第92話 俺、電話する

 意識は朦朧もうろうとしているのだろうか。俺は今……どこにいる?

 何もかもが分からない。まるで、底のない沼を突き進んでいるような……、そんな感覚だ。

 瞬間、聞き覚えのある声が耳に届いた。


「ねぇ、大丈夫?」

 同時に、音が戻った。遠くからは楽しそうな喧騒が聞こえる。どうやらまだ学校にいるようだ。そして、正面にいるのは間違いない。恭子さんだ。

「風邪でもひいてるの?」

 恭子さんの本気で心配している声が真上から聞こえる。俺のが背は高いはずだ。なのに何故、上から聞こえるのだ?

 そんな疑問を抱えながら、おどおどと顔を上げる。やはりそこには恭子さんの顔があった。そこでようやく俺は自分がその場に座り込んでいるのだと理解した。

 何故?

「大丈夫ですよ」

 理由はわからないが、声が震えていた。そのままの体勢で俺は、まぶたをゆっくりと閉ざした。


 確か……。俺はクラスの出し物でホール役をしていた。そこで客として、恭子さんが来て俺に話があるって……。それで屋上で待ち合わせることになったんだ。

 でも、あまりに忙しくて俺は時間通りに行くことが出来なかった。だからと言って恭子さんは帰るのでは無く、待ってくれていた。しかし、何を言われるか見当がついていた俺はそれが何とも胸を締め付けた……。恭子さんも結果は分かっているようだった。それでも、恭子さんは告白った。──好きだ、と。


 その瞬間、俺のスマホが鳴った。

「そうだ、イリーナがッ!」

 俺は喘ぐように吐き捨てる。

 屋上の床の上で赤子のように這ってから、まるで酔っ払いのような足取りで立ち上がり校舎内へと戻る扉の方へと向かう。

「ちょっと待ってよっ!」

 今まで聞いたことの無いような、張り詰めた恭子さんの声が俺の鼓膜を震わせる。

 恭子さんだって真剣だったのだ、と今更ながらに思う。わざわざ呼び出して、告白してくれたのだ。真剣じゃ無いはずがない。それを俺は……。


「ごめん……なさい」

 今でも頭の中の9割はイリーナの事で埋め尽くされている。だけど、たった1割だけど恭子さんのことを考えて、俺はゆらゆらと立ち上がる。

 足はガクガクと震えている。

「いまイリーナが倒れたって……。連絡あって……。だから……ごめん……なさい。いま。恭子さんのこと……考えられない……」

 途切れ途切れ、自分でも腹が立つほど言葉が上手く紡げない。


 言葉自体は胸の奥から次から次へと溢れ出てくる。遅れて来た上に、自分の都合で勇気を振り絞った恭子さんの告白をおざなりにしようとしている。そんなの許されるわけがない。だからこそ、あらん限りの言葉が溢れる。でも、俺はそれをどう言葉にするべきなのか分からない。どれを選ぶべきなのか。全部を言うべきなのか。何をすればいいのか分からず、稚拙な言葉だけが零れる。

 そんな自分が歯がゆくてたまらない。


「そっか……」

 しかし、恭子さんはいつもと変わらぬ優しい笑顔を浮かべてそう言った。先ほどまでの張り詰めた様子はなく、ただ穏やかに優しい先輩としてそう告げた。

 不意に涙が零れた。

 イリーナの事が心配で零れた涙ではない。恭子さんの優しさと自分の不甲斐なさに腹が立ったんだ。

 俺は……いつも、いつも。誰かの優しさに甘えてる。えらそうな態度で突き放した夏穂も、ヤンキーだからって毛嫌いしてた智也も、それからいつも困ってるときにわざとらしく手を差し伸べてくれる志々目さん、優梨も、イリーナも、そして、恭子さんも。みんなみんな……。

 学校の屋上で、大人気なく泣き喚く俺に、恭子さんは何一つ嫌そうな雰囲気を出すことなく、受け止めてくれる。しゃがみ込み、俺と視線を合わせ涙でぐちゃぐちゃになる顔を真摯に受け止める。

「ありがッどう……ございばず」


 嗚咽で言葉を詰まらせながらお礼を言う。こんな汚い顔恭子さんに見せられるわけがない。だから俺も恭子さんがどんな表情で俺を見ているのかわからない。でも、雰囲気でわかる。優しく穏やかな表情をしていることを。


「大丈夫。盛岡くんはいつもがんばってる。わたし、ちゃんと知ってるから」

 心の中が恭子さんの優しさでいっぱいになっていく。また……俺は甘えてる。零れ落ちる涙を袖で勢いよく拭う。借り物のスーツの袖が涙でぬれる。申し訳ないという気持ちになるが、それでも俺はやってしまった。泣いてるだけじゃだめなんだ。

 心の中の叫びを形にするも、小鹿のように震えた脚が立ち上がらせてくれない。


 そんな俺に気がついたのだろうか。山吹色の布が眼前に迫る。迫る布が、そっとやさしく俺を包み込む。柔らかな感覚が俺の顔に触れ、柔和な香りが鼻腔をくすぐる。

 恭子さん。

 掠れすぎて何を言っているのかすら分からないだろう。でも、恭子さんは優しく「うん」と頷きを返してくれる。


「どう……してですか?」

 掠れたまま、消え入りそうな、弱虫で、頼りのない声で俺は囁くようにこぼす。一筋の涙が雫となって、乾いた、だがひんやりと冷たい屋上のアスファルトの上を濡らす。拭ったばかりの涙は決壊したように止まらない。

 突き放してほしいのか、それとも優しい言葉がほしいのか、俺には自分で自分が分からなくなっていた。でも、それでも訊いたのだ。自分が恭子さんに包み込まれていると知っておきながら……。なんて意地が悪いんだ。奥歯をきっと噛み締め、自分の弱さに罰を与えてたいと思う。


「意地悪だね」

 先ほどより少し、濡れた声が頭上からする。それがいたく感情的で、扇情的で、俺の心を騒ぎ立てる。決してダメだと分かっている。分かっているのに……。

 俺には夏穂がいる。頭の中では分かっている。いや、分かっているつもりだったんだ。


「──盛岡くんが好きだから」


 自分の言っていることが恥ずかしいと思っていることは、その早口具合からわかる。でも、それを伝えたいという気持ちが強いことも分かった。

 俺は嬉しかった。嬉しくて……嬉しくて堪らなかった。だから……。


「俺、どうしたら……」

 いつの間にか涙は止まっていた。しかし、尚も泣いているかのように装い、俺は恭子さんを抱きしめた。

 心の拠り所になるモノが欲しかったと言ってしまえばそれだけだ。

 でも、俺は……。夏穂という存在があったにも関わらず……。

「盛岡くんは、どうしたいの?」

 甘美な囁き。全身を溶かしてしまいそうだ。俺はそれに全てを委ねてしまいたくなる。委ねて、楽になりたい。

 でも──。


「俺は……」

 それじゃあダメなことはわかってる。

 でも答えなんて見つからない。見つかるわけが無い。恭子さんを抱く力が強まる。恭子さんは小さく声を洩らし、俺の頭を撫でた。優しく、包み込むように。

「妹さん。大事なんでしょ?」

 全てを知っているかのように、言葉をかけてくれる。他人の腹の底なんて分かるわけがないのに、恭子さんはそらすらも見透かしたかのように、俺に囁く。囁き、呟き、提言し、解へと導いてくれる。

 俺はそれに、ただ頷くことしかできない。


「なら、行こうよ」

 そう言いながら、恭子さんは屋上の床の上に放り出された俺のスマホを取る。それを俺に手渡しながら、

「病院の場所は?」

 と訊く。そこでようやく思い知る。俺がどれほど短絡的にイリーナのことを考えたのだと。倒れたというだけで、母さんのことや織葉の事が脳裏を過ぎり、過敏になったのだと。

 小さくかぶりを振り、分からない、と言うことを示す。


「なら、聞こうよ。盛岡くんにこのことを伝えてくれた子に」

 そうか。俺は小刻みに震える手を駆使して、リダイヤルで電話をくれたイリーナの友だちで俺のことを好きと言ってくれたみーちゃんに電話をかける。

 ぷるぷる、と電話が繋がる音がし、三コール目で受けられる。


「もしもし」

 俺の声は自分でも驚くほどに震えていた。奥歯がガタガタと鳴っているのだ。何度分かっていると、言い聞かせてもやはり母さんや織葉の恐怖は拭えない。

「お兄さんですか?」

「あぁ」

 そっか、と電話の向こう側でポツリと呟く声が聞こえる。

「病院の場所ですよね?」

 訊くよりも先にみーちゃんが言う。あまりに的確な言葉に俺は言葉を失う。どう言えばいいのか、分からなくなる。

「──」


「中央病院です」

 この辺りでは二番目に大きな病院だ。一番は隣町にある美里病院だ。俺の大事なモノをことごとく奪っていったあの病院だ。

 美里病院でないことに安堵を覚える。病院のせいだなんて言うつもりはない。でも、それでもやっぱり──。

「わかった。ありがとう」

 口早にそう告げ、電話を切ろうとした瞬間、電話の向こう側から「待ってください」と声がかかる。訝しげに思いながらも、なんだ、と返す。


「今から、行くんですか?」

 吐息の洩れる声で喘ぐように聞かれる。小首を傾げながら「そうだが」と答える。

 逸(はや)る思いが心臓を叩き、掻き毟るようだ。

「私も連れてってください」

 確かなる声音。俺の脈打つ鼓動を止めるように放たれた言葉。

「イリーナは今……1人なのか?」

 一緒にいるものだと思っていたから。みーちゃんはイリーナに付いてくれてると勝手に思い込んでいた。裏切り……というにはあまりに一方的すぎる。

「──はい」

 沈んだ声音で告げられる。

「何で!! 何で一緒にッ!!」

 込み上げる怒りを抑える事ができず、俺は電話越しに吐き捨てる。懇願するように、乞うように、願望するように、俺は慟哭する。

 一方的に俺がみーちゃんがイリーナに付いててくれてるものだと思ってた。裏切り──という言葉の成立にすらなり得ない。でも、やはりッ。震える唇をきつく噛み締める。じわり、と鉄臭い血が口内に侵入し舌を舐める。

「私だってッ!」

 しかし返ってきた言葉は予想もしなかった、絶望を体現したような、張り詰めた声だった。張り詰めすぎて、今にも切れてしまいそうな雰囲気すらある。

 返す言葉が見つからなかった。言うべき言葉、掛けるべき言葉、どれを探っても曖昧な形しか示さず、みーちゃんのそれを解くことはできない。


 辛い、辛い。そんな単純な言葉で固めるのは簡単だ。だが、それを許さない。許してくれない。

 俺はそれを知っているはずだ。運命とは、残酷で、絶望の中に光さえ見させずに生かすということを。体験してきたのだ。

「ごめん。正面玄関、そこで待ち合わせだ」

 怒りは鎮まり、冷静な思考を取り戻した俺は鼻声ながらもキッパリと言い放つ。

「はい!」

 みーちゃんは涙に濡れた声ではあるが、元気に答える。同時に通話を切り、恭子さんに向き直る。

 どれほど感謝をしたって足りない。ありあまる感謝、無限の謝辞を述べたい気持ちを抑え、俺は全力で、誠心誠意で、頭を下げる。

「ありがとうございます!」

 込められる限り全てを載せた。恭子さんは、「うん」と言った。それから1歩、2歩と俺に歩み寄る。

 揺らぐことの無い、確かな足取りで俺の前まで来た恭子さんは、俺を抱きしめた。

 先程は感じなかった、グラマラスな恭子さんの体を直に感じる。当たってはいけない柔らかな感覚が思考を奪いそうになる。

 それをどうにか堪え、俺は掠れた声で彼女の名前を呟く。


「分かってる」

 恭子さんは、蕩けてしまいそうなほど甘ったるい声で言う。俺の肩に顔を埋め、表情は伺えない。

「分かってるんだよ? 私が背中を押したことも間違ってないと思ってる。でも──」

 借り物のスーツの上に雫が落ちる。恭子さんの涙だ。抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出してきているのだ。

 理性では分かっていても、本能ではというやつだろう。

「──」

 俺は何も言うことが出来なかった。恭子さんの支えがあったから、今の状態に落ち着けたのだ。

 もし恭子さんがおらず、1人だったら……。想像するだけで、恐ろしい。

 だからこそ、この想いを無下にはできない。しかし、イリーナの元へもはやく行きたい。


「一緒に行きましょう」


 折衷案というには酷くいびつかもしれない。でも、今の俺にはこれが限界だった。

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