第2話 幸福にして有益なるレツィオーネ

 そうして教授は、時折、集一を呼ぶ。ときを見計らい、集一のオーボエのレッスンレツィオーネ後や特別講義の後に、彼を手招きするのだ。そして、結架のレツィオーネに同席させ、ふたりに歌うよう命じる。ヴィヴァルディに、ヘンデル、バッハ、それからモンテヴェルディとスカルラッティらの歌曲を。

 結架の練習がまだ不十分で、歌いながらの演奏が困難な曲のときは、教授がチェンバロを弾いた。そんなときは、歌唱の訓練が優先されたのだ。チェンバロは初見で弾けても、歌は、あるていどの練習が必要だ。だが、結架と集一の二重唱こそ、優先すべき訓練だった。

 あるとき、教授は弾いていたチェンバロから席を立った。忘我して歌っている ふたりには休止小節だと思わせる絶妙な部分で。そして、素早く室内を移動した。

 ちらりと教授を見た集一に目配せをし、彼は部屋のすみにあるピアノのカバーを外して鍵盤の蓋を開けた。いつもは、結架のために一見してピアノと判らないよう床まで届くカバーをかけたうえに、近くに机を積んで、極力目に入らないようにしてある。

 驚いたことに、結架は教授のピアノ伴奏も受け入れた。硬質な音に、はじめは青ざめ、瞠目し、身を硬くしたが、集一の歌声に手を引かれ、動揺はすぐに収まった。呼吸が止まりかけた結架に微笑みかけ、歌いかけた集一に、涙をこらえて応えたのだ。そうしているうちに、彼女は苦しみを乗り越えていった。ただ、それも、このときだけだった。

 集一の声なしに結架がピアノの音の前で歌うなどということはできなかった。彼が帰っていった後にスカルパ教授がピアノを弾いたら、その音に、恐慌に陥ってしまったのだ。

「ごめんなさい」

 落ちつきを取り戻した結架は苦しげに詫びた。その痛ましさに、スカルパ教授は頷くしかなかった。

 叔母夫妻が亡くなったのは、自分が、ピアノを弾く人間だったからだ。自分とピアノが彼らを死なせる理由を作ったのだ。そう思いこんでいる結架にとって、ピアノの音は、断罪の刃となって耳を切り裂き、心を貫く。そして、呼吸すら阻むほどの罪の意識に、彼女は平静を失う。

「だが、先ほどはシューと歌うことができた」

 涙をぬぐった結架にスカルパ教授が言うと、

「わかりません、何故なのか。彼の声が大きく聴こえて、わたしを呼んでいるように聴こえて。そうしたら、ピアノの音が優しく聴こえました」

 いつもは、責められるように感じられるのに。

「運命だ」

 教授は厳かに告げた。

「きみにとって、あの子と歌うことが救いなのだろう。あの子と音楽を奏するのが運命だとでも思えるのだね。ただ、それだけではない。音楽的にも、きみたちは良い影響を与え合っている。私は、教師として今日のようなレツィオーネを これからも必要だと考えるが」

「それは、このまま秘密にできるのですか」

 結架の瞳に涙が戻ってくる。

「わたしのために音楽の天使かれに何かあったら、悔やんでも悔やみきれません。

 教授、わたしは知られたくないのです。もしも知られたら、きっと、また争うことになるでしょう」

 また、罰を受けるわ──。

 唇が、そう動いた。唇だけが。

 スカルパ教授は自分の額に手を上げそうになるのをおしとどめた。

「……ケンに知られれば、たしかに揉め事が起きるだろう。きみにとって必要なのは音楽家同士の交流だ。それが彼には解らない。魂を閉じこめられたままでは、音楽も息を殺してしまう。それでは、美しい音楽は鳴らない」

「……そうかもしれません。これまで彼と歌ってきて、それがどれほど楽しかったか。嬉しかったか。とても、幸せでした。本当は、もっと大きな編成でチェンバロを弾きたい。もっと多くの仲間と、演奏を分かち合いたいのです。でも」

 ──おまえは独奏者ソリストだ。独奏こそが、おまえの音楽。ほかのものを混ぜてはいけない。

「わたしは、言いつけを破れません」

 両手を、ぎゅっと握り合わせる。

「既に破っている。無関係のシューを、きみに近づけているのだから」

 スカルパ教授の言葉に、結架は、はっと顔を上げた。みるみる顔色が悪くなる。

「教授、わたし、どうすればよいのか、わかりません」

 父親のような気持ちで、彼は微笑みを結架に見せた。

「きみは、どうしたいのかね? 大切なのは、それだ」

「わたし……ですか……?」

「そうだ。彼でも誰でもなく、きみの希望が大切なのだ。きみが どうすべきかではなく、どうしたいか、はっきりさせなさい。それは、きみの自由であり、責任だ」

 結架は黙って考えこむ。その顔は、すこし血色を取り戻した。

「……わたしは……」

 涙をこらえた瞳が教授を見上げる。その清廉さに、彼は どきりとした。初めて見るものではないのに。

「誰とも争いたくはありません。けれど、この幸せな音楽の時間を、できることなら、失いたくない。これまでに、あれほどの歓びを感じたことはありませんでしたもの」

 すこし震えた、幼いながらも大人びた口調。

「ただ、シューに迷惑がかかったり、不幸なことが起こったりすることだけは避けたいのです」

 その細い肩に、大きな手が乗せられる。

「ユイカ。初めて彼とレツィオーネをしたときは、あれは偶然だった。シューが通りがかり、私がみつけた。けれど、二度目からは、私が呼んだのだ」

「え?」

 初めてふたりの歌声を聴いた、あのとき。スカルパ教授は結架を音楽院に出入りさせた目的が果たされることに気づいた。

 結架を、ほかの学生と交流させる。

 それを叶えるのに、集一はうってつけの存在だった。

 集一はスカルパ教授の特別講義クラスに在籍し、そのなかでオーボエの教師からのレツィオーネも受けていた。英語のほかにドイツ語も心得があり、日本人なので当然に日本語もできる。なにより、あの声。結架の声と美しく馴染む、澄んだ響き。

 音楽の歓びと幸福を、互いの調和から享受できる。

 それは、音楽を学ぶ者にとって必修だ。

 おまけに、彼の置かれている環境は結架と通じるものがあった。

 彼の父親は、息子が音楽の道に進むことに賛成していない。その壁を乗り越えてヴェネツィアに来た集一なら、あらゆる妨害に対して自衛の反応を望めるだろう。

「……だから、これまでのように、秘しておこう。きみにとって、必要なレツィオーネなのだから。ただし、もしも発覚する危険が生じたときには、その時点で、このレツィオーネは終わりだ」

 発覚は、結架を直ちに日本に帰国させてしまう恐れがある。それを教授は阻めない。そうなっては、彼女の音楽は完成しない。

 結架の目が大きく見開かれる。

「シューにとっても有益なことだ。忘れてはいけないよ」

 すると、結架の瞳の潤みのなかに、希望と喜びが生じた。

「はい。教授」

 そうして、結架と集一の合同レツィオーネは続けられた。

 スカルパ教授は、結架がピアノへの反射的な恐怖を克服できるかもしれないことも秘しておくべきだと判断し、ラウラもそれに同意した。

 最優先すべきは、このレツィオーネを続けること。ふたりの意見は一致していた。

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