◆七、イチゴの飴玉
少年は気がつくと、電車のロングシートに腰かけていた。電車はどこかの駅に停車していた。駅はどこかの建物内部に作られているようで、窓はなく、その外側の様子を見ることはできなかった。駅の中には案内板の他に掲示物は見当たらず、明るく灯された電燈を反射した真っ白な壁には清潔感があった。
駅内部に人影はなかったが、開いていたドアから、一人の小さな女の子を連れた夫婦が乗車して来た。三人は少年の反対側のロングシートに、女の子を真ん中にして並んで座った。女の子はこちらに背を向けて窓辺に手をかけて外を覗き込んだ。女性が女の子の靴を脱がせて座席の下に並べて置いた。男性は座ったまま振り返り、女の子の視線の先を追った。
車内アナウンスもなく、突然駅の発車ベルが鳴りだした。ベルが鳴り終わると、一斉にドアが閉まり、電車はゆっくりと発進した。すぐに電車は駅舎を抜けて外へと出た。電車は住宅街の上の高架を静かに走っていた。柔らかく差し込む夕日のオレンジ色を、夕日を照らす海原のように、広がる家々の屋根がきらきらと反射させていた。
ふと気づくと、少年の右隣には焦げ茶色のダッフルコートに身を包んだ三つ編みの少女が座っていた。少年と少女の二人と、反対側の三人の他には、電車の中に人影は見当たらなかった。少年は少女に、いつからここにいたの、と聞こうとしたが、先に少女が口を開いた。
「私たち、ずいぶん遠くへ来てしまったみたい」
少女は自分の右側から肩越しに窓の外を振り返ってみていた。少女の表情は少年には見えなかった。少女の言葉を聞いて、少年は、そうだ僕たちは一緒に出掛けて来たのだった、と思い直した。それから少女は正面へと向き直り、反対側の三人をちらと見てから目を伏せて口を開いた。
「仲の良さそうな家族よね」
少女の小さな声は、なんだか震えているような気がした。少年は「そうだね」と言ったが、何だか何かを忘れているような気がして、少し寂しいような心持がした。
横目で隣の少女を見ると、うつむいて肩を震わせているようだった。気分でも悪いの、と聞こうとしたが、少年はなぜか言葉が口をついて出なかった。だが、気づくと少女の目の前に、反対側に座っていたはずの小さな女の子が立っていた。女の子は少女に話しかけた。
「お姉さん、だいじょうぶ?」
少女はゆっくりと顔を上げて女の子の目をまっすぐと見た。女の子の表情は本当に少女を心配しているように見えた。女の子の目を見ていた少女の目には、涙が浮かび始めた。
「これ食べて元気出してね」
女の子は手を出して少女に何かを渡しながらそう言って、満面の笑顔を見せた。受け取った少女の手の中には、イチゴの絵の描かれた袋で閉じられた一つの飴玉があった。
「甘いね」
少女は袋を開けて飴を口に放り込んで、女の子に言った。女の子は「そうでしょ」と笑顔で言った。
それから女の子はすたすたと歩いてもといた座席へと戻った。反対側の、女の子の両親に、少女が無言で会釈をすると、二人は笑顔でそれに返した。
しばらくすると電車はまたどこかの駅舎へと入った。電車は速度を下げ、この駅に停車するようだった。録音された女性のアナウンスが車内で自動再生されたが、何を言っているのか聞き取ることができず、それが何語であるのかも分からなかった。車内のドアの上に設置された電光掲示板には唐草模様のような、見たことのない模様が流れて行った。
電車が停車すると、反対側に座っていた三人は立ち上がり、電車を降りて行った。そのとき、男性と手をつないでいた女の子が振り返り、空いていた方の手を少女に向かって振った。女の子は満面の笑みを浮かべていた。少女も僕の隣で小さく手を振り返して、女の子を見送った。電車から降りた三人は階段を下り、視界の外へと消えて行った。
駅内部は先ほどの駅によく似たつくりになっていて、明るい電燈の光を白い壁が反射させていた。やはり駅に人影はなく、不思議なほど静かだった。電車はそれから数分ほど駅に停車していた。
しばらくするとさっきまで電車に乗っていた三人がまた駅に現れ、電車に乗り込んで来た。それからすぐに発車ベルが鳴りだし、ドアが閉まると電車がゆっくりと動き出した。
電車が発進してから、三人は少年の反対側のロングシートに並んで腰かけた。男女が並んで座り、女性を真ん中にして男性とは反対側に女の子が行儀よく座っていた。よく見ると、三人はさっきと少し見た目の印象が違っていた。女の子は少し背が大きくなり、顔はほんのちょっと成長したように見えた。女性の髪には数本の白髪が混じり、顔には少ししわが増えていて、少し痩せたようだった。
二人の印象で最も違って見えたのは、その表情だった。二人ともさきほどのような明るさはほとんど見られず、口は固く結ばれて、少しうつむいているように見えた。かなり疲れているようだった。
男性はと言うと、まるっきり別人だった。さっきの男性とは全く異なった別人がそこにいた。さっき見たような優しい面持ちの男性ではなく、眉間にしわが寄っていて、神経質そうにちらちらとあちこちに視線を泳がせながら、腕を組み、足をぴくぴくと動かして、落ち着きがなかった。男性と目が合うと、少年は睨まれたような気がしてすぐに視線を逸らした。
電車は静かに住宅街の上の高架を走っていた。日は少し傾き、空のオレンジ色はより暗い朱へと染まり始めていた。空に浮かんでいた薄い雲に影が差していた。少年は振り返り、背後の窓から外を見ると、東の空はもうほとんど暗い青に染まった夜空になりかけていた。いくつかの明るく光る星があった。
ふと気がつくと、少年の向かいに座っていた女の子がうつむいて、涙を手や袖で拭き取りながら、しくしくと泣いていた。隣に座っていた女性が女の子の頭を撫でながら、顔を覗きこんで何か話しかけていた。男性は腕を組んで座ったまま、落ち着きなく足を動かしたり辺りを見回したりしていた。少年は男性のまなざしに捉えられないうちに、男性から目を逸らした。
すると突然、隣に座っていた少女が立ち上がり、向かいに座っている女の子のもとへとまっすぐに歩いてゆき、女の子の目の前でしゃがみ込むと、コートのポケットから何かを出してそれを女の子の前に差し出した。
それに気がついた女の子は、目から涙を零しながら少しきょとんとしてそれを見ていた。それはイチゴの絵の描かれた袋で閉じられた、一つの飴玉のようだった。女の子がちらと隣に座っていた女性の方をうかがうと、女性はすぐさま飴玉を差し出していた少女の手を取って押し返した。
「受け取れません」
やや強い口調だった。それでも少女は引き下がらなかった。
「ただの飴玉ですから…… それに、彼女へのお礼もありますし……」
「お礼?」
「とにかく、この飴をこの子に上げてください」
少女は空いていた方の手で女性の手を掴んで開き、そこに飴玉を置いてそれを握らせた。そのときだった。
「お前、ごちゃごちゃうるさいぞ。俺たちに何か文句でもあるのか」
女性の隣に座っていた男性が、顔を赤くして立ち上がり、しゃがんでいる少女に向けて怒鳴ったのだった。怒鳴られた少女は、驚いてびくんと小さく跳ね上がったようだった。だが少女はその男性を睨みつけているようにも見えた。少女は黙ったまま何も言わなかった。
「何だ!? どいつもこいつも生意気だな。ふざけやがって」
男性は唾を飛ばしながらそれ以外にも怒鳴り散らしていた。女性が立ち上がって男性の肩に手をやって何やら小声で囁いていた。男性をなだめているようだった。それから男性がぶつぶつと言いながら座席に座り、女性は少女に軽く目礼して座った。少女は黙ったまま立ち上がり、自分のもといた座席へと戻ってきた。少女のその様子を、女の子は静かにじっと見つめていた。
気がつくと電車はどこかの駅舎へと入っていた。録音された車内アナウンスが流れたが、やはりそれが何を言っているのかは分からなかった。ドアの上の電光掲示板に唐草模様のような模様が流れていた。
電車が停車すると、向かいに座っていた三人は立ち上がり、電車を降りて行った。明るく電燈を灯した、白い壁の駅だった。女の子は女性と手を繋いでいて、ちらとこちらを振り返ったが、その顔は無表情だった。繋いでいない方の手は、降ろしたままだった。
三人が階段を降りて見えなくなるころ、発車ベルが鳴りだし、誰も電車に乗ってこないままドアが閉められ、電車はゆっくりと発進した。電車の中には少年と少女しかいなかった。
「あの子、これからきっとひどい目に合う……」
少女がまっすぐと窓の外の駅を見つめながら、小声でそう言った。
「どうして、分かるの?」
少年が聞き返したが、少女はそれには答えることなく言葉を続けた。
「あの男が暴力をふるうのよ。あの子と、あの子のお母さんに…… 毎日、毎日……」
少女は視線をまっすぐ向けたまま、微動だにしなかった。
電車は駅舎を抜け、ほとんど日の沈みかけた街の中を走っていた。窓の外には、夜の明かりを灯し始めた家々と、その中心にそびえ立つ都市中心部の高層建築群の姿があった。高層建築群は窓の明かりを星空のように照らしていた。
「あの子はお母さんを守りたかったのね。でも、違ったの。男は暴力をふるうことなんて、二の次だったのよ……」
少女はそう言うと、うつむいてぽろぽろと涙を流し始めた。涙が膝と膝の上で握りしめた手の上にぽたぽたと落ちた。
「男の目的は…… 最初から、あの子だったのよ……」
少年はそれを聞いて内臓を鷲掴みされたような気がした。少年は何も言いだすことができなかった。それからしばらくの間、沈黙が二人を包み込んだ。
「お母さんは許してくれるかな……」
少女はぽつりと独り言のように言葉を漏らした。
「これでよかったのかな……」
何のことを言っているのかは分からなかったが、まるで自分に言い聞かせているようだ、と少年は思った。大丈夫だよ、と言いそうになってしまったが、結局少年は何も言うことができなかった。
窓の外の高層建築群が少し電車に近づいて、光を散りばめたかのような窓の明かりや、空へと発信する航空障害灯の赤い光が少年の目に入ってきた。少年はぼんやりと、点滅する航空障害灯の光が、何かの燃えている炎のようだと考え、それからそこにはきっと誰かが待っているのだ、と思った。そう思ったとき、電車はまたどこかの駅舎へと侵入した。
*
明るく照らされた真っ白な壁の駅には、誰もいなかった。電車は長いこと停車していて、一向に発車する気配を見せなかった。少年は次第に、自分たちはここに取り残されてしまうのではないかと思いはじめ、そわそわしてきた。
いてもたってもいられず、少年は電車から駅へと降りて、ホームを歩き回ってみることにした。階段のないホームは広く、天井も高く、明るく照らされた真っ白な巨大な空間がトンネルのように開けていた。ホームを歩いていても、乗客はおろか、駅員や車掌の姿も見受けられなかった。ただ少年の足音だけが駅の中で聞こえていた。
電車の端の車両までたどり着くと、その先にはレールがなく、ここが電車の終着駅だったということに少年は気づいた。そしてその先にはたくさんの自動改札が並んでいた。それを見た少年はすぐに走って引き返した。
少年がもといた車両まで戻ってきたとき、ちょうど少女が電車から降りてくるところだった。少女が電車を降りると、電車のドアが一斉に音を立てて閉まり、電車内部の電灯が全て消えた。内部が薄暗くなった電車は静かに発進し、もと来た方へと走って行った。電車が見えなくなる頃には、その走る音はほとんど聞こえなくなっていた。
二人でそれを見届けると、少年は少女の手を取った。
「向こうに改札があるんだ」
指を指して改札の方を示すと、二人はそちらの方へと歩き出した。
自動改札に近づくと、バタンと扉が閉まって通り抜けることができなかった。あたりを見回してみても、二人の他に駅員のような人影は見当たらなかった。少年は扉の閉まった自動改札を乗り越えようとしたが、少女に手を掴まれてそれを止められた。見ると、少女は首を横に振った。少女の顔は少し困ったような表情をしていた。
「やっぱりそういうことはよくないと思う」
少年は乗り越えることを思いとどまり、もう一度あたりを見回してみたが、改札を通り抜けるほかに駅から出る道はないようだった。どうしよう、と考えながら上着のポケットに手を入れてみると、そこには玉を入れた木箱があった。その中から水色の玉を取り出して、それを改札機のセンサーにかざしてみた。すると、ばたんと音を立てて扉が開き、二人は改札を通り抜けることができた。
改札を通り抜けた先の左側には券売機が並んでいて、右側には上階への階段があった。少年はふとそのとき、電車がずっと街の中の高架の上を走っていたことを思い出した。ならば駅の階段は下へと向かっているべきなのではないか、と少年は不思議に思った。
少年の心臓が強く鼓動し始めた。少年は緊張していたが、深呼吸してから少女の顔を見た。少女は階段の上をじっと見つめ、口を堅く結んでいた。少女が先に階段を上り始め、少年はそのすぐ後を追って階段を上った。
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