愛の源泉 La Catena
汐凪 霖 (しおなぎ ながめ)
第1話 地上に真の平安はなく
それから結架は思いだす。
心の問題からピアノを弾けなくなって、楽器を手ばなすために赴いた楽器店で出会った、チェンバロのこと。その奏法を学ぶためにイタリアの名教師に師事したこと。
ヴェネツィア音楽院。
弟子に迎えた結架の教育のため、スカルパ教授は週に3日以上は音楽院に通うようにと言った。それは家族が大変に反対したけれど、教授の姪で助手でもあるラウラが常に結架に付き従い、無関係な者の接近を禁じることを条件として叶えられた。
出されたのは、あわせて3つの厳しい条件。
結架自身ですら、すこし息苦しく思う。
ある日。教授の講義が終わるのが珍しく遅れて、結架はラウラと音楽院の庭で待っていた。読譜でもしようということになり、楽譜のケースを開いたラウラは声を上げた。中身が間違っていたのだ。
「すぐに取ってこなきゃ」
「あ、でも」
引きとめようとしたが、それと同時にラウラが言った。
「私信も忘れてきてしまったのよ。今日、帰る前には出しておかなくちゃ。ついでに取ってくるわ」
結架は何も言えなくなった。
「じゃあ、ここで待っていて。すぐ戻るから」
「はい」
のばした指を
両手をぎゅっと握りしめてラウラを見送る。
そのあとのことは、あまり思いだしたくない。
とにかく結架は一人で出歩くことを徹底して禁じられた。ラウラにも、何らかの警告があったようだ。しかし、その内容は、結架には知らされなかった。ただ、音楽院では教授の指導するプログランマに専念すればいいと言って、ラウラは微笑んだ。
その音楽院で、スカルパ教授は結架に歌うようにという指導をしていた。
チェンバロ奏法のあいだに、副科としての声楽を薦めたのだ。それは日本にいたころからも学んでいたので、教授の同僚にして声楽の特別クラスを受け持っていた、エリザベッタ・フェリーチェからも太鼓判を得ていた。それでも教授はレッスン中、必ず結架に歌うことを要求した。それは、弾きながらでも歌えるようにではなく、歌いながらでも弾けるようになるための訓練だった。
ピアノの前身であるチェンバロには、ピアノにはない装置がある。ひとつの鍵盤で複数の音を出せるので、それを出さないように切りかえる機構だ。
また、ピアノにもあるが勝手の違う装置もある。はじかれた弦が音を響かせ続けるのを止める機構が、それである。
両手を鍵盤の上で躍らせながら、そうした装置の操作をおこない、さらにイタリア語やラテン語での歌唱をこなす。それは、相当の習熟と集中が必要だった。
ある日。
結架は練習室で、いつものように歌いながら弾いていた。
アントニオ・ヴィヴァルディ。モテット。地上に真の平安はなく。
「Nulla in mundo, pax sincera
sine felle, pura et vera
dulcis Jesu, est in te......」
のびやかに、はれやかに、かぎりない慈愛を繰りかえし昇らせる。
「Nulla in mundo, pax sincera
sine felle, pura et vera
dulcis Jesu, Jesu, Jesu, pura et vera
dulcis Jesu, est in te.
dulcis Jesu, est in te」
響き残る旋律と、慈悲深い転調。
「Inter poenas et tormenta, et tormenta
vivit anima contenta
vivit anima contenta
casti amoris, casti amoris sola spe.
vivit anima contenta
inter poenas et tormenta,
et tormenta casti amoris sola spe.
Inter poenas et tormenta
vivit anima contenta
casti amoris sola spe」
なんのミスも戸惑いもなく、光が流れるように演奏することの、なんと気持ちの良いことか。歌詞の心を、歌の魂を、音の命をこめて歌いあげる。弦の部分を補うため、分散和音を付け足した。
はれやかに、のびやかに、かぎりない慈愛を繰りかえし引き寄せる。高らかに昇り、緩やかに降りるを繰りかえす、救済と昇天。
地上に真の安らぎがなくとも、苦悩と痛苦に挟まれたとしても、しみひとつない愛をもって、魂は幸せに生きながらえる。苦渋のない真に純粋な安らぎは、救世主よ、御身のなかにこそ あるのだ。
細く絞った抑制のなかに、あらんかぎりの希望をこめていく。夢中になった結架は、教授が席を外し、そして戻ってきたことにも気づかなかった。そのとき同伴者がいたことにも。
「Brava! ユイカ」
いつもの教授の拍手。彼から得られる最高評価だ。
レツィオーネのはじめにはエスプレッソを口に含みつづけているかのような顔をしている彼が、歌いながらでも弾けるまでになったころ、その笑顔には歓びが満ちあふれていて、結架の心は天井を突き破りそうなほど はじける。しかし、このときは驚きに足を引っ張られた。無意識のうちに廊下を窺ってしまう。
「先生、あの……そちらは?」
教授は、にこやかに答えた。
「彼は、生徒だよ。私の特別クラスのね。シューだ」
教授は、生徒の名前を正確に覚えるのが苦手だ。いつも、自分で勝手に呼び名をつけてしまう。だから、この少年も おそらく本名はシューではない。
「……そうですか。初めまして」
すこし強ばったお辞儀をすると、少年が答えた。
「初めまして。あの、レッスンの邪魔をして、申し訳ない」
なんという声。
涼やかで、やわらかく、美しい。
結架は、どきりとした。
「いいえ、そんな……」
すると、教授が快活に言った。
「これも勉強です。ユイカ。昨日、楽譜を渡したヴィヴァルディの『ジュスティーノ』を。アリアだ。彼に聴かせてやりなさい。大丈夫、ケンなら邪魔はしない。私の用事に出向いているから、2時間は戻らないだろう」
それを聞いて、ほっとした。
「はい、先生」
しかし、確認は しておかなくては ならない。
結架はイタリア語で尋ねた。
「これは私と貴方と、こちらの彼だけの秘密とするのですね?」
「Si」
隣の部屋で、生徒に書かせるテズィーナの題材となる本を読んでいるだろうラウラも秘密を共有することになるかもしれないが、教授の姪にして助手の彼女なら、いまでは信頼できる。
結架は納得し、楽器の前に腰かけた。
教授が招きよせた集一が、その傍に佇む。そのことに緊張した結架は、密やかな深呼吸を ぐるりと身体に めぐらせる。教授と集一が何ごとかを囁きあっていたが、どぎまぎしている結架の耳には入ってこなかった。鍵盤に指を置き、一息吸う。そして、吐きだすと同時に指に力をこめた。
この曲は、昨日、楽譜を渡されたばかりだったが、即興演奏ができて当然のバロック音楽である、バッハやスカルラッティに幼いころから身を浸してきた結架には、そう難しいものではない。歌唱部さえ入念に練習できていれば問題なく演奏できる。それは、昨夜のうちに仕上がっていた。
本来は弦が勇壮に刻む音を、ストップ捌きと運指で表現する。
アナスターヅィオのアリア。
結架は心を整える。
これはさきほどのモテットとは違う。
「Vedrò con mio diletto
l'arma dell'alma mia, dell'alma mia
il core del mio cor,
pien di contento, pien di contento.
Vedrò con mio diletto
l'arma dell'alma mia, dell'alma mia,
il cor di questo cor,
pien di contento, pien di contento.
E se dal caro oggetto
lungi convien che sia, convien che sia,
sospirerò penando
ogni momento」
大幅なアレンジを間奏部分に加える。
もっと煌びやかに、もっと鮮やかに。
それは、生身の、肉体を伴った愛。
それは、熱情。
抑えのない、燃える想い。
美しく華々しい、愛慕。
小さなハミングが聴こえたとき。気のせいかと思った。
しかし、
「Vedrò con mio diletto」
驚いた。
あの、涼やかで、やわらかい、美しい声。
思わず目がシューのほうを向く。額に困惑を残して、しかし、のびやかな声で彼は歌っていた。
ふたりの声が混ざる。
結架は胸のなかに歓びが芽吹くのを、痛いほどに感じた。
完全に響きが調和している。
その悦楽は、ひどく甘美だった。
透明な膜が破られて、互いの響きが浸透していく。
心と心で、歌声と歌声で、ふたりはひとつに交わった。
歓びとともに、かぎりなく愛しいひとに逢おう、いとも満ち足りて。
これほど愛する者から遠く離れていなければならないのなら、私は絶えず、とめどなく嘆き、そして苦しむだろう。
嘆き悲しんでいたからこその、逢瀬の歓び。
ふたりは本能的に、それを理解していた。
スカルパ教授が目を閉じて聴き入る。
そして気づいた。
彼女の声の甘さが、いや増したことに。
チェンバロの輝きに、なお光沢が加わったことに。
「運命だ」
彼は呟いた。
そして、レツィオーネの終了後、結架に尋ねた。
「この秘密は気に入ったかね?」
結架は頬を染め、困ったように笑みを浮かべたが、はっきりと答えた。両眼を燃えるように輝かせて。
「教授が合奏を重んじるわけが、わかりましたわ。とても楽しく、嬉しく、興奮しました。音楽は分かち合ってこその愉しみだと」
教授は笑い、頷き、さらに尋ねる。
「また、この運命的な秘密を、我々四人で分かち合いたいと思わないかね?」
その答えは、結架の唇ではなく、瞳が語った。
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