第4話 いと正当なる怒りの激しさに

「どうしたんだ⁉」

 その質問に、結架は答えられなかった。

「ラウラ先生!」

 隣の部屋で本を読んでいた彼女は立ち上がると、頷いた。

 こういう事態に陥った場合には、そうするように、話をしてある。

 ──これで、お別れだわ。わたしの、音楽の天使。

 結架は涙をこらえ、集一を抱きしめた。

 ──ありがとう。あなたの音楽は、わたしの痛みを取り去ってくれた。

 想いの高まりに堪えきれず、結架は集一の すべすべとした頬に、一瞬だけ、しかし、心をこめた口づけをすると、囁きかけた。

「安心して。絶対に、あなたを守るわ」

 集一の茶色い瞳を見つめる。

 彼は即座に反応した。

「なにから?」

 結架は口を開いたが、言葉は何も出てこなかった。とても、一言では説明できない。詳しく話す時間もない。申し訳なさと名残惜しさに、もう一度、彼を抱きしめる。マグノリアのような甘い香りが彼から漂って、結架は思いきり、それを吸いこんだ。胸いっぱいに広がる爽やかな甘さに、切ない想いが はじけそうになる。

 覚悟を決め、集一から離れると、結架はラウラに頷いて、隣室に戻っていった。

「教授」

 早口のイタリア語で、二人は話す。

「彼は、すぐにやってくるだろう。だが、認める必要はない。私は、きみたちの歌声を録音してある。ふたりの声を重ねて録り、流しただけだというつもりだ」

 教授が取りだしたテープを見つめ、結架が言う。

「それで彼は納得するでしょうか?」

「納得しなくとも、シューの存在は明かさない。シューにも、二度と、きみを近づけない。残念だが、レツィオーネは終わりだ。そうすれば、きみの音楽が完成するまでは、ここに留まれる。あと少しなのだから、彼も承知するだろう」

「音楽の演奏に、完全なる完成はない。そう仰っていらしたのに」

 はじめて言いかえした結架に、教授は微笑んだ。

「演奏家として認められる技術の水準のことだけだ。完成の後には、さらなる研鑽が必要だ。それは、わかっているだろう?」

「はい」

「いつか、きみとシューが演奏家として独り立ちしたら、きっと共演できる。きみが、そう望むなら、私もラウラも協力しよう。だが、いまはなにより、ここに残れるようにすることだ。いいね。きみは嘘が下手だから、黙っていて構わないよ」

 すると、結架の表情が変わった。亜麻色の髪が激しく揺れる。

「いいえ。わたし、音楽院の天使だけは守ります。嘘をつくことになろうと、平気です」

 その瞬間。

 扉が乱暴に開けられた。

「結架!」

 怒りに燃える瞳が彼女を捉える。

 しかし、結架は怯まなかった。

 背筋を伸ばし、凛とした瞳で見つめかえす。

 ──シューだけは守らなければ。

「どうなさったの?」

 小首を傾げ、彼に近寄る。

 彼は、そんな結架の態度に、すこし面食らったようだった。

「どこにいる?」

 ラウラを押しのけてドアを開け、なかに誰もいないかを探りながら、彼が尋ねた。

 その背後。部屋のすみの机に置かれた黒い鞄を見て、結架は身震いする。ぎゅっと目を閉じてしまいたいのを必死にこらえると、平静を装った。

「どこに? なにがですか」

「おまえの才能を乱すものだ!」

 教授とラウラにも聞かせたいからか、彼は英語で叫んだ。

「ケン。ここで大きな声は、やめなさい」

 教授が静かに言った。

「きみが怒るようなことは、なにもない」

「嘘だろう! 結架に誰も近づけるなと言ったのに、学生を一緒にレッスンさせたな。結架はソリストの勉強をしているんだ。デュオもトリオも必要ない!」

「きみとの合奏もあるのにか?」

「だったら、俺とのレッスンだけでいい!」

 結架の語調が乱れた。

「わたしが望んだの。教授を責めないで」

「おまえが望んだ?」

 両手を組んだ結架の瞳に、強い光が灯っている。

「そうよ。歌いながらでも弾けるように。それも、ほかの歌手と合わせるために、同時に聴きとる力も訓練したい。教授に、そう、お願いしたの。だから」

「俺の声が、こんなだからか!」

 激しい声が結架の心を直撃する。

 ヴァイオリンの松脂のせいで、彼の声は歌に適さない。

 彼は怒りのあまり、ドイツ語で何ごとかを叫んだ。

 結架は怯えそうな心を叱咤する。

「あなたは歌ってくれないでしょう? わたしが望んだとしても。だから、テープに録音してもらったものを教材にしたのよ」

「テープだと」

「これだ」

 教授が差しだしたテープを、彼は疑わしげに見た。

「聴くかね?」

 数秒の沈黙の後、彼は世にも忌まわしいものを見る目でテープを眺めやり、首を横に振った。

「いまのは確かな話だろうな。結架、誓えるか?」

「ええ。誓うわ」

「なぜ、教授の家で やらなかった?」

 疑り深い彼の言葉に、ほんの一瞬、結架はたじろぐ。

 答えたのは、ラウラだった。そっけなく、当然のことを呟くように。

「音響よ。練習室の設備には敵わないでしょ」

 ふたたび彼は数秒間、沈黙した。

「いいだろう。今回は、それを信じる。だが、今後も信じるわけにはいかない。これからは、音楽院に来るときは、俺も一緒だ。結架の音楽に悪影響を与えかねないものは排除する。スカルパ教授。あなたが そうしたものになったときは、別の教師を探す。いいですね」

「そんな」

 衝撃を受けた結架を、教授は手振りで押しとどめた。

「きみは教師としての私の判断を信じないのだな」

 しかし、彼は動じない。慇懃無礼に言い放つ。

「結架に室内楽をやらせるべきだという、あれですか? いえ、反対はしませんよ。でも、それは日本に帰ってから、俺が手配します」

 本気でそうするつもりがあるだろうか。

 結架は疑問に思った。

 仮にそうしてくれても、きっと学生たちと試行錯誤するようなレッスンは望めまい。

 結架は小さく息を吐く。

「とりあえず、解決ね。帰りましょ。私はテズィーナ、いえ、レポートと資料を片づけてから行くから、三人で先に行って」

 疑心のこもった彼の一瞥にも動じず、ラウラはさっさと踵を返す。そのあとを彼は追った。

「なにかしら」

「俺が言ったことを憶えていますか」

「ユイカのことで? 憶えてるわよ、勿論」

 テズィーナの束から数枚をめくり、付箋紙を貼っていく。

 彼女が音楽院の庭に結架を一人で残してきたと知ったとき。彼はラウラの首を絞めかねない様子で怒り狂ったのだから。

「どのような理由であろうと、ユイカを一人きりにするな、でしょう」

「あなたは、その意味を解っていない」

 怒りを抑えるためか、押し殺した声だった。近くにいて漸く聞こえるほどの。

 ラウラは顔を上げ、彼を見る。

 感情を消した表情。しかし、瞳は燃えている。

「解ってるわ。ユイカを誰にも近づけたくないのでしょう。誰にも渡したくないのね」

 その囁きに、彼の瞳の炎が勢いを増す。

「失うのが怖い? それとも、奪われるのが怖いのかしら」

「恐れてなど、いない」

「だったら、疑うことなんてないわ。ユイカは、あなたの家族。あなたを慕ってる。それを、あなたから壊すようなことはしないで」

 暫くのあいだ、彼はラウラの眼を覗きこんだ。彼女の真意を測るかのように。そこに、偽りがないか確かめるように。

 やがて彼は言った。

「俺は、結架しか信じない」

 ラウラは微笑む。自分でそうしようとした以上に優しい声がすべりでた。

「ええ。彼女を信じなさい」

 どんな未来であろうと、結架は彼を家族として大切にしつづけるだろう。その望みを叶えられなくとも、小さな裏切りがあったとしても、見捨てることだけは決してない。それが家族というものだ。

 出ていく彼の背中に張りつく孤独の激しさに、ラウラはため息を吐く。彼の幸福を結架は願っているが、それがやってくる日は遠いだろう。それを彼自身が拒んでいるのだから。

 あのとき。

 音楽院の庭で結架を一人にしてしまったとき。

 結架は友人をつくるチャンスを得た。

 話しかけてきた数人の学生と、怯えながらも二言、三言は会話を交わしたという。しかし、すぐさま駆けつけた彼に凄い顔で睨まれ、全員が震えあがってしまった。遅れてやってきたラウラにも、彼は鋭い一瞥をくれると、結架の目に触れぬよう、後で激しく叱責したのだ。

「業の深い話ね」

 ラウラは呟き、手早くテズィーナと資料をまとめ、机の抽斗に収めると鍵を閉めた。そして、隣の部屋の扉を開ける。足早に無人の部屋を横ぎり、廊下への扉も開いて顔を出した。三人の姿は、すでにない。安堵の息がもれた。

 しかし、急がなければならない。

 ラウラは集一を迎えに戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る