紅満ちる、その空に ―混沌―

@rururu

第1話

 快晴。お日さまはいよいよ乗ってきましたと言わんばかりに調子づき、かっかっかと僕らに紫外線をばら撒いていた。

 季節は6月。それだというのに、お日様は、あたしゃそんなこと知りません。とでも言いたげだった。

 遠くに映るビール工場のネオン看板は今にも力尽きて崩れ落ちそうで、群れをなして飛ぶ鳥たちは、涼しい場所を求めてひたすらに北を目指しているのかもしれなく、その下を飛んでいたカラスが急降下したのは、行水のできる水場を見つけたにちがいなく、こうして教室の窓からプールが見渡せないのは教師たちの陰謀にちがいない。

「あっついわねー……」

 陽光は、ようやくにして放課後を迎えたここ、津島市立 神谷かみや南高校2年3組の教室を容赦なく隙間なくあたため、倉名明音くらなあかねは帰る気力も奮い立たない、と云う感じで椅子から両足を投げだし、数年間の掃除、大掃除を乗りこえ、なお処分されなかったのであろう、年期のはいったうちわをロッカーと壁のすき間から見つけ出し、それでばたばたと自身をあおいでいた。

足元まですらりと伸びているはずの緋色の髪は、今は明音の尻の下だが、収まりそこねた髪の毛がうちわの動きにあわせてふわりと揺れていた。

 倉名明音は、とにかく『楽しいこと』に目がない。いつも突拍子のないことを言い出しては、家庭の都合でこの学校に転入してきたばかりの僕も含めて、さまざまな厄介事に巻き込んでくれていた。

 そのおかげで、僕は転入して1週間で冷たい冷たい4月の学校のプールに飛び込み、

 転入して2週間のうちに、化学室の危ない薬品で錬金術ごっこをし、

 転入して1ヶ月のうちに閉鎖された小学校でサバイバルゲームをし、

 転入して2ヶ月ちょっと立つ今では、担任どころか教頭を含む、数々の教師が僕らの行動に目を光らせているともっぱらの噂だ。

 厄介者ここに極まれり。

 もちろんその『厄介ごと』の立役者が倉名明音であることは教師連中も重々承知しており、主に監視の的となっているのは明音なのだが、当の本人はどこ吹く風だ。

 その明音に視線を送ると、彼女はだらしなく両足を投げ出し、風呂桶にでもつかるような格好で椅子にすわっているところだった。いっそ、寝そべっているとでも言ったほうが正確なのかもしれない。

僕はため息をついて、

明音あかね、行儀わるいよ」

「なによ裕樹。あついんだからしょうがないわ」

 そう言って明音は腰を椅子からずりずり下げるものだから、その分スカートの 布地ぬのじはずりずりと上がり、制服のスカートを人よりよっぽど短くしている明音の場合、それはもうミリ単位のせめぎあいと云うものだった。

 あたしは髪が長いからちょっとそっとのことじゃ見えないのよ、というのが明音の持論だが、こんな状況を目の当たりにすればさしもの僕も、

 友達なんだから気にしないのが友情さっ。というさわやか天使と、この状況で眼をそらすなんて貴様それでも男であるか。という 破廉恥はれんち悪魔が僕の中でミリ単位のせめぎあいを見せるのだから、やっぱりやめてほしい。

「ああもう、なんなのよこのあつさは!」

 嘆いた明音が、うちわを投げ出し頭をばさばさすると、床すれすれまでのびた綺麗な髪の毛が、あやうく放課後床掃除をしそうになって、僕はわてわてした。

「お、落ちついてよ」

「落ちついてなんかいらんないわ。まだ6月よ? お寺のあじさいにかたつむりがなめなめの6月なのよっ?」

「えっと……よくわかんないけど」

 明音は何を言っているのだろう。そう思って明音の手元にあった手帳を覗き込むと、6月のカレンダーが開かれていたそこには、確かにお寺とあじさいとかたつむりのイラストが描かれていた。

 なるほど、と僕は思った。明音はいつもこうして、頭に浮かんだイメージをそのまま言葉にしてぶつけるのだ。

その明音は爪を噛みながら、

「これは異常気象にちがいないわ。銅像のオヤジが禿げるのも無理ないわね」

「いや銅像は禿げないから。銅像が溶けるのと髪が禿げるのはどっちも酸性雨の影響かもしれないけど、混じってるから。ついでに言うと、禿げのほうは迷信だから」

「ふんだ」

 がこん、と椅子をならして明音は立ちあがり、僕の横をすり抜けひとつ前の席に行くと、

「ちょっとまっちょ、いつまで寝てんのよ! もう授業はとっくに終わったのよっ?」

 そこにつっぷして寝ていた男のわき腹を、ずびずびと蹴突きだした。要するに、暑さのストレスに対するやつ当たりだ。

「に、にくまん……」

『まっちょ』と呼ばれた居眠り男が、不気味につぶやく。

 明音はその奇天烈な返事に眉をひそめ、

「は? にくまん? なによ、男がねごと言ったってかわいくないのよ」

 だが寝言は続く。

「むへへ、にくまんやーらかい……」

 何故か 恍惚こうこつともいえる表情を浮かべた男は、指先を卑猥にうねうねとさせていた。

「うわっ、キモいわこいつ」

 明音がドン引く。だが僕は何をいまさら、とも思う。この男からエロスと気持ち悪さをとったら、そこにいるのはのっぺらぼうか地蔵のどちらかだ。

 明音はがばりとうしろを振り返り、

「高石! 高石はいるっ?」

 教室中を見渡して大声で呼びかけた。

 のそり、その声にクラス一の巨体がふるえて、

「な、なんだい倉名さん。僕、これから相撲部の練習に行かなきゃいけないんだ」

 もふー、もふー、という鼻息とともに高石くんは答えた。人一倍の筋肉と脂肪を背負った彼は、この暑さにすっかり汗だくの様子だった。着ていた体操服はべったりと体に張りついており、なんとも名状しがたい様相を呈していた。

 明音は得意げに腕を組みながら言う。

「ちょっと、あんたの胸を借りたいのよ。だいじょうぶ、すぐ済むわ」

「え、え、僕の胸を?」

 瞳を輝かせた高石くんをみて、僕はこの上ない あわれみを感じていた。

 そして明音の元に移動した汗ダルマ、もとい高石くんは、

「え、え? 用があるのは倉名さんじゃなくて木村くんなのかい? でも、彼寝てるよ?」

 明音は朗らかに答える。

「だーいじょうぶだいじょうぶ! ちょっと行ってきてあげてよ!」

「しょ、しょうがないなぁ……」

 そのとき、まっちょこと、木村くんこと、木村 雅人まさとは、いまだ安らかな寝息を机上で浮かべており、にくまん、にくまんといいながら手をわきわきさせており、その彼に巨体が近づくのを見計らって明音は、

「えいっ」

 ぺちょ。

『あんたの胸を借りたいのよ』僕はそのとき納得した。明音に背中から突き飛ばされた高石くんはバランスを崩し物理法則に則り木村雅人のもとへ倒れこみ、汗にまみれた高石くんのふくよかな胸は、そのまま木村雅人の手にすっぽりと納まり、未だ夢心地の木村雅人はさらに手をわきわきし、

「に……にくまんだぁ……」

 高石くんが悶え震える。

「あ、あ……」

「にくまんっ、にくまんっ」

「あ、あっ、あぁっ――!」

 その後の一連の時間は、語るにはあまりにおぞましいものだったので 自粛じしゅくさせていただく。


 僕は言った。

「雅人、おつかれ」

「ひ、ひどすぎる……」

 トイレで手を洗い帰ってきた雅人は、しくしく泣いた。それを見て明音は悪びれもせず言う。

「なによ、起こしても起きないまっちょがわるいのよ。っていうかなんてもの見せるのよ。3日はごはんがおいしく食べられない光景だったのよ?」

 それは自業自得だと僕は思う。ついでにとばっちりを受けた僕のこころも、少しは癒してほしい。

 そして睡眠をとんでもない方法で阻害された雅人はぷりぷりとし、

「で? いったいなんの用なのさっ。今日は、夕方のバイトの時間まで、学校で寝て過ごそうって決めてたのにっ」

 ん。という感じで明音は手にしていたうちわを雅人に差しだした。

「あ、くれるの? いやぁ悪いなあ。ちょうど暑かったんだ」

「なに言ってんのよ。それで あおいでよ」

「…………」

 雅人が大口をあんぐりと開けて石になる。これにはさすがに僕も驚き、

「あ、明音、まさかそれだけのために雅人を起こしたの? わざわざ?」

「そうよ?」

 明音はこともなげに答えた。雅人はまたしくしく泣いた。


 気を取りなおした雅人は、明音にうちわを振り向け、

「っていうか、俺扇ぎっぱなしなんてヤだからねっ! せめてジャン負けとかにしてよ」

「そっか。一理あるわね」

「でしょでしょ?」

「でもジャンケンなんて芸がないわ。かと言って、ここでいつものカードゲームを持ち出すと、勝負がつくまでに熱失神を起こすかもしれないわ」

 起こすもんか、と僕は思ったが何も言わなかった。

「決めたわ。コインで勝負よ」

 明音の言葉に、雅人が目を丸くする。

「コイン? また古風だなぁ。別にいいけど」

「じゃあいくわよっ。いいまっちょ? 表がでたらあんたの勝ち、裏がでたらあたしの負けよっ!」

「マジでっ? その勝負のった!」

 明音は雅人に背中を向け、したり顔でほくそ笑む。

「むぷぷ、どっちにしてもあたしの勝ちってことに気づいてないわ」

 僕はため息をついた。どうやらこの子だけ気付いていないらしい。

「明音、なにをたくらんだつもりか知らないけど、おもいっきり自爆してるからね」


「どうしてこうなるかなぁ……」

 うちわをばたばたとしながら、雅人がぼやく。

 けっきょく自爆にとちゅうで気づいた明音が、表がでたらあたしの勝ち、裏がでたらまっちょの勝ちよ、とルールを改定したのだが、いざ百円玉が宙を舞い、机上きじょうを跳ね、表になった『100』の文字をふたりはじっとりと にらみつけ、

「で、100円玉の表ってどっちっ?」

 と、同時に叫ぶと云う衝撃の結末が待っていた。

 そうなれば論争で言い負かされるのは雅人に決まっており、だからこそ彼はこうして明音を扇いでいるのだった。

 100と云う数字が書かれた面は裏にあたるので、勝負は雅人の勝ちだったのだが、それは彼には知らせないほうがよさそうだ。

「あっはっは、極楽だわ~」

 明音は唯我独尊、といった感じに笑う。雅人は悔しそうに、

「くそーっ、裕樹くん、風神さまのお怒りってことにして倉名さんのスカートを下からおもいきり扇いでもいいかな?」

 僕は答えた。

「僕はいい思いをするだけだから別にかまわないけど、とんでもない目にあうのは雅人だし、そうなっても僕に明音は止められないと思う」

「やっぱそうかぁ……」

 明音ははいよいよ調子に乗り、

「さぁさぁ、もっとしっかり扇ぐのよっ」

「くっそぅー!」

 雅人はそう言ってうちわをいよいよ短くもち替え、片手をそえて、下から扇げない代わりだ、とでも言わんばかりに、

 ぱんぱんぱんぱん!

 明音は眉をひそめる。

「あたし酢メシ?」

 僕は言った。

「焼き鳥かなぁ」

「むかぴん!」

 明音の蹴りが雅人に炸裂した。木の葉のように吹き飛んだ雅人は、がこおん、と盛大な音をたてて掃除ロッカーの中にきれいに収まった。ホールインワン、と僕は心の中でつぶやいた。

 そして明音は使ってもいない手を叩いて、ついてもいないほこりを落とし、不用品をしかるべき場所に収めた後のようなすっきりした表情で着席した。

「それにしても、ポコ実はどこでなにしてるのかしら? 体操着はここにあるし、部活に行ったわけじゃないわよね?」

 僕はその姿を頭に浮かべ、答える。

「ああ、木之実このみさんならミーティングだって言ってたよ」

「ってことは、1度はここにもどってくるってことよね」

「うーん、そうなるのかな」

 ぎぎぎぃ。

 ツタンカーメンの人型棺を開けるようにして、雅人が掃除ロッカーという名の墓から這いだし、時をおなじくしてごろろー、と音を立てて教室の後ろのドアが開いた。そこにはほわほわした雰囲気の少女が満面の笑みで立っており、要するにその人がさっきから話していたポコ実こと木之実さんだった。

 木之下木之実きのしたこのみという冗談みたいな名前を目にすると、たいていの人は一度面食らう。そして、冗談みたいな彼女の 滑舌かつぜつを耳にし、二度面食らう。

 ついでに言うと、頭のネジがすぽんすぽんとはずれまくった彼女が、恐るべき運動神経と陸上部の部長候補と云う肩書きの持ち主だということを知っては、三度面食らう。

 そしてそんな木之実さんは、普段からゆるみきった頬元がとうとう 雪崩なだれを起こしました。という感じの溶けきった笑顔で、教室と廊下との境界線の上に立ちっぱなしだった。そのだらしない顔に、明音が問いかける。

「どーしたのポコ実? そんなとこに立ってないで入ってきなさいよ」

 木之実さんは僕らのそばの椅子に腰かけ、夢見心地の表情で、

「えへ~」

 と言葉をもらした瞬間、ずっと開きっぱなしだった口元から、じゅる、とよだれも一緒にもれた。

「ほわわわっ!」

「ポコ実、いいからとりあえず1回口を閉じなさいよ……ついでによだれもごっくんしなさい。で? なんでそんなうれしそうなの?」

「きーてきーて! あのね、合宿がきまったの!」

「合宿?」と僕は聞いた。

 明音が口をはさみ、

「それ、そんなに喜ぶことなのかしら? 運動部はどこもやってるもんでしょ?」

「ほぁ、うちの学校は公立だし、そんなにおかねないんだって。

 陸上部はそんなにかつやくしてないかぁ、きょねんは行けなかったの」

「ああ、そうなんだ」と僕は言った。

 それにしても、あいかわらず惚れ惚れするほどの 滑舌かつぜつの悪さだった。あるいは、唾液の分泌量が人の数十倍はあるのかもしれない。

 木之実さんのにたにたは止まらない。

「えへぇへへ……がんばったかいがあったなぁ」

「こ、木之実さんは部長候補だもんね。たぶんいちばん部に貢献したんだと思うよ」

「そ、そそそんぁことないよ~。うふふふ~」

 木之実さんのこの様子には、明音もひきつり笑いを浮かべ、

「ちょ、ちょっと怖いわね……」

「う、うん」

 と僕は同意した。


 棺から這い出した雅人は、自分の席に腰かける。

「よいしょっと。それで木之下さん、合宿っていったいどこに行くの?」

「あ、まさとくん。ばしょはね、おおくまなのっ!」

 僕は、『おおくま』という地名に聞き覚えがあることに気付いて、言った。

「大熊ってひょっとして福島の? おばあちゃんが住んでたところかも」

「うん、ふくしま! そぇそぇっ!」

 明音が口をはさむ。

「ポコ実、気をつけなさい。そこは夜になると、どでかい熊がでるのよ。ポコ実なんか頭からむしゃむしゃよ」

「え、えぇ――――っ?」

 何をバカな、と僕は思ったが、木之実さんは信じたようだった。

「でも、合宿なんて部活やってない俺らには縁のないことだよねぇ。バイトに合宿なんてないし」

 雅人が机に両肘をついて、言った。同じく『バイト組』の明音が賛同する。

「あたし合宿なんて行ったことないわ。ポコ実、合宿っていったいなにをするのよ?」

「えぇ? そんなの部活のれんしゅーにきまってぅよー」

「部活の練習なんて学校でもできるじゃない。ちゃんと整備されたトラックも設備もあるし、なんでわざわざ辺ぴな場所に行ってまで練習するのよ?」

「ちがうよあかねー。合宿はね、みんなでいっしょにすごして、ふだん学べないことをいーっぱい学んでくぅんだよっ」

 その言葉を聞いて、明音の体が一瞬固まったことに僕は気付いた。そのまま明音の首はするすると下がり、

「なによそれ……あたしそんなの行ったことないもん! わかんないわよっ!」

 雅人と木之実さんが少し驚いた表情で固まる。雅人が口の中で、「すねちゃった」とつぶやく。

 僕は言った。

「明音、ひょっとしてうらやましいの?」

「な、なに言ってんのよ! あたし部活なんてやる気ないし、って言うかバイトあるからできないし……合宿なんて……」

 その様子を見て、雅人がため息をついた。

「やっぱりうらやましいんじゃないか」

「ちょ、ちょっと興味あるだけよ。誰もうらやましいなんて言ってないわ」

 木之実さんは笑顔から一転、くもった表情になったが、明音の瞳を覗きこんで言った。

「……ごめんね? あかね」

「べ、別にあやまることないじゃない。いいのよ。ポコ実は楽しんできなさい」

「……うん」

 沈黙が流れた。

 誰も言葉を発さず、明音はそんな空気を作り出してしまったことに対し、気まずそうな様子で、その頭もどんどんと下がっていった。なにせ楽しいことに目のない明音だ。自分の知らない楽しいことを、木之実さんが知っていたのがくやしかったのかも知れない。

 教室に最後まで残っていた女子グループがわらわら出て行き、僕らだけが残された。

 ふぁいおー、とぇーい。

 校庭から運動部のかけ声が聞こえる。

 天井の裏から無数の机と椅子をひきずる振動音が降りてくる。

 僕らを見おろしていた校内放送用のスピーカーが聞いたことのない教師の名前を読み上げる。

「それにしても、暑いなあ」

 雅人が助け舟を出したので、僕はそれに乗ることにした。

「これだけ暑いと、海で泳げそうだよね」

 木之実さんも便乗する。

「う、うん。うみ、はやくいきたいなぁ」

「あ」

 明音がひと言を上げ、虚空に視線をなげた。なにか見えたのかと思ってその視線をたどるが、そこには先ほど教師の名前を読み上げたスピーカーがむっつりしているだけだった。

 もういちど明音に視線をもどし、その表情を見て、僕は嫌な予感を感じとっていた。

「決めたわ!」

 がたーん。椅子を吹きとばすように明音が立ち上がる。

「な、なにを?」

「あかね、どーしたの?」

 雅人と木之実さんが尋ねる。その表情には、一抹の不安が浮かんでいる。

 そう、倉名明音が突拍子もないことを言い出すのは『いつものこと』なのだ。

 明音は先ほどのスピーカーのあたりを指差し、そして声高にこう宣言する。

「合宿に行くのよ!」



 ざんぶー。

 波の音が聞こえていた。

 僕は腕を組んで明音を見つめ、無言の圧力を加える。明音は動かない。先ほど海を指差し、一声を発したままの格好で固まっていた。僕にはこの結末が分かりきっていたが、明音には分からなかったらしい。

 ざんぶー。

 もう一度波の音がして、ようやく明音が息を吹き返した。

「ちょっと、これはどういうこと? なんで人っ子ひとりいないのよ? 絶好の海水浴日和なのよ?」

 僕は胸中の酸素を全てはきだした。

「明音、海開きって知ってる? 海はそれまで遊泳禁止だし、海の家だってないよ」

「信じらんないわ……海はいつだって開けてるじゃない。いったいだれがそんなことを決めたのよ?」

「だれがって……だれだろう」

 僕にも分からなかったが、今はそれより何より、泳げもしない海水浴場にわざわざやってきて、この炎天下の中いったい何をしろというのか、それを明音に問いただしたかった。

「や、やっと追いついたぁー!」

 雅人が4人分の荷物とともに、ぼさりと足元の砂浜にたおれこんだ。おつかぇさま。と木之実さんがねぎらった。


 明音はいくと決めたら本当にいく。そこにどんな障害があろうとお構いなしだ。

 僕らが準備をさせられ、駅前に集合したのは、明音が『合宿に行く』と決めたときからわずか15時間後のことだった。

「それで、荷物まとめてやってきてから言うことじゃないけど、合宿っていったいなにをするの?」と、僕は聞いた。

 明音が答える。

「あそぶの」

「…………」

 荷物と一緒に転がった汗だくの雅人は、無言で三白眼を明音に向ける。

 僕は再び聞く。

「えーと、それで?」

「それだけ」

 ふむ、と僕は頷いた。

「それはつまり、」

「要するに、ただあそびにきただけじゃないか」

 と、雅人が横から明音の要件を一言で要約した。

「そうよ。 他になにか必要なの?」

「明音、分からないけど、合宿って本来、なにかを勉強したり練習したりするものだと思う」

 どこからつっこんでいいかまるで分からなかったが、僕なりに頑張って明音を諭してみた。すると明音は、

「どうでもいいわ。楽しく遊んで、宿に泊まれればそれでいいのよ」

 ふむ、と僕はもう一度頷いた。

「それはつまり、」

「要するに、ただの旅行じゃないか」

 またしても、雅人が一言で要約した。

「あ、あはは……」

 木之実さんが横で、苦笑いを浮かべた。

 はあ。僕と雅人は胸中の酸素を、のこらず吐き出す。


 人気のない浜辺の上空には、青空にぽっかりとした雲が浮かび、からっとした陽射しががそのあいだから降ってきていた。その陽射しに負けるもんかという感じのからっとした声で明音は言った。

「さ、泳ぐわよっ」

「って待ってよ!」

 僕は明音の腕をわし、と掴んで止めた。明音が怪訝な表情で振り返る。

「いったい何事よ?」

「いままでの話しは聞いてた? 遊泳禁止だってば」

「それはそう決めた人たちの都合で、あたしたちの都合じゃないわ」

 惚れ惚れするような自分勝手っぷりだった。いったい何をどうしたら、ここまでルールに無頓着な人格ができあがるのだろう。僕は不思議に思った。

「で、でもあかね、うみのいえがないかぁ、水着に着がえあんないよ?」

「あら?」

 木之実さんに言われて、初めて明音は気付いたらしい。『制服着用のこと』という明音の指令を律儀に守った僕らは、誰一人として水着を着ていなかった。

 制服を砂まみれにした雅人はがばりと立ち上がり、

「別にここで着替えてもらっても、俺たちは一向に構わないけどね! ねえ裕樹くん」

「雅人、あまり寿命を縮めるようなこと言わないほうがいいと思うよ」

 ふむぅ、と明音はうなって、

「じゃあポコ実、まずはお手本を、」

 明音が言うと、ぴうと木之実さんは逃げ出した。

「うーん」

 明音は腕組みして、眉間みけんにしわをよせる。

「悔しいわね……せっかく水着持ってきたのに」

「じゃあ、プールでも探してみる?」

 と、僕は提案してみた。明音は、はたと首をあげて、

「プール?」

「水がいっぱい入ってるところ」

「知ってるわよ。じゃなくて、なんでプールなんかいかなくちゃいけないの?」

「なんでって聞かれても……泳ぎたいんじゃなかったの?」

「あたしたちは合宿にきたのよ? 合宿でプールなんて聞いたことないわ。それじゃあ、まるで遊びにきたみたいじゃない」

 雅人はこの言葉に、目をむく。

「いや、どう考えてもそのとおりだし! 合宿の定義なんかとっくに踏み外してるし!

 っていうかさっき自分であそびにきた、って言ったばっかだし!」

 だがしかし、雅人の理論が明音に通用するはずもなく、

「なんにせよ、泳げないんじゃしかたないわね。あきらめてつぎのトコ行きましょ」

 そう言うなり明音はさっくりときびすを返し、ドコカを目指し、歩きだす。

「つぎのとこぉ?」

 気づけば木之実さんがそそくさと戻ってきていた。

 雅人は少し安心したような表情で、

「なんだ、行き先決まってるんじゃないか」と言った。

 明音は自慢げな様子で答える。

「あたりまえよ。合宿だもの、旅のしおりとか用意するでしょ?」

 ならどうしてそれを僕らにくばってくれないのだろうか。その問いを口にすると明音は、

「あいにくと1人前しかないのよ」

 飄々ひょうひょうとそう答える。

「こんどは合宿らしいところなんだろうねぇ」

「あかね、そぇで、どこいくの?」

 雅人が言って、木之実さんが問いかけた。それに対し明音はあろうことか、こう答える。

「ゲーセンよっ」

「…………」

 雅人は失敗したふくわらいのような表情をし、木之実さんは苦笑いをとおり越して、冷や汗とたてすじを顔中に浮かべていた。僕も帰りたかったが、わずかな可能性を胸に抱いて聞いてみた。

「あの明音、ゲーセンっていうと、」

「ゲームセンターの略よ。ゲームがいっぱい置いてあるのよ」

「知ってるよそんなのっ! ぜんぜんちっとも合宿らしくなんかないじゃないかっ!」

 雅人の主張ももっともだが、当の明音は「楽しければいい」の一点張りだった。

 僕はもうどこをどうつっこんでいいか分からなかったし、あとのふたりにしてもおなじことみたいだった。


 明音はいくと決めたら本当にいく。

 だからこそ、僕らは本当にゲーセンにやってきたし、そこで海水浴のために割り振られたはずの時間分までたっぷりと時間をつぶすことになった。なにをすき好んでこんな辺ぴな土地までやってきて、ゲーセンで遊ばなくちゃいけないのだろうか。それを明音に問うたところで、『みんなでいっしょにすごして普段学べないことをいっぱい学ぶ』とか言いわけされるに決まっているので、やめておいた。

 明音は、『ゲームに負けた人間が地元のお土産をひとつみんなに奢る』というルールを提案するが、ものの見事に自爆をくりかえし、ひとしきりがつくころには両の手で数え切れないほどのお土産を購入することになっていた。


「そう云えば」

 おみやげ屋からでてきたところで、僕は声をあげた。

「明音、『旅のしおり』では今夜泊まる場所は決まってるの? まさか林間学校と称してキャンプだとか言わないよね?」

「馬鹿にしないでよね。それぐらいちゃんと考えてるわよ」

 これには雅人も感心し、

「へー。昨日の今日だっていうのにすごいね。それにしても、こんなオフシーズンによく泊めてくれるところがあったなぁ」

 頭のネジは足りないが、明音にくらべればよっぼどしっかりしている木之実さんは心配そうに、

「あかね、ちゃんと高校生だけってこと、いった?」

「信用ないのね。ちゃんと伝えたし予約もしたわよ。なんとか、ロマーニャっていうシャンパンよ」

「シャンパン?」

 雅人が目を丸くする。

 木之実さんは呆れ顔で、

「あかね、おさけの予約なんかしちゃったの? しかも高校生だけっていって?」

 僕は言った。

「いや、たぶんペンションのことだとは思うけど、それにしても明音、名前はちゃんと覚えようね」

「どっちでも大して変わらないわ。 それよりほら、そこのバス停から乗るのよ」

 そう言って明音は、駅前のバスターミナルからすこし外れた、標識の色 せたバス停を指差した。枯死した枯れ木のようなそのバス停の標識上部からは、『七塚谷、走りバス。』と云う素っ頓狂なバス会社の名前がかろうじて読みとれた。

 走りバス。

 明音はそれを見るなり大はしゃぎし、

「バスって言ったら修学旅行の醍醐味よね! ポコ実、おやつはもった? あたしは300円までなんてけちくさいこと言わないから、じゃんじゃん用意しなさい。3億円くらいっ」

「駄菓子屋が店ごと何件も買えるよ」と僕は言った。

「うんっ。おやつなぅあ、いーっぱいもってきたよっ。あかねがかってくぇたおみやげもたべぅよっ」

 木之実さんはいつも通りの半ば崩壊した言語で言い、

「お、なんか修学旅行っぽくなってきたなぁ」

 と、雅人も楽しげな様子だった、

 いつの間にか合宿が修学旅行に取って替わってるし。やれやれ、と僕はため息をついた。


 ぼこぼこぼこ、と音を立ててやってきたバスは、それはもう目を疑いたくなるようなものだった。昭和のホーロー看板にそのままのっかりそうな古すぎるデザイン。『七塚谷、走りバス。』と刻まれた車体は、元は白かったのだろうか。まるで泥水を頭からかぶったような様相だった。もしも幽霊バスなるものが存在するのなら、それはこんな姿をしているのかもしれない。そのバスが、心底疲れ果てた、という感じのじじむさいため息をついて、後部ドアを開いた。

 やっほう、と云う感じで明音がまっ先に乗りこみ、

 やれやれ、と云う感じで雅人が続き、

 わたわたしながら木之実さんが乗りこんだ。

 車内には案の定ほかの乗客の姿はなく、僕らの貸切となっていた。その後部座席を、4人横にならんで占領する。

 それにしても、じじバスの揺れっぷりといったら凄まじい。サスペンションは老人の間接軟骨のようにすりへってなくなってしまったんじゃなかろうか、タイヤはそれこそブリキかなにかでできているんじゃないかと疑いたくなるような振動だった。木之実さんなど、大きなくぼみを乗りこえるたびにおしりがぴょこんと浮きあがっては、すっかり目を丸くしていた。

「裕樹っ、すこんぶ食べる?」

 どびゅ、と僕の前になじみの赤い箱が差しだされた。明音だった。

「楽しそうだね、明音」と僕は言った。

「そりゃあもう。修学旅行なんて中学以来なのよ」

「それあたりまえだから。高校の修学旅行はこれからなんだし」

「?」

 明音はあごに人差し指をあて天井を見上げ、考えてます。のポーズでしばし固まると、

「まちがえたわ。旅行なんて中学の修学旅行以来って言いたかったのよ」

「ああ、なるほど。それなら、僕もおなじかな」

「あらそう? でもね、こんなに楽しい旅行は、はじめてよ。修学旅行なんか比べものにならないくらい」

「……なら、僕もおなじかな」

 明音は心底楽しそうに笑った。綿毛がぱちんと弾けたような笑顔だった。来てよかったのだ。そう思った。

 雅人のほうを見た。笑顔だった。

 木之実さんのほうを見た。

「くー」

「うわわっ!」

 僕はあやうく飛び上がりかけた。木之実さんのふっくらしたほっぺが、ものすごい至近距離にあった。どくん、僕の胸がふるえた。明音が目ざとく気付いたらしく、

「あら、役得ねぇ」

 そうなれば雅人も気付き、

「お、いーなぁ」とうらやましそうに言う。

 だがしかし、僕としてはそれどころではない。

 見ちゃいけない。心頭滅却。僕は、バックミラー越しに見える運転手のオヤジをひたすらに見つめた。なにかを感じたのか、制帽の下にのぞいたオヤジのヒゲが、ひくひくとうごめいた。

 木之実さんは寝ていた。お約束のように、僕の肩に頭を預けきっていた。じじバスがごとごとなるたびに、木之実さんの身体がむにゅむにゅなる。じじバスがびょこんと飛び跳ねれば、それはもう桃色の楽園が左半身に広がる。僕はもう、生涯このバスに足をむけて寝られないのかもしれない。

 ごとごと。

 むにゅむにゅ。

 やわらかい。

 全体的にふっくらとした印象の木之実さんだが、いくらなんでも人間の身体がこんなにやわらかくていいのだろうかと思ってしまう。僕は、その内容物の構成に思いを馳せた。 なにがはいってるんだろう。肉まんだろうか。

 そして、ひじのあたりに押し付けられている、ひときわやわらかいものがなんなのかを肉眼で確認してしまったが最後、僕は二度ともとの世界に戻れないだろう。

 僕らの様子を興味深く観察していたのか、明音は言う。

「みてまっちょ。裕樹が石になったわ」

「お、ほんとだ」

「むへへへ……」

 最後のは僕の精神がとうとう 破廉恥はれんちワールドに旅立ってしまったのではなく、木之実さんの寝言だ。

「あら?」

 と明音が言い、僕はなにやら肩のあたりがほかほかしだしたことに気付く。

「うん?」

 視線を向けると、僕のYシャツの肩が、よだれの大洪水だった。

「うわあぁああああぁああぁ」


 木之実さんにでかいかばんをふたつ抱かせて遠くの席に転がすと、彼女はむぎゅう、と唸って静かになった。これでよし。僕は両手をはたいた。

 そのまま何かをなしとげた充足感にひたっていると、ふわーと明音があくびをしだした。

 僕は言った。

「眠いの? 明音」

「んー、ちょっとはしゃぎすぎたかしら」

「目的地にはまだ着かないのかな」

「えっと、結構かかるみたいなのよ。ごめん裕樹、あたしもちょっと寝るわね」

「うんいいよ別に。朝早かったし、しょうがないよ。僕は雅人と遊んでるから」

 ごめんね。そう謝った明音はそのまま、もそもそとひとつ前のふたり掛け座席にむかい、そこで丸くなった。きれいな髪の毛が、まるで まゆのように彼女を包みこんでいた。それから寝息をたてはじめるまで、10秒とかからなかった。

「さて、と。じゃあ雅人、なにして遊ぼうか」

 僕は、となりにすわる雅人の方にむきなおった。

「ごがー」

 とっくに夢の世界だった。

「…………」

 死体が3つ。と僕は思った。

 こうなっては仕方がない。僕だけ起きていてやることがあるわけでもない。きっとペンションに着いてからも大騒ぎをするのだろうし、ここで体力を補給しておくべきなのだろう。明音ともあろうものが、夜の枕投げと云う絶対的青春イベントを外すとは思えないし。

 窓枠にひじをつき、僕は目を閉じた。

 閉じる瞬間、行き先を示す案内標識が視界に飛びこんできて、僕はその文字を闇のなかで読みあげていた。


 ――700m先、七塚谷。



 じじバスは僕らを置き去りにして、ぼこぼこと、どこへともなく去って行った。

 僕らは深い森の中で、お互いの顔を見合わせる。

「――で、」

 僕は、重たい口を開いた。

「ここはどこなの? なんで山奥の森の中に、僕らは立ってるの?」

「……くぁくてこあいよぅ」

 木之実さんが幼稚園児のような声音で言う。

 明音は腰に手をあて、こう宣言した。

「と、到着よ!」

「うそつけよっ。こんな未開の山奥にペンションなんかあるわけないよっ。っていうか建物ひとつみあたらないよっ!」

 雅人は足をだんだん踏み鳴らし叫ぶが、明音にはまるで効かないようで、

「なによ、ちょっとまちがえただけじゃない」

 と、恐るべき開き直りっぷりをみせた。

「明音、いったいどこにむかってたの?」

 僕はそう言って、明音の用意した旅のしおりとやらをのぞきこんでみた。それはしおりとは名ばかりの、メモ帳のきれはしだった。もちろん手書きだ。

「だってほら、ここに住所が書いてあるのよ」

 僕がのぞきこむとそこには、お世辞にもきれいとは言えない丸文字で、『バーニョ・ディ・ロマーニャ』と云うイタリアンなペンション名と、連絡先と、住所が記してあった。僕は声に出して読み上げる。

「えっと、32番地――」

 さっき僕が確認した地名は、まちがいなく七塚だった。思いかえせば、あのじじバスの額には、七塚谷行きと記されていたような気がする。そもそも、バス会社からして七塚谷走りバスだ。

「ということは」

 僕が言って、

「さ、さいしょかぁまちがってたみたいだねぇ」

 木之実さんが言って、

「いやだ―――っ! こんなところで野宿なんてして、でっかい熊に食べられて死ぬのはいやだ―――っ!」

 と、雅人が叫ぶ。

 明音も多少戸惑った様子で、

「な、なによおおげさね……ちょっと修学旅行らしいバスの旅を演出しただけじゃない。さ、さあっ。いったん街にもどるわよっ!」

 そういきおいこんで、明音は道路のむかい側に設置された、反対方向のバス停にむけて歩き出した。そこに書かれている文字を覗き込んで、なにやら難しい顔をしているので、僕も横から覗きこんでみた。バス停に表示された時刻表は、田舎のローカル線にふさわしく、干からびたレンコンのようにスカスカになっている。さらに横から木之実さんが覗きこみ、

「14時40分でさいごになってぅね……」

 僕は、携帯を開いて現在の時間を確認した。15時50分と記されていた。

 ふむ、と一同がうなる。

 雅人が、

「いやだ―――ッ! 親に内緒でこっそり録画セットしておいた今晩の『むふふ、どきゅん娘ナイト』を見もせずに、ここで死ぬのはいやだ―――ッ!」

「な、なんだよそれっ。っていうか、見たあとなら死んでもいいのっ?」

 僕が言うと雅人はしくしく泣いて、

「見たあとなら死んでもいいかもしんなぁい……」

 いいのか、と僕は思った。

「と、とにかくこんなところにいても始まらないわ! 旅に冒険はつきものなのよ!」

 明音がなんとか事態の収拾を図ろうとするが、雅人はぐすんと泣き、木之実さんは必死に笑おうとしていたが、口元はひきつり、顔はすっかり青ざめていた。

 明音は皆に背を向ける。いっそううす暗くなる森と対峙し両こぶしを握りしめ、

「さあ行くわよ!」

「って待ったぁ!」

 僕は、明音の腕をわし、とつかんだ。

「なによ?」

「なんでそっちなの? 方角分かるの?」

「勘よ」

 なんてアバウトな、と雅人もあきれる。だがしかし明音は、

「だいじょうぶ、あたしの勘はよく当たるわ。運はいいほうなのよ」

 とてもじゃないが信じられない。明音ほど勝負ごとに弱い人間はそうそういない。少なくとも、先ほどのゲーセンの勝負で十数個の土産物を買うはめになった人間の言うセリフではない。

 僕は言った。

「明音、アイスの『当たりがでたらもう一本』を引いたことはある?」

「当たったら死ぬっておばあちゃんが言ってたわ。あたしは運がいいから引いてないけど」

 木之実さんは言う。

「じゅーえんガムの『あたり』は?」

「あれって都市伝説じゃないの?」

 雅人は言う。

「じゃあ、クリスマス会のプレゼント交換で自分のプレゼントが当たったことは?」

「まかせて、それならあるわ!」

 絶望的だった。とてもじゃないが、まかせておけない。そう思って、僕は提案した。

「とにかく、いったん頂上まで登ってみよう。ふもとの町がどの方角にあるか見えるかもしれない」

「もうこうなったら、裕樹くんにぜんぶ任せるよ……」

 と雅人が言って、

「そのほうがよさそうだねぇ」

 と木之実さんが言った。

 なによ、と明音は腕を組み、鼻息をあらくした。


 うす暗い山道だった。道路は、登るたびにどんどんダイエットしていく。いつしか舗装もおざなりになっていた。これでよくバスが通っているものだ、と僕は思った。

 ハエの親玉みたいな黒くてまんまるの虫がぶんぶん飛び交い、

 上空で名前も分からないような鳥がぎゃあ、と鳴き、

 茂みががさり、と音を立てるたびにきゃあ、と木之実さんが鳴く。

「ま、まぁつかぁいのお……?」

 よっぽど怖いらしい、木之実さんの日本語がいつにも増しておかしくなっていた。これでは日が沈もうものなら、とうとう翻訳不可能になってしまうかもしれない。

 明音は登ってきた山道を振り返り、

「でも、けっこう登ってきたわよねぇ?」

 雅人もつられて振り返る。

「やっぱり、山を下ってたほうがよかったのかなぁ」

 僕は、あせっていた。登れども登れども、いっこうに開けた場所にはでない。

 時刻は17時前。いくら陽の沈みが一年でいちばん遅い時期とは云え、もってあと2時間といったところ。そうなったら、もう歩くこともできない。僕らは街灯ひとつない山奥で、身をよせあってひたすら朝の訪れを待つことになる。

 食事もない。トイレだってない。あたたかい布団なんて夢のまた夢だ。

 なんだっていい。なんだっていいから、人のいるところ、連絡のつくところにいかなくちゃいけない。

「あかね、けーたいはつながぅ?」

 木之実さんが、場に似合わない間延びした声で言う。

「さっきからずっと見てるわよ……アンテナ一本たつ気配がないわ。田舎だとこんなものなのかしら」

 それを聞いて雅人が、

「俺のもだよ。まるっきり立つ気配がないや。こんな 不甲斐ふがいない息子に育てた覚えはないのになぁ」

 明音は心底悲しそうな顔をして、

「きっと、パパに似ちゃったのね」

「な、なんのはなししてぅの……?」

 と、木之実さんは冷や汗を浮かべる。


 明音は二つ折りの携帯電話をぱたりと閉じて、

「裕樹のはたしか『どうだフォン』だったわよね。やっぱりだめかしら?」

「…………」

「ゆーきくん?」

 木之実さんの言葉で、思索にふけっていた僕は、ふと我にかえった。

「あっ、え、なに?」

 明音が心配そうな表情をして言う。

「裕樹、顔が怖いわ。せっかくの合宿なのよ?」

「そんなこと言ったって、だって、」

「だいじょうぶよ。きっと帰るころには、あのときはどうなることかと思ったー、なんて笑えるようになってるわよ。それに、あたしたちならどんな場所だって楽しめる、そんな気がしない?」

「う、うん……」

 明音のまっすぐなまなざしがすぐ近くにあった。明音は頭のいい子じゃない。後先だって考える子じゃない。だからって、このまなざしを信じないなんて、それもなんだかまちがっている気がする。僕は言った。

「そ、そうだよね、きっとなんとかなるよ!」

「うんうん、それでいーのよ」

「能天気だなぁ」

 と、雅人があきれ、木之実さんがまた苦笑いをする。

 たぶん、明音の笑みが消えたら最後だ。彼女にもそれが分かっているのかもしれない。

 明音は、再び薄暗い山道を登り始める。

「まったく、バス乗り場が分かりにくいのがいけないのよ。七塚町じゃなくて七塚谷ならそう分かりやすく、」

「な、七塚谷っ?」

 叫んだ雅人のほうを、みんながいっせいに方をふり返った。明音は怪訝そうな顔をして尋ねる。

「どうしたのよ?」

「こ、ここ、七塚谷なの? 七つの塚で、七塚谷?」

「そうだと思うわ。まっちょ、知ってるの?」

 すると、雅人はとつぜん取り繕ったように笑顔を浮かべ、

「あ、あぁいや、ついこないだネットで見たばっかりだからさ、いやうんそうか、妙な偶然もあるもんだねぇ!」

 明音は釈然としない様子だったが、へんなの、と言葉を残してまた山道を登り始めた。その背中に、僕は尋ねる。

「明音、それにしたってなんだってこんな場所を選んだのさ?」

「あ、あたしだってこんな山奥にくる気なかったわよ! この、なんだっけ、ば、バーニャ・ダ・ラマーニャ? ってところの主人がイタリアン人で、本場のボンゴレが食べられるっていうから……」

「ああ、なるほどね」

 パスタ好きの明音らしい理屈だ。しかし、明音が言ったペンション名が本当なら主人はきっとインド人で、出てくるのはカレーとナンのような気がするけど今はどうでもいい。

 明音は歩きながら爪を噛んで、

「冗談じゃないわ。このままたどり着かなかったら、本場のボンゴレがすこんぶに化けるのよ」

「すごい差だね、それ。月とすっぽんに代わることわざになりそうだ」と僕は言った。

「ポコ実だっておいしいパスタ、食べたいでしょ?」

「うん。わたし、かぅぼなーぁがいいなぁ」

 明音は僕のほうを向いて、

「ほら、女性はみんなパスタ好きなのよ」

「べつにだれも嫌いだなんて言ってないよ……」

 今度は横を歩いている雅人のほうを向いて、

「まっちょだって、」

 だが、そこに雅人の姿はなかった。あら? と明音は首をかしげる。

「あぇ? まさとくんがいないよ?」

 木之実さんも気付いて、あたりを振り返る。

 まさか、はぐれた? そう思っていたら、木の影から雅人がバタバタと走ってきた。

「や、やあゴメン。ちょっと考え事してたら……」

 雅人に向かって、明音が口を尖らせる。

「なによ、あんたさっきから変だわ。裕樹に続いて、こんどはあんたがしょんぼりしちゃったわけ?」

「やだなぁ、そんなことないよ」

 木之実さんはそんな雅人の頬にハンカチを当てて、

「まさとくん、ちょっとつかぇちゃったんだね」

「あ、や、いやははは……」

 雅人はでれりとした笑みを浮かべた。そのだらしない表情を見るかぎり、まだまだ大丈夫そうだ。

 それにしても、みんなの体力がなくならないうちに何か打開策を打たなければいけない。僕は前方を見上げ、そして思わず声を上げた。

「あ」

 明音が怪訝そうな顔をして、

「な、なによいきなり?」

「分かれ道だ……」

 いまや乗用車1台通れるかというところまでやせ細った道は、ぽっくりとふた手にわれていた。その意味するところはなにか。目的地もないところにわざわざ分かれ道など作らない。つまり、この山を貫く唯一の道路から派生した小道は、たどっていけば『何か』があるということ。そしてその目的地はきっと近いはずだ。そう僕は予想した。

「みて、看板があるわ」

 そう言って明音がゆびさした先には、大きくひしゃげた鉄製の看板があった。胴体は腰の曲がりきった老人のようだったし、その頭は、茶色を通りこして赤黒く変色した さびに、どろどろと覆われていた。そしてそこには色褪せてかすれてほとんど読めなくなった文字で、『萩人村はぎとむら』とだけ書かれていた。

「はぎ、と、むら――」

 背後で雅人が、声にだして読みあげる。明音はそれを見て元気を取り戻し、

「村があるのねっ! 助かったわ」

 木之実さんも心底安心した表情で、

「う、うん。ここからとおいのかな?」

「看板があるくらいなんだからきっともうすぐよ。やった、これでお風呂にはいれるかもしれないわ」

 と、明音は言った。

「ちょ、ちょっと待ってよ。俺、こんな場所に村があるなんて聞いたこともないよ」

 雅人がわからないことを言った。それを聞いて明音は、

「そんなの、あたしも聞いたことないわ」

「い、いやそうじゃなくて……」

 僕は言った。

「雅人、なにか知ってるの?」

「えっと……だから、こないだネットで見たんだ。そのときには村があるなんて書いてなかったから……」

 明音は若干いらついた様子で、

「じゃあ、あの看板はなんなのよ? だれかがいたずらで刺したっていうの? それとも不法投棄? あるいは場違いの蜃気楼?」

「いや……そうは言わないけど。っていうか最後の蜃気楼はぜったいありえないと思うけど」

 今度は木之実さんが、

「まさとくん、きっとホームページのひとがかきわすぇちゃったんだよ」

「そ、そうかなぁ」

「それに」と僕は言った。

「仮に廃村だったとしても、建物はのこってると思う。そうすれば雨風はしのげるし、ひょっとしたらかまどが生きてて火が起こせるかもしれない。水のない場所で人は生きられない。だから仮に水道が通ってなくても、井戸なり川なりがそばにある可能性は高い。

 例えば、村に住んではいないけど土地を持ってて、畑だけ たがやしにきてる農家の人がいるかもしれない。最悪の可能性を考えても、少なくともここでこうしてるよりはいいんじゃないかな」

 明音は感心したように、

「さすが裕樹ね。きまりよ」

「わ、わかったよ……」

 何を嫌がっているのかは知らないが、雅人もしぶしぶ納得したようだった。そんな様子を見て木之実さんは、雅人の腕をひき、

「ほぁ、そんなかおしてないで、いこうよまさとく、」

 ごん、と木之実さんの足元でにぶい音がした。

「……はぇ?」

 木之実さんの視線がするすると下に降りて、明音もそれに注目する。

「ちょなななななっ! なんて罰あたりなことしてんのよポコ実―――――ッ!

お地蔵さまよそれ―――ッ?」

「は、はぇ? はぇあ?」

 木之実さんの足元には、ふたりいたはずの地蔵の片方が転がっており、こともあろうにその首がもげて転がっていた。それを見て、明音の中で何かが切れたらしい。

「ああもうもうなんであんたはいつもそんなにポコポコしてんのよだからいつまでたってもポコ実って呼ばれるのよっていうかばか――――――――――っ」

「あうあうああうああうあうああうあうああうあうああう」

 明音は錯乱したようすで、木之実さんの肩をがくがくしていた。木之実さんの声がどんどん振動音に変わっていく。

 僕はその場にしゃがみこみ、お地蔵さまの首をもとの位置にもどした。

「…… さえの神、か」

 それが雅人の耳には入ったようで、

「裕樹くん、なんだって?」

「ほら、ここに書いてある。ようするに、道祖神だよ。悪霊除けに、村の境い目に置いてあるんだ」

「だ、だいじょうぶかなぁ。そんなの壊して たたりとかおこったりしないかなぁ」

「たぶん、ね。地蔵の首、最初から取れてたんだ。ほら、形が合わない」

 僕は、お地蔵さまの首を胴体にぐいぐいと押しつけた。どちらも雨風ですっかり削れてしまったのだろう。その断面はすっかり丸くなっていた。それを見て雅人も納得したようで、

「お、ほんとだ」と頷いた。

「でも、ふたりには内緒にしとこう。そのほうがおもしろそうだから」

 二人の漫才は続く。

「き――――――――――っ!」

「ゆゆゆゆゆゆぅぅししててぇええぇえぇえ」

「ほら、いいから行こうよふたりとも……」

 と僕は言った。そのまま二人の背中を押して、萩人村と書かれた看板のある細道を登っていった。


 その場に残された木村雅人は、ひとりつぶやく。

「それってつまり――ずっと昔から、この村には悪霊が入りこんでいたってことじゃないか……」


 小坂をのぼりきると、かろうじて乗用車が2台すれちがえるか、というほどの小さなトンネルがあった。レンガ造りでたいそう古めかしかったが、僕はそれを見て安心していた。

 上になにが通っているのかは分からないが、これだけの工事をしてあると云うことは、少なくともトンネルを抜けた先に広がるのはカブト造りのかやぶき屋根、なんてことはなさそうだ。

 トンネルの中では、取りつけられた照明が、白々しらじらとした明かりをちろちろ吐き出していた。

「き、気味わるいわね」

 明音が青い顔をし、その隣で木之実さんは声もあげられない様子だった。

 トンネルと云うのは、どうしてこうも人間の恐怖心を煽るのだろう。届かない光。冷たく重い空気。歪んだ残響音。逃げ場はどこにもない。

 そして実際にトンネルは事故も多い。トンネル内で命を落とした人間は数知れない。

 むかしから女性がトンネルに入ると山の神の嫉妬を買うとされ、男女平等と雇用機会均等法がここまで浸透した現代でも、女性はトンネルの工事に携われないというのだからおどろく。

 僕は、うしろをふり返り言った。

「だいじょうぶ、明かりがあるってことは、電気がきてるってことだよ。これなら、本場のボンゴレとまではいかなくとも、カップラーメンよりはいいものが食べられるかもしれない」

 明音は僕の言葉にうつむいていた顔を上げ、

「そ、そうよね。行くしかないのよね。ほら、ポコ実」

「う、うん」

 さりげなく木之実さんを自分の前におしやるあたり、明音もしたたかだ。

 ごつ、と一歩を踏みだすと、数十の人間がむこうから襲い掛かってくるような残響音がした。めげずに2歩目を踏みだす。出口までは、しょせん数十メートルだ。全力疾走すれば、それこそ10秒とかからない距離なのだ。地下道や洞窟を歩くことにくらべれば、きっとマシなはずだ。

 僕が3歩目を踏みだしたところで、

「ね、ねぇ! やっぱり入るのはよしたほうがいいんじゃないっ?」

 雅人だった。彼はトンネルの手前で、そこから先は見えない壁で仕切られているのだ、と云わんばかりに かたくなに踏みとどまっていた。これにはさすがの明音も怒り、

「あのねぇまっちょ! 裕樹が先頭を切って、あたしたちだって入る決心をしたのよ?  ここを抜けたら、家があって、人がいるの! そうじゃなかったらあたしたちはいつまで経っても帰れないし、今晩寝るところもごはんだってないのよ?

 ……どうしてもこないっていうなら、あたしはあんたを置いてくわ」

 険悪な雰囲気に木之実さんがあわてて、

「あ、あかねおちついてよ。まさとくんも、だいじょぶだよ。どーしちゃったの? おなかいたいの?」

「いやちがうけど、だってさ……」

 さすがに雅人の態度を不審に思い、僕は雅人の元へと歩み寄った。

「どうしたの雅人? ひょっとして、肝試しとか苦手なタイプ?」

「いやそうでもないけどさ……こないだ見ちゃったんだよ、ネットで。ここ、有名な心霊スポットだって、七塚谷の……ふたごトンネル」

「ややややめてよそういうのっ! あたしダメなのよっ!」

 明音は両肩を抱いて叫んだ。木之実さんが慌てて、明音をなだめる。

 僕は、雅人が心霊スポットだというそのトンネルの天井を見上げた。黒々とした水染みが一面に広がっており、まるで迷路みたいだ、と思った。

 しかし、どうにも におちない。数日前に心霊スポットと知ってしまった場所に偶然行くことになった。その偶然の符合が気味のわるいものだというのは分かる。だけど、!僕らは別に肝試しをしにきたわけじゃない。このトンネルを抜けないと、ごはんも食べられないし、寝る場所もないし、トイレも明かりもないし、もちろん帰ることだってできない。 僕にはそんな環境で夜を明かすことのほうが、よっぽど怖い。

 それに、陽が沈みきってしまったらアウトなのだ。もう、時間的な余裕はない。その疑問を解き明かしているひまはない。僕は言った。

「じゃあ雅人、僕が先にひとりでトンネルを抜けるよ。そうしたらあとから3人でくればいい。べつにそれが身の安全の保証になるわけじゃないけど、すこしは気分がマシでしょ?

 それに、雅人が夢にまでみた、両手に花状態だよ。女子高生ふたりに囲まれてるんだ、怖いものなんか何もない」

 すると雅人はでれりとした表情を浮かべて、

「あ、ま、マジで? えへへぇ……そう考えれば怖くないかもぉ」

 これには木之実さんも苦笑いを浮かべ、

「ほ、ほんとにたちなおっちゃった」

「状況が状況だけにつっこまないでおくわ……それに、まっちょの気持ちわるさを考えれば、たとえおばけがでたってこいつほど危険じゃないかもしれないわ」

 と明音は呆れて、大きくため息をついた。とにかく話はまとまったらしい。僕はみんなのほうを振り返り、言った。

「じゃあ、先に行ってるね」

「なにもでないといいねぇ」

 木之実さんがどこかのんきそうに言って、その隣で明音が言う。

「そうね……へびがでるか、じゃがでるか」

「それ、どっちもへびだから」

 今度は僕が、ため息をつく羽目になった。


 そして、僕らは本当にその方法で恐怖、心霊すぽっとんねるをくぐり抜けたのだった。 恐るべしエロパワー。

 もちろん、壁から手が生えてくるでもなく、

 明かりがふっと消えるでもなく、

 女のすすり泣きが聞こえるでも、

 落盤で埋まった抗夫が飛び出すでも、

 錯乱した雅人が明音に飛びついてキックをもらうでもなかった。

 最後のがいちばん可能性としては高かった。

 だがこうして抜けてしまえばそれだけのこと。誰が増えてるでも、減ってるでも、ない。 そう、なにも問題はないのだ。

 だがひとつ気になったのは、トンネルを一歩歩くたびに雅人の顔が青ざめ、抜けきった今でも重篤じゅうとくな病気を わずらった患者のような顔をしていることだった。僕は、青い顔に声をかけた。

「雅人だいじょうぶ? もうトンネルは抜けたよ?」

「あ、あぁ……」

 明音も心配そうに雅人の顔を覗きこみ、

「まっちょ? 顔がまっ青、ううん、まっ白だわ。お茶のむ?」

「いや……大丈夫だよ」

 僕は、不審に思って言った。

「まさかとは思うけど……なにかが見えたとか、なにか感じたとかじゃないよね?」

 雅人は、やっとこさといった感じで答える。

「いや……なにもなかったよ。そう、なにも問題はないんだ」

「……なら、いいけど」

 僕はうしろ髪を引かれるままに歩き出した。

 ちらりと雅人の様子を盗み見ると、彼は片手で顔を覆って、その場に立ち尽くすばかりだった。

「まっちょ、無理しないでいいわ。ゆっくりいきましょ」

 普段、明音の雅人に対するは厳しいが、それは彼女なりの愛情表現だということを僕は知っている。実際こうして、なにかがあると明音はやさしい。その明音は僕のほうを向いて、

「裕樹、村まではまだ遠いのかしら?」

「いや、もうそんなには遠くないんじゃないかな」

 と、僕は答えた。道祖神があの場所に立っていた以上、ここだって村の内部に位置するはずだ、そう思った。その答えを聞いて明音はまた爪をかむ。

「病院、あるかしら。ううん。せめて電話があればいいんだわ……」

「電話くらいはきっとあるよ。電気がきてるのに、ないはずない」

 雅人は未だ青い顔に、弱々しい笑顔を貼り付けて、

「病院だなんて大げさだなぁ、ほんとうになんでもないってば」

「……そうはみえないのよ」

 明音はどこか怒ったような、険しい表情で言った。


 とうとう、陽が沈もうとしていた。

 山頂近くのこの場所からは、驚くくらいに鮮やかな夕焼けが見えた。みかん色の光の粒を、いっぱい、いっぱいよせ集めたような光だった。空は、惑星ほしは、こんなにも広くて、美しいものかと思った。

「あーあ」

 明音がその空をあおいで、ぼやいた。

「まったく、とんだ災難だわ。今ごろはお洒落なペンションで、お風呂はいって、本場のパスタをいまかいまかと心待ちにしてるはずだったのよ。それがなんだってこんな場所にきちゃったのかしら。ふん、なにが七塚谷よ」

 僕は少し呆れて、隣を歩く明音に言う。

「明音、そもそもこんな場所にきたのも、もとはと言えば明、」

「ねえみんな」

 いちばんうしろで、雅人が言った。僕らはいっせいにふり返った。

 雅人は、いまだに青白い顔をしていた。顔は青白いのに、目だけがいやにぎらぎらとしていた。そのままの表情で、彼は言う。

「知ってる? 七塚谷の……名前の由来は」

「由来?」

 と僕は反芻した。明音も興味深そうに尋ねる。

「なによそれ。おもしろい話?」

 雅人は歩みを止めていた。そうなれば、僕らだけ先に行くわけにもいかない。なぜこんな場所で立ち話を始めるのか。そう怪訝に思う僕に、雅人は続けて言う。

「裕樹くん、俺の趣味がネットサーフィンっていうのは知ってるよね」

「ああ、ネットサーフィンっていうか、つまりはエロサイト巡りだよね」

「まぁ、なんでもいいんだけど、ああいうのっていっぱいポップが出てくるじゃないか。 それでついついリンクのひとつをクリックしちゃったんだよ」

「それで出てきたのが、この場所だった?」

「まあね。それで知ったんだけど、このへん一帯には、むかし七つのおおきな墓があったんだ」

「ああ、古墳とかかな?」

「こふん?」

 と明音が不思議そうに尋ねる。僕は言った。

「明音、古墳くらい小学生だって知ってるよ。むかしの王様みたいな人のお墓だよ」

「あ、ああなるほどね。もちろん知ってたわ」

 うそに決まってる、と僕は思った。

 雅人は、そんな僕らのやり取りを意に介さないように続ける。

「そう、王様たちの墓が次々建てられていったんだ。理由は分からないけど、人が墓場に墓を集めるように、この土地には王族たちの墓が次々集まっていった。きっと、人間にはモノをひとつの場所にまとめたがる習性があるんだ」

 僕は、連なる山々を見おろした。言われてみると、あっちの山も、こっちの山も誰かの墓のように思えて、なんだか気持ちわるくなった。さらに雅人は続ける。

「むかしの人の考えることはおもしろいよね。知ってる? 王様だってひとりであの世にいくのはさびしいからさ、自分の遺体といっしょに、まだ生きている家族とか、家臣とかをいっしょに埋め立てたらしいんだよ。もちろん、生きたままね。きっと、大勢で死ねばさびしくないって思ったんだろうね」

「ちょ、ちょっとやめてよっ!」

 話の流れが変わったことに気付いて、明音が金切り声を上げた。それでも、雅人にやめる様子はなさそうだった。僕はつぶやいた。

人身御供ひとみごくう、か」

「そうさ。でもね、人が生きたまま埋め立てられるってどういうことか分かる? その人たちは土の下で、1週間から10日も生きながらえたらしいんだ。だから、それまでのあいだ、ずっと、ずっと、聞こえるんだよ。うめき声が、嘆きの声が……地面の下から、いつまでも、いつまでも」

 明音は口の中で雅人にぶつける言葉をもぐもぐとし、結局全てのみこんだようで、かわりに恐ろしい形相で雅人をにらみつけていた。いくらなんでもこんなの、冗談にならない。

 僕は、雅人を止めようと思って、ついでに明音の怖さを軽減させようと思って、言った。

「だから、この土地には幽霊がでる? 雅人、言っておくけど、そんなのはこの土地に限った話じゃない。それこそ日本に限った話でもない。卑弥呼ひみこのあとを追って殉死した祈祷師は、百人を超えるともいわれてる。それがひどすぎることだと気づいたからこそ、むかしの人は 埴輪はにわなんてものを作ったんだ」

 雅人は答える。

「そうだね。別にそんなのめずらしい話じゃない。だけど言ったろ? 人間は、『モノをひとつの場所にまとめたがる』んだ。

 だからどうだって、この土地はむかしから慣習的に墓地が立てられ続けてきたんだ。土地は安いくせに、墓の値段だけはべらぼうに高いらしい。そしてその墓地は、この七塚谷を中心に放射状に広がってる」

 僕は言った。

「それで? 墓地が多いから幽霊もいっぱい? それに、墓地があるのはふもとの街の話でしょ?」

「俺はこうも言ったよ。『大勢で死ねばさびしくないと思う』って」

「……だから?」

「そう、だから。大勢の死者が眠るこの地に、集まってくるらしいんだよ。まるで、蛾が光に吸い寄せられるように」

「……なにが?」

 雅人は、答えた。


「自殺者が」


 僕らは息をのんで、凍りついた。脊髄せきずいの中を冷たい虫が這い登ったような気がした。さっきから下ばかりむいてしゃべっていた雅人の頭がすこし持ち上がると、前髪の下にのぞいた口元は、弧を描くようにして、みにくく歪められていたのだ。

「……じ、自殺の名所だっていうの? この場所が?」

 のどをしぼるように出した声は、まるっきりうわずっていた。かまわず、そのまま僕は続けた。

「でも、おかしいじゃないか。ここには村だってある。そんなに自殺が頻繁におこるようなら、なんらかの対策がなされるはずだよ。村ができなければ自治体がやる。実際、日本の自殺の名所はどこもそれなりの対策がほどこされてるはずなんだ!」

 飛び込みが多い中央線には、鏡や青色照明が設置された。

 和歌山の三段壁には柵が設置された。

 天ヶ瀬ダムは立ち入り禁止になった。

 青木ヶ原の樹海だって、ところどころに自殺を思いとどまらせるメッセージの立看板が設置されているとの話だ。日本全国の自殺の名所は、どこもそうして対策がなされているのだ。

 雅人は、いっそう口元をゆがめて言う。

「そう。だからつまり、この土地だけ対策がなされないような理由があるんだよ」

「対策がなされない理由? 自殺の名所なのに? そんなのあるわけないじゃないか!」

 僕はそう反論したが、雅人はまったく動じない。続けて彼は言う。

「あるさ。この土地ではいくら自殺者が出たって、おおやけの場には伝えられない」

「そ、そんなのおかしいよ。自殺者が集まればそこで死んだ人の人数が自治体には伝えられる。入ったっきり出て行かないんだから、数えまちがえたりなんかしない。それが大勢だったら、」

「だから、言ったろう? 自殺者が多くても対策がなされないような『理由がある』んだって。ここではどんなに自殺をしたって自殺者として扱われない。つまり……」


「消えるんだよ、死体が」


 ぐにゃり。

 視界が飴を溶かしたように ゆがんだ。

 遠くで鳥の気味わるい鳴き声がひとつきこえて、植物が腐ったみたいなにおいを運んだ生ぬるい風が、僕らに吹きつけた。

 僕は、なんとか言葉をしぼりだす。

「き、消えるって……」

「文字通りだよ。それ以上もそれ以下もない。忽然こつぜんと。跡形もなく。

 ……ネットで自殺サイトの書き込みがあったんだ。決まった時間にここで死ぬことになってた。集団でこの七塚谷にはいって、そこまでは携帯から書き込みがあった。

 いまから死にます。

 そしてそのまま、集団は2台の車ごと忽然ときえた。あとにはなにも残らなかった。サイトの書き込み以外はね。そんなことが何件か相次いだ。そうなれば、噂が噂を呼ぶ。ここで死ねば、死体がでない。自殺者にとっては、自分の死体が消え去ってくれるほうが、都合のいいときがあるみたいだね。

 自治体だって警察だってなんとなく勘付いてはいるんだ。だからって、掲示板は 匿名とくめい性だし、パソコンはIPアドレスをたどっていけば足は付くかもしれないけど、自宅からアクセスするとも限らないし、『踏み台』も世界中にあるって話だし、プロバイダへの開示要求だってそう簡単な話じゃない。そもそも書き込みの件数が多すぎる上に『釣り』だって混じってるんだ。だから書きこみをした人が本当に行方不明になってるかなんて、調べようがないのさ」

 明音は、今までの話を聞いて涙を浮かべていた。そのまま雅人をにらみつけて、噛み付くように言う。

「あ、あんた……この状況であたしたちを怖がらせてなんの得になるって言うのよ!」

「得? さぁね。俺にもさっぱり分からないや」


 あはははあはははあはははあはははあははは

 僕は、突如として発せられたその異質な笑い声に、思わず後ずさった。明音もいっそう泣きそうな表情を浮かべ、言う。

「な、なんなのよ……」

 あはははあははあはははあははあはははあはは

 カタカタカタカタ。

 雅人ができそこないの人形のように震えながら わらう。その笑い声は、紙に書いた文字を読むような、機械に打ち込んだ言葉をしゃべらせたような、感情も抑揚もない言葉の羅列だった。僕は、肩から頬までいっぱいに、鳥肌が広がるのを感じた。

 そしてその次の動作で、僕はさらに鳥肌を増やす羽目になった。カタカタと笑いながら震えていた雅人は、スイッチを押したようにぴたりと動きを止め、

「あれ、みんなどうしたの?」

 顔を上げた雅人は笑顔で、それはもうどうしようもないくらいに普段どおりの彼のものだった。教室でいつも見る、そのものだった。今までの気味悪い様子は、絶望的なまでに名残なく消し飛んでいた。その様子はまるっきり、

 明音は魚のように口をパクパクさせ、辛うじてといった感じで言葉を押し出す。

「な、なによソレ。あんたわざとやってんでしょ? あたしたちを怖がらせようとして、しゅ、趣味わるいわ……!」

「な、なんでみんなそんな怖い顔してるのさ」

 それを聞いて雅人は、きょとりとしながらあたりを見渡す。今まで自分は何を話していたのか、どんな表情をしていたのか、まったく覚えがない様子だった。まるで今の時間が、彼の中でごっそりと抜け落ちているように思えた。そのまま彼は肩をぐるぐると回し始め、

「あれ、さっきまで体調悪かったのに、なんか治ってるぞ? よし裕樹くん、いまのうちに萩人はぎと村にむかおうか」

 そう言って雅人は、揚々と歩き出した。僕らはそれについていこうとしたが、極端に足取りが重い。気付いた雅人が、ぐるりと振り返る。

「なんだよみんな、そんなにはなれて歩くと、俺ひとりいじめられてるみたいじゃないか。木村菌は粘膜感染だから『バリア』しなくてもうつらないよ」

「き、きにしないで」

 と明音が言った。雅人はへんなの、と呟きまた歩き出す。それを見届けた明音が、僕のYシャツの袖を無言で引いた。それに対し僕は、何をすることもできなかった。

 とうとう、陽が落ちた。あたりに残るのは、夕陽の名残とでも呼ぶべき、わずかな明るさだけだった。風がひとつ吹いて、ざわあーと木々が怪しげに笑う。

 数多くの死者が眠る土地。自殺者の集う山。雅人の言ったことは――本当なのだろうか。

 さきほどあんなにも怖がっていたのがうそのような、彼の飄々ひょうひょうとした態度をみては、心の中に暗雲が広がっていくようだった。

 ――そして、その直後。

 僕らは、雅人の話が、作りものでもなんでもないことを知るのだった。

 この上ないかたちで。


「ん? なんだあれ」

 雅人が前方にあるものを見とめて、声をあげた。

「ね、ねぇあれまさか……」

 言った明音の顔が、みるみると青ざめていく。僕は、ふたりにつられて前方を見て、そこにあるものを確認した。

 ―――車。

 不吉なまでに黒塗りされたセダン。こんな山奥に、こんな何もない、どこに行き着くでもない、まともに走れるでもない、そして停まるべき理由なんかあろうはずもない場所に、車。

 本当に停まっていた。幽霊のように。

 いや、あるいは幽霊のほうがまだよかった。けれどは本当にその場所にあった。

 テールランプが光っていた。

 エンジンがかかっていた。

 排気ガスの出口からホースがにゅうとのびていて――窓から車内に繋がれていた。

「ま、雅人っ……!」

「あ、ああ!」

 僕らは思わず駆けだした。ひょっとしたらまだ間にあうかもしれない、助けられるかもしれない、そんな希望を抱いたから。

 排気ガスのホースは運転席の窓へと導かれていた。そのすき間が、それどころか窓いちめんが、ヒステリックなまでに粘着テープによって貼り固められている。そのせいで、中の様子だってまったくわからない。

 僕は叫んだ。

「雅人、なにか窓ガラスを割れるようなものを! なんでもいい!」

「ああ、大きな岩とかだねっ!」

 雅人が走りだしたのを見届けた僕は、必死にホースの太さぶんだけ開いている窓ガラスを押し下げようとしたが、びくともしなかった。ならばと思って粘着テープをはがそうと試みるが、いくら指で押してわずかな通気口をつくったところで、それがなんの効果をもたらすとも思えない。

 冗談じゃない、と僕は思った。

 冗談じゃない、こんなの。こんなところで――人が死ぬだなんて。

 僕は車の正面に回りこんだ。べつになんの打開策を期待したわけでもない。ただ、そうしただけだった。

 見慣れた王冠のエンブレム。

 きれいに洗車されたボンネット。

 スモークの貼られていないフロントガラス。

 そして、そのむこうで運転席の男と目があった。

「―――あ」


「ゆ、裕樹くんっ、この岩だったらいけるかなっ?」

 闇の中から雅人が駆けてきた。彼は、頭ほどもある岩を重そうに抱えていた。僕は、その姿にむかって静かに首を振った。

「いや……もう」

 どさり。雅人がその場に岩を落とした。そのまま、するするとその首が下がり、ぽつりとつぶやく。

「――そうか」

「う、うそなんでしょ? ほ、ほんとに? ほんとのほんとに?」

 明音も恐る恐ると近づいてきた。その顔は、さっきまでの異常な様子だった雅人に負けず劣らず、青白かった。明音には見せちゃいけない。そう思って僕は、明音の前に立ちはだかった。

 車内にいたのは、ふたりだった。男女のカップル。心中だろうか。ふたりの眼球は、どちらも、どろりと にごりきっていた。生きている人間の目は濁らない。白内障でもないかぎり。だからこそ、ふたりは死んでから、少なくない時間が経過しているはずだった。

「ゆ、裕樹、どうするの……?」

 明音のすがるようなまなざしがあった。何かを答えなくちゃいけない、何かを言って安心させてあげなくちゃいけない。僕はそう思い、言った。

「と、とりあえず、村に行って村人に連絡するしかないと思う。電話で、救急車と警察にきてもらおう」

 救急車、警察という単語に少し安心したのか、明音はこくりと頷いて言った。

「そ、そうよね。そうするしかないのよね……」

「うん。じゃあ、いそごう」

 それにしても、と僕は思った。

 それにしても、なぜ彼らは、眼を開いていた――?

 排気ガス自殺は、酸素の欠乏と一酸化炭素中毒。失神している人間が、死の間際に、よもや眼を開くとは考えられない。それも、ふたり揃って。

 彼らの瞳――

 まるで、なにかとてつもなく恐ろしいものを目にしたような――


「ゆ……ゆう、き」

 背中から明音の声がして、僕は振り返った。

「うん? 明音、どうしたの?」

「あ、あ……う……ろ」

「ん? なに?」

 明音が目を白黒させて、酸素を求める魚のように口をパクパクさせていた。そのただならぬ様子に、僕は肌寒いものを感じた。明音は押し出すようにして、言葉を続ける。

「うい、うし、うし……ろ」

 うしろ?

 明音の指先がふるふるとふるえながら、ゆっくり持ち上がる。それはつまり、僕の背後を指さそうとしているにちがいなく、僕は、その指先のむこうにあるものを確認しようと、うしろをふり返った。

 そして、そこには――


 なにも、なかった。


 なにもない? と僕は思った。

 だってえっと、あれ、車は?

「動いてる! 動いてるよッ!」

 雅人の叫び声に、僕は全身の血液が凍りついたように思えた。

 死者を乗せたはずの車は――音もなく。

 すべるように、

 坂道を転がるように、

 オートマチックの車がブレーキを外したように、

 なめらかに走り出し、なめらかに弧を描いてカーブを曲がった。黒塗りの車は、そのままひっそりと闇の中へと溶け込んでいった。あとには、一片ひとひらの名残すらのこされていなかった。まるで最初からそこにはなにも存在しなかったように、なにひとつの証拠が存在しなかった。

 僕は、車の消えた先を目で追ってみた。その先には、家々の影がうっすらと見えた。闇にぼんやり浮かんだそれは、気味のわるいものにしか思えなかった。

 萩人はぎと村。

 とうとう、たどり着いたのだ――


 車が消えるのを見届けた雅人は、ようやく呪縛から解放されたように僕のほうにやってきて、噛みつくように言った。

「ゆ、裕樹くん、どういうことさっ! な、なんで動くんだよ! その……確認したんじゃないの? し、死んでるってさ!」

「確認した……したはずなんだ」

 明音は弾かれたように振り返り、必死の笑顔を浮かべて言った。

「あ、あ! そうよ! きっと裕樹の勘ちがいだったのよ! 見まちがいだったのよ!

 そうよ、本当にこんなところで自殺なんてしてるはずないわ! ちょっと、村にむかってる途中だったのよ! ねえまっちょ!」

「あ、あ、うん。そっか、そういうことなら納得がいくか。裕樹くんだって、一瞬しか見てないもんね」

「もう、裕樹、おどかさないでよ! 人騒がせにもほどがあるわ!」

 明音にしろ雅人にしろ、納得したというよりはその思いつきにすがりたいようだった。少なくとも、それで辻褄は合うのだから。それならば、彼らを不安にさせるような事を言ってもしょうがない。そう思って僕は、ふたりに言った。。

「ああ、うん……ごめん。僕の勘ちがいだったよ。雅人が自殺者が集まるとか変な話するから、ちょっと早とちりしたんだ」

 雅人はきょとりとして、

「あれ、俺自殺サイトのことみんなに言ったっけ? ヤバいやつに見られるとあれだから、言わないでおこうと思ったのになぁ」

 明音が慌てて叫ぶ。

「ま、まったく裕樹には困ったものね! 帰ったら、こんどこそ本場のパスタをおごってもらうわ!」

 きっと明音は、先ほどの雅人の気味悪い様子からも、目を逸らしたいのだろう。そうしなければ、僕だってどうにかなってしまいそうだった。僕は明音に約束するよ、と答えた。

「いやあびっくりしたなぁ。さ、村も見えてきたみたいだし、行こうか」

 雅人は朗らかに笑って、車の消えた暗闇に向かって歩き出した。おっかなびっくり、という感じに明音が続く。ふたりの背中が小さくなるのを見届けて、僕はすっかり暗くなった空を見上げ、思う。

 見まちがい。

 そんなこと、あるはずないと。

 どろりと黄土色に濁った瞳。あんな瞳を見まちがえるなんて、あるはずがない。

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