第三話 酒井伸太郎 二

 ――いや、ちょっと待て。何かおかしくないか?

 そういえば、創作活動に没頭していた高校から大学にかけての頃は、徹夜で小説を書き上げることが月に何度もあった。そして、それが全然苦にならなかった。

 今でも豆腐のことになると何時間でも作業に没頭してしまう。そして、その間は食事すら後回しになっている。

 だから、決して「何かを作り出したい」と思う伸太郎の熱が低いわけではないのだ。

 ただ、小説執筆の時は読者不在のまま独走してしまったために、結果として自分の熱量を読者と共有することが出来なかった。それに、彼自身がはじめから読者を選別してしまっていた面もある。

 となれば今回の豆腐作りも、どこか誤った方角を向いているか、あるいはお客さんのニーズを考えていないために、満足のいく味が再現できていないのではなかろうか。

 しかし、そこまで考えてみて伸太郎は先に進めなくなった。

 ――でも、だったら、どっちの方向に進めばよいのだろう?

 喫緊の課題は「小暮の大将を納得させる豆腐」作りを成功させることである。だから、当面のお客さんは小暮の大将でよいことになる。

 しかし、そのためにどちらの方角を向いて進めばよいのか、伸太郎には皆目見当もつかなかった。

 豆腐の製造方法に、根本的な間違いがあるわけではない。そうでなければ、一般のお客さんからクレームが出るはずだ。先日、大将のところに持っていった豆腐も、拘りがなければ気がつかないほどの味の差である。

 また、父の豆腐の味を忘れてしまったわけでもない。生まれてから毎日食べてきたものだから、違いぐらいはすぐに分かる。今の自分の豆腐は、完璧とまでは言わないが、かなり父のそれに近付いているはずだ。

 それとも、原料の質の差だろうか。大豆は父の頃と同じ卸業者を使っているが、最近の大豆はかなりの量がバイオ燃料の製造に回されているために、食用大豆の価格が年々高騰している。

 それをそのまま豆腐の価格に転嫁しようとすると、個人経営の豆腐屋では数ヶ月単位で値上げを余儀なくされるから、一般客の離反を招きかねない。

 従って、大豆の購入価格のほうを抑え気味にしているのだが、そのせいで大豆の品質に影響が出ているのではないだろうか。

 現在時刻は午前四時半。

 季節は夏だが、二十三区内ではないから、朝はそこそこ涼しい。

 伸太郎は作業場に降りて、前日の夜から水につけてある大豆をつまんで、口の中に放り込んでみた。


 ちなみに生の大豆は決して美味しいものではない。伸太郎はたまに客から「健康のために生の豆乳を飲みたいのだが」と言われることがあるが、基本的に断っていた。

 豆腐屋としては正直、製造途中の原液を渡すようなものであるから、気持ちが良くない。それよりもなによりも、生の豆乳は本気で不味い。

 かなり強引に口説かれて渡したこともあるが、二度目をお願いされることはなかった。スーパーで売っている豆乳飲料は、大幅に成分が調整された豆乳とは呼べない代物なのだが、それを知らない人は多い。


 伸太郎は柔らかくなった大豆を奥歯でつぶし、舌を使って口の中に広げてみる。味に別に変わったところはない。

 しいて言えば、最近の米国産大豆は昔に比べて味が薄くなっているように感じるものの、かといって豆腐になった時に味に差が出るほどではないと思う。少なくとも、伸太郎でも違いは分からなかった。

「駄目だ、全然分からない」

 伸太郎は思わず弱音を吐く。頭の中にある弱音と言語化された弱音では、後者のほうが格段にダメージが大きい。父の介護施設の開所時間は午前十時からであったから、それまで伸太郎は、このダメージを抱え続けなければいけない。

 彼は大きな溜息をついた。

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黒窓町商店街振興会 阿井上夫 @Aiueo

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