第21話 母さんの歌声

 夜八時ごろになって封じられていた扉が開いた。出てきたのはエリザベス一人、表情一つ変えはせず、紫苑と萌黄が暇つぶしに見ていたテレビの前に腰を下ろしている。

「坊やも随分マシな顔になったじゃねえか」

 円らな瞳と目が合うなり、エリザベスはぶっきら棒に鼻で笑った。

「何があったのかは知らねえけど、もう二度とあんな落ち込んだ顔見せんなよ。あたいがイライラしてくるんだよ」

「わかってるよ。それよりもエリザベス、母さんに付き添わなくてもいいの?」

「ああ、あたいが預かってた鬼灯の魔力の一部を、鬼灯に注いでおいたからな、当分鬼灯はもつだろ。あたいにできんのはここまでだ。あとは全部棗にかかってる」

「母さんの儀式の方はどうなった?」

 エリザベスは答えなかった。答える前に、あの扉の向こうから答えが返ってきたのだ。棗の声が旋律となって部屋の奥から溢れ出てくる。聖歌のような流れるフレーズを、無伴奏でここまで歌い上げるのはプロの歌手でも難しいのではないだろうか。寂れたアパートの一室は、彼女の声で震え上がっている。

「聞いての通り、第三段階――生命の旋律に入ってる。これさえ成功すりゃ鬼灯は助かるだろうな。逆に、鬼灯の傷が戻るより先に棗の喉が枯れてしまったら、棗まで道連れだ」

「……母さんの声、綺麗だね」

「だから魔王妃になれたんだ。これほどの歌唱力がなかったとしたら、商人の家系に生まれた棗が魔王妃にはなれなかったと思うぜ。魔王妃になる最低条件の一つが、儀式のための歌を歌えることだからな。はっきり言ってお前らが生まれたのも、この歌声のおかげでもあるんだ。感謝しとけよ」

 命と命を懸けた歌声は途切れることなく続いた。一時間続き、二時間、三時間――いつしか紫苑も萌黄もテレビをつけたまま眠ってしまっていた。彼らをも癒す子守唄は留まることはなく、途中声を震わせながらも、ずっと続いた。

 瞼に眩しさを感じて、紫苑は目覚めた。決意をした夕日のような輝きの朝日が昇り、玄関側の窓から強い日差しを運び入れている。

 歌声は、もう聞こえていなかった。

 もう大人しくしていられなかった。嫌な予感ばかり脳裏をよぎる自分を振り切って、紫苑は|空想(アピス)で寝室に入り込んだ。

 部屋は静かだった。いつのまにか窓は開かれ、そこから朝風が新しい空気を流している。

「母さん……?」

 棗は寝室に敷かれた布団の上で気を失っていた。

 そしてその傍らには、彼女の喉を氷嚢で冷やしている、父の姿があった。

「父さん……?」

「すまない、紫苑」

 銃弾であけられたであろう穴だらけの紅い服。その奥にあった痛々しい姿はもはや存在していなかった。鬼灯は棗の肩に布団を掛け、紫苑に振り向いている。

「父さん、大丈夫なの!?」

「まだ身体の感覚はほとんどないが……しばらくすれば元に戻るはずだ」

「ほう、お前って本当、ゴキブリ並の生命力の持ち主だな」

 鬼灯によって開けられていた、リビングに通じる扉からエリザベスは顔を出した。さらに大あくびしながら現れた彼女の背後からは、萌黄の姿もあった。

「父さん、無事なんだね!」

 萌黄はためらわず鬼灯の胸に飛び込んでいった。泣きつく萌黄をなだめながら、鬼灯はゆったりした歩調で歩み寄るエリザベスに向いている。

「エリザベス……お前こっちの世界に来ていたのだな」

「ふん、悪かったかよ。そのおかげでお前は生きてんだぜ、感謝しろよ。それよりも棗は大丈夫なんだろうな? お前の傷を治すための身代わりになったら意味ないんだかんな!」

「彼女は無事だ。しばらく眠らせてやらんとならんが、命には問題ないはずだ……それよりもお前、久々にあったというのにその口の利き方は何だ? 会って早々喧嘩を売るとはいい度胸だな」

「はっ、お前は本当に偉そうだよな。はっきり言って子どもたちのほうがよっぽど素直でいい奴じゃねえか。それにお前はわかってねえ、さっきも言ったけどお前が生きてんのはこのエリザベス様のおかげなんだからな。それをわきまえて口を聞くようにしろよ」

「猫の分際でよくそんなことが言えるな。あとで皮を剥いでやろうか……肉はカラスにくれてやろう。私はそんな汚らわしい肉など食う趣味はないのでな、ありがたく思え」

 他者に対して常に上から目線を飛ばす二人の諍いは簡単には止まらない。止めなければならないが、紫苑はまだ止められそうになかった。やっと訪れた平安の日々なのだ。少しぐらい悪ふざけしてもいいのではないか。

 ほら、母さんだってちょっと、微笑んでるみたいだし。

 五分ほどで決着がつかないまま諍いは、鬼灯の咳払いによって強引に止められた。

「――エリザベス、母さんの世話を任せるぞ」

「何だよ偉そうに、それでお前はぐうたらするってのかよ。やってらんねえ、あたいはしないぜ、罰としてお前がするのが常識だろ」

「誰がぐうたらするか、お前ではあるまいのに。私は……もう一度戻る」

「戻るって、どこにだよ?」

「戻るって言ったら一ヶ所しかないだろう、魔界だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

我が家は魔王一家 西臣如 @y_nishiomi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ