ウィステルアーウィ興国物語

海津木 香露

01

 ウィステルアーウィ王国。人であり、水の精霊でもあったと伝えられる初代、健国王の御世から二百四十余年の歳月を数える豊かな国。時に小競り合いなどが起きつつも、周辺諸国との関係は安定しており、大きな争いがないために英雄は吟遊詩人たちの語りの中でしか存在しない。

 王国の危機には健国王の良き理解者であり友である大賢者が狼とともに現れる、などという伝説もあり、これまた吟遊詩人たちの十八番で人気のある歌なのだが、なにぶん大きな災いらしいものに遭遇することなく平和に発展してきた王国なので事実かどうか判断するすべもない。この国はそんな平穏に浸る国であった。


 ウィステルアーウィ王国の首都、サファーエルに代々の国王が生まれ、死んでいった王城がある。城、とは言ってもそれはすでに街だ。王が住み、執務も行う狼宮ろうぐう、王妃が住まう月宮がっきゅう、水の精霊を祀っている狼霊宮ろうれいぐう、部外者を招き滞在させ、あるいは式典なども行われる迎宮げいぐうが主な建築物だが、他に傍系も含め王族が住む小狼宮しょうろうぐう、王の信頼厚く位の高い貴族に居住が許される晶宮しょうぐうが数多く存在する。いずれもその宮の持ち主の権勢を誇り、あるいは国の威信を示すために豪奢なつくりをしていて目に楽しい街並みとなっている。


 城壁の内に存在する建物はそれだけではない。出入りの商人の休憩所や使用人達の滞在所なども含めれば、数百の建物が城壁に囲まれている。そして、街と城を隔てる城壁の近くに、民に向けての演説を行うための豪奢な建物がある。居住用ではないために宮とは呼ばれず、単に告知館と呼ばれるそれの控室に、後数刻で八代目の王になる齢16の王太子、ウィルト・ディイ・サッバシーア・シンシア・ウィステルアーウィは居た。


 ウィルトはイスに座り、うつうつと床を眺めていた。目に入るのは毛足の長い、複雑な模様と配色の絨毯と、それを踏んでいる普段より一層豪奢な靴をはいた自分の足だ。目に入る服の裾もきらびやかで自分を落ち込ませる。王国の守護獣とされる狼が銀糸で縫いとられ、貴色の青をふんだんに使い、天藍石てんらんせき藍方石らんぽうせき青金石せいきんせきなどで飾り立てた衣装。王族特有の青眼青髪と相まって人を圧倒させ、従わせるだけの威容を誇っていたが、それを身に纏う本人の表情は冴えない。見た目は、悪くないのだが。



「殿下」



 声をかけたのは祭祀をつかさどる狼霊府ろうれいふの長官、アルフェイト。有力な貴族の二男として生まれ、水霊との感応力の高さから狼霊府に入った。幼いころからの訓練で、国では一番の水霊使いであると評されている。狼霊府に勤める者の慣例として、名字は名乗らない。王族の血がいくらかは入っているのだろう、薄い水色の瞳をしている。髪は薄墨。今年で26歳と年若いものの身分の貴賎を問わず信頼の厚い彼もまた、常になく豪奢な衣装を身にまとっていた。狼霊府の長官は健国王から、貴色の青を身につけることを許されている。もっとも、代々の長官はその許可を畏れ多いとして淡い青、水色しか使用しないのが慣習となっているので、今日来ている服も白い布に水色の糸で複雑な文様を刺繍しているだけだが。



「アル、なんで僕が王……」

「今更それか、殿下。決まっているだろう、他に居ないからだ」

「そうなんだよね!そりゃわかってるけどね!」

「そうやけを起こすな。心構えができないことを責めるつもりはないが決定事項だ。あきらめろ」



 やけを起こし始めたウィルトとは裏腹に、アルフェイトは冷静に言葉を紡ぐ。もともとウィルトは先代の王――謚号しごうは豊潤王となった――の四番目の子供でしかなかった。直系男子として王座が遠いわけではなかったが、近いわけでもない。ウィルトは自分の一番上の兄が王になるだろうと、自分は歴史でも研究しながら一生を終えるだろうと思っていた。


 そして、落ち着いてはいるものの、アルフェイトとしても現状を予測していたわけではなかった。彼は王太子が将来自分の主になるだろうと思っていたし、第二王子であるウィルトは将来王弟として王を支えるか、あるいは政治の世界には関わらず研究者になるかのどちらかの道を進むのだろうと思っていた。いわゆる『ご学友』として王子や姫と心安く関係を結んではいたが、将来仕えるべき主君という意識は忘れていなかった。王太子のマハーウィは彼にとって気心の知れた友人であり主君であり敬愛の対象だった。弟のウィルトは……不遜な感情ではあったが、面倒を見てやらねばならない弟といったところだろうか。


 周囲の評価も似たり寄ったりであった。豊潤王は直轄地の一部の領主としてウィルトを封じていたが、実務は信頼する臣下にやらせていたし、ウィルトが晩餐会や夜会に出席せずほそぼそと歴史の研究をするのを黙認していた。あれは王になるための能力はあるが、意欲がない。学者がせいぜいだろう、とかつて側近に言っていたことからもそれが伺える。


 貴族たちも、自分の子弟をあてがうのは基本的にマハーウィに対してのみだった。第一王太子に近づけない、あるいは少し競争に出遅れた貴族などはウィルトの取り巻きになることがあったが、圧倒的に数が少ない。本人がもう少し野心的な性格をしていれば王弟としてそれなりの地位に就き権勢を振るうことを予測して多くなっていたのだろうが、剣や英雄に多少なりとも憧れる年頃にもかかわらず愛読書は歴史書、お忍びは遺跡の発掘という毎日だったのだから貴族の地位固めの役には立たないと判断されたのだ。まぁ、間違った判断ではないと本人は思っている。むしろ見る目の的確さに感心していたのだ。


 豊潤王の二番目と三番目の子供は女性だった。ウィステルアーウィの王位継承は他国と大きく異なり、実子であれば性別にかかわらず年齢の高い順に王位に近くなる。第一王女と第二王女、どちらも王座に就く可能性はあった。しかし、豊潤王が崩御する前に二番目は山脈を越えてソルタニーイェ王国に嫁ぎ、三番目は国内の有力貴族に降嫁した。つまり、二人ともウィステルアーウィの王位継承権は放棄したことになっている。


 一番目の子供は男性だった。誰もが彼を次期国王と考えていたし、本人もそれを自覚し学んでいた。多くの栄達を望む貴族に取り囲まれ、帝王学を学び、優秀で利発だと評判だったし、彼自身よき王でありたい、民を豊かにしたいと考え真面目に学んでいた。兄弟仲も悪くはなかった。ウィルトは一番上の兄、マハーウィを慕っていたし、マハーウィ自身も覇気が薄いが気立ては良いと貴族たちにうわさされていた弟のことを家族として気にかけていた。


 しかし。豊潤王が体調を崩し朝議を欠席するようになったころから、傍目に見てもわかるほどにそわそわし始め、そして二十日ほど前。自室に


 『添い遂げたい女性がいるので家出します。

  廃嫡してください。

  王家の紋章が付いたものは何一つ持ち出しませんし、実子は持ちません。

  子供が欲しくなったら養子をとります。探さないでください。

  マハーウィ・エイ・サファーエル・シンシア・ウィステルアーウィ改め、

  マハ・シンシア』


 の書置きを残して失踪したのだ。すぐに秘密裏に捜索隊を出したもののそれなりに優秀な諜報員たちが痕跡を見つけることが出来ずに今に至る。報告を受けた病床の豊潤王は激怒し司法長官をわざわざ自室に呼びよせ、ありとあらゆる公文書から一番目の名を削除するよう命令し、その場に駆け付けた宰相と医者になだめられていた。仮にも一国の第一王子、情報操作の準備が整う前に民や他国に知られたら思わぬ波紋を呼びかねない。


 親子の語らいでも、との配慮でその場にいたウィルトも宰相とともに父をなだめようとしたが、その際にいきなり宣言されてしまったのである。



 「父上、兄上もそのうち反省して戻ってくると思いますし……」

 「あのような者、すでに王太子とは認めん。ウィルト、私の死後、王座はお前に任せる。元の性格はどうであれ、お主一時的に堂々とえらそうな演技をするのは得意だっただろう」

 「へ!?いや、僕にはとても勤まりませんから!兄上なら……」

 「ならん」

 「そんなこと言わずに!王になったら歴史の研究をしたり発掘調査に行ったりできなくなるじゃないですか!」

 「死にゆく親の願い事も叶えないほどに薄情であったか」

 「いやいやいや、それとこれとは話は別です。父上の望みならかなえて差し上げたいですし王命は絶対ですけれども」

 「ならばウィルト。王として命ずる。お前が次期国王だ」

 「なんでそんなに即断即決なんですか。父上はもっと落ち着いて物事を吟味してから命令を発してらしたでしょう!?」

 「他に人がおらん。吟味するような選択肢はない!」

 「ですから、兄上が!そりゃ大々的に探せはしませんけどすぐに見つかりますよ!青眼青髪は目立ちますし……」



 そこまではまぁ、良かったのだ。いや、一国の命運をかけた後継者の問題を語らうには少しふざけたような空気が漂っていたが、豊潤王は大きな問題も小さな問題も、困った様子を見せることなく家族の前で軽口をたたきながら解決していくのが常だったから、ウィルトは必死で反論しつつもいつもの本気とも冗談ともつかない繰り事だと考え、寝台に横たわる父と言葉を交わしていた。


 だが、豊潤王は家族を前にした時の親しみやすい空気ではなく、貴族や官僚たちを前にしたときの、これが王か、と思わせる空気をまとったのだ。



 「ウィルト。マハーウィは、この国に住む百万の民の命と現在と未来を放り投げてただ一人の為に生きると宣言してしまったのだよ。

 あれは、私のかわいい息子だ。息子としての愛情に変わりはないが、民を見捨てると一度でも行動に示した人間は王である資格を持たないのだ。わかっているだろう。

 ……さがれ、ウィルト」



 その十三日後に王は崩御し、翌日謚号として豊潤の名が狼霊府からおくられ、そして次期国王としてウィルトが指名されてしまったのだった。



 「ああもう……有力貴族の後ろ盾なんてほとんどないんだよ、僕」

 「それはわかっている。だからと言って反乱を起こすほど気概がある貴族がいるわけでもあるまい。俺も狼霊府の長官としてお前の即位を全面的に認めているし」

 「なんで認めるんだよう」

 「認めなかったら大事だろうが。先々代の王の弟たちの息子が一番近しい血縁になるが、逆に候補が多すぎる。国を割る政争になるぞ」



 その言葉にウィルトはため息をついた。ウィルトは争いを好まない。歴史の研究を衣食住が保障された環境で出来れば満足だ。むしろ王という最高権力者が忙しいのは父や兄を見て知っているのでなりたくない。なりたくないのだが、自分が逃げ出したせいで政争がおこる、庶民の暮らしに気を配る余裕がなくなるというのも避けたいのだ。


 国が荒れると遺跡も荒れる。ひいては彼の好む世界の過去を見る作業も難しくなってしまうのだ。それになにより、もうすでに民の前で行う戴冠式の準備はできてしまっているのだから、これはもう、最後のあがきというか無駄な行動に過ぎない。



 「手順はおぼえてるな、殿下」

 「おぼえてるよ」

 「『陛下』になったらちゃんと敬語を使ってやる。楽しみにしておけ」

 「敬語を使うアルか。不気味だねぇ」

 「……自覚しろよ?王は至高の存在だ。国内の人間が対等に口を利くことは許されてない」

 「ああ、うん、そうだよね」

 「俺はもういくぞ?殿下の頭に王冠を載せるのは俺の役目だからな」

 「そう、だね。ありがとう」



 緊張を緩和させるために必要ないのに直前まで控室に居てくれたアルフェイトに、ウィルトは感謝の言葉を述べた。



 「どういたしまして。……身分にかかわらず感謝の気持ちを伝えられるのは人としては美徳だが。王になったら気をつけろよ、お前の発言一つで家が興亡するから」







 ウィルトは微妙に物騒なことを言ってから退室したアルフェイトの、心の中では兄と思っている人の背中を見送った。入れ替わりに大勢の女官たちが仰々しい上掛けを持って入ってきた。灰色の毛皮で縁取られた、見るからに重そうな青い布で作られている。銀の糸で狼が縫いとられているのは王のみが着用を許された印としてよく目にするが、煌びやかさでは見たことがないほど飾り立ててあった。


 促されるままに立ちあがって、彼女たちが自分の肩に上掛けをかけ、留め具で止めていくのを姿見で見る。今自分が来ている服も重いが、上掛けにはさらに様々な衣装が施してあるためさらに重い。ずしりとのしかかる重さに意図せずとも眉間にしわが寄った。



 「ウィルト殿下。恐れながら申し上げます」



 女官たちに指示を出していた女官長がウィルトの前に膝をついて声を出した。



 「許す。述べよ」



 ウィルトの声に、伏せていた顔を女官長があげた。ふっくらとした笑い皺のついた顔だが、今日は真面目な硬いともいえる表情を浮かべていた。老齢に差し掛かったが輝きを失わない青い瞳が揺れることなくウィルトを見据える。


 ウィルトが王位を継ぐと決まった時から女官長は一事が万事この調子だ。騎馬訓練をサボった時に優しく、それでもしっかりと叱ってくれていたことを考えると寂しいような物足りないような気がするが、今まで通りにしろと命令したところで女官長が周りから顰蹙を買うだけだと理解できるぐらいにはウィルトは気がまわる。最初は面食らったが、ウィルトは自分が良ければそれで良い、と言いきれるほど図太くはない。仕方がないのであきらめて、女官長の接し方を受け入れることにした。



 「上掛けを重いとお思いでしょうか」


 「重いな」


 「これより殿下の肩に乗るはウィステルアーウィ王国百万の民の命です。その重さは私ごときに図れるものではございませんが」



 返答に困ったウィルトは、そのまま言葉を続けるよう促した。



 「今日この日、この上掛けを重いと感じたことをお忘れなきようお願い申しあげます。民の命とは比べようもなく軽いものだということも。

 殿下の一言でこの国が決まります。右と左、選択肢を誤ることで何十万の民が辛苦を舐めることにもなりましょう。その、ご自覚を」



 女官たちとともに入っていた狼霊府の若い巫女が上掛けのすそを持ち上げた。長く重いため、儀式に使うこの上掛けは巫女がすそを持ち歩くことになっている。女官長はすそを持ち上げた巫女に視線を移し、少しばかり微笑んで見せた。



 「そして、進む先は殿下のみがお決めになることですが、重さを減らすお手伝いならばできますゆえ。これより私どもは殿下の手足となり働かせていただきます。ゆめゆめ自分が一人であるとは思わないでいただきたいのです。……さ、お時間のようですね。行ってらっしゃいませ、殿下」



 女官長は跪いたまま一礼し、壁際に下がった。開かれた扉からは歓声が聞こえる。昨日までは豊潤王の喪に服していたのだが、今日は一転して新王の即位を祝う祭りだ。第二王太子が即位することになったことに多少の戸惑いの声が聞かれたが、所詮顔も見たことのない、言葉を交わすこともない相手だ。新王即位というめでたい言葉で戸惑いは打ち消され、空気は熱気を帯びて騒がしくなる。これからウィルトは、王になるのだ。女官長の言葉は重いが嬉しい。微笑んで、声をかけた。先ほどアルに注意されたばかりだが、これはかまわないだろう。




 「ありがとう、女官長。これからもよろしく頼むよ」






 露台に出ると熱気が直接叩きつけられるような気がした。即位する王を一目見ようと集まった国民の表情を見分けられるほどに近くはないが、男女のべつをつけられるほどには近い位置に露台は作ってある。警備をしている甲冑を身にまとった近衛騎士がいるため警備上の不安はないが、生きた人間の、それも大衆といっていいほどの数の人間の熱気には凄まじいものがある。表情に出さないものの、すこし気おくれしつつウィルトは王冠を乗せた台の隣に立つアルフェイト目指して歩いた。堂々と威厳たっぷりな演技は忘れない。


 狼霊府の長官は王以外に頭を下げる相手を持たず。名目上、この国に彼より立場が上な存在は王しかいない。無礼な発言などはとがめられるが、王でない王族に対して不敬罪が適用されることはない。だからこそ、戴冠式などというものが成り立つのだ。


 アルフェイトの前、あと五歩といったところでウィルトは片膝をつき下を向く。


 「ウィルト・ディイ・サッバシーア・シンシア・ウィステルアーウィ。水の精霊に祝福されたこの良き日に私、狼霊府長官アルフェイトは汝に王冠を授ける。水の精霊よ、これよりこの国を率いる彼に加護を」


 視界の端でアルフェイトの靴が近づき、ウィルトは頭に重さを感じた。靴がまた数歩下がるのを見てから立ちあがる。気がつけばうるさかった歓声は消え、張りつめたような静寂が辺りを覆っていた。誓いの言葉を述べようと口を開いたとき、大地を揺るがすような低い音が聞こえた。唸り声、それも人ではなく大きな獣の発する唸り声のようだった。騎士たちは先ほどと違い、民ではなく唸り声の主を警戒するかのように辺りを見回している。生きた獣の声ではないかもしれない、と表情に戸惑いを出さないようにしながらもウィルトは思う。どこから聞こえる唸り声なのか判然としないのだ。やがて唸り声はやみ、一拍置いて狼の遠吠えへと変化した。これは、海のほうから聞こえる。そして、狼はこの国の守護獣だ。あるいは自分の即位に箔をつけるためアルが何かをしたのだろうか、と思ってウィルトはアルフェイトの顔をさりげなく見たが、目があった彼は周りには悟られぬようにかすかに首を横に振った。


海の側から、というのは珍しいが、城を挟んで首都の反対側には山がそびえている。そちらには狼が生息しているしたまたま遠吠えをしたのだろうとウィルトは納得し、儀式を続けようと口を開いた。狼は守護獣であり、神聖なモノだというのはウィステルアーウィに住む人ならば生まれた時からすりこまれている。吉兆としてみなす人が多いだろう。


 狼の声だ、という囁きはどこからか広まり、民の視線は期待を増してウィルトに集中した。王冠が重い、と思いながらウィルトはアルフェイトに向かって数歩近づく。今度は逆にアルフェイトがウィルトに対して膝を折る。すでに狼霊府から王として認証され、王冠をかぶっている彼の身分は狼霊府長官よりも高い。



 「狼霊府長官アルフェイト、そしてこの場に居る我が民たちよ。しかと聞け。我はここに宣言する。水の精霊の加護のもとに、第八代ウィステルアーウィ王国国王としてさらなる繁栄をこの地に約束しよう!」



 途端、爆発的に歓声が上がった。国王陛下万歳、ウィステルアーウィ万歳、などの掛け声も聞こえる。ウィルトはしばらくその様子を眺めていたが、視線を先にやって眼を見開いた。一歩下がった場所で膝をつき控えていたアルフェイトは、かすかに身じろぎしたウィルトに不審を覚えたのか、顔をあげて視界を共有する。


 首都、サファーエルは港町だ。王城は川を上った先にあるため港がすぐに見えるほど海には近くないが、それでも露台のような高い場所からは遠くまで見渡せる。民の向こう、街の向こうから勢いよくかけてくる蒼い姿が見えた。四足で空を蹴る何か。見る見るうちに大きくなるそれに、アルフェイトは腰にさした杖に手をかけた。


 即座に抜いて戦闘態勢を整えなかったのは、周囲の安全確保のために散らしていた水霊が警告を発していないため。普段であれば即座に水でとらえるのだが、近づくその姿が鮮明になるにつれ驚きの表情を隠せない。水が形をとったように揺らめき、輝く蒼い狼。ウィルトが何か、と思ったのだが彼は身を強張らせて狼を見ているだけだ。とてもではないが何かをしているようには見えない。ただ、人前で動揺を表すなという王族の責務は心得ているようだ、演技がうまいとは思っていたがここまでとは、とアルフェイトは年下の『陛下』を見やる。水霊たちは警告を発するどころが喜びの感情をアルフェイトに伝えてくる。ウィルトは自分ほどではないが水霊との感応力があるはずだ、危険がないと判断したのだろう、視線の先で握りしめられていた拳は少しずつ緩んでいた。



 「陛下、危険はないようです。慌てて下がるわけにはまいりませんので申し訳ございませんがしばらくの辛抱を」


 「わかった。ところであれは建国記にある大賢者の狼に見えるんだが」


 「断定はできませんが、似通っているようには思います。水が狼の形をとった、と狼霊府では伝えられておりますので」



 そうか、とウィルトが呟くと同時に狼は大きく跳躍する。露台に面した広場に集まった民の頭上を超え、露台に降り立つと一度、遠吠えをした後に顔をウィルトの腰辺りに押し付ける。思わず、といったようにウィルトが手を伸ばし、狼の頭をなでる。見た目と異なり、少し硬い毛皮の感触がした。満足そうに頭を振った狼はそのままウィルトの影に足を踏み入れ、そのまま姿を消した。


 獣の登場にいったん静まり返っていた広場は誰かの聖獣だ、という叫びから混乱の渦に巻き込まれた。狼の形をしているが、狼ではない何か。国が祀る、水の精霊が形をとったような姿。貴色である青という、獣としては不自然な色をした何か。


 それは人々に伝説を思い起こさせるには十分なイキモノだった。









 「……びっくりしたぁ」



 控室に戻るなり、椅子に座って背中を丸めウィルトは呟く。対外的に演技していた堂々とした姿はどこへ消えたと言いたくなる態度だった。最も、アルフェイトはウィルトと十年近い付き合いがあるのだ。彼の演技している時としていない時の差に離れている。気がかりなことをすぐに質問した。



 「陛下、お体のほうに問題は?先ほどの狼、陛下の御影に」

 「居るのはわかるよ。でも使役霊みたいに僕の言うことを利くわけじゃないみたい。属性は水みたいだから相性は悪くないんだけど」

 「さようでございますか」

 「多分だけど他の誰かと契約してるんじゃないかな、もう。にしても本当にアルの敬語って気持ち悪いね」

 「……陛下」

 「今はだれもいないからいいだろ」

 「どこに耳目があるかわからんのだ、やるなら自室と執務室だけにしておけ。女官たちが来るぞ」



 やってくる女官たちに上掛けと王冠を渡す。おそらく宝物庫の責任者に渡され、次の祭典まで保管されるのだろう。



 「ちょっと疲れたけど、まだ続くんだよね、儀式」



 女官たちが去り、扉が閉まるのを見届けてからウィルトは声を出した。



 「そうだ。まぁ、形式的なものだが、狼霊府の水の間で大賢者に就任の報告をする。体調に本当に問題がないのであれば、このまま行きたいのだが」

 「じゃあさっさと行こう。大賢者の間ってあそこだよね?僕が立太子の儀をやらされたところ。床が氷で壁が水晶の」

 「そのはずだ。氷の下に人がいたか?」

 「いたいた。大賢者なんでしょ、あれ?黒い髪の綺麗な人。眼は閉じてたから何色かは分からないけど」

 「生きてるらしいぞ」

 「氷漬けなのにね。さすが大賢者」

 「さて陛下。ご案内させて頂きます」

 「ああ、頼む」



 部屋を出ると同時にアルフェイトは表情と口調を改める。その見事な切り替えに笑えばいいのか悲しめばいいのか微妙な感情を覚えながらウィルトはアルフェイトの後に続く。アルフェイトのほうもウィルトの切り替えに感心しているのだが、どうやらそれには気づいていないようだ。


 中庭をいくつか通り抜け、狼霊宮に正門から入る。多くの巫女や神官たちが出迎えているのに軽く頷き返しながら二人は奥の部屋へと足を進める。


 一番奥、普段人が立ち入ることのない一角の、重厚な扉の前でアルフェイトは立ち止った。体系的に魔術や精霊術を学んでいるアルフェイトにすら理解しきれない理由から狼霊宮の廊下は複雑怪奇な文様を描いている。新人は先輩がいないと指示された部屋に到着できず、慣れた人間でも気を抜けばすぐに迷うとあまり評判が良くない。改築されないのは、護国に必要な機構だと認識されているからである。


 そのような場所だからこそ、ウィルトにはすでに自分がどの方角から入ってきたのかもわかっていなかった。扉の文様は一つ一つ違って意味があるらしいが、それを理解できるのはやはり狼霊府の人間のみ。瑣末な模様の違いを見分けるのすら困難なため、ここが大賢者の間だ、とアルフェイトに言われてもそうなのか、という感想しか抱けなかった。



 「民の前での宣言と違って特に威厳を持つ必要もかしこまる必要もない。豊潤王も名前と王になるってことを適当に言っただけで終わったらしい」



 決まった型などがある儀式なのか、と尋ねたウィルトだったが、帰ってきた答えは実にやる気がなかった。



 「ふうん。なら僕もそれでいいや」



 促されるままにウィルトは扉の取っ手に手をかけ、扉を開く。そのまま足を踏み出そうとして息をのんだ。


 視線の先にあったのはは溶けることがないと思われた氷ではなく、かすかな空気の流れによって揺らぐ水面。


 そして、こちらに向かって無表情に手を差し伸べる、黒髪黒目の人間だった。

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