消えずの行燈

沖田 秀仁

第1話

               消えずの行灯

                                 沖田秀仁

 白い灰を火箸で払った。

 背を屈めて近づけた顔に炭の温もりが心地よい。

 弥生の頃には時として深々と冷え込む戻り冬の夜がある。

そんな夜は夜具に包まって朝まで眠りたいものだが、当番月の岡っ引は界隈の自身番に終夜詰める役目があった。この月が南町奉行所の当番月で、岡っ引の弥平治は竪川二之橋詰めの自身番によっびいて詰めていた。

自身番は二間に三間の狭い小屋だ。腰高油障子を入って六畳の土間の奥に六畳の切り落としの板の間がある。弥平治はその六畳の間の上り小口で手炙りに背を屈めて、古女房を愛おしむように抱え込んでいる。地面を打つ雨音は聞こえないが、軒先から滴り落ちる水音が間遠に絶え間ない。煙るような粉糠雨が降り続いているものと思われる。

震えが来るほどの寒さが背中に貼り付き、袷の背を木枯らしが撫でているようだ。花冷えというのだろうか、つい三日前には墨堤に桜見物が押し寄せたのが嘘のように冷え込んでいる。

とうに丑三つ時は過ぎて、夜明けが近いはずだ。番勤めにくたびれるのはいつものことだが、ほとほと疲れ切った。書役と四方山話に花を咲かせたのもほんのひと時のこと、顔つき合わせているとあらかた話のタネは尽きて、これといった目新しい話題もない。ふと耳を澄ますと、軒から滴り落ちる水音が間遠に絶えなくして、夕刻から煙るように降る雨が一層空気を冷え込ませているかのようだ。

弥平治は炭火を見詰めるともなく見詰めつつ、隔月ごとに巡ってくる番詰役に無聊を囲っていた。番詰役とは同心の旦那の月当番に合わせて、配下の岡っ引が界隈の自身番に詰めて夜を過ごす御役目のことだ。手札を預かって二十年も経つが、いまだに弥平治は番詰役が嫌でならなかった。

書役と番太郎と三人で本所相生町の自身番で夕暮れから明け方まで過ごすのは気詰まりでかなわない。どっちを向いても壁と面をくっつけるように狭い自身番小屋では手炙りに黙ったまま両手を翳し、黙りこくったまま白い灰の下で息づく炭火を見詰める他にやることがない。別に人嫌いというわけではないが、ただただ書役と番太郎と狭苦しい自身番に詰めて時を過ごすのは息が詰まりそうだ。それかといって酒をかっくらって寝るわけにもいかず、ただただ修行僧のように無言の行を果たすしかなかった。ただ弥平治は四十の坂を越えた頃から膝の塩梅が思わしくなく、ことに雨模様の日にはしくしくと痛むようになっていた。退屈でならないが、こんな夜は事件の一つも起こらずに穏やかに夜が明けるのを待つばかりだった。

 しかしそんな折り、遠くから河岸道を駆けて来る足音がした。規則正しく泥濘を駆ける拍動のような足音が近づいて来ると、いきなり腰高油障子が乱暴に引き開けられた。見ると蓑もつけていない濡れ鼠の長崎町の番太郎が駆け込んできた。

 何かがあったことは端っから解っている。長崎町の番太郎が駆け込んできたことから、何かは南割下水であったのだ。番太郎は無言のまま土間をよろけるように入ると上り框に両手を突き背中を丸めて、息も絶え絶えに体を大きく波打たせた。やっと泣き顔のような濡れそぼった顔をあげると、

「親分、親分、大変でさ」と、苦しい息の合間に吐き出した。

「なんだ。何があった」

 弥平治は背筋を伸ばして聞き返した。

「殺しでさ。南割下水の横川に注ぐ辺りの河岸道で夜鷹蕎麦屋の親爺が、」

 絞り出すようにそう言うと、小助は土間に崩れ落ちた。

 殺しの現場まで竪川二之橋詰の自身番からだと七、八町ばかりある。粉糠雨の煙る夜明け前のぬかるんだ河岸道を駆けるのはゾッとないが、これもお役目だ。弥平治は手炙りへの未練をキッパリと断ち切るように「よし」と立ち上がった。

南割下水とは御竹蔵の練塀から小普請組屋敷の連なる武家割を断ち割るように真っ直ぐに東へ延び、横川に注ぐ文字通り下水の流れる堀割のことだ。下水という名の通り余り上品な水の流れる掘割ではない。凶行のあった場所は本所南割下水が横川に注ぐ手前辺りだ。

相生町の番太郎の藤太が茶を淹れ、湯呑を置いた盆を框に差し出した。

「おう、藤太。茶よりも小助の着替えをなんとかしなきゃなるめえ。このままじゃ風邪ひくぜ、ウチへ行って嬶に儂の着物を借りて来い」と、藤太に命じた。

蓑をつけずに粉糠雨の中を駆けて来たため小助は下帯まで濡れているに違いない。走って来たばかりだから今は息を切らして火照った赤い顔をしているが、このまま着換えずに四半刻もすれば、歯の根も合わないほどにガタガタと震えだすだろう。

「小助、八丁堀の旦那に報せの者を遣ったのか」

 と、土間に崩れ落ちた小助に弥平治は聞いた。

殺しは八丁堀の旦那に一刻も早く報せなければならない。小助は『心得ています』とばかりに大きくかぶりを振った。

「そうかえ、それじゃ儂はさっそく南割下水へ行くぜ。富吉、ついて来い」

 そう言うと、弥平治は着物の前をポンと叩いて尻を端折った。

下っ引の富吉も弥平治を真似るように尻を端折った。弥平治の声に粉糠雨の煙る表に駆けだす覚悟を決めたようだ。

弥平治は壁に濡れたまま壁に懸けられている水の滴る蓑を纏った。それは昨夜四つの金棒引に籐太が着て街を廻り、濡れた蓑をそのまま壁に掛けたものだ。もちろん僅かの間に乾くはずもなく、じっとりと濡れそぼった氷のような冷やかさが体に貼りついてきた。だが弥平治は悲鳴を上げるでもなく、笠の顎紐を結ぶのももどかしそうに縛ると、引き戸を開けると鉄砲玉のように暗闇に飛び出た。

間深に被った笠を右手で傾けても粉糠雨は執拗にまとわりつき、顔のみならず月代まで濡れた。だがそれにも構わず、弥平治は目の前の竪川河岸を大川に背を向けて東へ三町ばかり駆け抜けた。河岸道はそこで尽きて南北に走る横川に突き当たる。その突き当りを左へ曲がり、さらに横川沿いに一町ばかり駆ければ長崎町に着く。

つごう七、八町ほどの道のりだが、河岸道は泥を捏ねたようにぬかるみ幾つもの水溜りがあった。弥平治は素足に雪駄を履いていたが泥饅頭と見分けのつかないほどに足を汚し後撥ねを散らしてしまった。その弥平治の後を下っ引の富吉が泥塗れになって続いた。


長崎町へ近づくと横川に沿った河岸道を切り割って南割下水の注ぎ口に架かる橋袂に数十人もの人だかりがし、その人だかりから十間ばかり離れたところに掛行灯がぼんやりとした明かりを灯した担ぎ屋台があった。南割下水という名の通り、御家人の組屋敷が並ぶ北岸と河岸道を隔てた旗本屋敷の立ち並ぶ南岸から生活下水の流れ込む堀割は嫌な臭いが立ち込め、それに血の臭いが綯交ぜになって吐き気を覚えた。殺されたおろくはその人だかりの輪の中にあるのだろう。

弥平治は懐から十手を引き抜き、人だかりを掻き分けながら前へ進んだ。人垣が切れると急に生臭い血の匂いが鼻につき息を詰まらせた。しかし岡っ引が血の臭いに怯んでいては話にならない。遺体の周囲には六尺棒を手にした鳶衆たちが取り囲んでいた。弥平治は大股に近寄ると「御免よ」と声を掛けて六尺棒を掻い潜り、泥濘に横たわるおろくの傍らに立った。おろくは屋台のある西へ頭を向けてうつ伏せに倒れていた。

鳶の一人が気を利かせて手に持つ提灯をおろくに近づけた。その明かりを頼りに弥平治はおろくを覗き込んだ。白髪交じりの箸のように細い髷から六十年配と見た。肩口がぱっくりと白い傷口を開け、右利きの下手人が人斬り包丁を叩きつけたことが瞬時に見て取れた。

「なんてこった」

 と呟きながら、弥平治は痛む膝をゆっくりと折ると左肩の傷口を覗き込んだ。

 夜鷹蕎麦の親爺は顔のみならず禿げ上がった頭の生え際まで泥水の溜りに顔を沈めていた。左首の付け根がぱっくりと柘榴のように口を開けて赤い肉が見えている他には、着物にさほど乱れた様子はない。飛沫のように吹き出た血を拭った雨が水溜まりとなって、周囲一面が血に染まっていた。弥平治は着物が汚れるのも構わず男を抱き起こした。

 浴びせられた刀刃を避ける間もなく斬り捨てられたのか、傷はその首筋のただ一ヶ所だけだった。掛行灯の明かりを頼りに傷口を改めてみると、左耳朶下あたりから入った刃が首の付根まで大きく抉っていた。が、襲った者がそれほどの手練とは思えない証左に、傷口が削いだようだった。振り下ろした刀筋と刃の向きが合致していればスッパリと切れる。不運だったのはその稚拙な一太刀で首の血管を絶たれてしまったことだ。

 おろくを粉糠雨の汚泥の河岸道に放置しておくわけにもいかず、運ぶようにと番太郎に顎をしゃくった。さっそく鳶の若衆が運んできた戸板を骸の傍らに下したため、弥平治は立ち上がって血溜りの汚泥から後ずさった。すかさず富吉が差し出した手拭を受け取ると、弥平治は老爺を見下ろしながら蓑の血交じりの泥汚れを拭った。

戸板に寝かされた老人は顔や首筋に深く皺を刻み、年恰好から還暦過ぎと見たみは変わらなかった。しかし弥平治は老人の面差しに何か腑に落ちないものを感じた。

判然とはいえないが、どこかが違うのだ。屋台を担いで年を経た者の顔にはそれなりの境涯なり生活が染みついているものだが、その老人からは夜鷹蕎麦の屋台を長年担ぎ暮らした垢のようなものが窺えなかった。血の気を失った青白い顔は苦悶に満ちていたが、どこかすっきりとした面立ちをしていた。黒羽二重に羽織でも着せれば大店の旦那といった風情があった。殺された男にどのような曰く因縁のあるのか、と弥平治は担ぎ屋台の掛行灯に目を遣った。そこには丸の中に辰と書かれた文字が明かりに浮かんでいた。どうやら夜鷹蕎麦の老爺は本所の肝煎辰三郎配下の者のようだ。

 肝煎とは御上から下される役目ではない。毒で毒を制するの譬えの通り、道を踏み外した者を元破落戸などで改心した者に預けて町衆に迷惑を掛けないように仕事を与えるように委託したのが肝煎だ。それぞれの町に肝煎がいて、界隈の香具師や屋台を仕切っている。銘々が好き勝手に屋台を造って商売を始めたら、客の多い良い場所を巡って諍いの元になる。そうした場所取りも決める他、屋台で商う品も肝煎が世話している。だから商いをする者は損料さえ払えば夕刻に身一つで肝煎の家へ行けばお足が稼げるように、道具や材料などが仕込んである屋台を貰い受けて定められた場所へ行って商売をして、夜明けに屋台を返せす仕組みだ。

南割下水の界隈は両国橋東広小路の肝煎の辰三郎が仕切っている。殺された老爺の身元は辰三郎に聞けばすぐに分かるはずだ。

「親分、おろくを自身番へ運んで宜しいですかい」と、小助が声を掛けた。

「ああ、そうしてくれ」

と言うと、弥平治は側らの屋台に視線を遣って、

「誰か夜鷹蕎麦の屋台を自身番の前まで持って行ってくれないか」

 と、弥平治は野次馬を遠ざけていた若衆に向かって声をかけた。

 すると齢若の一人が「へい」と返答をすると、身軽に天秤棒の下に肩を入れて担いだ。それを見て番太郎は鳶の者たちに「おう」と声を掛け、若衆たちは声を掛け合って戸板の四隅を持って立ち上がった。

 弥平治は役目により自身番へ行っておろく改めをしなければならない。何気なく戸板の後を追うように歩き出したが、思いついたように足を止めて「ちょっと皆、帰るのをちょっと待ってくれねえか。誰かこの爺様が殺されるところを見た者はいねえか」と、崩れかけた人垣に向かって大声を放った。そして富吉に遠巻きに見守っている野次馬たちが散る前に、誰か異様な言い争う声を聞いた者はいないか、下手人を見た者がいないか、を一人一人聞いて廻るように命じた。

 天下の往来で人が殺されている。大根の据え物斬りでもあるまいに、むざむざと首を差し出して斬られるのをじっと待つ者はいない。誰だって必死になって最後の抵抗や反撃を試みるものだ。たとえ致命傷を受けても、人は瞬時には死なない。下手人も返り血を浴びるだけでなく、何らかの反撃を受けているものだ。

 野次馬の中には老人が殺害されて間もなく通りかかった者もいるだろう。弥平治が命じると、富吉はさっそく野次馬の一人一人に当たり始めた。それを横目に見ながら、弥平治は番太郎と一緒に戸板の後を追った。

目と鼻の先の自身番に着くと、既におろくは戸板に乗せられたまま六畳の土間に下されていた。弥平治は濡れそぼった蓑を脱ぎながら、鳶の一人を本所元町へ辰三郎を呼びに行くように頼んだ。粉糠雨に濡れて重くなった蓑を壁の釘に掛けると、土間の濡れそぼったおろくに粗莚を被せた。おろくに寒い暑いは係わりないのだろうが、冷たい雨に濡れた痩せた老人が一層不憫に思えた。裸に剥いて行うおろく改は辰三郎の身元確認が終わってからのことだ。

 土間奥の上り框に腰を下ろすと、弥平治は泥まみれの紺足袋を脱いで白くふやけた足を両手で擦った。氷のように冷たい足の指先に血が通うのが感じられた。

 自身番は江戸市中の町内ごとに建てられた小屋だ。そこに町内の者が集って溝浚いや大掃除などの月行事を打ち合わせたりするのに使うが、普段は町役に書役それと番太郎が詰めて町内警護の役割を果たした。町奉行所同心は町廻りの折には自身番の腰高油障子の前に立って「変わりはないか」と尋ね、それに対して町役が「変わりございません」などと返答をした。しかし一旦事件が起きると自身番が町奉行所の出先となって探索を担った。

「親分、殺しの狙いは何でしょうか」

 と、町役が背中から声をかけてきた。

「さてな、夜鷹蕎麦の親父を殺しても大したカネを持っているわけではないだろうに」

 と、弥平治は慨嘆するように呟いた。

 殺しの元は痴情怨恨に物盗りと相場は決まっている。ただこの世には遊び半分で人を殺す者がいないわけでもない。しかし殆どは已むに已まれない理由から人殺しを働く。

しかし夜鷹蕎麦の老人に恋敵がいるとは思えないし、この善人そうな老人が誰かに恨みを買っているとも思えない。かといって僅かな釣銭以外に金目のものもない夜鷹蕎麦の親父を殺害して、どうしようというのだろうか。硯を引き寄せて墨を磨っていた書役も黙ったまま墨を置いて腕を組み、小首を傾けた。

 幕府開闢当初は江戸の町にも戦国時代の余燼が燻っていて、新刀などの試し切りに辻斬りを働く者がいた。いざ戦いとなった場合に命を託すのは刀や槍だけだ。それが命を託すに足りる業物か確かめておかなければならない。だが、戦のない太平の御世が二百年以上も続いて、修羅の世は遠い過去のものになっている。戦がなければ差料が業物かどうかはどうでも良い。身の破滅と引き換えに試し切りを働く値打ちはなくなっている。

 書役が貸してくれた紺足袋を履いて、弥平治はやっと人心地がついた。それでも蓑から着物に移った湿った悪寒は背中に貼り付いたままだ。こんな時は手炙りに身を屈めて熱い茶を啜るのが一番だが、手炙りに噛り付く暇もなく自身番の引き戸が引き開けられた。

振り向くと富吉が二人の印半纏を着た若い木場人足を連れて入ってきた。弥平治は濡れた雪駄を気にしながら足を置き、上り框に腰かけたまま背筋を伸ばして土間に立つ男たちを見た。

「わっしは元造でこいつは友吉といいまさ。わっしら二人は木場での仕事を終えてから馴染の居酒屋で看板まで呑んで、居酒屋の親爺に追い立てられて塒まで帰ってきたが、小腹が空いたので蕎麦でも食おうかと、橋袂の掛行灯の明かりに近寄ったと思って下せえ。すると親爺は商売そっちのけで二人連れの一人の男の腕を掴んで、何か詰め寄っていやした」

 と、江戸っ子らしく元造は軽妙な語り口で語った。

「うむ、それで親父は何と言っていたンだ」と、弥平治は合いの手を入れた。

 すると元造は「いや、なにね」と盆の窪を叩いた。

「聞き耳を立てていたわけじゃありませんので。なにしろほろ酔い加減で歩いていたもンでして。何か揉めてるナ、ってことは解りましたが、その中身までは解りません」

と、元造は謝るように頭を下げた。

聞き取れなかったと言われれば「そうか」と頷くしかない。

「それで、男たちの姿はしかと見たンだな」と、弥平治は話の穂を継いだ。

 すると元造は「えへへっ」と詫びるような声を出した。

「何しろ夜のことで事細かに見たとは言えません。明かりといえば頼りは屋台の掛行灯だけですからね。だが、それで却って男たちの姿が闇に浮かびあがったと思って下さい。そうさね、背丈は五尺と二寸ほどで細身の若い男でさ。背に木刀を差していやしたが、暗くて顔まではよく分かりやせんでした。ただ親爺が大声を上げたと思ったら、傍らにいた男が無言で長脇差を親爺の首根に叩き付けたンでさ」

 そう言うと、元造は自分が斬りつけたかのように手刀を振り回した。元造は印半纏を着た、二十歳を幾つも出ていない男だった。

「なにお、長脇差だって。お江戸じゃ御上に憚ってヤクザでも匕首しか使わねえぜ」

 と、弥平治は思わず声を張り上げた。

「いや、匕首なんて生易しい代物じゃなかった、あれは確かに長脇差でさ」

 そう言って、二人は顔を見合わして確かめるように頷きあった。

 喧嘩渡世のヤクザ者ですら江戸では出入りに長脇差を振り回さない。江戸は将軍家お膝元の御府内ということから、武家以外の者が差料を帯びることは厳格に禁じられている。町人が旅をする折りに腰に差すのを許される道中差にしても長さは脇差程度のものと限られていた。

「しかも腰に帯びていたわけじゃねえ。男の後ろ姿に鞘も鐺も見えなかった。一体どこからダンビラを引き抜きやがったか」

 そう言うと、人足たちは顔を見合わせて、二人とも不思議そうな顔を弥平治に向けた。

 男が長脇差を振り回したのは解ったが、まだ男の人相は何も聞いてなかった。

「ところで夜鷹蕎麦の親父を斬ったのはどんな男だったか」

 と、弥平治が聞くと、木場人足の二人は「いや、それは」と微かな笑みを浮かべた。

「この界隈で夜明け前に夜鷹蕎麦の屋台を覗くのは夜鷹かその客、それに手慰みで負けが込んで早々とご帰還の客と相場が決まってまさ」

 と言ってから、元造は「うへぇ」と首を縮めた。

自らご法度を犯して悪所で遊んだ帰りだと白状した愚かさに気づいたようだ。もちろん岡場所はご法度だ。夜鷹もご法度で、捕まれば吉原で死ぬまでの無期限奉公に落とされる。ただ余程のことがない限り岡っ引たちは岡場所とは持ちつ持たれつの関係で、なにがしかの目溢しをして岡場所を手入れしなかったし、夜鷹たちを捕えなかった。

「年の頃は二人とも三十前後の博徒といった塩梅に見えました」

 そう言うと元造は神妙な顔をして弥平治を見上げた。

「悪所に足を踏み入れるなぞとは、飛んでもない野郎どもだぜ。だが今日は見たことを申し出たことに免じて、詮議はなしとしよう」

 弥平治はそう言うと、鷹揚に顎をしゃくった。

帰って良い、との合図だ。元造たちは恐縮して頭を下げた。

 木場人足の名前と居所を控えてから帰すのと入れ違いに、尻端折りの元町の辰三郎が息を乱して若い者と二人で駆け付けて来た。そして土間の仏を一目見るなり、

「あっ、なんてこった、ご隠居」

 と、大きく呼吸する途切れ途切れに声を絞り出した。「ご隠居」と聞いて弥平治は驚いて上り框から腰を上げた。いかに酔狂でも、ご隠居が夜鷹蕎麦商いをやるとは聞いたことがない。

「ご隠居だと?」

 と声を荒げて、弥平治は肝煎の顔を穴が開くほど見詰めた。

 町役や町名主と違って肝煎は御上から認められた御役目ではない。別名男稼業ともいわれ、頼って来る者ならだれかれ構わず飯も食わせるし湯屋へも行かせる。家に泊めて仕事の世話をするのは当たり前だ。そうやって人生をしくじって裏街道を歩く者の面倒を見る一方で、堅気者に乱暴を働く者を手酷く懲らしめた。

 辰三郎と弥平治と齢はおっつかっつだ。二人が深い縁で結ばれているということでもないが、弥平治と辰三郎は満更知らぬ仲でもなかった。

若い頃に辰三郎は竪川の川並人足で小頭を務めていた。弥平治も木場人足だった。二人とも若くして人足仲間から頼りにされて頭角を現していた。だが弥平治が辰三郎を知ったのは二人とも同じ頃に人生をしくじってからだ。

弥平治は酒に任せて喧嘩三昧の日々を送るうちに頭に愛想を尽かされて人足組を追い出された。辰三郎は人の好さから争いの仲裁を務めている内に刃傷沙汰に巻き込まれて川並人足をしくじった。弥平治は喧嘩早いことから破落戸の日々を送ったが、辰三郎は温厚な人柄と相撲取りかと見まがうほどの巨体から人生をしくじった人たちに頼られるうちに肝煎に祭り上げられてしまった。

 弥平治は定廻の旦那から岡っ引に取り立てられるまで預かるまでは博奕をしたり、賭場の用心棒の真似事をして毎日を過ごしてきた。それがちょっとした浮世の義理から喧嘩出入りに加わり縄目を受けてしまった。軽くて所払い悪くすると終生遠島もあり得る窮状から、定廻の旦那から岡っ引にならないかと持ち掛けられ、一も二もなく飛びついた。

 似通った年格好の男たちだが、二人の経て来た道のりは随分と違っている。だが、人の生き様が年齢とともに収斂するように、二人の立場も似たようなものになるようだ。

「ご隠居」と聞いて弥平治が声を上げたのにはわけがある。そもそもご隠居と呼ばれる者が夜鷹蕎麦の屋台を担ぐことはない。いかに物好きでも「ご隠居」が夜鷹蕎麦の屋台を担いでは大店の屋号を継いだ倅の名折れになるからだ。

「へい、正真正銘のご隠居で。名は忠右衛門といって、日本橋は呉服町の小間物屋京屋の先代でさ。つい六日ばかり前、夜鷹蕎麦の屋台を貸して欲しいといわれて、」

 律義者の辰三郎らしく、丁寧に腰を折って弥平治に語り始めた。

 日本橋の呉服町とは江戸で随一の格式高い呉服屋が軒を並べている有名どころだ。

「ちょっと待ってくれ。呉服町の京屋といえば、確か先月娘が拐されて、身代金を奪われた上に十に満たない娘が殺されたあの京屋か」

 と言うと、弥平治は眉根を寄せて辰三郎を睨んだ。

 川向こうの御城下であった事件だ。当然本所を縄張りにする弥平治にとっては埒外だ。本所や深川で起こった事件なら縄張り内だが、御城下で起こった事件に弥平治が十手片手に駆けつけることは出来ない。ただ事件の起こった場所が本所の亀戸天神だから弥平治は全くの無縁というわけでもなかった。しかし御城下は江戸橋の京屋に降ってわいた厄災だから、本所の岡っ引が事件そのものを知るよすがもないが、御城下の瓦版が書き立てたため、大川を隔てた本所・深川でも評判になった。

 その事件は正月三日の松の内に起きた。年が明けて十一になったばかりの京屋の末娘が起き抜けに亀戸天神鷽替え神事の見物に末娘付の女中と二人で出掛けた。正月三日で何処かいつもと違う静かな辻を東へ歩き、竹屋の渡しで大川を渡って亀戸天神へ急いだ。

二里余りの道のりを亀戸天神に着く頃には大勢の人出で混み合ってきた。境内に入ると見たこともない人出の多さに驚きつつ、屋台の駄菓子を買って頬張ったりして楽しんだ。

しかし女中は気が気ではなかった。あまり遅くなると家人が心配するからと、まだ境内で遊びたい娘に帰るように促した。昼前になってやっと帰り始めたが、その帰り道を待ち伏せていたかのように何者かに娘が攫われた。

男たちは三人いた。末娘と女中を待ち受けていたように灯篭の陰から躍り出るや、小太りの男がやにわに末娘を横抱きに抱えた。女中は驚いて男たちに追い縋ったが、細身の男に突き飛ばされ、往来に転がされた。だがすぐに起き上がると、女中はなおも狂ったように叫んで男たちの後を追った。しかし、鳩尾に当身を喰らわされると女中は息が出来なくなり、くたくたとその場に崩れた。だがほんの数呼吸の後に、気丈にも立ち上がり歯を喰いしばって行方を捜したが、混み合う参詣客に男たちを見失ってしまった。

事件を家人に伝えるべく、女中はまっすぐに店へ帰って女中頭に事の顛末を告げた。驚いた女中頭は顔色をなくして奥へと走った。たちまち店は大騒ぎになったが、世間に知れることを恐れて大戸を下ろしたまま表向きはひっそりとしていた。

激しく叱責する女たちを制して、主人は詳しく女中から聞こうとしたが、気が動転しているため何を聞いても泣くばかりで要領を得なかった。そうこうしている昼下がりの八つ過ぎに、暮れ六つに五百両を薬研堀に架かる元柳橋袂まで持って来い、と書かれた文が京屋の店先に投げ込まれた。娘の無事を願うならゆめゆめ八丁堀に届けるな、と決まり文句も書き添えられていた。

さっそく京屋は身代金を用意し、御上には知らせず手代と番頭の二人に命じて加護に金子を積んで出掛けさせた。現地に着くと待ち構えていた手拭いで顔を包んだ男が二人いた。金を受取ると「娘は橋の下にいる」といって顎で橋の下を示した。さっそく二人は転げるように土手を駆け下りたが、無事を願った娘は冷たくなって橋の下に捨てられていた。

番頭たちはハッとして土手を見上げたがそこに人影はなく、見回すと男たちは元柳橋袂から猪牙船で大川へ漕ぎ出していた。騙されたと気付いた番頭たちは慌てて男たちの後を追うべく河岸の船に飛び乗った。が、その船には棹も櫓もなかった。番頭たちは隣りに舫ってある船に急いだが、その船にも漕ぐ道具はなかった。絶望的な思いで次々と船を覗き込んだが、どれもこれも船からすべての棹や櫓が消えていた。地団太を踏まんばかりに番頭たちは大声を限りに叫び、涙を流したがすべては後の祭りだった。大川へ漕ぎ出した船が戻って来るわけもなく、やがて夕暮れの靄が出始めた川面に姿を消した。――というのが事件の粗筋だ。まだあどけなさの残る大店の娘が新年早々に無残に殺されたことから、瓦版が書きたて噂になった。

遅ればせながら八丁堀も動いた。南町奉行所は京屋の主人を呼び出すと娘が拐かされた件をイの一番に届けなかったのを叱りつけた。いかに人攫いから「町方に報せるな」と脅されても言い成りになって御上に報せないとは不届き、と厳しく申し渡された。

南町奉行所の町方役人が京屋に命じて娘付きの女中を出頭させて取り調べた。下手人を知っている唯一の生き証人だ。もちろん人攫いの人相を聞いたが、女中は怖さが先に立ってほとんど何も覚えていなかった。もっとも娘付きの女中といっても遊び相手をするのが主な仕事で、ほんの十三の子供に過ぎなかった。

瓦版屋が事件を書きたてると、京屋に人々の非難が集った。なぜ小娘二人が御城下から亀戸天神などと、そんなに遠くまで行かせたのかとの声だ。しかしお京は止める女中に耳を貸さず、夜が明けたばかりでまだ家人が寝静まっている間に家を出た。家人の誰にも告げずに、かねてから聞いていた鷽替え神事を見に出掛けたのだ。

 忠右衛門は早くに妻を亡くしていた。妻は長男を産んだが肥立ちが悪く、産後間もなく亡くなった。幾度となく後添えを娶るように勧められたが、忠右衛門は二度と妻を迎えることなく家業に専念した。そして数年前、長男に嫁を迎えたのを機に、商売から退いて向島に小体な庵を結んで隠居した。肩の荷を下ろしてから、早くに妻を亡くして忠右衛門はどこかこの世を儚んでいたようだという。

 隠居した忠右衛門のことは京屋も承知しているはずだ。しかも京屋の屋台が傾いて隠居暮らしに必要な掛りが不如意になっていると聞いたことはなかった。

「へい。だけど夜鷹蕎麦の屋台を担ぐのは見るよりも存外大変でしてね、これがいい若い者でも顎を出す力仕事でさ。好きや酔狂で出来るものじゃねえと、あっしはご隠居に意見したンですがねえ」

 掬い上げるように弥平治を見て、辰三郎はくぐもった声で言った。

「それで、顔役はご隠居から一定の損料を取って屋台を貸した」

 話の先を促すように、弥平治は継ぎ穂を渡した。

「その通りで。ご隠居はどうしたわけか南割下水界隈を掛行灯に火をともして流していたようでさ。水揚げは他の屋台とは比べものにならないほど少なく、何処か河岸を決めなきゃ駄目だと商売のコツを教えたンですがね。それでもご隠居は掛行灯に火を入れて夜もすがら、重い屋台を担いでこの界隈を流していたンで」

 何の酔狂でそうした真似を隠居はしていたのか、判じかねるように辰三郎は首を傾げた。

 これは飛んだことになりやがった、と弥平治も腕を組んで首を捻った。そもそもこの一件は二重の意味から弥平治の埒外だ。まず京屋の事件から洗い直さなければならないが、御城下は弥平治の縄張り違いだった。しかも弥平治の縄張り違いだというだけではなく、弥平治に十手を授けた旦那ですら本所改役同心という立場だ。御城下には別に御城下を縄張りとする定廻同心が目を光らせている。弥平治が勝手に呉服町まで十手片手に聞き込みに出張るわけにはいかないのだ。

「向島の隠居所にも報せの者を走らせたのか」

 弥平治が後ろを振り返って書役に問うと、五十過ぎの痩せた町役が「へえ」と気のない返事をした。どうやら誰も出掛けていないようだ。しかし、一刻も早く誰かを遣れとは命じなかった。

 外は漆黒の暗闇で粉糠雨が降っている。これから提灯の明かりを頼りにぬかるんだ道を長命寺くんだりまで行って戻るのは誰しも難儀に思うところだ。夜明けを待って使いを遣っても大差ないと誰しも考える。この分では呉服町の京屋へも使いを出していないだろうが、それも仕方ないかと弥平治は浅く頷いた。


 半刻もしないうちに自身番は静けさを取り戻した。

 人が去った後も、弥平治は夜っぴて長崎町の自身番にいた。

 富吉や番太郎は横になって休んだが、弥平治は一睡もしなかった。

 いつしか夜来の雨も上がり、外がしらみだし油障子に一条の陽が差した。

 町役が握り飯の差し入れをしてくれて、弥平治たちは腹拵えをして人心地ついた。

 明け六つの鐘とともに自身番から使いの者が八丁堀と向島と呉服町の三方向へ駆け出した。八丁堀の旦那が顔を見せるのは昼前後だが、忠右衛門の縁者が駆けつけて来るのは昼前頃か、と案じながら番太郎が淹れてくれた出がらしの茶を啜った。

 弥平治の予想を裏切って、意外にも京屋の倅が一番に駆けつけた。使いの者を出してから一刻余り、手妻のような早さに驚きの声を上げた。

「日本橋の袂から猪牙に乗ってきたンでさ」

 鳶の若い者が涼しい顔をして種明かしをした。

 日本橋から堀割を箱崎にとって大川に出ると、後は竪川河口まで漕ぎ上り横川へと入る。そうすれば道を駆けるほどの手間はつかない。なるほどと弥平治は泥撥ねのない京屋の若主人の裾を見て頷いた。昨夜の雨でぬかるんだ道を着物を汚さないで歩くのは難渋するが、水路を船で来れば泥濘を心配する必要はなかった。

 若主人は名を忠兵衛といって戸板の仏と面立ちの似た三十前の優男だった。骸に取り付いて泣き喚くというのでもなく、平静に粗莚を捲って身元を確かめると「確かに手前の父親です。大層ご迷惑をお掛け致しました」と落ち着いた声音で言った。弥平治は役目柄数多くの愁嘆場に立ち会ってきたが、これほど感情を表にあらわさない男も珍しかった。

「すぐにも父を引き取って連れて帰りたいのですが、」

 と、忠兵衛はやや青ざめた顔をして弥平治に言った。

「父親の忠右衛門は何者かに殺されたンだぜ。心当たりはないのか」

 怒ったように弥平治は言葉を投げ掛けて、土間に立つ忠兵衛を掬うように見た。

「詳しいことは知りませんが、父はお京の仇を討ちたかったようでございます。そのために屋台を担いでいると茂助から聞かされていました。おそらく父は下手人を見つけ出し、仇を討とうとして反対に返り討ちにあって殺されたのでしょう」

 無表情に淡々と、忠兵衛は語った。

 だが忠兵衛の説明を聞いていて、弥平治の胸に疑問が春先に芽吹く木の芽のように次々と膨らんだ。

「何者かに末娘のお京が拐されて無残にも殺されたのは知っている。だが、その仇を討つためになぜ忠右衛門は屋台を担いで南割下水を流して歩かなければならなかったンだ」

 度を失って、弥平治は鋭い声を放った。

 まだ町方役人が挙げてもいない下手人を、忠右衛門は知っていたということなのだろうか。それでは何を手掛かりとして忠右衛門は下手人を突き止めたというのか。町方役人の端っくれとして面目を潰されたように、弥平治は眉間に皺を寄せて忠兵衛を睨み付けた。

「ですから、手前は詳しいことは何も存じません」

 思わず息を呑むと、忠兵衛はにわかに悔しそうに顔を歪めた。

 忠兵衛に人の感情が乏しいわけではなかった。声を震わしてそう言うと、忠兵衛の双眸からみるみる大粒の涙があふれた。長男のみならず家人の誰にも何も告げずに、忠右衛門は末娘の仇を探していたのだろう。秘していたのは詳しく話せば京屋に障りが及ぶと怖れたためだろうか。とすると、自ずと忠右衛門が仇と睨んだ相手が限られてくることになる。果たして下手人は武家ということなのか?

 弥平治は眉根を寄せて土間の忠右衛門を見詰めた。若い木場人足が下手人は折助だったと証言した。恐らくその男がお京を拐して殺し、挙げ句に身代金まで奪ったのだろう。

 忠兵衛はこのまま父を連れて呉服町へ伴って帰るつもりだったのか、自身番の腰高油障子に連れて来た数人の男の影が映っていたが、定めとして定廻が骸を改めるまでは勝手に移せないことになっている。そのためもう一度、昼過ぎに出直すようにと言い聞かせた。それならば京屋で葬儀の段取りをしなければと、忠兵衛は唇を噛んで帰っていった。

 忠兵衛が引き取ってから間もなく、向島の寮から下男がやってきた。五十を過ぎた、忠右衛門と年格好の似通った男だった。名を茂助といい元は京屋の下男だったが、忠右衛門が向島に隠居するのについて寮へ移って身の回りの世話をしていた。

「御隠居はお品を寮に呼んで、お京を攫った男たちのことを聞いていました。しかし、御隠居が何を聞き出し、何を考えていらしたのか、わしは何も知りません」

 茂助は変わり果てた忠右衛門の傍らの土間に座り、涙ぐんでぼそりぼそりと語った。

 隠居してから数年来寮に暮らし、忠右衛門は世俗を捨て俳諧の道に精進していたようだ。それが末娘が無残なことになってから人が変わってしまったといった。

「町方役人が当てにならない以上、自分でやるしかないと言われまして……」

 そう言いかけて、飛んでもない失言に気付いて茂助は首を竦めた。

『町方役人が当てにならない』とは岡っ引の前では口が裂けても言ってはならない台詞だった。しかし、弥平治は苦笑しただけで茂助を咎めなかった。それよりも、なぜ忠右衛門は夜鷹蕎麦の屋台を担いで南割下水界隈を流して歩いたのかが引っ掛かった。お品の証言を訊いて何を掴んだというのだろうか。

 なぜ、下手人捜しが夜鷹蕎麦の屋台を担ぐことに繋がるのか、と弥平治は首を捻った。

 夜鷹蕎麦はその名の通り、相手にする客は夜鷹かその遊客と相場が決まっている。そのため、夜鷹の立つ河岸道の決まった場所で決まった刻限に蕎麦を商う。顔役が屋台の数を定めて差配するのも、屋台同士で無益な縄張り争いが起こらないようにするためだった。

 南割下水は大層な数軒の武家屋敷がある他は無役の貧乏御家人の暮らす小普請組屋敷が無数にあるきりだ。町割は南割下水の端、横川に沿って一筋へばりつくようにあるのみで、夜鷹蕎麦の商いには不向きな土地柄だった。それがなぜ、忠右衛門は南割下水界隈を夜っぴて売り歩き、挙句の果てに殺されなければならなかったのか。

 昼前、茂助と弥平治がまだ話し込んでいる折りに、南町奉行所同心陣内範義が顔見知りの小者を従えてやってきた。肩をいからせて入ると、土間の粗莚を顎で指した。

「これが京屋の忠右衛門か。惨いことだの」

 乾いた声でそう言うと、陣内範義は弥平治が空けた上り框に腰を下ろした。

すぐに番太郎が茶を淹れて差し出し「ご苦労様です」と声をかけた。それを汐に、茂助は後ろ髪を引かれるように忠右衛門をじっと見詰めてから帰っていった。

「京屋の事件は御城下で起こったもので拙者の埒外だが、もう一度洗わなければなるまい。忠右衛門が何を掴んでいたか、それが分かれば良いのだがな」

 書役の差し出した口書に一通り目を通すと、陣内範義は怜悧な眼差しを弥平治に向けた。

 弥平治に十手を授けたのは陣内範義の父親の陣内義輔だった。八年前に先代が亡くなると見習いで出仕していた陣内範義が二十歳前で跡を継いで同心になった。それから八年、まだ三十前の陣内範義と、弥平治は何かにつけて肌があわなかった。

「忠右衛門は本所元町の顔役に頼み込んで、ここ十日ばかり夜鷹蕎麦の屋台を担いでいやした。それも一晩中行灯をともして南割下水の界隈を流していたとか」

 弥平治が口書を補足するように言うと、陣内範義は鷹揚に頷いた。

「南割下水界隈は武家割地だ、下手人は折助だったと生き証人が語っているようだが、」

 と言ってから、陣内範義は「面倒だな」と呟いて顔を歪めた。

 武家の取調べは町奉行所の管轄ではなかった。武家屋敷はいわば独立した国のようなもので、町方役人が探索に踏み込むことはできない。たとえ下手人を見つけたとしても武家屋敷の使用人だったら、当主の許しを得て身柄の引き渡しを願うしかない。が、それすらも下手人が武家身分の者ならば町奉行所の権限は及ばず評定所の取り扱いとなる。面倒だと顔を歪めた陣内範義の思いは弥平治にも頷けるところだった。

「弥平治、下手人を探索する手立てがあれば存念を申せ」

 口書を無造作に放り投げると、陣内範義は土間に立つ弥平治に問い掛けた。

「まず、京屋のお品が忠右衛門に何を述べたのか、訊かなければなりません。それ以後、忠右衛門は夜鷹蕎麦の屋台を担ぎだしたわけですから、それ相当のきっかけとなる事柄を申し述べたと思わねばなりますまい。そして、忠右衛門が担いでいた屋台を引き続き担いで南割下水の界隈を流して歩くことが肝要かと」

 弥平治が落ち着いた態度で腰を屈めると、陣内範義は挑むような眼差しを向けた。

「どうして、曰く因縁のある屋台を弥平治が担がなければならぬ」

 言い続ける弥平治を遮るように、陣内範義が口を挟んだ。

「理由はどうであれ下手人は屋台を担いでいた忠右衛門を襲ったわけですから、柳の下に二匹目の鰌がいると思わなければならないかと」

 おだやかな物言いで、弥平治は受け答えをした。すると、陣内範義は嘲るように言葉を投げ付けた。

「忠右衛門を殺した折助がお京殺しの下手人だとでもいうのかえ」

 陣内範義の口吻に、弥平治はムッと反発したが瞬時に気を鎮めた。

「さあ、それは調べてみなければ何とも言えませんが」

 殊更おだやかにそう言って、弥平治は唇を噛み締めた。

「まるで無駄かもしれないことでも、やってみなければ分からないと申すのか」

 大仰に溜め息をついて、陣内範義は肩を落とした。

 思わず嫌気が差して、弥平治は天井を見上げた。

 慨嘆、という言葉がある。馬鹿馬鹿しくなって天を仰ぎ「旦那」と胸のうちで陣内義輔に呼び掛けた。旦那は御子息に何を教えたンですかい。本所改役同心ならせめて岡っ引の意見を聞く前に、自分なりに探索の手筈ぐらい少しは考えてくれなきゃ。

――良いですかい、若旦那。調べてみなけりゃ何事も始まらねえんですぜ。

 と、怒鳴りそうになって、弥平治はぐっと堪えた。

「ふむ、あい分かった。同僚の定廻を通して京屋の事件を再度調べて頂こう。だが、弥平治が夜鷹蕎麦の屋台を担いで武家割の土地を廻るのはよせ。万が一にも旗本と事を構えたら何とする。下手人に繋がる糸口を掴んだらすぐに知らるンだ、良いな」

 それだけ言うと陣内範義はすっくと立ち上がった。

 そのまま帰ろうと歩みだした陣内範義を、弥平治は眉根を寄せて睨み付けた。

「若旦那、仏の傷口を改めなくてもよろしいンで?」

 非難めいた口吻で弥平治は言った。

「すでに弥平治が改めたンだろ。口書も読んだし、いまさら見るまでもあるまい」

 振り返った陣内範義に構わず、弥平治は戸板の傍に膝を折った。

「いや、見て頂きやす。先代から町方の心得として、骸の声を聞けと教えられました」

 そう言うと、弥平治は粗莚の端を持って捲った。

 先代から仕える小者の惣吉は「よさないか」と弥平治に小声を鋭く放った。が、自身番にいたのは弥平治だけではなかった。番太郎に書役それに町役が黙って見詰める視線に、陣内範義は後ろめたいものを感じたのか渋々と膝を折った。

「下手人は前から斬りかかったものと思われます。右片手袈裟斬りにしたのでしょうが、踏み込みが深すぎたのかそれとも忠右衛門が掴み掛かろうと身を寄せたのか、いずれにせよ間合いを誤って刀刃は首の付け根に入らず、抉るように首筋を撃ちつけております」

 石榴のように捲れた傷口を指差して、弥平治は一つ頷いた。

「従って剣の腕はさほどではない、というより刀の扱い方も知らない男かと」

 弥平治は一通り述べると、陣内範義の所見を待つ素振りで見上げた。

 陣内範義は弥平治を一瞥して、不機嫌そうに口元を曲げた。

「下手人は折助だといったではないか。折助が刀の使い方を知らなくとも驚くに値しない」

 そう言い放つと、陣内範義は戸板を離れて腰高油障子を開けた。


 昼の竪川沿いに相生町の表店に戻ると、弥平治は泥のように眠った。

 岡っ引だけでは所帯が養えないため、弥平治は小体な仕舞屋に暮らし女房のお松に小間物屋をやらせていた。一晩家を空けたぐらいでは、お松はコトリとも不服を洩らさなかった。岡っ引の女房なら五体満足に戻っただけで安堵の胸を撫で下ろさなければならない。いつお役目で命を落とすかも知れない身なのだ。

 夕暮れ時に目を醒ますと、弥平治は当分夜は家を空けると女房に言った。

「陣内範義の旦那はよせと言ったが、今夜から屋台を担ぐぜ」

 軽く肩を回しながら店座敷に入り、弥平治は長火鉢の前に座った。

「なぜ旦那に止められたのさ」とお松が聞くと、弥平治は鼻先で笑って見せた。

「大身のお旗本と事を構える羽目にでもなって、抱席のご身分を旦那の代で失いたくないのだろうよ。人は守るべきものがあると弱くなるものさ」

 雁首に刻みを器用に詰め込みながら応えて、弥平治は五徳の下へ顔ごと屈み込んだ。

「お前さんはいつ十手を取り上げられてもいい年だから、怖いものなしだね」

 お松は弥平治に笑って見せて、長火鉢の傍らに箱膳を整えた。

 店座敷で湯漬けを掻き込んでいると、富吉が隠居の下男茂助を連れてきた。

「親分、茂助が隠居の遺品を整理していたらこんな書付が出てきたと」

 上がり小口に立ったままそう言う富吉に、弥平治は「おう、二人とも上がれ」と声をかけた。

 そして、手を差し出すと富吉から紙切れを受け取った。

 桜紙のような粗悪なしわくちゃの紙に、達筆な手で走り書きがしたためてあった。

『仕込 紫看板 下がり藤』

 広い紙の片隅に、たったそれだけの文言しか書かれていなかった。

「それが御隠居の文箱の中、他の書面のいっち上にありました」

 弥平治が紙片から視線を上げると、茂助が被せるように言った。

「お品を呉服町から向島の寮に呼んで、忠右衛門が直々に問いただして書留めたものだな」

 念を入れるように、弥平治は茂助を睨み付けて訊いた。

 茂助は「へい」とこたえて、座敷横の土間に茶を淹れてきたお松に慌てて頭を下げた。

 紙片を見ただけで、弥平治には忠右衛門が南割下水界隈を夜毎掛け行灯をともし流していた理由がおぼろげながら腑に落ちた。

「それにしても、どうやって忠右衛門は南割下水界隈と目星をつけたのだろうか」

 と、弥平治は茶を啜りながら独りでごちた。

 武鑑でも繰って調べたのだろうかと頭を傾けて、覗き込んでいる茂助の視線に気付いた。

「わざわざ有り難うよ」と茂助に礼を言って、富吉に長崎町の自身番に詰めてろと命じた。そして二人が家を出ると、弥平治は本所元町へ向かった。

 辰三郎の家は両国橋東広小路が表店に突き当たった本所元町の裏手、通り一筋隔てて回向院と向き合う荒物屋だった。界隈の顔役が暮らす家にしては近所の小商いの店と同じ町並みに溶け込み、間口三間ばかりと小体な感じがした。店土間には棚からはみ出したように所狭しと雑多な荒物が置かれ、芝居小屋裏の道具置場かと見まがった。

 奥へ入ると店番の若い男が切り落としの店座敷にいた。

「顔役はいるかえ、相生町の弥平治だ」

 弥平治が声をかけると、若い男は黄表紙本から顔を上げて「裏ですが」と応えた。

 店先に出て家脇の三尺路地を奥へ入ると、二階家に陽射しを遮られた十坪ほどの空き地があった。そこには担ぎ屋台や香具師の屋台道具などが雑然と置かれ、辰三郎が道具を前に数人の若い者を指図していた。路地を入ってきた弥平治を見つけると大柄な体の腰を屈めた。

「これは相生町の、昨夜から引き続きお忙しいことで」

 そう言って若い者から離れて、大股に弥平治へ歩み寄った。

 どうやら夜の稼ぎに出掛ける夜鷹蕎麦や鮨屋台の段取りをしていたようだ。

「忠右衛門が使ってた屋台をしばらくわしに貸してくれないか」

 弥平治は夜鷹蕎麦の屋台が並べて置かれた一角を見回した。

「あの屋台は血の飛沫で汚れてるし、縁起が悪いから叩き壊そうかと思ってやしたが」

――どうしてか、と問い掛けるような辰三郎の眼差しに弥平治は頷いた。

「御用のために使うのさ。なんなら損料を払うぜ」

「今月分の損料は頂戴してるから良いンですがね、出汁も蕎麦も仕込んじゃいやせんぜ」

「いやいや、商売をするンじゃねえから、丼や七輪はいらねえぜ」

 弥平治の言葉を信じ難いような眼差しで聞いて、辰三郎は小首を傾げた。

「あれですが、まだ手を入れてませんので掛行灯も飛び散った血が付いたままですぜ」

 そう言って辰三郎が指差した片隅に、黒い飛沫を浴びた屋台があった。

「あれで良いから、借りるぜ。夜が明けたらここに返しておく」

 そう言うと、弥平治は屋台に近寄り横に渡した棒に肩を入れた。

 ゆっくりと力を入れると担ぎ棒が撓り、たちまち弥平治は顔を歪めて「存外に重いものだな」と呻いた。

「この棚にゃ何が入ってるんだ」

 ゆっくり下ろすと、弥平治は肩を回した。

「商売道具は何もかも入ったままで。どけたら商売になりやせんが、それでよろしいンで」

 辰三郎は弥平治を見詰めて念を押し「ああ、全部どけとくれ」と弥平治が頷くと、若い者に命じて棚の中の道具を取り出させた。実に様々な品物が両方の棚に詰め込まれていた。

 すべてを取り出すと随分と軽くなった。それでも五貫目近くはあるだろう。ふたたび地面に下ろすと、弥平治は満足したように頷いた。

「掛行灯の油だけはたっぷり入れといてくれよ」

 他の屋台の棚に道具や材料を詰め込んでいた若い者に、弥平治は声をかけた。

「親分、何になさるンで。まさかご隠居の跡を継いで、夜っぴて南割下水界隈を歩き廻るンじゃ……」

――ないか、と辰三郎は顔を曇らせた。

「ほう、良いところに目をつけたな。当りだよ」

 そう言うと、弥平治は道具を取り出した棚の間に体を屈めた。

「ご隠居が殺されたばかりだ。悪いことにならなきゃ良いが」

 弥平治を覗き込むようにして、辰三郎はくぐもった声を掛けた。

「わしは悪いことが起きなけりゃ意味がねえと思ってるがな」

 弥平治はにやりと笑って、肩を入れて棒を担いだ。


 夜が更けるまで長崎町の自身番に屋台を置いて過ごし、四つ近くになって出掛けた。

 まだ夜風は冷たく、歩くたびに右膝が痛んだ。いつしか肩に食い込む棒の重さにも馴れ、当て所なく南割下水を挟んで両側の河岸道を流した。しかし、一巡りするうちに膝の痛みが強くなり、しかたなく左肩に担いで歩くうちに腰まで痛めたようだ。それでも、火を入れた掛行灯の明かりを頼りに、昨夜の雨で出来た水溜まりを避けて歩いた。

 南割下水は夜鷹がでるような風情のある河岸道ではなく、文字通り下水の流れる行き止まりの入堀だ。どぶの匂いと道連れに南割下水を御竹蔵から横川まで何往復したことだろうか。一様に御竹蔵に近いところに大身の旗本屋敷が多く、横川に近づくほど小普請組屋敷などの貧乏御家人の屋敷があった。あたかも身分でどぶの上流から下流を見下ろす配置になっていた。

 何軒かの旗本屋敷の長屋門には常夜灯とはいいがたい煌々とした明かりが障子に映え、大勢の興奮を押し殺した息遣いが洩れていた。おそらく、中間博奕といって長屋門の中間部屋に賭場を開帳して一晩中丁半博奕をしているのだろう。もちろん博奕は御法度だが、武家屋敷に町方役人の力が及ばないのを良いことに折助たちが胴元になって賭場を開き、当主の旗本も幾ばくかの寺銭を巻き上げて目を瞑っているのだ。

 忠右衛門はどのような心持ちでこの界隈を歩いたのだろうか。孫かと思われるほど可愛い盛りの末娘を無残に殺されて、無念やるかたない憤怒の色を刷いていたのだろうか。それとも、仇討ちをはたすべく執念の亡者となって闇夜を彷徨したのだろうか。誰にも推し量れない忠右衛門の心の闇のように、南割下水は深い闇に包まれていた。

 時折り長崎町の自身番で休み、一服点けて熱い茶を飲んだ。

「親分、こんなことをいつまで続けるンで」

 二十歳過ぎの若い富吉が情けなさそうな目をした。

「わしたちはこうして生きている。生きてる者が忠右衛門に代って下手人を御縄にしなけりゃなるめえ。斬られた忠右衛門の身にもなってみろ、四の五の文句は言えねえはずだ」

 そう言うと、弥平治はふたたび夜の南割下水界隈を流して歩いた。

 夜が白みはじめる前に、弥平治の歩く河岸の向かい側の二三の旗本屋敷から人が姿をあらわした。一晩中明かりをともして長屋門で開帳されていた賭場がお開きになったのだろう。男たちは提灯もつけずに耳門から出ると影のように路地へと消えた。「なるほど」と頷き、弥平治は掛行灯の明かりをゆっくりと揺らして旗本屋敷の対岸を通り過ぎた。

 明け六つの鐘が鳴る前に、弥平治は夜歩きを切り上げて相生町へ帰った。

 下ろされた大戸を叩くと切り戸が開き、掻い巻きを引っ被ったお松の顔が覗いた。

「目の下に大きな隈をこさえて、一晩ですっかり老けちまったね」

 いたわしそうに声をかけて、お松は弥平治を迎え入れた。

 座敷に上がるとお松に物を言うのも厭わしそうに、夜具に潜り込み泥のように眠った。

 昼下がりに起き出すと町内の湯屋へ行き髪結に廻った。暮らしが昼夜逆になったようで塩梅が悪かった。町の者と道で出会ってもどう挨拶していいのか調子が外れてしまった。

 そうした日が五日ほど続いたが、収穫は何もなかった。

 その日の昼下がり、相生町の家に不機嫌な陣内範義がやってきた。上り框に腰を下ろすと、寝起き眼で店座敷にいた弥平治を睨み付けた。

「岡っ引風情が何をしてるンだ。昼の見廻りが疎かになっちゃいないか」

 ひとくさり皮肉を言って、陣内範義は弥平治のむくれた顔を冷ややかに見た。

「定廻に頼んでた一件が分かったぜ。呼ばれてお品は五日ばかり向島の寮で忠右衛門と過ごしたようだ。その間、お品が聞かれたことはいろいろあるが何せまだ子供だ、余り要領を得なかった。ただ、お京を拐した男をうろ覚えに覚えていた。男が着ていたのは……」

「紫色の看板でしょう」

 弥平治は陣内範義の言葉を遮った。

 驚いたように陣内範義は弥平治を見詰めた。看板とは折助が着る主家の紋が背に入った法被のことだ。

「その紋所は子供のことでなかなか分からなかったが……」

「下がり藤。ってことは南割下水南河岸にある御旗本中村半左衛門殿の御屋敷ってことで」

 弥平治がずばりと言うと、陣内範義は驚きの顔に怒りの色を浮かべた。

「テメエどこで調べやがった。そこまで承知していて、なぜ俺に報せなかった」

 陣内範義は立ち上がり、眉間に皺を深く刻んで唇を震わせた。

 弥平治は一回り半以上も年下の同心から手札を受けたわけではない。間違っても先代の旦那は岡っ引に先を越されるようなことはなかった。足を使って丹念に調べ上げて、適切に岡っ引を差配した。豪放な性格の中にも細やかな心遣いがあった。

「お見えになるなり何してた、と頭から叱られれましたので、それなりに調べていたと」

――言っただけではないか、と弥平治の顔に不満の色が浮かんだ。

 しばらくの間沈黙のまま睨み合ったが、弥平治には頭を下げて陣内範義に詫びるつもりはなかった。町衆が枕を高くして眠れるために自分は働いてる、との自負があった。

「中村殿は千二百石の大身だぞ。これ以上の探索を禁ずるものと心得よ」

 陣内範義は甲高い声で言い放った。

 威張っているがその実、同心は三十俵二人扶持の御家人に過ぎない。旗本とは比べものにならないほどに低い身分だ。弥平治は座ったまま陣内範義を見上げた。眼差しには諦めにも似た嘲りの色が浮いていた。

「止められるのは別に構いやせんが、加役に手柄を盗られちまいやすぜ」

 弥平治は醒めた声で脅すように低く言った。

 加役とは長谷川平蔵が意見具申してつい先年、新たに創設された火付盗賊改役のことだ。町奉行所が御定法に縛られて寺社や武家屋敷へは踏み込めず、悪党がそこへ逃げ込む事件が多発した。そうした弊害を一掃するために設置された役目だが、当然のことながら町奉行所の役目が大きく侵食され、面目を潰されたことも一度や二度ではなかった。

 陣内範義は「うむ」と呻きを洩らし、俯いて腕を組んだ。

「旦那、ここは弥平治に任せやしょう」

 陣内範義を怖れるように、店の入り小口にいた小者が声をかけた。

 古狸の意図は見え透いている。それは町方同心は知らなかったことにして、何かがあった折りには岡っ引が勝手にやったとして責任を免れる手だ。中村半左衛門が若年寄に手を回して南町奉行に捻じ込んでも、陣内範義は預かり知らぬことにする。

 それで良い。余計なことは言わずに、陣内範義は黙って見ていれば良いのだ。弥平治はそう願ったが気持ちは伝わらず、陣内範義は意を決したように顔を上げた。

「あいわかった。ただし、俺も長崎町の自身番にて詰めるぞ」

 眦を決してそう言うと、陣内範義は同意を求めるように弥平治に小さく頷いた。

 小者は「旦那」と情けない声を出して嘆いた。

 しなくても良い余計な決断をしたものだと、弥平治も溜め息をついた。


 その夜から陣内範義も長崎町の自身番に詰めた。

 もちろん下っ引の富吉は顔をしかめたが、迷惑に思ったのは富吉だけではなかった。番太郎も書役もそれに年老いた町役まで夜通し寝ずの番をする羽目になった。さらに同心付きの小者も加わるため、六畳一間の座敷は文机を隅に寄せても体を横に休める隙間もなかった。しかも、町方同心がいては気侭に将棋を差したり草紙を読んだりして暇を潰すこともままならない。なんとも気詰まりな寝ずの番となった。

 弥平治はいつものように掛行灯に火をともして、夜鷹蕎麦の屋台を担いで南割下水界隈を流して歩いた。河岸道の片方には漆喰の剥げた小普請組屋敷の長い壁や旗本屋敷の練塀、もう片方には三尺の切石で組まれた石垣があって下には淀んだ下水が流れていた。たとえ夜鷹が出て客を取っても筵を広げる場所すらない。男女が情を交わすような風情なぞ持ち合わせていない味気ない堀割だ。ついぞ夜鷹蕎麦の屋台を見かけないのも道理だった。

 深更、中村半左衛門の屋敷に差し掛かると、弥平治は左頬に刺すような鋭い視線を感じた。顔を向けずに目の端で長屋門をとらえると、橙色の明かりのともった窓の明かり障子が僅かに動いたような気がした。その部屋は屋根付き門に向かって右手、取り付きの番人部屋に当たるところだった。潜り戸が開いて人が出て来るかと背後の気配を窺ったが、何事も起きなかった。それでも辛抱強く、弥平治は南割下水を巡るように掛行灯をともして歩いた。空が白み始めるまでにもう一度中村家の前を通ったが、人の視線はいささかも感じられなかった。

 長崎町の自身番に顔を出すと、おしなべて男たちは疲れきった様子を隠さず死んだような眼差しで弥平治を迎えた。陣内範義は奥の壁に差料を抱いて背を凭れかけさせていたが、帰ってきた弥平治を見ると無言のまま立ち上がった。小者ものろのろと立ち上がり腰高油障子を開けて表へ出た黒紋付き短巻き羽織の陣内範義の後を慌てて追った。

 これに懲りて陣内範義はもう寝ずの番はしないだろうと思ったが、その日の夕暮れにも小者を従えて相生町へやって来た。店先に入った陣内範義は店座敷の弥平治を一瞥すると、黙ったまま踵を返してさっさと長崎町の自身番へ向かった。

 五つ過ぎに掛行灯に火を入れて、いつものように弥平治は担いだ。

 歩き出すと膝も腰も痛み、屋台を軽くしているといっても担ぎ棒は肩に食い込んだ。

 しかし、一町も歩くとなぜか急に楽になった。不思議なことに膝の痛みも腰の痛みもきれいに消え失せていた。いつしか肩に食い込んでいた重みすら感じられなくなり、屋台がひとりで浮いて漂っているような気さえした。忠右衛門が荷を担いでくれているとしか思えなかった。

 南割下水の河岸道を西へ向かい、中村半左衛門の長屋門の前を通った。番人部屋に明かりがともり、人の声のざわめきが湧いていた。御竹蔵の海鼠壁に突き当たると、南割下水の北河岸道を東にとった。ゆらゆらと掛行灯の明かりが揺れて、いくらか寒さの和らいだ夜風が頬を撫ぜた。

 いつもの道順を歩くつもりが、いつしか河岸道から左へ折れて北へと向かっていた。弥平治の意志とは関わりなく、あたかも忠右衛門の霊に導かれるように歩みを進めた。そこは夜鷹蕎麦の屋台を担いではまだ一度も通ったことのない武家割だった。月の昇っていない武家屋敷の白壁に両側を遮られた暗い川底のような道を、弥平治は歩き慣れた道のように足を運んだ。碁盤の目のように交わる辻を真っ直ぐに進み、ゆらゆらと屋台が揺れて二つ目の辻で左に折れた。

――おとっつあん、こっち、こっちだよ。

 深いしじまの底から囁きかけるような、陽炎のような声を聞いたような気がした。それは確かにこの世のものとも思えない、透き通った幼さの残る娘の声だった。だが不思議と恐怖心は湧かず、弥平治は訝ることもなくその声の導く方角へと素直に歩みを進めた。

 辻番小屋の中から睨む番人に頭を下げて通り過ぎると、道の遥か彼方に御竹蔵の海鼠塀と辻番小屋の明かりがかすかに見えた。界隈は冠木門の旗本屋敷が連なり、右手にひときわ壮大な門構えの武家屋敷があって町人の暮らす石原町が白壁に張り付くように囲んでいた。どうしてこの界隈に足を踏み込んだのかと自問することもなく、弥平治は掛行灯の明かりに導かれるように淡々と足を運んだ。

 今夜は殺された忠右衛門の初七日か、と弥平治は心の底で呟いた。が、それにこだわることもなく、頭の中から邪念を去らしめてただひたすら雲水のように歩いた。忠右衛門の血飛沫が黒いしみとなり長く滴を曳いた掛行灯の明かりは御灯明のように闇に揺れた。

 月明かりのない夜道は暗かった。掛行灯の明かりの落ちる周囲五尺ばかりしか弥平治の目は利かなかった。しかし何処を歩いているのか気にも留めず、弥平治は夜鷹蕎麦の屋台を担いで歩いた。やがて長い海鼠壁に行く手を遮られ、足の向くままに左に折れた。御竹蔵の塀に沿って南割下水へ向かっているとも意識せず、いつしか背後を足音がつけていることも気にはならなかった。

 南割下水が御竹蔵に行き止まっている端を過ぎると、海鼠塀から離れて下水の南河岸道をとった。それも弥平治の意志ではなかった。すでに、夜鷹蕎麦の屋台を担いでいるのは忠右衛門だった。弥平治は屋台の揺れるままに足を運び、掛行灯の明かりに導かれているに過ぎなかった。中村家長屋門の前を過ぎると潜り戸が開き、男の影が二つ河岸道に湧いた。先刻からの足音と合わさった三つの足音が後をつけているが、振り返ろうとも走り去ろうともしないで弥平治はゆったりとした足取りで河岸道を進んだ。

 十万坪の彼方に赤い大きな月が昇った。

 弥平治はゆらゆらと掛行灯を揺らして、昇りかけた月へ向かって歩いた。後をつけていた雪駄の足運びが急に忙しくなり、三つの影が弥平治に迫った。それでも弥平治は淡々と屋台を担いで歩き続けた。急に小走りに駆け出した一つの影が弥平治を追い抜き、河岸道に立ち塞がって弥平治を挟んだ。右手には武家屋敷の白壁が、左手にはどぶの匂う南割下水が直線に夜の闇に溶け込んでいた。

 弥平治の気持ちは平静だった。

 前後を男たちに挟まれても、弥平治の歩みは止まらなかった。

 三人を引き付けたまま弥平治の心には小波すら立っていなかった。

 逃げる手立てを考えるでもなく、弥平治は歩を変えず追い抜いて立ち止まった男の影に近づいた。月を背負った影も弥平治に歩み寄り姿勢を低くした次の瞬間、

「弥平治、仕込み……」

 と陣内範義の声がしたのと同時に、影の背から白刃が立ち上り弥平治の左首付根めがけて振り下ろされた。身に迫る空気を裂く刀風とともに、

――おとっつあん、

 と、叫ぶ娘の声が弥平治の耳に聞こえたような気がした。

 弥平治は目を瞑って斬り殺されたかと観念したが、その刹那わずかに担ぎ棒が左に振れて刀筋を邪魔していた。男は振り下ろした刀を素早く引き付けて振り上げると「死ね」と叫んで弥平治の右へ廻ろうとした。すると、担ぎ棒が勝手に右へ振れて男の動きを封じた。

 ばたばたと駆けつける陣内範義たちの足音が近づくと、背後の二人は逃げ出した。前の男も慌てて逃げ出そうとすると、屋台がひとりでに横になって道を塞いだ。

「父娘二人して取り憑きゃあがって、何度でも殺してやるぜ」

 男は憤怒の形相で弥平治の眉間めがけて仕込み刀を振り下ろした。一瞬、弥平治は腰が抜けたように体が退けて、刀風とともに目の前の担ぎ棒に刃が食い込んだ。男は目を丸くして刀を棒から外しにかかったが、その隙を逃さず弥平治の棒十手が猛然と男の首筋を打ち据えていた。いつの間に懐の十手を手に反撃したのか、その早業に弥平治自身が驚いて目を剥いた。

「弥平治、怪我はないか」

 陣内範義がそう呼び掛け、走ってきた小者たちが男に飛び掛かって取り押さえた。

「二人ばかり逃げたようだな」

 姿は消えて足音だけが聞こえる薄闇を見詰めて、陣内範義は呟いた。

「へい、そのようで。しかし、主犯はこの仕込みの木刀を持った男でして」

 弥平治はおだやかに言った。

「ほほう、仕込みの長脇差を背に持っていたことも弥平治は承知していたのか」

 そう言った陣内範義の声にも顔にも、癇症の険はなかった。

 一皮剥けた若い同心の顔を見詰めて、弥平治もはじめて会心の笑みを浮かべた。

 赤い大きな月がその丸い姿を十万坪の彼方に見せていた。


 捕まえた男は旗本中村家の看板を着た折助だった。三四番屋に移されると石を抱かせるまでもなく、男の態度は憑き物でも落ちたように神妙だった。博奕仲間と三人でお京を拐して殺害した上に、身代金まで奪ったことを自ら白状した。さっそく町奉行から若年寄を通して当主中村半左衛門に従犯者を引き渡すように掛け合ったが、当家にそうした者はいないと拒絶された。

 間もなく、町に噂が立った。

 南割下水界隈を夜っぴて流す夜鷹蕎麦の屋台があると。

 その掛行灯の明かりは一晩中消えない消えずの行灯だと。

 短い春も終わる頃、屋敷で二人の中間が急な病で亡くなったと、旗本中村半左衛門から町奉行所に届けがあった。

                                    終

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消えずの行燈 沖田 秀仁 @okihide

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