鎌倉フラワー(完全版)
蒲生 竜哉
鎌倉フラワー
九五。
九五。
九五。
九五。
九四。
また、下がった。
黙って、血中酸素濃度モニターの小さな画面を妹に見せる。
暗い病室で不吉な値が赤く光る。
「お姉ちゃん、わたし看護婦さんに言ってくる」
桜はソファから立ち上がった。
ナースステーションには血圧の他、心拍数なども含めて全てのデータが無線で送られている。だから看護婦さんたちもいずれは変化に気づくはずだ。わざわざ伝えに行くまでもない。
「うん、お願い」
だが、私は桜を止めなかった。
たとえどんなことでも、桜の気が紛れるのであればそれでいい。
薄明かりの中、母のマスクだけがシューシューという音を立てている。
呼吸が荒い。
肩まで使って、全身で呼吸している。
しばらくすると桜が今晩の当直の看護婦さん、浅野さんと共に病室に帰ってきた。
浅野さんは壁から伸びている酸素吸入マスクのパイプを調べてから、壁の流量調節ダイアルをチェックした。
壁の透明なタンクに半分ほど満たされた水が、まるで沸騰した鍋のように泡立っている。
「痰がからんでいるのかも知れませんね。吸引しましょうか?」
「お願いします」
私はさっきまで座っていた簡易ベッドに腰を降ろした。
浅野さんは手早く準備を始めた。吸引用のパイプに、長いストローのようなものを差している。
これを気道に差し込んで、中の痰を吸引する。
苦しそうだが、すでに母に意識はない。
なぜなら、私たちがそうお願いしたから。
ガンが進行すると、それはいずれガン性の腹膜炎を引き起こす。母の腹膜炎はやがてガン性肺炎を併発した。
母の肺はもうほとんど機能していない。胸いっぱいに酸素を吸っても、血液に溶け込む量はごくわずかだ。
私は再びベッドから立ち上がった。
「桜、タバコ吸ってくるね」
「ん」
母のベッドの向こう、壁際のソファに膝を抱えて座った桜が頷く。
私はパンプスを履くと、その場から逃げ出した。
+ + +
母の子宮ガンが見つかったのは二年前の事だ。
少々のんびりした人だった事が裏目に出た。
のんびり花をいじりながら過ごしているうちに市民健康診断を逃し、ぼんやり楽しく暮らしているうちにガンは徐々に大きくなっていった。
手術した日の事は今でも鮮明に覚えている。
「なんでこんなことになっちゃってるのよッ! お姉ちゃんが一緒にいるって言うから安心してたのにッ!!」
母が手術室の銀色の扉に吸い込まれた直後、桜は私に噛みついた。
手術の事は直前まで桜に話せていなかった。
怒ると思って躊躇っているうちに、また、母も桜に知らせたがらなかったために、連絡が直前になってしまったのだ。
「桜、静かに。ここは病院なのよ。ちゃんと説明するから静かにして」
猛り狂う妹に対し、私は努めて平静を保ちながら小声で言った。
「何がよ? お母さん、死にかけてるじゃないッ」
妹が振り上げる拳を左手で受け止め、私は言った。
「だって、今まで見つからなかったんだもの。仕方がないわ」
「仕方がないって何よッ!」
憤怒の表情で私を睨む。怒りに全身が紅潮している。
「健康診断はどうしたのよ。健康診断の時は検査を全部つけてってお願いしたじゃないッ」
「それは、そうだけど」
「……手術なんて、聞いてない」
桜は私の手を振りほどくと、沈み込むように傍らの椅子に腰を降ろした。
「お母さんに何かあったら、わたしお姉ちゃんを絶対許さないから」
両こぶしを握り締め、涙の浮かんだ瞳で下から私を睨む。
「大丈夫よ、桜。きっと、大丈夫」
私は、それしか桜に言う事が出来なかった。
六時間にも及ぶ手術を待つ時間は長かった。
母の乗ったストレッチャーが病室に運ばれて行ってから、手術を担当した高木医師は私と桜を手術控え室に呼ぶと、
『これが、そうです』
と銀色のトレイに乗せられた、灰色の臓器を見せてくれた。
『三.六キロありました。膣の上部も含め、すべて摘出しました』
まだ手術用の手袋をしている指で臓器を指し示しながら高木医師が説明する。
『全部、取り切れたんですよね』
恐る恐る尋ねる。
取りきれていなかったら、どうなるの。
その答えを聞きたくはなかった。
だが、聞かなければならない。
他に、それを尋ねるべき人はここにいない。
桜はさっきから何も言わない。ただ、ムスッと座っている。
桜は私のことが嫌いだ。やることなすこと、とにかく何もかもが気に入らないらしい。
今もきっと、なんでそんなこと聞くのよッ! って怒っているに違いない。
『一応は。見えるところ、取れるところはすべて切りました』
良かった。
座っていなかったら腰が抜けるところだ。
自分の身体を使って彼は説明した。
『ここが横隔膜、』
と、高木医師は自身をチョップをするような手つきでみぞおちに手を当てた。
『子宮はここにあります』
下腹部にその手を移動させる。おへそよりも下だ。
『ここは完全に郭清しました。でも』
言いにくそうに言いよどむ。
『この部分』
右の脇腹を指差す。
『こちらも』
今度は左の脇腹。
『リンパ節に転移がありました』
突然、胃が冷たくなる。
周囲がとても、とても遠くなる。
むろん、と遠くの方で医師が頷く。
『切除しました。でも、このリンパ節に転移があるということは、もっと上の方にも転移している可能性が高い。リンパ液に乗って流れている可能性も低くはないと思います』
暗い目つきでその医師は私に告げた。
知っているよ、先生。それくらいは勉強しました。
リンパ節への転移が何を意味するのかも。
子宮ガンが扁平性上皮癌の一つであることも。次に転移する場所も。
次は、肺か、肝臓だ。
『抗ガン剤治療、それに放射線治療が必要です』
医師のメガネが白く反射する。
『ただ……いえ、ともかく、今は治療に専念しましょう。きっと良くなります』
空々しい言葉。
集中的な放射線治療と抗ガン剤治療が奏功し、ガンは一度はほとんど消えた。
だが、全身を駆け巡るガンはいつかはどこかに漂着する。静かになるのはせいぜいが六ヶ月程度。毎回、治療直後は十以下になるにも関わらず、しばらくするとSCCマーカーの値は上昇に向かった。
その度に病院に行き、検査をし、抗ガン剤治療をする。
抗ガン剤治療は辛そうだったが、病気が治るのであれば仕方がない。そう自分に言い聞かせ続け、私は嫌がる母にも治療の続行を強要した。
様子が変わったのは去年の秋のことだ。
去年の春の治療から七ヶ月後、いつものようにSCCマーカーの値がしきい値を超えた。
これまたいつものように、嫌がる母を叱咤激励し、病院で検査を受ける。
ところが、今回はガンが見つからなかった。
『変ですね』
高木医師が暗い目つきでCTの画像を眺めている。
『変って事はないでしょう。値が上がっているんです。どこかにあるはずです』
『そう、それはそうなんですが……』
高木医師の物言いは歯切れが悪い。
『どんな検査をしても構いませんから、とにかく見つけて下さい』
『それは、もちろんです……』
それからは検査漬けだった。
採血検査、CTスキャン、レントゲン。
ガンはどこにも見つからない。
『もう、なんかの間違いなんじゃないかしら』
自宅の食卓で検査結果を見ながらクスクスと母が笑う。
『ガンマーカーってあんまりあてにならないってテレビでも言っていたわよ。だから、そんな顔しないの』
そう、母に慰められる。
だが、私には確信があった。
そうじゃない。
絶対にガンはどこかにある。早く見つけて叩かないと手遅れになる。
だから私は嫌がる母を検査へ連れて行き続けた。
母を失いたくない。
恐怖に駆られ、検査予約をし続ける。
エコー、MRI、PET。
そうしている間にも、徐々に母の具合は悪くなっていった。
買い物好きだった母が出かけるのを億劫がるようになり、やがて座っているときよりもソファに横たわっていることの方が多くなった。
『風邪ひいちゃったみたい。なんか怠いのよ』
ソファから顔を上げた母が笑う。
『検査疲れね。百合ちゃんがあんまり検査検査ってうるさいから疲れちゃった』
そして三月。
ついにガンが見つかった。
レントゲン画像に白い粒が見えている。
それも、一つではない。十個以上。米粒ほどのものもあれば、パチンコ玉よりも少しちいさいものもある。
『肝動脈が閉塞している……』
高木医師はCTスキャンの画像とレントゲンの画像とを交互に眺めながら呟いた。
怖がりの母は待合室に待たせてある。私は高木医師に食ってかかった。
『それで? どんな治療が考えられるんです?』
『抗ガン剤は効かないと思います。ほとんどの抗ガン剤は使ってしまいました。一回使った抗ガン剤は効かないことが多いんです』
言いながら目を伏せる。
『じゃあ放射線治療は? 焼き払っちゃえばいいじゃない』
『焼き払うって、お母様の肝臓まで煮えてしまいますよ』
『じゃあ、重粒子線治療は?』
『可能ですが、かなり待つことになると思います。ただ、ガンのある場所が……』
『先生、じゃあどうしろって言うんです』
『今は、様子を見ましょうとしか……来月の検査を予約しますか?』
そんな時間があるとはとても思えなかった。
『それは結構です』
憤懣やる方ないまま、私は診察室を飛び出した。
『あら、百合ちゃん?』
呼び止める母の声を背後に聞きながら、スマートフォンを取り出す。
この病院では駄目だ。
高木先生では駄目だ。
廊下の角を曲がってから立ち止まり、インターネット検索。
検索結果の電話番号をタップ。
五回ほど待たされた後、電話口に相手が出た。
『はい、日本赤十字社医療センター、総合受付です』
『ガン治療に関するセカンドオピニオン外来に繋げて頂けますか? 幕内先生の診察を受けたいんです』
電話をかけた翌日に、幕内先生が会ってくれた。簡単な診察の後にすぐに入院。
『まあ、ゆっくりしていきなさい。しばらくすれば出られるから。そういう人は多いんだよ』
高木医師が準備してくれた資料を一通り眺めた後、幕内先生は笑顔で私たちに言った。
『そうなんですか?』
拍子抜けして、幕内先生に尋ねる。
幕内先生の目の前のモニターには、高木医師が眺めていたのと同じCTスキャンの画像が表示されている。
幕内先生は肝臓外科の世界的権威だ。この人がそう言うのであれば、大丈夫なんだろう。
『歳を取るという事はね、徐々に死んでいくって事なんだ。だからあなたも少し死んでるし、私はもうだいぶん死んでる。お母さんは私と同じくらい死んでいるかもな』
はははッ、と楽しそうに笑う。
『私の患者さんにもね、そうやって出たり入ったりしている人が沢山いるんだ。具合が悪くなったらここでしばらくゆっくりして、暫くしたら出て行くよ』
『じゃあ』
とても気分が軽くなる。
『まあ、ゆっくりしていきなさい。一ヶ月程度ね』
『一ヶ月で出られるんですね』
『ああ』
笑顔で幕内先生が頷く。
『よろしくお願いします』
深々と頭を下げる。
だが、先生が『どうやって病院から出るか』という事について、ついに最後まで言わなかったことに気づいたのはずっと後の事だった。
私は駐車場のはずれの花壇の隅に腰を下ろすと、ポケットから取り出したピースに火を点けた。
甘い香り。
祖父が吸っていたタバコ。
母が好きだと言っていた香りのタバコ。
芳香を放つ煙が肺を満たす。少し、辛い。
祖父はこんなにも強いタバコを一日四十本も吸っていたのに、八十三まで幸せに生きた。
さして苦しむこともなく、病気をすることもなく。ただ単にある朝起きてこなかった。
タバコも吸わない、お酒も弱い母がなぜこんな辛い思いをしなければならないの?
背後を深夜のタクシーが通り過ぎていく。
私はスマートフォンを取り出すと時間を見た。
午前一時四十五分。
ゴールデンウィークも明け、徐々に気候は春から初夏へと移り変わろうとしていた。
もう夜も遅いのに、どこか街に活気が満ちている。
薄明るい空を見上げながら、私の心は再び思い出へと漂っていった。
私と桜は、仲の悪い姉妹だった。
歳が離れている事も悪かったのだろう、私は桜の言っている事がまったく判らなかった。
私は背が高いだけの運動音痴、桜は身体能力抜群のトップランナーだ。
そもそも話が合う訳がない。
私が太宰について話したい時、桜は今日のタイムについて話したがった。
私は大学二年、桜は高校一年。
『今日はね、〇.五秒も縮んだんだよ』
三人の食卓で未だに興奮冷めやらない桜がまくし立てる。
『膝をね、こう、もうちょっと上げたら』――となりの席で桜が細い膝を突き出す――『タイムが伸びたの』
『へーえ。でも今はメロスの話をしてたんだよ』
『どうでもいいじゃん、作り話の人だよ。わたしのタイムが伸びたんだよ?』
父は私が小学校五年のときに急逝した。小学校に上がる前だった桜に父の記憶はほとんどない。
だから、桜の肉親は母だけだ。
相変わらず際限なく四百メートル走の話を続ける桜の姿を向かいの母がニコニコと見つめる。
桜が振り回すフォークの先に刺さったハンバーグの欠片から、茶色いデミグラスソースが私の頬に飛ぶ。
『ちょっと桜、ソースが飛んでる』
『桜ちゃん?』
さすがに母が桜を嗜める。
『フォークを振り回しちゃあダメよ。先に食べなさい』
『もう。お母さんはいつもお姉ちゃんの味方するんだから』
…………
タバコをもみ消し、もう一本に火を点ける。
私は桜に優しくなかった。
何か決定的な行き違いがあった記憶は、特にない。
いつの間にかに、あるいは最初から、私たちはいつも何かというとお互い競り合い、そして仲違いをしていた。
私は桜に合わせようとしなかったし、桜も事あるごとに突っかかってきた。
母はそんな私たちの様子に心を痛めている様子だったが、かと言って仲裁するわけでもなく、ただため息をつくのが常だった。
紫色の煙が夜風に漂っていく。
タバコも、そうだ。
私はタバコを良く吸うが、桜はそれを嫌がった。緩慢に自殺していると、いつも怒ったように言っていた。
きっと、桜と私は何もかもが違うのだろう。文学オタクのメガネ女子と日本代表レベルのアスリート。私はロングヘア、桜はショートカット。顔立ちは似ていたが、しかし、何もかもが違う。
考え方も、性格も、そして母との接し方も。
私は母の話し相手に良くなったが、桜は母と話すのが苦手だ。甘えたり、おねだりすることはあっても、桜は母の話を聞かなかった。いつも一方的に自分の考えを押し付け、話したいことを話すだけ。
母はいつも笑顔で桜の話を聞いていたが、会話は一方的に桜の方から切り上げられ、会話が長く続くことは少なかった。
大人になると私たちはさらに疎遠になった。
私はいつも怒っている桜が怖かったし、桜もきっと出戻りの私を疎ましく思っていたのだろう。
私は、悪い姉だ。
私はタバコをもみ消すと、吸殻を二つ、ポケット灰皿に押し込んでから立ち上がった。
病室への帰り道、私はエレベーターの中でコンビニの袋を下げた人と一緒になった。
薄いビニール袋を透かして中身が見える。ジュース、パン、おにぎり、雑誌。それになぜか紙おむつ。
「もうすぐ生まれるって聞いてタクシーで来たんですけど、まだみたいなんです」
私の視線に気づいたのか、その若い男性は話しかけてきた。
「待つのは嫌ですね。やることがないので買い物に出たんですけど、ロクなものが売ってなくて」
「へえ。楽しみですね」
「女の子なんです」
男性が口元をほころばせる。
生まれてくる命もあれば、失われていく命もある。
あなたは生まれてくる命を待っている。
だけど、私は母が死ぬのを待っているの。
「お大事に」
エレベーターを降りてから、どこか間違った挨拶をしてしまった事に気づく。
慌てて振り向くが、もうエレベーターは閉まった後だった。
「まあ、いいか」
誰にともなく呟く。
病室では、桜が黙って母を見つめていた。
抱えた膝の上に顎を乗せ、ただ黙って見つめている。
窓から射し込む街灯の光が桜の頬を白く照らす。
習慣で、母の傍らに立って配管をチェックした。
看護婦でもない私が配管をチェックしたところでまるで無意味だ。だが、そうせずにはいられない。
入院した時には、管はひとつもなかった。
だが、すぐに輸液管は増えていき、今ではパイプの中に寝ているようだ。
腕には点滴針が何本も差し込まれ、肩に開けたポートには輸血の管が繋がっている。
マスクからは酸素が送られ、布団の中からは心拍計の配線と血中酸素濃度を測るモニターが覗いている。
反対側には導尿カテーテルと腹水を抜くための太い定置ドレン。
そして足元にはモルヒネを定期的に導入するための小さな装置。
母は身動ぎ一つしない。鞴のような寝息を立てながら、ただ、そこにいる。
母の表情は穏やかだ。
だが、それは人工的なもの。鎮静剤で与えられた、偽物の平安だ。
私は黙って母の寝顔を見つめた。
肝臓の奥に発現したガンはあっというまに母の肝臓を制圧した。
漂着した場所が悪かった。肝臓の最深部、肝動脈が枝分かれするところ。ここを絞められたらひとたまりもない。
母の肝臓は徐々に栄養不足に陥り、外縁部から死滅していった。
『おそらく、一月か、二月には症状が始まっていたと思います』
主治医を引き受けてくれた井上医師は狭い会議室に私たちを招くと、レントゲンの画像をボールペンで指し示しながら言った。
『食欲がなくなったりとかといった事はその頃からではないですか?』
確かに、二月の末頃にはほとんど何も食べられなくなっていた。吐き気がひどく、何を食べても戻してしまう。夜中に、母は粘液状の透明な液体を何度も吐いていた。
『そう、そうかも知れません』
『かわいそうに』
長身の井上医師は、いつも顔色が悪かった。目の下に大きく隈ができている。頬がこけ、グレーの髪を長めにカットしている彼の姿は大昔の医療漫画に出てきた人殺しの医者にそっくりだ。
『もう、時間はないと思います。いつ、何が起きてもおかしくない状態だと思ってください』
穏やかに、だがきっぱりと私たちに告げる。
『それは、どういう意味ですか?』
不吉な言葉に、思わず問い返す。
『終末期だという事です。もう、いつ亡くなっても不思議ではありません』
酷い言葉だ。
心臓がドキリとし、そして止まる。
まるで鋭利な槍で心臓を貫かれたかのよう。
私は無理に意識を元に戻すと井上先生に訊ねた。
『でも、まだ普通に話していますよ?』
『脳は大丈夫です。でも』
どこか辛そうに、先生は顔を伏せた。
『肝臓は、救えません』
『先生、手術は? 内視鏡手術とか』
『お母様の体力が持たないと思います。肝臓は遠いんです。お腹から切っても、背中から切っても。とても遠いんです。身体に対する負担が大きすぎます。手術台で亡くなると思います』
看護婦さんたちから聞いた話では、井上先生は幕内先生の一番弟子、肝臓手術の名手なのだという。その先生が無理だというのでは、おそらく誰がやっても無理なのだろう。
『この下の階にはホスピス機能があります。ターミナルケアの専門チームもいます。彼らを入れることも可能ですが、どうしますか?』
『お願いします』
先に頭を下げたのは桜だった。
『苦しむために、長生きする意味はありません。できる限り母を楽にする、それだけを優先してください』
『判りました……賢明な判断だと思います』
『怖がりな人なんです。怖くないようにしてあげて下さい』
これは、私だ。
『では、インフォームド・コンセントなどは』
『母には必要最小限で結構です。私たちに説明してください』
見た目と異なり、井上先生は優しい人だ。
『そう、そうですね。……怖いのは嫌でしょうね。判りました』
インフォームド・コンセントはデリケートな問題だ。
最近では後々訴えられたりしないように、必要以上に説明する場合もあると聞く。
敢えて本人に伏せる。
彼は医師としてのリスクを冒しているのかも知れなかった。
だが嫌がる様子を見せることもなく、井上先生は淡々と私たちのお願いを受け入れてくれた。
『あと、これも申しづらいのですが』
椅子を回して私たちを正面から見つめる。
『今後、心停止が起きた場合、どうしましょうか』
最初、何を言われているのか解らなかった。
『つまり、お母様の心臓が止まってしまった場合、心臓マッサージ等の蘇生処置についてはどうしますか?』
交互に、私たちの瞳を覗き込む。
『どうしますか、って仰られても』
ひどい質問だ。
見殺しにしますか、どうしますか、と聞かれている気がした。
『蘇生処置は結構です』
まだ私が俯いて逡巡しているうちに、桜が答えていた。
『止まった心臓を無理に動かしても、病気が治るわけではないんでしょう?』
『そうです。いずれ、また止まります』
『蘇生しても、苦しみが続くだけなんでしょう?』
桜は眉を怒らせて井上先生を見つめた。
『そうとも言えます。ただし、ご家族と共有する時間を延長できるとも言えます』
無表情のまま、井上先生が答える。
『苦しむのであれば、無理な蘇生は必要ありません』
桜はまっすぐに井上先生を見つめたまま、はっきりと答えて言った。
桜の口調は怒っていた。
だが、怒っているのではない。
その時、私は初めて気がついた。
桜は怒っているのではない。
桜は他に感情の表現を知らないだけなのだ。
私に対しても、誰に対しても。感情が昂ると、そういう口調になってしまうだけだった。
『母に苦しい目に合って欲しくありません。苦しむ時間をとにかく短くしてください』
本当に母の事を思いやっているのは桜だった。
きっぱりとした桜の言葉。
これは、思いやりの言葉だ。桜は、母のことだけを考えている。
私は桜の覚悟を知って言葉を失った。
『お願いします』
井上先生に懇願する桜の横顔を無言で見つめる。
私は母と別れるのが嫌で、井上先生への答えを逡巡した。
だが桜は、たとえ母と過ごせる時間が短くなってでも、母が苦しむ時間を短くしたいと言っている。
子供っぽいと見下していた桜が、私よりも遥かに大人で、そして遥かに思いやりのある選択をしている。
私は、ただ単に母と過ごす時間を少しでも長くしようとしているだけだ。
私は母と一緒にいたいだけ。
子供っぽいのは私のほうだ。本当に優しいのは桜のほうだった。
『判りました』
井上先生はしばらくのあいだ桜を見つめていたが、やがて深く頷いた。
『お気持ちはよく判りました。……お姉さまもそれでいいですか?』
『それで、結構です』
私は井上先生にそう告げた。
……嫌なことを思い出してしまった。
だが、嫌なことばかりではないな、と思い直す。
その日以来、桜と私との距離は徐々に近づいていった。
わだかまりが少し消え、たどたどしいながらも桜と話ができるようになった。
お互いに手探りで相手を捜すような感覚だった。
最初は私。そして桜がそれに答える。
まるで子供時代をやり直しているみたい。趣味のことや仕事のこと。服の話や映画の話。子供時代の話。母の話。好きだった漫画の話、ランニングの話、文学の話。恋人の話。
私は手が届きやすい場所に移動させたナースコールのボタンの位置を確かめると、パンプスを脱いだ。
簡易ベッドの上に横座りになる。
「お姉ちゃん?」
窓際のソファから桜の声がする。
「何?」
「隣、行ってもいい?」
「ん」
少し身体をずらし、桜の位置を空けてあげる。
「お姉ちゃん、タバコ臭いよ」
隣に座った桜は私に言った。
「だって、さっき吸ったばかりだから」
「身体に悪いんだよ」
「私は走らないから、大丈夫なの」
「まあ、いいけど。やめればいいのに」
桜が両手で膝を抱く。
「こんなに話すの、初めてだね」
初めて。
確かにそうかも知れない。
母がターミナル状態に陥ってから、私たちは住まいを変えた。
この病室が住まいになった。
私は長期の休暇を取り、数枚の着替えを持って病室に泊まり込むことにした。
桜のアパートはこの病院から近い。フリーター同然の生活をしている桜は、仕事はなんとでもなると言う。歩いても十五分程度のところに住んでいたが、桜は翌日から私に合流した。
桜と同じ場所で寝泊りするのは久しぶりだった。
実家では部屋が別だったから、ひょっとするとこんなに距離が近いのは初めてかも知れない。
病室では、簡易ベッドの上が私の居場所になった。桜は母を挟んで反対側、窓際のソファ。付き添い人が泊まる事を想定してか、この病室にはソファベッドが備えられている。
「こんなふうに三人で泊まるのって、久しぶりじゃない?」
「うん」
少し、考える。
「最後に一緒に旅行したのって、桜が小六の時?」
「かな? 箱根に行ったよね」
「部屋に温泉がついてる豪華なお部屋、でしょ?」
「そうそう。お部屋から川が見えるの。あー、また行きたいなあ」
数日シャンプーをしていない桜の髪から甘い汗の匂いがする。
以前は桜の汗の匂いがあんなに嫌いだったのに、今は不思議と嫌じゃなかった。
「ママが喜んでたね。ママ、お花が好きだから」
「うん」
桜はしばらく黙りこくっていたが、ふいにこちらを向くと、
「お姉ちゃん?」
と私の顔を見た。
「ん?」
「ごめんね」
思いがけない言葉だった。
「ごめんねって、桜、何に謝るの」
「なんかね、いろいろ」
桜がクスッと笑う。
「ほら、子供の時にわたしが爆発して、お姉ちゃんの本破っちゃったじゃん。その事とか」
「でも、私も仕返ししたのよ」
今まで言わなかったことを、私は桜に告げる。
「桜が大切にしてたドラえもんのお人形捨てちゃったの、私なの」
「え? そうなの? ずっと探してたのに」
「知ってたよ。知ってて、『いい気味だ』って笑ってたの。ごめんね。今度買ってあげる」
「いいよ、もう売ってないし。それにドラえもんはもう卒業したもの」
再び、黙り込む。
しばらくしてから、桜は口を開いた。
「……わたしね、お姉ちゃんのことが嫌いだった」
ふと、桜は言いよどんだ。
「うーん、違うな。わたし、きっとお姉ちゃんの事が羨ましかったんだと思う。だってなんでもわたしよりできるんだもん。いい大学行って、会社入って。とっとと結婚して離婚して」
「離婚は余計よ」
「格好いいんだよ? 離婚」
「良くないわよ」
「勉強だってできたし。わたし、おバカさんだから」
「桜、馬鹿じゃないと思うよ。勉強しなかったけど」
「だって、嫌いなんだもん、どうでもいい事覚えるの」
「代わりに運動ができるじゃない。私は桜が羨ましかったわ」
「早く走れても、なんの役にも立たないよ」
「でも、格好いいじゃない。……今でも走ってるんでしょ?」
「んーん」
桜は首を横に振った。
「今は走ってない。お腹がぽよぽよになってきちゃった」
桜はTシャツの上から自分の腹をつまんで見せた。それでも、私の脇腹よりははるかに薄い。
「こら。女の子はそういうことしないってママが言ってたでしょ」
「へへ」
ピンク色の舌を出す。
「でもね、お姉ちゃんと久しぶりに一緒にいたらね、なんかどうでも良くなっちゃった、そういうこと。なんでお姉ちゃんと竸ってたのかなあ。バカみたい」
膝の上に組んだ腕に顔を預け、横目使いに私を見つめる。
「連絡しなかったのもね、会うと喧嘩しちゃうからなんだ。喧嘩したくないのに喧嘩になっちゃうから、避けてたの。嫌われてるとばっかり思ってた。だから……ごめんね」
ふいに、桜は身体ごとこちらを向いた。
「あのね、買ってくれるんだったら靴の方がいい」
「どんなの?」
「お姉ちゃんが仕事で履いてたみたいな、エナメルの靴が欲しいな。踵がある靴。赤いのがいい。わたし、スニーカーしか持っていないから」
「だけど桜、そうしたら靴に合う服も買わないと。スカート持っていないんでしょ?」
「うん。じゃあそれも買って?」
「あなた、Tシャツ以外のお洋服は持っているの?」
「じゃあ、それも」
ちゃっかりと桜が追加のおねだりをする。
だが、嫌ではなかった。
「じゃあ、今度お買い物に行きましょうか」
「夏が終わってからにしよ? 新作の冬物買って?」
「秋に買う冬物は高いのよ? 冬物は冬になってから買わないと」
「でもそれじゃあ面白くないじゃない。それ、売れ残りでしょ?」
「まあ、それもそうか」
「わたし、雑誌買って調べとく。お姉ちゃん、欲しいTシャツとかない? わたしのあげるよ。ビンテージだよ?」
「ビンテージって、着古しってことじゃない」
本当に、こんなに桜と話すのは久しぶりだ。
話をするのが心地よい。なぜかとても話しやすい。
なんで今まで話をしなかったんだろう。なんで会わなかったんだろう。もっと話をすればよかった。もっと会う機会を作ればよかった。
この時間はきっと、母が最期に遺してくれた私たちへのプレゼントだ。
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「お母さんと、もう一回話したかったね」
「うん」
母の呼吸が苦しくなったとき、私たちは鎮静剤の導入を決めた。意識レベルを下げる薬だ。
おそらく、今はもう、母はここにはいない。
「きっとね、聞こえてるわよ」
私は桜に言った。
「鎮静剤入れても人の話は聞こえてるんですって」
「へえ、そうなんだ」
ふいに桜は勢いをつけて立ち上がると、裸足のままペタペタと歩いてサイドボードに置かれたブラシを手に取った。
左手を母の頭に添え、顔を覗き込みながら、優しく茶色く染めた髪にブラシを通し始める。
慎重に横髪を整え、頭を支えて後ろ髪を撫でつけていく。
前髪をカールさせ、最後の仕上げにもう一度横髪にブラシを通す。
桜の表情は穏やかだった。
真面目な表情で、少しずつ母の髪にブラシをかける。
母の髪を整え終わった桜は、ブラシを右手に握ったまま、後ろ手に両手を組んだ。
「へへ、美人になったよ、お母さん」
両手で母の首を抱き、桜が母に頬ずりする。
Tシャツ姿の桜は私の隣に再び座ると両手で肩を抱き、ブルッと震えた。
「ほら、これを掛けて。少し寝なさい。ママの事は私が見てるから」
「眠くなったら交代するから起こしてね」
渡した毛布を両肩に掛ける。桜はコツンと私の肩に頭を寄りかからせると、やがて静かな寝息を立て始めた。
+ + +
「……本さん、山本さん?」
気づくと私も眠ってしまっていたらしい。桜の頭に凭せていた頭を慌てて起こし、目を開く。
私の膝を揺すっていたのは、看護婦の浅野さんだった。
「呼吸量が減ってきました。起きてください」
桜もすでに目を覚ましていた。
無言のまま足を伸ばし、裸足の上にスニーカーを履く。
私もパンプスに足をいれると、桜と並んで母の横に立った。
黙って二人で母の顔を覗き込む。
いつのまにかに、鞴のようだった呼吸音が小さくなっていた。
「心拍数も、落ちてきました。もうそろそろなのだと思います」
冷徹に、感情のない言葉で私たちに告げる。
だが、浅野さんの表情は苦痛に満ちていた。
もう、一ヶ月以上一緒に過ごしてきたのだ。
この病院には大きな庭園がある。花を見たがる母を車椅子に乗せ、散歩に連れて行ってくれたのはいつも浅野さんだった。浅野さんは母と仲が良かった。
窓の外が明るい。外で雀が鳴いている。
「朝、逝かれる方が多いんです」
母の腕を取り、腕時計を見て脈を計りながら浅野さんがぽつりと呟く。
「なぜなのかはわからないんですが、朝が多いんです」
モニターに映る波形が、まばらなスパイクを描いている。
「心拍が遅くなってきています」
浅野さんが説明してくれた。
「徐々に、間隔が広くなっていくと思います。搏動も弱くなってきてる」
間隔が徐々に広がり、そしてスパイクの高さが低くなっていく。
やがて、そのスパイクはほとんど平坦になってしまった。
隣に立った桜が黙って私の手を握る。
私は桜の細い手を握り返した。
最後に一息、小さく息を吸い、そして吐き出す。
次に母が息を吸うことはついになかった。
それでもしばらく待ってから、ようやく浅野さんは脈を取っていた母の腕を布団の中に戻した。
廊下の方から慌ただしい足音がする。
私服姿の井上先生が血相を変えて病室に飛び込んできた。
井上先生が母のそばに寄り添う。布団の中から腕を取る。だが、浅野さんの表情を見て全てを悟ったようだった。
「……間に合わなかった」
悲しそうに呟く。
井上先生はしばらく俯いたまま母の顔を覗き込んでいたが、やがて顔を上げた。
「これも、仕事なんです。許してください」
脈を調べた後、ペンライトをつけて母の目を覗き込む。
腕時計で時間を確認する。
「ご臨終です。死亡時刻は六時十五分、でよろしいですか? 今の時間です」
「はい。結構です」
私の声は遠かった。まるで他の誰かが私の声で喋っているかのようだ。
「素敵な、方でしたね」
井上先生は私たちに言った。
「とっても、素敵な方でした」
+ + +
清拭をするあいだ、私たちは病室から追い出されてしまった。
浅野さんを筆頭に、母と仲の良かった看護婦さんたちが母の身体を拭き清めてくれている。
病院に来た時はまだ寒かったから、暖かい服しか病室には残っていなかった。
まあ、仕方がない。母には冬服で逝ってもらおう。看護婦さんたちは不満そうだったが、鎌倉の自宅にまで取りに行く時間はない。それに冷え性だった母にはちょうどいいかも知れない。
清拭には一時間くらいかかると浅野さんは言っていた。
手持ち無沙汰に病室の前に居ても仕方がない。それに、邪魔だ。
「行こ? 桜」
私は桜を病棟の隅の待合室に誘った。
最新鋭の病院なだけあって、待合室もまるで喫茶店のような瀟洒な作りになっている。
窓際のテーブルが空いている。
「ここでいい?」
私は窓際の席を選ぶと腰を降ろした。
向かいに桜が黙って座る。
大きな窓から、明るい陽光が差し込んでいる。
「死んじゃったね」
ふいに桜が口を開いた。
「うん。……死んじゃったね」
不思議と、悲しくはなかった。
鎌倉フラワー(完全版) 蒲生 竜哉 @tatsuya_gamo
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