蒼穹の涯

沖田 秀仁

蒼穹(そうきゅう)の涯(はて)

            蒼穹(そうきゅう)の涯(はて)

    沖田 秀仁

 私は小高い丘の上に立っている。

丘は背後の北西から伸びてきた山稜が谷間に突き出た南東端にあった。

谷間はそれほど高くないなだらかな山稜に囲まれ、僅かな谷に沿った平地があり、その平地は東と北から伸びて来て、西へと下って西の端で南北から伸びてきた山稜によって巾着のように狭められている。そしてその谷底にはそれぞれ小川がくねりながら流れ下り、この地に暮らす人たちの生活を潤している。

ここはかつて周防国熊毛郡束荷村字田尻村と呼ばれていた。当時の記録によると戸数は二十を僅かに欠けた。昔日と同じくなだらかな山並の山麓、平坦地の南寄りを島田川に注ぐ支流の束荷川が東から西へと比較的緩やかに流れている。その川幅二間あまりの小川から山裾へと巧みに畦を巡らせて、棚田が緻密な絵模様のように重なっていた。それは江戸初期から戦前に到るまで、生真面目に自らの肉体を酷使して少しずつ開墾されたものだ。

 聚落の東の峠から下ってきた道は杣道そのままに束荷川の土手道となり、聚落を抜けて西南のへと山中を下っていく。山陽道と異なりその道は聚落になにがしか用のある者でない限り通らない里道だった。その小川に沿った道を下れば、村の外れで岩田から田布施・平生を経て商都柳井へ到る道と、束荷川が流れ込む島田川沿いに熊毛郡三丘から光市三井、浅江を通り抜けて瀬戸内海に到る土手道の二手に分かれている。逆に北へと登り道を辿れば小周防村を経て山陽道の鄙びた宿場町の呼坂に到る。各地へ抜けられる要路だが、自動車の通りはそれほど多くない。

 丘の頂の広く平らな地にある人物を祀った社がかつて建っていた。現在は社があったと思われる基礎の長石が長方形に置かれていることから窺えるだけだ。

菅原道真がそうであるように、その神社に神として祀られた人物も非業の死に仆れた。明治四十二年十月二十六日に異郷のハルビン駅頭で凶弾に仆れた。享年六十九歳だった。

その死を悼み、郷里の人々は彼の生家の裏山に神社を建てた。歳月が過ぎ去りその人物を知る人たちも亡くなり、そして敗戦で明治以来の史観が一変すると神社は放置された。檜皮葺の屋根の葺き替えもできなくなり、昭和三十四年に地域の氏神を祭る束荷神社に合祀された。今では丘の上の神社の建屋はすっかり取り払われ、青天井のもと明治憲法を発布する堂々たる銅像だけが鎮座している。ただ丘の麓には藁葺の小さな生家が再現され、見物客に開放されている。

 私は丘の麓の百姓家に生まれた男の前半生を描こうとしている。その人物は幼名を林利助といった。束荷村ではそれほど目立つ子供ではなかったようで、幼少期の逸話に特筆すべきものは殆どない。彼が世間の注目を浴びだしたのは萩へ出てからのことだ。成長期と軌を一にするかのように栗原良蔵や高杉晋作などの邂逅が彼の人生を大きく変えたが、藩内ですら二十歳過ぎまで彼はそれほど名を知られる存在ではなかった。長州藩ですら彼の名が広く知られるようになったのは維新前夜のことだ。遅咲きといえばまさしく遅咲きだが、彼自身がそうした節がある。幕末から維新まで名を知られることは命を狙われることでもあった。明治維新後に彼は名を伊藤博文と名乗り、初代内閣総理大臣になった。

林利助は山口県光市大字束荷字野尻と呼ばれるこの地で天保十二年九月二日(西暦一八四一年十月十六日)に自作農の一人息子として生まれた。周防束荷村は藩都・萩から遠く、山陽道の街道筋からも外れた辺鄙な山村だった。身分制度の厳しい江戸時代にあって、林利助はこの村で自作農夫として一生を終えるはずだった。しかし数奇な運命により彼も長州藩の若者たちと同様に時代の奔流に巻き込まれることになる。多くの若者たちが時代に翻弄され途半ばで命を落としたが、彼は明治の御代まで生き抜き元勲の一人に数えられた。

維新以後の彼で特筆すべきは多くの元勲たちが権謀術数を得意として新政府の仕組みを構築する実務を苦手としたのと異なり、伊藤博文は大久保利通と並んで明治新政府の実務家として双璧をなす数少ない政治家だった。

維新後の政界で伊藤博文が第一線に立つのは政治の実権を握っていた大久保利通が暗殺により明治十一年に没してからだ。二番手に甘んじていた伊藤博文が明治日本を他国から侵略されない国家とするために、欧米列強かと伍すべく近代化に邁進した。今日、彼の評価は近隣諸国との関係からか大きく割り引かれているが、それは彼にとってだけでなく日本にとっても不幸なことだ。近代日本史に疎く日本国民としての国家観を持たない人々の言辞は無視するとしても、簡単な理屈さえ理解できない多くの文化人や政治家には慨嘆するしかない。伊藤博文は間違いなく明治日本を欧米列強に伍す先進国へと躍進させた第一線級の功労者だ。その広い見識と慧眼は日本のことのみならず、極東に押し寄せる欧米の動静をも的確に見ていた。たとえば伊藤博文が日本政府全権として日清戦争の戦後処理として清国の全権・李鴻章と交渉し、締結した「下関条約」を一読すれば、彼が朝鮮半島の独立を願っていたのは明らかだ。

それでも伊藤博文が晩年に朝鮮総督に就任したことから「半島経営」を目論んでいたと批判する人がいる。しかし立場が異なるとものの見方も異なるのは当然だろう。たとえばジョージ・ワシントンは米国では建国の父であるが、英国では国家叛乱の首謀者として教えられている。日本の国益を考えて行動できるのは他でもない日本国民だけだ。そうした分かりきった事実すら失念して、外国政府に阿る日本人の多さには驚くばかりだ。だが明治日本の先人たちはそうしたことを十分に承知していた。承知した上で貧弱な資源しか持たない日本の現実を踏まえた上で、帝国主義全盛期の弱肉強者の世界へ門戸を開き大海原へと乗り出した。現代よりもはるかに苛酷な状況の中で、先人たちは敢然と日本国の名誉と日本国民の利益のために死力を尽くした。

 伊藤博文の生きた時代は日本にとって有史以来経験したことのない一大変革期だった。いや幕藩体制を打破して明治維新を成し遂げたのは変革というより鎌倉幕府開闢以来の幕藩体制を覆す革命だった。しかもそれは私たちにとって想像を絶するほど遠い過去の出来事ではない。ペリー来航を幕末の始まりとすれば、たかだか嘉永六年(一八五三年)から明治元年(一八六七年)までのことだ。今から二百年にも満たない過去のことだ。江戸時代そのものの二百六十余年間よりも短く、さらに幕末から今日までの方がはるかに短い。

 私に限っていえば曾祖父は江戸時代末期の慶応二年(一八六六年)に生まれている。間違いなく伊藤博文の活躍した時代を私の曾祖父は暮らした。私は生前の曾祖父には会えなかったが、先年八十四才で亡くなった父は彼の祖父を良く記憶していた。折に触れて逸話を聞かされ、私にとって江戸時代は手を伸ばせば届きそうなほど身近な過去だ。それは私に限った個人的な述懐ではなく、当時の豊富な写真や文献や史料が残っていることからも幕末は十分に検証可能な近代史だ。ましてや明治以降は社会風俗や政治体制からいっても今の私たちに直接連なる現代史といえよう。

 幕末期、長州藩は討幕運動の坩堝となった。多くの犠牲を払いながら維新を迎えるや幕藩体制から脱却し、集権国家体制へ移行すべく政治・経済・社会などの大変革に先人たちは全力で奔走した。そして徳川幕府の外交に無知な幕閣を相手に、西洋列強が騙すようにして締結した不平等条約の撤廃と国民国家建設に立ち向かった。当時の世界状況を考え合わせるなら、明治の日本人は破落戸のような欧米諸国と伍すべく、健気にも全力を傾けて欧米化へ邁進したといえる。十五世紀から始まった大航海時代とでもいうべき帝国主義というグローバル化に対抗して、日本を欧米列強のグローバル化の嵐から守り、結果としてこの国と国民の自主独立を守り、欧米と肩を並べるほどの国へと変貌させた。その先人たちの刻苦精励に、今を生きる日本国民として心から賛辞を送るべきだろう。

 幕末から明治維新にかけて私たちの先人は国際感覚を短期間に身につけ、この国のあるべき姿と進むべき方向を的確に見通したといえる。評論家の中には猿真似をしただけではないかと先人を貶める論を吐く人もいるが、日本国内の各種制度の西洋化と西洋の猿模倣とでは明らかに異なる。制度としての経済や政治を導入することは、そうした制度を支える常識や慣習までも導入することであり、社会そのものを移植するのと同程度の困難を伴うだろう。

 私たちが想像するほど封建制度から明治の民主制度への移行は簡単なものではなかった。推理小説の犯人を知ってから小説を読んだ場合、隠されたトリックを見破るのは余りに簡単だ。しかし明治政府の要人たちが欧米列強の国家体制を最初から知っていたわけではない。先人たちは短期間に先進諸国からすべてを学び、すべてを理解しすべてを国内社会で実践し、速やかに国民へ敷衍しなければならなかった。それがいかに難事業であったか想像に難くない。

 しかも伊藤博文は高杉晋作のように生れながらの由緒正しい累代の藩士ではなかったし、長州藩城下町萩に確たる地位が用意されていたわけでもなかった。まさしく艱難辛苦の末に明治政府の要人となった。苦労人伊藤博文の困難は生れ落ちたときから始まっていた。それは地理的なものと身分的なのものと、二重の意味での困難だった。


彼が生まれた束荷(つかり)村野尻は長州本藩支配の周防熊毛郡に属していた。束荷村の神社はかつて粟屋神社と呼ばれ、束荷神社の由来は粟屋権現に由来するとの説と、石城山から分祀された金毘羅オオヤマツミノ神で「綿摘」を意味する女神との二説ある。束荷という地名は綿の荷を束ねていたことに由来するのだろうか。綿の栽培適地は温暖で日当たりの良い水捌けの良い砂地とされている。水稲栽培に適さない地だったことは地形から容易に想像できるが、この地に移り住んだ人たちは懸命に開墾し川から水を引いた。

 地図で見ると周防国のほぼ中央、海岸線から遠く離れた内陸部に位置しているが、嶮峻な山々に閉ざされた辺鄙な山里でもなかった。元々周防国にそれほど高い山はなく、瀬戸内海に面した山並みは概してなだらかだった。束荷村野尻も低くなだらかな山々に囲まれ、水路のような小川に沿って切り開かれた聚落だった。当時、戸数は二十に満たなかった。

 伊藤博文は幼少期「林利助」と名乗っていた。利助が生まれた折、父林十蔵は二十九才で母琴は二十四才だった。人別帳に記された姓は林だが、誰も十蔵を「林十蔵」とは呼ばなかった。村人たちは彼のことを『柳の十蔵』と呼んだ。束荷村には総林と呼ばれるほど林姓の家が多かったため、村人はお互いを屋号で呼び合った。屋号とは様々な由来や由緒から名付けられ、不動寺、稲荷、新家、茶屋などが屋号として代々受け継がれた。それは現在に至るまで残り、田舎では未だに屋号で呼び合っている。林十蔵の屋号が『柳』だったのは屋敷に柳の巨木があったためなのか、由来は定かでない。

十代で婚姻・出産するのも珍しくない当時で、林利助が授かった父母の年齢が二十九歳と二十四歳は「高齢出産」といえる。その原因は婚姻より三年を経ても子宝に恵まれなかったからだ。そのためため琴は村の鎮守の天満宮へ日参し、願い叶って子を授かったとの言い伝えがある。世は天保四年から九年にかけて断続的に見舞われた大飢饉の痛手から、やっと立ち直りを見せはじめた頃だった。


 元々林一族は伊豫の豪族河野家の末裔だといわれている。彼らの祖先は戦国時代末期に四国の覇者・長宗我部氏に領地を奪われ、命からがら瀬戸内海を渡って毛利氏を頼った。当時の毛利氏は毛利元就が当主で、乱世を武力と策略を駆使して一代にして中国地方一円を制覇し武威を誇っていた。毛利氏の庇護を受けた林一族は士分として処遇され、それ相応の領地も得て暮らしていた。しかし平穏な暮らしは長くは続かなかった。

 慶長五年(一六○○)関ヶ原の合戦で毛利氏当主の毛利輝元は豊臣の西軍の総大将に推された。当初は優勢に戦っていたが、分家の吉川広家が徳川方に内通し小早川秀秋が寝返ると形勢は逆転した。徳川方の東軍に撃破され、毛利輝元は敗走した。

領地に逃げ帰ったものの最悪の場合、毛利輝元は捕らえられて領地没収の上切腹を賜る沙汰もありうる。もちろん累代の家臣は禄を失い浪人となるしかない。林一族も再び流浪の暮らしを覚悟せざるを得なかった。

徳川家康が毛利輝元に下した沙汰は毛利氏の支配地域中国十二カ国と領地百二十万石のすべてを召し上げる代わりに、徳川方勝利に功績のあった吉川広家に防長二州三十六万九千石を与えるとした。しかし吉川広家は本家が無禄になるにも拘らず、自分が本家を差し置いて領地を戴くのは筋違いとして、徳川家康に周防と長門の二州を本家毛利輝元に与えるように願い出た。徳川家康はその願いを聞き入れ、毛利輝元に長州藩三十六万九千石を与えることにした。敵方に回った武将に決して温情を掛けることなく、徹底した厳罰で臨んだ徳川家康にしては、毛利輝元に対する処分は他の西軍武将への処分と比べれば特別に寛大なものだったといえる。

だが切腹を免れたどころか改易追放までも免れて領地を安堵された破格の対処といえども、中国地方百二十万石の所領を周防・長門の二州のみ三十六万九千石に減封された現実は重かった。毛利輝元は中間や足軽はいうに及ばず、累代の重臣にさえ暇を出さなければならないほど追い詰められた。現実問題として領地が四分の一に削減されれば、従前通りに扶持を与えることはできないばかりか、家臣の四人に三人に暇を与えなければ藩財政は立ち行かなくなる。やむなく毛利輝元は累代の家臣たちに解き放ちを言い渡したが「無禄にても宜しゅうございます」と、ほとんどすべての者が防長二州へ付き従ってきた。

零落した武将が家臣から慕われるとは、当主としては栄誉なことだが、毛利長州藩が立ち行かなくなるのは目に見えている。家臣の暮らしを安堵できない者に当主の資格はないと、毛利輝元は領地返上を昵懇の黒田如水を通して徳川幕府に申し出た。それは毛利輝元本人が浪人するも覚悟の上、との悲壮な決意表明だったが、徳川家康は一瞥しただけでフンと鼻先で笑って無視した。追討の軍勢を差し向けるまでもなく、毛利長州藩は困窮のうちに滅亡するであろうと考えた。

江戸時代の殆どの期間を、長州藩は藩主のみならず家臣の一卒に到るまで窮乏に喘いだ。岩国市徴古館に展示されている長州支藩の一つ吉川岩国藩の史料に、藩士の家禄を記した表向きの石高の下に実際に支給した石高が記された書面が遺されている。それによると扶持が四分の一以下に減石されている例も珍しくなく、家老などの上級藩士ほど減石の割合が高くなっている。家臣たちは艱難辛苦を覚悟の上で君主に従って防長二州に移り住んだのが良く分かる。

 周防国束荷村に移り住んだ林一族が禄を離れて、刀槍の代わりに鋤鍬を手にしたとしても何ら不思議なことではない。そうした例は長州藩においては枚挙に暇がないほどごく普通にありえた。萩城下に暮らす名のある藩士ですら、下級士族においては畑で泥と汗にまみれることを日常としていた。実質的な暮し向きは百姓と大差なかった。

 徳川家康は家訓として西方の外様大名に用心せよと言い残した。彦根に譜代大名の井伊氏を置いたり、名古屋城に御三家の一つを配したり、何重にも西方の外様大名長州藩と薩摩藩に備える布陣を敷いた。

まさしく徳川家康が予見した通り、長州藩は江戸時代を通して存亡の危機に喘いだ。だが幕末期に突如として長州藩は潤沢な軍資金を蓄え、倒幕運動の先頭に立って活躍することになる。が、そうした劇的な変貌を遂げるのは天保八年四月以降のことだ。

天保八年四月、十八歳で十三代長州藩主に就いた青年がいる。当然のことながら、その若者は望んで藩主に就いたわけではなかったし、元々本家筋でないため本来なら藩主になれる血筋でもなかった。しかし破綻寸前の藩財政に恐れをなして藩主になるべき適格者が相次いで辞退したため、その青年に藩主のお鉢が回ってきた。


藩のお歴々は藩主に就いた若者を気の毒がった。当時藩が抱える借財は実に年貢収入の二十二年分にも達し、長州藩は破綻寸前というよりもとっくの昔に破綻していた。自ら懲罰でも受けるように、長州藩の藩主に就任した若者は名を毛利敬親といった。

長身痩躯の青年は藩主に就任するや、すぐさま一人の老人を政務役に抜擢した。毛利敬親は先年江戸用談役の男が提出した「藩政改革書」を知っていた。建白書を著した男は藩公明倫館教授だったが、定年後に江戸用談役という閑職に追いやられていた。既に年齢は五十六歳と、当時としては老人に属する。家格は二十五石の郡奉行格という下級藩士だった。藩重役たちは江戸用談役が建白した「藩政改革書」など見向きもせず、何年も未決済箱で埃にまみれていた。しかし毛利敬親は用談役の老人を政務役に抜擢した。その男は名を村田静風といった。

藩政で前例のない驚愕すべき人事を断行したにも拘らず、藩重役は誰も異議を申し立てなかった。もちろん藩重役たちは村田静風を知らなかったし、若い藩主の手腕にも期待していなかった。元明倫館教授を政務役に抜擢していかなる藩政改革を行おうとも、たちまち頓挫して水泡に帰すだろう、と考えていた。これまで自分たちの手に負えなかった藩財政の立て直しに誰がいかなる手腕を揮ったところで、いささかなりとも好転するとは思えなかった。

毛利敬親は天保八年四月に藩主に就いてから明治四年に没するまで、激動の幕末期を藩主として君臨した。激変する時代の渦に呑み込まれなかっただけでも偉業というべきだが、藩主を全うしただけでなく毛利敬親は長州藩を雄藩の一つに変貌させた。明治維新という国家事業に長州藩の名が燦然と輝くのはすべて毛利敬親の業績といっても過言ではない。財政改革を断行して潤沢な黄金で金蔵を満たしていなければ倒幕は出来なかっただろうし、毛利敬親が藩主でなければ藩そのものを消滅させる明治維新などという偉業はなし遂げられなかっただろう。他藩であれば倒幕の精神的な支えとなった思想家・吉田寅次郎や革命軍を率いた高杉晋作でさえも、活躍の場に躍り出る前に「藩に背く者」として死を賜っていただろう。

毛利敬親は痩身長躯の青年だったが年毎に肥満し、晩年には歩行さえも困難であったという。後に『そうせい侯』と陰口を叩かれるほど藩政を家臣に委ねた暗君と評する向きもあるが、愚者に幕末の長州藩主は勤まらなかっただろう。

 ともあれ、文久から元治慶応へと毛利長州藩は火の玉となって藩の存亡を賭けて倒幕に驀進することになる。積年の宿願を果たすかのように薩摩藩と力を併せて倒幕に立ち上がり、さしもの徳川幕府も家康から数えて十五代をもって瓦解せざるを得ないことになる。

 しかし、林利助が束荷村に生を受けた天保十二年当時、長州藩は毛利敬親が村田清と共に三十七万貫の借財に立ち向かい始めたばかりで、藩政改革の目鼻も付きかねていた。いまだ長州藩は困窮のどん底にあって、奥の日々の費えにさえ事欠いていた。武家諸法度の御定法で定められた参勤交代ですら、借銭を当てにして国許を発ったものの当てにしていた大坂鴻池屋に用立てを断られて、藩主以下大名行列が一月にわたり大坂で足止めを喰らって満天下に恥をさらしたりしていた。


  一、萩へ

 林利助の生家は束荷村野尻の東南に面した山麓に建っていた。

 隣の家とは一町ばかり離れ、南には農家には不釣り合いな広い広場があった。

 父は名を十蔵といって、村で代々畔頭の役目を勤める百姓だった。畔頭とは年貢米の取り纏めを主な役目とする、束荷村では本家の庄屋林惣左衛門に次ぐ家柄だった。林家に耕作地は五反歩の田と二反歩の畑、それに山が六反歩ばかりあった。五反百姓は家族が少なければ年貢を供出しても何とか一家が糊塗できるが、係累が多ければ多少なりとも他人の田地を小作しなければ暮らせない。

 愚かなと同義語に『戯け』という言葉がある。戯けの語源はつまりタワケ、田分けということだ。財産分与として田を分ければ自作農は成り立たなくなる。嫡子相続が定法だったとはいえ、子を沢山なせば何かと災いの種となる。それを意識したわけでもないだろうが利助に兄弟はなかった。

 利助の記憶にある限り、両親は一日中働いていた。昼間、母は父と共に田畑で働き、夜になると土間に面した三畳ほどの板の間に座り糸を紡ぎ木綿を織った。父も夜は同じ部屋で筵を織ったり草鞋を作ったりした。夜なべ仕事の手伝いはまだ出来ないまでも一つ明かりの下、利助はその傍に書見台を置いて寺子屋の復習などをしていた。

 林十蔵の勤める畔頭の重要な仕事は秋の収穫時に、聚落の家々から供出された年貢米を取りまとめることだった。検地により定められた石高に応じた年貢米を徴収し郡代官の役人に検納するのを役目とした。

 ある年、林十蔵は畔頭の役目を果たす上で重大な失態を犯した。村の家々から納められた年貢米の量目が郡代官役人の検査で不足していることが発覚したのだ。それも相当な量目に達していて、とうてい許されるものではなかった。

 不足した量目は引負(使い込み)とされ畔頭が責めを負うことになる。量目不足の原因が何であれ、弁済しなければ林十蔵は郡代官所の牢に繋がれ執拗な譴責を受ける。村で暮すことが適わなくなるばかりか、罪人として捕らわれかねない事態に追い詰められた。

 林十蔵は生まれついての畔頭のため、家の格式と系譜を幼い頃から言い聞かされて育った。自ずと家柄に対する矜持が林十蔵に備わり、人に頭を下げるのを潔としなかった。

 しかし、背に腹はかえられないとばかりに、林十蔵は額を土間に擦り付けた。莫大な引負をしでかしたのは紛れもない事実だ。放置すれば郡代官所の役人から重い咎めを受ける。林十蔵は必死の形相で岳父秋山長兵衛と親戚の林儀兵衛を頼り、三人で庄屋を勤める本家林惣左衛門に頼み込んだ。林利助が三才のときの出来事だった。

 本家から米を融通してもらって、林十蔵はなんとか危機を乗り越えた。畔頭としての面目は保たれ、一家に平穏な暮しが甦ったかに見えた。

 だが、人の性癖は容易に直らないものだ。喉元過ぐれば熱さを忘れるとの諺もある。一度目の引負騒動を引き起こしてから三年目、林利助が六才の折にふたたび十蔵は引負を抱え込んでしまった。その量目は十二石にも達したという。帖付けを行う畔頭としては万死に値する。村人が運び込んだ年貢米の量目を検査し帖付けして、役人に引き渡すまで保管するのが畔頭の役責だ。量目不足はいかなる言い訳も通らない。しかも、二度目ともなると本家を頼ることもできなかった。

 とるべき道は一つしか残されていなかった。それだけは思い止まれと林儀兵衛が口を酸っぱくして意見したが遂に聞き入れず、十蔵は断腸の思いで家屋敷から田畑に至るまですべてを売り払って不足した量目を補填した。

 二度にわたる引負は十蔵の性格が放埒だったためとの説がある。几帳面な帳付けを厭い、量目の計測も他人に任せ切りだったために引負を仕出かした、とするものだ。しかし彼自身はいたって大人しく謹厳実直な性格で声を荒げて人と口論すらできなかった。むしろ代々畔頭の役目を勤める家系に醸成された、村の旦那として育った者に特有な人の良さに原因があったといえよう。

引負を背負い込まされたのは年貢米の収納時の計量にあったと考える方が順当だ。米の計量は一升桝に摺り切り一杯が正式な計量だが、一升桝に山と積み上げた米を擂粉木で撫でて計量すべきところを、擂粉木で桝に盛った米を撫でず、こっそりと手抜きするのを見逃したのではないか。庭に運び込まれる年貢米が膨大なため、計量不足が積もり積もって嵩み、ついには膨大な量目に達することは十分にあり得る。林十蔵は目の前で村人が自分の目の前で計量を誤魔化しているのを指摘できない性格だったようだ。

 しかし、それでは畔頭は勤まらない。いや畔頭が勤まらないだけではない。誰もが農業で生きてゆくのが大変な江戸時代では、林十蔵は百姓として生きて行くことすらかなわない。百姓が自分に不向きならどうすべきか。そこまで考えた上でもないだろうが、十蔵は命よりも大切な田畑を売り払った。束荷村で百姓として生きてゆく糧のすべて失い、十蔵は文字通り無一物の裸一貫になってしまった。

自らが暮らしを立て妻子を養うにはどうすれば良いか。残された選択肢は二つに一つだ。村にとどまり他人の田を耕す小作農として困窮に耐えるか、村を出て百姓以外の職を探すか。その二択以外に方途はなかった。

 弘化三年(一八四六)初冬、林十蔵は人目を忍んでひっそりと旅立った。

 家屋敷から田畑山にいたるまで先祖から受け継いだ財産をそっくり売り払って、十蔵は引負を弁済した。そして、残った銀百三十匁のみを懐に束荷村から萩城下へ向かった。

 田舎でしくじった者が逃げ込むのはいつの時代でも都会だ。萩は長州本藩の城下町だった。ちなみに幕末期の萩の人口は約四万五千人で全国でも十一位の大都会だった。赤間ヶ関(現・下関)は一万八千人の港町に過ぎず、山口も戦国大内氏時代に十五万人を数えた都会も徳川幕府の政策により城を置くことを許されず衰退して、幕末期には一万人前後になっていた。

そうした大都会・萩へ職を求めて林十蔵は郷里を旅立った。しかし農地を手放し在所を捨てるのは武士が脱藩するのと同じく、当時としては一人前の人として扱われない浮浪人になることだ。身分制度の厳しい当時としては百姓が村を離れることすら咎められかねないことだった。

 ただ萩には妻の叔父が暮らしていた。恵運と名乗って萩の新堀町金刀比羅神社社坊法光院の神主になっていた。恵運は琴の母の弟に当たる男で十蔵とは一面識もなかった。しかし藁にもすがる思いで、紹介状を手に顔も知らぬ義理の叔父を頼って萩へと向かった。

 妻と子は萩での暮らしの目処がつくまで、琴の実家に預けられることになった。

 残された妻子は妻の実家に預けられた。しかし村人の暮らしに余裕はない。食客を置けるほど豊かではないのは琴の実家とて同じだ。実家へ身を寄せたとはいえ、琴は下女同然に働いた。泥と汗にまみれて農作業に精出すことはもとより、夜なべ仕事も休むことはなかった。日当たりの良い丘の家から秋山家の物置小屋の片隅に居を移したが、林利助にとっても住む場所が変わっただけでは済まなかった。物心ついた頃から大人の顔色を窺って生きる毎日を強いられた。しかも、ともすれば気が沈みがちになる母をも励まさなければならなかった。父がいなくなって幼い林利助が背負込んだのは自分一人の悲しみだけではなかった。

 林十蔵の頼った男は妻の母の弟に過ぎない。しかも遠戚に連なる男が萩で神主をしているという理由だけで林十蔵が強引に頼った。だが恵運は義理の甥に当たるというだけで村を捨てて逃げてきた男になにくれとなく仕事を世話し面倒を見た。

 本来、仕事を世話するのは口入れ屋だが、鑑札を必要とする口入れ屋は帳外者に仕事を世話してはならない決まりになっている。村を逃散して萩へ逃れてきた者は紛れもなく人別を外れた帳外者だ。つまり、十蔵が萩で頼れる者は恵運ただ一人だけだった。十蔵は恵運の口利きで児玉糺や木原源右衛門などの屋敷へ奉公に上がった。

 しかし当然のことながら、帳外者の林十蔵に与えられる仕事は雑用や手間仕事に過ぎない。菜園の農作業や米搗、それに木樵や若党といった日雇いのため、生計を立てる目途になるようなものではなかった。たつきの方途を見付けるべく萩へ出て来たものの、なかなか妻子を呼び寄せられる安定した仕事にはありつけなかった。しかしそれでも林十蔵は日雇い仕事を黙々と懸命に働いた。故郷に置いてきた妻や子を一日でも早く呼び寄せるために、与えられた仕事が何であろうと一心に身を粉にして働いた。

 そうした雑役に汗する日々が三年近く続いた。

 ある日、恵運の許に願ってもない働き口が持ち込まれた。林十蔵の勤勉な働きぶりを見込んだ者がいた。萩は狭い町だ。それは地理的な狭さもさることながら、口の端にのぼる情報の伝播力も町を狭くしていた。持ち掛けられた働き口は中間の代勤だった。

 代勤とは当主が早世して跡継ぎの嗣子が幼い場合、継いだ当主の代わりに公の役目を果たす代理の者のことをいう。そのため誰でも良いというわけにはいかない。当主になり代わって役目を勤めるのであれば、いい加減な男に頼むわけにはいかない。林十蔵に代勤の依頼が舞い込んだのは彼の仕事振りが誰の目から見ても実直だったことに他ならない。

 代勤の仕事を申し込んで来たのは伊藤武兵衛という男だった。彼は若い頃に見習い奉公として蔵元付きの中間水井家の屋敷に上がった。実直な仕事ぶりから水井家では重く用いられ、亡くなった先代の側役を勤めていった。突然の先代の逝去により幼い嗣子の代わりに中嗣養子となって代勤を務めることになった。よって藩に届けられた武兵衛の正式名は伊藤武兵衛ではなく水井武兵衛ということになる。しかし中間に定まった禄はなく、非番で役目が果たせなければ俸給は頂戴出来ない。それのみならず御役御免となれば水井家は途絶することになる。

元々伊藤武兵衛は中間の出自で、佐波郡桐畑村にかなりの田畑を持っていた。本来なら伊藤家当主が死去した時点で永井家を辞し、中間伊藤家を継ぐべきであった。しかし 水井家の中嗣養子となったため伊藤武兵衛が中間伊藤家を継ぐことはできなかった。途絶えてしまった伊藤家を気にかけつつ齢を重ねてきたが、それだけが心の一点のシミとなっていた。いずれの日にか伊藤の家名再興を願いつつ、伊藤武兵衛はひたすら忠勤に励んだ。しかし、寄る年波には抗らえず代勤仕事に耐えられなくなった。ついに自分が挿み箱を担いで共揃いに付き従うのを諦めざるを得なくなり、代勤を誰かに任せて自身は永井家の勘定全般の管理を行うことにした。

 恵運から紹介された仕事を林十蔵は一も二もなく引き受けた。すぐさま水井家の屋敷へ赴き、伊藤武兵衛にその旨を申し出た。

 林十蔵は元来が百姓だ。上背はそれほどではないが肩幅の広い骨太で頑健な体付きをしていた。中間の仕事は頭脳労働ではない。使役に耐える体力さえあれば後は柔順な性格が必須なだけだ。伊藤武兵衛は林十蔵を面通しして即座に気に入った。

 翌朝、水井武右衛門の代勤として蔵元付中間組頭へ林十蔵の名が届けられた。昼下がりに組頭は林十蔵を伴って登城し、大手門脇の長屋で蔵元付中間とひきあわせた。ここにして林十蔵は長州藩の武家社会の序列最下位とはいえ、定まった身分とお役目を頂戴し、月々に水井家から俸給を手にする身となった。浮浪人でしかなかった帳外者から脱して、まともな武家社会の一員になれた。しかも仕事といえば勘定方役人の供揃いの一員として挟み箱を肩に担いで歩くことに他ならない。数々の屋敷奉公で経てきた体を酷使する雑役と比べれば格段に楽な嘘のような仕事だった。屈辱にまみれて束荷村を旅立ってから三年有余にして萩での暮らしに目処がついた。さっそく萩城下町の外れ土原に有地九郎の長屋の一軒を借りると、岳父に預けてきた琴と利助を呼び寄せることにした。


 嘉永二年(一八四九年)旧暦三月七日早朝、三人づれが束荷村野尻を旅立った。

 その三人連れともつれるようにして、秋山家から三人が二町ばかり丘を下った束荷川の土手道まで付き添った。年老いた白髪髷の男は琴の父親秋山長兵衛で、残る二人は琴の兄夫婦だった。琴の母は孫を溺愛していたため別れの辛さに耐え切れず、見送りには出られなかった。

 村を出た彼らが向かう先は長州藩の城下町萩だった。当時、長州藩の人口は五十七万人弱でしかなく、日本全国でも三千万人に満たなかった。長州藩で四万五千人もの人口を擁する町は藩主毛利藩城下町の萩だけだった。

 三人連れは瀬戸内海へと続く南へ下る方角とは反対の北西へと向かい、村を囲むなだらかな山々の山麓を巡るようにして峠を二つばかり越えて、山陽街道の呼坂宿をめざした。

山陽街道に出ると街道を西へと向かい、瀬戸内海に出て今は防府市の郊外となっている宮市まで行き、その後は御成道を内陸へと向かって険しい勝坂の峠を越えて山口に到り、中国山地越えの萩往還路を歩いて萩城下へ到る旅路だった。

 一行は六十に近い小柄な老爺と三十過ぎの琴とその子・利助だった。琴が先に立って利助の手を引き、肩幅ばかりの杣道を歩いた。腰の曲がった老爺は百姓女の実家秋山長兵衛の屋敷の下男で名を安蔵といった。五日前に主人から萩まで女の荷物を運ぶように言い付けられていた。琴は瓜実顔に勝ち気そうなはっきりとした目鼻立ちをし、さぞかし娘の頃には村の若者たちの目を惹きつけただろうと思われた。その眼差しにはいまもつややかな娘時代の面影を留めていた。五尺足らずと小柄だが、骨組みは華奢ではない。働き者の証のように体の割には大きな手をしていた。十三年前に秋山から林十蔵の許へ嫁いでいた。

 束荷村野尻は総林といわれ村の多くの家々は縁戚関係にあった。普段は『ユイ』や『コウ』を通じて仲間として肩を寄せ合い強固な団結を示すが、反面そうした地域社会はしくじった者に残酷なほど陰に籠もった棘を向けるものだ。

 琴は三年に及ぶ実家での肩身の狭い暮らしを終えて旅立った。一子利助の手を引いて夫の待つ萩城下へと向かう門出に安堵感を覚えながらも、琴の心中に重い澱のような不安がないではない。萩は束荷村から余りに遠く、いかなる暮らしが待ち受けているのか想像すらつかなかった。

 琴に手を引かれて歩く少年は九歳になった利助だった。目鼻立ちは父親似の容貌に顎の張った顔付きをしていた。小さな草鞋を履いた足を懸命に運び、村境の杣道を登った。丈の短い幾度となく水を潜り縞目の薄くなった柳井絣を着ていた。道に張り出た木の根を越えるつど、着物の裾が割れ兵児帯の結び端が忙しく揺れた。

 本来なら、林利助は束荷村の庄屋に次ぐ畔頭の倅のはずだった。村人の中でも誇り高い自作農の子として同年輩の子供たちの羨望の眼差しを受けるはずだった。しかし三年前、父の林十蔵が不始末をしでかし田畑から家屋敷まで売り払うはめになった。そのため、林十蔵は妻子を妻の実家に預けて夜逃げ同然に村を立ち退いた。

 林利助は眉間に皺を寄せ目を細くして振り返った。一見、怒ったような表情だが、目元に涙が滲んでいた。口元をキッと引き締め、可愛げのない強情そうな張った顎が少年の容貌に遣る瀬ない寂しさを加味していた。色あせた丈の短い単衣の絣の裾が風を孕んで割れた。村を流れる小川が蛇のようにうねって北から西へと白く輝く。朝が早いため山から吹き下ろす風は冬の名残をとどめて冷たかった。

 利助は生れてから九才までを束荷村で過ごした。いまは山口県光市大字束荷字野尻となっているその地に、彼にまつわる逸話がいくつか残されている。

 幼い頃、利助は体が弱かった。友達と遊ぶ年頃になってからも『瓢箪瓢箪青瓢箪、酒飲んで赤ぅなれ』と囃された。だが、成長するにつれて丈夫になり、村の寺小屋で手習いを学ぶ頃には餓鬼大将になっていた。

 寺小屋の師匠は浪人者で名を三隅勘五郎といった。利助も近所の子供たちと同様に寺子屋へ通ったが、手習よりも戦ごっこをして遊ぶ方が好きだった。戦ごっことは子供たちが二手に分かれ、大将の采配のもと棒切れを振り回して敵の陣地を取る遊びだ。

 利助は必ず一方の大将になった。ある日、利助の率いる軍勢が相手に圧されて負けそうになった時、利助は相手の軍を葦原に誘い込んで風上から火をつけた。忽ち利助の軍は勝に転じたが着物を焦がした子供もいて、その夜祖父から酷く叱られた。

 ある雨の日、雨水が溝を流れるのを堤を作って堰き止める遊びをしたという。他の子供達は水が堤を越えそうになると更に高く泥を積み上げ、ついには堤が決壊してしまった。だが、利助は堤に小さな孔を穿ち、水が堤を越えそうになるとその孔から水を出し、少なくなるとまた穴を塞いだ。他の子供達は利助をなじったが、しかし、そうしなければ堤は必ず崩れるものだ、と言って利助は平然と笑ったという。

 またある日、鎮守の森で遊んでいるうち、仲間の誰かが山車を床下から引っ張り出して遊ぶことを思い付いた。村の鎮守の神殿の床下に、祭りで使う山車の台車が仕舞ってあった。他の子供たちはすぐにその話に飛びついたが、利助にはその遊びが面白いとは思えなかった。何だか幼稚に思えた。父がいなくなってから、利助は素直に遊びに没頭することが出来なくなっていた。やがて山車を床下から引っ張り出して子供たちは祭りを真似て騒ぎ出した。その様子を見ていた神主が木の陰から飛び出して一喝すると、子供たちは蜘蛛の子を散らすように逃げた。だが一人利助だけは逃げなかった。その場に立ったまま、神主が大股に駆けて来るのを待った。

「コラ、お前が子供たちの大将か」

 神主がそう言って怒鳴った。しかし、利助は眉一つ動かさず神主を見上げた。

「いいや、オラは山車で遊ぶのに反対したんじゃ。じゃが、皆が遊ぶからここにおっただけじゃ」

 そう言うと、利助は平然と一礼してその場を去った。

 神主は子供の胆力と冷静さに驚き二の句が継げなかった。後日、神主は村人にその時の様子を話して、利助は行く末大泥棒になるか大人物になるかのいずれかだろうと語ったという。

 しかし、束荷に伝わっている逸話のどれ一つとして、刮目すべき内容を含んでいない。秋山家で厄介になっていた三年間も、村の寺子屋に通い百姓の子として読み書き程度の学問を修めたが、それとても学業優秀な子供とは言い難かった。遊び好きな子としての逸話はいくつかあるものの、目覚ましい学才の片鱗を見せたとの伝承はない。後に伊藤博文として日本の近代史に足跡を残す人物の幼年期はごく普通の、活発な少年だったということなのだろう。

 川沿いの道を上流へと辿ると村外れで左へ折れ土手道と別れて山へと分け入る杣道との分岐点がある。土手道はそこから右に大きく湾曲して峠越えの山道となり玖珂郡高森村へと続いている。琴たち一行が向かうのは土手道ではなく、そこから杣道へ分け入って山陽街道の呼坂宿を目指す。その分かれ道で三人は立ち止まり、豆粒ほどに小さくなった人影に向かって頭を下げた。そこが集落を後にする者たちが別れを惜しむ最後の場所だった。

 芽吹いたばかりの新緑の木立から木漏れ日が山懐を縫うように続く杣道に降り注いでいる。三人は一言も言葉を交わさず、露に濡れた柔らかい草を踏み拉いた。

 先を行く安蔵の背負子には柳行李が一つ括りつけられ前屈みに杖を突いた。安蔵の後を琴と利助が一間と遅れずに続いた。琴の背中にも風呂敷に包まれた重そうな荷物があった。

 若い草の匂いが濃かった。長いなだらかな坂道を登って来た三人の首筋には早くも汗が浮いた。利助は琴に手を曳かれ、道に張り出した木の根や雨水で抉れた窪みを飛び越えた。そのつど確実に歩みを刻む牛のようなたゆみない大人の足運びに、子供の軽やかで不規則な足音が入り混ざった。ふと足を止めると曳かれる手に力を入れて、利助は母を見上げた。

 新緑の木漏れ日が降り注ぐ杣道は大きく左に折れて山肌の陰に姿を消している。振り返って束荷村の聚落を目にすることができるのはこの切り通しが最後だった。

「利助、疲れたんかぃのう。まだ家を出たぱかりじゃが」

 琴は声を掛けた。利助はその問い掛けには応えず、後ろを振り向こうとした。

「先を急ぐけえ、立ち止まりんさんな」

 琴は瞬時も歩みを止めず、利助の手を曳いた。利助は振り返るのを止めて母の歩みに合わせた。母から言われれば、抗うことはできなかった。再び琴の横顔を盗み見て跳びはねるように歩みを速めた。

 彼らが歩む杣道は聚落から山懐へと伸びている。振り返ればなだらかな低い緑の山々が住み慣れた地を取り囲んでいる。生まれてから九才まで暮した日々が眼下の山里にあった。楽しかった日々も、悔しさで顔を上げることのできなかった辛い日々も、すべてその地に刻まれている。利助は束荷村の風景を記憶に焼き付けるように見詰めた。

 背後の木立の陰に束荷村が消えて目の前に山肌が迫ってきた。

 傾斜面に取り付いた胸突き坂に杣道はうねり、やがて束荷村境の峠に出た。下り道に差し掛かればそこはすでに小周防村だ。押し潰すように重くのしかかっていた束荷村を後にすることがこんなにも容易だったのか、と子供心ながらも調子抜けするものがあった。数々の楽しい思い出も辛酸も屈辱も、そっくりあの村に置いてきたような気がした。それは余りにもあっけなかった。

 山道を下り終えて平坦地に出ると安蔵と琴の足取りは一段と捗った。島田川本流にかかる木橋を渡るとそこは小周防村八幡所だ。かつて見たこともない広大な圃場に目を見張りつつ、利助も懸命に足を運んだ。そこから呼坂宿まではほぼ半里の道のりだった。

 束荷から萩まで三人は二泊三日をかけて歩くつもりだった。壮年男子の足なら二十里の道のりは一泊二日で歩けなくもない。その場合はまだ暗いうちから提灯で足下を照らしながら出立し、日暮まで歩き続けて山口に宿を取る。次の日も辺りが暗いうちに七ツ発ちをして、萩への往還路をひたすら歩き通すことになる。しかし、女子供連れではそれほどの強行旅程は踏破できない。琴たちは一日目の宿を宮市に取ることにした。今では防府市と呼ばれる町の中心部から外れた東部の鄙びた一地域となっているが、当時は天満宮の門前町として最も開けた土地だった。

 呼坂宿で一休みして草鞋を履き替え、昼近くになって徳山の遠石八幡宮に到った。

 徳山は長州四支藩の一つ徳山藩の城下町だ。遠石八幡宮の参道階段下の街道には茶店が街道の北側に並び、南側は低い石垣となり瀬戸内海が初夏の光りに輝いていた。利助たちは門前に並ぶ茶店の軒先に腰を下ろして、夜も明けないうちから琴が握ったむすびを頬張った。醤油の醸造場が近くにあるのか大気に独特な匂いが混ざり、眼前に広がる海には風待ちの千石船や五百石船が数隻停泊していた。

 茶店で四半刻も休むと元気を取り戻し、琴たち一行は縁台から腰を上げた。まだまだ先は長い。旅人の流れに身を任すように三人は黙々と街道を歩きだした。足下の石垣には瀬戸内海の潮が押し寄せ、波音がさざめいていた。

 西空が茜色に染まり出した頃、三人は椿峠を越えた。眼下には絵のような遠浅の入り江と引き絞った弓なりに湾曲した砂浜と疎らな聚落が望めた。その地を富海といった。

 子供連れとはいえ、余りにもはかがゆかない足取りに琴は内心不安を覚えた。明日の山口まではそれほどの道のりではない。勝坂の峠を越えれば山口までは比較的平坦な道だ。まだ日の高いうちに着けるだろう。しかし、難関はその先だった。山口と萩との間は中国山地を越える往還路を行くことになる。往還路は別名御成り道といって藩主が参勤交代の折に通る道で山陰の萩から山口、勝坂を経て瀬戸内の三田尻まで続いていた。距離は十一里三十四町。道幅はおおむね四間に保たれている。歩き易いように難所は切り開かれ、足場の悪い湿地には石畳が敷かれていた。

 江戸時代、長州藩には大道が三本通っていた。小瀬から高森、野上、宮市、小郡、船木を経て赤間関に至る三十六里の山陽道と、石見国境の野坂から徳佐、山口を経て小郡に至る十二里二十八町の石州街道、それと萩往還路だった。大道の管理は厳格に保たれて街道松が植えられ、駕籠場所、番所、一里塚などが設けられていた。

 三日目の払暁、三人は山口竪小路の宿を出立した。

 山口は西の京といわれている。大内氏が京を擬して町造りをしただけあって条理制らしき辻と町名がここかしこに見受けられた。八坂神社の大鳥居の前を通り過ぎ伊勢大路との交差を真っ直ぐに北進し、やがて天花の集落に到った。この里まで来ると条理の町並みは消え失せて道は稲の植わった若い緑の棚田に溶け込み遠慮がちに山懐へと迫ってゆく。左手の低い尾根越しに瑠璃光寺の五重塔の頂がわずかに見えた。

 天花の集落を過ぎると道は急勾配となって山肌にとりかかる。参勤交代を駕籠で行く藩主も坂の険しさゆえに降りたといわれるほどの急峻さだ。その地を一の坂といった。それからもいくつもの峠を越えて中国山地を横断しなければならない。大人の足をしても難路であった。

 山間を縫う街道にしては、往還路に人通りは絶えなかった。早馬こそ駆け抜けないものの馬子に曳かれ荷駄を積んだ馬や大風呂敷を担いだ行商人、それに挟み箱を肩に担いだ飛脚などが行き交った。

 山口から萩までほぼ五里。途中、佐々並に御茶屋があり明木に宿場があった。しかし、琴たちは宿に泊まるつもりはなかった。一日にして踏破する心つもりだった。

 最初のうちこそ利助は懸命に歩いたが、佐々並の茶屋で昼を使うとさすがに歩けぬと駄々をこねた。九才の子に不憫との思いはあったが、疲れているのは大人たちも同じことだ。石清水で喉を潤し四半刻ばかり足を冷やしてやると、利助は健気にも歩き出した。しかし、登り下りの激しい山道のため、明木まで来た頃にはへばってしまった。やむなく安蔵の負う背負子の荷を一つ琴が引き受けて、利助を柳行李の上に座らせて落ちないように背負子に括り付けた。

 日が西に傾きだした頃、三人はやっと倅坂峠を越えた。萩の基点唐樋の札場から一里を示す一里塚が路傍にあってさらに坂道を少し下ると眺望がひらけた。日差しにきらめく阿武川とその河口に広がる萩の町を林利助は安蔵の肩越しに見た。

 萩は長州藩主の暮らす城下町である。名の由来はその地に萩浦という集落があったためとも、椿の群生地であったためともいわれている。土地の名を単に椿と呼んでいたものが、椿(ツバキ)のツを取り去るとバキとなり、言いなすうちにハギとなったというのだ。今も菊ガ浜を挟んで指月山と向き合う海に突き出た小さな休火山笠山の麓には椿の自然林がある。萩と椿には深い縁があるようだが、名の由来ほどに萩は風雅な土地ではなかった。

 防長二州(現山口県)に封じられた当初、毛利氏は居城を小郡か三田尻のいずれか気候温暖な瀬戸内の山陽道沿いに構えたかった。しかし戦略的な見地から徳川幕府はいずれも許さなかった。それなら少々不便だが、せめては内陸の山口に藩庁を置きたいと願い出た。だがそれすらも許されず、毛利長州藩は日本海に面した辺鄙な萩に押し込められた。

 江戸初期、萩は見渡すかぎり一面に芦原の広がる阿武川河口の湿地帯だった。寒漁村ともいうべき集落が河口の東の丘陵に疎らに見られる他、人の住まない荒涼とした荒地が広がっているだけだった。河口西の岸には指月山と呼ばれる小高い丘が波打ち際に離れ小島のように聳えている他、芦原に迫る芒々とした日本海が広がるのみだった。

 まず湿地帯の西端の海岸に突き出た小高い指月山に城を構えると、阿武川を上流の川島で開削して川筋を左右に分けた。広大な湿原を干拓する手始めとして、河口湿原を三角州となす土木工事を施した。阿武川は三角州によって左右に分けられ、日本海へ向かって東を流れる川を松本川、西を橋本川と名付けた。

 城下町を形成すべく一面の湿原を人の住める土地にするため、毛利家々臣は上下を問わず藩の存亡をかけて干拓した。三角州の沖積地に特有な泥沼地の水抜きと水運をかねて、橋本川の平安古(ひやこ)から松本川の浜崎にかけて新堀川を開削した。そして、その上流にも三角州の用水と水運のために溝を掘り割った。その溝の名は味気なくも大溝と呼び習わされていたが、明治の一時期に溝の流水を利用して藍染めが盛んに行われたため、いまでは藍場川と情緒豊かな名で呼ばれている。

 日本海に突き出た小島に築城された萩城は別名指月城と呼ばれた。日本海と松本川を天然の堀とし、開削した堀川によって城郭と城下町とを画した。そして、城に近い町割りから順次石高の高い者から低い者へと武家屋敷を整然と配した。身分の上下は住む場所によって一目瞭然に分かるようになっていた。

 西の空に残照があるうちに、三人は萩の町外れにたどり着いた。そこから橋本橋を渡ると御成り道を真っ直ぐに北東へ進み、御成道の基点を示す唐樋町札場に辿りついた。そこが林十蔵と待ち合わせていた場所だった。

林十蔵は待ちかねたように三人を家並みの軒下に引き入れると、無言のまま安蔵が背負子を降ろすのを手伝った。三年ぶりに会う父親と母子だった。安蔵がひとこと「萩は遠いもんでありますィのぅ」とだけ言った。林十蔵は黙ったまま安蔵に深々と頭を下げた。

 利助は面目を失ったように悄然と背負子から降り立ち、遠慮がちに路傍に立ち尽くした。林十蔵は九才になった倅をそれほど見詰めることもなく、安蔵の背負子を無理に引き受けて琴の荷も奪い取るようにしてその上に積み上げた。

「いや、わしが背負いますけえ」

 と安蔵は言ったが林十蔵は首を横に振ると、軽々と背に負い腰を屈めて先を歩き出した。琴は利助の手を引き安蔵がその後に続いた。

 林十蔵が借りた長屋は唐樋町からは東の方角、二町ばかりの道のりだった。林十蔵は肩にのしかかる荷に歯を食い縛った。家を潰してしまった責任と放擲してきた家族の重みを改めてひしひしと感じた。涙があふれて頬を伝った。


 一晩ゆっくり休むと、翌朝早く利助は両親に連れられて新堀町の法光院へ上がった。

 土原の長屋からは西へ五町ばかりの道のりだった。現在は法光院という名を地図上に見付けることは出来ない。その場所には真言宗円政寺という寺の名が記されている。明治時代に神仏混交の策により山口にあった円政寺と併わされて改称された。

法光院は町人町から城へと伸びる御成道には面してなく、南へ路地を半町ばかり入った場所にあった。そこは昨日林十蔵と待ち合わせていた唐樋の札場よりも更に西、城に近い武家町の中ほどだった。同じ路地の並びには桂小五郎の質素な生家が建っている。ちなみに法光院の裏手筋が高杉晋作の生家のある菊屋町だ。方位からいえば法光院の裏筋にあたるが、城を中心として町割がなされていたから高杉の屋敷こそが表通りある。萩に来るや偶然にも、林利助は高杉晋作や桂小五郎の暮らす町に足を踏み入れたこととなった。そこに林利助の運命めいたものを感じないでもない。

 目にすると威圧するばかりの法光院の大伽藍だった。村ではついぞ見たことのない物置小屋の屋根ほどの屋根付き門を潜った。続く参道には巨大な松が三本並び立ち、威圧する天を突くかと見紛うほどの瓦屋根の聳える神殿の手前の社務所の裏へ回った。そして出て来た下働きの男に神主との面会を求めた。

 貧農の家に生れた次三男の例にもれず、恵運も幼少の折りに口減らしのために野尻の家を出された。ただ江戸や大坂といった大都市と異なり、長州藩領内では百姓の小倅の奉公先は限られている。およそ地方の素封家の下男奉公か町の大店の小僧奉公より他にない。そうすると下男奉公から財を築いて素封家になることは望むべくもないし、大店奉公の小僧から身を起こして暖簾分けで新店舗を構えて金看板を上げることも叶わぬ夢だ。

しかし唯一、寺や神社への奉公なら身を粉にして励めば出世も叶わないわけではない。勤勉の上に学才が備わっていれば神官や法主となって、然るべき地位に就き尊敬を集めることも出来ないことではない。

この時代、田舎の百姓の子が学問をする場所は寺社に限られた。恵運は幼少の砌に秋山家から萩の神社へ奉公に出された。親の願い通りに学問を積む傍ら、神社勤めも懸命に果たして、恵運という名を頂戴するほどの出世を遂げた。そして故郷を遠く離れた異郷の地で人々の信任を得て法光院の神主にまで出世を果たしていた。

 林親子は庫裏の勝手口から上り六畳の板の間に通された。待つほどもなく狩衣姿の恵運が姿を現した。裾を靡かせて座るのを待ち、

「お陰様で、束荷村から妻と子を呼び寄せることができました」

 林十蔵は大仰な仕草で蛙のように平伏した。

 恵運は琴がそうであるように小柄な男だった。年は十蔵より二十歳近くも上ですでに老齢というに相応しい。頬骨の張った顔立ちに落ち窪んだ眼窩に鋭い眼差しがあった。

「利助とやら、年は幾つじゃ」

 十蔵の挨拶には見向きもしないで、恵運はその背後に蹲る少年に視線を落とした。

 概して長州人は社交辞令を省く傾向がある。本質的な用向きを告げればそれ以上の言を弄しない。恵運が十蔵の言葉を無視したのも不機嫌だというのではなく、それが取り立てて言うに及ばない事柄だったというに過ぎなかった。それよりも、少年の顎の張った勝ち気そうな面差しと負けん気の眼差しが彼の関心を呼び覚ました。

「はい、九才でございます」

 利助は物怖じしない口吻で答えた。それに「うむ」と頷き、恵運は琴を見詰めた。

「屋敷奉公の口を見付けてはあるが、萩では何よりも学問が大切じゃ。田舎でどの程度勉学を積んだか、それを知りたい。しばらくここに置いてみんか、掛かりはわしが見るが」

 恵運は念押しするように十蔵に言った。

 『掛かり』とは生活全般の費用のことだ。恵運は林利助を手元に置いて彼の学才を見極めてみたいと思った。当然まだ十歳にも満たない利助の意を聞く必要はないとされた。それは鉢植えの松を仕立てるのに松の意志が問われないのとなんら変わらない。

 唐突な申し出に十蔵と琴は言葉を失った。一子利助の学問に恵運が興味を持つとは思いも寄らなかった。確かに束荷村では近所の寺子屋へ通わせたが、それほど子供の学問に意を払っていたわけではない。年が到れば子に読み書きを習得させるべく寺子屋へ通わせるのは世間の親として普通のことだとして祖父の秋山儀兵衛が通わせた。だが恵運のいう学問とは世間並みの「読み書き」ではなかった。ここは長州藩城下町の萩だ。当然恵運の言う学問とは「読み書き」ではなく、武家の素養たる四書五経のことだ。それらの手解きを仕込もうと、利助の面構えを見て瞬時に考えた。恵運が研鑽を積んで神官として認められたように、利助も事と次第ではモノになるやかも知れぬ、との期待を抱いた。

 十蔵と琴にすれば恵運が利助を預かると言い出したのに異存のあろう筈はない。養う口が一つ減るのは願ったり叶ったりだった。法光院に置いてもらえると素直に喜び、十蔵と琴はすぐさま相好を崩して床板に額を擦り付けた。

 だが恵運が特別に子供の教育に熱心だったというのではない。当時、長州藩では熱病に取り憑かれたように学問熱が蔓延していた。ことに萩城下には奨学の気風が漲っていた。身分の低い者が立身出世するには学問こそが唯一だ、との信仰に似た思い込みがあった。林利助にとって幸運だったのはそうした時代に巡りあったことだった。

 事実、幕末期の長州藩は全藩を挙げて教育熱にとり憑かれていた。その様は尋常ではない。長州藩に奨学の気風をもたらした発端は就任して間もない若い藩主の政策だった。

 本来なら藩主は家臣団に担がれる神輿のように、藩政を藩政組織に一任して安穏と御座を暖めていれば良い。むしろ、藩政に対して藩主が確固たる意思を持たない方が治世はうまくいくとさえいわれた。しかし、毛利敬親にはそれが許されない事情があった。

 藩主に就任するや財政破綻の厳しい現実が待ち受けていた。藩の借財は年貢収入の二十二年分にも達し、三十六万九千石の領地から上がる年貢だけでは早晩行き詰まるのは明白だった。官僚組織に堕して久しい家臣団は明快な改善策を見出せないまま、若い藩主が何をしでかそうとも直接自分の身分に関わりない限り嘴を挟まなかった。それほどまでにも長州藩は改革を断行しなければ抜き差しならない状況にあったといえる。

 毛利敬親は藩主に就任する六年前に一通の藩政建直しの建白書が上申されたことを知っていた。それは当時江戸当役用談役にあった四十九才の男が記した藩政改革基本綱領だった。極めて実務的で明快に論述した改革基本要綱を、藩の重臣たちは下級藩士が提出した建白だとの理由だけで一顧だにせず、和綴じの冊子は江戸桜田の上屋敷の文箱で埃に塗れていた。毛利敬親はそれを取り上げて彼に藩政改革を託した。重臣たちにとっては青天の霹靂だった。しかし重臣たち誰一人としては若い藩主の決断に異を唱えなかった。彼らは一様に藩政改革は一年と経たずして失敗して無に帰すと確信していた。

 天保九年、毛利敬親は五十六才になっていた村田清風を政務役に抜擢して、破綻の危機に瀕していた藩財政の立て直しを命じた。三百諸侯が厳しい身分制度を敷き、依然として門閥家柄による行政を執行していた世にあって、長州藩は家禄わずか二十五石の家格でしかない下級藩士に藩政を委ねた。それは若い藩主のすさまじいまでの決断だった。

 村田清風は速やかに諸制度の改革、とりわけ財政改革に果敢に着手した。藩の借財は銀八万貫に達していた。もはや一刻の猶予もならない深刻な事態だった。

 村田清風は御用商人を集めると借金の三十七年間棚上げを一方的に宣言した。そして、極端な緊縮財政を断行した。江戸藩邸奥向きの浪費を削減するために、藩主に木綿の着物を着用するように求めた。毛利敬親は村田清風の進言を素直に聞き入れ、進んで木綿の着物を着たという。倹約令は奥向きや家臣はもとより領地の庶民にいたるまで徹底された。しかし、その程度の緊縮財政策は同じように財政危機に見舞われていた他藩でも試みられている。緊縮策だけで藩財政を立て直すことが到底かなわないのは明白だった。

 村田清風の改革の真髄は商業振興にあった。

彼は北前船による交易が莫大な利益を上げていたのに目をつけ、藩内領民に対して四白(米、塩、紙、蝋)政策を推奨した。具体的には農地の干拓開墾を進めて米の増産を図り、瀬戸内海沿岸に広大な塩田を造り、晴天に恵まれた瀬戸内の気候を利用して塩の生産を奨励した。同時にそれほど高くない中国山地に楮や三ツ又それに黄櫨の植林を督励して紙や蝋の生産振興に努力した。それら米や塩や紙や蝋がすべて白いことから「四白政策」と呼ばれた。殖産興業を奨励して交易産品を作らせただけでなく、物産の売買に対しては上ノ関、中ノ関、下関の三関といわれた交易港に会所を設けて廻船交易を藩が独占した。毛利敬親の藩政改革は藩財政の基軸を年貢中心の重農主義経済から、産業殖産と交易流通の商業経済へと転換させた。それは明治時代に行われた産業近代化の先駆けといえるものだった。

一年も経たず藩政改革は水泡に帰すと考えていた重臣たちは若い藩主の手並みに驚いた。ことに豪商と組んでいた重臣たちは借入金三十七年間棚上げ策に噛みついた。そして交易権を取り上げられた商人たちは重臣たちを唆せて村田静風の改革策に異を唱えだした。

 門閥出の重臣たちは「我らはまるで商人ではないか」と色をなし、藩の御用商人と結託して執拗に妨害を繰り返した。時には刀を引き抜いて清風の悪口を家の前で放言し、門柱に切りつけたという。しかし、村田清風は藩主の確固たる後ろ盾を得て、持ち掛けられた妥協策をすべて排して果敢に改革を断行した。そして、政務役への登用から六年にして藩政改革が軌道に乗ると何の未練もなく、さっさと職を退いて郷里三隅の陋屋に隠居してしまった。役職に恋々としない出所進退の潔さは鮮やかという他ない。

 村田清風が断行した改革の特筆すべき点は交易による莫大な利益を一般会計に繰り入れず、撫育局という特別会計に積み立てたことだった。表向き天変地異に備えるためのものだが、長州藩は撫育局の積み立てにより短期間に豊富な黄金を手にすることができた。幕末には実質百万石といわれるほどの財政力を有する雄藩に長州藩を押し上げていた。

 維新回天の偉業を成し遂げるには大衆を惹き付け、人心を一つにまとめる思想を必要とする。しかし、それも資金の裏付けがあってのことだ。潤沢な資金がなければ新式元込銃の一丁すら買えない。雄藩として幕末から明治維新に到る長州藩の活躍は村田清風の登場によって財政面で可能となった。あとは稀有な思想家の登場を待つばかりだが、やがて舞台装置の整った長州藩萩に吉田寅次郎が登場することになる。

 ただ村田清風の藩政改革の効果は財政面のみに止まらなかった。村田清風を抜擢した若い藩主ですら、思いも寄らない絶大な副産物があったことに気づかなかった。しかし、以後の歴史を考えるならその副産物の方が長州藩に真の藩政改革をもたらしたといえる。

それは優れた者は登用される、との前例が公になったことだ。ことに微禄な下級藩士たちは目を剥いた。なにしろ僅か二十五石郡奉行格の下級藩士が政務役に抜擢されて藩政改革を断行したのだ。厳格な身分制度の世にあって、長州藩毛利敬親の治世では能力さえあれば政務役に登用される、との希望の明りが下級藩士たちに灯った。

 事実、若い藩主はことのほか藩士子弟に学問を奨励した。萩在中の折りには週に一度は藩校明倫館に足を運んで参観し、年に一度秋には自ら詩作の課題を与えて試験を実施した。そして優秀な若者は家柄に関わらず抜擢した。後に長州藩が開明的な施策を次々と打ち出して、いち早く軍備を洋式化できたのも彼等、藩主によって登用された下級階層の者たちの働きによるところが大きい。

藩主の奨学の気風は疫病のようにまたたくまに長州藩全土に行き渡った。村田清風の引退後十年を経過した当時でさえも、重臣たちは競うように領地に私塾を開き、長州藩は萩城下のみならず山間僻地に到るまで教育熱が熱病のように充満していた。

 明くる日から林利助は法光院に住み込み、苛烈な学問修行が始まった。

 江戸時代の武家の学問は漢籍だ。四書五経から唐詩選に到り教養として詩作をものにする学問だ。ただ林利助は当然のことながら束荷村の寺子屋で往来物と称される手習をしていたに過ぎない。江戸の手習指南所では六諭衍義大意を教えることもあったが、田舎では専ら生活に必要な読み書きのみに終始した。束荷村で利助の成績が奮わなかったのも、寺子屋の学問に興味が持てなかったことに因ると思われる。

 恵運はいきなり九才の林利助に武士の学問とされる漢籍の入門編を課した。その方法は文章の意味や解釈を教えずに頭から読み下していくものだった。要領は祝詞を覚えるのと大差ない。方法は乱暴だが効果的な学習といえなくもなかった。例えば、算数の九九は経文のように理屈抜きで覚えた方が早い。林利助はそうした方法で三字経、実語経、学子経と次々と読破した。同時に、恵運は林利助に武家勤めの作法と心構えについてとことん教え込むことも忘れなかった。林利助を法光院で預かったのは実の処そこに眼目があった。

毛利長州藩城下町萩は武士の町だ。割の良い奉公先は武家に限られる。これからこの地で生きてゆくためには何よりも武家の学問と躾を身につけなければならない。そうでない限り、生涯を武家の下働きで牛馬のように使役されて人生を過ごすしかない。

 恵運による厳格な躾の下、学問漬けの一年が経った。

 その間、恵運は彼の持てる知識を利助に注ぎ込んだ。漢籍の入門編が一段落すると講義は四書五経に入った。驚異的な進捗といえる。だがそれ以後、恵運が教えるのは夜だけに限られ昼間は屋敷奉公へ出るようになった。いつまでも手許に置いて学問を教えた処で離農した浮浪人の倅に過ぎない利助が明倫館の教授になれるわけではない。学問で藩に認められるには藩校明倫館で優秀な成績を挙げなければならないが、明倫館へ通えるのは藩士の子弟に限られている。利助がいかに秀でようとも学問で藩政に登用される道は閉ざされていた。

 林利助が奉公で最初に上がった屋敷は福島家だった。利助はそこで小若党として奉公に励んだ。しかし、言いつけられる役目といえば賄方の小間使や留守番といった軽い用向きでしかなかった。若党は屋敷の雑用全般を勤める役目であるが、林利助のような子供の新参者に重要な仕事が回って来るはずもなかった。年上の累代の若党が主人の登城に挟箱を肩に付き従って行くのを門前で寂しく見送った。

 林利助が十二才の折、十蔵は仕事で福島家の近所まで来た。ふと十蔵が格子窓から覗くと留守番をしていた利助が見付けた。突然父が訪れたため林利助は嬉しくなり、顔を歪めて泣きだして父に縋ろうとした。すると十蔵は利助を跳ね付けて叱った。

「留守番という大役を言い付かっているというのに、泣き出すとは何事じゃ」

 それだけ言うと、林十蔵は後を振り向きもせずにその場を立ち去ったという。

 林利助の奉公先は二年の間に三度変わっている。それは林利助に瑕疵があったためではない。雇われの小若党は人手が足りればすぐに御払い箱となる。いきおい次々と奉公先を探さなければならないことになる。福島家の次に上がったのは児玉家だった。

 十蔵がかつて奉公に上がったことのある児玉糺の屋敷へ、利助は十蔵のつてで奉公に上がった。ここでも小若党の利助に与えられる仕事は賄方の買い物の走り使いだった。しかし、利助は仕事を几帳面に果たした。すぐに萩の町筋を覚え、児玉家の取引先の商家を覚えた。利助の才覚は下女に重宝がられ、やがて勘定まで任されるようになった。

 利助の勘定は手早い上に間違いがなかった。可愛い小若党の利発さはたちまち評判になった。賄方の下女の話を信じなかった当主児玉糺は試みに目の前で賄方の当日の勘定を利助にさせた。そして、その早サトウ一文の狂いもないのに改めて驚いた。

 利助の評判は両親の耳にも聞こえた。嬉しいと思う反面、飛んでもない失敗をしでかしはしないかと心配でならなかった。

 児玉糺が用向きで出掛けた帰りに雪に見舞われた。冬の萩は天気が変りやすい。日本海から吹き付ける季節風が強くなると空は鉛色の雲に覆われ、たちまち横殴りの雪が降り頻る。出先の屋敷で雪下駄を勧められ、それを履いて帰ってきた。家に着くと利助に履物を返して来るように命じた。利助は夕闇の迫る町へ出掛けた。手には主人が借りた雪下駄があった。頬を嬲る風は切るように痛く、雪道を歩く草鞋は濡れて氷のように冷たかった。

 当時、家は松本川を渡った松本村の外れ、金鑄原に一軒家を借りていた。三十坪ほどの敷地に十五坪ばかりの粗末な家が建っていた。僅かばかりだが菜園もあり、庭木と石を配した前庭があった。そのありようは萩の下級藩士の住まう家といったものだった。

 用向きを済ませ、主人が置いて帰った草履を手に帰路についた頃には横殴りの風に雪が混じった。寒風に首を竦めて背を丸めて雪の泥道に足を取られないように歩いた。気が付くといつしか帰路から逸れ、利助は無意識のうちに金鑄原の家へと足が向かっていた。日暮れた雪道に里心が出たのではなかったが、利助の脳裏に母親の笑顔と暖かい火の温もりがあった。

 実家は大通りから二筋ほど裏路地へ入った所にあった。利助は家の腰高油障子に明りが差しているのを見付けると矢も盾も堪らずに駆け出した。泣き声こそ立てなかったものの両の目からは涙が頬に伝った。

 油障子を引き開けると入り小口の土間で母が近所の子供達に餅を焼いていた。母はしゃがんだまま顔を上げて利助を見上げた。一瞬喜びに目尻を下げたがすぐに立ち上がり、

「何用で帰って来たんじゃ」

 と、厳しい声で突き放すように言った。

 利助は障子を引き開けたまま立ち竦み、呆然と母親の咎めるような眼差しを見詰めた。

「別に用はないけえ、ご主人様の御用で出掛けた帰りに寄っただけじゃ」

 利助は消え入るような声でそう言い、手にした草履を見せた。

「だったら、真直にお帰りなさい。ご主人様の御用も果たさぬうちに、寒さに負けて親の家に寄り道するとは何事ですか。一刻も早く御用を済ますのがお役目というもの」

 母の厳しく窘める声に、利助は首をうなだれて泣き出しそうに顔を歪めた。

 利助の唇は紫色に変わり細い体は小刻みに震えていた。濡れそぼった体を火で暖めてやり白湯の一杯なり飲ませてやりたいとの労りの言葉が喉元まで出掛かっていた。しかし、「寒くはないか、辛くはないか」と、優しい言葉を掛けてやりたい気持ちとは裏腹に、つっけんどんな冷たい言葉が琴の口をついて出た。

 七厘の回りに集まって餅が膨れるのを待っていた近所の子供達も、つい先刻まで楽しそうに笑っていた琴のわが子に対する剣幕に驚いた。はしゃいでいた声を潜めてことの成り行きを見守った。

 利助は黙ったまま油障子を閉めて雪混じりの風が吹きつける泥道を帰って行った。利助の去った障子を見詰めて琴は言い知れぬいとおしさに胸が詰まった。わが子を抱き締めてやりたいと思う気持ちが体に湧上り、すぐにも後を追いかけたいとの思いにかられた。だが、すぐに別の思いが琴の足を釘付にした。

 故郷の田畑を失ってしまい百姓に戻れない以上、利助には武士としての魂と心構えをしっかりと身に付けさせるしかない。そのために琴は心を鬼にした。屋敷奉公に上がった利助が一日も早く武家の水に慣れて武家社会で認められることを願った。

 その日以来、利助は学問と屋敷奉公に一層身を入れるようになった。

 甘えを許さぬ両親の我が身に注ぐ熱い期待は口で言われなくても痛いほどに分かっていた。両親に認めて貰って喜んでもらうには精励刻苦する以外に方法はなかった。主人の他出に供で随行した時ですら、玄関先で待たされている間にも指で地面に字を書き手習を繰り返したという。林利助は奉公に励むかたわら、寸暇を惜しんで勉学に精進した。

 嘉永六年(一八五三)が明けて間もない日、恵運は林十蔵を法光院に呼んだ。

 怪訝な面持ちで見上げる十蔵に、恵運はいきなり利助を学塾へ通わせるように強く勧めた。いや、勧めるというよりも、それはむしろ命じるような口吻だった。

 すでに利助の学問は恵運の手に余った。漢籍の素読までは教えられても、その内容や解釈となると正式に武家の学問を習ったことのない恵運には手出しができなかった。眉間に皺を寄せた恵運から決め付けるように睨まれると、十蔵はそうするしかなかった。家にゆとりはないが、十三才になった利助を萩でも評判の久保五郎左衛門の私塾に通わせることにした。ただ、利助の通う私塾を久保五郎左衛門の塾と決めたのも恵運だった。

 久保五郎左衛門の私塾は後に吉田寅次郎が再興することになる松下村塾の前身に当たる。場所は萩郊外、松本村にあった。利助は通学の途中の通心寺境内の天神社へ日参し、学問手習の上達を祈願したという。

 厳格な久保五郎左衛門の教え方が良かったのか、それとも正式な私塾で学ぶことが性に合っていたのか、利助の成績は群を抜き門下生七、八十人の中で筆頭から五番までの者が任じられる番頭に洩れたことは一度もなかった。とりわけ能書は優れ、塾の主席を外れることはなかったという。


 癸丑以来(きっちゅういらい)、という言葉がある。

 正確には癸丑甲寅の年のことで、つまり嘉永六年のことだ。

 筋金入りの志士を表すのに『癸丑以来国事に携わっている』というのである。薩摩藩の海江田信義は「自分は癸丑以来国事に携わっているが、大村益次郎は俄か志士の新参者だ」と蔑んだ。そのように嘉永六年は徳川幕府にとって終焉の始まりの年であった。

 その年、徳川幕府にとって屋台骨を揺るがす未曾有の出来事が持ち上がった。

 嘉永六年六月三日、突如四隻の米国艦隊が浦賀に来航するや幕府に開国を迫った。

 徳川幕府は三代将軍家光の御世に外国との交易を制限し、国を閉ざして二百年余の太平の眠りの中にあった。海に浮かぶ要塞とでもいうべき蒸気機関を備えた巨大艦隊の出現により、幕閣はただただ狼狽して応対を浦賀奉行に一任した。そして慌てて海防軍備として品川沖の臺場建設に着手し、江戸湾沿岸及び房州相州の海岸防備力の増強を急遽決定した。

 だが、徳川幕府が夷国艦船の脅威にさらされたのはこれが最初ではなかった。実のところ、夷国艦船の出没は長崎奉行所から数十年も前からもたらされていた。ペリー来航の四十五年も前、英国軍艦フェートン号が蘭国旗を掲げて長崎港へ侵入し蘭国商館員を拉致した。そして、人質をたてに食糧や薪水を求めた。この不埒な振舞いに長崎奉行や防備にあたっていた佐賀藩はなすすべがなく要求に応じるしかなかった。そのため後日、長崎奉行は切腹し佐賀藩主は隠居する事態を招いた。さらにはペリー来航の十六年前、米国商船モリソン号が七名の日本人漂流民を乗せて浦賀沖に現れた。不埒な振舞いに及んだ英国軍艦と違って米国商船は友好的に接してきたが、幕府首脳部にはフェートン号事件が記憶にしみついていたため、大砲を撃ち掛けて追い払ってしまった。

幕府には当時の国際社会における英国と米国の立場の相違も、この国との交易をいかなる理由から必要としているのか、との分析資料も対応能力も持ち合わせていなかった。

江戸時代中期から日本近海にもひんぱんに露国艦が姿を現すようになり、その対応策が政治課題になって久しかった。様々な意見具申もなされていたが、幕閣は江戸湾に米国艦隊が侵入するまで具体的な防衛策を講じてなかった。

事実、国を閉ざすと宣言した江戸時代初期の徳川幕府は西洋諸国の艦船の襲来に対応でき得る強力な軍事力を保有していた。そのためキリシタンを弾圧し宣教師を処刑してもスペインやポルトガルは昂然と徳川幕府に宣戦布告しなかった。当時の世界史を見る限り、後進諸国を侵略する先遣隊の役割を宣教師が果たし、その虐殺が侵略戦争の口実となって侵略された国や地域は数知れない。しかし、創建当時の徳川幕府は戦国時代を勝ち抜いた軍事大国で世界的な水準からしても強力な軍隊を擁していた。国を閉ざすにはそうした軍備が必要であり、ただ『国を閉ざす』と宣言すれば実行できるものではない。

 しかし歳月は開府当初より二百数十年も経っている。戦国時代から一歩も進んでない軍備で欧米列強と対峙することは敵わない。遅ればせながら幕府は江戸を守るべく軍事的対応策を下したものの、江戸湾の要衝に派遣する軍事力を事実上、手元に持っていなかった。確かに、江戸府下には俗に旗本八万騎といわれる武士団がいる。しかし、譜代の家臣は長く続く太平の世に慣れて、軍事力としてはすでに無用の長物と化していた。ペリー提督の率いる米国艦隊の来航によって江戸市中は混乱し、古道具屋は武具甲冑を買い求める旗本御家人で底払したという。

 徳川幕府は米国大統領の開国要請親書に対する取り扱いに窮し、朝廷の存在を持ち出して返答を先延ばしにした。一年の猶予をもらい朝廷に諮った上で返答するとして、ひとまず嘉永六年の黒船来航に対処した。窮余の策とはいえ、それにより徳川幕府は当事者能力を放棄したことになる。徳川幕府開府以来二百数十年間、政治権力としては飾り物でしかなかった朝廷の存在が幕閣の眼前にくっきりと浮かび上がってきた。

 黒船来航の影響は長州藩にも及んだ。

 嘉永六年十一月十四日、徳川幕府は江戸湾の要衝地相州警備にあった譜代の彦根藩を羽根田(東京都蒲田)に転じ、こともあろうに外様の長州藩にその後任を命じた。当時、長州藩は幕府に柔順なごく普通の藩の一つに過ぎなかった。

 幕府の命により、長州藩は鎌倉腰越より浦賀に至る相州沿岸の一帯を受け持つことになった。六十九ヶ村二万六百余石に及ぶ広大な幕府直轄地を警護することになり、長州藩は相南三浦郡上宮田に御備場総奉行を置き軍政を敷いた。長州藩宮田陣営の図は現在も萩博物館に残されている。それは戦を前提とした陣構えになっていて、藩士たちの暮らす兵営も陣内に配置されていた。

長州藩は幕府の命に従って、翌安政元年三月にとりあえず江戸藩邸の藩兵二百を当地に駐屯させ、初代総奉行に益田越中を以って任じた。藩主毛利敬親も江戸桜田藩邸にあって幕命の遂行に尽力した。

 長州藩が相州警護の任に当たってから、その地域の風紀が粛正されたという。彦根藩が警護に当たっていた当座は江戸から女達を呼び寄せ歌舞音曲に明け暮れていたといわれている。当地の漁師も彦根藩が警備をしていた当時は魚が面白いように売れたが、長州藩になってからは商売にならなくなったとこぼした、と記録にある。

 江戸から遠く離れた萩では当然のことながら、黒船の来航はそれほど深刻には受け取られなかった。ただ萩城下に攘夷を声高に叫ぶ一群の若者たちがいた。長州藩と境を接する石州藩津和野にも平田篤胤の学問の流れを汲む一派が棲み、平田神道を信奉していた。平田篤胤は古事記を研究した本居宣長の成果を基に、彼の国粋的ともいえる論理を展開した国学者だ。その影響は長州藩にも及び、『神道凝り』といわれるほどに熱心な平田神道の信奉者が藩内の各地に点在していた。それも庄屋、豪農といった地域の実力者に多かったという。それが後の高杉功山寺決起に際して吉城郡などの各地で庄屋同盟が出来て高杉軍を支援する礎になるが、当時は酔狂な学問好きの域を出ない。

 黒船来航が長州藩にもたらした影響は『攘夷』意識の高揚だった。ことに、平田神道を信奉する者たちは敏感に反応した。幕藩体制下、歴史を本格的に研究する風潮は江戸時代を通じて乏しく、僅かに水戸光圀の『日本史』と頼山陽の『日本外史』などが例外的に業績として存在するだけだった。幕末期には上から下までこの国は神代以来延々と国を閉ざしていたと思う人が一般的だった。後年、尊王攘夷思想で京都の町を疾走する志士ですら、鎖国が徳川幕府の政策として実施されたものであることを知らない者がほとんどだった。それゆえ、攘夷の思いは必然的に国粋主義的になり、狭隘な排斥主義の虜となった。

 黒船来航は林利助の身辺に何ら変化をもたらさなかった。いつもと変わらず久保五郎左衛門の塾へ通い、懸命に学問の研鑽を積む日々の繰り返しに明け暮れた。萩で国難を憂いて騒ぐのは一部の藩士、それも若くして明倫館の教授に就いていた吉田寅次郎とその仲間たちに限られていた。


  二、相州へ

 明けて安政元年正月、林利助に僥倖がおとずれた。

 僥倖とは「棚から牡丹餅」のように、末席とはいえ長州藩で確たる身分を得たことだ。具体的には林十蔵琴の両親共々、中間伊藤武兵衛改め直右衛門の養子となったため、林利助は長州藩中間となった。

 そもそも養子になる話は伊藤直右衛門が中間伊藤家を再興したことからもちあがった。伊藤直右衛門は水井家の中嗣養子として幼い当主水井武右衛門を扶けてきたが、水井武右衛門が成年に達したため正統な当主を水井家に譲った。そして途絶えていた伊藤家を再興するために中間株を買い取った。江戸時代も末期になると足軽や中間だけではなく、幕臣の御家人株まで売買されるようになっていた。

中間株を買い取った伊藤家は届け出により長州藩中間となり、伊藤家は再興されて伊藤直右衛門は積年の念願を成し遂げた。しかし、家名再興がなるとまた新たな問題が伊藤直右衛門を悩ますことになった。それは伊藤家の存続に関する懸念だった。

 伊藤直右衛門は妻帯し三人の子に恵まれたが、いずれも成人することなく夭折した。当時すでに伊藤直右衛門は七十を越える高齢だった。このままではせっかく再興なった伊藤家が直右衛門の死とともに絶えるのは目に見えている。家名を継ぐ嗣子がいなければ、伊藤直右衛門が取るべき道は一つしかない。しかるべき養子を迎えることだ。

 久保五郎左衛門の塾に通う林利助の学才のみならず、奉公先の働きぶりも伊藤直右衛門は町の噂で知っていた。学業に優れ小若党として武家奉公勤めも健気に果たすとの町の評判に、伊藤直右衛門は再興した伊藤家の当主に林十蔵利助父子を迎えることを妻に打ち明けた。すると、妻は利助だけを養子にするが良いと主張した。それも尤もな話だが、利助は林十蔵琴の一子だ。利助だけを養子として伊藤家に取り上げるのを十臓が承知するはずもなく、親子共々でなければ無理だと伊藤直右衛門は考えた。

「十蔵は凡庸な男だが、一子利助には見所がある」

 そう主張して、妻のみならず親戚の反対をも押し切って十蔵親子と養子縁組をした。

 正式に中間組頭へ養子縁組を届け出ると、伊藤直左衛門は再興した伊藤家の屋敷を林十蔵の家がある金鋳原の近くの松本村椎原に求めた。その地に決めた理由は利助が通っている久保塾が近いということに他ならない。伊藤の家は久保五郎左衛門の塾から半町ばかり、緩やかな坂を上った松本新道の傍にあった。伊藤直右衛門が利助の学問にいかに意を払っていたか、これからでも窺い知ることができる。

 敷地はそれほど広くはなかったが数本の大木と庭石を配し、庭の一隅には石造りの稲荷の祠があった。家屋はつつましくも建坪二十五坪ばかりの茅葺屋根の平屋だった。

 中間は長州藩の行政組織に組み込まれた身分ではない。小者といわれ、長州藩士が雇い入れる使用人に過ぎない。そのため藩から決まった扶持を頂戴するわけではない。従って藩士が『士』と表記されるのに対して中間は『卒』と記されている。

 林利助改め伊藤利助は長州藩家臣に従う卒として、長州藩の末席に名を連ねることになった。所属するのは中間十川仁兵衛組だ。十川仁兵衛組は山下新兵衛組と共に下両組といって、十三組や地方組蔵元付よりも新規に出来た組のため、身分は中間の中でも一段と低かった。しかしそれでも歴とした長州藩の小者であることに違いない。熊毛郡束荷村から萩へ流浪して来た浮浪人林十蔵一家が晴れて姓名と身分を名乗れるようになった。十四才にして利助は再興された中間伊藤家当主となり、長脇差一本ながら帯刀を許された。

 中間の手当は藩士の扶持米のように定まったものではない。出仕した日数に応じて月末にまとめて手当を組頭より頂戴する。下両組は定まった藩士の常雇ではなく、いわば臨時雇いの中間だったため、日雇い労働者と大差ない。その手当は役務によって異なるが、一日に米七合五勺ないし一升に相当する銭を与えられた。しかも出仕先は中間組頭の差配による。しかも仕事が毎日あるとも限らないため、伊藤利助の中間の手当の収入だけでは伊藤家を養える糧とはいい難い。中間としての身分を得たとはいえ、十蔵は以前と同様に水井家へ奉公に上がり、伊藤直右衛門も水井武右衛門の用人として働いた。

 中間になって間もなく、伊藤利助は中間組頭の差配により井原素兵衛の屋敷へ奉公に上がった。井原家は八組の士で知行地五百石の大身だった。藩でも上士に相当する。命じられた用向きは主人の他出に供をすることだった。当然、登城にも付き従い御成り橋から堀ノ内を行き大門を潜って指月城へ上った。伊藤利助が大身井原素兵衛に取り立てられたのも、久保塾での評判が広く萩城下町の隅々まで行き渡っていたからに他ならなかった。

 伊藤直左衛門の妻もとはことのほか利助を可愛がったという。血の繋りのない養祖母に当たるが、利助の身辺の面倒を見て何くれとなく気遣った。夜更けにも利助の居間を見廻り、うたた寝でもしているとすぐに起こして床に入るように叱った。利助の着替えも母の琴が手を貸す暇がないほどにともが付き添った。琴は利助を猫可愛がりに甘やかすともにはらはらしたが、余計な口出しは出来なかった。

 安政元年、僥倖により伊藤利助は長州藩十川仁兵衛組の中間となり武家社会の末席に身分を得たが、利助が名を連ねた武家社会は終焉の始まりを迎えていた。

 その年正月十四日、前年に交わした約束の履行を迫るため、ペリーは六隻の艦隊(後に二隻を増す)を率いて浦賀沖に姿を現した。一年後に訪れるとした約束よりも半年早い来航に幕府は度を失って慌てた。しかしその実、米国の要求はいたって明快だった。求めるところは太平洋に出漁する米国籍の捕鯨艦船に薪炭や食料や水の補給を行なうことだ。そのために日米和親条約を締結し港を開くようにせまった。

 昔も今も西洋列強の外交姿勢は常に軍事・経済活動と密接に繋っている。それを国益と表現しているようだが、時には特定の会社の代理人かと疑われるほど商売を外交政策の全面に打ち出して恥じない。だが当時の幕閣にはそうした外交の有り様は思いも寄らないことだった。確かに長崎でわずかに門戸を開いた交易でもそれなりに利を上げ幕府財政を潤すとの認識を持つ幕閣もいたが、外交とは国と国とが取り結ぶ厳粛な行為であり、いやしくも商売人のために便益を計るものではないとの思い込みがあった。武家社会の官僚として当然のことながら、幕閣をはじめ幕府首脳部はすべて武士階級に属していた。彼らは幼少の頃から一心に『儒学』を修め、武士とはひたすら仁政に専念すべきもので、いやしくも商売を政の中枢に据えるべきではないと観念している。人は相手を自らの目で見る。必然的に幕閣は米国の首脳もそのような信義礼を重んじる人たちだと考えた。そのため徳川幕府は米国の要求する開港を厳粛なものと捉え、ことさらに形而上学的な問題として考え過ぎた。そこに徳川幕府首脳部の困惑と混乱の元凶があった。

 最初から米国の求めが薪水供給の経済的な問題だと理解したなら、大阪堂島か日本橋界隈の商人の知恵を借りれば済むことだ。相手と平和裡に対等の立場で利益を確保し、相互に権利を主張しあい、遺漏なく契約を取り結ぶのは商人の最も得意とするところだ。

 しかし国を開くとはいかなることか、と彼等は生真面目に考えた。だがそもそも『祖法』たる鎖国は朝廷から要請されたものではなく、三代将軍徳川家光によって便宜的に始められた政策にすぎない。それも『鎖国』の文言を用いて体系的な法を施行したものではなかった。禁止事項を限定列挙し「御触れ」として出したに過ぎない。そうした「御触れ」を五代将軍綱吉頃まで暫時追加して出し、次第に国を閉ざしていったものでしかない。ついぞ『鎖国』の文言を幕府が用いたことは一度もなかった。

徳川幕府の開祖・徳川家康は幕末の幕閣たちよりも、もっと合理的に西洋諸国の存在を考えていた。イギリス人三浦按針を府下に住まわせて重用したのもそうした現れだった。戦国武将として生き延び政権を手中に収めた者の度量は並大抵ではない。宣教師が侵略の尖兵として宗教を広めるのなら、交易と宗教を明確に分離すれば済む話だ。そう考えて家康は強硬に分離して、交易による莫大な利益を確保しようと努めた。がしかし、二代三代と世襲するうちに将軍は小粒となり、幕閣も保身に聡いだけの官僚に成り下がっていった。

小物たちは国をすべて閉ざす方が交易と宗教を分離して付き合うよりも簡単だと考えるようになった。それが度重なる「御触れ」の経過だ。そうした鎖国に到った経過を考えるなら、理屈からいえば徳川幕府が始めた政策を破棄するにあたって、天皇の勅許を得る必要はない。自然に出した数々の「御触れ」取り消せば済む話だ。しかし国を閉ざして以来二百年余も経つうちに、いつのまにか幕閣たちの思考回路の中で鎖国策が国体護持策とすりかわっていた。国を開けば国体が夷人によって穢される、もしくは国体の尊厳が夷国によって傷付けられる、と受け止めれば、当然のことながら彼等幕閣たちは即答しかねた。

江戸城の老中にしてもたかだか徳川征夷大将軍の配下に過ぎず、その徳川家を武家棟梁の征夷大将軍に叙したのは天皇に他ならない。開国要求の返答に窮して、はからずも幕閣たちは幕府と朝廷という権力の二重構造に直面した。治世上二百数十年も無視して無きが如きものとして振る舞って来た朝廷の存在がにわかに重い存在として彼等の眼前に出現した。

 幕府は条約締結に当たって二ヶ月以上も日にちを費やして譲歩に譲歩を重ね、ついに朝廷の許しを得ないまま調印に応じた。それも来航した米国艦隊の圧倒的な軍事力をして懼れたためだ。実際にペリーは徳川幕府を恫喝した。交渉を渋る幕府を脅すためペリーは空砲を放ち、艦隊を江戸湾奥深く神奈川沖まで進出させた。江戸城を砲撃の射程距離に窺おうとする示威行為は十分に効果を上げ、ペリーの一戦をも辞さじとする構えに驚愕した徳川幕府の幕閣たちは三月三日に下田・函館の二港を開き十二カ条の条約を結んだ。

 砲艦外交という言葉がある。大砲を備えた軍艦を押し立てて外国の鼻面を押え、力づくで有利な外交々渉を展開することだ。現在の国際社会でも未だにそうした恫喝を外交の主要な手段として用いる国は存在する。いまもミサイルや核兵器を押し立ててわが意を相手国に強要する無頼な国家が大きな顔をしている。そうした砲艦外交に徳川幕府は屈したといえる。それも最悪の形で譲歩を重ねた上での条約締結だった。それが悪しき前例となり、次々と不平等な外交条約を西洋列強各国と結ぶことになる。

 だが屈辱的な砲艦外交で鼻面を引き回された割に、幕府首脳が得た教訓は極めて少ない。徳川幕府は海防の必要性を痛感して諸侯に役務を課し海岸防備を急いだが、それですら当時の西洋では常識となっている砲撃戦に備えた堅牢な要塞を築くものではなかった。海岸に台場と称する高台を築きそこに和砲を据え置く、戦国時代さながらの稚拙な戦略の域を出なかった。それでは西洋列強の重装備を施した戦艦との砲撃戦に対処できない。ナポレオン戦争以来繰り返された戦乱で鎬を削った西洋列強と我が国とでは軍事力、とりわけ火力の格差は歴然としていた。二百数十年もの鎖国により国内の平穏は手に入れたが、その間に遅れを取ってしまった工業技術の惨状は目を覆うばかりだった。

 本州の最西端、長州藩にも黒船の影響は及んだ。

長州藩は軍事力の整備に意を注ぎ、兵制の整備拡充を図っていた。そのため伊藤利助も安政二年の春先から軽卒組の配下に組み込まれた。しかし、与えられた役目は卒として藩士の従者の役割でしかなかった。中間に特別な訓練があるわけでもなく、日常に変化があるわけでもなかった。ただ幕府から課された海岸警固兵の増員要請に応えるべく、その年も萩から相州へ向けて兵員を送り出していた。

 安政三年九月、伊藤家当主にも相州宮田への御備場出役が命じられた。前髪が取れたばかりの十六歳の若者にとって異例の抜擢といえるが、中間の役向きは手附といわれる従者に過ぎない。平たく言えば藩士付きの下男として挟箱を肩に担いで隊列の後に従い、荷の運搬の役務などを果たすことに他ならない。

 相州御備場に送り込んだ人員は常駐藩士六百余人。それに従者を併せて総勢千二百名前後の人員を配した。当初、江戸藩邸から二百名近くの人数を割いて送り込んだが、国許の動員態勢が整うと徐々に引上げて江戸藩邸へ戻し、国許から出兵して来た人員と入れ替わった。

 安政三年初冬、御備場出役の一行は萩を出立した。伊藤利助は期待に胸を踊らせて隊列の後尾を歩いた。初めて目にする他国であった。肩に食い込む挟み箱に汗を流し、旅埃に塗れて足を運んだ。挟み箱の荷は総奉行手元役田北太中のものだった。伊藤利助は田北太中の配下に組み込まれていた。

 総員二百人余、隊列は整然と街道を進んだ。相州警護隊が参勤交代の行列と異なるのは隊列を組む藩士の服装が火事装束に身を固めていたことだ。伊藤利助たち中間は手甲脚半に尻端折りの奴姿だ。参勤交代の藩主の随行とは異なり、藩士たちに張り詰めた緊張感はなく幕府の賦役に赴く気楽さすら漂っていた。

 相州警護の総奉行所は宮田の寺に置かれていた。相州出役で到着した人員が勢揃いして、本堂前の広場は足の踏み場もないほどの混雑ぶりだった。伊藤利助たちはつい先程二十数日に及ぶ道中を終えて到着したが、相州御備場総奉行所に着くなり田北太中は国許へ引き返すことになった。萩からそのような指図書が一足早く総奉行所に届いていた。本来なら伊藤利助も主人に従って引き返さなければならない。が、伊藤利助を配下に欲しいと申し出た男がいた。そのため伊藤利助は相州の地に残ることになり、前年に相州へ来ていた中間と差し替えられた。組頭の差配を受けて田北太中の挟箱を国許へ帰る三十過ぎの中間に手渡し、立ち去る主従を見送って伊藤利助もやっと一息入れた。

「そこもとが伊藤利助か、ついて参れ」

 と一言、本堂前の広場の片隅でまごついている伊藤利助に声が掛けられた。

 伊藤利助は声のした方へ顔を上げた。視線の先に藍木綿の着物に裁着け袴を身に着けたがっしりとした男が立っていた。配属先を来原良蔵の手附へ差し替えると言い渡されたものの、利助は来原良蔵を知らなかった。伊藤利助は「へい」と頭を下げた。

 三浦半島の宮田にも晩秋の柔らかな日差しが降り注いでいた。本堂の甍がくっきりとした青空に浮かび、刷毛で掃いたような筋雲が二筋子の方角に吹き流しのように流れていた。しかし、ゆっくりと腰を落ち着ける暇もなく伊藤利助は立って若い藩士の後に従った。

 連れて行かれたのは寺から三町と離れていない海岸沿いの松林だった。その砂地の松林の中に屯所があった。俄か造りの粗末な板壁板屋根の棟割長屋が二筋並んでいた。総奉行所勤めの中間足軽たちはそこで寝起きしていた。

 伊藤利助が案内されたのは長屋の一室、六畳の切り落としの板の間だった。一人で使うのなら安宿といった処だが、そうではなかった。五人の小者たちと共に使う。利助が一番年が若いたため、利助には上り框の入り小口をあてがわれた。

「明日より役務に就く。払暁七ツまでに奉行所へ参れ」

 そう言い渡すと、来原良蔵はすぐに立ち去った。

 相部屋の中間たちは来原良蔵の足音が消えると伊藤利助の傍に集まってきた。

「やれやれ、若いのに来原様の手附とはお主も大変だの」

 と、憐れむように四十年配の男が言った。

 声のした方へ伊藤利助は怪訝そうな顔を向けた。投げ掛けられた気遣うような言葉とは裏腹に、男の口元には笑みが浮かび黄色い乱杭歯が覗いていた。

 来原良蔵は天保元年七十石馬廻役の家に生れた。当時二十八才。幼い頃から神童の誉れが高く、明倫館に上がると同年齢の吉田寅次郎と英才を競い合い、肝胆相照らす親密な間柄となった。来原良蔵は学業の天賦たる才能を藩主に見出され、若くして密方右筆として江戸に出府した。しかし来原良蔵は優れた学才を有していたが学問一辺倒の人間ではなく、早くから藩政全般にも目を向けて軍備の洋式化を度々藩に建白していた。人となりは豪爽鋭敏。上背は五尺三寸でがっしりとした体躯に、強情そうな顎の張った四角い顔立ちに濃い眉が一文字に浮き立っている。眼光は鋭く薄い唇はいつも不機嫌そうに閉じられていた。物言いはぞんざいではないが多言を弄しない、いたって実務的な人物だった。

 嘉永四年(一八五一)、吉田寅次郎が東北遊学に際して脱藩騒動を引き起こした。道中手形が期限切れだったが、友人との約束を優先して藩の許可を得ないまま強引に出立したために脱藩となったものだ。手続上の問題でしかないが、結果は重大だ。脱藩となれば咎めは死罪に値する。重罪を犯した者を放置するわけにはいかず、江戸藩邸は激怒して追捕を差し向けようとした。しかし、江戸詰だった来原良蔵がそれを阻んだ。追補者は脱藩者を斬り殺すことも許されている。追補を差し向けたならば万一の場合そのような事態に到らないとも限らない。来原良蔵はその万一のあることを危ぶんだ。

 当然のことながら、吉田寅次郎脱藩騒動の咎めは追補を阻んだ来原良蔵にも及んだ。ただちに来原良蔵は国許へ帰されて自宅謹慎蟄居を仰せ付かった。

 だが長州藩は前途ある若者に対して寛大だった。藩主をはじめ藩首脳は大人として若者に接し、若気の至りに目を瞑るのを習いとしていた。ことに有為な若者に対しては他藩にはみられないほどの逸脱ぶりを示した。一ヶ月と経たないうちに来原良蔵は罪を許され、記録所右筆に取り立てられた。そして再び江戸詰となった。

 江戸で来原良蔵は役務に励んだが、小心翼々としていたわけではなかった。

 一時期、桜田藩邸で格下の記録所右筆として用いられた後、再び密方右筆の役目に復職した。江戸藩邸の有り様は幕府との折衝と情報収集のために置かれた、藩の江戸出張事務所との性格が強かった。事務機器のない当時、密方右筆とは藩主の傍に仕えて事務方を執る、藩公毛利敬親の秘書官とでも言うべき役職だった。

 繰り返すが、一度瑕疵を負った者が再び重く用いられることは他藩では希なことだ。当時だけでなく今日でも、平穏な時代における権力者たちの度量は概して狭い。戦乱がなければ権力者たちの責任は役務遂行上の瑕疵に関してだけ問われる。そのため重箱の隅を突っつくほどの瑣末な事柄をあげつらうのが普通だが、江戸時代の長州藩は若者に温かい態度で接した。とりわけ、才ある若者には寛大だった。それは奇跡的ですらあった。藩は若者の前途を嘱望し、若い芽を摘むことを極力避けた。後の倒幕運動で薩摩以外の諸藩では有為な若者が脱藩して事に当たるが、長州藩からは脱藩浪士は出なかった。無節操ともいえる藩首脳の寛大さから、敢えて藩を抜け出す必要がなかったからに他ならない。長州藩の若い志士たちにとってこの上なく恵まれた環境だったといえる。

 しかし、来原良蔵は一度ならず二度までも定法に触れた。性懲りもなく安政元年三月二十七日に露見した吉田寅次郎の米国艦船密航に連座して再び国許へ送り返された。

 二度目の謹慎蟄居の咎めはなかなか解けず、やっと翌安政二年になって相州警護の宮田作事吟味役に任じられて、座敷牢の幽閉生活から解き放たれた。

 相州警護の作事吟味役の仕事とは警護地の各所で行われている作事の監督だ。長州藩は警護を受け持った地域の各所に見張り小屋を建て、要衝に台場を築き警護に必要な道の整備をする賦役を課されていた。予定された期間に図面通りの造作物が出来上がっているか見廻るのが作事吟味役の仕事だった。

 長州藩は六十九ヶ村に及ぶ広大な幕府直轄地を警護しているため、作事吟味役として来原良蔵が土木現場を見廻るのは大変な労力を要した。来原良蔵の前任者は山中平十郎という軽卒組総代の男だった。相州警護総奉行は当初は土木工事の監理に卒の総代を充てることで円滑な工事の遂行を期した。しかし、まもなく工事現場に不具合が生じた。警護総奉行の意向よりも現場の都合が優先される弊害が目に付いた。そこで、相州へ配属されて来た新進気鋭の来原良蔵に作事吟味役を差し替えた。

 来原良蔵が実施する作事現場の吟味は厳格を極めた。指図書片手に作業現場を見廻り、手直しを命じることもしばしばだった。いきおい各地の現場を仕切る軽卒組の評判は悪くなった。しかし各所の作事が滞りなく進捗したのも間違いのない事実だった。

 翌朝、まだ夜も明け切らぬうちに伊藤利助は枕を蹴られて目を覚ました。提灯の明かりが顔の間近で揺れていた。

「必要以上に眠るのは無駄だ」

 来原良蔵の声が頭上から落ちた。伊藤利助は寝過ごしたとばかりに飛び起きて風呂敷きから新しい草鞋を取り出した。すると、来原良蔵はそれを見咎めるかのように言い放った。

「裸足で良い」

 来原良蔵の言葉の意味を理解しかねて、「へい」と生返事だけして草鞋の紐を足首に巻き付けようとした。

「草鞋は必要ない。それと、返事は『はい』と応えるように」

 そう言うと、提灯を翻して莚を掻き上げ外へ出た。

「戦で草鞋がなければどうする。裸足で戦場を駆けるしかあるまい。それなら普段から裸足の暮らしに慣れている方が良い」と、来原良蔵は裸足の意味を教えた。

 伊藤利助は裸足で土間に下りて、来原良蔵の後を追うように飛び出た。

 来原良蔵は馬の傍で待っていた。近付くと騎馬提灯を伊藤利助に手渡して馬に飛び乗り、懐から一冊の書物を取り出した。

「提灯の明りにて、これを大声を出して読め」

 来原良蔵が手渡したのは詩経だった。

 武家の学問は儒学、四書五経である。何処で聞き知ったのか、久保五郎左衛門の塾で伊藤利助は大学、中庸、論語、孟子と四書を終えて五経のうち易経を済ませた処だった。来原良蔵は伊藤利助に久保塾の続きを自ら教えるつもりでいた。

 来原良蔵の表情は険しかった。怒りにも似た厳しさだった。来原良蔵は自宅謹慎蟄居は解けたものの、相州の地に藩命で来ているのも罰の続きだと思っている。藩が自分を必要としているのは相州警護作事方吟味役の来原良蔵ではない。早急に改革すべきは藩兵制の洋式化である。そのためには長崎へ出向いて洋式兵制の直伝習をするしかない。そのお役目は余人を以って代え難い、との強烈な矜持が来原良蔵にはあった。

 吉田寅次郎が米国艦船へ密航しようとしたのも、その目的は西洋をじかに見聞することだった。それと同じで自分がこの地に一日いれば藩の兵制改革は一日の遅れとなる。来原良蔵は相州に留め置かれている自分に歯ぎしりするほど苛立っていた。

 しかし日々憤慨していても始まらない。憤怒の中に身を置けば今日一日が空しくなる。せめても相州にいることを意義あるものたらしめねばならない。そのためには伊藤利助に学問を授けることだと心に決めた。

 伊藤利助は轡の先を歩きつつ、騎馬提灯で本を照らして音読した。馬上では来原良蔵が聞き入っている。かつて来原良蔵と吉田寅次郎は藩校明倫館の双璧と並び称された。負けん気の強い来原良蔵は吉田寅次郎に後れを取るまいと、自身の背丈に余る書物を読破した。しかし、ついに学問の一日の長は吉田寅次郎にあった。

 それだけに吉田寅次郎が思いを行動に移し、罪人として囚われの身となっているのが心苦しかった。相州の地で安逸を貪っている自分が情けなかった。なぜ安政元年三月三日新橋は料亭伊勢本で吉田寅次郎が催した宴で披歴した彼の密航の決意を思い止まらせることができなかったのだろうか、との自責の念が不意に来原良蔵の胸に去来した。

 物思いに耽っている間に馬が歩みを止めた。横の伊藤利助に視線を遣って、

「これへ」

 と言うと馬から下り、来原良蔵は滑りの悪い腰高油障子を引き開けた。

 それは作事方吟味役の勤番小屋だった。そこで来原良蔵は起臥していた。場所は山門脇で、いざ戦という場合には本陣の歩哨番小屋として役立たせるものだった。幕府から命じられたお役目上、相州警護の屋敷の配置は戦場の布陣になっていた。二間に三間の床面積に板囲い、板屋根という恰も江戸の町に見られる自身番小屋といった粗末な造りだった。

 入った所は六畳間の広い土間で、竃はないが七厘が隅の台の上にあった。その傍には水甕が置かれ簡単な自炊が出来るようになっている。ただ、来原良蔵は他の藩士たちと同じく番食を寺の本堂で摂っていた。

 番食とは勤番の藩士に給される食事のことだ。長州藩では江戸藩邸でも京藩邸でも大坂藩邸でも、そして相州警護の地でも番食は判で押したように一日一人当たり白米五合と決まっていた。そのうち二合分が副食となり、その分量が朝と夕に分けて給された。

 伊藤利助は小屋へ入り上り框に腰を下ろすと、来原良蔵が引き寄せてくれた行燈の明りで書物を開いた。

 しかし、なぜ自分が書物を読まなければならないのか、伊藤利助には合点のいかないことだった。いきなり叩き起こされたのにも驚かされたが、裸足で歩くことにはもっと驚いた。十月とはいえ旧暦のことだ。秋は足早に過ぎ去ろうとしている。これから冬が訪れると思うとそれだけで寒気に身震いした。

 来原良蔵は何事か勤番小屋の老爺に言い付けて、後は伊藤利助の音読に聞き入った。伊藤利助が難しい言葉に詰まると書物も見ずに教え、そして段落の区切りに来ると文言の意味を問い、伊藤利助の解釈に足らざる所がある訂正し付け加えた。

 やがて、騒がしいほどの雀の囀りが聞こえて窓から差し込む日ざしに行灯を吹き消した。伊藤利助の勉学は一刻以上に及んだ。

 武家の朝餉は五ツと決まっている。その習慣は相州の地でも厳格に守られていた。老爺の呼び掛けに来原良蔵は立ち上がり、

「そこもとの飯はここへ運ばせる。食した後、境内の井戸端で洗顔を済ませておくように」 と、伊藤利助に言い渡した。

 中間の食事は原則として自炊だった。番食は藩士たちだけに給される。いかに手附として役目を果たそうとも、足軽中間に番食が給されることはなかった。

 だが来原良蔵はそうした取り決めを馬鹿らしいものだと思っていた。藩士が藩士たる所以は特権を有することではなく、忠を以って報いることだ。では忠とは何か。忠とは己を空しくして公に尽くすことである。

 吉田寅次郎は藩の兵学者の家に生れた者として凄まじいまでも責任を全うしようとしている。己を顧みず夷国の政治の在り様や夷国の軍事力の在り様を実際に両の目で見なければ、兵法家として藩公に適切な意見具申は出来ないと思い詰めて密航を企てた。それは苛烈なまでの忠だ。そしていま、吉田寅次郎は萩の野山獄に幽閉されている。

 しかし自分には何も出来ない。翼をもがれた鳥のように自分は相州の地に閉じ込められている。そして心ならずも平穏無事な日々を過ごしている。来原良蔵は薄い唇を引き絞り眼窩に鋭い光を湛えて小屋を出て行った。

 伊藤利助は強い衝撃を覚えていた。久保五郎左衛門の塾では懸命に学問を積み、曲りなりにも優秀な門下生だったとの自負がある。塾での出来が萩の町でも評判となり小若党の勤めで上った井原素兵衛の屋敷でも高い評価を得た。それがこともあろうに相州警護作事方吟味役来原良蔵の前では赤子同然だった。世間とは広いものだと痛感した。呆然とした頭でそう思い、久し振りに学問疲れの心地よさを味わった。

 間もなく来原良蔵の従者金蔵が盆に載せて熱い盛り切り飯と湯気の立ち上る貝汁と香の小皿を運んで来た。藩士が食する朝餉の番食だ。献立は常に一汁一菜。伊藤利助は一年ばかり相州の地に留まることになるが、その日々は寸分たりとも変わらなかった。

 伊藤利助は貪るように食った。数えで十六は育ち盛りだ。細い体の何処に入ったのかと訝しいほどに番食はあっけなく消えた。

 掻き込むようにして伊藤利助が朝餉を済ますと、ほどなく来原良蔵の声がした。

「出掛けるぞ、書物を忘れるな」

 油障子越しに呼び掛けられ、伊藤利助は桟に取り付くように急いで引き開けた。

 見廻る作事場は広範囲に及ぶ。長州藩に課せられた海岸警護は鎌倉腰越から三浦半島全域にわたっている。その地の海岸線に沿った道を整備し、海から切り立った高台の要所に砲台を築き、眺望の利く峠には見張り小屋を設ける。作事場は広範な地域に無数に点在した。しかも、その費えは幕府からはビタ一文たりとも出ない。すべてを長州藩が負担しなければならない。幕府から賦役を課せられることはすべてを負担せよ、と命じられるのと同じことなのだ。工事が一日遅れればそれだけ長州藩の負担が増えることになる。

 来原良蔵の使命は作事指図書通りに工事が進捗しているかを監理することだ。見廻る作事場も当然にして広範囲に散らばっていた。

 来原良蔵は馬を走らせて三浦半島を海岸沿いに北上した。伊藤利助はその後を追って裸足で駆けた。が、駆けるだけではない。大声を上げて書物を読んだ。

「ありゃあ、まるで拷問じゃ」

 との声が囁かれるほどだった。

 白股引に尻端折りの伊藤利助は髷を乱しながら駆けた。疲れた素振りを見せたところで、来原良蔵は伊藤利助を路傍に置いて馬を走らせるだけだった。

 作事場で来原良蔵が用向きの打ち合わせをしている間も、伊藤利助は寸暇を惜しんで馬の世話をし書物を開いた。しかし来原良蔵は優しい言葉を掛けないばかりか、伊藤利助が平易な解釈でもしようものなら頭から叱りつけた。眼光紙背に徹する、との文字通りに深い読みと解釈を要求した。

 ぼろ雑巾のようになりながらも、宮田へ戻ると勤番小屋で老爺が運んでくれた夕餉を貪った。本来なら武家の執務は七ツに終える。江戸城では奏者番や大目付は八ツ半には下城したという。総奉行所の作事吟味方も七ツには仕事仕舞いとして、暮れ六ツまでには番食を済ませる。そうする方が行灯の油の節約になるというものだ。しかし、伊藤利助はまだ終わりではなかった。高価な油を使って行灯をともして勉学を続けた。勤番小屋の座敷で来原良蔵が一日の作事内容を帳付けしながら、伊藤利助の音読を聞いている。段落まで読み終えると来原良蔵が内容の説明と字句の解釈を教えた。そして伊藤利助に続きを読むように促した。

 五ツ半を過ぎると立ち上がり、庫裏の外にある藩士の使う風呂場へ伊藤利助を伴った。まず来原良蔵が風呂に入り、背中を流すように命じた。伊藤利助は疲れた体に鞭打って糠袋で洗い、来原良蔵が上がると残り湯を使うように言われた。

 汗を流して中間長屋に戻り着くのは四ツ近くだった。ものも言わずに夜具にくるまると泥のように眠りこけた。

 そうした日課が日々繰り返された。中間の休日は月に三回、五と十五と二十五の日と定まっていた。しかし、それですら昼までに汗臭い下着や着物を洗い部屋を掃除していると、番小屋から金蔵が呼びに来た。老爺は来原良蔵が番小屋で待っていると言う。勉学は一日怠ると今日という日は二度と取り戻すことは出来ぬ、というのが来原良蔵の言だった。結局、伊藤利助に休みはなかった。

 相部屋の中間たちは賽賭博に興じていたが、

「ご苦労なこった」

と、嘲りの言葉を投げ掛けた。

 足軽中間の身分でいかに学問を積もうとも、決して卒が士に取り立てられるものではない。士身分の中での抜擢はありえても、封建社会の厳しい身分の壁がある。賭博に勤しむ者たちには伊藤利助の勉学はまったくの無駄なものだと映っている。来原良蔵の鬱憤晴らしの道具に伊藤利助が使われているに過ぎぬ、と彼等は思っていた。

「おいらたちゃ、願い下げだ」

と揶揄するように言って、彼らは顔を見合わせて鼻先で笑った。

 しかしそれでも、伊藤利助は来原良蔵に喰い付いた。転がされても転がされても幼子が意地になって相撲を取るように、伊藤利助は執拗に喰いついた。幾度となく雷のような叱責を受けようとも、伊藤利助は学問を修めようと来原良蔵に喰いついた。足が痛くなり悲鳴を上げつつも馬の後を駆けた。途中で日が暮れると来原良蔵は騎馬提灯を伊藤利助に手渡してその明りで音読を続けさせた。

 やがて相州にも冬が訪れた。北風に雪が横殴りに吹き付ける日でも伊藤利助は裸足だった。思わず「寒い」と弱音を漏らすと、

「寒いと言ったところで寒さに変わりはない。武士は泣きごとを言わず、黙って耐えるものだ。何事に付けても堅忍が第一である」

 と、来原良蔵は馬上から諭した。そういう来原良蔵も厳寒にもかかわらず太木綿の単衣に木綿縦縞の裁っ着け袴だった。

 伊藤利助が手にする書物は年内に詩経を読破し、書経に移っていた。

 最初は辛い修行のように思えていた勤めも三ヶ月も経つと体が慣れた。むしろ、朝と夕に来原良蔵の心配りで給される番食が有り難かった。相州に来た当初は上背こそ五尺二寸余と平均的だったが、骨張った体付きはどこか弱々しかった。それが毎日のように裸足で山野を駆けるうちにいつしか足腰に頑健さが加わり、少々のことでは弱音を吐かない強靭な気力をも併せ得た。伊藤利助は気付かないうちに心身の鍛錬を積まされていた。

 同時に来原良蔵の適宜を得た指導により作事が順調に進むのも目にした。伊藤利助は具体的な行政の実地教育をも受けたことになる。

 末端とはいえ、行政遂行に肝腎なのは人であるとの教訓が伊藤利助の身に染み付いた。

 作事方の人足には近郷の百姓を銭で雇っている。それを現場で監督・督励するのは軽卒組の古手だ。少しでも気を緩めれば作事は遅れるし手抜きが平然と行なわれる。それかといって、吟味役が四角四面な理詰めで責め立てても人足から反発を買うばかりだ。

 来原良蔵は相手の言い分を聞き、時には相談に応じて作事方へも意見を通じた。しかし断固として遂行すべき作事場では彼も現場の人夫たちに混じって畚を手にした。すると現場差配の軽卒組の男たちは平身低頭し、作事を指図書通りに仕上げることを約束した。

 寒気が緩み春の訪れを肌に感じる頃、各地の作事場は足並みを揃えて完成を迎えていた。作事人足として近郷の百姓を銭で駆り出すのも農閑期に限られている。苗代作りが始まると百姓は日銭稼ぎの人足場へは出て来なくなる。作事方が秋から冬場にかけて目の色を変えるのはもっともなことだった。この時期の進捗具合が作事全般を左右した。

 作事吟味役として来原良蔵は役目を立派に成し遂げた。相州警護総奉行所で来原良蔵の評価は一段と高まった。さすがは藩校の英才だけはある、との賞賛の声すら聞こえた。が、来原良蔵はすべてを無視した。かつては密方右筆として藩主の傍に仕えたことのある身だ。相州で評価を得たところで始まらぬわ、と心の中で笑い飛ばした。

 それよりも藩の兵制改革である。早急に戦国時代そのままの藩兵制を洋式化し、武器を近代化しなければならない。夷国の脅威は年毎に高まっている。しかし、現在の軍備で戦えば間違いなく夷国に破れる。西洋列強と対等に伍していくことはできない。

 数年前、隣の大国清は英国の僅かな陸戦隊と戦って敗北した。それは後に阿片戦争と呼ばれるものだった。戦の詳細は長崎を通じて幕府にも長州藩にももたらされている。予備知識は十分に得ているはずが、米国艦隊が姿を現しただけで幕府はこの有様だ。

 来原良蔵は鋭い慧眼で事の本質を見抜いていた。彼我の相違は兵制と武器にある。それを改革しない限り、夷国と戦うことは出来ない。来原良蔵は数次にわたって相州の地から藩公へ建白書を書き送っていた。

 農繁期になると作事方は指揮監督すべき作事場を失った。作事現場がなくなれば作事方吟味役も暇となる。来原良蔵は伊藤利助の学問に没頭した。書経が済めば春秋。次に礼紀を終えて唐詩撰へと進み、漢詩をものにして詩作の素養を得るのが武家の学問だ。当然、その順序で来原良蔵は教授するつもりでいた。しかし途中で気が変った。

 書経を終えたところで、来原良蔵は伊藤利助に洋式兵学を講じ始めた。そのため伊藤利助は五経を一貫して学ぶ機会を失った。唐詩撰も学ばなかったため武士の素養の一つに数えられる漢詩も自在に詩作できるほどには身につかなかった。武士の学問を最後まで学ぶ機会は失われ、不完全なままに終えたことになる。だが伊藤博文は後に独学で詩作を習得し、自作の漢詩集を遺している。類稀な向上心と勉学への情熱がこの男から失われることは生涯を通じてなかった。

しかし来原良蔵の教える洋式兵学にしたところで充分なものとはいい難かった。蘭学塾へ通わなかった来原良蔵に本格的な蘭国兵学の素養があろうはずもなく、不完全な翻訳と不適切な語彙に悩まされながら、蘭書翻訳本を教材に教練や銃陣を教えた。

 安政四年の春先から、州の砂浜で来原良蔵は度々洋式銃陣を試している。暇になった軽卒組を浜辺に呼び集め、隊列を組ませて行進をさせたり、散開の銃陣体形を教練した。長州藩相州警護総奉行所は幕府の咎を恐れて、来原良蔵に幾度となく厳重な注意を与えた。

 ある日、来原良蔵は萩の噂話を小耳に挟んだ。

 秋風の立ち始めた夕暮れ、洋式銃陣で汗をかいた後だった。

 本堂で夕餉の番食を頂戴していた折りに、ふと来原良蔵は箸を止めた。

 すぐ斜め前の総奉行付きの若い右筆が、隣の同役の耳元で「吉田が……」と口にしたような気がした。吉田とは吉田寅次郎のことではないか、と心持ち頭を傾け咀嚼していた顎を止めて耳を澄ました。萩の百姓町人は敬意を込めて『松蔭先生』と呼ぶが、藩士たちは吉田寅次郎が罪人であるため名を呼び捨てにした。

「松本村で教えている……」と、男は声を潜めて囁いた。

 松本村、と聞いて吉田寅次郎のことだと確信した。来原良蔵は開け放たれた蔀から差し込む夕日を見詰めて、再びゆっくりと咀嚼を繰り返した。

 深い感慨が胸に湧き上がっていた。

 米国艦ミシシッピー号への密航に失敗した吉田寅次郎は浦賀奉行所へ自訴し、幕吏に捕らえられた後、国許へ送還された。

 長州藩は幕府の御定法に触れた吉田寅次郎を野山獄に幽閉した。しかし藩は吉田寅次郎の願い出によりその獄内で学問を教えることを許した。吉田寅次郎は獄内の罪人をはじめ獄卒までをも相手に孔子を説き和歌を詠んだ。

 安政三年四月、吉田寅次郎は自宅禁錮の刑に減じられて松本村の自宅へ戻った。しかし罪人であることに変りはない。禁錮の刑ならば他出は勿論のこと、外部の者がおとなうことも禁じられている。通常なら門前に藩吏が控えて監視の目を光らせるものだ。しかし長州藩の吉田寅次郎に対する扱いは異なっていた。藩主が吉田寅次郎の学才と私欲のない人物を愛していたため、自宅禁錮の身であるにもかかわらず塾を開き吉田寅次郎の許に若者が通うのを藩吏は黙って素知らぬふりをした。

 明くる日の午後、伊藤利助は軽卒組頭の許へ呼び出された。作事方が暇になり朝から番小屋で来原良蔵の傍らで命じられるままに洋式銃陣の翻訳書を音読していた。下役人の呼び出しに何事かと訝る伊藤利助に、

「行って参れ」

と、来原良蔵はそっけなく言った。

 伊藤利助は怪訝な面持で番小屋を出ると、すぐ裏手の中間の詰める軽卒組小屋へ赴いた。伊藤利助は裸足のまま土間に入るとその場に蹲った。

「伊藤利助、御役御免である。道中手形を下げ渡す、とくと国許へ帰るが良い」

 頭上から組頭の声がして、面を上げた伊藤利助に不憫そうな眼差しが向けられた。

 中間は御役に就いてこそ俸給を得る。その御役の中でも相州警護は希望者が多かった。一人前の俸給が国許の家に下げ渡される上に、相州へ赴いた者には日々の食が給されなにがしかの手当が頂戴できる。割の良い御役に小者たちは殺到していた。

 伊藤利助は不意に罷免を申し渡され、我が身に何が起こったのか呆然と組頭の顔を見詰めた。顔を上げ両手を漆喰で固められた土間についたまま面喰らっていた。しかし、気を取り戻すとニコリと微笑んだ。

「はい、しかと承りました」

 伊藤利助は明るく返答すると、頭を下げて小屋を出た。

 すぐに報告すべきは主人来原良蔵だった。足早に番小屋へ引き返した。

「来原様、御役御免となり国許へ帰ることとなりました」

 土間に蹲ると、伊藤利助は感情を交えずに言上した。

「うむ。明朝早々にも発つが良い」

 そう言いつつ、来原良蔵は横の文机に置いていた一通の書状を差し出した。

「これは紹介状だ。そこもとの暮らす松本村で吉田寅次郎が塾を開き身分に関わりなく教えている。これを持参して塾へ入り、勉学に励むが良い」

 来原良蔵は優しく諭すように言った。

 相州にいては伸びるべき芽も伸びない。若者には広い見識と現実を的確に把握する論理が肝要だ。来原良蔵は国許の藩兵制の洋式化の胎動を遠くから見詰め、切歯扼腕の感を禁じ得なかった。

 話は少しばかり時代を遡る。

 嘉永六年六月のペリー来航に徳川幕府は衝撃を受けた。何よりも彼我の造船技術の歴然たる差に目を剥いた。しかし、既に幕閣は全長七十間もの巨大な黒船が存在することを知っていた。数十年も以前から、長崎奉行所の報告により夷国艦船来航の知らせは江戸表に届いていた。その折り、艦船の長大さは目を見張るばかりと長崎奉行は書き送っている。が、実際に夷国艦船を目にしていない幕府首脳は長崎奉行所から届けられる切迫した報告書を無視した。七十間も有する長大な艦船とはいかなるものかとの考察を怠った。ぜんたいに彼等は工業技術に鈍感だった。

 しかし、目の前に小山のような米国艦船が現われると、いかに鈍い彼等とて現実の脅威を考えないわけにはいかなくなった。同年、大船建造禁止令を解くことを各藩に知らせ、幕府の許可を以って建造を認める旨を触れた。

 遅まきながら幕府は海軍の必要を痛感し、安政二年蘭国から軍艦スンピン(後の観光丸)を購入し、それを練習艦として長崎に海軍伝習所を開設した。そして幕臣のみならず諸藩の藩士をも受け入れた。

 当時、長州藩の海岸防備といえば日本海の北浦手当の役職があるだけだった。日本海を南下して来る露国艦船に備えるためのものだが、露国はペリーに遅れじとプチャーチンを大坂へ派遣した。長州藩への直接の脅威はなかったが、露国艦が馬関海峡から瀬戸内海を航行したことから、藩は瀬戸内海沿岸の防備も必要なことに気付かされた。と同時に、現実に具体的な脅威を目の辺りにして洋式海軍の必要性が藩首脳部に認識された。

 長州藩はさっそく桂小五郎を浦賀へ遣わし、米国艦隊を目撃した当地の船大工を長崎へ送り込んだ。しかし、見よう見まねで洋式艦船が建造出来るものではない。藩の計画は挫折したかに見えた。が、たまたま大坂での交渉を拒否されたプチャーチンが江戸へ向かう途中、伊豆沖で津波に遭って難破した。漂着した君沢郡戸田村で船大工高橋伝蔵らが露人の指揮で艦船の修理をしたことを知ると、長州藩は高橋伝蔵らを萩へ呼び寄せだ。

 萩小畑浦の戎ヶ鼻岬に軍艦製造場を設けて長州藩は露国艦船と同じものを建造するように命じた。安政三年五月に着手してその年十二月に進水、翌年二月に完成した。その迅速さには目を見張るばかりだ。それはスクネール型といわれる全長十二間、排水量四十七トンの木造洋式帆船で『丙辰丸』と命名された。

 来原良蔵の耳にもそうした藩の動きは入っている。その藩政府の方針は間違っていないし、そうすべきである。しかし藩の動きは余りに鈍く、迫り来る夷国の脅威に間に合わない、と来原良蔵は気が急いた。米国総領事ハリスは早くも日米修好通商条約(神奈川条約)の締結を迫っている。米国に続いて次々と他の西洋列強も条約締結を迫るのは目に見えている。だが、この国に外交を無難に乗り切る体制が出来ているだろうか。体面と前例にこだわる余り条約の内容に踏み込んだ議論が出来なければ、末代まで不利益を負わされるのではないか。そうした危機感が来原良蔵にはあった。

 この国は遅れている。何もかもが遅れている。それは長州藩とて例外ではない。相州の地にあって、来原良蔵はこの国に押し寄せる奔流のような西洋列国の動きに慨嘆した。

 西洋列強とまともな外交をなすには、まずは軍備がなければ始まらない。議論にとらわれ空疎な攘夷論を振りかざす者たちに本来の外交は覚束ないだろう。なにはともあれ藩兵制を一新する心積りで当たらねば、夷国に対抗できないとの感を抱いていた。

 伊藤利助の突然の罷免に確たる理由は見当たらない。咎めを受けるようなことを仕出かしたわけでもなく、相州警護の任が満ちたわけでもない。しかし伊藤利助は来原良蔵の手附を罷免され、代わりに吉田寅次郎への紹介状を手にした。

 安政四年秋、伊藤利助は相州宮田を後にして萩へと向かった。

 伊藤利助は強靭な足腰で街道を飛ぶように歩いた。茶木綿の単衣に縦縞の袴を着けて腰には小振りな差料があった。相州の地で一年にわたり来原良蔵の手附として厳しく仕込まれたのも、過ぎ去ってしまえば無性に懐かしかった。


  三、松下村塾へ

 相州宮田を後にすると残暑の去った晩秋の街道を歩いた。

 路銀が乏しいため脇道に逸れたり、京で名所旧跡を見物することもなかった。

 二十日あまりで萩へ辿り着き、茜の暮色に包まれる城下町を往還路の山道から望んだ。

 川島より更に上流で阿武川を渡り、松本川の東の土手道を松本村へと歩みを早めた。椎原の家の門を入った頃には、空を僅かな残照が錆色に消え残っているばかりだった。格子戸を開けると、伊藤利助は大きく声を弾ませた。

「只今、帰参致しました」

 伊藤利助の声に、玄関の明り障子を開けて十蔵が顔を出した。しかし、その表情は厳しく、とても歓迎の面持ちではなかった。

「相州で何を仕出かしたンじゃ」

 いきなり怒鳴りつけられ、伊藤利助ははっと緊張の色を刷いて面を上げた。が、すぐに表情を和らげると、目元に溶けるような微笑を浮かべた。

「いえ、何も粗相は致しておりません。罰を受けての帰参ではございません」

 伊藤利助は朗らかな声で答えた。

「しかれど、お役目罷免とは尋常でないぞ」

 十蔵は倅の明るさに拍子抜けしたように声を潜もらせた。

「入り小口で何を言い争っておる。利助は井戸端で体を拭って来るが良い」

 助け船を出したのは、養祖母のともだった。伊藤利助はともに向かって深く腰を折り、左手の犬走りに沿って家の裏手へ廻った。

 井桁の傍らに立つと着物を脱ぎ、下帯一つになった。晩秋の夜気は冷たく、鳥肌が立つのを覚えた。釣瓶を落として水を汲み、手拭で体を拭った。旅埃に塗れた首筋から脇の下、背中と拭って幾度か汲み上げた桶の水で手拭を濯いだ。山肌に沿って冷気が流れ、拭き清めた体から湯気が立った。辺りは地の底から湧上るような虫の音がかまびすしかった。

「ここに着替えを置いておきます」

 と琴の声がした。伊藤利助は振り返って「有り難うございます」と笑顔で応えた。

 こざっぱりとして威儀を正すと、伊藤利助は奥の間の伊藤直右衛門へ挨拶に上がった。「ただいま、帰りました」

 そう言って平伏すると、「うむ」と伊藤直右衛門が応じた。

「一年に亙る相州警護のお役目、ご苦労であった」

 そう言うと、伊藤直右衛門は相好を崩した。

「どうじゃった、峠の向こうは」

 伊藤直右衛門は養祖父の顔で訊ねた。

『峠の向こう』との言葉には格別の意味がある。その言葉はかつて藩老村田清風が発したものだった。村田清風は「若者は四峠を出ずべし」との言を吐いた。四峠とは萩を取り巻く峠のことだ。若者には機会を与えて広く天下を見聞させよと事あるごとに言い続けた。

「広う御座居ました」

 伊藤利助は明るい声で言った。満面は溶けるような笑顔だった。養祖父は孫が一回りも二回りも大きく成長したのを感じた。

「つきましては相州での主人、来原良蔵様より松下村塾への紹介状を頂戴して参りました。明日にでも入塾致したく存じますが、いかがでしょうか」

 そう言うと、伊藤利助は懐から一通の書状を差し出した。

 伊藤直右衛門は畳の書状に目を落として、一瞬返答をためらった。

 松下村塾の師匠は罪人だという。それも国禁の鎖国令を破ろうとした大罪人だと。しかも教えている教科は儒学だけではなさそうだ。国事を論じ国学を語っていると聞いている。

 国学は武家社会では異端の学問とされていた。儒学の説く本質は『君に忠、親に孝』で武家社会を維持するのに好都合の学問といえる。それに対して国学の本質は尊王だった。武家社会を揺がす芽を国学は内蔵している。が、吉田寅次郎が松下村塾で教えるのを藩が黙認しているのも紛れもない事実だった。

 心の四峠も越えねばなるまい、と伊藤直右衛門は鷹揚に頷いた。

「有り難う御座居ます」

 伊藤利助は再び深く頭を下げた。

 夕餉の膳に向かうと、十蔵が口を開いた。

「明日にでも組頭のお屋敷へ出向き、次の御役目をお願いしておくンだぞ、良いな」

 十蔵がそう言うと、伊藤直右衛門が首を横に振った。

「その儀は、わしが既に取り決めた。利助は吉田寅次郎の塾へ通う」

 そう言って、伊藤直右衛門は無表情に箸を動かした。


 翌朝、伊藤利助は心を弾ませて松下村塾へ向かった。

 晩秋の朝風が頬に心地良い。三尺幅のなだらかな坂道を半町ばかり下った。

 安政四年九月下旬、伊藤利助は吉田寅次郎の門下生になった。現在に残る塾生の名簿には百名近くの名が記されているが、伊藤利助の名は四十四番目にある。その前には品川弥次郎の名が記され、伊藤利助の次の欄には高杉晋作の名が記入されている。

 伊藤利助は紹介状を差し出して吉田寅次郎の様子を窺った。吉田寅次郎は来原良蔵の紹介状と聞いて目を丸くした。すぐに拾い上げると書状を開いた。

 来原良蔵と同じ歳だと聞いていたが、吉田寅次郎は年よりも老成して見えた。細面の顔に鋭い眼差しと薄い唇が論理的な冷たさを漂わせ、濃い横一文字の眉が憂いを容貌に加味している。しかし、いったん講義を弁じると痩せた体のどこにそんな気力が潜んでいるのか、と思えるほど議論に隙がなかった。来原良蔵とは異なる異能の学才をそこに見た。

 塾に入って伊藤利助はすべてに面喰らった。まず束脩が不要だった。月々の塾料も徴しなかった。その代わり弟子たちは百姓仕事を手伝う。足踏みの米搗きや石臼を回して粉挽きなどをするが、そこかしこに書見台が作られていて書物を読みながら作業を行なった。

 塾生も百姓町人から武士の子弟まで様々な身分の者がいた。年令も二十歳過ぎの者から五つ六つの子供まで、これも様々だった。そして、何よりも講義が変わっている。師匠が講じるのは僅かで、多くは具体的な国事を巡って塾生が各々の考えを論じあった。吉田寅次郎はほとんど口を挟まず、議論が漂流した時にのみ指針を示した。

 その日のうちに一人の男と親しくなった。どうしたことか身分も年も同じで家まですぐ近所、塾へ行く道の途中にあった。名を吉田栄太郎といい後に久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一と併せて松下村塾の四天王の一人と呼ばれる英才だった。

 吉田栄太郎は蔵書を次々と伊藤利助に貸し与えた。父親が借りた書物以上に書物が減少するのを不審に思って尋ねると、読んだ書物を家に置いておくよりも友に貸し与える方が書物も生きるというもの、と答えたという。

 伊藤利助の後を追うように、翌々日に一人の男が入塾した。

 男は不遜な面構えに颯爽とした足取りで門を入って来た。誰かが「高杉だ」と囁くのを聞いた。伊藤利助は顔を上げて男を見た。どこかでみたような顔だ、と思った。視線は男を追っていたが、庭先の莚の上に座り石臼を挽く右手はそのまま回わし続けた。

 男は伊藤利助より一二寸背が高く、年も自分より上のように見えた。絣の着物に紺袴を身に着けて腰には大小があった。見るからに男は士の身分だった。

 細面の顔に一面のアバタがあった。幼い頃に疱瘡を患ったもののようだ。目鼻立ちは整い負けん気の強そうな眉が眼窩の上に濃かった。

 奥の座敷で師匠と面談した後にふらりと庭に下りて来た。

「やあ、お主は法光院の小僧だろう」

 男は人なつっこい笑顔を浮かべて話し掛けて来た。『ああ』と記憶が甦った。

 男は法光院の裏筋、菊屋町に居を構える百五十石馬廻り役高杉小忠太の摘男晋作だった。田町の商店へ使いに出された折りに、道で何度か擦れ違ったことがあった。

 高杉晋作は天保十年八月に生れた。伊藤利助よりも二才年上の十九才になる。武は萩の尚武館道場で修行を積み柳生流免許皆伝、学はこの年の二月に明倫館の入舎生と呼ばれる学業優秀な者だけが入れる寄宿舎へ入る資格を得ている。筋目正しい小姓役を勤めた高杉小忠太の子にして文武両道に優れ、ゆくゆくは藩政の一翼を担う人材と嘱望されていた。当然、松下村塾への入塾は家人に秘してのことだった。

「いや、小僧ではない。法光院の神官が大叔父に当たり、一年半ばかり住み込みで学業を積んでいた。家はこのすぐ近く、椎原にある」

 伊藤利助は緊張の面持で高杉晋作の言辞を否定した。

「そうか」

 と素気なく言うと、高杉晋作は伊藤利助に興味を失ったかのように側を離れた。

 高杉晋作は学業では塾の誰にも負けないとの矜持があった。藩校では四書五経から唐詩撰を優秀な成績で終えた。詩作においても天賦の才の片鱗を示した。しかし、吉田寅次郎はことさらに久坂玄瑞を褒めて高杉晋作を発憤させるように仕向けた。二人は才能を伸ばし後に松下村塾の双璧と称せられることになる。

 久坂玄瑞は天保十一年(一八四○)医師久坂良迪の次男として生まれた。久坂玄瑞には二十歳違いの兄久坂玄機がいた。久坂玄機は天保年間青木周弼と共に蘭学医術を藩に持ち込み医学館を設立した。嘉永二年に医学館で長州藩では初めての種痘を実施している。蘭学者としても優れ翻訳も多岐に渡り、『新選海軍砲術論』『和蘭紀略』『牛痘纂論』『新訳小史』などその幅広い見識が伺える。久坂玄瑞はそのような開明的で頭脳明晰な兄を持っていた。しかし、惜しくも久坂玄機は安政元年に三十四才で病没した。その前後に両親も相次いで亡くなったため、久坂玄瑞は十四才で家督を継いだ。高杉晋作とは従兄弟に当たり、識の晋作とは対照的に才の玄瑞と謳われた。

 伊藤利助は久坂玄瑞よりも、高杉晋作の方とウマがあった。隙のない論理で相手をとことん論破する久坂玄瑞は吉田寅次郎に好まれ、塾生からも尊敬の眼差しで見られた。確かに久坂玄瑞の時代を見る目の鋭さは師匠譲りのものだった。国事を論じるときにその本領は遺憾なく発揮された。それに反して高杉晋作のものの見方は散文的で直截的だった。時として高杉晋作の物言いはなげやりのようですらあった。

 国事を巡って塾で闘わされる論議に伊藤利助は加わらなかった。年格好は同じでも相州を見てきた伊藤利助には何処か馴染めないものがあった。決して馬鹿にするというのではないが、どことなくそうした議論は言葉の上の空疎な遊びのように思えた。

 たとえば攘夷である。伊藤利助は十六才で萩の峠を越えて相州の地に赴いた。そこで一年に渡って長州藩の若い進歩的な英才からこの時代のものの見方、考え方を徹底的に叩き込まれた。門下生は勇ましく夷国艦船を追い払えと論じているが、攘夷の現実的な方策とは国力を富まし武器弾薬から糧秣の確保に海岸の道を整備し砲台を築き、武器を整え兵卒を教練しなければ始まらない。外交々渉とはそうした備えを万全にした上で、対等の立場で行うものだ。相州御備場で栗原良蔵から国防とはいかにあるべきかを繰り返し教えられ、伊藤利助も自然とそのようなものだと理解した。口角泡を飛ばして国事を論ずるより、具体的な政策を政治の場で着実に積み重ねる方が大事である。

相州の地で伊藤利助は基本的な国家のありようと、外交のありようを体の髄まで叩き込まれた。来原良蔵は攘夷々々と口にしたところで、いまの藩の軍事力で夷国艦を追っ払えるものではない、と真剣な眼差しで口癖のように語って聞かせた。国を頑なに閉ざして夷国艦を追っ払うには西洋列強に負けないだけの軍と防衛の備えが必要だ。また開国するにしても西洋列強の恫喝に臆しないだけの軍事力を保持した上で外交を展開しなければならない、と栗原良蔵は教えた。その教えが体の芯まで沁み込んだ伊藤利助の目から見れば、松下村塾で日々塾生たちが論じている国事なるものが児戯の言葉遊びのようにすら思えた。むしろ絵空事の攘夷や国事を論じるよりも、藩が来原良蔵の進言を聞き入れる方が先ではないかとの思いが伊藤利助の脳裏にあった。しかし伊藤利助はことさら議論の場に加わらず、またそうした思いを仲間の前で決して披瀝しなかった。

 だが残念なことが一つだけあった。松下村塾で闘わされる議論で、塾生たちが四書五経から盛んに言辞を引用するのに驚いた。松陰先生の弟子たちは漢学の素養を確実に身に着けている。伊藤利助の武家の学問はついに中途で終わったが、それは大した事ではないと来原良蔵は言ったが、松下村塾の議論を聞き及ぶに従って、自分に漢学の素養が備わっていないことを思い知らされ唇を噛みしめた。

 ある日、伊藤利助が庭先で薪を割っていると、ふらりと高杉晋作が傍にやって来た。

「どうだ、名を変えぬか」

 と、いつものように高杉晋作の物言いは前後に脈絡がない。

伊藤利助は鉈を振る手を休めて見上げた。すると、高杉晋作は腰を屈め木端を拾って地面に『利』と書いた。

「これはトシと読める。ならば、」

 と言葉を切り『俊』と書いた。そして更に、

「スケも、」

 と言いつつ『輔』と書き、

「この字に改めよ。読みもシュンスケとして『俊輔』と名乗るが良いぞ」

 そう言うと、高杉晋作は伊藤利助の顔を覗き込んだ。

「どうしてだ、」

 と聞き返すと、高杉晋作は細面の目元に笑みを浮かべた。

「名は体をあらわすという。利とは松陰先生が嫌う語彙の一つだ。名が『利を助ける』ではあたかも商人のようで、人から大成出来ぬと軽んじられようぞ」

 高杉晋作にそう言われて、伊藤利助は面白い講釈でも聞いたかのように素直に頷いた。名は人を識別する符丁だと思っていたが、なるほど高杉晋作に言われればその通りで体を表すものに相違ない。

「では、これより伊藤俊輔と致しましょう」

 その日を以って、伊藤利助は名を伊藤俊輔と改めた。

他にも俊介、春介等と名乗ることもあったが紛れもなく伊藤俊輔の名付け親は高杉晋作だ。明治以後に名乗る『博文』もその折りに高杉晋作が漢籍から採って示した名の一つだった。

 吉田寅次郎は決して度量の狭い人間ではない。むしろ、子弟には慈愛をもって接した。しかし、高杉晋作が吉田寅次郎に憚って伊藤俊輔に改名を勧めたのも確たる事実だ。高杉晋作は一字一句たりとも疎かにしない吉田寅次郎の潔癖な性格を熟知し、それとなく忠告したものと思われる。

 翌安政五年二月、罰を受け相州警護を罷免された来原良蔵が萩へ帰って来た。罪は藩の許しを得ずに洋式銃陣の教練を繰り返し行なったことにあった。幕府に聞こえたならいかなる咎が藩に及ぶか、相州御備場奉行は危険なものを感じていた。咎めの刑罰は自宅閉塞だった。

 しかし、吉田寅次郎は大いに喜び、さっそく文を書き送った。気持ちを表すために詩を送ろうとしたが、最初の二行はすぐに浮かんだものの、余りに喜びが過ぎたため続きの作詩がもどかしくなった。ついに四行で成り立つ七言絶句の二行だけを送っている。

      勤王敵愾世皆口

      刻意励行獨有君

 勤王を口にする者は多いが、その意を知って努力しているのは君だけだ……。

 本来、吉田寅次郎はバカがつくほど几帳面な男だ。半端な七言絶句を良とするものではない。しかし吉田寅次郎はそのまま送った。それほど嬉しかった。安政元年三月三日、米国艦へ密航を決意した吉田寅次郎が新橋の料亭伊勢本に招いた長州人は赤川淡水と白井小助、それに来原良蔵の三人だけだった。彼等は一様に藩から罰を受けて不遇な一時期を余儀なくされた。しかし吉田寅次郎は些かも気力を挫くことなく信じる道を邁進した。

 長州藩には飛耳張目とよばれる策があった。

 徳川幕府にいう隠密に相当する者が極秘のうちに各所で情報収集をしていた。

 例えば、長州藩士甲谷俊家は身分を隠して上洛し、絵を能くすることから丹青の技を以って公卿に近付いて京の情勢を国許へ伝えた。

 国事を論じあう萩にも刻々と変貌する世上の様子は伝わってくる。

 安政四年(一八五七)七月二十六日、幕府は米国に押し切られるようにして日米和親条約(神奈川条約)を締結した。内容は主に四カ条からなっている。それは外国人に居住権を与え、外貨との貨幣交換比率を定め、長崎を開港し、領事裁判権(治外法権)を認めることだ。それは後の明治政府に重い課題を残す不平等条約だった。

 同様に同年九月七日、露国使節プチャーチンと長崎で条約を締結した。そして、十月二十一日、米国大統領ピアースの親書を携えて米国総領事ハリスが将軍家定と謁見した。親書により突きつけられた要求は交易だった。幕府はその扱いに窮して、十一月一日に諸大名を江戸城中に集めると米国大統領の親書とハリスの口上の写しを示して諸大名から意見を徴した。徳川幕府開闢以来の出来事だった。

 当時、江戸城中も騒然としていた。病弱な家定の後継を巡って紀伊藩主徳川慶福(改め家茂)を推す彦根藩主井伊直弼らと、水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家に養子で入った一橋慶喜を推す福井藩主松平慶永らとの間で暗闘が繰り広げられていた。

 その間、飾り物に過ぎなかった朝廷の権威が外国との条約締結を巡って俄然甦りつつあった。そして、京では幕府が米露英仏と相次いで結んだ和親通商条約の批准を巡って攘夷論が沸騰していた。

 安政五年四月二十三日、江戸城中の権力闘争に勝った井伊直弼が大老に就任し、強権的な弾圧政策を開始した。そして日本全国に血生臭い空気が漂い始めた。

 安政五年(一八五八)五月、吉田寅次郎は京都の状況を探るため久坂玄瑞と中谷政亮を派遣することを藩に願い出た。

 そうした状況が京にはあった。

 前年十二月十一日から幕府は外交の全権を下田奉行井上清直に与え、米国総領事タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約を京都朝廷に無断で交渉させた。その事後報告として同月、老中堀田備中守らは朝廷の意向を伺うために学者の林大学と津田半二郎に上京を命じた。しかし、そうした経過を知ると朝廷は天皇を軽んじる仕儀だと激怒した。国事の報告ならば将軍直々とまでは言わないまでも、少なくとも老中が上洛して釈明するのが筋であろうとの議論が沸騰し、朝廷を蔑ろにするものだと攘夷派の反感を買った。

 当然のごとく、林大学と津田半二郎の上洛は不首尾に終わった。言を左右する朝廷によって交渉は少しも進まなかった。その報告を受けると翌安政五年一月五日、幕府は勅許を得るために日数を要するとしてハリスに日米修好通商条約の調印を二ヶ月延期を申し出た。そして業を煮やした堀田備中守は自ら上洛すべく一月八日に江戸を後にした。幕府の威光を全面に押し立てて強引に条約締結の勅許を得ようとの算段だった。通商条約締結に異を唱える攘夷派浪士がぞくぞくと上洛し、京の町は騒然とした情勢になった。

 長州藩は吉田寅次郎の申し出を受け入れて久坂玄瑞と中谷政亮に京の情勢探索を命じた。が、長州藩は松陰門下生たちだけを京都へ遣わすのに不安を感じたのか、藩の若い重臣中村九郎をつけた。中村九郎は吉田寅次郎とも親しい赤川淡水と兄弟だった。彼等兄弟二人の学才は藩の中では知らぬ者はいなかった。久坂玄瑞たちに伴わせるのに藩はそれなりの人物を選んだといえる。

 その折、吉田寅次郎は軽卒の者にも機会を与えるように申し出て、後日藩は藩士中村道太郎に随行する形でそれを許した。吉田寅次郎は塾生の足軽中間の中から伊藤俊輔、山縣小介、杉山松介、岡千吉、伊藤傳之助、總楽悦之助の総勢六人を選び京へ派遣した。

 それは飛耳張目の策と称されるものだった。長州藩は本州の西端に位置する地理的な不利を補うため、江戸や京に人員を配して情報の収集に意を用いていた。

 京の長州藩邸は三条河原町にあった。

 慶長八年(一六○四)、高須豊後元興を伏見留守居役に任じ引き続き京都留守居役に転じて常設とした。置かれた役職は京都留守居役、京都銀子方役、京都本締役、筆者役などであった。京都留守居役は京都々合人とも呼ばれ、大組二百五十石以下の藩士を以って任じた。延宝四年以来、京大坂の藩邸にも検使役が置かれ、京都留守居役の管掌の許に諸役の検断に当たった。

 伊藤俊輔たちは京藩邸に四ヶ月間宿泊したが、久坂玄瑞たちとはおおむね別行動だった。その代わり滞在期間中に梅田源二郎、梁川星巌、頼三樹三郎らと交わり、若い伊藤俊輔たちにとって知識を広げる好機で、目から鱗の取れる思いだった。

 久坂玄瑞と中谷政亮は京で大原三位と密かに会い、長州へ下向する意を受けた。その意向は直ちに藩へ伝えられた。ここに要駕策が始まることになる。だが当時の伊藤俊輔はそのような歴史の表舞台に出てこないし、久坂玄瑞のような重い役回りも与えられていなかった。

 安政五年九月、伊藤俊輔たちは萩へ帰って来た。京でそれなりの情勢探索を収集してきたが、伊藤俊輔たちは無視された。先に久坂玄瑞たちが報らせた大原三位下向の話に関心が集まっていた。すでに事態は進み吉田寅次郎が画策して参勤交代の途上、藩主を大原三位と共に入京させるとの密勅を得ていた。吉田寅次郎の目的は幕府の高圧的な態度に譲位をも考えた孝明天皇を思い止まらせ、御所の警護に長州藩が当たることだった。さらに吉田寅次郎は画策に没頭した。

 塾からの帰り道、後ろから坂道を駆け上がって来る草履の足音がした。

「俊輔、京はどうじゃった」

 吉田栄太郎が小走りに駆け寄ってきた。

「先生のおっしゃっていた通り、京には攘夷の空気が満ちておった」

 伊藤俊輔はそう答えて栄太郎と並んで歩き出した。椎原から塾までは半町余りだった。

「のんきなことを言うちょるの。久坂さんが八月の初めに大原三位の密書を藩に送って、それで藩論が沸騰しているのを知らんのか」

 覗き込むようにして吉田栄太郎は言った。

 伊藤俊輔はその言葉を聞きながら顔を俯けた。久坂玄瑞の京での行動力には目を見張るものがあった。しかし、ことが秘密を要するためか、伊藤俊輔たちに諮られることはなかった。

 先に京を去ったはずの久坂玄瑞は萩へ帰ってなかった。吉田寅次郎の許に置くのを恐れた藩により、蘭方医術研究という命を与えられて京から直接江戸へ遣わされていた。

「藩公が大原三位と伏見からご同行され駕籠で入京するということか」

 朧げに聞いていたことを伊藤俊輔は言った。それは『要駕策』といわれ、主に久坂玄瑞が謀った策略だった。大原三位とそのまま朝廷に参内し、藩主が攘夷献策の上奏を目指そうとするものだった。

「それじゃ。その議論があって幕府は警戒したのか、今では幕府が攘夷派を京から一掃しようと目論どるそうじゃ」

「幕府が?」

「そうじゃ。今度大老になった井伊掃部頭が画策しとるそうじゃ。先生は幕府を倒さなければならないとおっしゃっておられる」

 吉田栄太郎はそう言った。

 伊藤俊輔は強い衝撃を受けた。それまでも過激だった松下村塾の議論が、留守にしていたわずかな間に想像を絶するほどに過激になっていた。

 この時期、世間の議論はまだそこまではいっていない。外国艦船を追っ払えとの攘夷論は盛んだが、攘夷思想が尊王倒幕と結びつくにはいま暫く時を必要とした。

 伊藤俊輔たちが帰藩して京の情勢を報告する前に、吉田寅次郎は家老益田弾正に建白書を認めていた。

 建白書は三ヶ条からなっている。

   一、銃陣を盛んに興すべし、

   二、航海学を講ずべきこと、

   三、開港通商を起こし、士族をして海勢に慣れ、針路を覚えらしむこと。

 吉田寅次郎は攘夷を唱えながらも、しかしその行動原理は開国論者のものだった。その実、攘夷は幕府に対して朝廷の存在を覚醒させるために採った方便であった。安政元年米艦艇に密航を企てたのも西洋諸国の国勢を自分の目で見て、産業革命が如何なるものか見聞したかったからに他ならない。だが後に藩論が割れた時、松陰の弟子たちは頑なまでに攘夷論に拘泥することになる。

 前記建白書を送った際、吉田寅次郎は第一条の適任者として来原良蔵を推薦した。

 藩は吉田寅次郎の進言を聞き入れた。藩主毛利敬親は家老益田弾正らと密議し、政務役周布政之助を密使として上洛させることにした。

 そうした動きを察知するかのように、大老伊井直弼は老中間部下総守を上洛させ、京都所司代を指揮して洛中にうろつく勤王浪士を手当り次第に捕縛した。


  四、長崎へ

 安政五年十月、来原良蔵は罪を許されて御手当方御用掛に任じられた。

 御手当方とは藩の防衛を司る部署で、御用掛とは特別な役目を拝命したことを示す。具体的には長崎へ赴き、西洋銃陣を蘭国武官から直伝習することだった。来原良蔵は山田亦介らと進めていた藩兵制改革の役目に復されたのだ。長州藩はいつまでも有為の若者を逼塞させておくわけにはいかなかった。

 出立を控えたある日、来原良蔵は吉田寅次郎を訪ねた。

 両袖から腕を抜いて懐で組み、青く澄んだ空のもと悠然と松本村へやって来た。吉田寅次郎は禁固の刑に服しているため、屋敷からは一歩たりとも出ることは叶わない身の上だった。誰彼が吉田寅次郎を訪ねることも実は憚れることなのだ。自宅禁錮とは本来はそのような厳しい刑罰だった。したがって、役目を頂戴している藩士が松本村へ足を運ぶことは稀だった。そうした定法を承知の上で、来原良蔵は悠然と松本村へ出向いてきた。

 晩秋の風に袂を靡かせて、来原良蔵は散歩の途中で立ち寄ったかのようにふらりと松下村塾に姿を現した。着流しに袴を着けた五尺三寸のがっしりとした体躯の背を少し丸めて、生け垣の間からいたずらっぽく屋敷の様子を窺った。

 伊藤俊輔は塾の屋内の座敷にはいなかった。師匠が講義する間、部屋に座っているのは身分の高い家の子弟たちだった。中間の伊藤俊輔は濡れ縁の外、庭先に近所の百姓の子供たちと一緒に立って聴いた。伊藤俊輔はすぐに生け垣の外に立つがっしりとした姿を認めた。来原良蔵も庭先の伊藤俊輔を見付けてにこやかに微笑んだ。来原良蔵は生垣の側を通って玄関に立つとおとないを入れ、吉田寅次郎の妹みわが講義中の兄に取り次いだ。

 微禄な藩士の常として吉田寅次郎の自宅は広くない。暮し向きは質素そのものだ。下級藩士の暮らしの有り様は百姓と大して変わらない。松下村塾に客を迎える特別な部屋があるわけではなく、来客があると塾生は庭先へ出なけれればならなかった。

 来原良蔵が来訪した用件は二つあった。

 まずはじめに、藩命により長崎に洋式銃陣の直伝習に遣わされることになったことを吉田寅次郎に伝えて、併せて洋式兵法の伝習に来原良蔵を藩に建白書中で推挙してくれたことに対して礼を述べることだった。

 吉田寅次郎は来原良蔵の来訪を手放しで喜び、抱き入れるように部屋へ招くと再会の挨拶もそこそこに刎頸の友に腹蔵のない自説を滔々と述べ始めた。

「藩の兵制を速やかに洋式に改めなければならない」

 吉田寅次郎の物言いは常に激することがない。

 言葉は激しいが感情を露に話すのではなく、軍学を講ずるかのように的確な言葉を選び抜いて静かに語った。それでなくても長い顔が痩せて更に長く見えた。骨張った怒り肩も昔日のままだった。久しぶりの再会というのに冗談一つ言わないで持論を展開する吉田寅次郎に来原良蔵はある種の懐かしさを覚えた。

「もっともである」

 そう言って、来原良蔵はゆっくりと頷いた。

「銃陣も、洋式にすべし」

「しかと、その通りである」

「黒船を建造し、海軍力を創設拡大せねばならない。元就公以来受け継いできた旧来の兵学諸流儀では、夷敵とは戦えない。ことは盛功、急を要する」

 盛功とは良蔵の正式名である。来原良蔵は吉田寅次郎の意見に再度大きく頷いた。

「長州藩を強くし、以って勤王を断行しなければならない。爾来、日本は開国であった。鎖国は徳川家が便宜的に採った政策に過ぎない。それがため、西洋に大いに遅れを取った。その一事をとっても、徳川幕府は断罪されなければならない。政治は一人の英雄のためにあるのではなく、況や一族のためにあるのでもない。草莽のためにこそある」

 吉田寅次郎は名もない庶民のことを草莽と言った。既に『草莽崛起』という言葉をこの時期に吉田寅次郎は塾で使っている。驚くべきことに市民革命とでもいうべき概念をすでに語っていたことになる。

 しかし、来原良蔵の考えはそこまでには到っていない。あくまでも藩士による軍制の有り様を模索していた。来原良蔵はまだ幕藩体制の身分制度のしがらみから抜け出てはいない。しかし、それは来原良蔵だけが遅れているのではなかった。後年、長州藩の存亡を賭けた数次の戦を経て、はじめて上から下までそうした考えを獲得してゆくことになる。

 来原良蔵は吉田寅次郎の考えにある種の危険な匂いを感じた。先鋭的な剃刀の刃のような論理の鋭さが周囲の者たちを否応なく傷付けることになりはしないか。来原良蔵はある種の危惧を抱いた。

 とうとうと自説を述べる吉田寅次郎を遮るように、来原良蔵は右手を広げて突き出した。眉を顰めて吉田寅次郎の説を聞いていた来原良蔵はやむを得ず唐突に話の腰を折った。来原良蔵にはいま一つの用件があった。

「長崎の蘭国武官直伝習へ伊藤俊輔を同行させたいが、如何であろうか」

 来原良蔵がそう言うと、吉田寅次郎は我を取り戻したように強張った頬を緩めた。

「それは願ってもないこと。伊藤俊輔は久坂玄瑞同様に周旋の才に長けているが、学問も盛功承知の通り並々ならぬものがある。洋式銃陣の伝習に随行するは伊藤俊輔にとってこの上ないことである」

 来原良蔵の申し出に吉田寅次郎は即座に同意した。そして、庭先で高杉晋作と話し込んでいた伊藤俊輔を呼び寄せた。

「肥後に轟武兵衛という同志がいる。是非ともその者の許へ立ち寄られたし」

 そう言うと、吉田寅次郎は即座に伊藤俊輔のために紹介状を書いた。その紹介状が伊藤俊輔に対する吉田寅次郎の唯一の人物評となって今に伝わっている。

『軽卒であるが、我が輩に従って学んでいる者。才劣り、学いまだ幼稚。質直にして華無し。僕頗る之を愛している』

 松陰は伊藤俊輔を小物扱いにしているが、この評を額面通りに受け取ってはいけない。

 当時の修辞として、弟子を他人に紹介する場合は膝を屈するばかりに遜るものである。従って、吉田寅次郎の本意は最後の文句にある。

 伊藤俊輔は吉田寅次郎にとって愛すべき弟子だった。何よりも吉田寅次郎は彼の友人に伊藤俊輔を紹介した。他日、吉田寅次郎は伊藤俊輔に周旋家の才有りと評しているが、周旋とは人と人の間に立って物ごとの仲立ちをすることだ。政治家とまではゆかないまでも、いまにいう外交官ぐらいの才能はあるということだろう。政治家の才ありと認めたならば『宰相の器なり』くらいには評すものだ。いずれにせよ、吉田寅次郎の目に映った伊藤俊輔はその程度の愛すべき幼い弟子でしかなかった。

 松下村塾当時の伊藤俊輔の評を遺した人物がもう一人いる。名を富永有隣といい、伊藤俊輔を「ぬらぬらとした奴だった」と語っている。明治二十年前後の頃の話だ。

 富永有隣は手のつけられない乱暴者だったため、家族が藩に申し出て野山獄に押し込められていた。長州藩では罪人でなくても、そうした持て余し者を家族の要請で獄舎に入れることがあった。たまたま吉田寅次郎が野山獄に入牢した折りに知り合い、後に出獄した富永有隣の引き取り手がないため、憐れんだ吉田寅次郎が請人となり松下村塾の食客として暮らしていた。歳は吉田寅次郎よりも上だった。

 ある日、富永有隣は伊藤俊輔に命じて髷を結わせていた折り、毛髪を一本引き抜いたのでやにわに殴り飛ばした。すると、伊藤俊輔は怒るでもなく泣くでもなく、へらへらと笑って髷を結い続けたという。そうした逸話を紹介して「ぬらぬらとした奴だった」と伊藤博文の印象を語った。世間にはそうした愚かで厭味な男はいるものだ。

 毛髪を一本抜いた、というのが事実かどうか定かではない。たとえそうだとしても十七歳の伊藤俊輔を三十過ぎの男がいきなり殴り飛ばすとは尋常でない。そして伊藤俊輔はたとえ理不尽に殴られても、いわば師匠の客人に対して弟子が文句を言える筋合いではない。そうした無抵抗の者をいじめた過去を思い出し、三十数年後に明治政府の初代総理大臣となった男を殴ったことがあると吹聴して自慢したかったのだろう。その程度の男の評は取るに足らないが、注目すべきは伊藤俊輔が怒るでもなく泣くでもなく、曖昧な笑みを浮かべたことだ。もし武士の子弟であれば師匠の食客に対しても猛然と是非を正しただろう。しかし中間でしかない伊藤俊輔はそうした抗議をするでもなく、へらへらと笑って堪え忍ぶしかなかったのだ。

 吉田寅次郎も認めた周旋家の才能は、確かに伊藤俊輔に備わっていた。明治新政府で外交官から政治家へと活躍するが、伊藤博文は大久保利通のような強い指導力を発揮する怜悧な男ではなかったし、西郷隆盛や木戸孝允のような一言居士でもなかった。政府の実権を握った大久保利通は気難しい木戸孝允の意見を徴する場合、同じ長州閥の伊藤博文を用いて意向を問わせた。幕末・維新の動乱の余燼の漂う明治初年、壮士型の人物が多い中で伊藤博文は希有な調整・実務型の政治家として働き、強烈な個性を持つ下士あがりの政府要人や参議を説いて廻って合意を形成し、新政府を構築していった。

 そうした調整能力は成長期の試練によって培われたものと思われる。束荷村から逃散した当初はもちろんのこと、中間の身分を得てからも奉公時代の伊藤俊輔には筆舌に尽くし難い辛苦があったに違いない。顔色を窺うのは哀しい習性だが、物事には必ず表裏二面がある。良し悪しは試練を受け止める方にこそあるのだ。伊藤俊輔の場合はその辛い経験が人の心を取り結ぶ周旋能力を涵養し、後に政治家としての資質が開花する糧となった。


 安政五年十月、伊藤俊輔は来原良蔵の従者として長崎へ旅立った。

 相州の地から戻って国許での暮しはわずかに一年しか送っていない。その間にも京へ派遣され、松下村塾で勉学した期間は通算して半年余りしかない。いやそもそも吉田寅次郎が松本村で教えた期間そのものがほんの二年半ばかりでしかなかったのだ。後に多くの人材を輩出したことで広く知られる松下村塾そのものが短期間しか存在しなかった事実は驚くべきことであり、それほどに吉田寅次郎の教育家・思想家としての資質が傑出していた証といえるだろう。

 伊藤俊輔は嬉しかった。来原良蔵が長崎行きに伴ってくれたことが、である。

 旅に出ると気分がのびのびとするようだった。しかしその反面なぜ急に自分が手附として長崎へ行くことになったのか、伊藤俊輔は訝しく思った。だが天性楽天的なこの男は来原良蔵の腹の内をそれほど深く忖度しなかった。伊藤俊輔は概して自分の運命に柔順だった。手附として組頭に届けられると、来原良蔵の命に素直に従った。その思いに不安はない。相州で来原良蔵の人となりは良く知っていた。

 秋晴れの空の下、二人は玄界灘を望む海岸沿いの街道を急いだ。

「俊輔、と名を改めたのか」

 と、先を歩いていた来原良蔵が振り向いて笑顔を見せた。

来原良蔵も長年願っていた役目に就けて張り切っていた。伊藤俊輔は愛敬のある笑顔で頷いた。

「はい。松陰先生の許に弟子入りしてすぐに」

 そう答える伊藤俊輔に、来原良蔵は含み笑いをして再び振り向いた。

「名は符丁だ。符丁で人格が変わるわけではない。が、利助という名はいかにもまずかったな。利とは寅が最も嫌う語だ。名前が『利助』では具合が悪かっただろう」

 そう言うと、来原良蔵は声を出して笑った。

 高杉晋作と同じことを言っている、と伊藤俊輔は苦笑するしかなかった。

「この度、長崎行きに伊藤俊輔めをお連れ頂き、有り難う御座います」

 伊藤俊輔はそう言って頭を下げた。

 中間の自分を従者に選んだ来原良蔵の意図をはかりかねた。連れて行くべき小者は城下にいくらでもいた。従者としてでも同行を願い出た藩士も少なからずいたに違いない。長崎はこの国で唯一海外へ窓を開く時代の先端を行く地だった。世間では長崎へ行って来たというだけで、蘭方医の看板を掲げて町医を開業する者さえいるほどだった。出来ることなら来原良蔵の真意を聞きたかった。

「俊輔が改まって礼を言うほどのことではない。そこもととは気心が知れている。それに、何かと俊輔は気が付くから、拙者が助かるんじゃ」

 そう言うと、来原良蔵は両袖から腕を抜いて懐中で組んだ。

 街道の両側に松の大木が整然と並んでいる。その梢を震わして浜風が冬の予兆を孕んで吹き渡ってゆく。袂を風に靡かせて風と遊ぶかのように悠然と来原良蔵は歩く。その大柄な後ろ姿を見詰めて伊藤俊輔は心もち頭を下げた。それは心からのお礼のつもりだった。

 先を行く来原良蔵は青空に浮かぶ雲と涯てしない海に視線を遊ばせていた。そうしながらも、薄い唇を引き締めて思いは萩へと飛んでいた。口にこそしなかったが、伊藤俊輔をはじめ若者たちを吉田寅次郎の許に置いておくのに不安を感じていた。

 確かに吉田寅次郎は教育者としても卓越した人物だ。家学の継承者として幼い頃から過酷なほどに山鹿流兵学を教え込まれ、十一才にして藩公の御前で山鹿流兵法を講義し、十九才にして明倫館の教授となった。まるで鋭利な剃刀のような頭脳をしている。その学識と時代を洞察する眼力に於いて藩内に並び立つ者はいない。しかし、その一途さが現実社会へ向けられた時、その卓論は弟子たちを死へ追いやる凶器と化す。松下村塾に吉田寅次郎を訪ねた時、来原良蔵は漠然とそんな危うい不安を抱いた。しかし、その危惧をおくびにも出さず、来原良蔵は悠然と先を歩いた。

「見てみよ。のう俊輔、海は広いぞ」

 叫ぶようにそう言うと、来原良蔵は街道の右手に広がる玄界灘を顎で示した。

「世間は海の如しじゃ。多くの人と交わり人を識ることが、これからのそこもとの学問だ。人心面の如しという、人により考えは異なるものじゃから」

 そう言うと、「のう」と後ろを振り向いてにっこりと笑った。

 二人は長崎へ行く途中、肥後へ立ち寄り轟武兵衛と面会したという記録は何処にもない。細川家の文書にも何も遺されていない。吉田寅次郎の紹介状は使われなかった可能性が高いと断ぜざるをえない。


 十月に伊藤俊輔たちが萩を後にして間もない翌十一月、突如として松下村塾は閉鎖された。そして十二月二十六日、吉田寅次郎は再び野山獄に幽閉された。

 原因は吉田寅次郎が企てた老中間部要撃事件にあった。それは京の攘夷派を一掃するために大老井伊直弼の命により老中間部詮勝を派遣する、という報が京からもたらされたことに端を発した。間部詮勝は京都所司代を増強し、新たに市中見回組を創設しようとした。京からもたらされた報に接すると、吉田寅次郎は直ちに間部詮勝を暗殺することを決めた。

 そしてこともあろうに、藩に対してクーホール砲三門、百目玉砲五門、三貫目鉄空弾二十、百目鉄玉百、合薬五貫目を要求した。書面で正式に届けられた要求に藩は驚愕し恐怖すら覚えた。吉田寅次郎の言動は常軌を逸している。老中を暗殺するのに堂々と武器弾薬を藩に要求するとは誰の目にも狂気の沙汰でしかない。たとえ藩が受け入れたとしても、大量の武器弾薬をどうやって京まで秘密裡に運ぶというのか。

 藩の誰もが吉田寅次郎を正気かと疑った。間部要撃企ての一件が幕府に聞こえたならば、どのような咎が藩に及ぶか知れない。藩首脳は吉田寅次郎に危険な匂を嗅ぎとり震え上がった。即座に吉田寅次郎は弟子たちから隔離され、再び野山獄に幽閉された。

 だが吉田寅次郎がじかに藩に要求したのは自然の成り行きだった。当時、松下村塾には頼みとする弟子が残っていなかった。双璧といわれた弟子の一人、久坂玄瑞は藩に命じられて蘭学医術研究のため出府している。いま一人、高杉晋作も遊学のために藩命で江戸の昌平校に入っている。既に松下村塾の吉田寅次郎は手足をもがれていたのだ。

 江戸へ出府している弟子たちの許へ、牢獄に幽閉された吉田寅次郎からしきりと決起を促す文が送り付けられた。しかし、吉田寅次郎の思いとは裏腹に高杉晋作や久坂玄瑞は送り付けられる文面が過激なのに狼狽した。師匠の現実を無視した純粋に論理的な叱責にうろたえた。思い悩んだ末、高杉晋作は決起する時節を得ていない旨の返事を認めて送り、吉田寅次郎に自重を求めた。だが吉田寅次郎は激烈な絶望の文を獄中から書き送り、

『僕は忠義をするつもりだが、諸友は功業をするつもりか』

 と、高杉晋作たちに絶縁の言葉を浴びせた。

 もとより吉田寅次郎は正気だった。ただ自分の思想に忠実なだけ、現実が視界の彼方に消え去っていたに過ぎない。その上、自身の命を度外視していた。己の行動が草莽崛起の呼び水にさえなれば命はいつでも捨てる覚悟だ。そうでもしなければ幕府は倒せない、自分はそのための捨て石になる。吉田寅次郎の強い信念が異常とも思える言動を可能にしていた。しかし吉田寅次郎の言動が先鋭的になればなるほど、人々は吉田寅次郎から離れていった。そしてその思想の激しさは幕府の知る処となった。

 安政六年(一八五九)五月二十五日、吉田寅次郎は江戸送りとされた。

 萩から江戸へ行くには陸路と海路とを問わず、いずれにせよ必ず山口を通る。その萩と山口を繋ぐ往還路は今も往時の姿を留めている。萩の町から南に下り阿武川沿いの街道を山懐へ行くと、やがて一本の松が立っている。その木の緑蔭で吉田寅次郎は歌を詠んだ。

  帰らじと思ひさだめし旅なれば ひとしほぬるる涙松かな


 その頃、伊藤俊輔はまだ長崎にいた。

 来原良蔵とともに出島からほど近い外国交易を商う商人町に投宿していた。

 毎朝、来原良蔵は長州藩御用商人の店へ出掛けた。

 幕府は蘭国人から直に習うことを禁じていたため、表向き来原良蔵が蘭国武官から教えを乞うことは出来ない。購入した武器の操作方法を蘭国の駐在武官から聞くという名目で、出島の木戸が開く時刻になるとその店の者に連れられて行ってもらうのだ。長州藩の要請に応じて蘭国武官から洋式兵法の直伝習を取り持ったのは長崎の商人だった。

長州藩は長崎の交易商人を通じて大量の銃器を購入していた。彼等にとっては上客である。直伝習は幕府から厳しく禁じられているが、長州藩の頼みとあれば無碍に断わるわけにはいかなかったようだ。

 出島は外国人の居留のために造られた海岸の石垣から突き出た扇形をした人工島だ。今は周囲もすっかり埋め立てられて長崎市街地の一角に埋没しているが、当時は長崎の沖に浮かぶ小島だった。出入り口は本土と繋る石垣の上に築かれた一筋の道しかなく、途中に木戸が設けられて幕府の厳重な管理支配下にあった。江戸時代を通じて、出島は厳格な鎖国令の唯一の例外として西洋へ開いた窓だった。しかし、幕末ともなると出島以外にも外国人の居住は許されるようになり、さしもの厳格を極めた幕府の夷人管理も時代とともに弛緩していった。

 蘭国にとっても長州藩は大切な武器取引きの顧客だった。武器はいつの時代でも戦争によって革新的な長足の進歩を見る。当時、欧州ではナポレオン・ボナパルト以来の戦乱が終わり、各国に旧式武器が大量に余っていた。軍隊が廃棄した武器の処分先として洋式兵器に無知な日本は願ってもない顧客だった。長州藩が購入した数千丁の銃もすでに西洋軍隊では廃棄された先込め式のゲベール銃だ。雷管を装備した弾を用いて火縄こそないものの、様式としては火縄銃の範疇を出ていない。当時の各藩が購入した洋式軍艦にしても中古の洋式帆走商船に砲を積んだだけの代物に過ぎなかった。西洋ではスクラップとして潰すしかない旧式兵器でも、日本に持ち込むだけで膨大な利益をもたらした。

 蘭国同様、長崎の交易商人も長州藩の兵制改革を担う重臣来原良蔵を粗末に扱うわけにはいかなかった。なにしろ長州藩は武器商人にとって上客だ。来原良蔵は出島の交易屋敷で待ち、そこへやって来る蘭人武官から直接西洋兵制全般の話を伺った。伊藤俊輔は屋敷の書生部屋で主人の聴講が終わるのを待った。そうした日々が一年近く続いた。

 安政六年(一八五九)八月、伊藤俊輔は来原良蔵と勇躍長崎を発って萩へと向った。

 来原良蔵は駐在蘭人武官から授かった洋式兵制を下敷きに、長州藩兵制を抜本的に改革する青写真を胸に抱いていた。伊藤俊輔も来原良蔵の従者として通ううちに西洋の息吹を嗅いだ。朧げながらも西洋諸国の長足の進歩を遂げた異質な文明の存在が理解できた。それは十八才になった伊藤俊輔にとってこれからの人生を決定づける経験だった。

 この四年後、伊藤俊輔は仲間とともに英国へ密航することになる。命を賭してまで西洋へと駆り立てたのも長崎直伝習による西洋文化への憧憬があったからに他ならない。

 萩に帰ると二人は直ちに長崎直伝習の復命に登城した。伊藤俊輔は城郭の長屋門の中間溜りに控えて、来原良蔵だけが政庁へ上がった。

 中間足軽と藩士との間には厳然とした身分の隔たりがあった。刀にしても伊藤俊輔には小振りなものを一振りだけ腰に差すことを許されたに過ぎない。大小二本を差せるのは藩士だけだった。

 中間溜りは城郭の入り小口、長屋門にあった。六畳ばかりの広さに仕切られた部屋が大手門の両側にあり、従者として藩士の登城に付き従って来た小者たちが主の用向きが済むまでそこで控えた。

 溜り部屋では主人の格式に従って中間足軽の格式も自然と定まっている。来原良蔵は密用祐筆から御手当方御用掛となり長崎へ赴いた。当然ながら格式は低くない。主家の序列に倣って伊藤俊輔は部屋の上座に座らされた。すぐに好奇の眼差しが伊藤俊輔に注がれた。

「伊藤殿、」

 と、座の暖まる暇もなく、三十年配の小肥りの男が膝を擦って近づいてきた。

「噂に聞けば、長崎には丸山という良い所があると聞くが、如何であった」

 そう言う男の目が期待に大きく見開かれている。

 中間溜りの話題は大抵他愛ない世間の噂話か、この種の女の話と相場が決まっている。一斉に十数人の好奇に満ちた視線が伊藤俊輔に集まった。

 長崎は鎖国令を発している江戸時代にあって、唯一外国に向かって開かれた窓だった。特殊な用向きのある者以外には長崎へ出掛けることはない。長州人のみならず当時の日本人は一度も長崎を見ずに生涯を終える者がほとんどだった。色めきたった中間たちの気持ちが向けられた視線に籠っていた。

 伊藤俊輔は彼らの期待に添いたかったが、実は丸山へは一度も行っていない。主人が行かない楼閣へ手附の中間が一人で勝手に登るわけにはいかない。それに伊藤俊輔の懐には銭もなかった。なにより来原良蔵は艶福家ではない。むしろ厳格な武士であった。歌舞音曲に興じるよりも、寸刻を惜しんで勉学に励む。伊藤俊輔もそれに付き合わされ、蘭会話をそれなりに聞き齧った。

「のう、京の遊里と比べてどうじゃった」

 新手の男が伊藤俊輔の側へにじり寄った。

「京の遊里へ行ったことはないけえ、比べることは出来ん。じゃが、丸山は天国のようじゃった。入り小口に思案橋という石橋があってのう、そこで思案するんじゃ。楼へ上がろうか、いやよそうか、とな」

 そう言って、伊藤俊輔は周囲の好色そうな眼差しを見回した。

「それで、どうじゃった」

 と、上擦った声が伊藤俊輔を促すように聞いた。伊藤俊輔は声のした方へゆっくりと振り向いた。

「あたかも天国じゃ」

 呟くようにそう言って、伊藤俊輔はニヤリと笑った。

「そうであろう、そうであろうとも。それで、それで女はどうじゃった」

「じゃから、丸山は天国じゃった、と言うちょる。良い所とは聞いちょるが、まだ行ったことはない」

 そう答えると、周りを取り囲んだ男たちはあからさまに落胆した。

 小半刻ばかりを雑談のうちに過ごしていると、吏員が伊藤俊輔を呼びに来た。

「伊藤俊輔はおるか。城中西溜りへ来られよ」

 年老いた吏員に付き従って伊藤俊輔は城内へ上がった。

 溜り部屋に通されると来原良蔵の顔があった。伊藤俊輔は廊下に座って平伏した。

「ここへ」

 と言って、来原良蔵が手招きした。

 来原良蔵の前に一人の藩士が伊藤俊輔に背を向けて正座していた。二人の位置関係は来原良蔵が上座にあたった。伊藤俊輔は背を向けた藩士の遥か後ろへ一歩だけ座敷に入って正座した。

「いやいや、俊輔ちこう寄れ。そんな所に座っちゃあ話が出来ん」

 来原良蔵は再び手招きした。伊藤俊輔は袴を擦って膝で歩いた。

「これが、いま話した伊藤俊輔だ」

 そう言って、来原良蔵は若い藩士に伊藤俊輔を紹介した。

 相手の藩士は振り向いて小さく頭を下げた。伊藤俊輔も頭を下げて、その藩士を上目に見た。眉尻が上がり目元涼しく、口を横一文字にひいていた。容貌は整い全体から受ける印象は役者のようですらあった。体躯はそれほど大きくない。身長は来原良蔵よりも低く、五尺二寸の伊藤俊輔とそれほど違わないか。しかし端座しているその藩士からある種の威圧感を覚えた。体中から気を発しているような風圧が伊藤俊輔に伝わった。

「俊輔、これは義兄の桂小五郎だ。江戸藩邸大検使役として萩と江戸を忙しく往来している。昨日江戸より戻ったばかりだが、またすぐに江戸へ発つということだ。これより、そこもとは桂小五郎の配下となり、江戸へ随行せよ」

 すでに取り決めたことのように、来原良蔵はそう言い放った。

 大検使役とは行政職の「監理」や「監督」を行う検使役を取り纏める要職で、後に「政務」を司る重役に累進する若い藩士が経験する役職だった。

 伊藤俊輔は改めて桂小五郎を見た。名は知っていた。生家は法光院の裏筋にある。頭脳明晰にして文武両道に優れ、その上美男と評判だった。

 桂小五郎は天保四年(一八三三)藩医和田昌景の次男として生まれた。九才で隣家の七十石桂家の養子となったが、間もなく養夫婦が相次いで亡くなったため生家で育った。武は江戸の三大道場の一つと謳われた斎藤弥九郎道場で修行し、免許皆伝となり塾頭を勤めた。文は明倫館で学び成績優秀者のみが入れる宿舎生の資格を得ていた。後に桂小五郎が松陰の弟子に加えられるのも、藩校明倫館で松陰吉田寅次郎から軍学を教わったからに他ならない。一時期、吉田寅次郎の叔父玉木文之進が開いた松下村塾へ通ったこともあった。

 検使役とは諜報活動を主な役目とした。大検使役は飛耳張目の策を支える長州藩の重要な役職だった。年は来原良蔵の方が四才上だが、桂小五郎の妹春を妻にしていたため、姻戚関係から桂小五郎は来原良蔵の義兄に当たる。当時、桂小五郎二十六才。長州藩は能力のある若い下級藩士を大胆に登用していた。

「下両組山下新兵衛組の中間、伊藤俊輔めにございます。よろしくお願い申し上げます」

 伊藤俊輔はそう言って畳に這い蹲った。

「いやいや、僕の方こそ宜しく」

 と、桂小五郎は自分のことを僕と言った。相手に身分を感じさせない配慮があった。

「拙者も長崎直伝習の復命を片付け次第、後を追って江戸へ下るつもりだ。後日江戸で会おう。だが、京の祇園辺りで女をからかっていると追い付くやも知れぬぞ」

 そう言って、来原良蔵は桂小五郎にいわくありげな視線を送って朗らかに笑った。桂小五郎は戸惑ったように顔を俯けた。

 城から下がると、さっそく中間組頭の屋敷へ向かった。来原良蔵の手附として長崎随行の報告を今朝済ませたばかりだが、再び桂小五郎の手附として江戸へ出府することを届けなければならなかった。

 堀ノ内から武家屋敷の続く白壁沿いの道を東へ向かい、土原の一角軽卒の住まう町割に到った。組頭は城へ詰めていたため書役に目通りを求めた。

「長崎から戻ったと思うたら、すぐさま江戸かの。お主も運の良い」

 憐れみを含んだ声で書役はそう言った。そして、髪を引っ詰めてやっと小さな髷を結っている小柄な老人は癖のように筆先を舌で嘗めた。

 中間足軽は殆どすべてといえるほど畑地を持ち、百姓仕事にも励んでいる。役目を頂戴するのは有難いが萩の町屋敷で仕えるのと、他所へ出向くのとでは有り難さが違った。

「まっ、可愛い子には旅をさせよ、若い時の苦労は買うてでもするものってな」

 決まり文句のようにそう言って、帳面に『伊藤俊輔儀、桂小五郎様手附』と記した。


  五、江戸へ

 松本村椎原の家へ帰り、夕餉の後に江戸出府のことを両親と養祖父母に知らせた。

 行灯のほの暗い明かりの中で琴は俊輔の顔を見詰めた。目の前のわが子が何処か遠くへ行ってしまったような、頼もしくも寂しい思いがした。

 萩の町に逃散同然に出て来てまもなく、十才のわが子を児玉糺の屋敷へ奉公に出した。父十蔵は蔵元付き中間の水井家に元々は代勤役として奉公に上がったが、当主が成長した今は庭手子として屋敷の雑用を一手に引き受けている。生活はその昔も今も楽ではない。

 幼い我が子に児玉家で与えられた役目は賄い方の使い走りに過ぎなかった。

 初めて奉公に上がる朝、母は幼いわが子に「可愛がられる子におなり」と言った。軒先まで出て膝を折り、両手で小さな肩を抱き、幼い目を覗き込むようにして「可愛がられるには、陰日向なくご奉公に励むことです」と申し渡し、わが子は元気に頷いた。その時のいたいけな様子が琴の脳裏に甦った。その我が子が藩命により相州警護として相州へ下り、その後京へ派遣され、帰ったと思ったら長崎へ来原良蔵の従者として随行した。今また若い藩士の従者として江戸へ出府するという。家で休む間もなく広い世間を駆け廻るわが子の成長が嬉しかった。

 江戸への旅立ちは九月五日だった。

 萩の町がまだ寝静まっている払暁に二人は出立した。

 桂小五郎と伊藤俊輔は秋めく御成り道を山口へ上った。一息つく間もなく山口を通り過ぎて、宮下からは山陽道をひたすら歩いた。桂小五郎は強靭な足腰でサッサトウ先を行く。街道を歩き慣れた無駄のない足運びだった。伊藤俊輔は額に汗を浮かべて後を追った。

 桂小五郎との道中は来原良蔵の時と比べて余り楽しいものではなかった。来原良蔵よりも何かと気を遣った。だがそれは桂小五郎が特別に変っているというのではない。ただ役目がら桂小五郎は始終辺りに気を配っている。街道を歩きながらも桂小五郎は擦れ違う者や同宿した者にそれとなく鋭い視線を放った。桂小五郎の発する鋭い気が移ったわけではないが、伊藤俊輔も自然と気が抜けなかった。

 萩をたって六日後の夕暮れに京の町へ入った。桂小五郎の京の定宿は三条河原町の池田屋だった。その近くに長州藩邸があるが、桂小五郎は藩邸には向かわなかった。

 宿に上がると桂小五郎は荷を置き、伊藤俊輔を連れて街へ出た。勝手知った庭のように桂小五郎の足はどんどん狭い小路を進んだ。表通りから一歩路地へ入ると迷路のようだった。両側から突き出た低い軒が鬩ぎあうように路地を暗くしていた。二階建ての家並の続く一画へ、桂小五郎は伊藤俊輔を連れて行った。

 不意に立ち止ると、桂小五郎は黙ったまま一軒の格子戸を引き開けた。

「伊藤君、ここだ」

 桂小五郎に促されて、伊藤俊輔も家の中へ入った。間口はそれほどでもないと思えた家は奥に長い鰻の寝床のような造りをしていた。客商売の店だろうとは察しがつくが、雰囲気からして遊郭ではない。伊藤俊輔にも郭の知識はあった。

「まあ、桂はん。おこしやす」

 玄関に入ると長い廊下の奥から四十年配の女将が声とともに出迎えた。桂小五郎はそれに頷き、腰から鞘ごと抜き取った差料を手渡した。

「幾松はんをお呼びしまひょ」

 不思議な笑みを浮かべて、女将は伊藤俊輔に目を配りながらそう言った。

 その幾松が桂小五郎と関わりのある女だろうとの察しはついた。幾松は天保十四年に若狭の小浜藩士生咲市兵衛の二女に生まれ、祇園で売出中の芸者だった。時に十六才。

「うむ、頼む」

 ことさらに、桂小五郎は素気なく頷いた。

 六畳ばかりの部屋に二人を案内すると、女将は廊下を引き返した。

「伊藤君、もうじき幾松という祇園芸者が来る。引き合わせておきたい。」

 そう言うと、桂小五郎は床柱を背にして座った。自然と伊藤俊輔は下手に畏まった。伊藤俊輔の後ろに高窓があり、そこから障子越しに明かりが差し込んでいた。

「お今晩わ」

 廊下から女の声がして、障子が開けられた。にこやかな顔で一瞬部屋を見回して女はしんなりとお辞儀をした。

「幾松、これは朋輩の伊藤俊輔君だ。今後とも見知っておいて貰いたいと連れてきた」

 桂小五郎がそう言うと、幾松は緊張していた表情を崩した。

 伊藤俊輔は男の前で幾松ほど安らいだ表情を見せる女を知らなかった。来原良蔵が祇園を持ち出して桂小五郎をからかったのはこのことかと納得した。

 幾松は小柄な体をしていた。華やかな芸者の着物姿が良く似合い、艶やかな色香が匂った。その艶やかさは何処から来るのだろうか、と伊藤俊輔は女の横顔を盗み見た。瓜実顔に柳眉が形よく、切れ長の目と美形だが艶やかというほどではなかった。

「幾松どす。伊藤はん、どうぞよろしゅう、お願い申し上げます」

 幾松は伊藤俊輔の視線に気付いたのか、含み笑いをしながら頭を下げた。凝視していた伊藤俊輔は心のうちを見透かされたように目を伏せた。そして、声だと心の中で思った。幾松の声にはそのまま小唄でも歌うような艶があった。

「で、どうだ。何か変わったことはないか」

 桂小五郎は幾松にお役目で尋ねるように聞いた。幾松は少し拗ねたような目をした。

「変わったことと言わはっても。前にお越しやした時から、それほど日にちも経っていませんしぃ」

「それもそうだな。夕餉の膳を支度してくれないか」

「いや、まだでしたん。それをはよう、お言いやし」

 そう言うと、幾松は座を立った。

 桂小五郎と伊藤俊輔はそこで夕餉を摂り、伊藤俊輔だけ一足先に宿へ戻った。


 翌朝早く桂小五郎は宿へ戻ると、二人は何事もなかったかのように京を後にした。

 東海道を下るにつれて桂小五郎の周囲へ配る警戒が一段と厳しくなった。道中、殆ど口も利かない。鈴鹿峠を越えれば坂下宿だ。街道筋に家並が見えてきて気分が晴れやかになってくる。

いつものことだが、宿場町に着くと桂小五郎は決まったように飯屋の二階に上がった。伊藤俊輔にも上がるように勧めた。二階には女がいる。飯盛り女が春を鬻ぐことを幕府は一軒につき二人まで許したが、当然のことのように女を二人しか置いていない飯屋はなかった。

 二階に上がると桂小五郎は女を二人とった。二人とも二十歳過ぎた近在の百姓女のようだった。小柄で細身の女の一人の腕を取ると、残りのやや小肥大柄な女の背を伊藤俊輔の方へ押した。そして、桂小五郎は遊び慣れた男の仕草で女の肩を抱くようにして部屋へ消えた。伊藤俊輔は年増女と廊下に残され、所在なく化粧灼けした女の顔を見た。

「どうするのさ」

 と言って女は袖から出した腕を組み、険しい目で伊藤俊輔を見た。

「そうだな、腹が減ったな」

 伊藤俊輔はそう言って曖昧に笑った。

「そう。色気よりも食い気の年頃なのね」

 そう言って、女は詰まらなさそうに視線を廊下に落とした。が、次の瞬間女の体は宙に軽々と浮いた。伊藤俊輔は体を沈めて女の臀に手を回すと、米俵を肩に担ぐ要領で女を担いだ。足で障子を開け、肩に担いだ女を運び込んだ。女は驚きの余り声一つ立てなかった。

 部屋の隅の畳んだままの布団に女を下ろすと、伊藤俊輔は手早く袴を脱ぎ下帯を取った。女は驚いたように仰向けになったまま見詰めていたが、伊藤俊輔の忙しく動く手元を見詰めてくすくすと笑って着物の裾を両手で開いた。

 行為はあっという間に終わった。逆上していた憤怒が女の体の中で果てた。

「力が強いのね」

 女は伊藤俊輔の下から聞いた。伊藤俊輔は女から離れて下帯を拾った。

「力が強いのは、生まれつきだ」

 立ち上がると、伊藤俊輔は下帯を巻きながら答えた。女は上体を起こして襦袢の前を合わせ着物の裾を閉じた。

「お武家様のお供で、初旅なのかい」

 女はそう言った。伊藤俊輔は女の顔を見ながら座った。

「いや、初旅ではない。なぜそう思う」

「そう思っただけさ。遊び慣れていない様子だから」

 そう言うと、女は伊藤俊輔に微笑みながら立ち上がった。

「そうそう、おなかが空いていたのよね」

 伊藤俊輔を見下ろしてそう言うと、女は流し目を残して部屋から出て行った。

 食後、伊藤俊輔はその女を再び抱いた。女に誘われたといった方が良いような交わりだった。伊藤俊輔は女に挑発され、そして瞬く間に果てた。年増女に弄ばれたのだ。

 一刻ばかりして階下から桂小五郎の呼ぶ声がした。

「支度は良いか。出掛けるぞ」

 声に促されて、伊藤俊輔は階段を下りた。

 外に出ると、桂小五郎は真面目な顔で伊藤俊輔に聞いた。

「女から、何か聞き出したか」

 その問いの意味が分からなかった。伊藤俊輔は判然としない表情で首を横に振った。

「宿場の女は、街道の旅人をいつも見ている。どの様な者たちが街道を下ったか、上ったか。どの様な評判がこの近辺に立っているか。暮らし向きは良くなっているか、悪くなっているか。そうしたことを相手に気取られぬように、うまく聞き出すのも仕事だぞ」

 そう言うと、桂小五郎は伊藤俊輔を振り返った。

それは責めるような眼差しではなく、年若い弟に言い聞かせる兄のような温もりが感じられた。伊藤俊輔は劣情に衝き動かされて女と乱暴にただ交わっただけの自分を恥じた。

「草莽が時代を作る。その草莽を見ずして諸策を語るは風呂桶の水を見て大海を語るが如しだ。良いね、伊藤君」

 諭すようにそう言うと、桂小五郎は何事もなかったかのように街道を歩いた。


 安政六年十月二日、桂小五郎と伊藤俊輔は江戸桜田の長州藩上屋敷に着いた。

 出府の道中、桂小五郎は伊藤俊輔に伝馬町の牢に繋がれている吉田寅次郎の身に危機が迫っていることを語って聞かせた。桂小五郎が急遽国許へ帰ったのもそのためだった。

 そしてまた来原良蔵が江戸へ出府するのも、吉田寅次郎の身を案じてのことだった。本来なら兵制改革の任に就いている来原良蔵が萩を離れるのは許されない。長崎で仕込んだ直伝習の成果を藩兵制改革に生かす重要な役務が待っている。実際に来原良蔵は山田亦介と共に着々と藩の兵制改革に邁進していた。しかも海軍造船所設立の建白の一件もあった。だが来原良蔵は親友の急を聞いて国許のすべての仕事を放擲した。あらゆる役務を投げ出し、諌める上司の意見を無視して江戸へ旅発つ覚悟だった。

 政務役山田宇右衛門に談じ込むと、来原良蔵の気迫に押されたかのように渋々ながら出府を許した。行くなと言ったところでまた新たな脱藩騒動を引き起すだけだと悟ったようだ。だが承諾するだけでは他の藩士たちに示しがつかない。そこで老練な政務役らしく江戸での用向きを命じた。それは江戸藩邸の重臣たちから海軍造船所設立の同意を取り付ける、という厄介な仕事だった。それなら来原良蔵がこの時期に江戸へ出府しても、在郷の藩士たちから批判されることもない。もちろん自分も他の重役から来原良蔵に甘い、との謗りを受けないで済む。老政務役山田宇右衛門の亀の甲よりも年の功を示す措置だった。

 桜田の江戸藩邸に着くと、桂小五郎は有備館の御用掛を命じられた。

 有備館とは長州江戸藩邸の敷地内にある施設で、天保十二年に藩老村田清風の進言により江戸藩邸詰め藩士の文武鍛錬場として建てられた。

 ここ数年来、桂小五郎は藩邸に住まわなかった。以前から江戸にある時は斎藤弥九郎道場の一室に住み込んでいた。それは表向き道場の塾長の役目としてであったが、むしろ情報収集を役目とする大検使の勤めを果たす上で、藩邸に住んだのでは長州藩士としてあからさまに過ぎて、御役目遂行に支障があったからだ。この度は藩邸内の施設ではあるが、屋敷とは別棟の誰もが出入りしやすい有備館の一室で起臥することにした。伊藤俊輔も有備館入り口横の中間部屋に荷を解いた。

 桂小五郎はあらゆる伝を頼って吉田寅次郎の罪を減ずべく幕府に働きかけた。伊藤俊輔は桂小五郎の活動を助けるために有備館の上り部屋でやって来る藩士たちの話し相手をしながら終日連絡役として常駐した。来客があればその応対をし、暇な時は書物を読み手習いをした。

 桂小五郎たちが萩をたってから十日後に来原良蔵も江戸へ向かった。当時の江戸・萩間は徒歩でおよそ一月を要する。来原良蔵は九月半ば過ぎに萩を発ち、十月の半ば過ぎに江戸に着いた。京藩邸で仲間たちと痛飲することもなく、他にも寄り道をしなかったようだ。

 来原良蔵が江戸で命じられた役は有備館塾長だった。当然のことながら来原良蔵も有備館に寝起きした。そして日々桂小五郎のもたらす情報を沈痛な面持ちで聞いた。

 来原良蔵は伝馬町の牢獄に繋がれている吉田寅次郎を思うと心が痛んだ。吉田寅次郎を見捨てた、との忸怩たる深い悔恨があった。

 間部要撃の企てを知った折りに、来原良蔵は野山獄の吉田寅次郎に絶交状を送った。それは逆上した自分の過った行為だっただろうか、と来原良蔵は自分を責めて気分は鬱積した。いや、米艦艇密航の企てを決意した折りに吉田寅次郎はすでに覚悟をしていたはずだ。身命を賭してでも密航して西洋の兵法とその国力を知りたかったのではなかったか、と自らを慰めたりもした。

 実際に吉田寅次郎が師と仰ぐ佐久間象山ですら「まず開国をせよ。そして国を富まし軍を強くして後、攘夷を実行せよ」と諭した。来原良蔵からすれば吉田寅次郎の行動はそうした方針で藩を動かそうと粉骨努力している同志の苦労を蔑ろにするものでもあった。

 志士が攘夷論をふりかざしているのは幕府を追い詰めるための便法だったはずだ。現実には夷国艦船をわが国の時代遅れの軍備で追い払えないことは、吉田寅次郎は百も承知しているはずだ。そして老中間部詮勝が京へ上り攘夷派浪士を弾圧したとしても、それは時代を転回するためには避けて通れない犠牲だということも十分に承知していたはずだ。何もかも誰よりもすべて承知しているはずの男がなぜ一人で死地へと赴くのか。吉田寅次郎狂したか、と来原良蔵は憤慨した。だが、憂国の情が人一倍篤い男の心情が分からないでもなかった。そして、何よりも二人は刎頸の友だった。

 有備館入り小口の伊藤俊輔の部屋は溜まり場のようになっていた。昌平校遊学で出府した高杉晋作をはじめ江戸の松陰門下生が毎日のように顔を出した。彼等は牢に繋れた吉田寅次郎に差入れる金子の都合に奔走していた。牢役人や獄卒は公然と袖の下を要求した。獄内の扱いは差し入れの金品の高で雲泥の差があった。

 当初こそ来原良蔵や桂小五郎が手持ちの金を用立ててくれたが、かれらの懐もすぐに底をついた。伊藤俊輔や高杉晋作に自由になる金は一文もなかった。その折り、江戸にいた白井小助が自身の長船祐定の差料を道具屋に売り払って七両を用立ててくれたりした。

 久坂玄瑞はすでに江戸にいなかった。伊藤俊輔たちと入れ違いに、西洋学門所官費生となり国許へ帰った。そして間もなく、高杉晋作にも帰国の命が下った。あたかも不測の事態が起こるのを防止するかのように、藩は江戸にいる松陰の弟子たちを国許へ追い返していた。そして、藩の措置をなぞるかのように、日を追って桂小五郎のもたらす吉田寅次郎を取り巻く状況は悲観的なものへと傾いていった。

 当初は誰も吉田寅次郎が極刑になると思いもしなかった。江戸送りとなった夷国船密航未遂だけの罪状なら悪くても遠島止まりと思われた。前例から推測すれば、せいぜいが他所預かりの罪でしかない。吉田寅次郎本人もそう思っていた節がある。その証拠に、高杉晋作たちに遠島で十年ぐらいのんびりと過ごすのも良いかも知れない、と獄中から文を書き送っている。

 だが取り調べの白州で、吉田寅次郎は問われもしなかった間部要撃計画を論述した。自殺行為とも受け取られかねない自白をしたことになるが、吉田寅次郎は白州で彼の攘夷論を述べるつもりだった。かつて密航未遂で自訴した折り、浦賀奉行所では洋学の必要性を説く吉田寅次郎の言に幕吏たちは耳を傾けた。この度も幕吏たちは耳を傾けるものと思っていた。しかし、吉田寅次郎は見通しを誤った。間部要撃の謀を聞き幕吏たちは驚き憎悪した。老中間部詮勝は井伊大老の腹心だった。しかも、吉田寅次郎の若い志士たちへの影響力もすでに密偵の調べで幕府の知る処となっていた。

 十月二十七日早朝、裁きがあった。下された断は斬首だった。

 直ちに伝馬町獄刑場で刑が執行された。

  親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何と聞くらむ

 吉田寅次郎の辞世である。享年三十歳。

 吉田松陰刑死の悲報が藩邸に届いた。かねてより伝馬町に手配していた長州藩医者尾寺新之丞と松下村塾門下の藩士飯田正伯により有備館に伝えられた。桂小五郎と伊藤俊輔は脳天を斧で叩き割られたような強い衝撃を覚えた。覚悟を決めていたとはいえ、いざその報に接すると悔し涙が流れて止まなかった。松下村塾の双璧と謳われた二人は萩で松陰の死を知ることになる。久坂玄瑞は萩にいたが高杉晋作は萩への帰途にあり、大坂から中ノ関へ寄港する廻船に乗ったばかりだった。

 江戸にいた来原良蔵も所用で出掛けていた。来原良蔵は江戸藩邸の重臣たちへの根回しも首尾良く果たし横浜へ頻繁に出掛けている。藩に洋式兵制と最新の武器を導入すべく、横浜の夷国貿易商館を訪ね歩いていた。そればかりではなく無数に停泊する夷国艦を事細かに観察した。来原良蔵は萩に洋式艦船造船所の建設すべし、と藩に建策していた。

 処刑の報に接するや、桂小五郎は飯田正伯に松陰の遺体を引き取るべく画策した。処刑当日に桂小五郎は飯田正伯に命じて伝馬町の獄舎へ赴かせた。これまで差し入れで顔見知りになっていた獄卒の金六に若干の金子を与えて、遺体引き取りの折衝を伝馬町の役人にさせたが聞き入れられなかった。

 業を煮やした飯田正伯は翌二十八日に自ら伝馬町の役人と直接交渉に当たり、金子も十分に握らせた。それが功を奏したのか、獄中死骸の始末に困るという口実に無縁仏を葬る小塚原回向院に昼過ぎに送るので、そこで引き取るようにとの内々の沙汰があった。

 昼下がりに飯田正伯が藩邸にその報を持って帰ると、桂小五郎と伊藤俊輔はすぐさま松陰の遺体を引き取りに行くことにした。桂小五郎たち三人は役人の到着を回向院で待った。沈痛な面持ちで誰一人として口を開く者はなかった。昼過ぎに引き渡すと言っていたが、遺体が届けられたのは陽も大きく傾き夕暮れ間近だった。

松陰の遺骸は四斗樽のなかに押し込められていた。『面色猶生けるが如く……』とある。首を拾うと縫髪が乱れて顔にかかっていた。身体は丸裸だった。刑死者の衣類は獄卒たちが余禄として剥ぎ取るのが習わしになっていた。

 桂小五郎たちは咽び泣いた。さっそく髪を結び顔の血を洗った。その水を流した柄杓の柄で首と身体を接ぎ合わせようとしたが、役人がそれを拒んだ。斬首で刑死した者の首を死後とはいえども繋ぐことは許されなかった。万が一にも検死改めがあったなら、首を接合した咎が自分に及ぶことを恐れたためだった。

 せめても裸の体に衣類を着せようと、飯田正伯は黒羽二重の下衣を桂小五郎は襦袢を脱いで遺骸に着せ、伊藤俊輔は帯を解いてそれを結んだ。松陰先生を裸のまま永眠させるのは忍びなかった。

 死骸を甕に納めると、橋本左内の墓の左方に埋葬した。そして、運んで来た石を墓碑と見立ててその上に立てた。その若い尊攘学者橋本左内は二十日ばかり前に同じく斬首された。生前二人に面識はなかったが、彼らは志を同じくしていた。

 率先垂範。吉田寅次郎は死によってすら、弟子たちを教育した。思いを遂げることがいかに過酷な運命に人を導くか。そして、士たる者はいかに身命を賭して目的に立ち向かうべきか。吉田寅次郎は自らの死を以って示した。獄中に来たるべき死を覚悟して書き遺した『留魂録』は飯田正伯の手を通して萩へ送られ、門下生によって回読された。その書の冒頭には次の歌が記されている。

  身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも 留置まし大和魂

 吉田寅次郎の死は弟子たち一人一人に決意を固めさせた。萩の町へ辿り着いた高杉晋作は、国許に届いていた松陰斬首の報に接した。吉田寅次郎の刑死を知ると高杉晋作は周布政之助に手紙を書いている。その中で『松陰先生の仇は必ず討ち果たす』と記した。周布政之助は村田清風の系譜に連なる改革派の政務役だった。

 翌日から、桂小五郎が変わった。

 内に秘めていた闘志が剥き出しになった。ひたすら吉田寅次郎の身を案じていた重しが取れたかのように、桂小五郎は伊藤俊輔を従えて攘夷派浪士たちと会合を重ねるようになった。それは諜報活動の領域を超えて倒幕の動きへと踏み込んでいた。

 頻繁に桂小五郎は水戸浪士と接触した。水戸は徳川の御三家でありながら、『大日本史』の編纂に尽力した二代藩主水戸光圀以来、藩風は勤王だった。来原良蔵は桂小五郎を危ぶんだ。一夜、有備館塾長の部屋に桂小五郎を呼んだ。

「小五郎、よう出歩いちょるが、何処へ行っちょるんじゃ」

 来原良蔵は相好を崩して、笑うように言った。

 桂小五郎はその様子に安堵したように頷いた。すると、急に厳しい目をして来原良蔵は威儀を正した。

「誰と会うちょるんか知らんが、小五郎、命は大事にせんとな。貴殿まで井伊大老に睨まれてしまうぞ」

 その鋭い言葉に桂小五郎は表情を引き締めた。目が剣客の光りを放った。

「来原さん、幕府は倒さにゃいけん。もはや腐っちょる」

 桂小五郎の一途な物言いに、来原良蔵は曖昧に頷いた。

 吉田寅次郎は病原菌のように周囲の者たちを吉田病に感染させる。口を開けば「攘夷」だ「倒幕」だと物騒極まりない。直情径行もほどほどにしないと命がいくらあっても足りない。

「倒す倒す言うても、どうやって倒す。それに夷国の脅威もあるぞ。国が内戦状態になっては、朝幕両方にとって損じゃないか」

 来原良蔵は揶揄するような口吻で具体的な方途について聞き返した。言葉を発する以上はそれを実行する確実な方途が用意されていなくては「虚言」と批判されても仕方ないだろう。

「夷国に対しては、攘夷を断行します」

 桂小五郎は激高したように言葉を放った。

「のう小五郎よ、先年隣国清が英国の陸戦隊に破れたのは存じておるじゃろう。それがため領地を割譲され、租借地まで取られた。今の我が藩の軍事力では、攘夷は出来ぬ。戦えば必ず破れる。まずは国を開き力を蓄え、軍艦を造り兵制を洋式に改めねばならぬ」

 と、来原良蔵は説いて聞かせるように持論を述べた。

「それは分かっています。しかし、松陰先生の仇を討たなければなりません」

 そう言うと、桂小五郎は俯いて涙を流し絶句した。

 伊藤俊輔は二人の話を部屋の隅に畏まって聞いていた。桂小五郎の心情は伊藤俊輔にも痛いほどよく分かる。いますぐにも幕府を相手に討ち入りを果たしたい心境に変わりはない。しかし冷静さを取り戻すと、自分の考えは来原良蔵の方により近いと思った。

「いかに斉藤道場の免許皆伝というても、剣客桂小五郎一人では戦は出来ん。それこそ寅次郎が言っていた草莽の崛起を俟たねばなるまい」

 来原良蔵の口吻はあくまでも沈着冷静だった。

 しかしそれがよほど気に障ったのか、桂小五郎は憤怒の表情を刷いた。

「来原さん、決して命を粗末には致しません。しかし、僕には僕の使命があります。それをどうしてもやり遂げなければなりません」

 そう言うと、桂小五郎は一礼して立ち上がった。

 来原良蔵はもはや止めなかった。伊藤俊輔は去って行く桂小五郎を座ったまま見送った。来原良蔵は腕組みをし、部屋の片隅で小さくなっている伊藤俊輔に視線を転じた。

「小五郎は一途じゃのう。そこもとを桂に預けたが、却って危ないかも知れぬ」

 来原良蔵は呟くようにそう言った。


 江戸の町に不穏な空気が満ちていた。

 安政六年六月横浜開港以来、江戸市中の物価は高騰を続けていた。

 永く続いた鎖国策により国内は需給均衡が保たれ物価は比較的安定的に推移していたが、外国貿易の拡大により需給均衡が崩れて江戸市中では品不足と物価高が起っていた。

 翌年三月、五品江戸廻送令が出され、雑穀、水油、蝋、呉服、糸の五品目については地方から直接横浜へ送ることを禁じ、一旦江戸を回送するように商人に命じたが、その効果はまったくなかった。また、天保年間末期より始まったお伊勢参り『ええじゃないか』は全国に広まり、閉塞感に満ちた幕藩体制に漠然とした不安が高まった。もはや時代の胎動を押し止めるには弾圧による締め付けでも、穏健な路線でも済まない処まできていた。

 明けて万延元年(一八六○)一月十九日、幕府は一隻の機帆船を米国に遣わした。品川沖から薪炭の積み込みに浦賀へ立ち寄った後、サンフランシスコを目指して出港した。船名は咸臨丸。オランダから買い入れた三百八十トンの螺旋式推進帆走船だった。艦長勝燐太郎で正使木村摂津守らを乗せて条約の批准書を交わすための使節として、日本人による最初の太平洋横断だった。

 桂小五郎の水戸浪士との交わりはいよいよ濃くなった。伊藤俊輔も従者として桂小五郎の傍にあって、自然と水戸浪士とも識り合った。彼らの言動は日に日に激しくなった。桂小五郎の動きと軌を同じくするように、強圧的な伊井大老の弾圧政策による閉塞状況を武力によって打開しようとする動きが台頭して来た。 

 万延元年三月三日、珍しく雪の降りしきる朝、登城途中の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺された。水戸と薩摩の浪士たちの仕業だった。安政の大獄といわれ、恐怖政治を断行した張本人も自らの血の海に殪された。

 四月三日、来原良蔵は有備館塾長を辞して国許へ帰った。洋式兵制の必要性を江戸藩邸の重役たちに説いてまわりその意見が聞き入れられた。江戸での仕事は終わった。後は国許へ帰り藩兵制改革に着手しなければならない。それに進水式が来月に迫っていた。

 萩の小畑浦の戎ケ鼻岬にある軍艦製造所で長州人の手による最初の木造洋式軍艦を作っていた。その艦は後に庚辰丸と命名されることになる。洋式帆船の建造に是非とも立ち会いたかった。

 その一方で、有備館を後にする来原良蔵は江戸に残す桂小五郎たちが気になった。尊王攘夷に突き進む桂小五郎たちをそのまま放置しておくことに一種の脅威を感じた。が、かといって桂小五郎に苦言を呈しても無駄なことは分かっていた。後ろ髪を曳かれる思いで、来原良蔵は江戸を後にした。来原良蔵が去った後、有備館の塾長には桂小五郎が就任した。

 この時期、桂小五郎は伊藤俊輔を伴って数度にわたって水戸へ赴いている。幕吏の目をかいくぐって水戸へ行き、水戸藩士と密談を重ねた。元来、水戸藩は御三家の中でも他の尾張や紀州とは立場が異なった。将軍を出さないことと引き替えに、参勤交代の義務を解かれて常に江戸城に詰めた。そのため俗に副将軍と呼ばれたが、藩の空気は光圀以来勤王だった。毛利家も元就以来勤王を以って任じ『大膳大夫』との称号を朝廷より賜っている。水戸毛利両藩は勤王において近い。話し合うほどにやがて、その成果が一つ実った。

 七月十八日夜、江戸下谷の鳥八十という料理屋で桂たちは密談した。長州藩からは桂小五郎、松島剛蔵らが顔を出し、水戸藩からは西丸帯刀、岩間金平、園部原吉、越惣太郎らが出席した。そこでの相談はある密約についてだった。翌月八日人目を避けるため、萩から松島剛蔵が艦長として回航し江戸品川沖に停泊していた長州藩所有の丙辰丸の船中に彼らは再び集まった。そこで『成破の盟約』が交わされた。それは長州と水戸の分業を約したもので壊すこと、つまり殺戮は水戸が受け持ち、成ることつまり政治的蝶略を長州が受け持つという盟約だった。

 井伊直弼亡き後、幕府は独断専行を排すため幕閣による集団指導体制を採った。そして幕閣の主導権を老中安藤信睦が握った。そして世情を騒然とさせた井伊の力による弾圧に代わって、尊攘派を抑えるために安藤信睦が中心となって画策した妥協策は公武合体だった。

 公武合体とは文字通り朝廷と幕府が手を結ぶことによって反幕府を押え込み、四方丸く収めるという朝廷抱き込み策だった。その具体策は孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の正室として降嫁させ、幕府の威信を保つとする政略結婚だった。安藤信睦は尊皇派を宥めるために、厚かましくも強引な策略を幕府は朝廷へ申し出た。

 和宮には六才の折りに婚姻を約した宮がいた。その相手は有栖川熾仁親王だった。が、それを承知の上で幕府老中久世広周、安藤信正らは公武合体を強行した。政略結婚により公武一和、国内一致をなし然る後に攘夷を決行する、という名目で朝廷を説き伏せ従わせた。しかし、その欺瞞性が尊攘派浪士の怒りに油を注いだ。

 折りも折り、老中たちの公武合体策を補足する新たな策が長州藩直目付長井雅楽からもたらされた。それは『航海遠略策』と称され、内容は朝廷と幕府は反目し合うのではなく、朝廷が幕府に開国を命じて国内の意志を統一し、海軍力を増強し以って貿易を盛んにすれば世界を圧倒することができるというものだった。長井雅楽は大組士中老長井泰憲(馬廻役三百石)の長男として文政二年(一八一九年)五月に生まれた。母は家老福原利茂の娘で長州藩でも名門中の名門の嫡男として育ったが、四歳の時に父が他界したため幼子相続の定めにより家禄を半減させられた。後に小姓として藩主の近くに仕え、奥番頭などを歴任した。長井家屋敷の近くには前原一哉や周布政之助などの屋敷があった。

 万延元年五月十五日、長井雅楽は意気揚々と朝廷に「航海遠略策」を記した建白書を上奏した。現実を重視した「航海遠略策」は開国と公武合体を融合させた論理で幕府にとっては好都合だった。それが徳川幕府の世にあって、長州藩が中央政界に影響力を行使した最初の出来事だった。

 しかし討幕を目指す桂小五郎たちにとっては許し難い愚挙として目に映った。元より桂小五郎たちは「松陰先生の敵を討つ」という決意で固まっている。幕府と朝廷の手を握らせる航海遠略策は利敵行為以外のなにものでもない。しかも長州藩の重役の直目付が献策したとあって、桂小五郎たちに強い衝撃を受けた。長井雅楽が長州藩を代表していると水戸浪士たちに受け取られたなら、桂小五郎たちの命は危ういものとなる。狂信的な攘夷論者から裏切り者として背後から斬りつけられかねない。

 生来、桂小五郎は慎重な男だった。斎藤道場の免許皆伝が嘘かと思えるほど、周囲に細心の注意を配った。それは対人関係において如実に示された。この時代武士は一言居士を身上とし、言い訳をしたり逃げ隠れしたりすることを潔しとしなかった。人から後ろ指をさされれば名を惜しんで腹を切って命を捨てた。しかし桂小五郎の身の処し方はそうした武士の生き方とは異にした。

そもそも桂小五郎は武士の出自ではない。藩医和田家に生まれ、九歳の折り藩士桂家に養子に出されたが間もなく養父母が相次いで亡くなったため和田家で育った。医師の家で育ったためか剣客として修行を積んだが剣技などの力業に頼らなかった。

あたかも患者の見立てを行う医師のように、世間の変化や相手の立ち居振舞いを観察した。伊藤俊輔も桂小五郎に従ううち、医師が患者を見立てるように人を観る習癖を身に付けた。ことに藩士でもない伊藤俊輔にとって、人を見る鑑識眼を養うことは生きてゆく上で必要不可欠だった。そうした眼が養われていなければ、巷にあふれる大言壮語に命を賭す浪士の口車に乗って無用な乱闘に巻き込まれ命を落とすことになる。

 長井雅楽が江戸で脚光を浴びていた当時、久坂玄瑞は再び萩から出府して江戸藩邸にいた。万延元年二月、江戸から国許へ戻された久坂玄瑞は郷里で松陰の訃報を聞き、墓碑を在萩の塾生たちと建てている。その年の四月、西洋学問の習得を藩に命じられ、江戸の蕃書取調所教授内堀達之助の門下に入り、藩邸から通っていた。

 松下村塾の双璧と称された高杉晋作はその当時は萩にいた。国許に帰った翌年の万延元年一月に嫁を娶っている。相手は名を雅(まさ)といった。年は十六才。色白瓜実顔の評判の美人で山口町奉行七百石井上平右衛門の二女だった。当時としては当然のことだが、婚姻は高杉晋作が希望したことではなかった。それはお家安泰を願う父小忠太の計らいだった。嫁を娶らせれば暴れ馬の晋作も少しは尻が落ち着くだろうと考えた。高杉晋作にしては珍しく父親の命に従順に従って妻を娶り、藩から役職として明倫館舎長を戴いた。高杉晋作は二十一歳になっていた。

 しかし一月と経たないうちに高杉晋作は飽きあきしてしまった。父親が手を回した明倫館舎長に収まり、自宅で新妻と不慣れな新所帯の主人を演じてみたが、どうにも腰の据わり具合が悪い。嫁を娶った翌二月には明倫館舎長を勝手に辞して軍艦教授所に入学し、さらにその翌月には軍艦丙辰丸で江戸へ出てしまった。ただ航海の間ひどい船酔いに悩まされたため「船は体に合わぬ」として、江戸に上陸するや直ちに軍艦教授所を辞めている。

無役になった高杉晋作は江戸藩邸でぶらぶらと過ごし、久坂玄瑞たちが国事に奔走しているのを冷ややかに眺めていた。しかし八月に突如として藩に願い出て暇を賜り、『試撃行』と称して信州に佐久間象山などを訪ねた。その後萩へ帰郷して、高杉晋作は心ならずも彼の人生において最も平穏な日々を萩で過ごしている。

 伊藤俊輔は桂小五郎の命を受けて江戸の町を走り廻っていた。桂小五郎と共に有備館で寝起きし、諸藩の浪士たちと密会し攘夷活動を資金面などで支援した。


 ある夕刻、桂小五郎は桜田藩邸に呼び出された。政務役周布政之助から妙な用向きを命じられた。藩から流失したある人物を随藩させよというものだった。

 市井から人材を求め藩が召し抱えるなら、桂小五郎にとって造作ないことだ。かつて経験があった。嘉永年間幕府の大船建造禁止令が解け、藩でも洋式造船技術の習得が不可欠との判断から早速桂小五郎に命が下され浦賀の船大工を集めたことがある。

 しかし、この度の役向きは船大工を随藩させるのとは勝手が違った。相手は幕府や宇和島藩、加賀藩から高く評価され禄を頂戴している高名な蘭学者だった。

 実はその男を藩に随身させようと工作したのは桂小五郎だった。吉田寅次郎の遺体を千住小塚原の回向院の墓地に埋葬した帰り、その寺の境内で女囚の腑分けが行なわれていた。藩医の家に生まれた桂小五郎は興味があって覗いて見物した。すると小刀をとって腑分けを行ない、覗き込む江戸の蘭方医たちに詳しく説明する男がいた。見物人に聞けばその男は幕府蕃書調所の教授手伝いであり、しかも講武所の教授として洋式兵法を講じているという。解剖にあたって参考文献として使っていた『解剖手引書』もその男が蘭書を翻訳して意見を加えたものだという。さらに驚いたのはその男が長州人だということだった。

 桂小五郎はその男を知らなかった。彼は日本海に面した萩から遠く離れた周防国の鋳銭司村の村医者だった。長州藩からすれば一領民に過ぎない。しかし、彼の非凡な学識を知ると幕府に召し抱えられては大変だと考えた。講武所教授は雇いだから筋道を立てて交渉すれば辞めさせることはできるが、幕臣に取り立てられてからでは手出しができなくなる。

 桂小五郎は藩邸に帰ると、数人の重役にそれとなくその男のことを話した。重役の命によりその男を藩で召し抱える格好にしなければ桂小五郎が独断で隋藩させることは出来ない。当時の桂小五郎には藩の人事に口出し出来る力はなかった。

 翌朝早く桂小五郎は出掛ける支度をした。そして、いつものように伊藤俊輔を呼んだ。

「伊藤君、これから訪ねるご仁は、ちょっと厄介だ」

 伊藤俊輔が塾長部屋へ入ると、桂小五郎は脇差しを腰に差している処だった。藩の正使として出掛けるのか、紋付き羽織に袴を履いていた。伊藤俊輔の身なりはいつもの平服に武者袴を付けただけのものだった。

「どの様なご仁ですか」

「うむ」

 と言って、桂小五郎は剃り痕の青い顎を撫ぜた。

「長州人らしいが、藩は彼の仁を知らなかった。吉敷郡鋳銭司村の村医者で、名を村田蔵六という。面体は異形だ。年は三十と六。藩の命により随藩を乞いに行く」

 問わず語りにそう言いながら、桂小五郎は玄関へと向かった。剣術修業で身に着けた擦り足のためか、廊下を歩く桂小五郎の足音は聞こえない。

「輝かしいばかりの経歴だ。漢籍は豊後の広瀬淡窓に学び、蘭学を大坂の緒方洪庵に学んでいる。一時期長崎へ赴いて蘭学を深め、大坂に戻って適塾の塾長になった」

「ほほう、適塾の塾長ですか。それなら、三百石ですね」

 と、伊藤俊輔も草履を履きながら言った。

 幕末期、諸侯は競って学問に熱を入れた。江戸大坂の名高い学者を召し抱え、家臣に学問をさせるのが流行となっていた。城下で家臣に教えないまでも、江戸屋敷に高名な学者を召し抱えるだけでも藩の名誉となった。名の知られた塾の塾長経験者ともなれば召し抱える報酬は百石を下だらないが、数ある私塾の中でも適塾は破格の扱いを受けた。伊藤俊輔が三百石と禄高を口にすると桂小五郎は顔を歪めた。それが妥当な相場だった。

「藩のお偉方はそれほど出せないと申す。長州人であれば、藩のために微禄でも喜んで帰参すべきである、と。やれやれ、面倒な交渉になりそうだ」

 そう言うと、桂小五郎は手にしていた差料を腰に落した。

 門を出ると桂小五郎は颯爽と先を歩いた。その後を追い掛ける伊藤俊輔の額には汗が浮いた。初夏の日差しが埃っぽい道を白く照らしていた。

 目指すは番町新道一番町。

 安政元年、村田蔵六は幕臣篠山家の屋敷を買い取り、今はそこで蘭学を教えていた。塾は名を鳩居堂といった。鳩居堂の名は既に広く聞こえ、門弟は全国から集った。しかも村田蔵六は自宅で私塾を開く傍ら、九段にある幕府の蕃書取調所の教授手伝いであり、作られたばかりの築地の講武所の洋式兵学教授をも兼ねていた。雇いでありながら幕府からつごう二百石に相当する厚い手当を頂戴している。また、宇和島藩から二百石の禄を頂戴しつつ、加賀藩からも手当をもらって蘭書翻訳の役目をも仰せ遣っていた。俸給だけを見れば村田蔵六は長州藩の政務役にも匹敵する待遇を受けていることになる。

「適塾で学んだ後、一時期国許へ帰り、村医者をしていたらしい」

「それで、はやったんですか」

「いや、周防鋳銭司村での評判はすこぶる悪い。寡黙にして無愛想」

 そう言うと、桂小五郎は小さく笑った。

「その後、宇和島藩から乞われて出仕している。その折りに蘭書を頼りに蒸気船を作り、見事に船を宇和海に浮かべて伊達侯の御前で動かしたという。村田蔵六というご仁は希代の天才かも知れぬ」

 そう言うと伊藤俊輔に振り向いて頷いた。

吉田寅次郎の「理」を説く才能とは違った型の、「道理」を実践する当代随一の学者というべきだろう。伊藤俊輔は驚いたように再び「ほほう」と声を上げた。

「いや、蘭学だけではない」

 と、更に桂小五郎は言葉を継いだ。

「先年、これからは蘭学ではなく英学ということで、横浜の米国博士ヘボンと称する医師に就いて英学を修めたそうだ」

 そう言い、呆れたというように桂小五郎は微笑んだ。

伊藤俊輔もその桂小五郎に合わせて頷いた。

「そのご仁は英学まで習得されているのですか」

 頷きながら、伊藤俊輔は呟くように「英学ですか」とぽつりと言った。

 かつて、吉田寅次郎は弟子たちに蘭学の必要性を説いた。広く知識を世界に求めなければ、国を閉ざしている間に遅れてしまった西洋に到底追い付くことは出来ない。繰り返しそう言ったが、遂に吉田寅次郎本人は蘭書を紐解かなかった。

 吉田寅次郎は蘭学を学べと勧めたが、しかし今は蘭学すらも古臭いものになっているようだ。これからの時代は英学なのか、と伊藤俊輔は驚きとともに心に刻んだ。

 新道一番町の鳩居堂は繁盛していた。笈を負って地方から出て来た生徒たちで、整然と並べられた下足は玄関の外まで溢れていた。敷居の外から来訪を告げると若い書生が出て来た。

「拙者は長州藩士桂小五郎である。これに控えるは朋輩伊藤俊輔である。藩命により、村田蔵六殿にご面会に上がった。何卒お取り継がれよ」

 桂小五郎は威儀を正してそう言った。

 桂小五郎と伊藤俊輔の関係は主従である。しかし、桂小五郎は常に伊藤俊輔を人に朋輩として紹介したし、日常そのように接した。

「ははっ。しばし待たれよ」

 そう言うと、書生は奥に引っ込んだ。間もなく先刻の書生が出て来ると、桂小五郎たちを玄関脇の小部屋へ案内した。掃除が行き届かないのか、妙に埃っぽい部屋だった。

 一刻半も、そこで桂小五郎たちは待たされた。奥では延々と講義が続いているのか、時折師弟の問答がその小部屋まで聞こえて来た。桂小五郎は怒るでもなく不機嫌になるでもなく、腕組みをして平然と目を閉じていた。幾度となく伊藤俊輔は立ち上がり奥の様子を窺った。やがて、午になった。

「何のご用件でしょうか」

 一人の男が部屋へ入って来ると、いきなりそう聞いた。講義疲れか声が嗄れている。自己紹介も時候の挨拶もなかった。その単刀直入さが却って清々しいほどだった。

 異形、と桂小五郎から聞かされていたが、その男の顔は正に異形だった。額がことのほか広い。ほとんど顔の半分近くが額だった。その下に目鼻口が圧縮されている。それに、太い眉の端がぴんと跳ね上がっていた。後年、村田蔵六の面体を高杉晋作は『火吹き達磨』と評した。それは言い得て妙だった。

「拙者は、」

 と、桂小五郎が名乗ろうとすると、村田蔵六は無愛想な表情のままに、

「既に、書生から聞いています」

 と言って、村田蔵六は右手で桂小五郎を制した。

「私は忙しい。ご用件は手短にお願いしたい」

 と言う不愛想な物言いに、さすがの桂小五郎も少なからず心外そうに顔を歪めた。

 自分は藩命で来ていると告げてある。その自分に対してそう言うのは藩に対して礼を失していないだろうか、と桂小五郎は憤然とした。

「藩命である、ご随藩願いたい」

 桂小五郎はそう言って、形ばかり頭を下げた。すると、村田蔵六は心外そうに口を尖らせて、わずかに首を傾げた。

「私は長州人だが、長州藩士ではない。従って、私に藩命は何の意味もない」

 そう言うと村田蔵六は立ち上がり、考え込むように腕を組んだ。

「明日は忙しくて時間が取れない。明後日の午後に来られよ。結論を出しておきます」

 それだけ言うと、村田蔵六はそそくサトウ奥へ入ってしまった。

 取りつく島がないとはこのことだろう。驚くほどの無愛想だった。しかし、怒るというよりもどこか清々しかった。門を出ると桂小五郎と伊藤俊輔は顔を見合わせて苦笑した。

 約束の日の午後、桂小五郎と伊藤俊輔は新道一番町の鳩居堂へ出掛けた。玄関先で来訪を告げると、前と同じく小部屋に通され、そして待たされた。

 桂小五郎は待ちながら、帰藩後の役職と待遇についてどの様に説明しようかと心を痛めた。村田蔵六を召し抱えるのに、藩が用意した待遇は到底相応しいとはいえない。重臣に村田蔵六の現在の立場と収入を口を極めて述べたが、藩人事の秩序を盾に取って藩邸の重役は僅かな扶持しか出せないとの返答を繰り返した。桂小五郎はそのことに憤慨し、心を痛めた。

 日脚が伸び夕暮れが迫る頃、村田蔵六は現れた。部屋へ入るとすぐに膝を折った。

「ご用向きの件、承知しました」

 と開口一番、村田蔵六は言った。

 その余りのあっけなさに桂小五郎は「えっ」と声を上げた。

「早速のご承諾、誠にかたじけない。お礼を申し上げる」

 桂小五郎はそう言って、形式通り深々と頭を下げた。

「それでは、これにて」

 それだけ言うと、すぐに村田蔵六は片膝を立てた。

「あっ、いや、待たれよ、村田殿。誠に申し上げ難いことだが、貴殿のご扶持は、」

 と、桂小五郎は慌てて待遇の説明をしようとした。すると、村田蔵六は太い眉を寄せて桂小五郎に視線を落とした。

「扶持はいかほどでも。ただ暮しが立てば良い」

 眉一つ動かさず、村田蔵六は無愛想に言った。

 村田蔵六の関心事に世俗的なものが入り込む余地はなかった。恬淡としているというよりも、禄高や世間的な地位や名誉には無関心といった方が良い。だが桂小五郎には後々齟齬を生じないためにも藩の処遇を説明しておく必要があった。

「藩が用意できる待遇は、僅かに二十五俵にて候。今、村田殿が頂戴しておられる待遇とは比較にはなり申さん。十分の一ばかりかと、」

桂小五郎はそう言って、表情を歪めた。すると、村田蔵六は浮かしていた腰を心持ち下げた。村田蔵六は世情には無関心だが、数字の誤謬を見逃すことは出来なかった。

「正確には、」と、村田蔵六は尾の跳ねた太い眉を寄せた。

「およそ十八分の一でござる。しかし、飢えなければよろしい」

 それだけ言うと、村田蔵六は立ち上がった。

「細かい話は、書生にして下さい。佐々木という者です」

 そう言い残すと、見送りもせずに村田蔵六は立ち去った。すでに村田蔵六の脳裏から二人の存在は消えていた。

 次の講義が始まるのか、生徒たちが廊下を続々と奥の部屋へと向かっている。

 入れ替わりに顔見知りの書生が部屋へやって来た。

「先生は国許へ戻られると言っておられます。いつどのようにして、ですか」

 佐々木も村田蔵六流で無駄口は一切たたかない。それかといって不快ではない。無愛想なのではなく、実用本位とでも言うべきなのだろう。

「当分の間、桜田藩邸の有備館にて洋式兵学を藩士に講義して頂きたい」

「当分、とは」

「国許で建設中の博習堂の準備が出来るまで。年内には整うでしょう」

「先生のご身分はいかがなりましょうや」

 と、佐々木は聞いた。その問に桂小五郎は一瞬言葉を呑んだ。村田蔵六の経歴に照らすなら藩士として遇すべきである。それも重役級の役職を以て任ずべきが適当であるが、しかし保守的な重役たちはそれを許さなかった。鋳銭司の村医者に過ぎない者はいかに厚遇したとしても「卒」以上には出来ない、と桂小五郎の進言を退けた。

「博習堂御用掛です。身分は卒」

 『卒』とは足軽中間に相当する身分である。『士』の配下に属して藩士の命に従う。従って藩に直属する家臣ではなく、行政体系からいえば藩士に仕える中間と同じ小者に過ぎない。

「分かりました。かように、先生に伝えます」

 そう言うと、佐々木は両手をついて頭を下げた。桂小五郎たちもそれに倣った。

 鳩居堂を後にすると、桂小五郎は伊藤俊輔を辛そうな目で振り返った。

「僕は恥ずかしい。天下の学者を招聘するというのに、藩はこの体たらくだ」

 桜田の藩邸へ歩を進めながら、桂小五郎にしては珍しく愚痴ともつかない重臣批判を口にした。概して、桂小五郎は藩に従順な男だった。下級士族から登用された若い藩士が藩そのものを相手にして暴れ回るにはまだよほどの覚悟が必要な時代だった。ただ、桂小五郎の身辺に自由な空気が漂っていたのは、藩組織から離れた医師の家で育ったせいかもしれなかった。

 桂小五郎の後を歩きながら、伊藤俊輔は別のことを考えていた。伊藤俊輔の立場は藩医の家に生まれ育った桂小五郎とはまた異なっている。身分の低い中間で、しかも桂小五郎の従者という立場では直接藩政に関与することは思いも寄らない。しかしその反面、中間という身分にはそれなりに窮屈さを感じさせない伸びやかさがあった。伊藤俊輔にとって藩の存在は桂小五郎が意識するほどの重みを持ってはいなかった。

「いいじゃないですか、桂さん。村田先生はお受けなさったのですから」

 そう言って伊藤俊輔は桂小五郎を慰めた。伊藤俊輔にとって大切なのは体面ではなく実質だった。桂小五郎は伊藤俊輔の言葉に頷いた。

「変わった人物だと聞かされていたが、そうではない。道理の勝った人に過ぎない」

 桂小五郎は呟くように言った。その桂小五郎の村田蔵六評に、伊藤俊輔も即座に頷いた。「来原様は山田亦介殿といま萩で東奔西走されている。藩の兵制を洋式に一新するために、まさしく獅子奮迅のお働きだ。村田蔵六殿にご助力頂ければ、お仕事も捗ることだろう」

 そう言う桂小五郎の表情に、満足そうな笑みが浮かんだ。

 村田蔵六の随藩は当時国許で来原良蔵、山田亦介らが中心となって推し進めている兵制改革を一層強力に推進するためのものだった。

 後年の慶応二年(一八六六)六月、長州藩の存亡をかけた第二次征長戦争(長州藩では『四境の役』と呼んだ)が勃発する。元治元年(一八六四)の第一次の場合は戦わずして長州は白旗を掲げて恭順の意を幕府に示した。しかし第二次の場合では長州藩は四方を包囲する十数万もの徳川幕府軍と敢然と戦った。その折に長州藩の首相格になっていた桂小五郎は村田蔵六を長州軍の参謀に抜擢し、石州口の采配を彼に任せている。桂小五郎は村田蔵六の才覚を正しく評価し、後の世に大村益次郎の名を歴史に刻ませた。鳩居堂で最初に出会った瞬間に、桂小五郎は剣客の鋭い直感で村田蔵六という男の才覚を見抜いていた。


 万延元年、桂小五郎の行動は水面下に終始した。

 長井雅楽の航海遠略策は朝廷を動かし、幕府の好感触を得ていたがまだ長州藩の藩是にはなっていなかった。桂小五郎が策動した成破の盟約も水戸浪士の桂小五郎に対する信頼感がいま一つ成熟せず、何ら効果を上げていなかった。それは、長井雅楽の動きが他藩の浪士たちには長州藩の方針と映り、桂小五郎たちに対する不信感となっていたからだ。長州藩の重臣長井雅楽の策が朝廷や幕府に受け容れられるに従って、桂小五郎たちの立場は微妙なものとなり攘夷運動の足枷となった。その一方で、幕府の老中久世広周、安藤信睦たちの働きかけた和宮降嫁は着実に前進し、八月十八日孝明天皇の勅許が幕府に内達した。公武合体論は万延元年の内に一定の成果を見ていたといえる。

 万延元年の終わりの数ヶ月間、村田蔵六は桜田長州藩邸の有備館二階の講堂で洋式兵学を講義している。講義内容は彼が蘭書を翻訳した兵法関係に終始した。伊藤俊輔も都合の許す限り村田蔵六の講義を拝聴した。江戸勤番の藩士たちも村田蔵六の講義に興味を示して結構な人気を博した。

「村田先生は宇和島藩で蒸気船を造られたと伺いしが、西洋技術なかんづく蒸気機関はいずこで習得されたるや」

 ある日、後方に座った若い藩士が講義の途中で大声を出した。

 伊藤俊輔はその藩士を見知っていた。藩公の小姓役として参勤交代により出府し江戸桜田藩邸にいた上士で、名を士道聞多といった。

「宇和島にて、学びました」

 詰まらなさそうな顔をして、村田蔵六は講義を中断させた藩士に視線を遣った。

「宇和島ではいかなる先生に就かれましたるや」

 子細構わず、士道聞多はしつこく聞いた。

 しかし、彼に悪気はない。士道聞多に貪欲なまでの知識欲があるだけだ。それ故、藩公から『聞多』という名を賜った。村田蔵六は士道聞多を溜め息とともに見詰めた。

「先生はおりません。強いて挙げれば、書物が先生です。造船と蒸気機関について書かれし蘭書を読み、その通りに造りました」

「蘭書にある通りに造りたれば、蘭国人の指導なくとも蒸気機関が出来上がり、しかと動くのであるのか」

「当たり前です。技術とはそういうものである。ただ宇和島では蒸気溜めの鋳造が粗悪で鬆ができたため、蒸気が抜けて圧力が足らず多少の苦労は致したが。しかしそれは蘭書とは関係のない、我らの鋳造技術の問題である」

 そう言うと、村田蔵六は教壇の書物に目を落とした。

 どこまで話したか段落を探していると、再び甲高い声がした。

「村田先生は蘭人師匠にも就かれず、秘伝や奥義を賜ることもなく、ただ蘭書を読んだだけで蒸気機関の船を造られて、宇和海で走らせたのであるか」

 と、猶も士道聞多はしつこい。

だが、そうした疑問を抱いたのは士道聞多一人ではなかった。当時は幕府のみならず藩においても兵器に関する製造技術などは特定の家に伝わる書物に拠り習得するものの、最後の奥義は嫡男の家督相続とともに口伝されるものとされていた。それゆえお家伝承の学問は代々に伝わり、儒学家や兵学家や砲術家などとして、幕府や諸藩が特定の家に扶持を与え召し抱えた。奥義を一子相伝とすることに依ってのみ、それは可能となる。

いや兵法にだけ限ったことではない。武家の役廻りも大体似たようなものだ。家元制度の諸芸にもそれと似たような処がある。権威あるとされている諸芸の家元も、代々砲術家を以て藩に仕える学者も同じだと村田蔵六は断言した。西洋では最新技術の蒸気機関ですら、書物に記述されている通りに造れば誰でも造られるという。驚愕すべきことだった。

「そもそも西洋の学問に家元はござらん。ましてや家名と共に扶持を頂戴する御家芸でもござらん。当然にして秘伝、口伝といった類の馬鹿げたものはござらん。大したことでもないことを、さも後生大事に扱う我々の学問のあり方こそが、西洋の学問に大きく遅れを取った所以である」

 淡々とした物言いで村田蔵六がそう言うと、一瞬講堂は水を打ったように静まり返った。

講義を聞いていた藩士たちは一様に雷に打たれたような衝撃を受けていた。事実、村田蔵六の言葉は驚愕すべき内容を含んでいる。

 村田蔵六の言を突き詰めれば、武家社会を支える身分制度の根幹を揺るがすことになる。藩主の嫡男が藩主に就き、家老格の家臣が家老になるのはあたかも茶道や花道など諸芸の家元と同じだと言ったに等しい。身分制度は諸芸の家元制度と同じことと断言したことになる。講堂を埋め尽くしていた藩士たちは一様に息を呑んだ。しかし、村田蔵六に特別なことを論述したという自覚はない。常日頃思っている事柄を淡々と述べたに過ぎない。

 村田蔵六はさも退屈そうな顔をして、呆然と沈黙した士道聞多を無視して講義の続きを始めた。

 その日の講義が終った直後、何を思ったか伊藤俊輔は英学の習得を江戸藩邸の重臣に申し出てニベも無く断られている。しかし諦めきれなかったのか、その年の十二月に伊藤俊輔は萩の来原良蔵に宛てて文を出した。文面で伊藤俊輔は英学を学びたいとの心情を吐露した。英学修業の何等かの機会があったなら、是非とも伊藤俊輔をご推薦願賜りたいと来原良蔵に訴えた。その文は今に遺っている。伊藤俊輔は桂小五郎に随行して攘夷派浪士と交わりながらも、その目は村田蔵六に触発されたかのように英学へと向けられていた。

 西暦一八六○年、つまり万延元年という年は幕府にとって大きな節目となった。伊井直弼亡き後の様々な思惑が渦巻く不気味な静けさのうちに年が暮れた。時代は翌年から始まる激動の文久年間へと向かう。


 明けて万延二年二月十九日に突如として元号が改められた文久元年に長井雅楽が動き出した。

 三月、藩公毛利敬親に建言して航海遠略策が藩是となった。

 五月、長井雅楽は京へ上り孝明天皇の側近正親町三条卿を説き伏せて、攘夷論が大勢を占めていた朝廷の空気を変え、攘夷論者だった孝明天皇の賛意を得て、藩主共々謁見の栄誉を賜った。毛利敬親と長井雅楽は天皇より歌を賜っている。

  国の風吹越してよ天津日の もとのひかりにかへすをぞまつ

  雲井にも高く聞こえて皇御国 長井の浦にうたう田鶴の音

他に、菊の紋章入りの伊万里焼の茶椀十三組と扇子も賜った。

 長井雅楽は文政二年(一八一九)萩城下中ノ倉に生まれた。幼くして父泰憲が死去したため、石高半減の未成年相続により四才にして百五十石の家督を継いだ。文武両道に優れ、十九才で藩公毛利敬親の小姓役となり、三十二才で奥番頭格となった。その後、直目付役に累進した。長身美男の偉大夫で、弁舌も爽やかであったといわれている。

 長井雅楽は公武周旋の内命を受けるや直ちに江戸へ下り、幕府の首脳に対し航海遠略策を説いて回った。長州藩は関ヶ原以後、外様大名という立場に甘んじ、幕政に口出すことなど慮外のことだった。しかし、幕府の威信は落日の中にあった。安政四年、外交問題について江戸城中で諸大名に意見を伺ったことからも指導力の喪失は端的に窺える。徳川幕府開闢以来、諸大名の意見を徴することは有り得ないことだった。

 勇躍江戸へ下ると長井雅楽は老中久世広周たちと会い、持論の航海遠略策を説いた。和宮降嫁の公武合体論で朝廷や勤王諸藩から反感を持たれていた幕府には願ってもない助け船であった。勤王攘夷の総本家と目されている長州藩の重臣からもたらされた策は幕閣たちを秘かに喜ばせた。幕府の策に採られて、長井雅楽の建策は功をなすと思われた。

 だが、攘夷派浪士たちは無為無策のまま手を拱いていたわけではなかった。密かに謀を巡らし、明けて文久二年一月十五日朝、登城途中の老中安藤信睦を襲った。それは坂下門外の変といわれている。

 登城を待ち伏せていた水戸浪士たちは死を覚悟していた。二年前に大老井伊直弼が易々と暗殺されたことから幕府は用心し、老中の駕籠の警護には腕に覚えのある名だたる剣客が付き従った。そのことは秘されず、むしろ幕府の方から意図的に流された。水戸の浪士たちも剣客のことを知っていた。まともに立ち会えば必ず斬り殺される。命を捨てて一目散に駕籠へ駆け寄り、最初の一撃で老中を殺戮する戦法を採るしかなかった。

 江戸は雪の朝を迎えていた。作夜来の雪の降りしきる中を襷掛けした六人の水戸浪士らは登城して来る駕籠を待った。老中の駕籠はいつも定まった刻限に坂下門を通る。身を切るような寒さの中で彼らは松の木立の影に身を隠し息を殺した。彼らは石のように動かなかった。吐く息だけが白くわき上がった。

 待つほどにやがて、老中の一行が墨絵の世界から抜け出るように近付いて来た。六人は静かに抜刀した。彼らの目の前にさしかかった時、彼らは石像から生身の刺客に変貌した。

刀を振り上げ一斉に木立の影から躍り出た。奇声を発しながら一団となって安藤信睦の駕籠目掛けて突進した。その先頭の一人が駕籠に刀を突き刺したが手応えがなかった。刀は駕籠の虚空を刺し貫いていた。安藤信睦は背中に三ヶ所の擦り傷を負っただけで、駕籠の反対側へ転がり出て逃れた。しまった、と思った次の瞬間、浪士の体は袈裟に切り裂かれてどっと倒れた。見事な太刀捌きだった。残る五人もたちまち手練の供侍によって斬り捨てられた。暗殺を目的とした襲撃は失敗に終ったといえる。

 その朝、有備館に血相を変えて飛び込んできた者がいた。坂下門外の事変はまだ有備館の者は誰も知らなかった。その男は内田萬之助けと名乗った。しかしそれは水戸浪人河辺活右衛門の変名だった。内田萬之助は塾長の桂小五郎に面会を申し出た。桂小五郎は部屋にいた。応接に出た者は内田萬之助を塾長部屋へ案内した。伊藤俊輔は所用で留守だった。

「私が桂だが、何か御用かな」

 と、文机から顔を上げて振り向いた。

内田萬之助は雪道を駆けて来たのか、息が乱れ袴のうしろは後跳ねの泥で汚れていた。顔面は蒼白で、口元が小刻みに震えていた。

「拙者は内田萬之助と申す。この部屋を切腹の場としてお借りしたい」

 そう言うと、内田萬之助は脇差しを腰から鞘ごと抜いた。

「如何なる子細であるか、ご説明願いたい」

 桂小五郎は正対すると気を鎮めるように静かに聞いた。

「今朝、同志と老中安藤信睦をその途上に襲うつもりであった。しかるに拙者は恥ずべきことに、刻限に遅れてしまった。坂下門へ駆け付けた時には、既に同志はことごとく絶命し雪を朱に染めていました。拙者一人恥辱に塗れて生き延びることは出来ぬ。何とぞ、介錯をお願い申す」

 そう言うと、内田萬之助は腰から鞘ごと抜いた脇差を、作法にのっとって正座した自分の前に置いた。今にも腹をくつろげて切腹をしかねない様子だった。

「気を鎮められよ。内田殿の存念は分かり申したが、今暫く生きて同志の遺志を果されるが筋であろう」

 桂小五郎はそう言って、内田萬之助を思い止まらせようとした。

ここで腹を切られては面倒なことになる。幕吏がやがて藩邸に姿を現して水戸浪士たちと長州藩とのかかわりを探索するに違いない。

 二人の間で暫く死ぬ、いや待てと押し問答が何度か繰り返された。やっとのことで内田萬之助の気を落ち着かせると、桂小五郎は上方へ身を隠すことを勧めた。道中手形などの手筈や路銀はすべて桂小五郎が引き受けると申し添えた。いずれにせよ、内田萬之助が今朝の騒動の仲間ということは幕吏に知れているに相違ない。そのために長州藩が一肌脱ぐことは盟約上、当然のことだ。内田萬之助は桂小五郎の勧めに従うことを了承し、国許に文を書きたいと申し出た。桂小五郎は文机を内田萬之助に明け渡して部屋を出た。

 玄関脇の書生部屋へ行くと、伊藤俊輔が藩士たちと雑談していた。

「伊藤君、帰っていたのか」

 部屋へ入ると、桂小五郎は着物の前を叩いて胡座をかいた。

「内田某が参られているとか」

 と、伊藤俊輔は座った桂小五郎に聞いた。桂小五郎は口を結んだまま頷いた。

「内田萬之助、と名乗っているが、恐らく変名だろうよ。水戸浪士だ」

「それでは、今朝の坂下門の騒動と関係があるのでは」

「その通りだ。襲撃に行き遅れたため、恥を雪ぐために腹を切ると言い張っていた」

 そう言って「やっと思い止まらせたが」と桂小五郎は安堵の色を浮かべた。

 しかし伊藤俊輔は眉根を寄せると「そのご仁は何をしておられますか」と、聞いた。

「いや、国許へ文を書くということで、」

 と、桂小五郎は怪訝そうに伊藤俊輔を見詰めた。すると「部屋には、他に誰かいますか」と畳み掛けるように、伊藤俊輔は問うた。

「いや、一人だが」

 桂小五郎は伊藤俊輔の切迫した表情を「まさか」とでも言いたそうな眼差しで見た。

「桂さん、それはいけない」

 伊藤俊輔はそう言うと、桂小五郎はまさかというように表情を歪めた。

 二人は玄関脇の書生部屋から飛び出すと、廊下を駆けて奥の塾長部屋へ行き襖を開けた。すると生温かい血の匂いが二人の鼻腔に飛び込んできた。背を向けて窓際の文机に凭れ掛かるようにして、内田萬之助は血の海の中に蹲っていた。

「おい、内田殿、」

 と、桂小五郎は座ったまま上体を前に折っている内田へ駆け寄り抱き起こした。既に脈はなかった。腹を形ばかり横に切り脇差で喉を刺し貫いていた。頸動脈が切れて噴出したのか、おびただしい血が明かり障子から壁から天井まで飛び散っていた。

「桂さん、」

 伊藤俊輔は敷居に立ったまま声をかけた。

「駄目だ。事切れている。己としたことが、ぬかった」

 桂小五郎はそう言うと、内田萬之助の体を横たえさせた。

 どうしたものか思案したが、内田萬之助の死体を闇から闇へと消すことは困難だ。現場の部屋には手を付けず、見ず知らずの男が勝手に入り込んで自刃したことにして、とにかく幕吏へ届け出ることにした。説明に無理があるのは百も承知だったが、そういうことで終始一貫、言い通すより他に道がなかった。

 早速、幕吏に捕らえられ桂小五郎と伊藤俊輔の詮議が始まった。長州藩邸の座敷牢に幽閉され南町奉行黒川備中守の糺問を受けた。

 南町奉行黒川備中守の取り調べは厳格を極め、一月十八日と二月五日の二度にわたった。幕吏も桂小五郎が刑死した吉田寅次郎の亡骸を貰い受けに来た本人であることや、先年から水戸浪士たちとの浅からぬ動きなどもそれなりに把握していた。当然のことながら水戸浪人と桂小五郎との繋りに深く踏み込んだ尋問が執拗に繰り返された。もはや逃れられないと桂小五郎は覚悟を決めた。藩に迷惑はかけられないため責めを一人で負うことにして腹を切るつもりだった。ただ伊藤俊輔は自分の従者で身分も低いため死罪にはならないだろうと思った。それがせめてもの慰めだった。

 一方、長州藩は二人の免罪に全力を注いだ。幕吏との折衝には江戸にいた長井雅楽が当たった。幸いなことに長井雅楽は航海遠略策で幕府重臣の覚えが愛でたかった。

 三月十八日、長井雅楽の奔走が効を奏して桂小五郎たちは座敷牢から出された。しかし見ず知らずの者が勝手に自害したとはいえ藩邸に入り込み、その一室で切腹するとは武門の名折れとの咎めを受けた。ただし幕府が桂小五郎たちを処罰するのではなく、長州藩邸での不祥事とされた。つまり水戸浪士河辺活右衛門が長州藩邸へ勝手に入り込んだとしても、有備館の一室で切腹して果てるとは館長の桂小五郎とその従者伊藤俊輔の二人を「取り締まり不行き届き」として長州藩主が叱り置く、という措置で決着がついた。しかし桂小五郎たちが処罰を受けたからといっても江戸の町を他出することは不謹慎であるため、暫くの間二人は京へ行くことになった。桂小五郎と伊藤俊輔は葉桜の茂る江戸藩邸を後にした。


  六、京へ 

 昨年の秋口から、長井雅楽の姿は江戸にあった。

 長州藩桜田藩邸に旅装を解き、紋付裃に威儀を正して幕府要人を訪っていた。

 京での朝廷工作はおおむね受け容れられ、天皇から褒美まで賜って航海遠略策は一定の成果をみた。後は江戸で受け容れられれば長州藩の献策が天下に認められることになる。晴れ晴れしい笑顔を見せて、長井雅楽は忙しく江戸の町を出歩いていた。

 徳川幕府の幕閣たちも長井雅楽の策に耳を傾けた。航海遠略策は幕府にとって都合の良い策略だった。元来、公武合体論は幕府側が言いだした策だ。その成果として和宮降嫁の許諾が下され幕府は一息ついていた。しかし嫁に出した朝廷側には屈辱感が根強く、幕府に対する反感が渦巻いていた。それは和宮を幕府に人身御供として奪われ陵辱された、との屈辱感だ。公家たちに根強くあった反感を長井雅楽は理により説き伏せ、朝廷の反幕感情を緩和した。長井雅楽は京での成果を背景に、幕閣に対しても十分な根回をした。その手腕は精緻を極めた論理と同様に、幕閣への根回しでも優れていた。

長井雅楽は幕府と朝廷の仲を取り持ち天下の動乱を避けた立役者として得意の絶頂期にあった。まさしく長州藩を代表して天下を動かしている、という自負心が威風堂々とした体躯に漲っていた。同僚の切れ者として知られる周布政之助でさえも長井雅楽の力量には舌を巻いた。藩首脳部も長井雅楽の働きを高く評価し、直目付から中老格に昇進した。

 だが、長井雅楽の動きを遥か遠くから窺い、幕府に対して影響力を持ちつつある長州藩に嫉妬した藩があった。それは西南の雄藩・薩摩藩だった。

 当時薩摩藩は賢君として誉れ高い島津斉彬が逝去し、異母弟の島津久光が藩政の実権を握っていた。島津久光は異母兄斉彬の死後自身の子忠義を君主に就けて、本人は国父と呼ばれる立場で実権を握った。久光は父島津斉興の五男だったが、異母兄斉彬の遺命で子の忠義が藩主に就くや本家に復帰した。島津久光は当時四十五歳と、まだ枯れる年でもなく野心満々の男だった。

島津久光は大久保一蔵、西郷吉之助らの意見を聞き入れて長州藩が幕府に進言した航海遠略策に対抗すべく、『紹述編年』という新たな策を持ち出した。それは長井雅楽の「公武合体」策よりも一歩踏み込んだ、朝廷に耳触りの良い幕政改革を前提とした建白書だった。その紹述編年を上奏するに当たり、万事に派手好みの島津久光は薩摩から千余の兵を率いて華々しく京を目指した。

 文久元年三月十六日に鹿児島を発ち、同月二十八日に陸路下関へ着いた。そこから船に乗って瀬戸内海を東上し、四月十日大坂に上陸して十三日には伏見まで進んだ。その時、惨劇が起こった。

 島津久光が兵を率いて上洛するとの報に、薩摩の攘夷派浪士たちがにわかに京へ集結した。千余名の兵を引き連れて島津久光が上京するからにはただ事ではあるまい。おそらくは薩摩藩が倒幕の挙に出るもの、と攘夷派浪士たちは勝手に思い込んだ。

 薩摩脱藩者と浪士の主だった者が伏見の寺田屋に集まり、島津久光の兵と合流すべく満を持した。しかしそれを知った島津久光は不貞の輩たちが徒党を組んで天下を騒がすとは何事か、と激怒して腕利きの藩士たちを選抜して寺田屋を襲わせた。

これが世に言う寺田屋事件で、悽惨な薩摩人同志の斬り合いが演じられた。それと同時に一足先に京へ入っていた西郷吉之助も攘夷派浪士たちの同調者とみなされ、捕縛されて徳之島へ流刑に処せられた。それは先年逝去した島津斉彬の側近家臣たちを一掃すべく久光が仕組んだ謀略だった。

 伏見の寺田屋騒動後に京へ入ると、島津久光は朝廷に『紹述編年』を上奏した。朝廷の立場を強く擁護した『紹述編年』策と、過日の寺田屋事件が孝明天皇の心証を良くしていた。孝明天皇は即座に島津久光の策を受け入れた。

 孝明天皇は浪人を嫌っていたといわれる。それは多分に理屈ではなく、猥雑な浪士たちに対する生理的な嫌悪感だった。しかもその嫌悪感に確たる根拠はない。ただ攘夷論を振り翳し京の街を我が物顔に往来する志士たちに対する生理的な嫌悪感だった。それは「嫌いなものは嫌い」という同語繰返しに過ぎない。生理的な感情ゆえに、理屈ではない。

 一方で長井雅楽の提唱した策が観念的だったのに比して、島津久光の策は攘夷決行までの方策を示した具体的なものだった。つまり『紹述編年』策が航海遠略策と決定的に異なる点は朝廷が和宮降嫁を認める代わりに、将軍の上洛と攘夷の決行を幕府に約させるとした具体策にあった。

 孝明天皇は島津久光の上奏した策を受け入れた。さっそく公卿の大原重徳を勅使として江戸に遣わすことにして、島津久光の兵が三位大原重徳に付き従って東海道を下った。街道筋の民はあって無きがごとくとされていた朝廷の存在が具体的な行列となって目の前に出現したことに驚いた。時代が大きく変わろうとしていることを目の前の事実として理解せざるを得なかった。

 その間、幕府にも変化があった。

 四月十一日、突如として老中安藤信睦が罷免された。直接的な理由は去る一月水戸浪士たちに襲われた折りに駕籠から裸足で逃げたという些細なものだ。武家にあるまじき行為との謗りを受けて失脚した。しかし、それは表向きの理由でしかなかった。本当の理由は長井雅楽が持ち掛けた和宮降嫁を幕府側で仕切った老中安藤信睦を追い落とすためだった。

 翌月、幕府は唐突に航海遠略策を却下した。その理由に一片の論理性すら持ち合わせていない。むしろ破落戸同然の公明正大な言い掛かりに過ぎない。

 ある日、兵庫警護の御備場にいた長州藩家老浦靱負は朝廷の議奏中山忠能から参内を命じられた。先年長州藩は相州警護から兵庫警護へと移され御備場総奉行に浦靱負が就いていた。

 急遽何事かと長州藩老臣浦靱負が参内すると、

「『謗詞似寄』の箇所之あり」

 といきなり中山忠能卿から航海遠略策の一節を指摘され、「不敬である」と断じられた。浦靱負が反論する暇もないばかりか、一切の弁明を拒絶する高圧的なものだった。

 航海遠略策は四千五百字に及ぶ論文である。その文中から『攘夷は浅薄な慷慨家の考えること』という文言だけを抜き出して難癖を付けてきた。神州はそもそも攘夷を是とするものであるとの論を軽んじるものだと叱責した。中山忠能卿は驚くべき言辞を披瀝したことになるが、彼に当節流行の攘夷論に感染しているとの認識はない。

中山忠能卿は歴史的事実と、その時代の空気とを混同する過ちを犯したが、彼にそうした自覚はなかった。朝廷が代表しているこの国が幕藩体制以前から攘夷であったという歴史的事実はないが、中山忠能卿にそうした国史の素養はもちろんない。攘夷論が盛んなこの当時ですら開港場の貿易額は飛躍的に増大し、攘夷を唱える浪士たちの思惑とは別のところで時流は動き出していた。ことに横浜の繁栄は目を見張るほどで浪士ならともかく、一流の政治家なら国益を考慮の一端に置くべきだが、朝廷の高官たちは一様に異国人に対して嫌悪の念を抱き薄汚いものとしか思っていなかった。そうした意味では孝明天皇だけが特異ではなかった。

 古今東西を問わず、歴史には時として不可解な出来事がある。ことに魑魅魍魎が跋扈する政治の世界では一夜にして政策が覆されることは日常茶飯事だ。この場合もそうだった。まず先に結論があって、その結論を導くために政策転換に必要な瑕疵を探し出す。それはまさしく公明正大な言い掛かりだった。中山忠能卿は薩摩藩の手先になって動いたに過ぎない。それは薩摩藩お得意の謀略そのものだった。

搦め手から、先に動かし難い結論を勝ち得た薩摩藩に利がある。いうまでもなく老中安藤信睦の罷免から一連の動きは長井雅楽を追い落とすための伏線だった。

 政治は常に権力闘争だ。国家を動かすために権力の主導権を握り、わが意を広く及ぼす。長井雅楽は薩摩藩を意識していなかったが、薩摩藩は長井雅楽が政治の表舞台に登場した時から彼を強く意識していた。そして、薩摩藩は実に巧妙な政治工作を展開した。そうした政略に於いて、薩摩藩は長州藩よりも格段に勝っていた。

 長州藩公毛利敬親は別名『そうせい侯』といわれている。家臣の意見具申のままに「そうするが良い」と快諾して藩政を重臣たちに委ねた。幕末期の長州藩は二大派閥の間を藩論が大きく揺れ続けた。

 村田清風から始まり周布正之助に連なる改革派(後に正義派と呼ばれる)と、坪井九右衛門から椋梨藤太に連なる保守派(同じく俗論派)との権力闘争が藩論を揺れ動かすことになる。一方、薩摩藩は良くも悪しくもこの当時一人の権力者・島津久光によって牛耳られていた。大久保一蔵や西郷吉之助が薩摩藩で力を持ち始めるのは今暫く後のことである。

 幕府によって航海遠略策を退けらるや、長井雅楽は急遽京へ上った。それは朝廷の巻き返しに最後を期したものだった。前途は絶望的だったが、一縷の望みを抱いた悲壮な上京だった。


 その頃、来原良蔵は長崎にいた。

 数人の部下を率いて新式ゲベール銃の大量買い付けをし、洋式軍艦の買い付け交渉をした。国許へ帰った村田蔵六を海軍局頭取に迎えて海軍力の増強に全力を注いでいる。当時、やっと藩の兵制改革が緒に付き、来原良蔵は人生最良の日々を送っていたといえる。

 長崎での仕事を終えた来原良蔵は部下を帰して一人で九州を遊歴している。肥後には宮部鼎蔵とその弟子たちがいた。宮部鼎蔵とは吉田寅次郎密航の折り、京橋の料理屋伊勢本に集まった旧知の間柄だった。

 初夏の南国の日差しが眩しかった。

 いつものように来原良蔵は袖から両腕を抜き懐で腕を組んだ。袂が風をはらみ気持ちよさそうに肩で風を切って歩いた。来原良蔵は肥後への道中を楽しんだ。しかし肥後に着くと、宮部鼎蔵から長井雅楽の航海遠略策が朝幕双方から退けられたことを知らされた。

 突如、来原良蔵は京へ上った。

 来原良蔵は長井雅楽の甥に当たるが、彼の行動は肉親の情だけで片付けられるものではない。大分まで陸路を駆け抜け、そこから大坂へは船で行き、五月の終わりには京へ入った。そして絶望的な事態の巻き返しに奔走している長井雅楽と三条河原町の長州藩邸で会った。偉大夫然としていた面影は既になく、頬は痩げ落ち目は虚ろになっていた。外にあっては薩摩藩とその工作に籠絡された朝廷を相手に奮闘し、内にあっては猛然と攘夷を主張する久坂玄瑞を筆頭とする松陰の弟子たちと戦っていた。まさしく、長井雅楽は孤立無援の闘いを余儀なくされていた。

 藩の兵制改革を託されてから、来原良蔵は今は攘夷をすべき時ではないと主張していた。攘夷は日本にやって来る夷国艦を打ち払わないのは大和益荒男の名折れだとか、敵に背を見せるとは命を惜しむ腰抜けだとかいった類の精神訓話で片づけるような話ではない。実際に長州藩が攘夷を断行すれば清国がそうなったように、圧倒的な武力を備えた欧米列強の艦隊の反撃にあい、間違いなく藩は灰燼に帰す。勝敗を度外視した無謀な攘夷を声高に叫ぶのは領民を苦しめるだけでしかない。まずは軍備を整えつつ開国する「開国強兵」策しかないのは明らかだ。現実に即した方策としては長井雅楽の唱える策を採るしかない、と来原良蔵は考えていた。

 上洛すると来原良蔵は浪士たちのたむろしている藩邸近くの旅籠池田屋に桂小五郎を訪ねた。面会するとすぐに「現実に目を向けよ」と来原良蔵は怒声を発して翻意を迫った。西洋列強の強大な軍事力を知らない書生論で攘夷を叫ぶは藩を危うくするのみだ、と桂小五郎を激しく叱責した。そしてその足で来原良蔵は藩主に会うべく江戸へ下った。

 桂小五郎は来原良蔵に意見されて急進的な攘夷運動を思い止まった。長井雅楽は幕府の公武合体におもねる佞臣ではないかとの怒りもあったが、同時に河辺萬之助自刃の折りに幕吏の追求から助けてもらった恩義もあった。

 しかし京では久坂玄瑞を首謀者とする長井雅楽暗殺計画が密かに進行していた。桂小五郎は京都三条河原町の長州藩邸に宿泊している長井雅楽の身辺に気を配った。その一方で、伊藤俊輔を暗殺者の仲間に潜入させ、久坂玄瑞たちの動きに目を光らせた。

 久坂玄瑞たちは伊藤俊輔が仲間に加わるのに何ら疑いを持たなかった。そればかりかむしろ伊藤俊輔が仲間に加わることを歓迎した。彼らは松本村の松下村塾に通った松陰の弟子たちだった。のみならず久坂玄瑞たちは長井雅楽暗殺の仲間に伊藤俊輔が加わることに、いま一つ別の意味を見出していた。つまり彼らは伊藤俊輔が暗殺の同士に加わったのは桂小五郎の指図だと受け止めた。繰り返すまでもなく、桂小五郎は尊王攘夷の急先鋒の一人と目されていた。少なくとも尊攘派の筆頭と思われる行動をとっていた。水戸の西丸帯刀たちと成破の盟約を結び、水戸浪士たちは坂下門外で命を捨てて実行した。仲間の内田萬之助の有備館での自決も壮絶だった。水戸の浪士たちと結んだ盟約からいけば、今度は桂小五郎が朝廷工作を実行する番だった。

 桂小五郎は微妙な立場にあったといえる。久坂玄瑞たちよりも十才近くも年上で彼らから兄と慕われている。同時に藩からは大検使の重責を仰せつかっている。桂小五郎自身には松陰門下の一人として吉田寅次郎の仇を討ちたいとの私情もあった。しかも厄介なことに、彼は義弟の来原良蔵から叱責とともに言い聞かされた現実論を理解する頭脳をも併せ持っていた。

 桂小五郎は伊藤俊輔からもたらされる久坂玄瑞たちの密行動に気を配り、長井雅楽の動きを横目で睨みつつ朝廷に攘夷の働き掛けを精力的に続けた。長州藩に好意的な公家三条実美、東久世通禧らと連絡を密に取って、薩摩藩に味方する公武合体派の中川宮朝彦親王らと対抗した。その頃すでに桂小五郎は朝廷のありようが明確に理解出来ていた。

 調停工作とは玉を取ることだ。玉とは天皇のことで、朝廷を動かすには天皇の覚え目出度くすることだ。御名御璽を記した勅命を行使することこそが、朝廷を牛耳ることになる。そして、朝廷のありようは長州藩と似てなくもなかった。天皇の意志は有力な公家たちの権力争奪の狭間で揺れていた。

 ある日、桂小五郎の許に伊藤俊輔から暗殺決行の報せが入った。

 長井雅楽の外出の予定を久坂玄瑞たちが掴んだ。それによると二日後に所用で長井雅楽が伏見に出向きそこに一泊するという。所要を果たした伏見からの帰途には気が緩み、警備も手薄になるだろう。その帰途の伏見の町外れの山道で長井雅楽の一行を待ち伏せて襲撃する、というものだった。顔ぶれは久坂玄瑞、福原乙之進、寺島忠三郎、堀真五郎、野村和作と桂小五郎が潜行させた伊藤俊輔だった。いずれも新進気鋭の若者たちだ。

桂小五郎は彼らを無駄死にさせるわけにはいかなかった。彼らを助けるには長井雅楽に理由を明かさず伏見行きを密かに中止させることだ。その一方で伏見の宿屋には予定通り宿泊すると告げて宿の前書きも長州藩中老長井雅楽、と大書したものを出すように手配させた。そして、当日には予定通りに長井雅楽一行を擬した駕籠を仕立て伏見に赴かせた。ただ宿泊すると見せかけて、日が暮れてからその日のうちに伏見から京へ戻った。

 当日、伏見郊外の山道で久坂玄瑞たちは身を潜めて長井雅楽の駕籠がやって来るのを待った。しかしいつまで待っても一行はやって来ない。不審に思った久坂玄瑞たちは伏見へ行き、宿の主に長井雅楽宿泊の有無を尋ねて、長井雅楽一行が宿泊しなかったことを知った。

暗殺計画が失敗したと知ると、久坂玄瑞は悄然として長州藩邸に戻り、自首して出ると言い出した。藩の重臣の命を奪うことを謀った以上、すでに自分たちは罪人であると久坂玄瑞は弁じた。

 久坂玄瑞も桂小五郎と同じく医師の家に生まれたが、考え方は桂小五郎と異なり武士そのものだった。潔いといえば世上類を見ないほど潔い。確かに明晰な頭脳と弁舌で若者の指導者的立場に立っているが、しかし人物として線の細さは否めない。切れ味鋭い剃刀は同時に鉈の堅牢さに欠ける欠点も持っているものだ。

 他の同志も久坂玄瑞に同意したが、伊藤俊輔だけが従わなかった。伊藤俊輔は「自首するも自決するも勝手になさるが良い、僕はそうしない」と言い放った。三条河原町の藩邸へ一緒に戻った後、久坂玄瑞たち五人が自首したのに対して伊藤俊輔だけは自室に籠った。

 藩邸の留守居役は自訴した久坂玄瑞たちの計画を聞いて腰を抜かさんばかりに驚いた。直ちに京藩邸の主だった役回りの者たちが一堂に参集して評定が始まった。重役たちは頭を抱え、意見が百出して評定は紛糾した。伊藤俊輔が一人だけ自首しないのは不届きであると別段の懲罰を求める意見も出されたりした。

 桂小五郎も協議の中にいた。腕組みをしたまま重臣たちの意見に耳を傾けていたが、本藩にお伺いを立てたらどうか、という意見が出るに及んで顔を上げて眉を曇らせた。それは京藩邸の留守居役が責任逃れから京藩邸で採決を下さず一室に押し込めて置こうというものだ。久坂玄瑞をはじめ松陰門下生たちは藩主の覚えがめでたい。そのため久坂たちを自分たちが罰して藩から咎めを受けないとも限らない、との責任逃れの策だった。

たちまち留守居役に賛同する者が相次ぎ、本藩の裁断を仰ぐべき、とする意見が大勢を占めるに到って桂小五郎は慌てた。本藩の判断を仰ぐというのは尤もだが、萩へ知らせれば事は大きくなり、久坂たちの罪は免れ得ないものになる。

 窮した桂小五郎は突如として大声で笑った。評定を重ねていた者たちは口をつぐんで怪訝そうに桂小五郎の顔を覗き込んだ。

「久坂たちの申すこと、根も葉もない白昼夢でござる」

 腹の皮がよじれんばかりに笑い、桂小五郎は息を乱しながらそう言った。

 白昼夢だ。いわば久坂たちは夢を見たに過ぎない。桂小五郎はそういう論法で強硬に評定を揉み消そうとした。夢に見た、というだけで本人が自首して来ればすべてを捕らえるのか。良い夢を見れば忠義で、悪い夢を見れば咎とするは笑止千万。そう言って桂小五郎は高らかに笑った。

 それは屁理屈というものだ。明らかに道理を無視した屁理屈だ。罰には共同謀議や未遂という罪もあること百も承知だ。しかし、その場では笑い飛ばすしかない。

「しかれど、桂殿。長井様を殺害しようと謀るは不届きなり」

 笑い転げる桂小五郎を呆然と眺めていた一人が不服そうに口を尖らせた。

 桂小五郎は目尻に溜った涙を指の腹で拭いながら、なおも笑って重役たちを見回した。

「はてさて、伏見の山中で待ち伏せ致した、と久坂たちは申しているようだが、悪い狐か狸に化かされたのであろうよ。すべて夢にて候、それも悪い夢にて候。斯様な悪い夢を本藩へ報告すれば、各々方こそが笑われましょうぞ」

 桂小五郎は息を乱して笑いながら席を立った。

そして猶も高らかに笑いながら、よろけるように退出した。そうした評定の場に長居は無用だ。桂小五郎が抜けたことで京藩邸の沙汰は定まらず、結局お咎めなしということになった。

 維新後、伊藤博文は人から問われて答えている。

「なぜ伊藤公は仲間の内でお一人だけ自首されなかったのですか」

と、不首尾に終わった長井暗殺の件を聞かれると、伊藤博文は顔色も変えずに、

「自首することを拒絶したのは、国許にいる年老いた両親のことを考えたからだ。自ら命を縮めるようなことは出来なかった」

 平然とそう答えて、質問者を当惑させた。

 誰もが死を恐れているように伊藤俊輔も死を恐れたかも知れない。だが少なくとも当時の伊藤俊輔がひたすら身の安堵ばかりを願って苦難を避けていたわけではないのは明らかだ。むしろ連合艦隊との交渉や功山寺決起など、幾度となく自ら進んで死地へと身を投じている。そうした伊藤俊輔利の経歴を承知していればこそ、質問者は当惑したのだろう。

しかし当惑したのは伊藤俊輔の方だ。唐突に質問した意図をはかりかねた。伊藤俊輔は当時の自分を恥じていた。桂小五郎に命じられたこととはいえ、久坂たち松下村塾の仲間たちを見張ったことには恥ずべきことだ。維新後に栄達するに連れて、当時を振り返ると忸怩たる思いは強くなっていった。

長井雅楽を見張った五人の仲間のうち、維新後まで生き永らえたのは堀真五郎と野村和作の二人だけだ。堀真五郎は判事畑を歩き東京始審裁判所長を経て明治二十三年に大審院判事になった。野村和作は名を靖と改め、政府高官となり内務大臣まで務めた。官位は正二位子爵に叙せられた。

しかし残る三人は維新を迎えることなくこの世を去っている。久坂玄瑞と寺島忠三郎は元治元年七月十九日の蛤御門の変で自刃して果て、福原乙之進(信冬)は前年の文久三年十一月二十五日江戸で討幕の密議中に捕吏に囲まれて自刃している。維新後まで生き延びた者は自分も含めてそれぞれが栄達しているが、道半ばで若くして落命した多くの仲間たちの無念さは推察するに余りある。

身分制度の世の中だったとはいえ、伊藤俊輔は桂小五郎の命により仲間五人を見張らざるを得なかった。それは彼にとって終生忘れ難い恥辱だ。筆まめだった伊藤俊輔の書き残した日記や書簡などを調べても、何処にも当時の心境を書き残していない。伊藤俊輔は死ぬまで当時のことを秘した。

文久二年六月二日、長井雅楽は中老格の身分を剥奪されて帰国を命じられた。

 半年以上の自宅謹慎の後、文久三年二月六日切腹を賜った。享年四十五才であった。

 検使頭として長井雅楽の屋敷に向かったのは家老国司信濃だった。罪状を示すと、長井雅楽は静かに白装束に着替えた。介錯には親戚の福原又四郎が立ったが、長井雅楽は自ら命を絶つことを願い出て介錯は不要と退けた。そして使者たちが見守る中、腹を切り割き喉を突き刺して壮絶な最期を遂げた。

  君がため捨てる命は惜しからで 只思はるる国の行くすえ


 長井雅楽が京を去ってから一月後、京藩邸で重要な御前会議があった。

 その会議に列席したのは藩公毛利敬親の他毛利筑前、毛利伊勢、益田弾正、浦靱負の四家老に政務役の井上小豊後、周布政之助、兼重譲蔵、山田宇右衛門、中村九郎、宍戸九郎兵衛と桂小五郎の七人を合わせて十一人だった。薩摩藩の策に破れ時世で力を失った航海遠略策を廃した後、長州藩はいかなる策で行くべきかを定める会議だった。当然のことながら議論は新たな藩是を巡って熾烈なものとなった。

 現実路線を補強する形で浮上した長井雅楽の策が棄てられたからには、薩摩藩の策よりも先鋭的なものにならざるをえない。そうすれば『攘夷』で突き進むより他にないことになる。議論を重ねれば重ねるほど、思惟は観念の虜になり易い。御前会議は攘夷一色で染め上げられようとしたが、山田宇右衛門と浦靱負の両老臣と周布政之助が『武備攘夷』を唱えて急進的な攘夷論を止めようとした。

 武備攘夷とは攘夷そのものに反対するものではないが、現実問題として外国に勝てるだけの備えがなければ藩を危うくするだけのものである。まずは武の備えをした後に攘夷を行なうべきとの論旨だった。それに対して桂小五郎が急進的な『破約攘夷』を唱えた。外国と取り結んだ条約のすべてを破棄して断固攘夷を実施するとの過激な主張だ。議論は平行線をたどり、意見の一致を見ないまま三日経った。

 現実を考慮する妥協策は潔いと映らない向きがある。議論の場では急進的な意見の方が有利に働く場合が多い。議論を積み重ねた結果、強硬な『破約攘夷』に藩是は決した。

 正式に長井雅楽の航海遠略策が退けられたことになる。幕府と組んだ薩摩藩に対抗するためには長州藩に残された道はそれしかなかった。米国総領事ハリスと結んだ修好通商条約を破棄して攘夷を迫ることで朝廷を味方に付け、国論の主導権を握ることに長州藩論は決した。乾坤一擲、長州藩は破約攘夷にその全存在を賭けることになった。

 藩是転回の折、来原良蔵は江戸にいた。

 二年ばかり国許に戻っていた間に、江戸の様子は随分と変わっていた。横浜交易を抑制する目的で五品目回送令が出されたりしたが、江戸の物価は高騰を続けて幕府の威光は失墜していた。島津久光も千人からの兵を率いて江戸に入って来た。

 来原良蔵は江戸藩邸の重臣相手に武備開国を説いて回った。

 一度は長井雅楽の策を藩是としたものが、路線闘争で薩摩藩に破れるや一夜にしてそれを破棄するとは武門にあるまじき行為である。正義は必ずや行われる。徳を以って国を治めるに、しばし風雪の下を耐える覚悟を持つべきである。右顧左眄するは恥とすべし。

 来原良蔵は命をかけて諫言した。しかし、ひとたび藩是となったものが、いまさら来原良蔵一人が吼えたぐらいではどうにもなるものではなかった。来原良蔵は藩邸で孤立し深い焦燥感に苛まされた。


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蒼穹の涯 沖田 秀仁 @okihide

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