6ー2
決戦の日から、狐狸ヶ崎の街で怪異を見ることはもうなくなった。
鳩羽が消えて、蜘蛛の子を散らすように怪異もいなくなったと、永瀬から聞かされて知った。
そして、一学期の終業式も終わり、待ちに待った夏休み。
近くに海でもあればよかったが、あいにく市民プールしかない。
それでも、狐狸ヶ崎の住民にとっては、近場で涼を満喫できる快適な施設なのだ。
けれど――。
貴重な休みに、なにが悲しくて学園に行かなくてはいけないのか。
その理由はただ一つ。
部活……ではなくて補習だ。
俺は家庭科の、そして芽依は現国と数学、体育とかいろいろくらっている。
軽そうな見た目からは想像付かないけれど、鏡也はテストこそ平均六〇点台とあまり高くはないが、赤点もなく授業にもちゃんと出ているため、補習はなし。今頃、気になった女の子をナンパして振られていることだろう。その様子を思い浮かべ、俺は一人ほくそ笑む。
本日予定の日課をすべてこなした俺たちは、二人並んでいまは坂道を下っている。
今日は運のいいことに、割り振られた教科が午前終わりだった。
お昼を学食で済ませた後、帰路に就いたんだけど……。
「あのさ、芽依」
「なあに、陽ちゃん?」
いつも通りの、なにも考えていないような顔をして芽依が振り向いた。
先日の約束を反故にしてしまうことに罪悪感が募るけど、芽依にはちゃんと断らなければいけない。
「俺さ、これからちょっと用事があるんだ。だから、その悪い。今日は一緒に遊べなくなった」
そう、俺には大切な用事がある。
本当は、芽依とプールに行く予定だった。永瀬も誘ったんだけど、退魔の巫女の修行があるとかで断られた。そして、ある頼みごとをされたんだ。
だから、芽依には悪いけど、今日のところは勘弁してほしい。
「そうなんだぁ。でもわたしも、帰ったらお掃除しなさいって、そーちゃんに言われてるからね。残念だけど、今日はもうお開きかな?」
てっきり駄々を捏ねるかと思ったけど、素直な反応が返ってきて、内心ホッとした。
「そうなのか。まあ、まだ夏休みはあるし、この埋め合わせはまたするよ。それより芽依、掃除の途中で寝たりするなよ」
「む、陽ちゃんはわたしを見くびりすぎだよ。わたしだって、やれば出来るもん」
そのやれば出来るっていうのは、ぜひ、部屋の掃除ではなく、普段の授業で発揮してほしいものだ。……なんてこと、わざわざ口に出して言ったりしないけど。
芽依の補習の数はクラス一。幼馴染としては、この先不安を感じてしまう。
「あ、そうだ。わたしね、そーちゃんにお使い頼まれてるんだー。これから商店街に行くんだけど、陽ちゃんはどうする?」
「俺はいいよ。また今度、一緒に遊びに行こう」
「そうだね。じゃあ陽ちゃん、わたし急ぐから、またね!」
「おう!」
じゃ! と手を上げ、炎天下でもお構いなしに、芽依はてててっと元気に駆けていく。
その背中を見送りつつ、
「途中で溶けてなきゃいいけど……」
小さな心配事を吐露する。
「あ、俺も早く支度しないと」
茹だる真夏の暑さも、これからすることを思えば、我慢できるというものだ。
駆けていった芽依とは別方向に、俺も走り出した。
家に帰って、今朝仕込んでおいた冷蔵庫の中の、鍋の中身を確認する。
鍋の中には、甘く煮付けた油揚げが七枚。
これまた早起きしてわざわざ作った酢飯を、その油揚げに詰めていく。
「あいつは、喜んでくれるかな」
つい先日いなくなった、我が家のもう一人の住人。稲荷寿司を美味しそうに頬張る、お狐様の姿が目に浮かんだ。
永瀬から、お稲荷さんを供えるという重要任務を仰せつかり快諾した俺は、こうして稲荷寿司を作るという、天音がいた時とさほど変わらない日課ならぬ週課をこなしている。
けれどぜんぜん苦には感じない。むしろ楽しくて嬉しくさえ思う。
いなくなっても、物理的に接触できなくても、精神的に繋がっていられるんだから。
最後の一つを俵型に包み終え、つい出来栄えに感心してしまう。我ながら、ずいぶん上手くなったものだと。ちなみにこれは夜坂のレシピではなく、我流のお稲荷さんだ。どうせなら、自分の稲荷寿司を供えたいから。
弁当箱に寿司を詰め、冷凍庫から保冷剤を念のため三つ取り出し、巾着型の袋に弁当箱と保冷剤とを入れる。
冷蔵庫からもう一つの小さな鍋を取り出して、かき玉汁を水筒に注ぐ。
「よし」
ふたを閉め、もう持っていくものがないかを確認する。
準備が整い、着替えることもなく、学校の制服のまま俺は家を飛び出した。
ママチャリをせっせと漕いでやってきたのは、天音が封印された千歳稲荷だ。
天音と出会い、そして別れた場所。
忙しない蝉の鳴き声が、しゃわしゃわと階段に降り注ぐ。
この五十段の階段は、そこに天音がいないと分かっていながらも、期待せずにはいられない高揚感を抱かせる。
別れたあの日からも、何度かこうして足を運んでいるけれど……
「ああ、やっぱり、今日もいないのか」
階段を上りきる寸前。視界をかすめた境内は、ごく自然なままの変化なき日常風景だった。
当たり前のことを、当然のように呟いてため息。
俯き、境内に穿たれた穴を後目に、天音の封印された御神木まで歩いていく。
新たな注連縄を巻かれた立派な御神木。内心、解いたらまた天音に会えるんじゃないか? なんて邪な思いが湧き上がってくるも、恐れ多くて縄にすら触れないチキンっぷりを晒していた。
永瀬が設置してくれた、一メートルくらいの高さがある朱色のお供え用の台の上に、持ってきたものを乗せている、
と――
ビュゥー、と一陣の風が背後から吹きぬけた。
――ボトッ。
「遅い!」
「えっ……」
そして声。
それは、目の前で注連縄が切れたのと同時に聞こえた。
誰も参拝しないこのボロ稲荷で、背後から声をかけられたことにまず驚いた。
そして、注連縄が、切れたこと。
やがて落ち着き、頭の中で記憶が錯綜する。
声の主が誰なのか、ポーズまで想像できる威圧的な音質、幼い声。
わざわざ記憶を辿ることなんて必要ない、なかった。
そんなやつ、俺の中には一人しかいないんだから。
ゆっくりと振り返る。
案の定、そこには見知った顔があった。
最初に俺が気絶し頭を下げていた賽銭箱に、腕組しながら仁王立ちしている小柄な女の子。
日の光に透き通る白銀の髪と、同色の獣耳。ふさふさとしてもふもふな、触り心地のよい束ねた高級毛布みたいな豊かな尻尾。肌は新雪のように白くきめ細やかで、着ている衣も穢れを知らない、眩しいくらいの純白だ。
「あ、天音……」
「主殿、ずいぶん遅かったではないか。わしは待ちくたびれたぞ」
にこりと、犬歯を見せて笑う。
声とは裏腹に、表情はとても柔らかい。
「なんで、お前、いるんだよ」
「わしがここにおったら悪いのかや? ここはわしの神社じゃからな。わしがここにおるのは、至極当然のことなのじゃよ」
ふふっ、と鼻を鳴らしたと思ったら、次の瞬間には、ぴょんと賽銭箱から飛び降りていた。
とことこと、小さな歩幅でこちらへ向かってくる。
目の前までやってくると、向こうの世界が透けて見えるような青色の瞳で見上げてきた。
「お、それは供え物じゃな。感心歓心。……ん? なんじゃその間抜けな面構えは? 地獄門の門番みたいにどーんと構えておらんか、情けない主殿じゃな」
いや、地獄門の門番なんて俺は見たことないし、そもそも間抜けな顔をしていると言われるほど腑抜けてねえよ。
「ああ、そうだった。……寿司、た、食べるか?」
「うむ、頂こう。にしても主殿、少し会わなかっただけで、ずいぶんと余所余所しくなったものじゃが……?」
「そんなことない、だろ」
本音を言うと、少し気まずい。
仲のよかった友達とクラスが別になり、疎遠になってたまたまばったり出くわした、みたいな気まずさに似ている。
別れてからまだ二週間くらいしか経っていないのに、天音とどう接していたのか、微妙に思い出せなくて戸惑っている。
別れた時は、あんなに寂しかったのに……。
きっと、夢でも幻でも、こうして目の前に出てきてくれたことが嬉しいんだと思う。
だからテンパってるだけだろう。
「そうかの?」
なんて小首を傾げながら、天音は賽銭箱前の階段を指差した。
肯き返し、台座に乗せたばかりの巾着を手に、天音の背中について歩く。
階段に並んで腰掛け、中から水筒と弁当箱を取り出すと、
「おおっ! 待っておったぞ! 待ち侘びておった!」
ぱぁっと花が咲いたように明るい表情を浮かべる天音。
これは夢なのか幻なのか……現実か……。
不安に思い、そうっと、そのピンと立てられた機嫌の良さそうな耳に、触れてみた。
「ん? なんじゃ主殿。そんな狐につままれたみたいな顔をして」
「……つままれたんじゃなくて、俺が今つまんでるんだよっ!」
なんだ、本当に感触がある。
これは――
「本物、なのか?」
「なにを今更。なんなら抱きしめてみるかの? わしは意外とぬくいんじゃ」
「知ってるよ、そんなこと。というか、真夏は暑いだろ。冷房利いてる部屋ならまだしも」
んー! なんてカンタみたいにむっつりと、稲荷寿司と紙コップに注いだかき玉汁を天音に押し付けた。
満面の笑みでそれらを受け取ると、「いただきます」とちゃんと我が家の家訓を守りつつ、天音は美味しそうにそれらを食べ始める。
なんで封印解けてるの? って質問したかったけど、今は食事中だし、嬉しそうだから、もう少し待ってあげよう。そこまで急を要することでもないと思うし。
けれど一抹の不安が脳裏をよぎる。まさか、これは俺のせい? おかしなことを望んでいたから、注連縄に触れようとしていたから、こいつは大して休む間もなく出てきてしまったんじゃ……。
憶測の域はまるで出ない。とりあえず、食べ終わるのを待つか。
やがて食事を終えた天音は、満足そうに小さく息をはいた。
「相変わらず美味いの、主殿の作る飯は」
「また粗雑なとか言うんだろ」
「なんじゃ根に持っておるのか?」
「そんなわけないだろ、子供じゃあるまいし。それでも、天音は夜坂の稲荷寿司の方が好きなんだろ?」
「なんじゃ、妬いておるのか」
「……んー」
別に、そんなんじゃないよ。
歴史が違うんだし、勝てるだなんて思ってもみない。
けど少しくらい、こっちが好きだって言ってくれても、いいんじゃないかなとは思う。
「でもわしは、お主の作る物の方が好きじゃよ」
「…………」
「なんじゃ、嬉しくないのか?」
「いや……。ていうか、また心読んでたな」
「何を言うておるのかは分からんが、まだわしは、お主に憑いてはおらんよ」
え……。
ていうことは、今のは、本心?
「なんじゃころころ表情を変えおって。わしがおらん間に、ずいぶんと気味の悪い男になったものじゃな、主殿」
うるさい、なんとでも言え。
俺はいま、天地がひっくり返っても喜べるくらい、嬉しいんだ。なんと言われようとも、この小躍りしたいくらいのカーニバルな気持ちは、お狐様なんぞに分かってたまるか。
そんなこと、天音に憑かれてたら死んでも心には思えないけど。
「あ、でもそういえば、天音はどうしてここにいるんだ?」
「ここはわしの神社じゃと、さっきから言うておろうに――」
「いや、そういうことじゃなくて」
俺の意図した質問の内容と答えが噛み合ってない。
いや、答えとしては正しいんだろうけどさ。
意思疎通のしやすさで言えば、憑かれていた時の方が数倍楽だったな。
これはこれで新鮮味があって、楽しいけれど。
「分かっておるよ、そんなこと。封印が解けたからに決まっておろう」
「もしかして、永瀬の舞が不完全で、縛りが緩かったのか?」
「はぁー、お主がここまで腑抜けになっておるとは、露ほどにも思うておらなんだよ。平和ボケもここまでくると潔いというか、見事、天晴れじゃな」
幻滅されたみたいに、大きな落胆のため息。
やっぱり、俺は腑抜けていたんだろうか?
そんな気落ちしなくても……。
「お主、前に説明したことをもう忘れたのかや?」
「説明?」
「わしの封印と――」
「あっ! まさか、鳩羽が復活したっていうのかよ!」
「わしがここにおる以上、そう考えるのが自然じゃろ。期間が短いため、あやつがどうなっとるのかは見当もつかんが」
なんてこった。あんなに感動的な別れ方をしたっていうのに、死にかけたっていうのに、たったの二週間で封印が解けるだなんて。
「これって、もしかして最速だったりするのか?」
「今までで最短じゃな。まさかこれほど早く、お主に再会出来るとは思うておらなんだ」
紙コップのかき玉汁を、グイっと一気に飲み干す。
ふぅーと一息つき、天音が不意に顔を上げた。
「ん? なんだよ」
「本当にここには、お主と永瀬家しか立ち寄らんのじゃな」
嬉しいような、哀しいような。そんな複雑な表情を浮かべると、突然天音は立ち上がった。
階段を半分ほど降りたところで、急に立ち止まる。
「また、お主の腕に厄介になろうと思うのじゃが……どうじゃろう?」
振り返り、上目遣いで見上げてくる。
反則だな、そんな顔をするなんて。
可愛いなんて、ぜったい言わないからな。
断る気なんてさらさらないし、願ってもないことなのに。
なのに、尋ねた本人は不安なのだろうか。耳は垂れ、尻尾も落ち着きなく左右にゆらゆらと揺れている。
「そんなの、聞くまでもないだろ。……俺の腕でよかったら、また、世話してやるよ」
改めてお願いされ、それを了承するという契約行為。
始まりは勝手に噛み憑かれたんだけど、こうして新たにやり直すっていうのは、かなり恥ずかしい。
思わず頬を掻いてしまった。
「と、いうわけで――」
「えっ」
返事の瞬間には、すでに天音は跳躍していた。
やっぱり狐なんだ。と思わせる、獣じみた瞬発力としなやかさで。
「よろしく、主殿!」
ガブッ!
「っ!? いってぇぇええええ!」
ささる、ササル、刺さる。
深々と、左腕に残されたシャツの穴へ、寸分違わず天音の犬歯が食い込んだ。
まるで手加減なんて言葉を知らない、子供みたいに全力で。
今なら分かる。あの時、気絶したのは正解だった。
こんなに痛いなら、気絶させてくれればよかったのに……。
再会の日。
千歳稲荷で、再開の狼煙を上げるように、俺の絶叫が木霊した。
かみつき! 黒猫時計 @kuroneko-clock
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