Switch

水貴

第1話 ON

今年の春は例年以上に花粉が舞っているとニュースは伝えていた。花粉症の人間にしてみれば地獄のような毎日に違いない。そんな3月のやや風の強い日だった。信濃町にある定食屋で、食べきれないくらいつまみを頼んで2人のアドマンがどうしようもない会話をしていた。


御苑広告社社長梅井春樹はカメノイ広告の営業部長増田総司に向かって吠えた。


「誰が彼をあんな風にしてしまったんですかね」


「梅井ちゃん・・言っとくけど俺のせいじゃないからね。どっちかっていうと梅井ちゃんの方じゃない?」


増田の振りをスルーして


「それにしてもああいう人が広告予算の権限持つと怖いですね。自分の金でも何でもないのにさ、発注権持っているだけで物件広告費が全部自分の金だと思ってるんだもん、信じられないよ」


「物件仕入れて、商品企画して、販売してる連中はいたって真面目にやっているのにね」


「彼を本当にコントロールしているのは大森さんですよね?」


「そうかもしれないな。今度マンション手当するらしいよ。車もレンジローバーだって・・彼の物件は全部大森さんのところで制作してるもんな」



「数人足らずのデザイン事務所が、そこまで住供についていって大丈夫なんですかね?住供住宅はいずれ銀行の手が入るのは間違いない。今の体制は長くは続かないと思いますよ。宣伝部だっていつなくなるかわからない。うちも住供のボリュウムはかなり減らしました。」


「そうだね、大森さんもわかっているけどもう止まれなくなってるんだろうね。俺の場合はどのみち一生サラリーマンだから金作るって言ったって限度があるからさ。大森さんとか・・・梅井ちゃんだって自由になる金多いからねぇ」


「私はあっちですよ・・・」


「双葉か」


「増田さんにもちゃんと回しますから、仕事」


「さすが、梅井ちゃんだよね。抜け目ないね」


「あそこはザルって聞いてますよ。それに売れ行きが半端じゃない。藤本社長は住供からの独立も目論んでる」


「まじで?誰から聞いたの?」


増田はトレードマークの顎髭をいじりながら興味津々で聞いた。


「勘です」


「なーんだ」


「でも現状広告費はとんでもなく膨れ上がっていていますからね、一体どこまでが、その物件の広告費かどうかわからない状況になってるみたいです」


「恐ろしいな」


「そのうち新規の物件始まる時には、もうその物件の予算はゼロとかいう事態が起きるんじゃない?」


増田が言うと、梅井は真顔で


「あり得ますよ」


「シャレにならないなぁ」


と言いながらまた顎髭を撫でた。


「それでもお金は潤沢にありますから、上役はじめ担当者までもその事態を何とも思ってません。やった分以上の請求も彼らは黙って受け取る流れですよ。いずれクルーザーでも買いましょうよ」


「それにしても藤本社長は裸の王様だな。きっと広告会社が自分の要求のせいでここまで疲弊してやっていることも、広告費がパンクしていることも、その広告費をさらに水増ししていることも何にも知らないんだよな。独裁者はある意味かわいそうだ。ところで彼は来ないの?これ食べきれないでしょ」


 


「では、お待ちしております」


御苑広告社の蓮山正はそう言われて電話を切ってすぐに周囲を見回した。


営業部長の富矢賢人を見つけると


「また今日も空振りです」


とだけ言って席を立った。蓮山の行く先はグラフィックデザイナーの土橋守男とコピーライターの榎本美香子のところだった。とりあえず誰かに今の心境を伝えることで一旦自分の気持ちを落ち着かせたかった。今日は木曜日。今週の頭から来週末の折り込みチラシのラフ案を出しているが、クライアントの双葉不動産は独裁社長の藤本晢がチェックをすることになっていて社長のオーケーが出ないと先に進めない。ところが多忙な社長なのでなかなか見てもらえない。今日で四日目。社長に見せられないと担当者と営業部長の修正が入る。夕方に呼ばれ、次の日の朝までに直して持って行く。時には案が増える時もある。社長の鉄拳制裁を避けるためにありとあらゆる案を作っておくのだ。今回は月曜日に3案出して、昨日で倍に増えた。営業部長の考えすぎだろそれ案が遂に飛び出たのだ。今日も社長に見せられずにまた夕方担当に呼ばれた。その最後の言葉が、




「では、お待ちしております」


だった。修正内容はもうどうでもよかった。早く家に帰りたかった。


当然修正作業は深夜に渡り、持って行くのは朝一番。ろくに寝れず家に帰ってなかった。土橋は、蓮山の顔を見てニヤッと笑った。榎本は外出だった。正確に言うと、これから出社なのだろう。


「今日はどんなお題が来るかな」


蓮山は土橋の懐の深さを尊敬していた。自分はもう嫌になっているのに文句ひとつ言わない。全て冗談で返して来る。当然土橋も今週はずっと会社に泊まっている。


「土橋さん、毎度すいません、今度も予想を覆すスーパーな案を作ることになると思いますよ」


蓮山もおどけて見せた。


 


御苑広告社は不動産広告に特化した広告代理店で社長の梅井が若くして立ち上げた会社だった。


不動産広告の世界は広告業界の3Kと言われ、過酷なジャンルだった。クライアントであるマンションデベロッパーは個性が強く、広告制作は毎回困難を極める。ただ、出来上がりはどれも同じように見える。どこがそんなに苦労したのか?という仕上がりになる。しかしここに至る経緯は語り尽くせないものがある。そんな性質があるためクライアントとの結びつきは特有なものがある。御苑広告社も例外ではなかった。社長の梅井春樹と営業部長の富矢賢人は共に中堅のマツアドという広告代理店出身で、そこで不動産担当をしていた。クライアントは大手マンションデベロッパーの住供住宅とグループ会社の双葉不動産。2人でガッチリ入り込んでいた。マツアドは社員が1000人規模の代理店だったため、年間2億くらいの売り上げではあまり評価されずくすぶっていた。そんな時にクライアントから話を持ちかけられ、仕事を出すという条件の下独立をした。特に双葉不動産との結びつきは強く、ワンマン社長の独裁政治についてくる会社が少なかったので梅井と富矢は24時間張り付き信頼を勝ち取った。担当者と苦楽を共にし、完全バックアップ体制で臨んでいた。おかげで御苑広告社は順調に売り上げを伸ばし、社内に制作部門も設けるようになっていたのだ。


「またいつものパターンか・・・今回担当誰だっけ?」


富矢が聞いた。


「葛西さんです」


「楠さんと嶋崎さんがいなくなった今頼りは小田さんくらいだろう。担当が葛西さんだとエンドレスだな」


知ってるよ。と蓮山は思った。富矢が現場でやっていた頃は楠と嶋崎という2人のストッパーがいた。そこに守られていたのでやっていて今みたいに悲壮感はなかったのだ。クライアントと代理店営業との間に心地よい信頼関係があったからだ。その二人がいなくなると社長とのつなぎ役がいなくなってしまい、社長の指示は完全に一方的な命令として下された。今が1番ひどい状態だった。蓮山は元々印刷屋の出身で広告代理店の仕事をしたかったので当時仕事をもらっていた富矢に相談し入社したのだ。


こんなの全く広告代理店に来た意味はないよと思った。


「そうですね、葛西さんは頼りないっすよ・・・」


軽く愚痴を挟み、18時の打ち合わせに備えることにした。


今は16時。


「おはようございます」


榎本が出社してきた。


「蓮山君も土橋さんも帰ってないの?」


「もちろん、俺たち帰る家なんかないんだから」


「そうね、双葉に身を捧げてるんだもんね。で、今回も空振り?」


「何でわかるんですか?」


「だって、社長室入れてたらもう何らか動いているはずでしょ?」


「ですね、で、18時に呼び出しです」


「もうキャッチはネタ切れだからね」


「コピーはもう大丈夫だと思います」 


「だといいけどね」


榎本も土橋同様文句は言わなかった。蓮山は恵まれたチームで仕事ができることを誇りに思った。


 


双葉不動産取締役元輪貞夫は昨日飲み屋で話した後輩でダイヤモンドハウジング副社長の稲田健助の大きな声を思い出した。俺にそんなことができるか?しかし現状打破にはそれしかないかもしれない。双葉不動産社長の藤本の顔が浮かぶ。毎日業務報告をするのが元輪の役目だ。日々販売状況が進化していないと鉄拳が飛ぶ。社員のモチベーションは完全に落ちている。しかし、売らないと自分の身が危ない。社長との窓口である元輪は自分の身を安全圏に置くことばかり考えていた。胃は傷み、肌はストレにやられぼろぼろになっていた。おまけに顔面神経痛まで患った。今すぐにでも逃げ出したかった。さらに追い打ちをかけるように優秀な社員が数人辞めていった。人材不足が重くのしかかる。前取締役の伊東はヘッドハンティングされた。自分にはそんな人脈はない。かつてバブル期に一番楽をしてきた。遠い田舎から出てきた男にとってこれ以上にない「贅」を味わってきた。そのツケが今回ってきたようにも思う。今ここで双葉を辞めても拾ってくれる人はいない。ここで生き残るしかない。いつしか孤独になっていた。経営者でもないのに孤独。家庭はとっくに崩壊している。双葉に入った年、今から十年前、妻は子供を連れて出て行った。離婚はしていないが別居歴十年というある意味離婚よりしんどい状況下にあった。元輪は安らぐ場所などどこにもなかった。たまに夜を共にしてくれる女性が何人かいる。皆同情で一夜を共にしてくれていることもわかっていた。空しさだけが横っ面を叩いていた。稲田は楽しそうに言った。




「伊東さんは全く知りませんでしたけど、うちの部署の業務報告はほとんど嘘です。めちゃめちゃですよ。金は仲介業者に用意させて申込金を取っていました。それだけで1か月は有余ができますからね。それから一か月かけて本当の客を探すんですよ。これなら社長も絶対にわからないし、機嫌もいい。まあ私は実際それで仲介業者と揉めてこの会社を辞めることになったのですが」


嘘の申込み。藤本に報告するという儀式。報告する側もその儀式に合わせて申込みをでっち上げていたらしい。伊東はそれを信じて報告していた。稲田の話だとたまに本当に報告する時を作り、真実味を出していたらしい。これは当時の稲田の部署の課長と同期で宣伝部の楠孝広しか知らなかった。もちろん当時事業部の部長だった元輪が知る由もなかった。稲田はこうも言った。


「いかにして騙すか。客も社長も」


迷った。元輪は葛藤した。その時内線が鳴った。


「はい、元輪です」


「元輪取締役、藤本社長がお呼びです」


「わかりました。すぐに行きます」


溜息をひとつついて、席を立った。


「失礼します」


一声かけて社長室に入った。


「貴様あああ。昨日からひとつも変わってないじゃないか。しかも営業二部は何やっているんだ。ここ1週間1戸も売れてないぞ」


いきなりの落雷だ。予想はしていた。現在販売物件は10物件。営業は5部まであり、ちょうどひとつの部署が2物件を担当している。通常新規物件であれば毎日契約を出そうと思えば出せる。しかし、現在ラインアップされている物件は新規物件はなくクリアランス物件ばかりでお客さんの足も鈍っている。社員は新規の物件になると目の色が変わるが、クリアランスになると途端に待ちの営業になってしまうという傾向があった。誰かがさばいてくれると考えているからだ。今月はクリアランス強化月間として新規の物件の販売を控えていた。これも当然藤本の指令だ。とにかくクリアランスを嫌う。これをおおかた片づけてから新規の物件を販売するという考えだった。


「貴様今週末までにあと10件申込み取らないとどうなるかわかってるんだろうな」


いつも以上に大声を張り上げていた。


「わかりました」


「わかりました?本当にわかっているのか?」


「はい」


「だったらとっとと行け」


「はい、失礼しました」


社長室を出てすぐにでも座り込みたかった。目の前がクラクラする。心臓がどきどきして顔面神経痛がぴくぴくしている。社長室と書かれた扉を見つめると怒りが込み上げてきた。何故だ?何故俺はこんな社長に頭を下げなきゃいけないんだ。今週末までに10件、あと3日しかない。無理だ。現実的に無理だった。今のペースで行くと3件が精いっぱいだ。おそらく藤本もそう思っているに違いない。ということは倍の6件の申し込みが取れれば・・・いや10件取ろう。稲田のやり方をうまく利用するしかない。もうこれ以上、あの雷を受けるのはごめんだ。元輪は早速稲田に電話を入れた。


「元輪だ。昨日の話、やってみようかと思ってる。いい仲介業者紹介してくれないか?」


「元輪さん、決心したんですね。仲介業者よりもいい金づるを教えますよ」


「金づる?」


「はい、ここを掴んでしまえば自由自在ですから」


 


社長の梅井が、双葉不動産の経理部長下田義一に呼ばれた。経理部長に呼ばれるなんてことは通常ありえない。経理上の問題があっても担当ベースで解決してしまうことがほとんどだ。それだけになんとなく嫌な雰囲気だった。富矢がその事を知ったのは前日の夕方の梅井からの電話であった。


「はい富矢です」


「俺だ」


梅井はまだ45歳。少し前で言ういはゆる青年実業家という言葉がぴったりで、富矢は今年で37歳。梅井とは兄弟のような関係を15年ほど続けている。


「お疲れ様です。何かありましたか?」


「明日経理部長の下田さんが俺に会いたいって言うんだよ。お前下田さんって知ってるか?さっき元輪さんから電話があった。なんかあんまりいい話しじゃなさそうだ。たぶん楠さんの件だと思うんだよ。」


梅井はもう現場を離れて8年ほどになる。自分は副業で居酒屋を数店舗経営していた。流行にとらわれずに本格的な味で勝負しているのがなんとなく成功しているようだった。後は場所だ。激戦区を避けニッチな場所を選んだ。そこが開発によりここ数年で人の集まる場所へと変わった。もちろん予想していたわけではない。運だ。強運の持ち主なのだ。梅井は経営のセンスが抜群で、富矢は尊敬していた。だからこの会社へも2つ返事でうんと言った。かれこれ12年になる。現場は富矢に全て任せていて梅井は数字だけを管理している。梅井に連絡をしてきた元輪取締役はまだ梅井が現場にいたころの宣伝部長だった。この2人にはある種の信頼関係があった。それがあるため今尚仕事が継続しているといってもおかしくない。その元輪の直属の部下が楠広孝だった。双葉不動産宣伝部の頭脳と呼ばれていて、この男なくして双葉の広告は成り立たない。そんな切れ者だった。まさに会社に身を捧げている企業戦士であり誰からも頼られる存在であった。この双葉不動産は社長の藤本が独裁政権をふるっているワンマン会社で、白いものも黒に変えてしまうほどの力があり、また迫力があった。不可能は存在せず、全ては可能を前提に動いていた。そのパワーで売上や供給戸数をぐんぐん伸ばし、昨年度は分譲戸数でベスト5に入る勢いだ。誰もNOと言えない。だから楠みたいな人材は周りの社員から見れば好都合の社員だった。社長と社員の間に入り壁になってくれる存在だったのだ。楠という男は頭もよく仕事もできる。それでいて真面目ときている。見てくれはいいとはいえないが、方々から絶大な信頼を得ている。課長どまりであったが、実質社長直結の大事な宣伝部を支えていた。しかしその楠は昨年の10月に突然会社を辞めオリエント建物という会社に転職した。この会社は双葉の出身者で構成された会社だ。社長の伊東は双葉の役員だった男で楠はヘッドハンティングされたのだ。そして梅井と楠は20年以上の付き合いになる。


 


「下田さんは前に一度だけ会ったことありますよ。業者登録のときに。でもあまり覚えてないですね。その後一度会ったような会わないような・・・楠さんの件ってマンションのことですか?」


「たぶんな。」


社長の横暴な経営方針は思いのほか様々な方面にまで影響を及ぼす。社員は兵隊化しているため、少しでも売れ行きが悪いと徹底的に藤本にこき下ろされた。そうなると宣伝部だろうが総務部だろうが関係なかった。その余波は出入りの業者にまで及んだ。マンションを買ってくれたら仕事も余計に出すという取引をするのだ。御苑広告社もその一業者だった。現に以前梅井も個人名義でマンションを購入したことがある。今はそのマンションは賃貸に回されている。そのおかげで仕事は定期的だ。最近ではもうマンションを買える体力のある業者がほとんどなくなっていた。それでも月のノルマは達成しなくてはいけない。数字上はだ。そのために社長報告のためだけに架空の申込を入れる。この場合は一度手付金を50万円払い、いかにも申し込みが行われたようにする。それを藤本に報告する。その後本当の買い手を探し名義変更をして手付金を返還するというしくみだ。これは一部の管理職の人間しかやらない。末端の社員は知る由もない。社長に報告するのは管理職だからだ。これも自分の部下を守る一つの手段だと考えられていた。


「確かに最近風の噂で楠さんが双葉時代業者に対してマンションを買ったことにして仮の申込だけいれさせてたという話しが双葉の間で広まってるらしいですけど、それはこの会社の管理職なら誰でもやってますからね」


「そうだな。おそらく違う件だろう。俺にもさっぱりわからんよ。ま、とにかく明日双葉行った後に会社戻るから待っててくれ。」


「はい、わかりました。」


梅井はどことなく歯切れの悪い口調だった。


富矢は嫌な予感がしていた。実は楠が一週間ほど前から会社を休んでいるのだ。富矢にも会社にも風邪をこじらせたということになってる。何か精神的なことなのかもしれない。富矢の胸騒ぎはかなり高まっていた。


御苑と双葉はもう20年くらいの付き合いになる。御苑広告社立ち上げのときにサポートしてくれたのが、紛れも無く双葉不動産であった。そしてその時の担当が楠広孝だったのだ。楠が双葉を辞めてオリエント建物に移ってからも楠とは仕事をしていた。ここ8年は梅井は現場を離れているため、楠と顔を付き合わせるのは富矢がほとんどであった。転職してからもすぐに梅井と富矢をオリエント建物の伊東社長に会わせてくれて実際仕事も出してくれた。欠かすことのできない大事な存在であった。しかし一方プライベートでは夫婦仲はあまりよくないと聞いていた。決して女性問題を起こすような不真面目なタイプには見えないが、仕事を理由に家に帰らないことが多かった。このことは社内でも業者間でも有名な話しになっていた。仕事とプライベートとの切り替えはなかなかできない人種といえた。楠の元上司の元輪取締役は、楠が辞めてから途端に身体を壊した。営業も広告も全てを見なくてはいけないため、毎日のように社長に呼び出され1日中説教をうけている。しかし人柄は悪くなく、梅井をかわいがり仕事を出してくれた。梅井が買ったマンションもこの元輪から買ったことになっていた。今はこの元輪に完全に頼りきっていた。2人とも梅井にとっては信頼のおける人物だったので、心配もほどほどだった。


 


しかしイヤな予感は的中した。


 翌日夕方になり、梅井から連絡があった。


「これから行くけど、やっぱり楠さんの件だと思うよ。今電話で話したんだけどあの人様子が変だったよ。何かあるね。」


「先週から1週間休んでましたよ。今日久しぶりに出てきたんですよ。風邪とか言ってましたけどなんだか怪しいですね。」


「ああ、俺にも風邪で食べ物を戻してしまうなんて言ってたけど、なんか怪しいな。例のマンションの件だと思うんですけどって言ったらその件について聞かれたら知らない、と言ってしのいで欲しいって言われたよ。当然わからないとは言うけど、無理だったら全部言いますよって言っておいた。気が重いよ・・・終わったら電話する」


「わかりました。」


電話は切れた。


「全部言う」


梅井はそう言った。一体何を全部言うというのか?富矢には疑問の残る発言だった。これは確実に何かが起きると確信した。


 


 梅井は気が重かった。一体何事なんだろうか?あのお金が問題になったのだろうか?様々な事が頭をよぎる。経理部長が自分を呼び出すということはお金が絡むことは間違いないのだ。何をどう聞かれるのか全く予想がつかなかった。渋谷に近づくに連れて気持ちはどんどん遠ざかって行った。セカンドカーのポルシェに乗っていても全然気持ちよくなかった。ハンドルを持つ手も重かった。元輪さんも事情がわからないと言っていた。とにかく話しを聞こう。梅井は元輪を頼りにしたかった。楠も信頼していた上司だ。この人は自分の味方だと信じていた。その元輪も事情がわからないのはやっかいだが仕方ない。渋谷のコインパーキングに車を停めると、頭をクリアにしながら双葉不動産のあるビルへと足を向けた。エレベーターーに乗って10階で降り、受付で元輪取締役を呼んでもらっ た。上品で綺麗な受付嬢が応接室へと案内してくれた。双葉不動産は絶対的権力を誇る社長が独裁経営をしている会社だ。社長が社内にる時社員は一瞬たりとも隙を見せず、襟を正していた。梅井は応接室の椅子にこしかけた。先ほどの綺麗な受付嬢がお茶を出してくれた。


「ありがとうございます。」


梅井は柄にも無く礼儀正しく答えた。受付嬢は、


「失礼いたします。」


と普通に答えて出ていった。


10分待った。変な懐かしさが蘇る。この応接室はあまりいい思い出がなかった。最高三時間待ったことがある。そういえば富矢は5時間と言っていたな。例えアポイントをとって尋ねても藤本からの突然の呼び出しがかかると来客があってもそっちのけだった。そんなクライアントとずっと付き合っているのだ。やっぱり俺達はどうかしてるな。そう心の中で苦笑した。


10分ほどしてから元輪取締役が入ってきた。


「こんばんは、御無沙汰しております。」


梅井は椅子から立ちあがり深くおじぎをした。


「どうもどうも。いやいや、お元気そうで。」


当たり障りの無い挨拶をかわすと 2人は椅子に腰を降ろした。


「ふーーー。」


双葉社員特有のため息だった。どうもこの応接室は落ち着くらしい。


梅井は元輪の心中を察した。双葉ではここ数年で有力な社員が相次いで辞めていった。オリエント建物もそのひとつであるが、独立して活躍している人が多い。会社をやめ独立なんぞするくらいだからさぞかし実力はあったのであろう。そんな連中が多いため、双葉を上で束ねる適任の人材が不足していた。元輪は47歳。営業部門から広告部門まで全てを上に立って見て行かなければならない立場になっていた。これは前代未聞のことであった。


元々あまり身体が強くない元輪にとっては重労働だ。休みも無く息つく間もなく毎日をすごしているに違いない。同世代の梅井は同情した。


「今下田呼んでますから。いつも御苑さん・・・というか梅井さんにはお世話になっちゃってすいませんね。」


「いやその分仕事でお返ししていただければ・・・ははははは。」


「ははははは。」


暗黙の笑いだった。現に信頼関係ができあがっているため確認さえできていればあとは仕事が流れてくるところまできていた。梅井はこの笑いで少し安心した。


「ところで下田さんは私に何の用件なんですか?」


梅井はストレートに尋ねた。


「いや、私にもわかんないんだけど、御苑さん何かしたのかな?」


元輪は冗談とも本気ともつかぬ顔で言った。


今までにない緊迫感が応接室を牛耳った。すりガラスの向こうに人陰が見えた。


太いな。


梅井はシルエットから単純な感想を感じた。


「コンコン」


経理部長下田が入ってきた。一瞬威圧感を感じた。今ならさっきの信頼関係を確認する笑いも乾ききってしまうだろうと梅井は思った。


「お世話になります。御苑広告社の梅井と申します。」


梅井は早速色白で割腹のいい下田に近寄り名刺を差し出した。


「どうも、下田です。」


ぶっきらぼうにそう言うと、


「どうぞおかけください。」


と今度は無愛想に言った。


10秒くらいの沈黙を破ったのは元輪だった。


「下田さん、御苑さんにどういった用件なんですか?」


「実はね、・・・・」


下田は今度は低音で話し始めた。


「当社に国税局が参りましてね・・・」


「国税・・ですか?はい。」


梅井の表情は一気に曇った。


「ええ。社長もわかってらっしゃると思うんですけど。」


下田の眼鏡がキラリと光ったような気がした。


梅井は動揺した。事情が飲み込めてない状態と下田の威圧感に動揺していた。


「なんのことでしょうか?」


「なんのこと?社長困りますよ、そんなとぼけてもらっちゃ。こっちは遊びに来てんじゃないんだから。」


凄みがあった。これが大手企業の経理部長か。ちょっとやそっとじゃひるむことのない梅井が完全に負けていた。それでも状況がわからない梅井は説明を要求した。


「本当にわからないのですが・・・・」


「この件ですよ。覚えてるでしょ?この1500万円どこにやったんですか?」


下田は請求書2枚と領収書のコピーを差し出した。2年前の10月末日の請求書が2枚。


間違いなく御苑広告社の角印が押してある請求書だった。1枚は800万円で名目は××マンションくりのき台広告制作費とあった。もう1枚は700万円でこの名目は△○マンションの広告費となっていた。


2枚を合計すると1500万円になった。確かに覚えがある。これは楠に頼まれて請求書を書いたのだ。いはゆる架空の請求書ということになる。そして翌月入金後に1500万円を現金で楠に返金した。その際に楠が富矢に渡した領収書のコピーがあった。


「確かにこの件は覚えてます。というか、これは楠さんに言われたとおりに書きました。入金後に私が現金で降ろし、うちの富矢という人間に持たせました。ですから現金は双葉さんに返っているはずですが・・・。」


「社長、そんないいわけが通用すると思ってるんですか?この1500万円は返ってませんよ。」


梅井は仰天した。


「本当ですか?・・・・・いや、私は全額間違いなく楠さんにお返ししたのでその後のことは全く知りません。」


下田は梅井の話しに耳を貸さなかった。むしろさらに疑いを深めたようで、たたみかけるように梅井に詰め寄った。


「大体、おたくは一担当の指示だけでこんな大きな金額の請求書を平気ででっち上げるんですか?常識ってものがないんですか?こういう場合業者が担当をそそのかしてやるケースが多いんですよね。違いますか?楠と山分けしたんじゃないですか?」


完全に犯人扱いだった。


梅井は動揺した。全く予期せぬ事態だった。額に汗がにじんだ。まさか、楠が?そんなことができる男ではないはずだ。おかしい。これは何かの間違いだ。


「部長、私は本当に知らないんですよ?このお金は双葉さんに返却されてないなんて今初めて知りましたよ。それにそんなことをしたら横領じゃないですか?」


梅井は精一杯丁寧に反論した。


「それじゃあ楠が単独でやったというんですか?」


「いやあ、それも全くわかりません。」


「とぼけるなよ。」


下田は凄んだ。そこで元輪が仲裁に入った。


「いや、まあじっくり梅井さんの話しも聞いてみましょう。はじめから疑うのはよくない。」


「請求書は梅井さん、あんたが書いているのか?」


「いや私ではなく富矢という者が書いてます。」


「そうだよね、富矢君だよね。」


元輪のあいづちが多少この緊迫した空気を緩和させた。


「おたくはそんな簡単に会社の角印を押せるのか?」


「いや富矢は当社の営業部長兼私の秘書という立場でして、現場は全部彼が責任を負ってやってますから、信頼してます。」


「ほう、その富矢さんにも会う必要がありますな。」


下田は富矢にも疑いの目を向けているようだった。


「でも彼はお金の出し入れまでは把握しておりません。本当に1500万円返ってないんですか?」


梅井はその言葉を連発した。信じられないことが目の前で起こっている。あの楠が会社のお金を1500万も横領していたのだ。しかもうちが片棒をかついだような格好になっている。


「社長、本当に知らないのですか?まあどちらにしても架空の請求書を書いたことは認めるわけですな?」


梅井はこっくり頷いた。下田がすかさず続けた。


「ならばうちとしてはおたくを告訴することになりますね。もちろん楠もだ。」


そういうと下田は座り直しながらスーツの胸ポケットに手を入れたばことライターを取り出した。そしてゆっくりとたばこを取り出し火をつけた。つけ終わるとたばことライターをテーブルの上に無造作に置いた。たばこの煙が部屋の空気を曇らせた。梅井はそのライターに目を落とした。黒い100円ライターであるがそこには英語で「HOBBY CLUB」と書いてあった。この上田には一体どんな趣味があるのだろうか?梅井は余計な想像をした。


「どうしてですか?うちは何もしてませんよ。ただ言われたとおりに請求書を書いて、そのお金も全額お返ししてますし、当然1円たりとももらってないしむしろ被害者だと思います。しかもうちは仕事をもらう立場ですからそういう要求があったら断れないのが現状なんですよ。まあ楠さんだから応じたところもありますけど・・・信用してましたから。」


「ほう、ならばこれはどう説明するのですか?」


次に下田が出した書類もやはりうちが出した請求書だった。1年前の3月だった。しかし今度は10枚程度ありその中に1枚見積書も含まれていた。見積書には3500万円と記されていた。下田はその見積書を手にとり、


「こんな案件は当社に請求書あがってきてませんよ。この月にあがってきた請求書はこれだけですから。これがどうしておたくから税務署にあがってきているのですか?」


梅井は説明をはじめた。


「これもまた楠さんから頼まれまして、3500万円の請求書を書かされました。ただ一括ではまずいということで何枚かに分けて合計が3500万円になるようにしました。これも1500万円の時と同じように入金後に返金しました。でもこの時は現金ではなく御社の指定口座に振り込み返しました。振り込み返したわけですから当社としては相殺されてしまうので請求書は全て破棄しました。しかし税務署に対して説明がつかず、記憶をたどって見積書のみをつくりました。記憶がまったく違っていたために起きてしまったことです。」


梅井は少し嘘をついた。この見積書は苦し紛れに作ったものだった。前金として支払われたが、直後プロジェクト中止の司令が出て現金を戻した。これで税務署に提出する以外方法がなかったのだ。そうじゃないとこの3500万に対する税金を払わなければいけなかった。それを阻止するための策だったのだ。


元輪は完全に放心状態一歩手前になっていた。


「ほう、ということはこの 10枚の請求書の中にその3500万円が分割されているわけですな。」


「そういうことになるかと思います。」


梅井は完全に失速、エンスト間近だった。さらに下田は衝撃の発言をした。


「このおたくがご丁寧に振り込み返してくれた3500万円はなんのお金か知ってますか?」


「えっ?いや知りません。確か決算の都合上でのことだと楠さんからうちの富矢が言われたようなことは聞いてますが・・・」


「決算?ふっ、笑わせないでくださいよ。このお金はリーフ戸田公園マンションの購入資金ですよ、おたくが買った。」


梅井は完全にノックアウトされた。もう右も左も上も下もわからなくなっていた。


「さらにこれは転売されていて、そのお金はどこへやら。でも社長は個人でマンションを購入しているのに何故会社のお金で支払ってるんですか?自分の会社の金も横領してるんじゃないですか?」


梅井は我に返った。冗談じゃない。そう思った。そして思い出した。楠とのやりとりを・・


梅井は自分の身体から血の気が引いていくのがわかった。完全に楠に騙されていたのだ。はじめからお金を横領するつもりであの話をもちかけていたのだ。梅井はゆっくりと思い出しながら説明をはじめた。


「ちょうど1年前の3月だったと思います。楠さんから電話があり、今月までにノルマを達成しないと大変なことになってしまうので・・・大変なことというのは・・・・藤本社長の落雷があるということですが・・・」


梅井は言いづらそうに言った。そして続けた。


「マンションを買ったことにして申込書だけ記入してほしいと言われました。私は2つ返事で了承しました。なぜなら宣伝部に出入りしている業者のほとんどがやっていると聞いていたからということもありましたし、これは業者の宿命だと思いました。何枚かの書類にもサインしましたし、印鑑証明も出しました。お恥ずかしい話しですが楠さんを本当に信用していたので書類には目も通さずサインをしました。ものの3分くらいだったと思います。確か双葉さんのビルの一階のロビーでした。そしてその後忘れた頃にまた楠さんから電話があり今度は買い手が見つかったから名義変更の書類にサインをしてほしいと言われました。この時は自宅まで来ました。確か仲介業者さんと一緒でしたね。それがどこの誰だったかは全く覚えてませんが。確か毛利株式会社とか言ってたと思います。自宅に戻れば名刺があると思います。それで名義変更が終わったのでもうその事は頭の中から消えてました。それにこの件と3500万円の件がリンクしているとはまったく考えられませんでした」


「現実に起きているんですよ。そのリンクが・・・」


梅井の頭は真っ白でガス欠でバッテリーもいかれ、エンジン再起不能だった。


「今度は請求書を実際書いたその・・・」


「富矢ですか?」


「ああ、富矢さんにもお会いしたいので今週末にそちらにお伺いしましょう。土曜日に。」


「わかりました。」


「梅井社長、本当にあなたは何も知らないのですか?」


下田が今日一番の同情じみた発言をした。


「部長信じてください。私の勉強不足の部分は認めますが、私は一切お金はもらっておりませんし、このからくりのことも知りませんでした。これだけは信じていただきたいです。」


「まあこれから調べればわかりますから。あ、それからしばらくは楠とは接触しないでほしいですな。電話がかかってきても出ないように」


釘をさしたつもりなのだろう。下田は最後まで表情を崩すことはなかった。そして


「今日はお忙しい中ご足労願いましてありがとうございます。」


丁寧に締めの挨拶を告げた。梅井は深く頭を下げることしかできなかった。


後半はほとんどあいずちすら打てず、オブジェみたいになってしまった元輪も信じられない様子で一杯だった。梅井は外に出ると深呼吸をする余裕もなく、ただただ狼狽した。そして、どうやら大変なことになったようだ。率直にそう思い、梅井は富矢へ連絡を入れた。


 「はい、富矢です。」


「俺だ。」


「お疲れ様です。随分時間かかりましたね。」


「予想通りやばい話だったよ。まあ、電話で話すのもなんだからあと十五分もすれば会社に着くからそれからゆっくり話すよ。」


「はい、遅かったからやばいんだろうなとは察知してました。」


「そうか・・じゃ後で。」


「はい。」


電話は切れた。言葉とは裏腹に実はどうってことのない話だろうと富矢は予想していたのだ。梅井に限ってピンチに立たされることなんてありえないと思っていたからだ。それほどの強運の持ち主なのだ。しかしその予想を大きく上回って初めて梅井がピンチに立たされることになるかもしれない。そんなやばいこととは一体どんなことなのだろうか?楠の件であることは間違いないだろうが、どんなことなのだろうか?梅井を待つことにした。


 


「ガチャ」


梅井が戻ってきたのはそれから15分後くらいだった。


「お疲れ様です。」


「ああ。」


「どんな話だったのですか?」


梅井から一部始終を聞いて富矢は不思議な感覚にとらわれていた。あの楠という男は一体何者なのだろうか?今までの人格が全て打ち消された。話の途中で何度も富矢の携帯が鳴った。全て楠からの電話だった。梅井は携帯の電源を切っていたためだ。梅井の指示で富矢は電話に出ることはしなかった。梅井は下田から絶対に接触をとってはいけないと告げられていた。忠実に守る決心なのだろう。しかししばらくすると富矢にこう言った。


「楠さんに電話して状況を説明してあげてくれ。」


梅井はここまできても楠を案じて止まなかった。


富矢は楠の携帯へ電話を入れた。


「はい、楠です。」


「富矢ですけど、今大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫ですよ。」


いつもの楠の暗く低い声が携帯越しに聞こえてくると嫌悪感でいっぱいになった。


「社長からの伝言です。先方は全てお見通しです。私は接触するなと言われたので今後はこちらから連絡もしませんし、かかってきても取り次ぐことはしないと思います。」


的確に伝えた。そのとき、楠は電話の向こうで


「そうですか・・・・わかりました」


とだけ言った。富矢は


「それでは失礼します。」


といって電話を切った。楠は全てを悟っているような感じすら伺えた。諦めなのか?それとも最後のプライドなのか?いつか楠のことをこう評した者がいた。


「楠さんはクライアントでいることが好きなのよね。発注者の権限を最大限に利用するところが嫌い。クライアントは何を言ってもいいと思ってる。」


当時この発言を聞いたときはなんのことやらさっぱりわからんと思っていたが、今はなんとなく・・いやはっきりと意味がわかったような気がした。楠は一般的にクライアント面はしていない。人に物を頼むときは低姿勢な頼み方である。それに接待の強要や金のキックバック、さらに無茶苦茶な頼みごとは一切してこなかった。だからあの発言がさっぱり理解できなかったが、実はそんなことなかったのだ。こっちが完全に麻痺していただけで、実はとんでもないお願い事をされていたのだ。しかもやり方が実に巧妙である。時間をかけて相手の信用を得る。そして業者の弱みをうまくついてこっそりとさりげなく頼み事をする。その頼みごとに答えるとしっかり仕事を提供する。これで完全に業者は食いつく。そしてできるだけ長い時間接するようにする。持ち前の物腰低い口調で業者の目線で考えているようにみせるのだ。そして一切金に絡む頼みごとはしない。業者は真面目な人間だと信じ始める。さらに双葉の課長ともなれば俄然社内で力を発揮するためさらにエスカレートしていく。広告予算も楠が握っていた。今回まさにその手口にのせられたのだ。そう考えないと今回の件の説明がつかなかった。かなり誇大な想像ではあるがそう考えざるを得なかった。


 梅井は動揺、呆然、唖然、驚愕、怒り、苦しみ、悲しみといった描写を全て併せ持った表情を浮かべていた。今まで梅井に絶大な信頼をよせていた富矢はこんなに頼りない梅井を見たのは初めてだった。しかしそんなことを言ってる場合ではなかった。かけられた容疑をはらすべく対応をしなくてはいけない。富矢の頭の中はすでにそれでいっぱいだった。


「冷静に考えるとおかしなことがたくさんある。だいたい双葉がうちを訴えて、うちが楠さんを訴えるというその方程式が間違ってますね。」


梅井は一瞬きょとんとしたが


「そうだな。よく考えたらおかしいな。」すぐ気を取り直した。


「そうですよ。楠さんは当時双葉の社員なんだからうちが訴えるのは双葉不動産に対してですよ。それに楠さんの意見は会社の意見として見なされてもおかしくないはずです。」


富矢はいたって冷静に話しをした。梅井は完全に冷静さを欠いているのだ。この状況を整理することすらできなくなっているのだ。ここは自分がしっかりしなくてはならない。富矢はそう言い聞かせた。さらに、


「楠さんは許せませんね。」こう付け加えた。これは単純に梅井の気持ちを、にごっている心の中を掃除する意味を込めて言った。


「本当だな。」


静かにそう答えた。それが精一杯のところかもしれない。無理も無い。これだけの年月を信頼という名のもとに関係を続けてきた2人である。いくら割り切ろうとしてもそう簡単に割り切れるものではない。しかし梅井は楠に何故これほどまでに入れ込んできたのだろうか?これは常々感じていたことであり、何度か梅井に尋ねたこともある。しかしいずれも梅井の答えはあいまいなものでしかなかった。運命共同体。言い方は古いが梅井の中ではそんな思いがあるのだろう。もっと大げさに言えば昔の戦友とでも言おうか。それくらい苦楽を共にしてきたということになる。それはわからなくも無い。しかし現実梅井はその戦友楠にまんまと騙されているのだ。これが現実なのだ。ここから逃げることはできないし、さすがにそれは富矢が許すことはできない。そしてこれから何が起こるかまったく予想ができないのだ。そのためにも心の準備が必要になってくる。


 沈黙のあとため息が漏れる。これの繰り返しだった。宅配の弁当をとったものの2人とも箸は進まなかった。今後の対策の具体例も出ず、ただ自分達の身の潔白を誓ってこの夜は終了した。3日後下田がここへ来ることを言われたと梅井は言った。富矢は来るならこいと言わんばかりの返事を返した。


 翌日、御苑広告社は通常通りの業務を行うはずだった。しかし早速事態は動いた。双葉担当の蓮山はなにやら重苦しい電話をしていた。富矢は聞こえないふりをした。電話が切れると蓮山の視線を熱く感じた。その熱さに負けて目を合わす。蓮山は深刻だった。富矢はまたいたって冷静に


「どうした?」


と聞いた。蓮山は


「今、双葉から電話があったのですが、うちはしばらく取引停止らしいです。」


「は?誰が言ってた?」


「担当の葛西さんです」


「理由は何か言ってたか?」


「いえ、理由はわからないそうです。ただ元輪取締役から言われたそうです」


「元輪さんから?」


富矢は驚いた。ある種の裏切り行為ではないか?この事実を知っているのは元輪と下田だけのはずなのにわざわざこんな面倒なことを自ら引き起こしている。何故だ?少なくとも元輪は御苑の味方だと思っていただけにまたもショックを受けた。


「そうか。俺が話してくるから少し待っててくれ」


「はい、わかりました。うち、何かしちゃったのですか?」


「いや・・・何もしてない」


「わかりました」


蓮山は不安を隠せぬまま自分のデスクへと向かった。


「おい、高木、神嶌不動産へ電話して、リスケのお願いをしておいてくれ。できれば明日の午後がいい」


「どなたとアポイントですか?氷川次長でよろしいですか?」


「ああ、そうだ。俺がと言えば何も言わんよ」


富矢は、高木という若い営業マンの心を全て読み取った上で話をした。


「わかりました」


高木は安心したかのように大きな返事をした。


富矢に動揺は全く無かった。いささかの驚きはあった。それはスピードだった。まさかこんなに早くこういう事態に陥るとは予想外だった。しかしこうなることは遅かれ早かれわかっていたのだろうからそんなに動揺はなかった。話せばわかってもらえるだろう。そう信じている自分が少し恐くなったが逆に言えばそう考えないと前に進めないということだった。富矢は会社を出ると、すぐにタクシーを拾った。そして、行き先を告げると携帯電話を取った。元輪の携帯の番号をダイヤルする。


「富矢です。」


「どうも、お世話様」


いつもの元輪のおだやかな声が流れてきた。


「今、話せますか?」


「大丈夫だよ、どうした?」


元輪はものわかりのいい理解力のある取締役だった。


「いや・・・実は・・・やっぱりうちは取引停止ですか?」


「あーその件ね」


元輪は急によそよそしくなった。電話であってもその様子が見てとれた。


「はい」


富矢の返事には覇気がなかった。


「しばらくは様子を見るという言い方しかできなかったんだよな。だから少しの間だけ我慢してくれ」


「わかりました。ただ実際とりかかっているものもあるので、それは実行させてもらってよろしいですか?」


「そうだね、とりあえずそうしておいて」


元輪の取ってつけたような口調には嫌悪感を覚えるほどだった。


富矢は何か奥歯に物がつまったような気もち悪さを感じ取っていた。しかし今ここで屈するわけにはいかないのだ。とりあえず仕事が繋がる方向で動いて行こうと決意した。今までみたいな元輪の歯切れのよさは全く影をひそめていた。直感でこれからうちにとって不利なことがたくさん起きそうだ。そんな嫌なことも考えてみた。


「元輪取締役」


「ん?」


「これからお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「これから?」


「はい」


「あー、構わないよ」


「お忙しいならまたにしますが?」


「いいよ、待ってるよ」


「ありがとうございます」


電話は切れた。何だろう、あの迷惑そうな感じは?やはりサラリーマンとはそういうものなのだろうか?自分の立場を考えると今問題を起こしているであろう会社の人間とマンツーマンで会うのは腰がひける。まさに典型的だ。それでも富矢はここで会うことに意味があると確信していた。


双葉不動産の受付で元輪を呼び出した。するといつもは応接室へと案内されるのだが、今日に限っては、受付の向かい側に用意されているソファで座って待つように指示された。待つこと5分。元輪取締役が降りてきた。


「ちょっと出ようか?」


社内だとまずいということだ。


「はい」


富矢は短く返事をし、元輪の後ろを歩いた。会社を出て数分歩いたところの地下に昔ながらの喫茶店があった。店の名前は「車路」。昭和の香り漂う懐かしくもちょっと怪しい雰囲気の喫茶店だった。


「いらっしゃいませ」


見た目60を優に超えているおばちゃんの威勢のいい声が店内に響いた。ほかの客はいんかった。


「どうぞ」


元輪に促され富矢は指定されたソファに腰をおろした。


「この度は申し訳ないね。社内に広がるのをおそれたんだよ」


「そうでしたか」


「うん、あっ富矢くん、何にする?」


「ホットコーヒーで」


「じゃ僕もそれ」


その後あまり会話ははずまず、終始同じことを何度も繰り返していた。


富矢は返す言葉を失っていた。


「いずれにしても楠に事情を聞いてはっきりするまでは辛抱していてもらうしかない」


元輪は本望ではないということをアピールしたようだった。


「わかりました。なんとか凌ぎたいと思います。うちの社長はこのこと知っているのでしょうか?」


「いや、梅井さんには言ってないね。富矢君から言っておいてくれる?」


元輪のこういう逃げの姿勢がどうにも納得いかなかった。梅井に話をすれば撤回される勢いで反論されるのを恐れているに違いない。それを富矢に押し付けているだけなのだ。


「わかりました。では、梅井には私から話しておきます」


少し大きめの声で言った。しかし、富矢の予想は大きくはずれた。梅井はこの話に


「そうか、仕方ないな。この件が片付くまでは我慢しよう。逆にいい機会だ。他の新規クライアントの開拓でもしよう」


梅井らしからぬ発言だった。それほどまでにダメージだ大きいのだ。富矢はつくづく感じた。


「わかりました。明日から社内でそういう方向性にシフトチェンジしてみます」


 


 それから2日後の土曜日の朝10時頃、梅井から自宅へ電話が鳴った。


「はい、もしもし」


「俺だ」


「おはようございます」


「おはよう。今下田さんから電話があって、来週の火曜日に延期してくれって電話が入った。全くふざけたやろうだ」


「は?本当ですか?」


「ああ。なんか俺も冷静になって考えてみるとおかしなことも多いんだよな。ま、今日はとにかく延期だから」


「わかりました」


電話を切ってから富矢はしばらく考えた。というよりも今までの話を整理してみた。架空の請求書を書いてそれを振り込む。そこからいくらかキックバックしてもらうというやり方は噂でどこそこの代理店とデザイン事務所で行われているという話は聞いたことはあるが現実的に目の当たりにしたことはない。今回のケースは謎に包まれてしまっている。記憶も辿ってみることにした。まずは2年前だ。あの時富矢は楠が言った、11月決算、という言葉を今の今まで信じていた自分が情けなかった。しかしながらあの頃は全く言葉をうのみにし、迷わず梅井に報告したのは覚えてる。そして指示通りに請求書を書いた。もちろん架空だ。そしてその額が合計で1500万。現金で返金した。アタッシュケースに入れて双葉に直接持って行った。そしてみんなのいるフロアで渡した。なんの疑いもなかった。領収書をもらったのは正当性を確かめるためだ。立派な公的領収書だった。しかし手書きだったため、不安に思い確認したのを覚えてる。立派な公的な領収書だと念を押され疑う余地はなくなったのだ。3500万円の時は事情が違うがそれも決算の都合で・・・という理由だった。なんのために?そんなことをするのだ?うちみたいに数人でやってる会社とは訳が違う。上場会社だ。ワンマン社長は裸の王様でその家来達は悪知恵に長けている。だから決算のためにいろいろと操作することがあってもおかしくない。しかし、決算は経理がやる仕事だ。経理といえば、あの下田がヘッド。まさか?下田が実は主犯か?そうなると少し見えてくるものもある。しかし、やっぱりおかしい。富矢は少し落胆した。もし、下田が主犯だとしたらこんな周りを巻き込むようなことはしないだろう。もっとスマートにお金を動かすことができる。ということはやっぱり決算なんて関係のないことだと言える。これはこれでへこむ。無知な自分に腹が立つ。そういえば、楠は昨日も会社に来ていなかったようだ。オリエント建物の伊東社長は風邪がひどいといっていたが、本当なのだろうか?この一連の件で参ってしまっているにちがいない。しかし梅井が接触を絶たれた今富矢も電話をする勇気はなかった。ここでまた疑問がわきあがった。双葉は楠を呼んで話をしたのだろうか?きっとまだしていないはずだ。だとすれば何故梅井だけを呼びつけたのだろうか?素朴な疑問だった。単なる国税からの調査であればまだわかる。しかし楠の名前を出してそれに梅井も絡んでるなんて言い方はどう考えても不自然だ。あり得ない。これは何か大変なことが裏にひそんでいるような気がしてきた。下田が言った訴える先もおかしければ楠を呼んで話をすることだって可能だった。1日も早く下田に会いたくなった。しかしここは焦ってはいけない。富矢ははやる気持ちを押さえた。元を辿ればうちに税務署が入った時に適切な対応ができなかったのが大きなミスなのだろう。梅井はそれをどう思っているのだろうか?


 


 



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Switch 水貴 @yaddy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る