよ?

 あたしがいて、裕樹がいて、まっちょがいて、ポコ実がいて、」

 ばつり。

 明音の言葉に、頭の中でフラッシュがたかれた。それはもう、ノイズなどと呼ぶべきでものではなかった。脳裏を閃光に焼きつくされたさなか、明音の叫び声がして意識を連れ戻された。

「ポ、ポコ実ッ! ポコ実はどこ? どこにいるのッ?」

 いなかった。影もかたちもなかった。たった今まで、僕らの記憶の中にすらいなかった。

「冗談じゃないわ!」

 駆けだしそうになった明音の腕を、僕は必死につかんだ。

「待ってよ明音! どこに行こうってのさ!」

「決まってるでしょ! ポコ実をさがしに行くのよっ!」

 雅人も叫ぶ。

「さがすって言ったって、だってどこを?」

「知らないわよそんなの! だからって、他にどうしろっていうの? 他にどうしようもないなら、あたしは行くわ!」

「あ、明音ッ!」

 僕の腕を振りほどいて、明音は駆けていった。うすく光が射しはじめた、外へ。

 雅人が困惑気にきょろきょろと首を振り、

「ど、どうしよう裕樹くん?」

「――どうしようって言ったってッ!」

 僕は踏みつぶすようないきおいで、革靴に足を通した。

 行くしかないだろッ――?

 うしろから、老婆の笑い声が、いつまでも、いつまでも聞こえる気がしていた。




「明音っ!」

 日の昇りがいちばん早い季節と云うのが幸いした。あたりは5時をむかえるころからするすると明るくなりだし、老婆の家から数十メートルのところで追いつくことのできた明音の腕を、僕はぐいと引いた。

「……裕樹」

 ふり返った明音の表情は今にも泣き出しそうだった。まだわずかに湿っている制服のそでも、伏せられた 睫毛まつげも、ふるふると揺れていた。

「どうしよう……あたし、ポコ実のこと、友達だと思ってたのに、忘れてた? 忘れてたの? ちがったの? あたし、そんなの……」

「……明音」

 僕は、思わず握った明音の腕に力を込めていた。

 この子は、本当に心のやさしい子なんだ。やさしくてやさしくて、どうしようもない子なんだ。友達のことを忘れていた、その事実だけで心折れそうになるまで動揺してしまうこの子を守りたくて、僕は声をかけた。

「明音、これはそう云うんじゃない。明音が気に病むようなことはなにもないし、今は悩むより木之実さんをさがしに行くほうが大事だと思う」

 明音は深く押し下げていた頭をぐい、とあげ、同じくぐい、と乱暴に目元をぬぐい、

「分かってるわそんなの! だからあたしはがむしゃらでも進むのよ! 考えるのは裕樹、あんたに任せたわっ!」

 僕はもう、苦笑するしかなかった。けれど明音の瞳に浮かんだ決意のようなものをみて、なんだか安心していた。

「ちょ、ちょっと待ってよふたりとも!」

 雅人が朝もやのなかをばたばたと駆けてきた。明音は腕を組み、呆れたように言う。

「なによ、遅いのよまっちょ」

「ハァ、勝手に駆けだすふたりが悪いんじゃないか」

「知らないわそんなの。とにかく行くわよ」

「明音、気持ちは分かるけど、その前に一度情報を整理してみよう」と、僕口をはさんだ。

「情報?」雅人が聞き返す。

「木之実さんがいなくなった。でももちろん最初からじゃない。海にだって行ったし、ゲーセンにも行ったし、バスにだっていっしょに乗った。でも少なくとも、この村では木之実さんの姿をみていない」

「それってつまり、」と明音が言った。

「そう。木之実さんはいったい、いつ居なくなった?」

「そ、そうよね。それを知るのは大事よね」

 雅人がうす暗い表情をしてうつむいていることに、僕は気づいた。僕が声をかけようとすると、ぽつりと彼は言った。

「トンネルさ」

「え?」と僕は聞き返した。

「思い出したんだよ。俺……見ちゃってたんだ。みんなには見えてなかったみたいだけど、 木之下さんが……ずるずる地面に引きこまれて、俺、怖くて、怖くて、それでも口がきけなくって、だんだん頭がぼんやりしてきて……」

「地面って……」

 明音の言葉で、思い出した。気づけばいつのまにか聞こえなくなっていた地底からの声。 僕たち3人は、思わず顔を見合わせた。

「ぬしさま……」と雅人がもらす。

 明音は恐れを振り切るように頭を2、3振って、

「と、とにかくこうしてたってしょうがないわ。とりあえず、そのトンネルを調べてみましょう」

 僕もその意見に同意した。

「それしか……なさそうだね。雅人、だいじょうぶ?」

「ああ……! 怖いけど、木之下さんのためだもんね!」

 明音は感心したように、深く頷く。

「いい心がけだわまっちょ。ポコ実、どうか無事で……」

 僕らは、村の入り口にあったトンネルを目指して、駆けだした。



 自給自足に近い生活をしているわりには朝は遅いのだろうか。村はしんと静まりかえり、村人の姿もまったく見えなかった。

 そしてトンネルを目指して走っていた明音の足が、ぴたりと止まった。あやうくその後頭部にぶつかりそうになった僕は急停止をし、

「明音、どうしたの?」

 明音は斜め前方を指さし、

「あれ……」

「お、なんだあれ」と雅人も声をあげる。

 明音の指先をたどったところにあったのは、この村にしてはめずらしい、石造りの建物だった。大きく崩れた石垣のあいだに、地下に通ずる鉄はしごを投げかける穴が、ぽっかりと開いていた。

「まさかとは思うけど」雅人が言った。

 いやな予感を感じ取って、僕も言った。

「明音、さすがにここはやめておいたほうがいい。こんな場所で何かあったら、逃げ道もないし、助けも呼べないよ」

「ヤダ」

「ええーっ!」と僕は叫んだ。

「ポコ実は地下に閉じ込められたのよ。だったら、ここがいちばん可能性が高いわ」

「べつにそうと決まったわけでも、」

「じゃあ! もしこの中に閉じ込められてたらどうするのよ? 裕樹は、こんな暗い場所にひとりで閉じ込められて、平気でいられるの? あたしは……無理だわ。ポコ実をこんな場所にいさせるなんて」

 思い込みの激しい明音のことだ。きっとこの中を捜して、木之実さんがいないことを確認するまで、この中に木之実さんがいると信じ続けるだろう。だから、僕は言った。

「分かったよ、行こう。ただし、明音はここに残って」

「どうしてよ?」

「いざと云うときに助けが呼べなくなる。それにたとえば、このはしごがなくなってもひとりが上にいれば引きあげることができる」

「だったら、まっちょをのこせばいいわ! あたしは、いやよ! ポコ実をさがしに行くんだもん!」

 はあ、と僕は胸中の酸素を残らずはきだす羽目になった。

「分かったよ明音。雅人、それでいい?」

 僕が尋ねると、雅人は神妙にうなずく。

「まぁ……怖いし。倉名さんがそれでいいって言うなら」

「なら、決まりね」と明音が笑った。


 僕は、鉄はしごの穴をのぞきこんでみた。光はとちゅうでとぎれ、底は見えもしない。 闇だけが深く、深く 堆積たいせきしていた。

 何のためにこんなものを造ったんだろう。僕は思った。

 井戸にしては水をくみ上げる装置が見当たらないし、そもそもそばに川があるのだからそんなもの必要がない。食料貯蔵庫にしては穴が深すぎるし、そもそも荷物を背負ってはしごを降りるのが難しい。

 さっぱり分からなかった。

 けれど、分かろうが分からまいが。この下に降りるしか道はないのだ。

 僕は言った。

「じゃあ明音、先に降りるね」

「ちょ、ちょっと!」

「なにさ?」

「女の子の都合を考えてよ……」

 明音は、人よりはるかに短いスカートを押さえながら言った。

「……じゃあ、明音から降りてよ」僕は口をとがらせる。

「怖いじゃない」

 さっきまでの威勢はどこへ行ったのだろうか。そもそも、この穴に降りると言い出したのはほかでもない、明音自身だ。

 そう思っていたら、妙案を思い付きました、と言わんばかりに雅人が、

「じゃあじゃあ! あいだをとって俺から降りるよっ!」

「……蹴落とすわよ」


 結局、なにがおきても上を見上げない、と云う公約のもと、僕が先に降りることになった。もし上を見ようものなら明音に蹴落とされるのはまちがいなく、命がけでそこまでの行為に及ぶ気はさらさらなかったが、すぐ頭上にパンツがあるのだと云う緊張感で、僕は、はしごをにぎる手をすべらせてしまうかもしれない。

雅人は心底恨めしそうな顔をして、

「いいなあ裕樹くん。ふたりとも、気をつけてね」

 明音が答える。

「わかってるわよ。まっちょも、油断しちゃだめよ」

「20分」

 と僕は言った。

「なにが?」雅人が聞き返す。

「僕らは20分以内に必ずもどる。もしそれを過ぎたら……分かるよね?」

「あ、ああ。分かってるよ」

「うん、じゃあ頼んだよ」

 雅人は神妙な顔つきをして、言った。

「線香を いて、お花を供えればいいんだよね」

「助けを呼んでよッ!」


 縦穴の底には、奥に通ずるドアが一枚あり、そこを開けると、得も云われぬにおいがあふれてきた。停滞した空気はひんやりと冷たく、風はそよとも流れず、沈殿した闇だけが僕らのまえに立ちはだかっていた。

 僕は、ポケットから携帯電話を取り出した。

「圏外よ?」

 と、横から明音の声がした。

「ああ、懐中電灯がわりだよ」僕は答える。

「あ、そっか。じゃあ、あたしのも出すわ」

 携帯のバックライトが闇を切り裂いた。写されたのは、レンガ造りの石床と、石壁。天井はかろうじて頭を屈めずに入れるかと云う程度の高さで、通路の幅は両手がのばしきれないくらいに狭い。地下水が漏れているのか、水がひたひたと落ちる音が聞こえる。

 壁面にはところどころ黒ずんだ苔がし、

 床面には何かをひきずったような黒いあとが奥まで伸び、

 天井にはぽつぽつと白熱灯が吊り下げられていた。

 白熱灯?

 僕は、入り口近くの壁面をまさぐった。明かりが電灯である以上、スイッチがあり、それは入り口に設置されていないと意味がない。

 右手の指先が、苔の中のスイッチに触れた。押し込んでみると、音もなく白熱灯が点灯し、赤銅しゃくどう色の光をぼんやりと僕らに投げかけた。

 村の建物はどれも木造で、そこに住む人たちは電気を使う習慣すらまともにない。それだと云うのに、なぜこの場所と、入り口のトンネルだけ電灯が設置され、石造りになっているのだろう? 一体この場所は、なんのために造られた?

 考えてもまるで分からなかったその答えを、僕は目のまえにあるものを見て、理解した。

 ――牢獄。

 通路は右手に折れていて、その突き当たりに、鉄柵がはめ込まれた小部屋があった。内部を覗きこむと、囚人を拘束していたと思しき拘束具がぽっかりと闇に浮かぶ。

「これは……」

 拘束具。

 たしかにそれは拘束具だった。

 だが、囚人だって飲み食いもすれば用も足す。横になって眠ることだってある。だからこそ、囚人にかせられるべき拘束具といったら、鉄格子との相乗効果で脱走を防止する長い鎖とか、万一脱走が起きた際に、その動きを制限する足 かせなどであるはずだ。

 だからまちがってもそれは、石造りの拘束台にがんじがらめにくくりつけるようなものであることはない。その必要性を、僕は『拷問』と云う言葉以外で解決することができなかった。

 よく磨かれた、つややかな光沢を放つ拘束台。それに取り付けられた、四肢を繋ぎとめるための 鉄環てっかん。指一本動かさせまいと云うほど大量にまきつけられた荒縄はところどころ黒ずんでおり、

それを見て僕は、この台をひと言で表す、この上なく的確で、この上なくおぞましい単語を思い浮かべてしまっていた。


 ―――まな板。

 牢獄の内部は、そこだけが一面、水が流せるようにタイル張りになっていた――


 牢の内部には、その他にも、使用法を思い浮かべたくもないような道具がごろごろしていた。そのうちのいくつかが、鉄柵をはみ出して手にとどく位置に転がっている。手にしてみると、それは杭のような大きさの釘と呼ぶべきか、釘の形をした杭と呼ぶべきか分からないようなものだった。

 そのとなりにあるものは、もっと理解不能だ。学校で、運動部員がトンボを使って校庭をならしているのを見かける。その『トンボ』の先端に、野菜の皮むき機の先を巨大にしたようなものが取り付けられていた。これだって、なんに使うものなのか想像もしたくない。

 牢獄の中に囚人の気配はない。だからと云って……この村では、いったいなにが行われてきたと云うのだろう。

 うしろを歩く明音は、言葉もないようだった。極力、牢内を見ないようにして、早足に歩いていた。それでも、その足が止まることはなさそうだった。

 僕と明音、ふたつの足音が壁という壁に反射して、10にも20にも増える。一歩を踏み出すたび、最初から感じていたにおいがひどくなる。

 曲がり角を曲がると、左右交互に牢が続いていた。

 ふたつ、みっつ、よっついつつむっつ、

 ななつ目を通りすぎようとしたとき、明音があっと声を上げた。

「ポ、ポコ実! ポコ実だわッ!」

 明音はそう叫んで、ななつ目の牢獄に飛びついた。確かにその中には、木之実さんの姿があった。だがしかし、はめ込まれた鉄格子には、しっかりと鍵がかけられていた。

「ポコ実ッ! ポコ実いぃッ! 起きてよ! 返事してよ! やだよ! いやだよおッ!」

 明音が狂ったように喚いて、鉄格子を揺らす。僕は明音に飛びついて、その音に負けないくらいの大声で叫んだ。

「明音落ちついて! 木之実さんは大丈夫だ! 眠ってるだけだよ!」

「ほ、本当に? ほんとにぃ……?」

 弱々しくふり返ったその瞳には、涙が浮かんでいた。膝がすっかりがくがくしていた。

 守らなくちゃいけないんだ。木之実さんも、明音も。僕はそう思った。

「ああ、外傷もなさそうだし、顔色もいい。大丈夫だと思う。とにかく、鍵を探して早く出してあげよう」

「う、うん! でも、誰が持ってるのかしら?」

「どうだろう。村の誰か、かな」

 僕は答えながら、なにげなく通路の奥を見やった。牢獄はこのななつ目でおしまいのようで、通路は木製の扉を終点に、終わっていた。その扉の上部にかけられた紫黒のプレートにはかすれた文字で、かろうじて読めるかと云うような文字で、こう記されていた。


『監守室』


「明音」と僕は言った。

「な、なによ」

 明音は涙を制服の袖で乱暴にぬぐい、ぐしゅん、と鼻をひとつならして僕の方をみた。 その視線が、するりと僕の背後に投げかけられた。

「……監守室。そっか、7つも鍵があったら大変だもんね。こう云う場所で管理しててもおかしくないわよね」

「問題は、この扉が開くかどうかなんだけど」

 その心配は 杞憂きゆうに終わった。扉にかけられていたはずの南京錠は、すっかり口をあけて、だらりとドアノブにぶら下がっていた。

 まだ光沢のまぶしい南京錠。やはりこの場所は、つい最近まで、あるいは今この時も使い続けられているのだと、そう思った。

 牢に並ぶ数々の拷問道具。それらもまた、今このときも使い続けられているにちがいない。そしてそれを使うのは、まちがいなくこの村の人間なのだ。

 思えば、さっきから僕らは大声で騒ぎすぎている。もしもこの場を見つかったなら、今度は僕らがあの台に縛りつけられる番なのかもしれない。ひょっとしたら、この扉のむこうに誰かが待ち構えているのかもしれない――

 沈殿した空気が、いやに冷たい。

 腹の底から重いようなくすぐったいような、ざわざわしたものがせりあがってくる。

 それでも僕らは、行くしかない。この部屋に鍵の保管されている可能性がある以上、扉をあけるしかない。牢獄に閉じこめられた木之実さんを、放って行けるわけがない。


 僕は決心して、監守室の扉を開けた。その瞬間、ものすごい異臭がなだれ込んできた。

 最初から感じていた悪臭を、何千倍にも濃縮したようなにおい。

 アマガエルの死骸を百匹集めて、

 それらをぐちゃぐちゃに踏みつぶして き混ぜて、

 真夏の炎天下の下に3ヶ月くらい放置したような、おぞましいにおい。

 それを我慢して一歩を踏み出そうとした僕は、あやうく悲鳴をあげそうになった。

『なにか』が、天井いっぱいにぶら下がっていた。

 通路の白熱灯の明かりは遠く、それがなんであるかは分からない。影だけがゆらゆらしていた。それが、さっきみたいに干された洋服だと分かったら、僕はどんなに安心することだろう。明音も口元を手でおさえているのだろう、横からこもった声が聞こえて、

「ひ、ひどいにおいね。それにまっくらだわ。裕樹、電気のスイッチはないのかしら?」

「ああ、そうか」

 僕は、暗闇の室内に一歩を踏みだし、右手で壁面をなでた。それと同時に、僕の左側から明音が室内に首をつっこみ、壁面をなでている雰囲気があった。そうこうしているうちに、僕の右手が硬くて四角い箱状のものに触れる。

「あ、これキーボックスかもしれない」

 僕は明音の立っていると思われる方向に語りかける。通路からの明かりにうっすらと浮かんだそれは、押しこむと取っ手が飛び出してくるタイプの鉄箱だった。あるいは分電盤かもしれないが、バイト先のファミリーレストランでおなじようなものを目にしていた僕は、キーボックスだと直感していた。

「あ、こっちが明かりみたいだわ。ちょっと待って、点けるから」

 明音がかがむ 衣擦きぬずれの音がして、

 ぱちん、と膝下から軽々しい音がして、

 そして、あたりが蛍光灯の寒々しい光に包まれた。


  僕は、その光景を蛍光灯の明かりの下で目の当たりにし、言葉を失った。それどころか、頭の中でばちばちと何かが弾け、危うく気を失いそうになった。

 ――ヒトが、吊るされていた。

 ひとり、ふたりじゃない。数十人から百人もの人間が、後頭部から額にかけて 鉤爪かぎづめのようなものを打ち込まれて、ぶらりぶらりと並ばされていた。それはもう、吊るされているものを何人、と云う単位で数えていいのものか分からなくなるような、凄絶せいぜつな光景だった。

 いや、それでもやはり、それはヒトと表現するべきモノではなかったのかもしれない。なぜなら、それらにはから。

 くぼみきった 眼窩がんかの底にも、大きく縦にひきのばされた口の穴の中にも、とこしえのような闇が広がっていた。目と鼻と口の穴があいた皮袋。そう、表現するほかなかった。そのたくさんの穴たちが、いっせいに僕らと云う侵入者を見 とがめているような気がした。

 どの穴も、そして首の皮も、自身の重みで信じられないくらいに縦にひきのばされている。ムンクの『叫び』なんかとは比べものにならないくらいの悲鳴が、そこには刻まれていた。

 それこそ、重みに耐え切れずに、顔面が上半分をのこして腐り落ちてしまったものなど、思わず胃の中身をばら撒きたくなるようなものだった。

 となりで明音が声にならない悲鳴をあげる。僕は絞り出すように言った。

「あ……あ、あか、ね、で、でるよ……」

 僕らは回れ右をすることもできずに、ずりずりと後ずさって部屋を出た。なるべく音をたてないようにゆっくりと、監守室の扉を閉める。その扉に背をあずけ、明音は目を白黒させて言う。

「な、なに、今の……裕樹、なによ今のは」

「狂ってる……おかしいよ、この村は!」

「あたし……あたし、帰るぅ!」

 明音の瞳が虚空に投げられた。そのまますとんと膝が折れて、くずおれた。のどもとから声をしぼりだすように、

「帰る……帰るのぉ……」

 まずい、と僕は思った。そして逆にそのことが、パニックに陥りかけていた僕の脳を鮮明にさせた。

「明音ッ! とにかくここをでよう! 木之実さんをつれて、この村を出よう!」

「だって、だって……鍵が中に、あの部屋の中に!」

「鍵ならちゃんと持ってきた。ほら、これで木之実さんを助けられる」

「あ……」

 明音の目前に鉄鍵の束を差し出すと、すぅ、と彼女の瞳に光がもどった。そのまま数秒か、あるいは十秒かの時を経て、明音はぽつりと、

「そうよね、こんなとこにいたって……ポコ実を助けて、帰るのよ」

「明音、その意気だよ」

「分かってるわ、ありがと裕樹。そうよ、負けらんないのよ、あたしはっ!」

 がばり、と勢いこんで明音が立ち上がった。そのままばさりと長すぎる髪を払って、木之実さんのもとへと駆け出した。僕はその背中を見て、安堵のため息をついた。

 鼻の奥では、今もアマガエルの匂いがわんわんとうずまき、まぶたの裏には、ひきのばされた人皮の叫びがべったりと貼りついていた。


 木之実さんの閉じ込められた牢の扉は、3つ目の鍵で開いた。

「ポコ実ッ!」

 明音が叫んで、飛び込んだ。幾人もの血をすったはずの拘束台に横たえられた木之実さんは、その上ですやすやと眠っているだけのように見えた。

「ポコ実、ポコ実ッ! 起きてよ! 返事してよ!」

 明音が叫んで木之実さんを揺すり、んぅ、とまぬけな寝ぼけ声をあげて、木之実さんが目を開いた。明音がその体に抱きつく。寝ぼけ眼だった木之実さんはしこたま驚き、

「んう? んう? あぇ、あかねっ?」

「ポコ実、ごめん、あたし、ごめんね!」

 明音は木之実さんの肩に額をおしつけて、泣いた。対する木之実さんのほうはすっかり困惑顔で、視線をさまよわせる。その視線が僕を見つけて、

「あ、ゆーきくん、いったいなにがあったの?」

「ごめん、ちょっと説明してるひまがないんだ。それと明音もごめん、今はこの村からでることを考えよう」

 明音はがばり、と木之実さんから身体を引き離して、ぐぐい、とまた目元を袖元でぬぐって、

「分かってるわ! ポコ実、立てる? こんな村、出てやるのよ!」

「う、うん……村? わかんないけど……」

 くせなのだろうか、明音がまた髪の毛をばさりとやって、

 木之実さんが軽くふらつきながらもするりと拘束台からすべりおりて、

 僕が牢屋の扉に手をかけた、そのときだった。


 うおるううぅん――


 僕らの身体が、かちりと硬直した。

 あのうなり声だった。

 それはさっき聞こえたものとまったく同じだったけれど、さっきとはひとつだけ決定的にちがうことがあった。地底から響くようだったそのうなり声は、今は、すぐそばで聞こえていた。

 監守室のドアのすぐむこう。たくさんのヒトの生皮が吊るされた、部屋の内部。そこから、なにかを なげくような、なにかを呪うような声が聞こえていた。

 あるいはすぐにでも走り出したほうがよかったのだろうか。監守室のドアが、きしんだ音をたててゆっくりと開かれた。アマガエルの汚臭が、むわりと一面に広がる。

 そしてすがたを覗かせたのは――


 それは、『ヒトのかたちをしたもの』だった。

 ぼろきれをまとった 肢体したいは、高濃度の放射能に被爆したように焼けただれて赤黒く、黄茶色きちゃいろ血膿ちうみをどろどろと吐き出していた。

 足元は溶けだしたセルロイドのようで、足を踏みだすたび、ぐちゃにちゃと糸を引く。

 500円玉ほどの穴がぽっかりあいた のどには巨大なハエが出たりはいったりをくりかえし、その奥からうおるうう、と云う、うなり声が聞こえる。

 髪も生えていない頭部は、血膿に浸したような包帯が幾重にもまかれており、その表情も分からないが、そのまま転げ落ちるんじゃないかというほどに飛びだした、まん丸の目玉だけが片方、ぎろぎろと動いていた。

 そして左腕の手元には、まるで手と一体化したような、腕から直接生えているような、残忍な 五又いつまた鉤爪かぎづめが、黒々と光っていた。

 僕らはだれひとりとして、その場を動けなかった。動いたら、少しでも気をひいたら、その瞬間に飛びかかられる――そんな野生の勘とでも云うべきものが、僕らの足元を かたくなに繋ぎとめていた。

 僕は、無言で明音のスカートを手の甲で叩いた。

 はやく行って――そんな願いをこめて。

 にちゃり。

 『ヒトガタ』の化け物が一歩近づき、死んだ魚のような目が、室内をぐるりと一周する。 いっしょにぐるりとなった首が、一点でかちりと止まる。ゆっくりとその首が斜めに下がる。

 ――魚の目が、ぎょろぎょろと僕らのすがたを写していた。

「……は、」僕は言った。

「走れッ!」

 とんでもないスピードで追いかけられていた。まるで壁一面が地面だとでもいわんばかりに、べたりべたりと跳ね回りながら迫ってきているのが視界のはしに映った。

 つかまったら今度は、僕らが監守室に吊るされる番だ!

 ぶお、と風切音がして、僕と明音のあいだにあった白熱灯にヤツがぶら下がった。明音が振り返り、叫ぶ。

「裕樹ッ!」

「行け明音っ! 行けええぇッ!」

 あまりにもおぞましいまん丸の瞳が、ただ無感情に僕を見おろし、その身体がムチのようにしなって、こちらに飛びこんできた。

 とっさに手にしたのは、さっき見つけた巨大な釘だった。それを強く握りこみ、がむしゃらに突き出す――

 化け物はちょうど釘の先端に、頭を打ちつけるようにして飛びこんできた。だったら狙うまでもない。

 そして次の瞬間、一生忘れられそうにない感触が利き腕を伝ってきた。釘の先端は飛びだした目玉をつき破り、脳を貫通し、頭骨ずこつを打ち砕いてむこう側へ突き抜けた。

 ぎいけええぇええ

 ものすごい叫びをあげて、ヒトガタの化け物がのたうちまわる。僕はその身体を飛び越えて、まっすぐに飛びだした。曲がり角を、牢の鉄格子を使った遠心力で曲がりきる。曲がった先で明音が、

「裕樹っ! やったの?」

「明音っ! なんで待ってるッ!」

「う、うそでしょッ?」

 明音が僕の背後を見て声を上げた。確認するまでもない。さっきからまたびたびたと、追いかけてくる音が聞こえる。

 まろびでるようにして、道の先にあった扉を抜けると、僕は大急ぎでその扉を閉めた。 頑丈そうな錠がついていたので、それで扉を封じこめる。

 そのまま後ろを振り返ると、目の前には、長い長い鉄はしごがあった。それは、最初に下ってきた時よりはるかに長いものに思えたが、確かに僕らが下ってきたものだった。つまり、僕らはようやく入り口に戻ってきたことになる。この梯子をのぼれば、そこには陽の光がある。民家だってあって、村人ももちろんいる。そう思うと、全身の力がへなへなと抜けてゆくようだった。

 次の瞬間、何かが爆発したようなすさまじい音を立て、その扉が大きくしなり、僕は慌てて扉を体でおさえる羽目になった。きっと化け物が体当たりしているのだ、そう思った。体中で扉を封じ込めたまま、みんなに向けて叫ぶ。

「明音、いちばんにはしごを上って! 木之実さんはそのあとだ!」

「う、うんっ!」木之実さんが勢いよくうなずく。

 明音はまた短いスカートを押さえて、

「女の子の都合……なんて言ってられそうもないわね! 裕樹、上見ないでよっ!」

 がぼん。僕の背中をまた、とんでもない衝撃が襲った。僕は明音にむかって叫んだ。

「見てる余裕なんかないっ!」

 かんかんかん、鉄はしごをのぼる音のペースがいやにゆっくりと聞こえて、やきもきする。僕は木之実さんにむかって、

「木之実さんも明音に続いて! 木之実さんの運動神経ならすぐだっ!」

「で、でもっ!」

「僕のことはいい! 小学校のころ、うんていは得意だったッ!」

「う、うんっ……?」

 かかんかんかん、はしごを上る音がひとつ増えた。

 それにしてもこの扉、いつまでもつだろうか?

 がつんとひときわ大きな衝撃が来て、木の破片が扉から散った。ふたりのすがたは、まだはしごの中ほどにも達していなかった。

 あと3回、と僕はこころに決めた。

 頼むから、3回はもってくれよ――

 また大きな衝撃がきて、蝶番ちょうばんが弾け飛び、目のまえを滑っていった。もはや扉をささえているのは、僕の身体と、錠となっている金具と木板だけだ。遠くから深い残響をともなった明音の声が響いて、

「裕樹ッ! もういいわ! 早く逃げてッ!」

 がづん。2回。と冷静に僕は数えた。その衝撃で扉の上部3分の1ほどが、ものすごい勢いで吹き飛んでいった。

 姿は見えなくなったけれど、はしごを上る音は、まだ半分くらいの位置から聞こえる。 ふたりが地上に上がりきるまで、ここを離れるわけにはいかない。それでも、次の一撃はさすがに防ぎきれないかもしれない。

 浮遊感。

 ものすごい衝撃が背中を突き上げた、と思ったら、

「ぅがッ!」

 僕は背中を壁面にしたたかにうちつけて、肺の酸素がのこらずしぼられていた。

「裕樹――ッ!」

 明音の叫びがわんわんと 木霊こだました。前方に、あとかたもなく吹き飛んだ扉の跡があることを考えると、どうやらきれいに1回転したらしい、そう僕は思った。

 なんとか身を起こし、顔をあげると、まん丸の目玉に釘をつきさしたままのヒトガタがねっとりと僕を見ていた。背中が、肺が、ぎしぎしと きしむが、今はそんなことも言っていられない。僕は、気力をふりしぼって、鉄はしごに手をかけた。

 飛び上がるようにしてはしごを駆け上る。けれどがむしゃらにあがれたのは最初のうちだけで、あとは落ちるのが怖くて、せいぜい一段ぬかしがいいところだった。

「うううぅうぅううるおおおぉん!」

 雄叫びをあげたヒトガタが、僕に続いて鉄はしごに飛びついた。衝撃が鉄ハシゴを大きく揺らす。

 ああくそ、こんなスピードじゃあすぐにも追いつかれる!

 ハシゴはのこり約半分。どう考えても上までのぼりきるのは不可能そうだった。

 さっきから背中が痛みで悲鳴を上げていたが、そんなことはお構いなしと云わんばかりに、とにかく鉄はしごをつかんでは引き寄せを繰りかえし、落ちても落ちなくても結果はおなじだ、とばかりに速度をあげ、そして、

「うわっ!」

 強靭きょうじんな力で、足首をつかまれた。

 ――追いつかれた!

「このッ!」

 僕は叫んでとっさに足をふり払ったが、その結果、足は宙ぶらりんとなった。はしごにもどせばまたつかまれる。だからと云って、腕の力だけではしごをのぼるなんて無理だ。はしごはのこり3分の1。どう考えてもこれ以上はのぼれない。打つ手はなかった。

 ふたりは、無事に上までたどりつけただろうか――僕は、そう思いを馳せた。

 ヒトガタの 鉤爪かぎづめが、がぱりと開いて、残忍な牙をとがらせる。

 そのとき、穴のなかに光が射しこんだ。陽の角度が変わったらしい、穴のふちで中を覗きこむみんなの顔が、逆光に写しこまれた。

 僕は声を張り上げた。

「雅人、今だ―――――ッ!」

「ああ、分かってるよッ!」

 ごふ、と鈍い音がして、足元の気配が消えた。ヒトガタの化け物が、そのまま巨岩といっしょに、底まで落下していくのが見えた。

 そう、雅人の手によって、岩が投げ込まれたのだった。


「以心伝心」

 僕が命からがら縦穴の底からはいでると、そこにはドヤ顔の雅人が仁王立ちをしていた。

その膝が、がくがくと震えていたのを僕は見逃さなかった。

 僕は言った。

「ああ、助かったよ雅人」

「裕樹、ケガないの? だいじょうぶっ?」

 がばりと飛びついてくる明音に対して僕は、心配ない、と云う風に手を振った。明音が涙目で心配してくれるなんて、学校にいたら一生味わえなかったにちがいない、そんなことを思った。雅人はにこやかな笑顔で、

「いやあでもハラハラしたなあ。裕樹くんの下になにかいるっていうのは分かったけど、裕樹くんに当てるわけにはいかないからね。すがたが見えるまで待ってるなんて、心臓にわるいよ。20分なんかとっくに過ぎてたけど、ここにいてよかったなぁ」

「あんた、実は怖くなってふるえてたでしょ」

 そう言って明音は、じっとりとした目で雅人を睨めつける。

 僕は言った。

「うん、でもおかげで助かった。ありがとう」

「ゆーきくん、もうあんまぃむちゃしちゃだめだよっ?」

 牢獄で気を失っていた木之実さんは、見る限り変わった様子もなく、怪我などもないようだった。僕は内心ほっとして、木之実さんの言葉に答える。

「うん、気をつけるよ」

「ほんとにわかってぅのかなぁ……」

 と、木之実さんはため息に近いものをついた。

 その横では、明音が深い深い縦穴を身を乗り出して覗きこんでいる。

「それにしても、あの化け物、あれでやっつけたのかしら?」

 雅人も同じようにして覗きこんで、

「え、あれ化け物だったの? そりゃあでっかい岩落としちゃったけどさあ」

 化け物と認識していなかったのなら、一体なんだと思ってあんなにもでかい岩を落としたのだろうか、この男は。

「いやでも、」と僕は言った。

「すぐに起き上がってまた地下道に潜りこんでた。またいつ襲われるか分からないよ」

 明音は神妙な面持ちで腕を組む。

「そう、あんな化け物がまだいるのね。裕樹、早くこの村から逃げましょう」

「で、でもどうやって? みんな、どやってこんなとこまできたの?」

 木之実さんの言葉に、そうか、と僕は思った。木之実さんはトンネルで消えた。それから今まで眠っていたのだとしたら、この村にどうやって入ったかを木之実さんが知る由はない。けれど、今は悠長に説明している暇はなさそうだった。僕はみんなに向けて言う。

「歩いて帰るのはむずかしいと思う。バスが出る時間はまだまだ先だ。だから、電話を探して車を呼ぼう。それが最善だと思う」

「そうね、それがいいわね」と明音もうなずく。

「あ、ねえっ!」

 声のしたほうを振り向くと、雅人が珍しく真剣な表情をしていた。彼は続けて、

「茉莉花さんもつれて帰んなきゃ。化け物がうろついてるような村に、残していけないよっ。彼女、あの声みたいのだって怖がってたんだ!」

 明音はこの言葉にもうなずく。

「そうね、まっちょの言うとおりだわ。裕樹、まずは茉莉花ちゃんをさがすのよ」

「ああ、そうだね。茉莉花ちゃん、まだあの家にいるのかな」

「やだなあ。あのばあちゃん、怖いんだよなあ」と、雅人がぼやいた。

 僕らは、茉莉花ちゃんのいるはずの屋敷へと歩き出す。

 があ。とカラスが朝空に向かって鳴いた。

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