第二部

◆五、満月の光と空の穴

 少年はまぶたにまぶしさを感じて目を覚ました。眠りから覚めた少年の体は鈍く重く、目覚めの瞬間には、自分の体が何だか自分のものとは思えないほどだった。その体にまとわりつく、泥にまみれたような身体感覚は、少年が長い間眠り続けていたことを示唆しているかのように思われた。

 少年を目覚めへと導いた光は部屋の外から窓を通して差し込んでおり、部屋の中を満たしていた。部屋の中は煌煌と明るく、少年は窓の外を見るまで今が夕方であるのかそれとも翌日の朝であるのか分からなかった。

 少年がベッドの上で体を起こして窓の方へと向き直ると、その先に見えたのは一際大きく輝く満月だった。少年はその光景に驚かずにはいられなかった。それからすぐに時計を見ると、時刻は十二時を回ったところだった。

 月は地平線付近にあるとき、天頂付近にあるときよりもなぜか数段大きく見える。街の屋根のすぐ上にかかっている満月は大きく、赤い。だがこのとき少年の目に入ってきたのは、夜空に高く上がっている、大きくて、黄色く光る満月であった。その大きさは地平線付近の月の数倍も大きく見え、うっすら虹色と分かるほどの暈をかぶっていた。


 月はそれほど明るく光を放っていたのだが、不思議とその光には透明感と温かみがあり、まぶしさは太陽ほどではなく、月の表面のクレーターなどの様子も観察することができるほどだった。少年はその月をまじまじと観察すると、息をするのも忘れて月に見入っていた。

 そのとき、大きな月の黄色い表面の前を何かが音もなく通り過ぎた。その後には細い雲がまっすぐと伸びて、それはふわふわと広がり風に散らされて消えて行った。

 少年はいてもたってもいられず、上着を着込んでから部屋を飛び出して、音を立てないように階段を下り、玄関で耳をそばだてて誰も起きていないと確認してから、そっと玄関の扉を開けてするりと外へと抜け出した。


 *


 夜のぴんとした空気はひんやりとしていて、肌にぴったりと張り付くようだった。吐く息が白い塊となって、すぐに空気の中に溶け込んで消えた。少年はそれが何だか面白く、何度も何度も深呼吸をして息を吐き、より大きな息を出そうと挑戦した。その度に刃のような空気が肺の中に入り込み、内側から体を冷やしたが、吐く息の白い塊が、空気の冷たさだけでなく、少年の持っている温かさをも示しているかのように思われた。

 少年の頭に、ふと小さな谷川の底で泡の大きさを比べる蟹の兄弟の姿が浮かんだ。すると何だか月明かりに照らされた青く薄明るい夜の街が、月光をきらきらと反射させる山間の清流の底のように思えてくるのだった。


 そのとき、柔らかく響いた、低く丸みのある声が聞こえてきた。

 「こんばんは」

 少年はその声を綺麗な声だと思った。あたりを見回しても誰も歩いてはおらず、物音もしなかった。街灯の明かりはついていたが、周囲の家の窓はどこも暗く、人の気配が感じられなかった。

 「おーい。ここだよ」

 声は頭上から響いてきた。見上げると、そこには大きな満月がにっこりと笑って少年を見下ろしていた。満月は白手袋をはめた手にシルクハットを持ち、それをゆっくりと振っていた。口元には、毛先が上に跳ねた立派な髭が、左右に伸びていた。満月が体を動かすと、目元の片眼鏡がきらりと光った。

 少年は月に向かって「こんばんは」と返したが、その声は小さく、天上の月には届かないかと思われたが、月はにっこりと笑って「こんばんは」と再び言った。

 満月は手に持ったシルクハットを頭にかぶると、柔らかく響く声で少年に尋ねた。

 「こんな夜遅くにどこへ行くのかね?」

 「夜の散歩です」

 「そりゃあいい。こんな夜にしかできないことだ。私もこんな夜に散歩してみたいものだね」

 「お月様は夜空を歩くのは楽しくないのですか?」

 「私は毎日毎日同じ道を歩くばかりさ。もちろん最初の頃は空を歩き回るのはとても素晴らしいものだった。きらきらと輝く星の海に囲まれて、地球上に生い茂る木々や花、高く聳える山々や、それらの四季折々の姿。これらを楽しく眺めたものだ。誰もいない夜の海の上で、波が照り返す光の輝きなどには何度見惚れたものかわからないよ。だがそれももう何万回、何億回と繰り返してきたからね。もはや散歩とは程遠いものとなってしまったよ。義務だよ、義務。仕事だ、と言ってもいい」


 満月は懐かしそうに目をつむっていたが、次第に少し悲しそうな表情になっていった。少年は何だかこの満月がかわいそうになってきて、何か力になることはできないだろうか、と心に思った。

 「お月様は地上に降りて来れないのですか? 地上に降りて来られれば一緒に散歩できるのに」

 「できることなら私も地上に降りてみたいものだなあ。けれどそれは無理なんだ」

 「大きすぎるからですか?」

 「いいや」

 「お月様がいなくなったら空が真っ暗になって散歩もできなくなるから?」

 「いいや、違うんだ」

 満月は首を横に振ると、人差し指を立てて注意を促した。

 「ちょっとよく見ていなさい」

 満月は自分自身に白手袋をした両手のひらを押し当てて、口を真一文字に結ぶと、何やら力を入れ始めた。すると、大きな石をずらしたときのような音が乾いた夜空に響き渡り、満月が少しずつ横にずれて行った。満月が自分自身を横にずらしたようであった。

 満月の背後、青く薄明るい空の中で、満月がずれる前にいた場所がくっきりと丸くくり抜かれたようになっていた。まるで巨大な穴がぽっかりと満月の後ろに開いているかのようだった。

 そう思った刹那、風が強く吹き始め、満月の後ろの真っ黒な円を中心にして、夜空はねじれて渦を巻いて、少しずつ円に吸い込まれていった。まるで穴の向こう側から、布を引きずり込んでいるかのようだった。そして同時に、地震が起こったかのように、地面が下から強く突き上げるようにして振動し、家々がぐらぐらと大きな音を立てて揺れ始めた。

 それからすぐに満月は反対側から自分の体を押し、真っ黒な円の上へと戻り、すっぽりとその円にはまった。すると途端に風は止み、ねじれて渦を巻いていた夜空はすぐ普通の状態に戻り、地面の振動も収まった。


 少年は今の出来事を前にして呆然としていた。

 「ごらんの通りだよ。私がいなければ穴が全てを吸い込んでしまう。だから私は地上に降りられないんだ」

 「何が起こったの……?」

 「見ての通りだよ」

 「それじゃあ分かりません……」

 「そうだなあ…… さっき見えたのは、言うなれば空の穴だ。何でも吸い込んでしまう。海の高さが毎日上下するのは、穴が少し顔を出してしまって、それが海の水を吸い寄せるからなんだよ」

 「それじゃあ穴を開きっぱなしにしたら、どうなっちゃうの……?」

 「そうしたら、穴はあらゆるものを吸い込んでしまうよ。この世界の全てがあの穴の中さ。もちろん君の家も、君も……」

 「えっ…… それじゃ、お月様は? お月様は吸い込まれないの?」

 「なに、私のことは心配いらない。私はあの穴より一回り大きいからね。だから穴を塞ぐことができるのさ。でもときたまうっかりして、穴がほんの少し顔を見せてしまうこともあるんだけどね」

 そう言うと満月は声を出して笑った。


 ひとしきり笑い終えると、満月は何かに気づいた様子で少年の上着を指差した。

 「ところで君、ポケットに何か入っているようだね」

 少年は何かを持ってきた覚えがなかったのだが、上着のポケットに手を入れてみると、そこには木組みの箱が入っていた。箱を開けてみると、中には水色の玉があった。少年が箱から玉を取り出してみると、玉は満月の光できらきらと青白く光った。

 「おお、それは立派な流れ星だ。なるほど、君がこの世界をね……」

 「何のことですか?」

 「大丈夫、心配はいらない。君ならきっと辿り着けるだろう」

 「何のことだかよく分かりません」

 「君が分からないのも無理はない。その流れ星は君のものだ。まさしく君だけのものだ。君のためにあるものだ、と言っていい。それさえあればこんな不完全な空間だけじゃなくてどこでも自由に歩き回れるさ。それに、それさえあれば、君が望むならこの世界を全てさっきの穴に吸い込ませて、終わらせてしまうことだって可能なんだ」

 「やっぱり何だかよく分かりません……」

 「なに、すぐに分かるときが来るさ」

 満月は何やら少し寂しそうな顔をしていた。


 「いやあ、君とお話ができて楽しかった。君に会えてよかったよ」

 満月が長い手を伸ばして少年に握手を求めてきた。目の前まで伸びた白手袋の手は、普通の人間の手ほどの大きさで、少年は一瞬戸惑ったが、手を差し出して握手を交わした。満月が手を引っ込めても、手は小さくなったように見えず、むしろ遠くなるにつれて大きくなるように見えた。

 「散歩の邪魔をして悪かったね。私に付き合ってくれてありがとう。ところで、行くあては決まっているのかい?」

 「いいえ。ただあてもなく出てきたんです」

 「それはいいことだ。きっとすぐに君を導く者が現れるだろう。君さえよければ彼らに従って行くといい」

 満月がにっこりと少年に微笑みかけてそう言った。

 「もしかしたらもう一度君と会うこともあるだろう。そのときを楽しみにしているよ」

 少年が歩き出し、大きく手を振って「さようなら」と言うと、満月もシルクハットを手に取って「さようなら」と返した。

 少年が十字路を右に曲がったところで振り返ると、空に満月の姿はなかった。空はなおも青く薄明るく感じられたが、空に大きく上がっていた満月がいないのを見ると、何やら広い空が少し寂しく、暗く感じられたのだった。

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