第93話 偽れない想い

 正面玄関に着いた時には、すでにみーちゃんは俺たちを、いや、正確には俺を待っていた。

高畠巫月たかはた-みずきです。ちゃんと、自己紹介したこと、なかったですよね?」

 みーちゃんこと、高畠巫月は真っ赤に腫らした目で俺を見る。絶望に嘆き、無力さに打ちのめされ、愛らしさすら感じた瞳は濡れている。


 俺は、こんな子にあんなことをッ。

 自分の浅ましさ、愚かさを呪う。自分だってここにいる。それを棚に上げて、俺はみーちゃんを責めた。すべてを分かった風に思い込み、何も知らない無知の俺は、こんな純粋な子に、なぜ一緒にいてやらなかった、とほざいた。

 恥ずかしさのかけらもなく、ただ自分本位に……。


「あの……」

 言葉を繋ごうと口を開いても、次の句が繋がらない。あの時の怒りが、あまりに一方的だったかということに気づいてしまっているから。

 しかし、みーちゃんはそれを責めない。まるでそんなことがなかったかのように。

「お兄さん、そちらの方?」

 腫らした目が捉えるのは、みーちゃんの知らない女性。俺は知ってても、みーちゃんは知らない女性だ。山吹色の布に体を包む、年上の女性だ。

「あぁ」

 空言でも吐くように、そう零す。みーちゃんは俺の続きの言葉を待つように、真摯な瞳で見つめる。吸い込まれてしまいそうな純黒な瞳に、俺は少しの戸惑いを覚えながらも視線を恭子さんへと移す。


「こちらは、3年生の恭子さんだ」

 よろしく、と恭子さんは恭しく微笑みかける。

「俺が体育祭の実行委員になった時に色々と助けてくれたんだ」

 文化祭程ではないが、そこそこと大変だった日々を思い返し表情を苦くする。

「そうなんですか」

 みーちゃんはそう呟き、俺に向けていた視線を恭子さんへと向ける。潤いのある綺麗な瞳で覗かれ、恭子さんは苦笑を浮かべつつも、一歩みーちゃんへと歩み寄る。


「博多恭子よ。宜しくね」

「高畠巫月です」


 二人は手早く自己紹介を終え、手をとる。握手を終えた二人は俺に向き直り、視線で早くという。

 あぁ、と答えるように首を縦に振り、上履きを脱ぐ。

 二人はそれぞれの下駄箱へと向かい、同じように上履きを脱ぐ。

 それから下駄箱の中にある外履きを取り出し、それを履く。

 黒光りする革靴は、もう一年以上履いているということもあり、すんなりと足に馴染む。入学当初は、履くことに苦労すらしていた。


 そう言えば、まだイリーナのやつは履くの大変そうだよな。

 こんな時に限って、何の変哲もない日常が思い返される。溢れ出てきそうになる涙。涙。涙。

 下駄箱に手をつき、嗚咽を上げそうになるのをどうにか堪え、両手のひらを目に当て、ぐりぐりとまわす。溢れ返りそうな涙を押し戻すかのようにし、俺は下駄箱の前から離れ、正門前に向かう。


 文化祭を楽しむ人たちで辺りは異様な賑わいを見せている。それが心を掻き毟り、不安や焦燥を掻き立てる。

 それほど心に余裕がないのだろう。早る鼓動に流れる冷や汗。頭の中を過ぎるのは、やはり最悪の場合のイリーナの姿。何度忘れようとしても、脳裏に焼き付いて離れないあの姿。

 白装束に似た衣装を纏い、ベッドに横たわる。冷たい手足。──忘れられない。だからこそイリーナもって思ってしまう。


「ほら、暗い顔しない!」

 その時だ。俺の背中に衝撃が走る。

 ──えっ……。

 掠れて声にもならない音が洩れる。ゆっくりと、定まらない焦点を幾回か瞬きすることで定めると、瞳に映るのは地面だけだ。生徒による模擬店のゴミやらがあちらこちらに見て取れる。

 どうやら俺は下を向いていたらしい。

 ゆらゆらと頭をあげると、そこにはみーちゃんと恭子さんがいた。二人も上履きから外履きに履き替え、正門を向かっていたのだろう。


「下ばっかり向いても何も変わらないの」

 恭子さんは叱咤するわけでもなく、ただ穏やかに、俺の心へ届けるかのように言葉を並べる。

 並んだ言葉はどれも綺麗事と言われる類のものだ。でも、それでも心の支えにはなる。

「そうですよ、お兄さん! 三人なんて大人数で行ったらイリーナちゃん、驚いちゃいますよ」

 戯けるように、みーちゃんは表情を緩くする。俺の迷いを、躊躇いを、重圧をかき消すようなその表情かおは、優しく愛おしさすら感じる。


「分かってるって」

 鼻声で強がる俺に、二人は小さく笑った。そして、顔を見合わせて、また笑う。

 頼りない人ね。そう言わんばかりだ。

 それがまた俺の心を熱くしてくれる。

「じゃあ、行こう。イリーナが待ってる」

 熱くなった心を誤魔化すように、俺は視線を騒がしい校内とは別世界のように、静まりを見せる校外に向ける。


 枯れ木が僅かに残した茶色の葉を舞わせる。ふんわりと宙を舞った葉は、音すらたてずに地面に落ちる。

 葉はこれで終わり──

 あまりに儚く、哀れな最後。

 俺はその葉を見届け、駆け出した。

 駆けて駆けて、正門をくぐって外に出て、また駆ける。

 学校へ行くには必ず登らなければならない坂を降りる。

 喧騒が遠のいて、日常が戻りつつある。しかし、このままでは日常じゃない。


「──イリーナのいねぇ日常なんて、いいわけねぇだろ」

「私も。イリーナちゃんともっともっと遊びたい 」

 俺の呟きにみーちゃんが答える。力強く、覚悟のある声だ。

 そして、イリーナが死なないという自信のある声だ。

 ふっ、と笑みをこぼし──

「当たり前だろ! イリーナにみーちゃんは絶対必要だ!!」

 そう叫び、坂を降りきり病院へと向かった。


 * * *


 青白い空間は、やはり苦手だ。みーちゃんと恭子さんとあれこれ話し、気を確かにしたはずだったのに。

 この薬品の匂いが立ち込める青白い空間だけは、何度来ても脳裏に悲しみを刷り込ませる。

 受付のナースに俺は荒らげた息を整えることなく、声をかける。


「す、すいません! イリーナの、えっと……」

 スーツ姿の男が汗だくで、言葉にならない言葉をアワアワと零す。

「お、落ち着いてください」

 ナースはそんな俺を見て、驚きながらも宥めるように言う。しかし、頭の中にはイリーナの所へ、という思いが立ち込め、溢れて、それ以外の思考を許してくれない。

 早く答えを、そう願う気持ちが前へ前へと出る。いつの間にか握っていた拳も、やけに力がこもっていた。

 そんな俺の肩に手が乗る。優しく、包み込むように、置かれた手に我に返る。


 早っても無駄だ。こういう時こそ、落ち着いて……。

 とめどなく溢れる思考は、堰を切ったようで思考の濁流に襲われる。

 それにより、逆に言葉を紡げずにいると置かれた手の感覚が無くなり、代わりに言葉が飛ぶ。


「盛岡イリーナさんの病室はどこですか?」

 小さな声だが、確かな質量をもった恭子さんの言葉。受付のナースは、こくん、と頷き「少々お待ち下さい」と述べる。

 こちらからは視界に入れることの出来ない椅子の向きを、逆にして俺たちに背中を向ける。

 それとほぼ同時に立ち上がり、ナースは少し置くに見える大量の書類が並べられる棚に向かう。

 棚に並ぶ書類に指を滑らせる。そしてその指は唐突にとまる。止まった先の書類を取り出すや、俺たちのほうへと歩き出す。

 薄いガラス板を挟み、眼前まできたナースは再度俺たちからは見えない椅子に腰を掛け、向き直る。

「盛岡イリーナさんのご家族の方ですか?」

 ナースはあわてた様子もなく、そう問う。その冷静さが、逆に俺の神経を逆撫でる。

「俺は盛岡将大。イリーナの兄だ」

 声に起伏を持たせることもなく、俺は言い放つ。ナースは「そうですか」とつぶやくと、再度書類に目をやり、


「後ろの方は?」

「イリーナの友達だ」

「そうですか」

「盛岡イリーナ様は、401号室です」

 パタンと、書類を閉じながらナースはそう告げた。俺は、謝辞を述べることもなく廊下を駆け出す。

 中央病院と称されるだけはあり、院内はなかなかに広い。

 内科、外科、眼科に耳鼻科、更には歯科までと多岐にわたって診察を行っているため人があちらこちらにいる。

 俺はその中の急患病棟を駆ける。急患病棟とは、救急車等で運ばれてきた急な患者を診る場所で、そこにはそれぞれの科の入院施設も複合されている。

 エレベーターがエスカレーターが、どこにあるのかもわからない。俺は、とにかく走り、階段を蹴る。

 蹴って、踏んで、また蹴って。

 4階目指してひた走る。


 途中何度か「廊下は走らないでください」と声を駆けられたが、そんなことを言っている余裕はないのだ。

 呼吸は定まらない。肩で息をしても、まだ尚つらい。膝に手をつき、俯く顔。その前には簡易なスライド式の扉がある。

 俺の全力疾走に恭子さんもみーちゃんも付いてこれず、そこにいるのは俺だけだ。

 それが原因か否か。はっきりとしたことはわからないが、俺には眼前の扉が重く鈍色にびいろに輝く鋼鉄の扉に見えた。

 一人であることの圧倒的不安。イリーナの状態の詳細を知れてない状況。そして、脳裏によぎる母さんと織葉の姿。思い起こされるのは、元気だったときの笑顔よりも先に死に顔だ。

 今にでも「おはよ」と言ってきそうな苦しみのない表情だ。

 織葉なんて事故にあったのにそれだった。

 心臓が毟り取られそうなほどに痛く。手が震えて、視界が狭まり、白と黒とがチカチカと点滅するかの如く視界を歪ませる。


「……だめだ」

 喘ぐように零し、小刻みに震える手をスライド式ドアに手をかける。

 イリーナ――。

 胸中で名前を呟き、俺にとってはあまりに重く、生と死の交わる世界でいざなう扉をスライドする。

 ごろごろと扉の下についたコマが地響きを上げながら回転し、白い世界が視界に飛び込んでくる。

 ピッ、ピッ、ピッと病室ならではの心電図モニターの音が耳に入る。

 それだけで安心できた。音が鳴っている。それは、生きている証だ。

 途端に、視界がはれ白い光が病室の窓から差し込んでいた陽光であると認識できる。

 ほんの些細なこと。それだけで心の在り方が変わるなんて、人間とはなんとくだらないものなのか。


 気づけば震えも止まり、重々しい鈍色の鋼鉄の扉のように見えていたそれは、簡易なスライド式扉に戻っている。

 軽く押すだけでゆらゆらと開いていき、更に室内を明らかにしていく。

 冷たい風を引き立たせる白いカーテンが靡く。白のクロスに白の棚。

 それからパイプベッド。

 白い布団が少し盛り上がっている。おそらく、あそこにイリーナが──。

 そう思っても、心電図モニターの音が耳に届くだけで先ほどとは全然違う気持ちの持ち方で、室内へと入る。


 備え付けの物以外は何も無い、殺風景な室内 。その中で、眠り姫の如くすやすやと眠るよく知った顔。

 透き通るような栗色の髪。筋の通った鼻に、閉じていても薄らと残る二重まぶたの線。布団の端からは細く白い腕が覗いていおり、そこには針が刺さっている。

 どうやら点滴を受けているらしい。

 しかしそれでも本当に俺の妹か、と思わせてくれるほどの美少女だ。


「イリーナ」

 蕩けるように、愛おしそうに、乗せれるだけ全ての感情を乗せて、名前を呼ぶ。

「……なぁーに?」

「お、おお。起こしちまったか?」

 掠れたような声で返事をしたイリーナに、目を見開きながらも訊く。

 イリーナは寝転んだまま、かぶりを振り、違うと意思表示をする。

「ごめんね」

 それから彼女はそう言った。

「イリーナが謝ることなんてないだろ。何があったんだ?」

 謝るイリーナに驚き、俺は体を乗り出し彼女の頭を撫でる。そして宥めるように詳しい状況を知らない俺はそう訊ねる。


 イリーナは、しかしそれに答えることはせずに俯く。俯いて、それから逡巡しゅんじゅんするように躊躇った視線を俺にぶつける。

 ぶつかり、交わった視線は憂いを帯び、言葉にしなくてもイリーナの申し訳ない、という気持ちは分かった。

「どんな事でも、怒らない。だから──言ってくれ」

 真摯な態度で、妹を心底思う兄のそれで。俺は言ってのける。

 イリーナは黙った。病室に流れる静寂に、張り詰めた様子はなかった。穏やかで、ただただ心地の良い空間になる。

 それからイリーナは、少し頬を赤らめてから口を開く。


「昨日、あまり眠れなくて……」

 俺は小さく頷く。だが言葉を紡ぐことなく、彼女の言葉の続きを待つ。

 続きがどんなものであろうと構わない。俺は、イリーナの言葉で聞きたい。

 そんな俺の想いを悟ったかのように、イリーナは、寝転がったままの姿勢でポツリと零す。

「昨日、言ったこと覚えてる?」

「昨日のどの話だ?」

 穏やかな口調で、言葉だけで彼女を包み込むように。

 俺は聞き返した。彼女は目を伏せて、耳までも赤くして、蚊の鳴くような声を放つ。


「──昨日告白されたって話」


 世界の音が小さくなり、心がざわつき始める。それはわかりやすく、さざ波をたてて、俺の平常心を蝕んでいく。

「き、聞いたよ」

「……それでね、私寝れなかったの」

 俺の返答から少しの間の後に、彼女は憂いを帯びた声で告げた。

 寝不足。彼女は自分が倒れた原因をそれだと言った。そして、その原因を作ったのは告白だ。

 やり場のない憤りが湧き上がる。

「で、でも。イリーナは好きな人がいるって断ったんじゃないのか?」

 記憶に新しい、俺に嫌悪感を覚えさせた言葉を彼女にぶつける。

 彼女は一度双眸を開き、俺の顔を覗いてから再度目を伏せる。


「そうだよ。でも……」

 その時の彼の顔が。と、イリーナはか細い声で言う。彼女の優しさが、思いやりが、俺の心に突き刺さる。

 そんなの抱え込まなくていい、と言ってやりたい。でも、それを言ってもイリーナは聞かない。

 言葉で分かるなら、ここまで自分を追い詰めないだろう。

 だから──

 俺は、少し彼女の体に近づき、そっと抱きしめた。


「気づいてやれなくてごめん」

「……」

「イリーナがこんなに抱えてたのに……」

 言葉が溢れる。溢れて零れて、しかし吐露したそれは全て謝罪。

「頼りない義兄でごめん」

 彼女は嫌がることもなく、俺の抱きしめを受け入れ黙って言葉を聞く。

「イリーナに好意を持ってもらってる奴が羨ましいよ。こんなに優しいやつ、俺は知らねぇーからな」

 溢れ出しそうになる涙を無理矢理の笑顔で誤魔化し、そっと腕を解く。

 彼女は茹でたこのように顔を真っ赤に染め上げて、離れていく俺の顔を見る。

 そして、小さく口を開く。

「──」

「ん? なんて?」

 2人しかいない病室に、声は響かない。それほどまでに小さく、こもっていた。それを聞き返してみたが、彼女は小さくかぶりを振り、

「なんでもないよ」

 と答えた。


 それと同時に出入口の簡易なスライド式ドアが開いた。

「大丈夫?」

 そして恭子さんとみーちゃんの声が響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

素直になれない俺と天然彼女 リョウ @0721ryo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ