伝説の独裁官の物語~キンキナトゥス伝~

あかつき

上話

暑い夏を過ぎ、風が幾分さわやかさと涼しさを得た初秋。

 ローマ共和国の象徴たるティベル川、その西岸の開拓農地では、麦の播種の時期を迎えていた。

 盛んに開墾作業を行っているのは、ローマ人の農民達だ。

 たくましいローマの壮年から若年に至までの農夫達が、汗を散らしながら鍬を振り上げ、馬を操りつつ鋤を使って平原を掘り起こしてゆく。


 そんな働く農民達の中に、1人丸太に腰掛けて休んでいる老爺がいた。


 年齢のこともあるのだろうが、周囲の農民達は特にその老爺が休んでいることを咎める素振りもなく、逆ににこにこと笑みを送り、その老爺も笑みを送り返している。

 土にまみれた麻製のトゥニカ(半袖貫頭衣)を身にまとい、足下のサンダルも黒土ですっかり汚れている。

 節くれ立ち、泥が残った手に黒土の詰まった丸い爪は、この老爺が長年農民として働いてきたことを示す。

 しかしそれ以外にも目立つ物があった。

 掌の剣ダコに加えて、手の甲や腕に付いた刀傷だ。

 それは彼が兵士としても長年働いたことを示していた。


 かつて豊かな茶色の巻き毛であった頭髪は、既に失われて久しい。


 そのむき出しの頭や顔にも刀傷が見受けられる。

 農民でありながら兵士、それこそが正にローマ市民。

 不思議な威厳を備えた柔和な笑顔。

 その笑みからはうかがい知れない程の修羅場を、彼もくぐり抜けてきたのだろうか?

 一陣の風が草いきれと掘り起こされた黒土のにおいを老爺の下へと運ぶ。

 風はそれだけでなく、遠くに陽光を反射してきらめくティベル川の水のにおいと、その先にあるローマの都市の薫りも一緒に運んでいた。


 排水や汚泥、食物や人混みのにおい。


 それはわずかながらも老爺に過去を思い出させるのには十分なものだった。

 しばし笑みを消し、物思いにふけりつつ7つの丘で成る、ローマの町並みを遠望する老爺の目は、それまでとは違い鋭い。

 しかしそれも一瞬のこと、風を胸一杯に吸い込むと、老爺はおもむろにつぶやいた。


「今日も良い天気だ……ティベル川の水面も実にさわやかだな」


 そう言いつつ腰掛けていた丸太から腰を浮かせ、老爺は皺深い顔を見る者を明るくさせるような笑みで満たす。

 そして傍らに置いてあった愛用の鍬を手に取ると、どっこいせと実に老爺といった風情のかけ声と共に大地へと力強く打ち込む。

 雑草の根が深く立ち切られる音と、鉄の刃先が土を食む音が混じり、黒々とした豊かな土壌が顔を覗かせた。

 どこにどういったコツがあるのか、実に老爺然とした仕草と声を掛けながらもその鍬は狙い過たず、また深く大地を掘り返す。

 時折太いミミズが顔を覗かせ、それを狙った小鳥が老爺の隙を狙って素早く大地へ舞い降りるとそのミミズを嘴で掠ってゆく。


 実にのどかな風景がそこにはあった。


 老爺が再び鍬を振るい、黒土が深く掘り起こされる。

 まだ力は衰えてはいない、若い者や壮年の者の働きぶりに十分ついていくことが出来るだろう。

 そんな感想を持ちながらも、老爺は三度鍬を振るおうと力を込める。


「ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥス殿!時間がありません!早急に返答をお願い致します!」


 老爺こと、先の執政官ルキウス・クィンクティウス・キンキナトゥスの鍬を持つ腕を制するような声が掛かったのは、その時だった。

 キンキナトゥスはさも今気付いたといった風情で振り返ると、にっこりと微笑んでそこに佇む人物へと言葉を返す。


「おやおや、真面目なことだ。まだいたのか……とうにあきらめて元老院へ戻ったものとばかり思っていたよ」

「あきらめて帰ることなど出来ません!さあっ、さあ!」

「まあ、そういきり立たずに待っていてくれないか」


 のんびりしたキンキナトゥスの言葉に、使者は地団駄を踏まんばかりに拳を握りしめて言う。


「私はいつまで待っておれば宜しいのですかっ!お役目はどうすれば宜しいのですか!」

「……役目、か」


 役目という言葉に反応し、若者を見るキンキナトゥスの眼差しには複雑な物がある。

 キンキナトゥスの目にあるのは、相反する羨望と嘲笑、それに自嘲だろうか。

 羨望は、希望と未来あるローマの発展を少しも疑わない若者に対して。

 そして嘲笑は、政治のなんたるかを知らず、また物の汚い面を見たことのない若者の浅慮さに対してのものだ。

 自嘲は言うまでもない、過去の自分を彼に重ね合わせたのである。


 若いローマ人。


 いや、正に今のローマを体現したような若者と呼ぶべきだろう。

 ローマはこれからも強く、そして大きくなる。

 しかしその陰で苦汁を飲まされる者達が、悲哀を味わうものがどれ程生まれることだろうか。

 それも敵味方を問わず、である。

茶色の瞳はいささか不機嫌さを表わしてはいるものの、未だキンキナトゥスへの尊敬を失っていないと見え、きらきらと輝いていた。


 若者はキンキナトゥスの物とは比べ物にならない程上質なトゥニカを着て、きっちりと礼式に則ったトーガを身に付けている。

 またローマ人らしい鍛え上げられた腕に銀の腕輪を填め、右手に元老院からの物だろう、赤い蝋で封緘されたパピルス紙の書簡を持っていた。

 その年若い使者は、キンキナトゥスの反応を見て何か勘違いしたようだ。

 拳を握りしめ、顔を赤くして力強く、そしてきっぱりと言う。


「どうかローマの為に今一度お働き下さい!」

「ローマの為に……か。良い言葉だ、実に勇壮で、耳障りのよい言葉だね」


キンキナトゥスが自嘲するように言うと、若いローマ人の使者はその言葉の意味を別に捉えたのだろう、一気に顔を輝かせた。


「おお!さすがは救国の英雄、キンキナトゥス殿ですっ!」


 しかしキンキナトゥスの答えは使者の意に反しているばかりか、熱の籠もらないあっさりした物だった。


「私は行かぬよ……それに執政官のミキニウスはどうした?戦上手の彼なら私より上手くやるだろう」

「そ、それはっ……!」

「ん?どうかしたかね、顔色が悪いようだ」


絶句する使者を笑みを浮かべて見つめるキンキナトゥスは、当然分かっている。

 ミキニウスが何とか出来る事態であれば、自分の所に独裁官任官の使者など来るはずもない事を。

 そして彼が戦上手などと呼べるような者では無い事も。

 しかし、彼は本当に気が進まないのでわざと韜晦して聞いたのだ。

 使者の若者は、キンキナトゥスの言葉を聞いて恥ずかしそうに、そして悔しそうにうつむいて言う。


「執政官はっ、現在アクエイ族の軍に完全包囲されておりますっ……!」

「おやおや……攻め込まれたとは言え野戦で包囲されてしまうとは情け無いな。北東のウォルスキ族の動きはきちんと把握しているのかね?彼らに対する備えは大丈夫かね?アクエイ族とウォルスキ族は確か同盟を結んでいたと思ったが……」

「ミキニウス執政官からの救援要請を受けて軍を編成しているところですが、思うように兵が集まらず……この危機を打開できる指揮官もいませんっ」

「ふむ、それでこの老体に声が掛かったのかね?」

「は、いえ……その……いえ、キンキナトゥス殿ならばと……」


 使者は詰まりながらも淡々と言う。

 しかしそこには急迫の事態が透けて見えた。

どうやらキンキナトゥスが思っていた以上に事態は切迫しているようだ。

 執政官が率いているのは1個軍団、約5000名。

 それが敵対的部族であるアクエイ族に包囲されたとなれば、早急に体制を整えなければなるまい。

 しかも野戦での包囲とは穏やかでは無い。

 おそらく宿営地にいるところを包囲されてしまったのだろうが、5000の精強なローマ重装歩兵を包囲し、一般的な指揮能力は持っているミキニウスをして突破は不可能と判断せしめ、元老院へ救援要請を出さざるを得なくしているのだ。


 この意味するところは1つ、敵はかなりの大軍に違いない。


 加えてローマの敵はアクエイ族だけではない。

 アクエイ族と結んでいる、ウォルスキ族の動向が気になるところだ。

 しかしキンキナトゥスは溜息をつくと鍬を土へと振り下ろす。

 今の自分は隠遁者であって、ローマの将官でも政務官でもない。

 いくら危急の時とは行っても、かつて自分をここへおいやった現在のローマの政治家達が何とかすべきなのだ。

 使者はキンキナトゥスの態度を見て、彼の興味を引くべく必死に言葉を継ぐ。


「失礼を敢えて承知で申し上げます!救国の英雄と謳われたキンキナトゥス殿!このような所で畑を作っている場合ではありません!あなたであれば執政官の危機も救って下さると、ローマの危機も救って下さると!元老院の議員諸氏は申しております。なにとぞ!なにとぞ独裁官をお引き受け下さい!」

「元老院ね……それからその救国の英雄という呼び名は好きでは無いな、止めてもらいたい」

「えっ?」


 ぴしゃりと言いつけ、使者の言葉を途中で遮ったキンキナトゥス。

 かつてのキンキナトゥスの功績を上げ、賞賛の言葉を継ごうとしていた使者は一瞬で青くなった。

 まさか自分の発した賞賛の為の言葉が拒絶されるとは思っていなかったのだろう。

 またキンキナトゥスが突如機嫌を悪くした理由が分からない事もあってか、絶句して目を左右へとさまよわせている。

 しかしキンキナトゥスは、彼もまた自分同様、元老院に選ばれてしまった犠牲者である事を思い出した。


 事情が異なるとは言え、元老院に言を弄されて手酷い目に遭ったという点に関しては、自分同様使者も不幸としか言いようがない。

 自分は過去に、そして使者の彼は現在。

 お互い未来のローマに掛けたという点においては同じだが……


「そうさな……ここの麦畑が開墾できる頃にローマへ向かうとしようか」


 キンキナトゥスの言葉に承諾の意味を見て取った使者は、一瞬喜色を表わすが、すぐに周囲に広がる新興農地を見回して再び絶句する。

 ここをすっかり開墾するとなれば、10年や20年では済まない時間が必要だろう。


「そ、それは……っ」

「まあ、そういう事だ。良い加減あきらめて帰りたまえ」


 ローマに行く気は無い。


 そんなキンキナトゥスの意思を察した、勘の良い使者に人好きのする笑みを向け、キンキナトゥスは鍬を振り上げた。

 しかしその鍬が大地に振り下ろされることはなかった。


「……何の冗談かね?」


 血管の浮かぶ、鍬を握った太いキンキナトゥスの腕を、同じような太い腕で、しかし若々しいそれで使者が押さえ込んだのである。

 キンキナトゥスの呆れを含んだ声色にも動じることなく、使者は口を開いた。


「私は、私達はあなたを尊敬しております。ですが今……私は失望しています」

「そうか、それは何よりだ」


 使者の手にぐっと力が込められたことを感じ取りながら、腕の筋肉を張り詰めさせ、キンキナトゥスは涼しい顔で応じる。


 救国の英雄。


 その言葉にキンキナトゥスは下を向き、再び自嘲する。

 確かに自分はローマを救ったかも知れない。

 しかしながら、その自分が救った他ならぬローマが自分にしたその後の仕打ちを考えれば、とてもその名誉溢れる呼称らしきものを受け取ることなど出来ない。

 受け取ることなど出来ようはずもない。

 何の為に自分がこのようなローマの外周にあたる場所に農地を作っているのか、この使者は年若いこともあってか知らないようだ。


 いや、知っていてあえて触れないのかも知れない。

 そうであるならば教えてやらねばなるまい。


「若い君は知らない事だろうが……私はね、一度ローマを見限ったんだよ」

「み、見限ったですってっ!?」


 ローマ人の口から決して出るはずのない言葉が、キンキナトゥスの口から発せられる。

 救国の英雄から、愛すべき国を非難する意思を見て取った若い使者は愕然とした。

 しかしキンキナトゥスは、つかまれたままの手を下ろすと言葉を継ぐ。


「勘違いしてはいかんな、私はローマを今でも愛しているし、ローマの為になるならどんな労でも厭わないつもりだ」

「で、では何故見限ったなどと仰るのですか?」

「政治だよ、醜い政治闘争が私を農園に向かわせたんだ」


 戦勝後のローマでのきらびやかな凱旋式。

 元老院の賛辞と市民の賞賛の声を浴び、ローマの街路を練り歩いた記憶は、未だ鮮やかにキンキナトゥスの胸にある。

 栄光、名誉、財産、威厳、全てがそこには在った。

 執政官や元老院議員を歴任する事になるキンキナトゥスだったが、戦後も彼は平穏を得ることが出来なかった。

時には暗闘し、時には正々堂々と議場で弁論を戦わせる。

 証拠を集め、非難し、中傷し、挑発し、弁明し、貶める為に褒め称える。

 おまけに一緒に戦った兵士達を残虐行為で讒訴する者まで出る始末。

 自分の事だけならばと、ローマの為ならばと耐えていたキンキナトゥスの堪忍袋の緒を切ったのは、そんな心ない元老院議員達の言動だった。

 その議員は戦勝して占領し、その後同盟関係になった部族が、ローマ兵の行動によって損害と名誉を失ったと主張し、謝罪を求めていると言ったのだ。

 そして同盟関係が損なわれているとも言ってのけた。


 平和を勝ち取った彼を妬み、嫉み、その栄光に汚れを付けようとする輩は実に多かったのである。


「私を非難するのならば大いにやるがよい、しかしローマの為に身命を賭した兵士諸君を誹謗中傷する者を私は許さない。議員諸君は真実をよく見通し、自分がどこの国の議員であるかを今一度見直しては如何か?」


 温厚なキンキナトゥスが議場で怒声を上げたのは後に先にもこれ一度。

 最後にその台詞を残し、議場を退出して2度と戻らなかったキンキナトゥス。

 政治生活に浸かり、心身ともに疲れてしまったキンキナトゥスが、引退を決断したのは極々自然な成り行きなのであった。

 それに元々が貴族とは言え軍事貴族であり、農民でもあるキンキナトゥスに、元老院議員の肩書きはそれほど必要ではない。


「平和は素晴らしいが、その平和を獲得した者への風当たりは強い……当然武力は要らなくなるからね。しかしそれがどの様な理由であれ、私は国の為に身命を賭して戦った兵士達が非難されるのは肯んじ得ないのだよ。だから隠遁する事にした。あれ以来私は一度もトーガを着ていない」


淡々と語るキンキナトゥス。

 キンキナトゥスは、ただただ普通のローマ市民として行動し、そしてローマ市民でありたかったのだ。

 しかしながらそれを阻害する者が現れ、それを全うできないと思った時、彼はローマを離れたのである。

 それを聞いたキンキナトゥスの腕を掴む若者の手には、既に力が入っていなかった。

 若い使者の肩を優しく叩き、キンキナトゥスは優しく言葉を継ぐ。


「最早トーガの着用方法も忘れてしまったような私に、独裁官の任務は荷が勝ち過ぎる。そう元老院に伝えてくれたまえ」


 しばらくうつむいていた使者だったが、きっと顔を上げて自分の肩に置かれていたキンキナトゥスの手をしかりと掴む。


「キンキナトゥス殿、それでもお願いしたいのです……ローマは未曾有の危機に陥っております。万が一にもミキニウス執政官率いるローマ軍団が撃破されてこのまま周辺部族に押し込まれれば、兵士だけでなく女子供老人を含めたローマ市民は言うに及ばず、ローマ事態が消滅してしまうかも知れないのです」


 黙ったままのキンキナトゥスに、使者は先程までとは異なる、心の底からわき出る気持ちをそのままにした熱い調子で語り続ける。


「ローマは国です……確かにローマには醜い所もあるかも知れません、キンキナトゥス殿が仰った、政治的な面がある事も否定しません。あなたをこの畑に追い遣った事も間違い無くローマがした事です。しかしそれを含めた全てがローマなのです……あなたは真のローマ人がどの様な人々を指すのかよくご存じのはずだ。質実剛健、勤勉で真面目、融通の利かない職人気質、お人好しで親切、そして驚く程頑健で団結力に富んだ愛すべきローマ市民を、あなたはよくご存じのはずだ。あなたはそのローマが無くなってしまって良いと思っているはずがありません。しかし今正にローマは滅亡の危機にあります。どうかお願いです、着用方法を忘れたというトーガを着用し、私の辞令を受けて頂きたい。そして私と一緒にローマへ戻り、元老院で“ローマ市民”に対して責務ある独裁官として任務を果たして頂きたい!……非力な私ですが、キンキナトゥス殿に何の寄与も出来ない私ですが、ローマ市民としてあなたの果たした功績は忘れておりません。あなたの高潔さと能力を疑っておりません……そしてあなたの果たすべき役割を知っております」


 じっと自分を見つめるキンキナトゥスの目をしっかりと見つめ直し、使者は最後の言葉を発した。


「ローマの市民はあなたの復帰を待っています」


 使者の言葉を最後まで真面目な顔で聞き終えたキンキナトゥスは、しばらく動きを止める。

 ローマへの思いを失ってしまったわけではないし、裏切りたい程憎んでいるわけでも無い。

 本当にローマを見限ったのであれば、別の都市や部族に参加してしまえばよい話だ。

 キンキナトゥス程の軍才があれば、どこの都市や部族も受け入れてくれるだろう。

 実際にキンキナトゥスのローマ軍を率いて行った数度の軍事的成功は、近隣部族や諸都市に轟いている。

 それにも関わらず引退という形をとり、ティベル川の反対岸というローマ直近の農地を得て開墾をしていた理由は、それこそ、ローマへの未練に他ならない。

 何を隠そうキンキナトゥスがそれを一番よく知っている。

 ことが起これば老いぼれていく自分でも役立つ時が来るかも知れない。

 開墾が成功すれば、ローマの慢性的な食糧不足の足しにもなる。

 いつか自分が必要とされるかも知れない場面を想定し、備えていたキンキナトゥス。

 腐敗とまでは言わないが、自分の意に沿わないまま大きくなっていくローマを尻目に、どこか達観したふりをして距離を置いていた事は事実だ。


 しかしながら、時は来た。

 ローマ市民として、ローマのために働く時が来たのだ。


 ローマの若者はローマに対する愛を失っておらず、自分達が若い頃と同じように強い発展の意志を持ち続け、そして才能に溢れている事も分かった。

 彼の使者の説得はよい説得だった、そして実によい演説だった。

 ローマの為に、今ここで自分は立たねばならない。

 正に真剣と言った風情で自分を見つめる使者の肩をぽんぽんと軽くはたき、ゆるゆると笑みを顔へ登らせたキンキナトゥス。

 そして一つ頷くと、おもむろに口を開く。


「それが真の言葉かな?なかなか良き言葉だった……この隠遁老人を再びローマの為に働こうと思わせるぐらいに、な」

「で、ではっ?」

「悪いが手伝ってくれるかね?私のトーガは1人では着用が出来ん、実に古いのでね……それに我がキンキナトゥス家の襞付ひだつけは実に複雑で難しい」


 感激で目を潤ませている年若い使者の顔から視線を外すと、キンキナトゥスは周囲で働いている農夫達に声を掛けた。


「兵士諸君!ローマが我らを必要としているそうだ……一度は都市ローマを離れた我らだが、危急の時とあっては参上しないわけに行くまい。戦備を整えよ!」


 キンキナトゥスの言葉を受け、農夫達は喜々として開墾作業を中断し、鍬や鋤を片付け始めた。

 そして傍らに設けられた寝小屋へ農具を仕舞い込み、そこから今度は別の物を取り出し始める。

 その手にあるのは楕円形大盾スクトゥムと鎖帷子ロリカ・ハマタに兜ガレア、そして槍ピルムと剣グラディウスだ。

 中には弓アルクスと矢サジッタや長剣スパタを持っている者もおり、付けていた鋤を馬から外し、布鞍を取り付けて騎兵になる者もいる。

 たちまちの内に戦備が整い、1000名余りのローマ兵が出現してしまった。


「あ、あれは?」

「ああ、彼らはかつて私が率いていた軍団の兵士達だ。引退後は一緒にここで開墾作業をしているのだよ。開墾作業に専念していたとは言え、腕は鈍っていない……では早速手伝って貰おう、手早くトーガを着用せねばな」

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