ペン

 かららん、ころん。

 また失敗した。それでも、前よりはだいぶ上手くなったけど。

 また、指先に意識を集中させて、ペンに触れる。

 指で挟み、ペンを持ち上げる。

――よし、ここまではできた。

 ここからだ。そう思って、私はペンをつまむ指の集中を切らぬまま、左の指にも意識を集中させた。

 そしてその左手で、ペンのキャップを掴む。両手に力を注いでペンのふたを、

 かん、こん。

 ペンは私の指からすり抜け、舟の底へと音を立てて落ちていった。

――また失敗した。

 それでも、前よりは上手くなっているけれども。そう思いながらも、私は はあ、とため息をついた。

 目の前には、どうでもいい紙切れ。

 幽霊が生きた家族に手紙を書くなんて、聞いたこともないこと。

 そしてそれは、私が今やろうとしていることだ。

 幽霊が、現世のものをまるきり掴めないというわけじゃないことを、私は知っている。

 代表的なもので言えば、ポルターガイスト現象。

 誰も何も触っていないのに、物が勝手に落ちたり動いたりする心霊現象のこと。

 幽霊でも、ごく稀にいるような力の強い霊なら、そうやって現世の物に干渉できたりした。

 それは一瞬だけだったり、ひどくあやふやなものだけど。

 そう。本来できてその程度なことなんだ。

 それでも今私はそれをしようとしている。

 生き別れた私の双子に、私はここにいるよと伝えるために。

 お客さんからもらったいらない紙切れと、ペン。

 私はまた指先に神経を集中させて、ペンを手に取る。

 最近は、持ち上げるくらいなら十中八九で成功するようになってきた。

 ふたを取る、という細かい動作まではかなり難しいけれども、それでも百回に一回くらいは成功する。

 一度は、紙に一瞬だけペンを走らせたこともあった。

 その紙は、あの馬鹿が来ないうちに、風で飛ばされていってしまったけれども。

 飛ばされた瞬間、手を伸ばしたけれども、それは私の手からすり抜けていった。

 なすすべも、無く。

 まあどうせ、見たって線が一本引かれてるだけの、意味なんて見当たらない紙切れだけど。

 だから、分からなかっただろうし、別に、良い。

 分かるような文章が書けるようになってからでいいじゃない。

 たった数文字が、今の私にはものすごく辛い。

 あとは何とか「リコ」の名前を添えて。そしたらきっとリクは分かってくれる。

 最近は、もう夜の市場にあいつは来ないけど。

 もう、子どもの頃の思い出として、私のことは記憶の奥の方にしまっちゃったのかな。

 リクはきっと、私ならそんなこと気にしないとでも思うんだろうな。

 ばかじゃないの。

 悲しいに決まってるじゃない。

 忘れられたくないから、私はこうやってペンを取ってるのに。

 記憶の奥に置いていかれたくないから、こうやって、必死になって自分がいるってこと伝えようとしているのに。

 本当に書きたいことは他にあるのに、私はそれを書けない。

 本当はね、リクにはずっと夜の市場にいて欲しい。

 ここで一緒に、ずっと私のそばにいてほしい。

 力が不安定になって、指先からペンが滑り落ちた。

 紙切れを見ると、そこに丸く涙の跡が付いていた。

 「さわれないのに……涙の跡はつくのね。」

 幽霊の世界って、本当に不思議。

 湿っているだろうその紙切れを、畳んでしまおうとする。

 でも私の指がその紙に触れることは、なかった。






 リクは、本当に来なくなった。

 ずっと前に完成した一言だけの手紙も、もう風雨にさらされて汚くなってしまった。

 『ここに いるよ』

 もう読めないどころか、字が書いてあることすら気付いてもらえないんじゃないだろうか。それくらい、汚くなって、色あせてしまっている。

 それでもそれを捨てる気には、どうしてもなれなかった。

 いつか来てくれた時、リクはこれを見て、きっと本当に嬉しそうな顔を浮かべてくれると思うから。

 そしてその様を思い浮かべて、一生懸命書いていた自分を知っているから。

 ようやく一文字目が書けたあの日。自分が一番喜んでいるくせに、きっとリクは喜んでくれる、と嬉しそうにしたあの時。

 このままこれを捨てれば、その信じてた未来は来なかったことになる。

 また、信じて疑わなかった「先」が、叶わなかったことを突きつけられる。

 認めたくないのかな、認めたくないんだな。

 でもこればっかりは、きっと叶うって信じてるから。






 結局あのメモは、次の雨の日で本当に何が書いてあるのか分からなくなって、渡すのはやめた。

 でもきっと捨てたら、それをいつか知ったリクが「何で捨てた、バカ!」って言うだろうことは目に見えてたから、とりあえず置いてはいた。

 でもそのうち、もうゴミと区別がつかなくて、ついその辺のメモに使っちゃった。

 気付いたのは、私じゃなかった。というか私はもう無くしたと思っていた。

 『首 水晶 注文』

 そのメモの裏に、消えかけた薄い文字があると気が付いたのは私じゃない。

 泣きながら船に帰ってきた家族が、それを見つけてさらに泣き始めて、私はやっと気付いたんだ。

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〈風鈴の帆〉 藤滝莉多 @snow_bell

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