第91話 俺、緊急事態に焦る
恭子さんの想いに応えることは出来ない。だって、俺には夏穂という彼女がいるのだから。
だからと言って恭子さんを傷つけるのは嫌だ。俺にとって、大切な先輩だから。優しくて、綺麗な先輩だから……。
「じゃあ、なんて言えばいいんだよ……」
恭子さんは俺に待ち合わせ時間だけ告げて、去って行ってしまったために今はもう教室にいない。代わりに、新しい男子三人が飯田さんによって案内されている。
時間は刻一刻と進むし、夏穂の家族だっている。
文化祭ってこんなに疲れたっけな……。
既に時計の針は11時20分を指している。志々目さん、楽しんでるかな……。
新たに上がってきた金太郎の切り株を三年生の女子グループが座る席へと運びながら考える。
「お待たせいたしました、金太郎の切り株です」
マニュアル通りの言葉を言い、テーブルの上に置く。
美味しそう、と高校生最後となる文化祭を満喫しているであろう女子たちは盛り上がっている。
恋に勤しむ者、友との時間に勤しむ者。はたまた1人での時間を過ごす者、同じ時を生きる人間でもその使い方は十人十色。
そんな考えを巡らせながら厨房の方へと戻ると、哲ちゃんが両手に金太郎の切り株を持って現れた。
「ほい、出来たぞ」
「これってどこの?」
「さっきお前が慌ただしく通した分だ」
ってことは……、夏穂の家族のところか。
変な緊張感が湧き上がってくる。
「楽しそうだな」
「どこがだよ!」
「あはは、そんな風に言えるなら大丈夫だよ」
お盆の上にそれらを置いてから、俺に背を向ける。それから、まもなくして竜宮城の水があがってくる。
2つの金太郎の切り株と1つの竜宮城の水をのせたお盆を見つめてから、辺りに目をやる。
しかし、誰も暇そうな人はおらず、これを夏穂の家族の元へと運ぶのは俺の役割だそうだ。
ふぅー、と短く息を吐き捨ててからそのお盆を持ち上げる。ずっしりと確かな重みが俺の手の中にのしかかる。
そして一歩を踏み出し、ホールに出る。そこら中から笑い声が聞こえてくる。楽しいそうだな。
「お待たせいたしました」
夏穂の家族三人が待つテーブル席に着くと、夏穂の母親は俺の顔を見て嬉しそうな顔をする。
まるで自分の息子を見るような、そんな表情だ。
「金太郎の切り株です」
「ほら、お父さん!」
お盆の上から金太郎の切り株を下ろそうとした時、夏穂の母親が父親の肩を叩く。父親は今日もまた新聞を読んでいる。しかし、今日はどこか浮ついたように見える。
「お、おう」
バサっと音を立てて新聞を閉じる夏穂の父親の前に金太郎の切り株を置く。
「もう一つ」
「あー、それは俺のだ」
夏穂の兄である悟さんだ。何だか懐かしいと感じながらもう一つの金太郎の切り株を置く。
「竜宮城の水です」
「はい、私です」
可愛らしい夏穂によく似た笑顔でよく似た声で告げられる。
「以上でご注文の品はお揃いでしょうか?」
「はい」
マニュアル通りの台詞を口にして立ち去ろうとした瞬間、「そうそう」、と夏穂の母親に止められる。
「何ですか?」
無下にはできない。お客さんだし、何より彼女の母親なのだから。
「最近、なっちゃんとどうなの?」
「母さん、止めとけよ」
悟さんが制止するも、いいのよ、と告げ俺に詰め寄る。
「最近なっちゃんの口から、将大くんの話聞かないのよ」
話すようなこと無いからな……。
「普通ですよ」
どう答えるか悩んだ末に俺は、当たり障りがないであろう答えを口にした。
本当は上手くいってない。何だか微妙な関係になってしまっている。そしてそれを夏穂の家族に相談するべきだったのかもしれない。
「そうなのね。なら良かったわ。ねぇ、お父さん」
心底嬉しそうな顔を見せる夏穂の母親は、そのまま父親の方を向く。
すると父親は恥ずかしそうな表情を浮かべてから俯き、金太郎の切り株に手をつけながら首を縦に振る。
「将大くん、もういいよ。忙しいでしょ?」
まだ何か話そうとする母親を制して、悟かんがそう言った。
「すいません、ありがとうございます」
すぐにそれに乗っかった。忙しいか忙しく無いかで言えば、忙しいに決まっている。でも、それよりも俺はこの空間から逃げ出したかった。完全な嘘までとは言えないが、それでも偽りを語った罪悪感といつボロが分からない恐怖から、早く抜けたかった。
素早く一礼をし、
「ごゆっくりどうぞ」
と言ってから厨房へと戻った。
時間は11時30分。あれから10分も経っている。一難去ってまた一難とはこの事だろう。家族三人でワイワイと楽しそうに食する姿を視界に映しながら、1時間後にある約束について考える。
「ほら、ぼっとしないで!」
すると軽く背中を叩かれた。誰だよ……。
振り返るとそこには、服の真ん中に金と書かれた服を着たすらっとした女子が立っていた。
──志々目さんだ。
「ど、どうして……?」
30分ほど前に、想いを寄せる人に会いに行ったばかりの志々目さんがそこに居たのだ。
「
「そうなんだ。真面目な人なんだな」
「んー、どうなんだろ」
あはは、と志々目さんは笑った。楽しそうに、恋する乙女ように笑った。
「んじゃ、後ひと踏ん張りだな」
「うん!」
元気にそう言い、志々目さんはあげられてきた竜宮城の水をお盆にのせてホールへと出ていく。
「元気だな……」
そう呟き、再度時計を目をやり動き始めた。
***
──12時35分。俺はまだ教室にいた。
約束の時間を5分も過ぎているが、10分ほど前から急激に忙しくなり、抜け出しそうに無いのだ。
ごめん、恭子さん……。
胸中でそう謝りながら、あがってきた料理を駆け足で運ぶ。
運んでも運んでも料理があがってくる。一体どれだけオーダー通ってんだよ。疲れたとかそんな感情を通り越して、怒りすら覚える。
それが15分ほど続き、ようやく落ち着いた所で九鬼くんが俺に歩み寄ってくる。
「今日はこれであがっていいぞ。流石にちょっとは遊びたいだろ?」
イタズラに口端を釣り上げ笑う。
「そりゃあなー」
「なら、遊んでこい」
お前が俺を拘束してんだろ、と思いながらもようやく手に入れた自由時間に俺は「おう」と答え、教室を飛び出した。
時間はもう12時50分。待ち合わせの時間からは20分も過ぎている。
「まだいるかな……」
ポツリと呟き、俺はスーツ姿のまま一段飛ばしで階段を駆け上がる。
俺たちの教室は4階。本当ならこの上に行くための階段には閉鎖的に机が並べられているのだが、昨日今日はそれらが様々な場所に借り出されており開放的になっているのだ。
はぁー……はぁー…………。
1階分と言っても本気で駆け上がったならば、しんどいにきまってる。
両手を膝につき、あがった呼吸を整えながら、眼前にあるステンレス製の扉を一瞥する。
屋上へ繋がる扉ということもあり、ほとんど使われてないのだろう。扉そのものがホコリっぽい印象を受ける。
俺はふぅー、と長く息を吐き捨ててからドアノブへ手を伸ばした。やはりホコリっぽく、ベタベタとしている。
うえっ、と思いながらもそれを回し、押し込むと、キィーッと蝶番が軋む音がした。
同時に、うるさいほどの喧騒が耳に飛び込んでくる。
目映い陽光とともに、黒く艶やかな髪をした山吹色の布を全身に纏った女性がいた。──恭子さんだ。
「す、すいません……。忙しくて抜けられてなくて」
約25分の遅刻。俺は、誠心誠意で謝罪を口にする。
俺に背を向けていた恭子さんは、ゆっくりとこちらを向きながら口を開く。
「いいよ。ここに来る前に教室覗いたら、忙しそうだったし。多分遅れて来るんじゃないかなって思ってた」
儚くて触れれば壊れてしまいそうな笑顔を浮かべる恭子さん。多分気づいているんだ。これから自分が傷つくことに。それでも、勇気を振り絞ってこの場で俺と向き合っている。
俺は……。
心がキュッと締め付けられる。だから俺は、笑えない。難しい表情でただ、恭子さんを見つめる。
それから恭子さんは短く息を吐き、天を仰いだ。キラキラと輝く太陽と、冷たい空気を全身で受け止めながら、顔を俺に向けなおす。
「盛岡将大くん」
凛とした声で呼ばれた名前。一瞬にして鼓動が早くなるのが分かる。
それから恭子さんは、1歩また1歩と俺に歩み寄ってくる。俺の鼓動はドクンドクンと恭子さんが近づくにつれて大きくなっていく。
止まれッ! うるさい!
スーツの上から胸部をぐっと掴み心の中で叫ぶ。だが、考えれば考えるほどに心臓の高鳴りは早くなり、うるさくなる。そうしているうちに、恭子さんは俺の目の前まで来ていた。あと1歩で密着出来てしまうほどの距離だ。
「体育祭が終わったあとに気づいたの、この気持ちに」
「……」
ごくり、と唾を飲むも言葉は発さない。
「でも、盛岡くんには彼女がいる。可愛らしい品川さん? だったっけ?」
ゆっくりと首肯する。それを見た恭子さんの表情が一瞬ではあるが
しかし、すぐに表情を戻し恭子さんは言葉を紡ぐ。
「だからダメだって思ってた。諦めなきゃって──」
言葉を区切り、恭子さんは冬の煌めく太陽を見上げた。黒い髪が陽光を反射して本当に美しいと思う。もし、夏穂って彼女がいなかったら……。
そんなありもしない仮定の話の妄想をしてしまう。
「でも違った。諦めてばっかじゃダメなんだ。ダメもとでも、当たってみなきゃ砕けるかどうか何て分からない。だから言うね?」
天に向けた顔を、再度俺に向ける。儚げな表情の中に、確かな覚悟が見て取れる。
胸がより一層に強く締め付けられるように感じる。
「私ね……。盛岡くんのことが──好き!」
想像はしていた。だが、それを直接的に言われるとやはり破壊力は満天だ。鼓動は死ぬのではないか、と思うほど早くなる。
でも……ちゃんと答えなきゃ。
俺の耳に校舎の下にあるはず喧騒は届かない。それほどまでに俺の意識は恭子さんに集中しているのだろう。
小さく喉を慣らしてから、俺は口を開く。しかし口の中は乾いている。階段を駆け上がってきたからだろうか。
唇までもパサパサに乾いている。
瞬間──
ポケットから軽快な音が鳴った。それは俺と恭子さんの間にある何とも言えない空気をぶち壊すもので、俺の意識を広げる。
その音の正体は俺のスマホだった。
なんだよ……、そう思いながらディスプレイに目を落とす。
──イリーナ
そこにはそう表示が出ていた。
あれ? なんでイリーナが電話なんてしてくるんだ……?
普通に考えて……、いや、普通に考えなくても同じ学校にいるんだから、用事があるなら会いにくればいい。
そう思うと、何だか嫌な予感が胸の中をかき混ぜる。先ほどまで恭子さんの想いで渦巻いていたものは嘘だったかのように、イリーナのことで埋め尽くされる。
無意識的に震える指で電話をとる。
「も、もしもし……」
自分でも驚く程に掠れた声。
「あ。お兄さんですか?」
イリーナの声ではない。でも、聞き覚えのある声。
「ああ。君は──」
「
誰だ、と聞く前に電話の相手が名乗った。
「も、もしかしてみーちゃん?」
「あ、はい。そうです」
やはりそうだ。昨日俺に告白してきたイリーナの友だち。まさか1日後に電話で話すとは思ってもみなかったので、少し動揺してしまう。
「そ、それで。どういった用なんだ?」
みーちゃんの声が昨日と違う。それは電話越しだから俺の勘違いなのかもしれない。でも、どこか焦っているように感じる。
直後、遠くからで鳴る救急車のサイレンが耳をかすめた。
嫌な予感が更に加速する。それに、こういった予感は外れてくれないのだ。
ゴクリとつばを飲む。同時にみーちゃんが、慌てず聞いてください、と慌てた声で告げた。
「イリーナちゃんが、倒れました」
瞬間、俺は何も見えなくなり、僅かに届いていた喧騒すらも聞こえなくなった。
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