02
ウィルトは黒い双眸を見つめた。この国の貴族は多かれ少なかれ王族の血が入っているため、普段見慣れている人の瞳は青系統の色が多い。最も、ウィステルアーウィ随一の学芸都市として名高く、周辺諸国からも人が集まるイブティカールではソルタニーイェの赤、ルグルスの銀、シエルバの金、流浪の色なし、それらの血の混ざり合い、薄くなった平民の茶などを見ることができる。ウィルトはイブティカールの大学で歴史を学んでいたため、様々な色合いを持つ人間と交流があったが漆黒といえる眸や髪を持つ人間は初めて見た。
「大賢者……?」
ウィルトと同じく絶句していたアルフェイトがかすれた声で呟いた。声を出そうと意識したというよりは思わず口にしてしまった、という様子。まさか、と言わんばかりに呟いた後に片手で口を覆っていた。
ウィルトは視線をその『大賢者』らしき人物に戻す。無表情でこちらを見上げていた彼はアルフェイトの声に反応するかのように濡れた手をこちらに向けて伸ばしていた。手をとれ、と言われた気がして反射的にその手をつかむ。
「陛下!?」
アルフェイトが制止しようとしたようだったが、構わず引っ張った。掴んだ手が冷たい。その冷たさに生きているのか、と疑問を覚えながらもウィルトはさらに腕に力を込めた。水から、というよりも部屋から引きずり出そうとして力を込めると、影から先ほどの狼が飛び出す。形を崩して部屋の水にまぎれたあと、黒眼黒髪の人物の下でその人を背に乗せるように形を取り直した。
「陛下、お下がりください。何者だ、答えよ。私は狼霊府長官、アルフェイトである」
自失していたらしいアルフェイトは気がつけば杖を構えウィルトと黒眼黒髪の人物の間に立っていた。ウィルトが握っていたはずの手はいつの間にかはなされている。
「貴方がたは、」
狼にまたがったその人は、低くもなく高くもなく、速くもなく遅くもない少し茫洋とした印象の口調で話し始めた。
「貴方がたは、私が誰かをご存じではないのですか?」
その問いにアルフェイトは身を固くする。ウィルトも同様だ。アルフェイトの顔を知らない人間は多いだろうが、狼霊府の長官というのは教育を受けていない下層の人間であったとしても敬意を抱かずにはいられない称号だ。それに対して遜ることなく、何故自分を見知っていないのかと疑問に思い問いかけることのできる人物。氷の底に見えていたのと、同じ顔をした人物。一定の手順を踏んだ人間にしか入れない、狼霊宮奥深くにある部屋から出てきた人物。これは、多分演技をしなくてはならない相手だろうとウィルトは認識し、アルフェイトの肩を叩いて下がらせた。
「いきなりで不躾だったな、謝罪しよう。我が名はウィルト・ディイ・サッバシーア・シンシア・ウィステルアーウィ。ウィステルアーウィ王国、八代目の国王だ。貴殿の名は?」
仮に大賢者なら唯一王より上位に立つ可能性のある相手だ。賢者、という位は今のウィステルアーウィ王国で権利関係において国王とほぼ対等と認められている。ならばそれより上位の大賢者は……?狼霊府がどのような判断を下すかは分からないがそれなりの対応は必要か、と命令ではなく問いかける形をとってみた。アルフェイトから不満そうな気配は感じない。おそらく対応として間違ってはいないのだろう。
「王様?」
するり、と狼の背から降りて、その人は音もなく廊下に降り立った。黒い布はずっしりと水を含んでいるのだろう、重く垂れさがっている。
「貴方は王様?」
「今日即位したばかりではあるが、この国の君主だ」
「八代目の、王様」
「偉大なる健国王、エウィト王から数えて八代目だが」
「エウィト王……何年前?」
「今年で建国から二百四十三年を数える」
「知らない……」
無表情だった顔がゆがむ。眉をひそめて口をとがらせる形に。まだ16歳の自分が言うことではないかもしれないが随分と幼い、とウィルトは思った。知らなくて当然だとでも答えたほうがいいのかと迷っているとへくしょい、と大賢者は豪快なくしゃみをひとつする。
「大賢者様、よろしければこちらへ。部屋とお召物を用意させていただきます」
アルフェイトが片膝をつく略式の礼をしてから声をかけた。それまでおとなしくしていた狼が同意するように尻尾を振って、自分の主(なのだろう)の顔を見上げた。狼の表情に変化はないし、そもそも変化があったとしてもそれを見分けることが可能なのかどうかはわからないが、ウィルトはその狼からどこか嬉しそうな雰囲気を感じとった。まぁ、大賢者がいつからあの氷の下にいたのかは分からないが二百年ぶりに主に会えたのなら嬉しいだろう。……二百年、とそこまで考えて思わず天を仰ぎたくなったが、アルフェイトだけならともかく大賢者の前であまり威厳にかけた振る舞いはできないと自重した。
連れて行かれた先はアルフェイトの執務室の奥にある、彼の自室だった。なるほど、ここならば誰かがいきなり入ってくることはないだろうとウィルトはうなずいた。驚いた顔で椅子を引いた女官に、アルフェイトは口が堅い女官を数名呼ぶように伝えた。大賢者を着替えさせ、濡れていない椅子をもう一脚運ばせるなど、ある程度準備ができたところでもとから部屋に居た女官――名前はラナーというらしい――だけが残り、茶を杯に注いでから座った大賢者の髪を拭う作業に取り掛かった。貴族階級の成年男性は髪を肩の長さに伸ばすことが多いが、彼の髪は背の中ほどまで届いている。乾かすのに時間がかかりそうだ。
「大賢者様、なぜ急にお目覚めに?」
アルフェイトは大賢者が腰かけた椅子の前で跪いて尋ねる。ウィルトはしばらくどうしようかと迷った後に寝台の上に腰かけた。少し行儀が悪いかとは思ったが、そのまま茶の入った陶器の杯に手を伸ばす。ソルタニーイェ王国との境となっているリイン山脈付近で取れた銘柄らしい。寒暖の差の激しい高地で採られた茶葉は香り高く甘みが強い。最高級品だと教わった記憶がある。こくり、と嚥下して息を吐く。式典が終わったら部屋に戻って甘いものを食べながら歴史書でも読もうかと思っていたのに、何の因果かおとぎ話の住人の前で威風堂々とした王の演技をつづける羽目になってしまったのだからため息の一つや二つ、つきたくもなるのだ。
「その、私にもわからないのですが……そもそも、私は大賢者なのですか?」
おいしいですねぇ、とふにゃふにゃした顔でつぶやいていた大賢者は、今度は不思議そうな顔になって首をかしげる。表情が読みやすいのだな、とウィルトは意外に思いながら顔を眺めた。大賢者と言うぐらいだから、老臣たちのような狸を想像していたのだが。表情を読ませない、意図を悟らせない、それでも望むものは裏から手をまわして確実にもぎ取るような人物を。
質問の内容の吟味はしない。もう疲れたのでアルフェイトにお任せだ。彼は自分の職務に忠実だから、ウィルトがわざわざ目を光らせていなくても国や狼霊府の為にならないことはしない。しないだろう。それくらいにはウィルトはアルフェイトを信用している。
「……は?エウィト王を補佐し、建国の礎となった、賢者様でいらっしゃいますよね?」
ウィステルアーウィ王国初代の賢者。その知識をもってエウィト王の戦に貢献し、国が成ってからは国政に数々の助言を与えた賢者。功績をたたえてエウィト王の死後、公職を辞した彼を呼ぶために大賢者の呼称が用いられるようになったのだったか、とウィルトは歴史書の記述を振り返る。やはり現在というのは過去の積み重ねからできているものだ。現状の推測には過去の知識が欠かせない。今度歴史を役に立たないと馬鹿にした人間にははっきりと言ってやろう、そうしよう。考えている内容はマトモかもしれないが、ウィルトはそこまで考えた時に自分が現実逃避をしていることに気づいて頭を振った。王族の冠婚葬祭、全てにかかわらせるほどこの国の『大賢者』に対する関心、意識は高い。民衆にも浸透しているはずだ。その大賢者が生きて動いて目の前にいるというだけで……本音を言うなら面倒だ。
「名前をうかがってもよろしいかな、大賢者殿。歴史書には貴殿の名が記されていないのだ」
「歴史書……」
演技は続けなくてはいけないけれど、知的好奇心を満たす方向に少し動いても構わないかなとウィルトは一向に進まない会話に口をはさんだ。多少の役得がないと王なんてやってられない。考えてみたらこの人は生きた歴史書だ。読み解き推測するまでもなく二百年ほど前の生活や事件について語ってくれるだろう。
「その、非常に申し訳ないんですが」
「はい」
「名前、覚えてないんですよねぇ」
「はい?」
「いや、その。気づいたら水の中に居まして。溺れそうになって慌てて、ここはどこだ自分は誰だと思っているうちに貴方がたが」
「やってきて大賢者と呼びかけた?」
「ええ。あの、お話伺ってるとその大賢者という方がいらしたのは二百四十年ほど前のことらしいので、人違いかと思うんですが……。人ってそんなに長生きしませんよね?」
ものすごく真面目な表情だな、とウィルトは思った。ただ、言葉の中身は真面目ではない。いや、本人は真面目なのかもしれないが。さすがに威厳ある王の仮面が外れてしまいそうだ。記憶のない賢者って、賢い者なのだろうか?微妙だろう。言葉を交わす知識はあるようだが、それ以上の常識などは望めないようだし。ただ、幸いか不幸にしてか、『大賢者』というのは本人の資質如何によって与えられる称号ではない。この国において大賢者はすでに固有名詞だ。
「……確かに人は長く生きて七十年、と言ったところではあるが。父は先日五十と少しで身罷ったが、長命でも短命でもないという印象を受けたからな。それでも、貴殿は大賢者であろうよ。アル、確認するが記憶が無かろうが彼は大賢者だな?」
「かの大賢者であると公式に認めるためにはこちらの長老会の承認が、それに応じた現在に通用する身分を与えるのにはそちらの議会の承認が必要ではありますが。個人的な見解でよろしければこの方は二百と五十年あまり前に健国王と出会い、われらがウィステルアーウィ王国の建国に手を貸した大賢者様であると」
「納得していなさそうだぞ?根拠も伝えておけ」
大賢者はそこはかとなく不満そうな、それでもそれをそのまま口に出すわけにもいかないだろうなと遠慮しているらしい表情をしていた。本当に表情が読みやすくて愉快だとウィルトは思ったが、逆に利用されやすいのではとの危機感も抱く。起きるのなら記憶が万全の状態でいるか、でなければ自分の次の代とかにして欲しかったと切に願ったが、目の前にいるのだからどうにもならない。
「御意。大賢者様、まず基礎知識として簡単にこの国の説明させていただきます。ここは水の精霊の加護を受けるウィステルアーウィ王国。君主は八代目のウィルト様でこの国の君主として健国王と同じく青眼青髪。本人も王族として精霊の加護を受けていらっしゃいます。本日戴冠式、即位式を行いました。北にリイン山脈を超えて火の精霊の加護を受けるソルタニーイェ王国、西にルルド砂漠を越えて月の精霊の加護を受けるルグルス皇国、太陽の精霊の加護を受けるシエルバ王国がございます。ルグルス皇国とシエルバ王国は主従関係を結んでいるので、国によっては両国を合わせてルグルス王国と数えることもありますね。ルグルスは皇国を、シエルバは王国を主張しているので、わが国では別々の国家として扱っております。
さて、南方諸島は小国群によって構成されております。国の乱立が激しく、この五十年ほどで滅びた国、興った国、両手で数えても余るほどです。わが国は東と南を海に接しておりますので貿易などの取引は多いのですが、南方諸島の海域では海賊などが多く今後の課題点となっております」
「はい、先生」
大人しく聞いていた大賢者が手を上げた。視線の先には先ほどまで長広舌を披露していたアルフェイトのひきつった顔がある。
「先生、などお戯れでもおやめください。わたくしのことは長官、もしくはアルフェイト、と」
「じゃあ、アルフェイト。全然聞き覚えのない地名ばかりで今の一回じゃ覚えられません」
「なるほど、記憶がないならば当然だろう。アル、もう少し短く説明したほうがよいのではないか?」
「あと、王様」
「なにかな、大賢者」
「無理して堅苦しい話し方してると疲れません?」
「……」
「……」
「……あれ?もしかして私、何か触れてはいけない点に?」
「いや、そうではないがなにぶんこの演技をしている間に見破られたことはないのでな。まぁ、限られた相手にしかしたことはないが。さすがは大賢者といったところか。記憶がなくとも本質を見通す力は失っていない」
「過大評価ですよ」
「アル。大賢者の前なら演技をしなくてもよさそうだと思うんだが」
「……あの、別に演技するのをやめろと言ったわけではないのですが」
「ああ、単に嫌になっただけだ。というか疲れた」
「陛下。言葉づかいは大切です。現在陛下をわざわざ追い落として王位を得ようとする方はいらっしゃらないようですが、人は何がきっかけで不満を爆発させるかわかりません。私と必要以上に親しいさまを見せれば狼霊府を優遇すると不満に思う貴族は多いでしょうし……」
「わかってるって」
「恐れながら、陛下が本当に理解していらっしゃるかどうか」
「知ってると思うんだけどなぁ」
「だからなんでそんなに自信なさそうなくせに強情なんです?」
「ほら、僕歴史が趣味だし。今までの国がどうやって滅んでいったか、結構知ってるよ」
「ああ、そうか。だったら頼むからその知識を生かしてまっとうに王として行動してくれよ!?」
「アルー、口調が戻ってるよ」
「……ああ、そうだな畜生でもお前だってさっきから威厳も減ったくれもねぇ!」
クス、と笑う声にウィルトは口をつぐんだ。大賢者がほほえましそうな顔で二人を眺めている。アルフェイトも少し気まずそうに咳払いをした。
「失礼いたしました」
アルフェイトは視線を足元に戻してから謝罪をする。
「いえ、お二方とも仲が良くて結構なことだと思います。よくいる心配性の兄さんとのんびりした弟さんですよね」
「なるほど。他の兄弟は知らないけどそういうものなんだ」
「ええ、きっと。王様のことは王様とお呼びすればよろしいので?」
「さすがに名前はね。まずいから……王様、とか陛下、とか。どちらかというと陛下のほうが正式な呼称だけど、これは基本的に民が僕を仰ぐときに使う呼び方だから嫌なら王様、のほうが」
「いえ、では陛下と。アルフェイトもそのほうが安心でしょう」
「……ええ、そうですね」
「お二方の会話から推測したんですが、陛下は即位したばかりなんですね?しかも、王となるための教育を本格的には受けていらっしゃらない」
「よくわかったね?」
「アルフェイトの心配の仕方が少々奇異に感じられましたので。あと実感はわきませんが私は『大賢者』、一言が大きな影響を及ぼす立場に居る、と」
「うん」
「その通りでございます」
「私としては貴方がたと敵対する予定も理由もありませんので貴方がたの不利になることはしたくありません。のでいくつか質問をさせていただければと思います」
「どうぞ」
「まず、私を排除しますか?」
「……直球で来るね。アル、この人結構怖いかもしれないよ」
「だまれ四番目。きちんと答えて差し上げろ」
「いや、いくら王でも即答できる問題じゃないでしょ!?せめて狼霊府の長官と協議した結果じゃないと!」
「いえ、お二方の反応で大体わかりました。とりあえず怖いことにはならなさそうですね」
質問の内容からして危機感を持たないわけではなさそうだったがのんびりと杯からお茶をすすっている姿を見ると脱力してしまう。やっぱり狸よりの人間なのかもしれない、とウィルトは眉間をもんだ。王になる予定も野心もなかったはずなのになんで僕はこんな苦労をしなくちゃいけないんだろう。来年のルルド方面の遺跡調査隊に参加するつもりだったのに、無理になったし。
「では次に。狼霊府、というのは宗教の総本山のように聞こえるのですが、王家や貴族とはどのような関係を築いているのでしょう」
「相互不干渉、と言ったところかな。この国に王を超える立場はない。『大賢者』がどうなるかは別問題だけどね」
「多分賢者と変わらない扱いをすべし、ってことになると思うぞ」
アルフェイトが口をはさんだ。吹っ切れてしまったのかなんなのか、口調はいつもの少し乱暴なものになっている。
「賢者ってのは権力を持たない名誉職で、狼霊府が人事権を持っている。狼霊府の管轄は国の祭祀と狼霊府の運営全般、あと賢者の選定だ。権威はあるんだが意外と法に基づいた影響力はないし、そも政治に携わることなかれと自らを戒めている。
賢者は権力がないが、身分は高い。多くは長年貴族院で役職についていた人間か、こちらの長老院で役職についていた人間が引退した後に就いていて、王に対する助言なんかをする仕事だと思われてるな。年金が出るから仕事から解放されて趣味に没頭するのもいるし、真面目にがんばるやつもいるし、まぁそこは人それぞれだ。今はちょうど八人が賢者に認定されている」
「ふむ、なるほど。政教分離ですか、争いはないのですか?」
「狼霊府は王に忠誠を誓い、王は狼霊府を尊重するという題目は守られている。ソルターニェ王国では国土の約三割が赤狐殿……この国の狼霊府のようなものだが、そこの直轄地となってる。そのため、土地から上がる税収で少々険悪なようだが、狼霊府は土地を持たん。喜捨には税がかからんが、権力を握りにくい体制になっているためこれからも急激に関係が悪化することはないかと思う」
「なるほど。では次に。私を『大賢者』として公にする予定ですか?」
「悩んでるとこ。貴方に大賢者としての自覚がないならその立場を強要するわけにはいかない。特典は多いけど、多分大きな責任というか重圧がかかると思うし」
「お気遣いありがとうございます。でも私が知りたいのは貴方にとって有利か不利かなのです」
「微妙なところなんだよ、本当に。そもそも大賢者は今でもなおこの国を見守っている、これは常識なんだ。信じる、信じないじゃなくてそういうもの。事実、僕たちだって貴方が溺れそうになったとかいう部屋で儀式を行ってたし、あの水こないだまで氷だったんだけどね、その氷の下にいた貴方が大賢者で、生きているものだと認識してたから」
「……氷漬けの人間が生きていられるものでしょうか」
「まぁ、現実問題として貴方は今僕やアルと会話してるわけで。生きていられるんじゃない?ふつうはダメだけど、多分魔法を使ったんだと思うな」
「魔法ねぇ」
「貴方も使えるでしょ?その狼は貴方の使い魔みたいだし」
大賢者の髪を乾かしているラナーの横でおとなしく伏せの体勢でいた狼は大賢者の顔を見上げた。何かを期待するように眼を輝かせている。
「その狼、人語を操れるはずなんだよね。多分今は能力が制限されてるんだ。真名を呼んであげたら制限が解けると思うんだけど」
大賢者は妙な表情で狼を見下ろした。
「私の言葉がわかりますか」
狼はうなずいた。
「陛下のおっしゃったことは本当?」
また頷く。
「名前を呼んでほしい?」
また頷く。さっさと呼んであげればよいのに、とウィルトは少し狼に同情する。
「すみませんね、名前おぼえてないんですよ。とりあえず狼さんと呼ぶのも味気ないですし……狼なんだからロウと呼ばせてもらいます」
くぅん、と悲しげに鼻を鳴らした狼はもたげていた頭を両足の間に戻した。伏せの体勢から丸くなって悲しさを全身で表しているように見えた。さすがの大賢者も哀れに思ったのか、慌てて言葉を続けている。
「ああ、思い出したらすぐに呼びますから。それまでの仮の名前です。それでも駄目ですか?」
はぁ、と人間くさくため息をついた狼は立ちあがってから大賢者の手を舐めて、また伏せの体勢に戻った。おそらく承諾の合図だろう。
「話題がそれたな。狼霊府として、んでもって俺自身としては大賢者が目覚めたことを公開してもしなくても構わない。そもそも大賢者が目覚めるのはこの国が危機に陥った時と言われていたから、そちらの対策のほうが問題だ。取り立てて危機、という問題は生じていないはずなんだが」
「ただのイレギュ……間違いかもしれませんよ。記憶に不備がある時点でおかしいですし」
「そうだね、何かが起こってからじゃまずいから調査はさせるけど。貴方はどうしたい?僕としてはどちらにしても構わないんだよ。例えば大賢者として僕の王権を補強してくれるならありがたい。でも権力争いの道具にはなってしまうだろうし、こう言っては何だけど将来僕と敵対する心づもりの人間に利用されないとも限らない。
公にしなかったからと言って情報が漏れないとも限らないしね。こちらとしても貴方が大賢者である以上身の安全は保障するし、何より無事でいてもらわないと困るんだ。傷ついたら傷ついたで僕に対する攻撃材料になるんだよ」
記憶がないためこの性格なのかそれとも元々そうだったのか、ウィルトの目の前に座る大賢者は少しばかり不躾なことを言っても怒ったりしない、むしろ正直に話したほうが心証が良いだろうと思わせる人間だった。この性格で大賢者としての記憶があれば即座に腹心として取り立ててもよいだろうと思わせる人物だ。
「目覚めたこと自体が厄介と言ったところですね」
「正直、そうだねぇ」
「おいこら四番目。失礼だぞ」
「こう言うことは取り繕わないほうがいいよ。厄介だとは思うけど迷惑ではないし」
「ええ、アルフェイト。私としても裏で心配されたり計画を立てられたり操られたりするよりは自分から謀に参加したいと思うので言いづらいことでも言っていただけると嬉しいです」
「そうか。なんというか、狼霊府の人間としては複雑だ」
「複雑?」
「水の精霊を祀っているが、信仰の対象として大賢者も含まれてるからな」
「……つまり私ですか」
「ん」
「それは複雑でしょうねぇ」
「ああ、でも偶像をあがめるつもりもないから別に大賢者らしく振舞う必要はないぞ」
跪いていたアルフェイトは何かをふっ切ったように立ち上がり、勢いよくウィルトの隣、自分の寝台に腰かけた。そのまま低い机に手を伸ばして杯をとる。茶がぬるかったせいか一瞬顔をしかめ、そのまま飲みほした。
「公式に発表はせず、私を大賢者として扱うことは可能ですか?」
空になった杯を手の中で転がしながら大賢者はウィルトに問いかける。具体的にどういうことだろうというウィルトの疑問を察したのか、彼は言葉を継ぎ足した。
「つまり、公式な発表はしない、しかし私に衣食住を提供する際に偽りの身分を作らないということです」
どうだろう、とウィルトは首をかしげる。具体的にどの程度の衣食住を大賢者が求めているかによるが、あまり贅沢なものでなければ用意はできるはずだ。即位して早々に身元不明の人間を保護するのは少しばかり外聞が悪いかもしれないが、致命的なほどではないだろう。
「具体的に、いつまで?王が一人を優遇するのは長引くとまずい。長引かなければいいけど」
「最長で三十日。それまでに記憶が戻れば戻り次第。戻らなくてもそれだけの日数があれば自分の能力の程度を把握できると思うので」
「なら構わない。文句をいう人間は黙らせるし、ある程度行動の自由も保障する。使用人は十人程度になると思うけどね。アル、『大賢者』を住まわせるとしたらどこ?」
「難しい問題だな。狼霊府には客間がないから俺の部屋を譲っても良いが、確実に王より位が低い人間の部屋だからな」
「え、いや、場所にはこだわりませんけど」
「甘い。後で大賢者だと公表するつもりなら認識しておけ、身分とはそういうものだ。知らないだろうから教えておくがな、貴族たちは自分の晶宮がどれだけ王の狼宮に近いかが自慢の種にも争いの種にもなる」
「それはまた強烈かつせせこましいことで。私としては寒さ暑さと夜露がしのげて一日最低二食、ついでに服を七着ほど提供されれば文句は言わないつもりだったんですが」
「……本気?」
「何かおかしいですか?」
「それだと結構部屋が小さくても良いってことになるよ?」
「もちろんです。先ほど使用人、とおっしゃっていましたが質問に答えてくれる人が一人いれば十分です」
「え。着替えとかお風呂とかどうするの?」
「それくらい自分一人でやります」
「出来るの?」
「この型の服でしたら一回きましたから着方はわかりますし。風呂は一人で入るものだと思っていたのでおそらく記憶をなくす前からそうだったのではないかと」
「……なんか平民っぽいよね。行動とか。なくしてない知識とかモノの考え方は貴族寄りなんだけど」
「大賢者って貴族なんですか?」
「あー、言われてみりゃそうだな。エウィト王の友人としか書かれてないし、そもそもこの国の成立前の人間だから今でいう貴族たちは存在しなかったんだよな」
「盲点だったね」
ウィルトは少し感心しながらアルフェイトと呟きあう。貴族と平民には大きな差があるが、その差を作る前に彼は存在していたはずなのだ。そりゃあ常識も違うはずだ。
「でも、それで良いんだったら狼宮の庭に
「四阿ですか?」
「とはいっても結構立派だよ?三代前の王が作らせたものでね。執務に疲れたと思った時の避難先だったらしい。今でも掃除は欠かしてないはずだから調度品を少し運び込ませれば快適に過ごせると思う」
「あそこか。悪くない。料理人を一人と」
そこで不意にアルフェイトは言葉をとぎらせた。大賢者の髪を乾かし終わったラナーは布を畳み腕にかけ、扉の脇に控えていた。
「ラナー、話は聞いていたな?」
「はい、伺っておりました」
一礼してからラナーは答えた。水色の髪に水色の瞳をしたまだ少女と言える年齢のようだった。
「大賢者、かまわなければ使用人として彼女をつけたい。正式にはこちらの巫女だから水霊との交感能力が高いし、もともとが貴族の出身だからそっちの不文律にも詳しい。何より察しが良いし、性格が良いし、口が堅い」
「よろしいのですか?貴方の付き人をやっていたのでは?」
「俺は構わない。ラナーはどうだ」
「光栄でございます」
頭を下げたままラナーは答えた。
「なら決まりだね。ラナー、だっけ?よろしく」
「この身をもって仕えさせていただきます」
「おい、威厳ある王の仮面はどうした」
「今さらだよね。大丈夫、普段はちゃんとするから。大賢者のことはなんて呼べばいい?」
「何が適当なのでしょう?」
「名前か『大賢者』かなぁ、やっぱり。賢者は一の賢者、二の賢者って賢者になった順に呼んでるし」
「なら大賢者でお願いします。もし人前で呼ぶことがあったらおい、とかそう言った呼び方だとうれしいのですが」
「わかったよ。それでは、大賢者。貴殿の身に何があり現状に至ったのかが理解できれば身の振り方の参考にもなろう。それまで貴殿は我が保護下にあり、貴殿に加えられる攻撃、侮辱は我、ひいてはこの国への攻撃、侮辱となる。逆にいえば貴殿の行動が我を測る指針になるのだ。心せよ」
「御意にございます。私は大賢者として、そして陛下の保護下にあるものとしてふさわしい振舞いを心がけ、貴方とこの国の為になるように努力いたします」
ウィステルアーウィ興国物語 海津木 香露 @kaitugi
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