◆八、夢の灯火
階段を上ったその先は、少女の家の目の前だった。日は沈んで、頭上には夜空が広がっていた。通りの街灯は明るく灯されていた。にもかかわらず、頭上の夜空には普段なら見ることができない、名前も知らない細かな砂粒のような星々が輝いていた。
あたりを見回してみると、先ほど上ってきたはずの階段が消えてしまっていた。そして人が誰もいないかのように真っ暗な家々の中に、少年の家がないことに少年は気がついた。少女の家の隣に少年の家があるはずなのだが、少年の家のあるべき場所は空き地になっていた。少年はその光景に背筋が凍るような思いがした。
少女が少年の手を取って、少年を家の中へと招き入れた。
少女の家の中は幼かった頃とほとんど変わっていなかった。その頃毎日のように感じた少女の家の独特の匂いが少年の鼻をかすめた。二人は玄関の目の前の階段を二階へと上がった。
少女の部屋は以前と比べてさっぱりとしたものになっていた。さくさんあったぬいぐるみもなくなり、カーテンやカーベッドもシンプルな柄の物に変わっていた。少女は押し入れを開けて、布団の仕舞われている上の段に飛び乗ると、少年の方へ手を差し出した。
「またここで遊ぼう」
少年が少女の手を掴んで押し入れに飛び上がって、押し入れを閉めると、二人を暗闇が包み込んだ。その刹那、押し入れの中は、うっすらと青色の明かりに満たされた。少年の上着のポケットから青色の光が漏れ出していた。
少年はポケットから星を取り出した。青白くゆらゆらと揺れる光を放っていた。揺れる光が少女と顔を青白く照らし、壁に影を映し出していた。
「小さな頃もこうやって遊んだよね」
少女は器用に鳥や犬やウサギなどの形を手で作って、その姿を壁に映し出した。
「小さい頃はこうやって、毎日毎日押し入れで遊んでたのにね…… どうしてだろうね……」
少年の脳裏にはおぼろげな、幼い頃の記憶がよみがえっていた。
「有海ちゃんの、お義父さんのせい……?」
「それもある……」
少女は目を伏せた。
「私の本当のお父さんは、本当に優しいいい人だった。私のことを本当に愛してくれた。でも、突然死んじゃったの。覚えているでしょう……」
少年は少女の父親の葬式を思い出していた。
「今のお義父さんはそんなときのお母さんを支えてくれたの。お金の援助とかしてくれた…… それで、結婚したの……」
少女の目元がきらきらと光ったような気がした。少女は徐々に涙声になっていった。
「でもね、お義父さんはね、理由があって結婚したの…… 何だと思う……? 私だったんだよ…… 私目当てでお義父さんはお母さんと結婚したんだよ…… 私、お義父さんに何度も殴られたりしてるけど、それだけじゃない…… 何度も何度も体見られたり…… 体触られたり…… したの……」
少年は雷に打たれたような衝撃を受けた。心臓が鷲掴みにされたかのように胸が苦しくなり、言いしえない鈍い感覚が腹の底から湧き始めた。
「そんな……! ひどいよ……!」
少年は他に言うべき言葉を思いつくことができなかった。不安とも焦燥感ともつかないような何とも言い難い感覚に加えて、いてもたってもいられないような思いに少年は見舞われた。
「ひどいと思ってくれる……?」
少年は黙って頷いた。少女は涙ぐみながら、真顔で少年をまなざしていた。少女の少し吊り上った目が眼鏡越しに少年を睨んでいるようにすら見えた。
「どうして……? どうしてひどいって、思ってくれるの……?」
「どうしてって…… 決まってるよ…… 女の子にそんなことするなんて…… ひどいことだよ…… だって、嫌がってるのに……」
「あのね…… 嫌じゃ…… なかったんだ……」
少年は言葉を失った。
「私、嫌だって思ったこと、ないわけじゃないよ。嫌だって思ってばっかりだった。でも…… ちょっとは嬉しいとか、思ったりしちゃってた……」
「嘘だ……」
「嘘じゃないよ…… これが私の本心」
「じゃあ、どうして……?」
「どうしてって……?」
少年は、自分が何を疑問に思っているのかを分かっていなかった。分かっていなかったのだが、少年はなぜか、少女に裏切られたような気持になっていた。
「有海ちゃんひどいよ!」
「ちょっと…… 怒らないでよ……」
「怒ってなんてない!」
少年は力いっぱいの声で怒鳴った。
「待って…… 最後まで話を聞いて…… さっき話したのは確かに私の本心なの…… でもね、それで全部じゃない。聞いて…… 私、康介のこと好きだったんだよ」
少年はその言葉に息を呑んだ。どろりと重い感覚の中に一抹の喜びが生じたが、それは苦しみを打ち消すほどの強さを伴ったものではなく、むしろ少年の中の疑問と不快感を増長させるばかりだった。
「じゃあやっぱりどうしてなの!?」
「康介は、小さい頃押し入れの中でどんなことしてたか、覚えてる……? 懐中電灯を持ち込んで、影絵を作って…… それからお互いの体をを照らして、遊んだよね……?」
少年の脳裏に突然幼い頃の記憶がまざまざとよみがえった。あの時の肌の感触や空気の質感までもが思い出されるかのようだった。
――少女の持った懐中電灯が少年に向けられる。その光が少年の体を照らし、少年の体の形の影が映し出される。今度は少年が懐中電灯を持ち、光を少女の方へ向ける。少女の体が照らし出される。少女の背後にその体の形のままの影が映し出される。――
「康介、思い出した……?」
少女が少年の目の前まで近づいてきて、顔を覗き込んでそう言った。
「また、する……?」
「いや……」
「どうして……?」
「なんか、やだ……」
「お義父さんのせい……?」
少年は黙って頷いた。
「そうだよね…… あのときもそうだった……」
「あのとき?」
「私たちが小さかったとき。康介、覚えてないのかもしれないけど、私とお義父さんのこと、康介は見たはずなんだよ。だって、それから私と遊ばなくなっちゃったんじゃない。私…… 康介のことが好きだって、ずっと一緒にいたいって、将来大きくなったら結婚しようって、言ったのに……」
「そんな…… 全然覚えてないよ……」
少女がきっと少年を睨みつけた。
「忘れたなんて言わせない。たとえ本当に覚えていないのだとしても、私、許さない。私、嫌じゃなかったって、さっき言ったけど、でも、助けてほしかった。康介にずっと助けてほしいって思ってた。でも、康介は助けてくれなかった…… それで康介は自分だけ忘れちゃった……」
「有海ちゃんの言ってること、分からないよ! 嫌じゃなかったのに、助けてほしかったって、おかしいよ! 分からないよ……」
「康介だって喜んでたくせに!」
「何が……?」
「その星のことよ!」
少年は脳天を叩きつけられたような感じがして、どろどろと罪悪感に浸されていった。
「私、見たんだからね。あの日、康介があのおじさんと何してたのか、私、知ってるんだからね。康介、嬉しそうだった……」
「ちょっと待って! あれは……」
「許さない」
そのときだった。少年の持っていた玉の青白い光が徐々に弱まり始め、ついに消えてしまった。その刹那、めらめらと炎の燃えるような赤々とした光が押し入れの中で輝き始めた。少女はいつの間にか手の中に赤い玉を握りしめていて、それがまさに炎を帯びて燃えていたのだった。透き通った、不思議な炎だった。
「私、本当に康介のこと好きだった。その気持ちは、嘘じゃないよ…… でも、もう遅いの」
そう言うと、透明な炎は一気に少女の全身を包み込み、それは押し入れ全体へと広がった。
「康介、どうして私が康介のことこんなに好きだって、分からないの?」
少女の声が炎の中で不思議にこだました。
*
少年はまぶたにちらちらと揺れるまぶしさを感じて、自室のベッドの上で目を覚ました。何かの燃えるような焦げ臭さが鼻をついたと思うと、部屋の中にうっすらと白い煙が流れ込んでいた。窓の外を見ると、あたりは白い煙に包まれていたが、窓の向かいの少女の家が燃えているのが分かった。
少年は血の気の失せるような気がしたが、すぐさま上着を着込んで部屋を飛び出した。部屋を出るところで少年は母親と父親に出くわし、三人で急いで家を出た。
家の前は白い煙に包まれていて、ほとんど何も見えなかった。煙で息をするのも苦しいので、そこから離れることにした。家から十数メートルほど離れたところで煙が薄くなったが、そのあたりには人だかりができていた。人々は不安と好奇心とをないまぜにしたようなまなざしで、火事を見つめていた。
そのうちすぐに消防車がサイレンを鳴らして何台もやってきた。少年は人だかりの中を歩き回ってみたが、どこにも少女の姿が見当たらなかった。
一人の女性が消防隊員にしがみついて泣き叫んでいた。
「お願いです! まだ中にいるんです!」
「お母さん、危ないからここで待っててください!」
「まだ中にいるんです!」
「僕たちが探しますから」
「有海が! 有海が!」
少年はそれを聞いて息を呑んだ。人だかりを作っていた人々は思い思いのことを口にしていた。「かわいそうにねえ」「子どもを残して逃げてくるなんてねえ」「あの家再婚なのよ」「旦那さんが暴力ふるってたみたいよ」
消防隊員は少女の母親を置いてどこかへ行ってしまった。少女の母親は地面にぺたりと座り込んでしまった。
消火活動は日が上るころまで続けられた。家は半焼で済んだようだった。
消防隊員が少女の母親のもとへと駆けつけて状況を報告していた。
「一階の部屋で、一人の男性の遺体が見つかりました。旦那さんかもしれません…… それで、お子さんなのですが…… 二階をくまなく捜索してみたのですが、見つけることができませんでした……」
少女の母親は憔悴しきっているようで、がたがたと震えていた。今にも倒れてしまいそうだった。
「二階の部屋なのですが、おそらくここがお子さんのお部屋だと思うのですが、ここが火元のようです。不思議なことに部屋の押し入れが最も激しく燃えていました。何か心あたりはありませんか……?」
少年は胸のあたりがすうっと冷えて、腹の底から恐ろしい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。少女はあの世界を終わらせて、どこでもない場所に、今も一人で漂っているよう思われたのだった。少年はそれを伝えようと思って少女の母親と消防隊員のもとへ寄ったが、何も言い出すことができなかった。
「あら…… あなた康介くん……? ごめんね、こんな騒ぎになっちゃって」
少女の母親は今にも泣き出しそうなのを抑え込んでいるようだった。
「有海…… いなくなっちゃった……」
母親はこらえきれずに涙を溢れさせた。少年は、さっきまで少女と一緒だったということを言おうかと思ったが、言葉が喉につっかえて何も言い出すことができなかった。少年の内には様々な思いが複雑に交錯していて、それが胸を締め付けていた。
「有海と仲よくしてくれて、ありがとね…… もし有海が見つかったら、またよろしくね……」
母親が涙ぐんでそう言ったとき、警官が母親を呼び止め、二人はどこかへと歩いて行った。
*
それから少年は一人で自宅へと戻った。少年の部屋の中にも、まだ焦げ臭さがほんの少し感じられた。少年は押し入れを開け、中にしまってあった布団の上に身を投げると、内側から押し入れを閉めた。少年はその上に横になって目を閉じた。少年は深い眠りへと落ちて行った。その先に、少女がいるような気がしたのだった。
(完)
星を買った少年の、心と夢 響きハレ @hibikihare
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