下話

若い使者に手助けをして貰いつつトーガを身にまとったキンキナトゥスは、その使者から独裁官就任の要請書を受け取り、承諾の意を伝える。

 そして開拓農民であったローマ軍団兵を伴ってすぐさまローマへと戻った。

 但し軍団は規定でローマ市街に入れないので、門の前で野営に入る。

 使者に先導され、キンキナトゥスは久々にティベル川を小舟で渡り市街へ入った。

 既に使者がキンキナトゥスの元へ派遣された事を知っていたローマ市民は、かつて大敵を打ち破り、凱旋式を華々しく挙行したキンキナトゥスの事を忘れていなかった。

トーガ姿のキンキナトゥスを一目見ようと市民が押し掛けたことで、元老院までの道は大変な騒ぎとなる。


「キンキナトゥス様!復帰してくれてありがとうございますっ!お願いします!」

「アクエイ族をやっつけて!」

「キンキナトゥス様!執政官軍にいるウチの甥っ子を助けてやって下さい!」

「う、ウチの旦那が執政官と一緒にいるんです……お願いします!」

「どうかローマに勝利を!」

「お願いします!ローマの危機を打開して下さい!」

「私も戦えます!軍団の端に加えて下さいっ」


 キンキナトゥスを慕い、頼り、ローマの危機打開を願う声は途切れる事無く続く。

 続々と集まるローマ市民の熱気と口々に発せられる言葉で、周囲は喧噪に包まれた。

 若い使者はキンキナトゥスの人気振りに唖然とする思いで先導を務める。

 そんな中、キンキナトゥスは柔和な笑みを浮かべて手を振り、時には差し出される手を握っては市民の声に応えていた。

ローマ市民の歓声を背景に元老院へ入るキンキナトゥス。

 そこにはミキニウスと共に執政官を務めるガイウス・ルティウスと元老院議員達が待ち構えていた。


「独裁官の就任要請に応える事にしたよ、ルティウス君」

「キンキナトゥス前執政官、ありがとう……あなたの決断に感謝と敬意を送る」


 元老院議員の中には、かつてキンキナトゥスと対立し彼を農村へとおいやった者達もいるが、代表して祝辞を述べたガイウス・ルティウスに不満の声を上げる者はいない。


「早速だが就任式を……」

「その様な式典を行える時間がある程、ローマは余裕があるのかね?それならば私はこの場所に来る事はきっとなかったと思うのだが、どうかね?」


 ガイウス執政官が独裁官への就任式典を執り行う発言をし始めた所へ、キンキナトゥスは言葉をかぶせて遮ってしまう。


「そ、それはそうだが、独裁官の就任規定が……」

「一刻を争う時に式典にまつわる規定など、一々守っている場合かね?」


 元老院議員の1人が反発するようにキンキナトゥスへ言葉を掛けるが、それも切って捨てるように遮り、キンキナトゥスは静かに、しかし迫力のある声色で言う。


「早速だが私は独裁官としてすべき事をする……ローマの市民に兵士募集の公告を掛けてくれ、また私と共にやって来たローマ市民兵1000をすぐさま軍団に編成する。無論集まってくれた市民兵も同様だ……良いかな?」

「あなたはたった今独裁官になったのだ、思うさまやってくれて構わない」


 キンキナトゥスの問い掛けに、ガイウス執政官は一も二もなく承諾する。

 それを聞き、更に周囲の元老院議員から異論も出ないことを確認すると、キンキナトゥスはすぐさまトーガを取り払った。

 それまで黙っていた元老院議員達も、さすがに議場内で衣服を脱ぐキンキナトゥスの行為に眉をしかめ、ひそひそと無礼である事をつぶやくが、その下から現れた鎧ロリカを見て目を丸くした。

 更によく見れば、サンダルも普通の物では無く、滑り止めの鋲を打ってある軍靴カリガである。

 驚く元老院議員やガイウス執政官を余所に、キンキナトゥスは政務官と都市衛兵を呼び出して命じる。


「これから私はアクエイ族を打ち破り、その援軍として現れるであろうウォルスキ族を打ち破る事に関して全権を振るう……すぐに現状を知りたい。執政官ミキニウスの寄越した伝令やローマから派遣した物見を全て集めてくれたまえ。また市民や訪問外国人からも情報を募りたいから、広間での公告において呼びかけを行って欲しい」

「わ、わかった、すぐに取りかかろう」


 キンキナトゥスの要請に政務官や都市衛兵が飛び出して行き、続いてガイウス執政官自らがすぐに議場から飛び出していく。

 次いでキンキナトゥスは議場の元老院議員達に対して言葉を発した。


「元老院議員の諸君が、過去の政治的理由から私を疎ましく思っている事は私も知っている……しかしそれでもあえて私を独裁官に推さねばならぬ事態となった、そういう風に私は現状を理解している。私はそのローマの思想に敬意と感謝を表したい。政敵であろうが、過去の確執があろうが、適材を適所に配するべし、国家のためにその思想を保持している元老院に敬意と感謝を表したい!そしてローマを愛し、この国と市民を守り、そして発展させたいと願う気持ちを、思想信条の違いはあれども持っている事を、根本にある事を互いに確信しているからこそ諸君は私を独裁官に推薦し、私はそれを引き受けた。この信頼に敬意と感謝を表したい。ありがとう!」


 その威厳溢れる態度と気迫は、キンキナトゥスに多かれ少なかれ反発を持っていた元老院議員達を完全に圧倒する。

 キンキナトゥスの言葉に、愛国心をかき立てられ、拳を握りしめてその意思を汲み取る元老院議員達。

 キンキナトゥスとは過去に対立したが、彼らもまたキンキナトゥスと同様に、熱烈な愛国者なのだ。

 そこに先程までキンキナトゥスを侮辱しようとしていた者の姿はなく、誇り高きローマ市民の代表者である元老院議員の姿があるだけだった。

 私語をぴたりと止め、自分の一挙一動に注目している議員達を再度見回し、キンキナトゥスは言葉を継ぐ。


「そして私はそれを踏まえて元老院議員の諸兄にお願いする……議員諸兄は当然ながら軍歴を積んでいるだろう?身体の動く者は将官として私と共に戦場に立って貰いたいのだが、いかがかね?」




 5日後、軍の編成を終えたキンキナトゥスは早くもローマを出た。

 彼の盛名によって集められたローマ兵は、その数何と5000。

 正規の執政官が率いるのと同数の兵が僅か5日間で集まったのだ。

 これも政治家時代のキンキナトゥスの清廉潔白な生き方と、かつて救国の英雄と称えられた用兵の妙、そして彼の誠実な人柄が、引退した今もなおローマ市民から愛されているからに他ならない。

 それに加えて元老院議員からも多数の者が指揮官として加わった。

 誰もがローマを愛しているのだ。

 だからこそキンキナトゥスの言葉に心動かされたのである。


 そして3日後には、早くもキンキナトゥスはミキニウス執政官が包囲されたローマ北東の丘陵地帯に達したのである。


「うむ、確かにアクエイ族の戦士達だな……」

「はい、しかし丘陵地帯にありますので、接近するのは明日になるかと思います」


 そんな独裁官キンキナトゥスの傍らに控えて言うのは、いつぞや彼に独裁官就任要請を持ち込んだ若い使者。

 元老院議員では無いが、政務官の1人として経験を積んでいる途中だったこの前途ある若者は、元老院議場でのキンキナトゥスの言葉に感銘を受け、騎兵将官として彼の軍に加わったのだ。

そんな彼の常識ある戦法に、キンキナトゥスは穏やかな笑みを浮かべる。

 その頭部にはいつも開墾作業時に着用している日よけの帽子では無く、ローマの総司令官を示す赤い房の付いた兜があった。


「当然敵もそう思っているだろう……それに見たまえ、あの緩みきった包囲を。アクエイ族は既に勝ったものと過信して士気が弛緩している」


 驚いて年若い使者改め、副官は、キンキナトゥスが指さす方向を見る。

 そこには確かに鎧を脱いで酒らしきものを煽っている、アクエイ族の貴族と思しき戦士がいた。

 周囲の戦士達もそれに準じて剣や槍を放り出し、鎧の紐を解いてすっかり油断しているようだ。

 ただ、ミキニウス執政官の軍も包囲されて時間が経っており、精神と肉体双方の疲れが兵士達に蓄積していることと、敵であるアクエイ族の戦士の数が多い事で討って出る事をためらっているのだろう。

 キンキナトゥスの軍も移動で疲れてはいるが、2つの軍に比べればその度合いは小さい。


「これは好機だ、何名かアクエイ族の戦士に扮してミニキウス執政官の陣へ忍び込ませてくれるかね……伝達事項はただ一つ、攻撃は明日早朝、これだけだ」

「移動で我が軍は疲れていると思いますが……」

「今からしばらく休憩を取る。それを見ればアクエイ族軍も私達の接近や攻撃は明日以降と油断するだろう。その隙を突くんだ」

「分かりました」


 別の騎兵に何名かの目端の利いた歩兵を選ぶように申し渡すと、副官はキンキナトゥスに向き直った。


「この目でキンキナトゥス殿の用兵が見られるとは、感慨無量です」

「そう大したものでは無いと思うがね……」


 空とぼけた様子で答えるキンキナトゥスに、馬首を返しながら副官は笑顔だけを向けるのだった。






 翌早朝、アクエイ族の緩みきった陣は、突然の喊声に包まれる事となった。


「なっ、なんでえ!?」

「族長!ローマの奴らが攻めてきたっ!」

「な、なんだとう!昨日奴らは休息に入ったじゃねえか!」


 攻撃は今日の昼以降になるだろうと予想していたアクエイ族の族長は、突如行われた攻撃に慌てふためいたのである。

 昨日ローマの新手が到着した事を知り、戦士達に気合いを入れ直させたばかり。

 それに、今日の昼には新手のローマ軍の更に後方から、同盟しているウォルスキ族の軍が到着する事になっていたのだ。

 それが全てご破算だ。


「畜生!敵将は誰でえ!」

「族長!キンキナトゥスらしいですぜっ」


 問いに対して返された配下の言葉に、アクエイ族の族長は青くなった。


「な、何だとう!あのキンキナトゥスかっ?」

「どれのことだか知りませんが、あっしが知ってるキンキナトゥスはあの1人だけですぜ」


 何とも言えない表情で答える戦士。

 その回答を族長が聞いた時、精強なローマ重装歩兵が本陣に雪崩れ込んできた。

 それというのも、夜陰に紛れてアクエイ族の本陣へ近付いていた一部のローマ軍が、一斉攻撃へ討って出たからである。


「これぞ奇襲の醍醐味というものだよ!」


 キンキナトゥスは貴族から成る騎兵を率いて、市民から成る歩兵のこじ開けた陣形の穴からアクエイ族の戦列を蹂躙する。

 畑仕事で鍛えた腕によって投じられるピラは、アクエイ族戦士の構える盾を貫通し、振るわれるスパタは戦士の頭を叩き割る。

 ローマ歩兵はスクトゥムを前面に押し出し、体当たりでアクエイ族戦士が押っ取り刀で作った戦列を打ち破った。

 その後方からピルム(投槍)が次々と投じられ、戦士団を混乱させる。


 直後に正面のローマ歩兵が突撃に移り、グラディウスが早朝の朝日にきらめくたびにアクエイ族戦士の命を刈り取ってゆく。


 血飛沫が飛び、悲鳴と絶叫がローマ兵の喊声に混じる。

 キンキナトゥスはそのまま本陣に突っ込み、長剣を振り回してローマ歩兵相手に獅子奮迅の活躍をしている族長目掛けて馬を走らせた。


「そこにいるのは族長だなっ?ローマ共和国独裁官、ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスである!」

「うおう!くそ!常勝執政官かよっ!」


 名乗りを上げて迫るキンキナトゥスに向かって長剣を構える族長、。

 しかし次の瞬間、キンキナトゥスのスパタが円形の軌道を描いて振るわれた。


「があっ!?」


 アクエイ族族長の構えた長剣をするりとかわし、キンキナトゥスのスパタが振り抜かれると、噴水のように族長の首元から血が吹き上がった。

 長剣を取り落とし、首を押さえたままゆっくりとうつぶせに倒れる族長。


「アクエイ族族長!ローマ共和国独裁官キンキナトゥスが討ち取った!」


 キンキナトゥスの勝ち名乗りは、あちこちで戦うローマ兵達に口伝えで伝わる。


「キンキナトゥス独裁官、敵族長を討ち取った!」

「独裁官が族長を討ったぞ!」

「キンキナトゥス殿が一騎打ちにて敵族長を討った!」


 たちまちキンキナトゥスがアクエイ族長を討ち取ったという事実が広まる。

 ローマ兵達はそれを聞いて勢いを増し、アクエイ族の戦士達は士気を著しく落とす。


 その時、戦場の後方にあたるミキニウス執政官の野営陣から喊声が上がった。

 包囲されていたローマの正規軍団が、剣戟の音を聞きつけて宿営陣から討って出たのである。

 たちまち前後から挟み撃ちとなったアクエイ族軍は、浮き足立ち、逃走に移る者も出始める。

 それでも頑強に抵抗する者もいたが、前後からの挟み撃ち、しかも敵将がキンキナトゥスである事を知り、アクエイ族の戦士達は次第にやる気をなくしていった。

 そしてとうとう戦士達が遁走に移ると、キンキナトゥスは追撃を騎兵のみに限定し、しかも深追いをしないよう言い含め、自分はミキニウス執政官との会談を行うべく、その陣地へと向かった。


 勝ちどきを上げる兵士達の間をぬって、キンキナトゥスは副官を伴いミキニウス執政官の宿営陣へと向かう。


 キンキナトゥスはやがて宿営陣から討って出たミキニウス軍の中央に、自分と同様の最高指揮官を表わす赤い房の付いた兜を被り、深紅のマントをまとっている短躯の男がいるのを見つけた。

 彼が身に付けている鎧は、キンキナトゥスの物とは違い極めて豪奢で大層分厚い物で、最高指揮官が相当の財力を持っている事が知れた。

 長い包囲下におかれたせいか、若干薄汚れてはいたが、彼の威厳や気力はいささかも削がれていない事がその眼差しで分かる。


 キンキナトゥスは微苦笑を浮かべてその男、ミキニウスへと近づいた。


 自分へ無遠慮に近付くキンキナトゥスの姿を訝って見ていたミキニウスだったが、やがてその人物が政敵のキンキナトゥスである事を見て取り驚愕する。


「貴殿は……まさかキンキナトゥス殿か!?その杖とマントは……そうか、独裁官に就任したのか」

「久しぶりですな執政官ミキニウス。1人のローマの市民として同胞の窮状を見過ごせず、引退済みの老体であるが身体に鞭打ち参上いたした。無事で何よりだ」


 がっちりと腕をつかみ合い、そしてその肩を叩き合う両雄。

 周囲の兵士達の歓声が一際高くなる中、ミキニウスは苦々しげな表情で小さくつぶやくように言う。


「貴殿が私を救うとは……何という皮肉か」

「違いない、私もそう思う。だが私はあなたの政敵である以前にローマ市民だ。見くびって貰っては困るな」

「失礼した……いや、この場は礼を言いたい、よくぞ救援に来てくれた、ありがとう」


 すっと下がり、謝罪の言葉を述べると同時に感謝を口にしたミキニウスを見て、キンキナトゥスは感慨深げに頷きながら目を細め、口を開く。


「ミキニウス殿から感謝の言葉を捧げられるとは、長生きはするものだね」


 その言葉に顔を上げたミキニウスは、片側の口角を挙げて不敵に笑むと言葉を返した。


「ふっ、私はあなたの政敵である以前に、感謝を知るローマ市民だ。見くびって貰っては困るぞ」

「ははっ、あなたが真のローマ市民である事は疑いない。これは失礼した」


 ミキニウスの仕返しに、キンキナトゥスは朗らかな笑声を上げるのだった。








 そうして兵達に休息を与えて食事を取らせ、近隣の情勢について情報と意見の交換を行ったキンキナトゥスとミキニウス。

 しかし一陣の風が僅かな異臭を運んできた事に気付き、キンキナトゥスは腰掛けていた岩から立ち上がった。


「愉快な時をもう少し楽しみたいものだが、残念ながら時間が無いようだ」

「……やはりウォルスキ族が出て来たか?」


 キンキナトゥスの言葉に敏感に反応するミキニウス。

 その言葉に頷きを返しつつ、キンキナトゥスはゆっくりと遠方を見つめて言う。


「間違い無い……おそらく私の背後から迫り、アクエイ族の包囲軍と挟撃する事を狙っていたのだろうが、そうは行かない。ミキニウス執政官、あなたの軍は直ちに私の指揮下に入って貰うよ」

「独裁官の命令ならば当然だ、兵達も疲労こそしているが気力は十分だから、存分に使ってくれ」


 気迫のこもった声を発したミキニウスに笑みを返し、キンキナトゥスは言う。


「そうかね、ではひとつ頼みがあるのだ。是非とも聞き届けてくれ」







一方のウォルスキ族軍。


 無残にも敗北して逃げてきたアクエイ族の戦士達から聞き、すでに宿営陣を包囲していた同盟相手のアクエイ族軍が瓦解してしまっている事を知る。

 しかも新たに援軍を率いてきたのは、あのキンキナトゥスだという。

 それだけの情報でウォルスキ族の主立った戦士長達は戦いに尻込みした。


「族長、あのキンキナトゥスが復帰したとなっちゃ、勝ち目はありませんぜ……」

「アクエイの連中は、もう負けちまっていねえし。どうしますか?」

「おまけにローマ軍は1万近くいますぜ……」


 戦士長の言葉に、族長は唸り声を上げる。

 確かにアクエイ族に頼まれて手伝い戦に出て来たのだが、その肝心のアクエイ族が既に敗北して影も形もない状態だ。

 ローマ軍を包囲したからと言う前提での援軍だったのに、ここに至ってその前提は崩れ去っていることが分かった。


 しかも相手は精強で知られるローマ市民軍1万。


 おまけに率いているのはとっくに引退したとばかり思っていた、常勝将軍キンキナトゥスである。

 負けたアクエイ族には悪いが、今回で同盟関係は解消だ。

 幸いにもまだこちらはローマ軍と戦っていないから、このまま帰還してしまえば事なきを得るだろう。

 そう判断した族長が撤退の命令を下そうとした時、突如前線で騒ぎが起こった。


「何事だ!」


 戦士長の1人が叫ぶと、前線にいた1人の戦士長が慌てて駆け込んできて言った。


「大変です!ローマ軍が出て来やがりました!」

「何!?」

「前線が投石攻撃を受けています!」


 驚いて前線に出て見れば、ローマの軽装歩兵ウェリテスが、投石帯を使用して拳大の石つぶてを次々と放ち、ウォルスキ族の前線にいる戦士達を攻撃している光景があった。

 戦士達は盾を構えて投石攻撃を防いでいるが、少なからず犠牲が出ており、それにも関わらず攻撃の命令が出ないので苛立ちを募らせている様子だ。


「うぬ!」


 族長としては配下の戦士が攻撃されてそのまま引き下がるわけには行かない、沽券に関わる。

 少なくとも同程度の被害を与えなければ面子が立たず、今後の部族指導に支障が出かねないのだ。

 族長は小癪な攻撃をしつこく繰り返すウェリテスに激怒し、号令を下す。


「馬鹿にしおって!攻撃するぞ!」

「ではこのまま押し出しますか?」

「当然よ!矢を放ちつつ前進!あの小癪なローマ兵を血祭りに上げてやるぞ!」


 族長の命令で弓兵が前に出て矢を弓に番えると、ローマ兵達は一斉に背を見せて背後の丘陵地へと逃走し始めた。

 そこにはローマの宿営陣がある。


「うがっ!追え!」


 頭に来た族長が追撃を命じ、ウォルスキ族の戦士達は陣形を維持したまま一斉に逃げるローマ兵を追い始めるのだった。







 逃げるローマ兵を追って宿営地まで進出したウォルスキ族軍は、正面に居並ぶミキニウス軍の戦列を目の当たりにして、自分達が死地に飛び込んだ事を知った。


「な……なんだと!?」


 悲鳴じみた叫び声を上げる族長の声をかき消す喊声が上がり、左右から一斉にピルム(投げ槍)がウォルスキ軍に降り注ぐ。

 次々と身体を投げ槍に撃ち抜かれて倒れる戦士達。

 その後、正面からのみならず、湧き上がるように左右からローマ歩兵がスクトゥムを前面に押し立てて戦士達へと殺到する。

 投げ槍攻撃で混乱し、辛うじて攻撃を盾で受け止めた戦士達も、ローマ軍の槍が刺さって使い物にならなくなった盾が軽快な動きを阻害してしまっている。


「クソ!立て直せ!」


 族長や戦士長が必死に士気と指揮を回復させようとするが、そこへ正面のミキニウス軍から投げ槍の攻撃が行われ、挙げ句の果てには矢が軍陣の中央部へと降り注いだ。


「このままじゃ全滅だっ!退け退けえ!」


 左右から行われたキンキナトゥス軍の猛烈な攻撃に続き、正面のミキニウス軍が押し出してきた事で戦士達が浮き足立ち、たまりかねた族長が撤退の命令を下す。

既に相当数の戦士がローマ兵に討たれてしまった。

 帰還したとしても今後独立の維持は難しいかも知れない。

 ウォルスキ族の族長は唇を噛み締めながら、左腕に刺さった矢を抜きとると、悔しそうにまだ血の滴っている折れた矢を投げ捨てた。


「ぐうう!キンキナトゥスめっ……!」







 大歓声がローマ全軍から轟き、ウォルスキ族の背に浴びせられる。


 近年見ぬ大勝利に、ローマ市民兵はおろか、貴族出身の将官達も身分の区別無く抱き合い、お互いの活躍を称え合って喜んでいる。

 キンキナトゥスは逃げゆくウォルスキ族の戦士達を遠望し、ほっと一息つくと副官にローマへ戦勝の報告をするように命じた。


「大勝利ですね!報告文の文章はいかがなさいますか?」


 副官は歓声を上げた直後であったせいか、興奮を抑え切れない様子で息せき切って尋ねる。

 そんな副官へキンキナトゥスは微笑を向けて言った。


「ローマが勝った事が伝われば良いさ、君に任せよう。私を説得した時のような格調高い文章は必要ないよ?」

「あ、はい……格調高かったですか?」


 その言葉に、かつて自分がえらそうにキンキナトゥスへ講釈じみた説得をしてしまった事を思い出した副官がいささか面映ゆげに言う。

 キンキナトゥスは笑みを深めて言葉を継いだ。


「ああ、実に格調高かったね……あの説得がなければ、この勝利はなかったかも知れないのだからね」

「それは言い過ぎです……おそらく誰が尋ねても独裁官殿は最後に役目を引き受けて下さったと思います。私が選ばれたのはたまたまですし、私はそこまでローマ市民であるキンキナトゥス殿の事を見くびっておりません」


副官の思い掛けない言葉に、一瞬驚いた表情になったキンキナトゥスだったが、再び柔らかな笑みを浮かべてからおもむろに口を開く。


「そこまで褒めてもらえるとは恐縮だね。まあせいぜい頑張る事にしよう」






 たった1日でアクエイ族とウォルスキ族の2部族を撃破し、その内のアクエイ族に包囲されて窮地に立っていた執政官ミキニウスの軍を救ったキンキナトゥス。


 戦いの後1日を宿営地において兵達の休息に宛て、それから3日後、すなわちキンキナトゥスが独裁官に就任してから14日後にはローマ近郊へ帰還した。

 キンキナトゥスはその地で預かっていた軍を解散させると同時に、得た戦利品やローマ元老院から預かった金貨銀貨の給料を兵達に公平に分配して与え、自分はミキニウス執政官や副官、それにわずかな護衛の兵を伴って翌々日、ローマ市内へ入った。

 てっきり凱旋式を挙行するべく、軍団と共に帰還するとばかり思っていた元老院議員やローマ市民達は、余りにも簡素なキンキナトゥスの一向に虚を突かれる。


「き、キンキナトゥス独裁官!一体これはどうした事ですかっ」

「凱旋式は如何するのです!」

「ローマの大勝利を市民と共に分かち合わなくてはなりませんぞ!」


 口々に言い募り、馬から下りて集まった市民に手を振るキンキナトゥスへ詰め寄る元老院議員達。

 その非難めいた言葉は、一緒にいたミキニウスへも向かう。


「執政官ミキニウス!どうして独裁官キンキナトゥスに凱旋式を行うよう言わなかったのか!」

「いくら言っても聞かないのだ、仕方あるまい」


 口角から泡を飛ばして詰め寄る議員を迷惑そうな顔で手で押しのけつつ、ミキニウスが言うと、議員達は呆気にとられる。

 キンキナトゥスの功績は凄まじいものだ。

 包囲されていた執政官とその軍を救ったのみならず、その大本である近隣でも極めてローマに敵対的であり、かつ軍事的に強力な2つの部族を撃破した。

 加えてその打撃の度合いは、その敵対的な2部族をして今後ローマへ譲歩せざるを得ない程のものである。


 早くも講和の使者が2部族から派遣されており、元老院は大いに溜飲を下げた。

これだけの偉業を成し遂げ、あまつさえ2部族だけでは無く、近隣の諸部族にローマ強しの印象を大いに与えたのは、今後のローマの発展や外交にとって極めて重要である。

 そのキンキナトゥスは、凱旋式を行わないという。


「ローマの勝利は市民諸君のものだ、大いに祝うと良い」


自分を褒め称え、集まり来る市民達に頭を振って言うキンキナトゥス。

しかしそうであっても、キンキナトゥスの功績はこのまま見過ごす事は出来ない程大きいものだ。

 ローマにおいては、大功を挙げて凱旋式を挙行する事を夢見る者は多い。

 しかし、キンキナトゥスはその様な栄誉を必要としないという。


「私は素晴らしきローマ市民の一員である事を確認できたことで満足しているのだ。そしてローマ市民が私と同じ思いを持っている事を改めて知る事が出来たことで満足しているのだよ……ローマ市民である事、それ以上の栄誉は必要ない」


 驚き慌てる元老院議員や市民達を前にして、キンキナトゥスはそう言うと鎧とマントを外し、兜を脱いで独裁官杖を取り出した。

 そして自分の物では無い、元老院から授けられたマントと独裁官杖を執政官へ差し出して言う。


「私の仕事はこれで全て終わった……独裁官の官職を返上致す」

「き、キンキナトゥス殿!正気かっ!?」


 ガイウス執政官の言葉を皮切りに、口々に留任を求める元老院議員や市民達。

 独裁官の任期は半年。

 半年あれば相当の業績を上げる事も出来るだろう。

 しかしキンキナトゥスは両手を挙げて全員の言葉を制すと、ゆっくり口を開く。


「私の役目はアクエイ族に包囲された同胞を救う事。これが果たされた以上、私が独裁官に留まる理由は無いよ」

「たった16日間ではないか!」

「期間は特別関係ないと思うがね」


 ガイウスの言葉に淡々と応じるキンキナトゥス。

 しかしかえってそれが、彼の決意は本物であるという事を周囲に理解させた。


「それで……貴殿は如何するのか、キンキナトゥス殿?」

「私かね?私は元の生活に戻る事にするよ……まだ貰った農地の開墾が終わっていないのでね」


 そう言うとキンキナトゥスは、マントと独裁官杖を問い掛けてきたミキニウスとガイウスへ返還し、ローマ市民や元老院議員が見守る中、自分の馬に鎧や兜を載せてから、ひらりと自身も馬へ飛び乗った。

 そしてどこからともなく取り出した日よけの帽子を被るキンキナトゥス。

 そこには血煙と戦火の臭いを漂わせる威厳ある独裁官の姿は既に無く、土と水、そして麦藁の薫り漂う農業を生業となす、一介の健全なローマ市民の姿があった。


「ではさらばだ。素晴らしきローマ市民諸君と元老院の諸兄に、幸福が訪れ、これからも健全な形で発展する事を祈っているよ」


 馬を進めるキンキナトゥスに、縋り付く市民達。

 しかしキンキナトゥスはそんな市民達を優しく諭して馬からはなれさせると、急ぐ事無くティベル川の対岸方向へと向かう。

 途中、馬の歩みを止めて見送る市民達を振り返ったキンキナトゥス。

 その視線の先には、自分を迎えに来た年若き使者で、独裁官の副官を務めた若者の姿があった。


 泣きそうな顔をしている若者を見て再び笑みを浮かべたキンキナトゥスは、ゆっくりと言葉を発した。


「そうそう……言い忘れていた。ローマに危機が迫った時はいつでも呼んでくれると良いよ、出来うる限りの事はさせて貰うつもりだ」







ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスはしばらく歴史の表舞台から姿を消すことになるが、その18年後。

 ローマにおいて貴族と平民の対立が深刻化し、過激思想を持ったローマ市民が蜂起した際、これを抑えるべく貴族と市民両方から推されて再び独裁官となったキンキナトゥスは、平和裏に混乱を収拾したという。


なお、この時も役目を終えるとすぐさま官職を返上したキンキナトゥス。


 そんな彼は、長らく共和政治の理想人物として語り継がれていく事となる。

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伝説の独裁官の物語~キンキナトゥス伝~ あかつき @akiakatuki

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