◆六、ケンタウルスの失われた瞳

 少年が空を見上げながら歩いていると、一機の飛行機がぴかぴかと赤い光を明滅させながら飛んでゆくのが目に入ってきた。少年は歩みを止め、空を進む飛行機をじっと見つめていた。空高く飛んでいるように見えるのに、空気を切り裂く轟音が耳に伝わってきた。飛行機の後にはまっすぐと雲が伸び、風に吹かれてふわふわと揺れ、薄い絵の具が水に溶けて見えなくなるように、空の中に溶け込んで消えて行った。部屋の窓から見えたのはこれだったに違いない、と思って少年は再び歩き出した。


 そのとき少年に話しかける声があった。

 「また人間が脱走しているわ」

 少年はその声がどこから発せられたものなのか分からず、あたりをきょろきょろと見回すと、塀の上にいた猫と目が合った。体はほっそりとしていて、つやのある毛並みは青みがかった灰色で、逆三角形の顔の目は満月のように黄色かった。猫はじっと少年を見つめていた。

 「あなたお散歩? お散歩するならご主人様と一緒じゃなきゃだめじゃない。あなたどこの子?」

 少年は猫のいる塀に近づいて、猫を見上げながら尋ね返した。

 「君が話しかけてきたの?」

 「そうよ」

 「猫って喋るんだね」

 「失礼ね。この世界にはいろんな猫がいるのよ。猫が話すなんて当然でしょう」

 猫の表情は分からなかったが、その顔は気品のあるものに見えた。

 「それで、あなたのご主人様は?」

 「ご主人様って何のこと?」

 「あら、だってあなた脱走しているじゃない」

 少年はそのとき自分がどのようにして家を出てきたかを思い出していた。

 「あれは脱走なんかじゃないよ…… ただ散歩してるだけなんだ」

 「でもあなた一人なんでしょう。お散歩はご主人様と一緒でなければだめなのよ」

 「君の言うご主人様って何のことなの? 僕はまだ子どもだけど人間だし、僕のご主人様って誰のことなのか分からないよ」

 「何よ、そんなことも知らないの? もしかしてあなた自分が人間だからって自分が自分の主人だとか、自分に主人はいないだなんて思っているんでしょう。そんなの大間違いよ。あなたを飼っているご主人様がいるのよ」

 「そんなのいないよ。だったら君のご主人様はどこなの?」

 「失礼ね。私にご主人様なんていないわ。むしろ私が飼っているのよ。けれど、どれもあなたみたいに勝手に脱走してしまって、とても世話が焼けるのよ……」

 そう言って猫はまるでため息をついたように見えた。

 「君は何を飼っているの?」

 「私のところには人間が三人いるわ。とても手のかかる人間がね。でもさっきも言ったけど勝手に脱走してしまうし、私の言う通りにごはんを出さないし、私が遊びたいときには相手しないし、一人でいたいときに構ってくるし、こたつを片付けてしまうし…… 何より掃除機で私を脅かしてくるのが許せないわ。みんな私のことちゃんとご主人様だって分かってるのかしら」


 そのとき、遠くで何か巨大なものが衝突して、爆発したかのような音が、地鳴りとともに伝わってきた。音のした方を見ると、何かが燃えているかのように煙が上がり、赤い光が空を照らしていた。猫は塀の上で立ち上がって空を見上げ、何かを感じ取っているようだった。

 「さっきの飛行機が墜落したみたいね」

 猫は低い声でそう言うと、ひょいと塀から降りて少年の足元へ寄ってきた。

 「あなた、星を持っているでしょう。それも上等な流れ星を」

 猫は顔を上げてまっすぐ少年を見つめてそう言った。少年はまるで隠していた悪事を見透かされたかのような気がして、どきんと心臓が強く胸を打つのを感じた。辺りにうっすらと白い煙が流れてきていた。煙は焦げた臭いをともに運んできた。

 「あなたを呼んでいるのよ」

 猫は真剣なまなざしで少年を見つめていた。

 「行きなさい。あなたを待っているわ。お遊びはもうおしまいなのよ。今日は一緒じゃないみたいだけれど、あなたのご主人様がこの世界の主なのね。それはあなただ、ということでもあるのだけれど、ちょっと違う。それはともかく、あなたのご主人様がこの世界を終わらせようとしている。だからあなたは急いでそこへ行かなければならないの」

 少年は猫の言っていることがさっぱり理解できなかった。誰か少年を待っているような人がいただろうか。少年は実感が全く持てなかった。

 「あの角を曲がってまっすぐ行きなさい」

 猫は白い煙に包まれつつある道の方へ顔を向けて道を示した。

 「私がついて行ってあげたいのだけど、私はその角までしか行かれないの。でも、あなたなら一人でも大丈夫。きっと辿り着けるわ」

 猫の表情はやはりよく分からなかったが、その顔はなんだか笑っているように見えた。

 「ありがとう」

 「早く行きなさい」

 角を曲がる前に振り返り、白い煙で視界が悪くなる中、猫に大きく手を振った。猫は地面に座って、じっと少年をまなざしていた。


 *


 角を曲がると、その先は少し開けたゆるやかな上りの坂道が白い煙の中でまっすぐと伸びていた。自宅からさほど遠くまで来ていないはずだったが、少年はこの道に見覚えがなかった。

 道は白い煙に包まれ、坂の上まで見通すことはできなかったが、何かが燃えているような赤い光が、坂の上の方でゆらゆらとしているのが見えた。道には煉瓦が敷き詰められ、古びた街灯が並んでいた。飛行機が墜落したはずなのに、物が燃える音以外、人が騒ぐような物音や消防車の走るような音は全く聞こえてこなかった。まして、坂の上で墜落した飛行機の燃える光や、道に並んだ街灯以外に、明かりは何も見えなかった。道の脇の家々は、まるで人が誰も住んでいないかのように真っ暗だった。

 少年は坂道を登り始めた。物の燃える音は聞こえてくるのだが、不思議と白い煙は先ほどのような焦げ臭さがなく、煙を吸い込んでいるはずなのに呼吸も全く苦しくならなかった。


 四、五分ほど坂を上ると、少年の目の前に線路が現れた。見回してみると、そこは踏切だった。自宅付近に電車が走っていただろうかと少年は思い、困惑した。

 線路は、坂道を直角に突っ切るように伸びていた。線路の脇にも街灯が並んでいたが、それ以外に明かりはないようだった。すると突然踏切の警報機が鳴り始めた。頭に強く響く、淡白で乾いた音だった。少年は走って線路から出ると、警報機が赤い光を明滅していた。

 遮断機が下りてきて、しばらくすると電車の走る音が地響きとともに少年の耳に伝わってきた。電車のライトが白い煙に包まれた踏切を照らしたかと思うと、何両も連結した銀色の車体が踏切を通り抜けた。電車の巻き起こす風が少年の体をよろめかせた。客車の明かりはついていたが、中に人影は見当たらず、人は誰も乗っていないようだった。

 電車が通り抜けると、けたたましく鳴っていた警報機はおとなしくなり、踏切はもとの暗闇と静けさを取り戻した。電車の走る音が聞こえなくなると、少年は再び坂の上を目指して歩き始めた。


 それからしばらく坂を上り続けていると、霧が晴れたかのように煙が薄れ始めた。坂の上で燃える炎がはっきりと見えるようになってきた。だが、煙が晴れてゆくにつれ明らかになったのは、赤い光が炎ではないということだった。実際は空に向かって伸びた赤い光だったのである。

 少年が坂道を上り終える頃、煙はほとんど完全に晴れていた。坂の上で少年の目の前に広がっていたのは、学校のグラウンドほどの大きさのクレーターだった。クレーターの中心から赤い光が空に向かって伸びていた。少年はその光景を目にして心臓が強く高鳴るのを感じた。何が起きているのか分からないことへの恐怖を感じたが、それ以上に強い好奇心が少年の体を突き動かした。この光景を前にして、誰かが少年を待っている、ということに少年は興味を覚えないわけにはいかなかった。


 少年はクレーターを下り、光を発するその中心へと向かった。墜落現場と思われるクレーターの中心に近づいてみても、飛行機の残骸や機械の部品のようなものは散らばっていなかった。これは本当に飛行機の墜落なのだろうか、と少年が疑問に思っていると、光の中から人影が現れて、その出現が少年を驚かせた。

 目の前に立っていたのは、凛々しい顔をした青い色の猫だった。青い猫は二本足で背筋をぴんと伸ばして立ち、帽子をかぶり、黒の丈の長いコートを着て首元までボタンを留めていた。青猫は少年と目が合うと口を開いた。

 「よかった。君の方から来てくれて」

 青猫は少年の方へとにじり寄ってきた。少年は青猫から目は逸らさなかったが、驚きでその場から動けずにいた。

 「猫が歩いてる……」

 やっと口をついて出てきたのはそんな言葉だった。

 「おや、君は猫が話すのには驚かないんだね」

 少年は青猫につられて少し笑顔になった。

 「さっき喋る猫と話していたんです。……猫って、いろいろいるんですね」

 少年がそう言うと青猫は大きな声で笑い出した。


 「ところで本題に入りたいんだが、君、流れ星を持っているだろう」

 少年はどうして星のことを聞くのか呑み込めなかったが、上着のポケットから木組みの箱を出し、その中の水色の玉を青猫に見せた。

 「これがケンタウルスの失われた瞳か…… 噂に違わず美しい……」

 少年は自分の身に降りかかっている状況が全く分からずに困り果ててしまった。少年のその様子に気づいてか、青猫は姿勢を直して少年に向かい合った。その表情は真剣そのものだった。

 「すまない。君を困らせるつもりはなかったんだ。私は君を迎えに来た。今、どうしても君を必要としている人がいる」

 「ちょっと待ってください。どうして僕なのでしょうか」

 「どう言ったものかな…… 君が持っているケンタウルスの失われた瞳だが…… それを持つ人、つまり君が、この世界の主なんだよ」

 「それ、さっきの猫も言ってた。でもどういうことなの……?」

 「この世界はね、君は覚えていないかもしれないけれど、君が作り出したものなんだ。ケンタウルスの失われた瞳を利用することで、君は不完全ながらこのような世界を作り出した。ここはまさに君だけの世界だ」

 「それってこの世界を僕が思い通りにできるっていうこと……?」

 「いや、そういうわけでもない……」

 それからまた青猫は考え込み、ゆっくりと一言ずつ考えながら話し始めた。

 「この世界は確かに君が作り出した。この世界の主は君に他ならない。けれど、それは君であって君ではないのだ。君は実際この世界を作り出したことを覚えていないだろう。君の奥底にある、君も知らないような君の願いが、この世界を作ったんだよ」

 「それって、どんな願いなんですか……?」

 「世界を終わらせたいという願いさ……」

 「世界を……?」

 少年は驚きを隠せなかった。しかし同時に、それをずっと自分は考えて来たのではなかったか、とも思ったのだった。


 「君は世界を終わらせたいと願った。もちろん君自身の気づかないうちにだが。世界を終わらせたいと願うのは勝手だ。どんな願いもそう願うだけならば全く咎められることはない。それにこれは誰しもが心の奥底で願っているものさ…… けれどね、ケンタウルスの失われた瞳を持った君は特別だ。君は本当にここで世界を終わらせることができる。でもここで世界を終わらせるとしたら、この世界は崩壊して消えてなくなるが、君はどこでもない場所に取り残されることになる。これが問題なんだ。私たちにとってはそうした遭難者の存在が一番問題なんだ。だから私はこの世界に無理やり干渉して、ここにやって来たんだ……」

 青猫は肩を落とし困り果てた表情をしていた。

 「だが、どうにもこの有様でね…… 墜落してしまったんだ。さっきも言ったけれど、君を必要としている人がいる。その人もまた、君と同じように世界を作り出して、世界を終わらせようとしているのだけど、その人を助けることができるのは君しかいない。だから私は君を迎えに来たのだが……」

 「ちょっと待ってください。話がよく分かりません……」

 「すまない。私もちょっと動転していてね…… 整理してもう一度話そう」


 青猫はゆっくりと話し始めた。

 「……君は世界の終わりを願った。ケンタウルスの失われた瞳の力でこの世界を作り出し、この世界を破壊することでその願いを果たそうとした。けれどこの世界を破壊すると、君はどこでもない場所へと取り残されることになる。そうすると君は遭難者になってしまう。どこにも属さない遭難者の存在は、大きなノイズとなって私たちの仕事に影響してしまう。だから私は君がこの世界を破壊してしまわないように、ここに無理やり侵入したんだ。ここまでいいかな?」

 少年は少しの間思案し、それから黙って頷いた。

 「それでは続けるよ。私がここに干渉したのは、実を言うと君を食い止めるためだけではない。君を必要としている人のもとへと君を連れてゆき、その人が世界を終わらせるのを食い止めてほしかったんだ。それは君にしかできないことだ。だが、この世界に無理やり干渉したために私の乗ってきた次元転移システムが墜落してしまって、君を連れてゆくこともできなければ、私が帰ることもできなくなってしまったんだ……」


 頭上から柔らかく響く声が聞こえてきた。

 「おーい」

 見上げると、空に大きな満月がまた現れていた。

 青猫が帽子を取って満月に挨拶すると、満月も帽子を取って挨拶した。

 「話は聞きましたよ。やはりその少年がそうなのですね」

 満月がそう言うと、青猫が「はい」と答えた。

 「彼を幻想第二千四十三番区へと護送しなければならないのですが、あいにく次元転移のコネクタがショートしてしまって、ここに墜落してしまったのです」

 「何がどうしたんです?」

 満月が尋ねた。

 「ここはクロトロジオン波が非常に強いようです。計器のQ値が振り切ってしまっていましたから。装置を制御する間もなく地面にドスン、というわけです……」

 「なるほど。ここは急ごしらえされた場所なわけですね」


 それからしばらく青猫と満月は会話を続けていたが、その内容も、言われている言葉の意味も、少年には全く分からなかった。あるとき青猫がはっと何かに気がついて、大声で満月に語りかけた。

 「もしかしたら、あなたの力を借りればどうにかなるかもしれません。あの穴を通れば、少なくともここを抜け出られるはずです」

 「あれですか…… いちかばちか、ですね」

 「いちかばちか、です…… 運よく次元間特急に飛び乗ることができればいいのですが…… ですがいずれにしても、間もなくここは消えてしまうにちがいありませんから、何もしないよりはよっぽど可能性があるはずです……」

 二人とも険しい顔つきだった。

 「よし、やりましょう」

 口を開いたのは満月だった。「ちょっと寂しいですが、彼を連れてゆかないことには、どうにもなりませんからね」

 「ご協力感謝します」

 青猫は帽子を取って深々とおじぎをした。


 「それでは始めますよ」

 満月はそう言うと、自らの体に両手のひらを押し当て、口を真一文字に結んで力を入れた。満月は大きな音を立てて横にずれ、背後から真っ黒な穴が顔をのぞかせた。

 風が強く吹き始めた。夜空が穴を中心に渦を巻き、大地が音を立てて揺れ始めた。満月はそれでも自分の体を押し続け、真っ黒な円が完全に顔を出したとき、少年と青猫の体がゆっくりと宙に浮き始めた。少年は何が起こったのか分からずじたばたと体を動かしたが、力には逆らえずに、そのまま空へと吸い上げられるのを感じた。

 街の街灯や樹木は、次々に地面から引っこ抜かれて宙に浮かんだが、それらは全て砂の城のように崩れて風に吹き飛ばされて消えてしまった。眼下に見える家々は、何かに踏まれたり叩かれたりして壊れるように崩れ、そのかけらは細かい粒の砂となった。遠くに見える大きなビルも、張りぼてが壊れるかのように途中で折れて崩れ落ち、壁面やガラスも粉々に割れて飛び散った。みるみるうちに渦巻く空は穴に吸い込まれて、空はどんどん暗くなり、街は大きな音を立てて崩れて、何もない砂漠へと化していった。

 空の穴へと吸い込まれてゆく少年の目の前で、世界が崩壊しつつあった。その光景はまるで映画のようだと少年は感じた。そして少年は、確かにそのスペクタクルに見入っていた。心のどこかで世界がこのように崩壊し、終わってしまうということを、自分は本当に望んでいたのかもしれない、と少年は思った。それほどに、崩れてゆく世界の様子に、少年は魅せられていた。

 そして最後に残された少年の自宅が、崩れて砂となるのを目撃したとき、少年と青猫は空の穴へと呑み込まれ、真っ暗闇と静寂とに包まれた。

 「あの子をよろしく頼みます」

 青猫の声が暗闇の中に響き渡った。

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