猫の子守歌

18782代目変体マオウ

第1話 猫の子守歌


 私は猫だ。いわゆる飼い猫だ。

 私は今、お気に入りの場所であるタンスの上で寝転んでいる。ただ今日は体調がおもわしくない。まもなく私は死ぬであろう。それは自分自身が良く理解している。呼吸をするのでさえ嫌に感じてくるくらいだから。

 外は湿気を帯びて、雨の匂いがしてきた。しばらくすると雨が降ってくる。その雨の音はは次第に強くなり、瞬く間に雨の音はバケツをひっくり返したような音に変わった。

 私はその音を聴いて「たしかあの時も雨が降っていたな」と懐かしむ。

 あれはたしか貴方に最初に出会った日のことでもあった。



あれは私がまだ子猫のときだった。

 親とも兄弟ともはぐれ、空腹になりながらも母親を探し、さ迷っていた。しかし、所詮は子猫。1日経てば疲れてしまい、動くことができなくなってしまった。その上、追い打ちのように雨が降ってくる。しかも、ただの雨ではない。それは重く、鋭く、私の体に突き刺さっていく様な雨だった。それでもなお、私は母を求め歩もうとする。

 意識が朦朧とする最中、そこに貴方はあらわれたのだ。

 貴方はたしか、私の行く手を阻む様に立ち塞がった。私がなんとか前へ進もうとするのを貴方は邪魔して、そのまま私を抱きかかえ、「可愛い」などと申して何処かへと連れさらった。

私は気付けば水気の多い、カビ臭い部屋に閉じ込められていた。

 私は不安になり逃げだそうとするが、出口は固く閉ざされていた。私はそれでも逃げようと、爪で引っ掻いた。そこに貴方は再び現れる。私は貴方の威圧感で恐怖を感じ、部屋の隅へ逃げた。そんな私を貴方は強引に引き寄せ、何をするかと思えば、貴方はたしか水をかぶせましたよね。なんたる拷問。それだけではない。貴方は何を思ったか、私の体に薬品を塗り立てましたよね。そしてさらに水。

 やっと拷問が終わったかと思うと、次は轟音を発する機械で私に熱風を浴びせましたよね。あんな不快な思いをしたのは生まれて初めてでした。まあ、うまれて間もない頃ですがね。のちに、それは人間が体を清めるための習慣だと理解したのは随分先の事です。

 ただ、拷問の最後に出された、あの温かいミルクはとても美味しかったです。

 問題なのは次の日でした。

 朝早くからというのに貴方は私に突っ掛かってきましたよね。その日は一日中追いかけっこをするはめに。

 それからというもの、貴方の顔を見ただけで逃げ出すという習性が身につきました。ええ。一般に呼ばれる嫌いというやつです。

 しかしあの時の私は、これ等の事をどうとらえたのか覚えていませんが、「この地獄の追いかけっこのあかつきには、生き延びた褒美として食事にありつけれる」という風に考えました。それを知ってしまってからは、この居場所から離れることができなくなりました。

 母を捜すことも忘れてしまい、気付けば私は既にここの住人と成り果てていました。



 ある日私は、後にお気に入りとになる場所、タンスの上で眠っていました。そこに何やら音が聴こえてきます。その音は決して不快な音などではなく、むしろ快感に聴こえる、心地よい音でした。

 私は重い目蓋を開けてみました。そこには貴方が椅子に座って、変わった形の黒い机に手をのばしている姿が映りました。私はもっと近くで聴こうと、貴方が居ることなど気にせずに、音源に近寄りました。しかし、その時に偶々映った貴方の姿は、いつもと様子が違った。いつもなら容赦なく私に飛び掛かってきたりするはずなのに、今はとても真剣な目で、かつ、楽しそうな目で、小さな手を精一杯動かしていた。

 貴方の一生懸命な姿を見ていたら、とても逃げようという気にはなれなかったのです。

 その時の私は音も立てずにその場で横になる。私は終わるまで音に聞き入った。

 数分経っただろうか。連続した心地好い音は終わり、貴方は立ち上がると同時に私に言った。

「おやぁ? 猫ちゃん。どしたのかな? いつもは逃げ出すのに。もしかしてピアノのが気に入ったのかな?」

 どうやら音を出していたのはぴあのと呼ばれる物だそうだ。

 私はぴあのを見上げた。だが、見た感じ、ただの塊があんなに素晴らしい音を出すとは到底思えなかった。

 その時に、ふと貴方の不敵な笑みが私の目に入った。現実に引き戻された私は、慌てて逃げ惑う。嗚呼。今思えば貴方の演奏の後は、いつも決まって鬼ごっこ。


 過去となった今、思い返せば、意外と貴方との鬼ごっこは嫌いではありませんでしたよ。

 私はある日、私もあの音を出してみたいと思うようになった。

 私は貴方の隙を見て、開かれたままの“ぴあの”の前の椅子へと座る。“ぴあの”を見れば、白と黒の模様が綺麗に並べられていた。私は恐る恐る前足を置いてみた。

 瞬間、低くも高くもない音が発せられた。

 私は、音が出ると知りつつも、柄になく驚いてしまったのを覚えている。

 しばらくして、音に慣れた私は、何度か音が出るように叩いてみた。

 たしかに音は出る。だが、違う。

 そこで私は、あの時の音は貴方だからこそ出た音なのであると、初めて理解した。


 それを知ってから私は、貴方がぴあので音を出すと知ると、誰よりもはやく急いで貴方の近くへ駆け寄った。貴方にしか出すことのできない音を聞くために。


 私は、特等席である貴方の膝の上で、いつも静かに聞き入っていた。その時の私は決まって目をつぶり、まるで癖のように、貴方が奏でるリズムに合わせて尻尾を振りまわしていた。

 私はどんなに眠くても、貴方の奏でる音を子守唄にするなどと、そんな勿体無いことは決してしなかった。それほど貴方の奏でる音はとても美しかった。


 貴方は、私がぴあのの音を好いているのだと知ると、毎日私のために奏でてくれましたよね。

 ですが、貴方は今でも少し解釈を間違えています。私はぴあのの音を好いているのではなく、貴方が奏でる音を好いているのです。似ているように思われますが、全く違うのです。どうか取り違えないで下さい。


 貴方の奏でる音はまるで貴方の心を写しているかのようだった。

 日々毎に心境が変わると同様、また、貴方の奏でる音も日々変わる。似たような音は聴けるかもしれないが、貴方の奏でる音には、同じのものは二つと無かった。だからこそ私は大切に聴き入った。

 私はそんな変化を知るのも楽しみの一つとしていた。

 時には聴くだけで貴方の甘い幸福感に包まれ、時には聴くだけで貴方の突き刺さるような怒りを感じ、時には聴くだけで傷口にしみるような貴方の深い哀しみを感じ、そして、聴くだけで、どうでも良くなるくらいの貴方の明るい感情がぬくもりとして私に伝わった。

 中でも特に貴方は、明るい音を私にたくさん奏でてくれた。また、私も貴方の明るい音が一番好きだった。


 しかし、ある日を境にそれは終わってしまった。



 私はある日、いつものように日が高くなる頃合いに目を覚ました。

 だが、起きてみるといつもと様子が違う。貴方はたしか“母さん”と呼ばれる人と言い争ってましたね。

 貴方はたしか母さんという人に、

「私は専門学校に行きたい!!」

 と、叫ぶように言ってました。

 しかし、貴方の想いがこもった悲痛な叫びの言葉もむなしく、母さんは全くそれを聞き入れずに、「国公立に行きなさい」と、冷たく貴方に言い放った。

 その時の私は、事情などさっぱり理解できなくて、薄情にも貴方が言葉に言い表せないほど苦悩しているにも関わらず、「行きたい所があれば、私のように好きな所へ行けばいい。何故、己の望む道を進まない」と、私は軽く思ってしまった。


その日の夕方、何かをするかということもなく、ただ貴方はぴあのの前に座っていた。

 私がその光景をなんとなく遠目で眺めていたら、貴方は私の視線に気付いたのか、私を見て力なく微笑んだ。あの表情は、死にかけている今でも鮮明に思い出せる。

 無理に目を細めて、つり上がりきらない口の端を強引に持ち上げようとして、目に涙をうかべたあの痛々しい笑顔。貴方のあんな表情は見たくもなかった。忘れることができるならば、すぐにでも忘れたかった。


 貴方はその表情を崩してぴあのに向かい合い、鍵盤を悲しそうな目で見つめ、目を閉じた。私には、その一瞬がとても長く感じられた。

 貴方は目を閉じたまま、ゆっくりと鍵盤に手をのばし、目を開ける。

 しかし、貴方の真剣な目は、どことなくいつもと違ったように感じた。

 私は貴方が奏でる音を聴こうと思い、気にすることなく貴方の下へ駆け寄る。

 その時に私は、貴方を近くで見てその違和感に気付いた。真剣な目付きの影に見え隠れするはずの、楽しそうな無邪気な雰囲気が感じ取れなかったのだ。

 私は貴方の奏でる音に耳を傾ける。その音は今まで聴いた中でも、ひどく美しい旋律を奏でていた。だが、反面、哀しい感情と怒りの感情がひしひしと私に伝わった。

 あまりに美し過ぎて、あまりに哀し過ぎて私は耳を覆いたくなった。何故か。それは聴くだけで貴方の感情に呑み込まれそうになったからだ。

 だが、私は耐えた。

 しかし、私は気付けば尻尾でリズムをとることを忘れ、結局貴方の感情に呑み込まれて涙していた。

 聴いてる内に、だんだん私は本来の目的を忘れて、聴くのではなく、貴方そのものを感じようとしていた。

 私は貴方を見上げ、見つめる。

 真剣な目付きで、涙を流しながら必死に引いている姿を見て、何を思っているのか分からない筈がなかった。



 美しかったあの姿は、今ではもう私の記憶にしか存在しない。



 貴方はあの時、外が真っ暗になってもなお、ずっと奏でつづけましたよね。ぴあのと心を使ってずっと。

 あれはきっと、母さんに対する最後の訴えであり、貴方の泣き声だったのですよね。


 貴方は奏で始めて、約二時間後。貴方の演奏は、ついに終わってしまった。

 貴方はゆっくりと立ち上がり、涙もぬぐわず、消え入りそうな優しい温かい声で私に言った。

「たま。私の曲、よくも飽きもせずに毎日聴いてくれたよね? 最期まで聞いてくれて有り難う」

 そう言った後、わしゃわしゃと私の頭を撫でて、静かに部屋を出ていった。


 一人取り残された私は、貴方の言葉の意味をぼんやりと考えた。『最期まで』とはどういう意味なのだろうと。


 貴方はその日からぴあので奏でてくれることはおろか、ぴあのに触れることさえなくなった。私がどんなに貴方にせがもうと、「ごめんね。私は辞めたんだよ」と、言い返されるだけだった。

 私はこの家に来て初めて、何故か孤独を感じた。


 それほど貴方の奏でる音は、私にとって大きな存在となってしまっていたのだ。

 それなのに。



 これはもう五年も前の話である。

 五年という月日が過ぎたにも関わらず、私ははっきりと覚えており、また、貴方もぴあのには触れていない。

 未来は見通してみれば長くて、過去は振り返ってみると短い。一生とはそんな物だ。

 なのに何故貴方はこだわるのですか?

 どうか私の最後に一曲奏でて下さい。もう五年も経った。もう十分でしょう。もしかして、貴方の時は止まってしまわれたのですか。いや、そんな筈はない。

 私はそんな思いを巡らせながら、文字通り死力を振り絞り、タンスから降りようとして落ちた。

 私は背中を打ち付ける。痛くはない。

 ただ、眠気と脱力感が私の身体を支配している。だが、それでも私は構わず前に進もうとする。

 そこに貴方が私の身を案じてか、「お前大丈夫なのか? 変に落ちたぞ?」と言って、私の前でしゃがみこんだ。


 一瞬、貴方と初めて出逢った時の光景がだぶる。雨の中のあの光景。


 私は本当に明日の朝日を拝む事ができないのだろうと悟った。

 それでもかまわない。貴方の奏でる音を聴けるのならば。

 そう思い、全ての力を使って貴方を横切り、たった数メートル前のぴあのにやっとの思いでたどり着いた。

 私は「ニャー」と一鳴きしてピアノをトントンと二回叩いて、貴方に音を奏でるようにせがんだ。そこで私は体力の限界を迎え、横になり、後は尻尾を振りながら貴方を待つだけとなった。

死にかけている状態では辛いものがあった。気を抜けば、すぐに意識が何処かへ飛んでしまいそうだ。

 私は必死に尻尾を振って、意識を保とうとした。


 貴方はあの日以来、触ることもなくなったはずの椅子に座って私に言った。

「本当にこれで最期だからね」

 と。

 貴方の何がそうさせたのか分からないが、今となってはそんな事などどうでも良かった。待ちに待った瞬間だ。文句などあるはずがない。

 私は残された力を使って貴方を見上げた。貴方の目はたしかに楽しそうだった。だけども、あの時と違って真剣な目は映し出されておらず、落ち着いた雰囲気が印象的だった。

 貴方の時は止まってなんかいない。間違いなく時は進んでおり、貴方も今を進んでいた。

 何故か、そう強く思い、そして何故か安心した。


 今、貴方は朗らかな笑みを浮かべながら、優美に手を動かし、ゆったりとした音を奏でている。

 私はその素晴らしい音色の最中に、「私はこの世で何番目の幸福者なのだろう…」と、そんな下らない事を思いながら、演奏中の貴方に気付かれないように、静かに自分の意識を手放した。



 はたから見れば、それはまるで子守唄ような光景だった。そう、まるで猫への子守唄。

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