エピローグ

6ー1

 そして、ようやく天音の霊力が並程度に回復した頃――。


「もう、消えちゃうのか」

「うむ、玉藻がいなくなって、わしが現世に残る意味もないしの」


 高台の千歳稲荷。つい先日、鳩羽と死闘を繰り広げたばかりのこの場所で、俺たちは集まった。

 相変わらずの、寂れた貧村みたいな殺風景な神社。に、穴が穿たれた光景はそのまま。略奪者がなにもない村を襲った後みたいに、酷い有様だ。


 どうせなら夜坂神社に封印してもらえばいいのに、またここを選んだのは他でもない天音自身だった。

「この高台から狐狸ヶ崎を見守るのが好きなのじゃ」というのは本人談。


 腕に納まるくらいの小さな狐だった天音は、今は本性である大人の姿で目の前にいる。


「……意味ならあるだろ。稲荷寿司、どうするんだよ。好きなんだろ。もう、食べられなくなるじゃないか」

「それはあれじゃ。朱魅の作った供物を、端から眺めて我慢するわい」

「……吸物。かき玉汁は。美味いって、言ってくれたよな」

「主殿の作る粗雑な飯は、大層美味かったぞ」


 にこりと、天音はいつもの幼い少女のように微笑む。

 言ってることは、少し酷いけど。


「粗雑って言うな、ぶきっちょなだけだ」

「すまんの、気が利かんくて」

「神様のくせに、余計な気を回してんじゃねえよ」


 俺たち二人の間に、微妙な沈黙が流れた。

 嬉しいはずなのに、なぜか悪態をついてしまう。

 ありがとうって、素直にそう言えればよかった。

 この場に一緒にいる永瀬、そして朱魅さんも、どう言葉をかけようか迷っているみたいだった。

 そんな静けさを打ち払ったのは、天音だ。


「……もしや主殿、わしとの別れを、惜しんでくれておるのか?」

「そんな、そんなわけ、ないだろ」


 言えるわけないじゃないか。名残惜しんでるなんて、寂しいだなんてさ。

 子供じゃ、ないんだから。


「――やっぱり、寂しいのではないか」


 声が、した。

 が、声質が違う。

 声変わりした、今の今まで聞いていた大人のものではなく、よく聞き慣れた、小生意気なちびっ子の声。それが下から聞こえてきた。


「あ、お前、ずるいぞ!」

「ふふ、よそ見しとる主殿が悪いんじゃ。不意に心を読まれたくなければ、わしから目を離すではないよ。まだお主との関係は切れておらんのじゃからな」


 一頻りころころと笑い、天音は一息ついた。

 じゃが、と前置きし――


「わしと同じじゃな」


 ぽつりと零した言の葉を、俺は聞き漏らさなかった。

 俺を見上げ、にこりと天音が微笑む。

 寂しげに、切なげに。


「いつまでも現界していられればいいんじゃがな。だが玉藻の封は、またいずれ解ける。それまでに、消耗した霊力を蓄えなければならんから、そうもいかんのじゃ」


 天音が封印されていたあの老木の周りでは、すでに永瀬と朱魅さんがその準備を終えていた。

 四方を縄で取り囲まれた御神木。脇には注連縄が用意されており、結界みたいな縄の内側に設置された朱色の台座には、お神酒と天音が大好きな夜坂の稲荷寿司。そして天音の要望で俺が水筒で持参した、かき玉汁が供えられている。


 もう、お別れなんだ。そんな寂寞とした思いが、心の内から染み出してくる。

 気づけば俺はしゃがみ込んで、天音と視線を交わしていた。


「そんな顔で見つめるでない。決心が、鈍るじゃろ」

「そんな顔って、いま、俺はどんな顔してるんだ?」

「……今にも泣き出しそうな、幼子みたいな顔をしておる。というか、涙ぐんでおるのか?」


 天音は少し困ったように笑う。

 そして腕を伸ばしてきて、真っ白な着物の袖をちょんとつまみ、俺の目元を拭ってくれた。


「アマテラス様から餞別に頂いた、天を紡いで織られた穢れなきこの天漣白胴衣てんれんはくどうい。お主の涙なら、記念に吸わせても良いと思った。心からのう」

「天音……」


 ダメだ。このままじゃ、本当にダメだ。

 心配させないように頑張ってきたけど、もうすでに鼻の奥がツーンとしてる。

 目頭が熱くなってる。せっかく天音が、拭ってくれたってのに。

 いつの間にか、こんなにも俺は、天音に依存していたんだと初めて悟った。


「主殿、苦労と世話をかけたの。お主には本当に、礼を言い尽くしても言い足りないくらい、感謝しておる」

「前にもそんなこと言ってたけど、気にする必要なんてないよ。俺も、楽しかったし」

「楽しいと言ってくれて嬉しいが、それだけではないと、以前話したであろう」


 天音は周囲を見渡すと、物懐かしげに目を細めた。


「お主は、ここを覚えておるか?」


 ここって言うのは、この千歳稲荷のことだろうか?

 だとしたら、覚えてるっていうか、たまにサボりに来てるんだし忘れるわけないんだけど。


「お主に礼を言いたいことの一つは、それじゃな」


 念話で通じた問いに、当たり前みたいに天音が答えた。

 どうやらまだ主人でいていいらしい。


「どういうことだ?」

「主殿はたまに、この神社へやってくる。それは、特になんの意識もなく、たまたまだったのかもしれん。けどお主は、この千歳稲荷を忘れないでいてくれた。ここへやってくるということは、お主が覚えているということだから」

「忘れないことと覚えていること、それがなんの意味を持つんだ?」


 不思議に思い尋ねると、天音はくるりと振り向きながら言った。


「わしら神様はな、人々からの信仰心がなくなると、希薄になり、やがてその存在が消えてしまうんじゃ。宿るその場所も忘却されてしまえば、在ることさえも出来なくなってしまう」

「存在が、消える」

「そう。ほとんど誰も立ち寄らなくなったこの千歳稲荷。それでも、主殿は忘れないでいてくれた。それはわしがここに居ていいという、唯一の救いとなっていたのじゃ。それが、一つ目の感謝」

「まだ、なにかあるのか?」


 問いかけに、天音は一本の木の根元を指差す。

 天音が封印されていた御神木の隣に生えている、御神木ほどではないにしろ、二百年分くらいは年輪を巻いていそうな立派な木だ。


「幼い頃、ここで一匹の狐に出会ったことがあるじゃろ。覚えておらんか?」

「狐?」


 うーん、そんなことあったかな?

 ああでも、そういえば――。


「思い出したかの」

「ああ。もしかして、あの時の狐が天音だったのか?」


 確か小学校の低学年くらいだったかな。

 芽依が、二人でかくれんぼしようって言い出したことがあった。俺は、二人でやったってつまらないだろうって言ったんだけど、芽依は聞かなかったんだ。芽依は昔から頑固なところがあって、一度言い出したら聞かない時がある。


 結局、二人でかくれんぼをすることになったんだけど、二人でやるから自宅周辺じゃ範囲が広すぎる。ってなわけで、場所をこの千歳稲荷にしたんだ。

 そこで、ちょうど天音が指差すあの木の根元に狐を見つけた。でもその狐は、足に怪我をしていたんだ。かわいそうだからって、芽依から受け取ったハンカチで、俺がその狐の足を手当てして……。


「誰がそんなことを言ったんじゃ」

「え、違うのかよ?」


 口振りからしてそうだと決め込んだのに、とんだ肩透かしもいいところだ。


「その狐の娘はな、わしの故郷である霊狐の里から、わざわざ遠路はるばる旅をして、わしに会いに来てくれたのじゃ。その旅の途中で怪我をして、あそこで休んでおったのじゃが。ちょうどそこへ、主殿と芽依殿が遊びにやって来ての、手当てをしてくれた。その時の恩を、わしは忘れておらぬよ。ありがとう」


 感謝を口にし、ぺこりと小さくお辞儀をする。

 神様にお礼を言われるっていうのは、なんだか、逆にこっちが申し訳なく思えるな。

 居心地が悪くなり、紛らわすために髪をわしゃわしゃと掻いた。


「芽依殿にも、礼を言えればいいんじゃがな……」


 申し訳なさそうに眉をひそめ、そんなことを言い零した。


「前々から気になってたんだけどさ、天音は、妙に芽依にこだわるよな」


 起こしに行く時や、芽依殿と名を呼ぶ時など、切なかったり、優しかったり、表情をころころ変えている所をふと思い出した。見ている分には面白かったけど、今にして思えば、どこか引っかかる。


「似ておるんじゃ」

「えっ?」

「芽依殿はな、アマテラス様に、よく似ておるんじゃよ。背格好もそうじゃが、髪を黒くして着物を着せたら、そのまんまじゃな」


 伊勢神宮の祭神に、芽依が、似てる?

 想像してみる。

 古い書物の、挿絵に描かれているような衣装に身を包む、芽依の姿を。


「はは、なんか、馬子にも衣装って感じだな」

「む、主殿、そんなことを芽依殿の前で言うてはならんぞ。アマテラス様に仕置きされてしまうやもしれん」

「ん? ちょっと待て。なんで俺が、日本の太陽神に怒られなきゃいけないんだよ」

「それは主殿が、でりしゃすのない人間だからじゃろ」

「デリシャス? 俺はそんなにも味のない人間なのか?」


 もの凄く致命的だな。

 面白味も旨味も、ましてや人間味すらないってか。


「てれびで言うておったよ。でりしゃすのない人間は嫌われるとな」


 それ、たぶんもなにもなく、憶測なしにデリカシーな。

 しかしなんて間違いをしてくれてるんだ、この狐は。

 危うく俺が、味のないガムみたいな存在になりかけたじゃないか。

 ……いや、ガムならまだいいのか。歯ごたえがある分には。

 というか、お前は文明の利器に影響されすぎだ!

 時代錯誤の神様のくせに、適応力高すぎるだろう。


 呆れてため息をつくと、ふと視線を感じた。

 顔を上げると、そこには、お月様みたいに綺麗なまん丸をした、青い瞳。

 耳をぴんと張り、もふもふの尻尾は微かに左右に揺れ、頬をほんのり赤く染めた天音が、着物の裾をぎゅっと握りながら、こちらを見つめていた。


 そして、綻んだ花びらみたいに可憐な唇が震え、


「主殿に出会えたこと、共に過ごした時間は、わしにとって、かけがえのない大切な思い出となった。忘れられない、忘れたくない、とても大事な記憶じゃ。今生の別れとなろうとも、わしは決して、この思い出を離しはしない。どれだけ時が経とうとも、わしにとって、お主は、本当に大切な存在じゃ」


 一生懸命に言葉を紡ぎ出した。

 天音の瞳が、涙で濡れている。

 それを隠すかのように、天音は俺に背を向けた。

 小さな肩が、小刻みに震えている。


 今すぐにでも、天音を背中から抱きしめたい。

 頭を撫でて、温もりを与えて、いつもしていた添い寝のように、安心させてやりたかった。


 けど、一歩ずつ、天音の背中が離れていく。

 行くな! 行くな! 行くな!

 そう叫びだしそうな心の口を、俺は必死で抑えつけた。

 天音のために、自分のために。けじめはつけなくちゃいけないから。

 仕方のないことなんだと自分に言い聞かせて。

 心からの、


「天音、ありがとう」


 感謝の気持ちを、言葉に出した。


「うん。わしも、ありがとう」


 天音は振り返ることもなくそう言って、縄で囲われた御神木根元の座布団に座する。

 俺の涙を拭った着物の袖で、自分の目元を拭ったのが背後からでも窺えた。

 今まで静観していた巫女装束姿の永瀬が、粛々とした雰囲気のまま、


「天音様、よろしいですか」


 静かに声をかけると、


「うむ、頼む」


 小さく頷き、天音が答えた。

 それから、朱魅さんの小鼓の音が響き、永瀬は扇子を手に舞い踊る。

 静かな境内に響く太鼓の音。神聖な空気を纏う永瀬の神楽。装束の上に羽織った、鳥が青摺りされた白絹の千早が翻り、舞い踊るその姿は本当に綺麗だった。


 やがて、天音の体が希薄になっていく。

 本当の別れ。


 もう二度と、天音に会うことはないだろう。

 稲荷寿司を作らなくてもいい。吸い物もだ。

 弁当に寿司が入ってないからと怒られることもなくなる。

 悪戯にからかわれて赤面することも、彼女が寝るまで子守をさせられることも、もうない。


 その背中を見つめていると、不意に彼女が振り向いた。

 その顔は泣き笑っていて、楽しかった日々が、走馬灯みたいに駆け巡った。

 徐々に消えていく天音の笑顔。


 朱魅さんの鼓の音が止んだ頃、永瀬の舞も終わり、天音の姿は、もうそこにはなかった。


「天音……」


 悲しみに沈みうな垂れていると、


「あれ、陽一君、これ――」


 永瀬が何かに気づき、声を上げた。

 顔を上げると、天音が座っていた座布団から何かを拾い上げ、永瀬がこちらへ向かって駆けてくる。

 立ち上がり、何事かと思っていると、


「陽一君、手のひらを上に向けて、こちらへ出してください」


 永瀬が微笑みながら言った。

 疑問に思いつつ、言われたとおり、手のひらを上向きで差し出す。

 すると、永瀬が何かを俺の手の中に置いた。

 感触としては、石のようにかなり固く、平面ではない何か。

 片手の手のひらにすっぽり納まるサイズのものだ。


「プレゼントです」


 言いながら永瀬が手をどけると、そこには――


「あ、これ」


 それは、天音が自己紹介する時、必ずと言っていいほどよく取り出す、名刺代わりの化石みたいな枯葉があった。


「きっと寂しくないように、天音様が置いていったんですね。宝物だと聞いていたんですけど」

「大切なものなのに?」

「それ、何の変哲もない枯葉に見えるでしょう? でも実は、アマテラス様から神名を授かった時に、直筆で頂いたものだそうですよ」


 アマテラス様と芽依が似ていると言った天音。

 見守る時の温かな眼差しは、記憶に新しい。

 言葉の端々やそういった仕草や動作、それらからも窺い知ることができる、アマテラス様への思い。それなのに、大事なものを俺にくれた。

 真意は分からないけれど、天音との思い出の記念品が、記憶とともにまた一つ増えた。


 そっと優しく握り締め、天を仰ぐ。

 木々の梢が風に踊り、さらさらと音を奏でている。

 別れの日なのに、どこか清々しい。

 新たな門出の日は、心の窓から気持ちのいい風が入り込む、そんな爽やかさで溢れていた――。

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