「太陽と月がそばに居て、それでも世界は夜を望んで」
「赤、静けさ」
夕方。赤い空。彼女はその空に一日の終わり行く様を示されている、彼女が生きる、光の昼から闇の夜へのたった一度の変換しか許されない時間の一区切り、一単位であるその一日の刻一刻と終わり行く様を。彼女はかつて終わりばかりを願っていた、だからこれは本当は望ましい事の筈なのだが彼女にはもはや終焉への望みは無くなっていた。彼女が欲した終わりと言うのはこの世界に属する事の終わり、もしくはこの世界側、自分の外側の終わりで有って自分の内側、自分そのもの自分の中に息衝く鼓動の終わりでは無かったのだ、かつては自分の存在の終わりを夢見ていたりもしたがそれはこの世界が到底終わってくれそうも無いと言う途方も無い絶望感から来た物であってもしこの世界を退ける事が、この世界に入り込んでしまっている自分をここから脱出させる事が出来るものならそんな自棄なる発想を持つ事は無かった、加えてそうしてこの世界が死んでくれないからと言うので自分の死を思ってみたりしたのは自分に無限としか思えない生命力が携わっている事に裏付けられた余裕有ってこその物だった。この世界で初めて見えて来た自分の死に彼女は脅えていた。体の気力がこの世界が昼であった明るかった時と比べて明らかに減退している事も彼女に確実な死が押し迫っている事を物語っているのだがそれだけではない、彼女は影を見る、この影、夕方だと言うのに彼女の等身を崩す事の無い黒き分身、これを彼女は今では自分の出血だと認識している、闇をこの光を代表する世界に於いて代表している、抱え込んでいるのが自分で有るのだから闇を外部に出してしまうと言う事は自分の命を削ってしまう事だったのだ。自分から途切れる事無く流れる血を感じて気力を失わない人間は居ない、彼女は実際に自分からエネルギーが奪われている事には元よりこの垂れ流れる黒い血への自覚にも精神的な余裕を剥ぎ取られ続けていた。そして赤い空は自分の血染めの空だ、清浄なる青き空気の海をそれを上回る圧倒的な闇の血で赤に染めてしまったのだ。これがあの太陽の赤子が望んでいた変化なのだろうか、彼女にはもう彼-と言うのもこの辛い状況下であの太陽の赤子に男性を求めてしまっているから-が分からない、そもそも彼が何故自分からこんなに遠く離れる必要が有るのかも全く想像が付かない。只分かっているのは今更彼の有効範囲から抜け出す事は出来ないと言う事だ、有効半径から出る前に確実に死ぬ、彼女はもう自分の命が半分以下に削られているのは良く分かっていた。なら、自分が死に至る前に少しでも真実に近付くためにも、今はただただ彼が居ると思しき場所を目指すしかない、彼女のその死を覚悟した力強い思いだけが更に質量の増した重石の括り付けられた彼女の足を動かし続けていた。
「黒、死と言う現実」
微風。それはほんの微風で、彼女はそれに頬を撫でられたに過ぎなかったのだが虎の爪にでも引き裂かれたかの様な大変な衝撃だった。理解してしまったのだ、分かってはいけない事を。彼女は自分の死に脅えていたと言ったがそれでも歩いていた、死に向かって歩くと言う行為を多少投げ遣りにでも出来てしまった彼女は死を現実としては見て居なかった、そしてそんな彼女が現実に存在する物として物質の様に明確な識別の出来る物ではない自分の死を物質さながらに脳内で具現化すると言う時に表れるのは夢世界、と言う異次元であった。彼女は自分の死を天国と地獄の狭間に遊ばせながらまるで自分の死を飼ってでも居るかの様な心持ちで歩んでいた、漠然と死を自分の下位の存在だと決め付けていた、自分に危害を加える事の位置に居ない物として居たのだ。だが、彼女は知った、彼女の飼っていた死は虎の子であった事を、死を司る黒き虎の子が虎視眈々と彼女の首に爪を立てられるまでに自分が成長するのを待っていた事を。そして今彼女は虎に頬を切られた、死への牽制をされた、死は遂に彼女の上位の存在となって彼女を圧倒し始めたのだ。彼女は恐る恐る見てはいけない方向を見る、川幅が彼女の背丈の何十倍にも広がった川の向こう側、正常なる彼女の憧れの世界を見やる。明らかに草に生気が無くなっていた、こちら側の草は場違いな程に力強く生き生きしていると言うのに。この世界は、間違い無くあちらの世界の核を侵食し始めた、この世界が風を手に入れたという事は、変化への鍵を奪い取ったという事はもうあちら側の世界の寿命はそう永くは保証されては居ないだろう。何と言うことだろうか、彼女はこの世界が死んであちらの世界が生き延びる物だと、あちら側が未来で、こちらは過去になるのだと思っていた、たとえこちらで自分が死んでももしかするとあちらの世界での新しい自分が始まる、そんな幻想を抱いていた、つまりこの世界を何処か現実としては見ていなかったのだ。だがそれは間違いで、現実の土壌として新たに立場を獲得するのはこの腐った光がへばり付いているだけの忌むべき世界の方だったのだ、あちらの世界はそれを食って太り続けている川に今後もどんどん体を削られて遂には終わってしまうのだ、こちらの世界で光に闇を流血し続けている己が如くに。自分の有るべき立ち位置を、理想郷を奪われた彼女は弱い、そもそもが弱かったがそれでも隣に頼りとなる正常が居てくれるなら彼女の弱さは逆に強さと言い間違える事が出来た、彼女が正常を頼みとしてしまう強烈な弱さこそが心の唯一の光だった。だが今やあの光の赤子も理解出来ず正常な世界も死んでしまおうとしているこの状況下で彼女の弱さが寄り掛かる事の出来る柱は、無い。今までを正常世界と言う壁伝いに歩いて来た様な彼女は急にその壁が崩壊してしまった為前に向かって歩く事が出来なかった、壁に余りにも頼り過ぎていた為川にまっすぐに入り込みそしてそのまま、失速も加速も無くまるでそうしている事が当然とでも言う様な足取りで死に行く正常世界の方へと向かって行った。表情にすら変化が無い、諦めているとも、期待しているとも言い難い、そして無表情では無い表情、感情の堰が切れる直前の、感情の氷塊としての顔がそこには有った。彼女はそして正常世界の見えざる壁、先程の精神的な寄り掛かる頼みとなる物としてのそれではなく以前彼女の体を拒絶し弾いたそれに触れる。手は簡単に弾かれる、それでも彼女は何度も壁に触った、今の彼女にとって歩みゆくべき前とは正常世界の方だけだったからだ。彼女が力無くした為か、それとも壁が一段階強く彼女を押した為か、彼女は遂に川に倒れた、少し変化と言う属性を取り込み始めていた水の新たな質感に触発されて彼女の氷の顔が融け始めた、融けた氷の中に封じ込められていた物は、当然の様に涙で、彼女はその涙で変化と言う熱に水で有ると言う記憶を取り戻し始めた透明な粘土に水の在り方と言うものを教える事になった。微風が嬉しそうにその涙を舐め味わう感触が頬に張り付いた。
「黒、火の鳥」
涙の川に体を浮かべる、水が水の性質を段々に取り戻しつつあると言ってもそれは彼女が硝子だ粘土だと空想した時の堅さや粘着質を大きく保持していたので彼女の体はまるで木片の様に横たわっていた。彼女は先程から、目を閉じてみたり、開けてみたりで感じ取れる世界の在り方に浸っていた。今は目を開けている、空を見ている、彼女が今寝ている位置のすぐ近くに有りながら絶対に辿り着く事の出来ない、いや死のうとしているのでそこに行ってもどうにもならない正常の世界、今はもう正常と言う物をこちらの異常世界に食い潰され始めているので失正常の世界とでも呼んだ方がいいか。その世界と彼女が寝そべる、眠り夢を見るかの様なスタイルを取る事の出来る、そうして夢において現れる幻想の側ではない厳然とした狂気と言う現実世界、この両者は空だけを見た場合仲良く手を繋いででも居るかの様に、一つに見える、空はすぐ横の壊す事の敵わない絶対境界等どこにも無いとでも言う風に、どうでもいいとでもそんな事は小さすぎて見えないとでも言う風に知らん顔でただただ赤く綺麗に佇んでいる。ひょっとして空くらいに高く高く飛翔出来たら、壁の向こうの世界に辿り着けるのかしら、と彼女は思う、鳥になりたいなと。あの地面の夢が鳥の自由の翼を否定しているのは彼女は知っているがそれでも彼女の夢の翼まではもぐ事は出来ない様だ、彼女は自由に空想の中で隣の遥かな壁を飛び越えた、飛び越えた先には眩しい程の青が広がっていて涙が出そうだ、今までずっと見る事が出来た筈の色なのに、夢の中で見るそれはなんて宝石的に強固で優しい輝きなのだろう、絶対に砕く事の出来ない平和、そんな色合いだ。だが足りないのは雲、白い水撒きの旅人で彼女の夢の世界にはどうしても草木が無かった、それ故生命も無い、彼女の空想の鳥が辿り着ける憩いの地は見当たらない。彼女の鳥は飛び続けるが地面に救いが無いと言うので太陽を目指し始めてしまった、生命の光の集合体とでも云うべきそれを。交渉してどうにか地面に生命を分けて貰おうとでも言いたいのだろうか、何か自分には出来る事が有る、と言う強い表情をその鳥は持っていた。だが太陽に近付く事は禁じられていた、それは鳥の目を焼き翼を焦がした。もう空の青も太陽の白も見えなくなった鳥はそれでも尚太陽を目指した、何故なら記憶の中に有るそれらは十分に青く白く輝いていたから。鳥はやっと太陽に辿り着いたがその太陽にはもう光が無くなっていた、近付いて来る鳥に脅えた太陽は自分の炎の力を全て鳥を燃やし尽くす事に消費してしまっていたからだ。その話を聞いて鳥はやっと自分が体をとうに失った幽霊である事に気付いたが心の炎はまさに生きていた、それは太陽が灯した篝火だった。逆に太陽が鳥に懇願する、どうか私の炎を返して下さいと、寒くて今にも凍え死にそうですと。だが鳥にはどうしようもない、鳥に宿った炎とは魂の炎であるから。貴方に炎を戻す事は出来ないが、と鳥は口を開く、私を太陽にする事は出来ます、貴方を私にする事は。太陽はその話に驚いたが生命の続きが鳥の魂に受け継がれるなら、とその条件を飲んだ。二人は一つになった、その火の鳥は天にも地面にも生命らしさが無くなったその世界を後にして壁の向こうの世界へと戻っていった、つまり彼女の寝そべる世界へと。そしてそのままその火の鳥が偽りの太陽に向かっていく所で空想は途切れた、彼女はその続きをどうしても見たくなかった、火の鳥は彼女自身の投影だったからだ、あの太陽と今度は一つになろう、正しく光を照らす太陽に成ろうとする火の鳥を見続けるのは辛かった、それは即ち火の鳥の消滅を意味していたからだ、彼女はこれからやり方によってはあの偽りの太陽に真実の光を取り戻す事が出来る、それは分かっている、だが今やもうそれを死を覚悟してまでやり遂げようと言う気概が無い、あの太陽の子供に対する信頼を取り戻さなくては、あの太陽の子供のくれた心の光に対する愛が無くては彼女はもう立てないだろう。彼女の瞳は黒く淀んでいる、瞳の満月は朧月となって闇に落ちてゆく世界を見続けている。そろそろ夜は、近い。
「黒、瞳の中の海」
瞳、閉ざす、いずれ来るであろう死と言う温度の御粥を彼女と言う死に至る病の病床の人の口元へと流し込むであろう夜を、瞳の闇の裏側に予期している。彼女は、その平たく広がりつつも結局は彼女と言う内部でしかないと言う瞳の奥の小さな無限を感じていると、まるで海にでも浮かんでいる様な感覚を得た、小さく細く、そう彼女の体の様に彼女の心の様に矮小で頼り無いこの固き水の川が無限に広がる母なる海であるかの様に思え始めたのだ、それは肉体的に弱小な女が母と言う属性を得る事で精神的には何処までも広大な愛の化身となり得る事と酷似していた、今の彼女は、生命の灯火弱い、それがこの以前よりは広がっていると言っても未だ川でしかない存在を強く頼りに出来る物と感じさせているのかも知れなかった。海、それは生命の拠り所とも言うべき数多の生命の出自であり原点で有りながら、それら生命をまたその身に取り込めそうな、またそれらの生命を無かった事と出来そうな圧倒的な殺意を感じさせる物でも有る、だから母なる海という言葉は大分一面的だ、少なくとも人間は今彼女が自分に関して空想している様、海の真ん中に浮かんでいる様を感じてそこに死の影を覚えない事は無いだろう。だが、彼女が空想しているのは、海ではなくまさに母なる海だった、彼女は死を近くにしていながら全く死を退けていた、勿論自分個人と言う部分においては死の塊でしかないなとは思い続けているがこの空想の海に関してはそれが死の海であるとは全く考えていなかった、それは彼女にとって多少なりとも幸福な事だった、それが証拠に彼女の口元は緩んでいる、誰か人に自分が喜んでいる事を示す為の在り来りに笑顔等と呼ばれる使い古しの顔の感情造形ではなく、しかしそれは笑い顔だった、顔を笑わせる、と言う信号が有っての笑顔ではなく、それが基礎表情であるとしての笑顔だった。彼女の空想の海はとても静かだ、波音一つ無い、波音は弛まざる変化の象徴、連綿と続く生と死の共食いを思わせる物であるからそれもまた彼女がこの海に死を感じない一因となっているのだろう。また、死を感じないと言うのは当然にして危険である、死に対する感覚の麻痺が死を生む事は多い、実際彼女も死が近過ぎてしかも自分の生を最後まで燃し切ろうと明確にこれから先生きていられる自分と死んでしまう自分を区分し自分が何をなすべきであるかを考えていない思考死に陥っているので生と言う白と死と言う黒が見えなくなってしまっているだろう、瞳の奥に見据える黒、だがそこには薄ぼんやりと外界からの光が差し込む、白が混じる、生きているのか死んでいるのか分からない感じの濁ったグレーが彼女の心を支配していた。
ふと瞳開ける、彼女は手に違和感を覚えた、無変化の時が何かに破られた。それは、波だった。知らず知らずのうちに手は川を撫でていた、普通の川であればそれが波の子供を量産していただろう。だがこの川は普通ではなかった、自分が川である事を良く分かっていなかった、それが彼女の手の愛撫を受けた事で川としての記憶を多少芽生えさせ始めたらしい、彼女の手に寄り添う様に、もっと撫でて欲しいとでも言う様に川は波を彼女の手に向けて起こしていた。彼女は思わず笑ってしまった、波を生んだ所に帰って来る波とは一体どんな波だろうと。勝手な空想での話とは言え急に母と子の立場が逆転してしまった事も愉快で、彼女は一時では有ったが本当に死を忘れて川と言う赤子に安らぎを与える事に時間を費やした。そして彼女は自分がこの死に行こうとしている世界と生を新たに得ようとしている世界の狭間に辿り着くまでに歩んで来た道程を寝そべりながら何の気なしに眺めてみた、足跡が消えかかっている、川が自分の復元力と言う属性を取り戻し始めているのだ、きっとこの世界は隣の自分には辿り着く事の出来ない世界を食らい続け逞しく生きていくのだろう、私には知り得ない新しい輝きをその身に纏うのだろう。彼女もまた綺麗な光のドレスに身を包む自分を空想してみたが光が強過ぎて自分自身が一体どうなのか良く分からないその姿に苦笑してしまった、結局自分は今のこの黒い闇の服以外に着るべき物は無いのだろう、そう諦めつつ悲しくなった。波達をあやし続けるのを止め、また彼女は瞳の裏側の海へと帰って行った。
「黒と白、再会」
手に、再度の違和感。もう川を撫でるのをとうに止めていたので波が手に押し寄せて来たのではない、それ以前に違和感は下方からの物ではない、手の上にその無刺激と言う停滞を破りし物が舞い降りた。彼女は驚き早速その右手に降りた謎の感触の原因を探るべく首を起こし、手の上を確認する、するとそこに有ったのは小さな太陽だった。彼女は更に驚いた、彼女が求め続けた光の赤子の欠片とでも言えそうな物が、こうしてそれを求めるのを諦めてしまってから彼女に与えられたのだ。余りにも小さな、風に乗って運ばれて来たのだろうそれがまた風に連れ去られてしまう前に彼女はそっと太陽の欠片の乗っていない左手を右手の甲に被せた。被せてからしばし止まる、彼女はこれが一体何なのか考えるだけで動悸が激しくなって来た、どう考えたってこれは希望だ、希望の光だ。あの天空の嘘偽りに塗りたくられた太陽から発せられる忌むべき眩しさ等ではない、間違い無く希望に、あの太陽の赤子に関係する温もりの有る優しい光だ。今まで気だるげに寝転がっていたのが嘘の様に彼女は跳ね起きてそして暫らくの停止の後、そっと左手を退けてみた、それが太陽の気まぐれが見せた幻では無い様にと強く強く念じながら。そしてその願いは通じた、その光源は彼女が一目見ただけで感じ取った真実の正しい光、忘れようも無いあの太陽の赤子の持っていた輝きをその身に施していた。彼女はそれを右手の甲から摘み上げ、両手で包み込む様にして大事そうに胸の辺りに引き寄せた。まじまじと見つめているとその手の中の光放つ谷に雨が降り注いだ、涙だった。止められる物ではない、雨は手の中の谷を湖にしてしまいかねない勢いで力強く降り続けた、そして手の中の無限の火はそんな水の来襲になど全く動じず、むしろそれを力として輝きを増した。
どれほどの時間がたったか、雨が止んで彼女の曇った視界がようやく晴れて眼下に見る真新しい湖には光の花弁が浮かんでいた、どうやら光源はそれだった様だ。ここで疑問を抱く、この花弁が風に飛ばされて自分の所へ来たと言う事は恐らくこれの元有った花にも近いと言う事なのだろうが、何故この花弁はその有るべき場所を離れ私の所へ来たのだろうか。詩的なイメージとしては私に花が弱りつつ有ると言う事を教えに来た、と言う事でいいのだろうが事態はどうもそんな物語的な美意識に浸っていられる程軽々しい物では無さそうだ、恐らくもう花は死にかけているのだろう、ひょっとして全ての花弁が散ったその一欠片が運良く自分に辿り着いたと言う、そんなどうしようもなく悲しい事態なのかも分からない。全てを投げ出してしまった不甲斐無い自分を死に行く体で叩き起こしてくれた花、その花に会いたい、その太陽の赤子の兄弟に。花の有る場所に行けばきっと太陽の赤子の行方も掴める事だろう。その前に、この花弁をここに投げ捨てて行くのは忍び無い、かと言ってこれをそのまま持って行くのはなかなかに神経を使う、何かこの花弁の妖精と共に旅をするに当たってその弱き体を保護してあげられる物が必要だった。そして彼女は気付く、今まで彼女の体を支えていた程に強固な作りの水、これで妖精の聖域を作る事が出来る。彼女は水を削り取って削った水の真ん中に花弁を置き、それを丸め花弁を中心とした硝子球を作り上げた。水を貫いて尚元気に真っ直ぐに光り続ける花弁の妖精に彼女はにっこりと笑い掛けるとすっくと立ち上がり、川の上を歩き始めた。光の球を持ちながら迷い無く川の上を軽やかに進む彼女は、この死で覆われた世界を根底から覆す事が出来そうな聖者の雰囲気を持っていた。
「黒と白、絵画の中の光」
風の来る方に、自分の手の平に泳ぐ小さな光の妖精の旅路を遡る様に、彼女は進む、それは彼女が歩んで来た道程の続きでも有った、彼女はようやくこの光の妖精の眩しい祝福によって歩き出す一歩の勇気を、前を見据える眼差しの理由を得たのだった。目標はこの花弁の元有った筈の光の花で有るがそれ以前にそもそも目標としていたのは未だ以って全くその影すら見えて来ないが木々の宝庫たる森で有った。あの鳥を食らった森とは一体何を意味していたのだろうか、今にして思うがこの生命の存在しないかの様な暗い輝きの白い世界において動き寡少であると言う要素で動物より優位であるのだろう植物は、この世界では劣等な動物を吸収してまで生命を維持しようとした、と言う事なのだろうか。それにしては何故ここまで見えて来ない、何処にも植物の繁栄の証が無いのだ、繁栄の為に食らう必要の有った動物を全て食らい尽くして死滅してしまったにしてもその死骸が何処にも無い、有るのは生を勘違いしている草や花ばかりで主に動物を食らっていたであろう木々はまるきりその姿を見せずに居る。動く力と言う物を動物を取り込む事で継承したのかも知れない彼等は何処か目指す所が有ってそこに集結しているのかも分からない、今自分が向かっている場所はそうしたかつて木々で有った動体植物の巣で有るのだろうか。その予想が正しいかどうかとは別に、自分の手に乗る可愛らしい花弁は何処かその可憐な姿とは似ても似つかない恐ろしく殺伐とした生命の空虚の中心地から逃れて来たのだろう、太陽の赤子も存在しているのであろう、この世界の或る種の核なのであろうその場所から。彼女がそんな異形が住む魔境に向かっているのかも知れないと言う事実に身震いするがそれでもこの花弁の暖かな光は確実に彼女の進むべき道を照らし続けていた、彼女はただその光の道が示す輝きに身を浸して居るだけで臆病な心を奮い立たせる事が出来た。
それともう一つ彼女には気になる事が有った、彼女の服が段々と汚れ、擦り切れ出している。今までは全く傷付く事も何も有り得なかったのだが、空が赤く変転してからと言う物彼女の生命が弱るのに合わせるかの様に彼女の身の回りも劣化が始まっていた、死が目に見える形で彼女に忍び寄ってきているのだ。もうこの世界は、私を閉じ込める為の絵画でしかなかった筈のこの世界は変わろうとしている、絵の具で出来た私を溶かしてしまおうとしているのだ、水が水である事を思い出し始めているこの場所で乾燥し切っていた私を。だが、私はこの世界で太陽の赤子と並んで数少ない正しい動物で有る筈だ、動物を取り込んで動く事を覚えた植物などではなく。その私が消滅してしまっては正しさを残す事の出来る動物が居なくなってしまう、きっと太陽の赤子だけでは何も出来ないだろう、何故なら彼から受ける印象が赤子でしかないからだ、彼と私とで存在して始めて在り方が歪になってしまったのであろう植物を元に戻す事が出来るに違いない。溶け出した私を私に留める事はもう無理なのだろうが、それでもこの絵画の新しい色合いになる事は出来る、私と言う黒でこの白過ぎる狂った世界に調和の灰を齎す事は出来る。命を削られても、姿を汚されても彼女の心には何物にも砕かれる事の無い、絵の具で描かれた虚構ではなく、本物の彼女自身が居た。
「黒と白、森との遭遇」
森に入った、それは入らされてしまったと言うか、入れ込まれてしまったと言うべきか強制的な、心の準備を待つ事の無い、むしろその空間自体が彼女に入って来たとでも言った方がいい恐ろしく情け容赦の無い出来事だった。彼女は、入った瞬間に思った、殺されると、身を八つ裂きにされ剥き出しになった心さえ引き千切られて、完膚なきまでに食べ尽くされると確信した。だが、何が彼女を襲うのかは、少なくとも視覚の判断では理解出来なかった、彼女が死を確信した感覚、つまり心の判断だけが彼女が危険に晒されている事を痛烈に物語っていた。心の目には全てが見えていた、真新しい血のシャワーを浴びて来たばかりと言った出で立ちの赤黒い肌の人食いの鬼達が彼女の周りで嬉しそうに小躍りして地獄の賛美歌を絶唱している様が。今にして思えば彼らの正体についてちょっとした予見を見出したのは、物体としてでは無かったにせよ物の怪として彼女の小さき体を今尚凌駕していたその怨念の葉音大なる彼らの存在がすぐそばに迫って来ていたからなのかも知れない、と考えながら彼女は身震いを押さえようとして両腕の袖を引き千切らんばかりに掴んだ。周りの空間にこれと言った存在を視認出来ないのにも関わらず彼女にこれだけの絶望が齎されているのは正しくそれら魔の物が彼女の心に自らの在り方を直接的に伝達して来ている所為だった。その彼らの一人が言う、まだ人間が残っていたと言うのか、この人間の影を食らいたい、せっかく夕刻の闇が世界を覆い尽くし始めているのに我々に影が無いのは嘆かわしい、影こそがこの世界での存在の証であるのに。また他の一人の言葉、世界がお前達動物の世界から我々植物の世界へと書き換えられた時動物は自動的に植物の持つ影に吸い込まれるだけの餌に成り下がった、そして我々はお前達を食らう事で自分の影を維持して来たが我々にも動かないで居るには限界がある、動く場所はどんどんこの世界に否定され我々の体は遂に無に帰してしまった。また別の言葉、今までは風が無くなっていたから良かったものの再度現れたと言うのか、もう我々に体は無いとは言え我々の恐怖を今尚掻き立てる、もしこの忌むべき風が闇を失う前の我々を揺さぶっていたならその度に体の無は近付いたであろう、人間お前は何をしようと言うのだ、この風で我々の世界を吹き飛ばしてしまう積りなのか。そしてまた別の言葉、お前が我々を感知した衝撃で落としてしまったその水の球の光源は太陽の花の花弁か、それが有る内は我々はお前を食う事が出来ない、我々にとって太陽とは絶対的な物だからだ、我々がお前と言う闇を取り込む為の口を開けたならばその口に光が入り込んできてしまい我々は消滅してしまうだろう、我々植物は光と言う神に背いた闇の眷属に成り下ってしまったのだ。別の言葉、お前がもし太陽の花に辿り着こうとしているのなら止めた方がいい、あの忌々しい地上の太陽さえ無ければ我々もこの光を否定し闇だけを求める体に安心出来る筈なのだがあの太陽が有るおかげでそうもいかないからこうしてあれをどうにかしようと集まっている、天の太陽が偽りだと感じられる以上、この世界の光を保っているのはあれだとしか考えられないのでね、ああ、集まっているのはもう体を動かしたからと言って失う物が何も無い上動物を取り込んだ事で動く能力を獲得していたからなのだが、そうして集まってから今までもあの太陽を殺そうと仲間達が無謀にも挑んでいったが全員返り討ちに遭い死んでしまったのだ、最近は空が赤く染まるにつれ弱り始めているとは言え、我々植物にも太刀打ち出来ないのだからお前の様な動物が近付いても尚更何も出来ないだろう、ここで大人しくその光の花弁を風に乗せお前の下を離れさせ、我々の一部となるが良い。彼女は疑問を抱いた、私自身も闇の塊だと言うのに何故闇の眷属である彼らは私を敵視しているのだろうと。その疑問は読み取られてしまった、彼女にもはや単独思考の自由は無かった。言葉、お前が闇の塊だと言うのか?我々はお前の闇を吟味する舌を出す訳には行かないからその事実を判別する事は出来ないがそうか、もしかすると我々が食らい尽くしてしかし我々の体から流出して行った全ての闇がお前と言う餌に集約されていると言うのも有り得ない事ではないな、あれだけ光の眩かった世界だ、闇は色々な個所に散らばっているよりも一箇所にまとまっている方を選んでいたのかも知れん。別の言葉、そうだとすると今夕刻となっているのも頷けるな、お前が光の花に近付き過ぎた余りに闇がお前の体から流れ出しているのだろう、夕刻の色と同化する事は叶わないがもしお前の闇全てが空に解き放たれたなら我々は夜と言う安らぎの死に溶け込んでこの闇得られぬ永き苦しみの時に終止符を打つ事が出来るのかも知れないと言う訳か、これは面白い。そして言葉、しかし、お前はでは何が望みなのだ?闇の体をして光の花に出会いに行って、そこに何を見出す?このまま行けばあの光の花ももはや最後の花弁を残すのみとなったし、お前もあの花も朽ち果てて全ては夜と言う我々の楽園となる、何もかもが今までの光の停滞から闇の停滞に陥る事になるのではないか?彼女は圧倒的な質量の殺意に飲み込まれたままで、その質問に答える余裕を持てなかったが答えは決まっている。光と闇は交じり合っても終わってしまう事なんて無い、きっと光に闇が色を付け、そしてそれが七色の虹を生むのだ。
「黒と白、沈黙」
言葉と殺意の蜘蛛糸に絡め取られた黒鳳、今も丹念に獲物を取り分けようと言った飢えた蜘蛛植物達に更なる糸で縛り上げられている所だ。彼らの言葉は続く、ただ、彼らが一方的に話し掛けると言うのはもう終わり、今度は弱々しく浮かんで来る彼女の心の疑問に対しての返答の形式になっていた。
何故、あの草や花は形が有るのに触るだけで死んでしまうの?返答、奴等は我々と違ってこの世界でかつて己を保つ為の存在だった影の保有領域が少ない。それ故影の捕食もままならずこのままではまともに生きていけないと分かったので死を選んだのだ、だがそれは単純な死ではない、生物は影を保てないと言う位で自分は死ななくてはならないとは簡単に納得出来ないものなのだ、奴等は自らが完璧な形を保ったまま死を選んだものだから死にながらどうしても自分が生き続けていると言う誤解を捨てられなかった。そして影の分身であるお前に触られてやっと自分が死んでいる事を理解して成仏出来たと言う事ではないか。奴等は自ら死を選ぶしかなかった出来損ないの植物だが、かつては我々の仲間と呼ぶ事が出来た存在だ。お前が奴等をどんな形であれ葬ってくれた事には素直に感謝を述べよう。
何故、この世界には人の生きた証が無いの?返答、この世界は、完全に植物の世界なのだ、自然界そのものなのだ、人間が後から築き上げた文化などはこの世界で存在を保つ事は出来ない。
あの川の向こう側の世界は一体何?返答、あれは動物、特に人間主体だった世界の名残だ、我々の居るこの世界とあの破棄された古の世界とはもはや次元を異にする。今世界は生まれ変わろうとして居る、物理的存在の世界から我々精神的存在の世界へと。
その精神的世界と言うのはどう言う物になると言うの?闇に閉ざされた、闇の快楽の世界になるだろう。我々ももう闇だけを愛する存在にすっかり変容してしまった。その我々に一番適した環境、空間がこれから形作られていく事になる筈だ。ただし、このままあの太陽の花が上手い事朽ち果ててくれればの話だろうが。
何の変容も無い、完全な静の世界と言う事か。だが、それならば私に赤子の様に撫でる事を要求してきたあの水は一体なんだと言うのだ。あれは正しく変化を望む者の一員ではないのか。今になって吹き始めて来た風にしたってそうだ、やはりこの世界の本当に有るべき姿が静の方向に有るとは思えない。植物だとて、本来的には静の生き物ではないだろう、太陽に向かって力一杯枝葉を伸ばし、地に染みた水を逞しく吸い込み、愛らしい花々を付け、風に虫に鳥にその花粉その種を運ばせる、そんな素晴らしく活動的な生き方がその有るべき姿ではないか。植物に静世界への憧れが大きいのは理解出来るが、それでも動物と共に歩む道を選んで欲しい、上手な共存の道を人間が知らなかった結果こう言う神の怒りが生んだとしか言い様の無い悲しい世界が一つの答えとして導き出されてしまったのだとしても。返答、やはりお前は人間側の発想をするのだな、我々は人間にもはや希望など持てない、何故こんな植物にとって都合の良い世界が形作られたのかは分からないが、それでも元居た世界に帰りたいとは微塵も思わない。人間は神にでもなったつもりで自然を我が物顔に弄び過ぎた、これは当然の帰結なのだよ、神は出来損ないと分かっていた人間を諦め切れず自然を与えたが、人間はその与えられた宝物を玩具だとしか思わなかった。子供から成長出来なかったのだよ、お前達人間は。それに対する彼女の返答は無かった。
「黒と白、太陽と言う問い」
もう彼女には森の時間潰しの為に提供する疑問と言う物もほぼ尽きて来た、だが最後に残っていた未解答事項は疑問と呼ぶには余りにも莫大な、そして深遠で揺るぎ無い空虚であり、その空虚を輝きの真実で埋め尽くされるのを今か、今かと待ち望んでいる赤子であるかの様に混じり気の無い知への欲望を含んでいた。それは、太陽とは何か、という問い、だった、勿論その問い掛けは森のざわめきを誘った、何故なら彼らにとって太陽とは忌むべき光の源である以前に根源的な部分で逆らいようの無い彼らの生への本能全てを裏付けるかの様な絶対的礎だったからだ、それは信仰心に因らない神、とでも言うべき抗いようの無い先天的信仰対象、偶像も何も要らぬ心の、細胞の核としての存在なのだ。だが、彼らはそれに意味の無い抵抗を試みる、彼らは闇の眷属としてのなけなしの誇りと自負で太陽の超越的な存在感を打ち砕く彼らなりの論理を彼女の心の中に生じた空虚に嵌め込もうとし始めた。意見の一、太陽とは、以前までなら天の太陽の事を指していたのだろうが今となってはそういう事も無い、我々を苦しめる地上の太陽花、あれこそが今のこの世界の太陽としての立場を預かっているのは想像に難くない。意見の二、しかし、我々はあの太陽を否定しようとしている、これからの世界は闇に落ちていくとして、その世界での太陽に当たる存在はでは何になるのだろうか、つまり、我々の存在意義を支える様な闇の輝きを放つ中心点は有り得ないのか、闇と言う虚無だけが我々と親しげに溶け合う静寂だけが残るのだろうか。意見の三、あの天の偽りの太陽、あれはもしかするとこの太陽花が太陽としての神権を手放した時にそれをまた新たに掴み取るべく存在しているのではないか、あの天の太陽はこの過程としての世界を経ての新生を試みているのではないだろうか。意見の四、闇の太陽、それは月と言い換えても良いか、つまり、天の太陽は、また新たに太陽に戻るか、それとも闇の光のみ放つ月になるか、その選択をしようとしているかも知れないと言う事か、勿論我々としては月以外に望む選択肢など無いのは明らかだが。意見の五、だがあれだけのやかましい輝きをそうそう太陽が捨てきれるとは考えられぬ、あれを封じ込めるだけの絶対的な質量の闇、それを天の太陽に流し込む事が必要ではないか。その意見と共に精神的存在の彼らによる意識の槍が彼女を一斉に突き刺した、彼女はその衝撃で気を失いそうになったが槍が余り深い所まで彼女を刺しきれずに居るのが分かった、彼女に鎮座する、太陽という真実への真っ直ぐな探究心が堅固であるせいだったが彼女はそこまでは理解しなかった、ただ彼らが太陽という事柄への扱いに対し非常な恐怖を抱いている事は良く分かった。意見の六、この人間は闇の固まりだと言う、もしかしてこの者があの太陽花と出会った時に我々に相応しき闇の太陽が生まれると言う事ではないだろうか、地上の太陽をこの闇の者が受け入れる事で両者が天に居る偽りの太陽の新しい心臓部として活動してくれると言う考え方は出来ないだろうか。その意見が森の総意となるまでにそう時間は掛からなかった、彼らはあの太陽花に対しての己の無力さを嫌というほど分かっていた、新しい方法に飛び付かない方が不自然という物だ。彼らは意識の槍で突き刺した彼女を立ち上がらせようと命令を送る、立て、そしてあの太陽花の所まで行くのだ。だが彼女は歩けなかった、体の緊張が極限まで達していたので上手く体を動かすことが出来なくなってしまったのだ。彼らは彼女を無理に追い詰め過ぎてしまった事を悔やんだがもう遅い、彼女が落とした硝子球が水になって太陽の花びらが風に飛ばされ邪魔立てする物が無くなった所で彼女を食べ闇を取り込み、その闇で最後の戦いを挑むしかないのか、そんな諦めにも近い考えが彼らを支配し始めたその時、彼らにとってのだろうか、彼女にとってのだろうか、場の停滞を破る救世主が現れた。
「黒と白、蝶の舞」
救世主、それは紛れも無く彼女にこの世界での本当の光の朝を告げた、あの光の赤子で在った、その帯びる光の神々しさこそ弱まっているとは言え彼女にはその光がなんとも頼もしく思えた、天の何の手も差し伸べてくれる事も無くただ漫然と光を露出しているだけの飾り物の太陽とは比べ物に成らない程に。そして今まで彼女を痛々しく刺し続けていた意識の槍が彼の放つ光の剣に押し返され彼女に到達出来なくなっているのを知った、恐らくはこの真実の光の有る領域に於いて意識を開放してしまうと死がその意識と言う首筋にすぐさまに飛びつき噛み千切ってしまうからだろう、そんな強張った恐怖心が森に広がっているのは今までの様な意識伝達の直接性はなくとも感覚として良く分かった。だがそれ以上にどうやら彼らは安堵の溜息もついているらしい、彼女という闇を纏ってあの太陽花に最後の命懸けの戦いを挑まなくて済む、と言う安心感が真実の光を前にした恐怖を上回って彼らに与えられている様だ、この光の赤子が彼女を太陽花に導こうとしているのは森にも彼女にも明らかだった。彼女は立ち方、歩き方を忘れた筈の体が嘘の様に機敏な立ち居振る舞いで、まるで王子に踊りを誘われた姫の様な優雅さで光の赤子の目には見えない手を取り、そして光の赤子に連れられる形で前へとその一歩を踏み出した、勿論王子の手を取っていない自由である方の手には王子から贈られた光の宝石が少し崩れかかった水晶球に守られて眠っている。光に包まれた二人の聖者が通る道筋は余りにもそんな二人には似つかわしくない汚れた罪深い存在達の放つ悪意に満ち満ちていたが、それらに全く負けない位の力強さが二人の周りには有った、今まさに本物の太陽への二つの鍵としての存在がここで一つになって地上の太陽へと一歩一歩を踏み締めているのだった。
世界は元々が闇に沈みつつ有ったが、歩き続けるにつれ不自然な位にその闇が支配力を強めていくのが分かった、森が深くなればなる程光の遮りが強くなればなる程二人の光はその光としての在り方をくっきりと鮮明にさせた。彼女は思う、森は、自らを闇の一族だ等と言っていたがその実こうして森の遮りを増すにつれ天の太陽の光が届かなくなっていく、これはつまり彼らが光を未だ自らに取り込んでいる、と言う事の何よりの証ではないだろうか、もうこの疑問に答える意識の介入は無くなっていたが、寂しげに暗がりに落ちていく森の深部が彼らの本音、寂しさの色合いで有る様に思えた。彼らはきっと本当は天に真の太陽を頂いて地上を緑の楽園として造形していきたいと思っているのではないだろうか、その緑の楽園を祝福してくれる動物をそこに招き入れたいと考えていせているのではないだろうか、そしてそんな平和に過ぎる考え方をもし今も森が受け止める事が出来たら大急ぎで否定しようとするのだろう、と思うと彼女は可笑しくなってしまって本当に久しぶりに笑みを漏らした、その笑みに光の赤子が振り返るが、彼女の健康的な笑い方に安堵したのかまたゆっくりとでは有るが確実な歩みを再開した。そういえば、と彼女はその場でちょっとしたステップを踏む、影の動きを確認したくなったのだ、全くに一方向にしか伸びる事の無かった彼女の等身を崩す事の無い彼女から漏れ出している闇である所のその影の挙動を。彼女が踊ると、影も踊った、彼女の闇を流血させている存在が間近に迫っている、もしくはこの太陽の赤子がそうさせているので影の位置も今は彼女の意のままだった。世界がゆっくりと暗くなり、その影がしっかり影として視覚に捉える事が出来なくなるまで、彼女は楽しそうに踊りながら進んだ、それは自らの闇の体を世界に捧げようとしている巫女の舞いの様にすら思える、闇の少女と言う羽根、彼女の分身影と言うもう一枚の羽根による華麗なる揚羽の飛翔だ。黒き揚羽はその羽根で太陽までたどり着く事が出来るのだろうか、そして太陽の黒点として太陽に受け入れて貰えるのだろうか。
「黒と白、重なる心」
闇は絶えず深まり続け、そして森は完全な黒を宿した、そう、彼女の流す血の色そのものに空間が余す所無く塗りたくられた。彼女はこの光しか許されていない様な世界であったここで初めて究極の闇を経験していた。ずっと前、思い出す事も難しい位、と言うよりそんな考え方を放棄していたのでそれを取り戻すのは単なる思い出すと言う事の難では無かったが、とにかくもう自分がそんな事を思っていたとすら疑わしい位今の自分から切り離された過去に純粋なる闇への憧れと言う物を抱いていた、たとえその時の憧れを削る事無いまま今ここに自分が居たとしても、恐らく満足を得る事は無いだろうな、彼女はそう感じていた。それは一つには近くに安らぎの白を放つ太陽の赤子が傍に居るせいも有る、こうして黒に囲まれて、黒以外への飢えを覚えさせられていると言う時に即座にその飢えを癒してくれる存在が有るというのは貴重である、それは正に砂漠のオアシス、地獄の仏、罪深き自分の恋人と言った輝ける光の側の存在で有って闇に閉ざされた者ならばどうしたってその光射す方へ歩み寄って行こうとしてしまうだろう、事実彼女が今この冷たい黒の空間でたゆみ無く迷い無く歩き続けていられるのは暗き洞窟を行く時の松明としての太陽の赤子が行く道筋を示してくれているからだ、やはり闇ばかりの世界に、正しさなど無い、闇が必要ではないという事にはならないだろうし実際それが潰える事など有り得はしないだろうが、その絶対的存在の闇に対抗する拮抗しうるもう一つの在り方の強固さを誇る光と言う剣は、どうしても無くなってはならないのだ。
やがて闇の洞窟は後方に行き過ぎ、そして彼女の瞳に与えられる太陽は二分した。彼女は、太陽の花の聖域に来たのだ、そして唐突に意識に干渉する概念体、言葉が現れた、それはどうやら太陽の赤子の発する心への言葉である様だった、その言葉を聴いた瞬間、いや恐らく彼に意識を触れられた瞬間だろうか、彼女は全身に懐かしさや愛おしさが駆け巡るのが分かった、この太陽の赤子、いや太陽の彼はどうしたって他人ではないのだ、何か自分と深い関係性が有りつつ今まで離れ離れでお互いを求め合っていたのだ、その事実を直感した時には彼女はもう彼の言葉以外には何一つ要らない真摯なる聴者と化していた。
彼は伝える。今まで話しかけることが出来なくてごめんなさい、僕はあの森達と同じで森が傍に居るときに意識を開放する事が出来ないんです、彼らに意識の槍で串刺しにされない為にも無言という盾で自らを守り続けるしかなかったのです、でもここならば大丈夫、ここは太陽花の為に彼らが作った闇の障壁で閉ざされているから。
ここで本来なら彼女は疑問を差し挟むべきなのだが、彼女にとっての神聖なる話者にはそんな無粋な物は要らなかった、確かに彼女の心には話への返答としての疑問の原型の様な物は随時形作られるが、それを意識の伝書鳩として彼の心に羽ばたかせなくても彼は彼女の心に優しく触れるだけで全てを分かってくれるのだった。
彼は続ける。この障壁は彼らが闇をその身に宿していた時に作った物です、彼らは最初は太陽の花にその己の持つ闇の力で立ち向かっていきました、でも彼らには全く歯が立ちませんでした、向かって行った所で彼らの命を無駄に浪費するだけで、太陽花はその輝きを弱めようとはしませんでした。そこで彼らはこの花をどうにかするのを諦め、この花の輝きを彼らに届かせなくする為の障壁を作ったのです、それで彼らの闇の力はかなりが失われてしまいました、彼らや僕、そして貴方はこの世界で動く事を許された数少ない存在ですがそれでも完全に自由に動き回れる訳ではなく実際その身に纏う光や闇は動く度に失われていきます、僕らと比べて個々の力の弱い彼らは闇の流出がそのまま影の喪失、つまり体の欠落に繋がっていたので宿す力が弱まり身体の闇を漏れ出させる傷口が増えれば増える程流出は加速しました、そうして弱まった闇の力はどんどん彼らから放出され、貴方と言う闇の化身として結実しました。尤も、今の彼らはあの時の彼らとしては生きていないので己の所業の事などまるで記憶してはいないでしょう、太陽花が有る、そして自分達にはそれに太刀打ちする力が無い、と言った部分に関しては覚えていても自分達が闇の壁を作ったという事は覚えてはいられない筈です、身近に餌の塊が有る等と言う記憶が有ったら居ても立っても居られなくなる筈ですから。どういう風にしてか、彼らは闇の一族として生きていた自分達を一度殺したのだと思います、彼らは色々と今の僕の発言と辻褄の合わない、己の立場を正当化する為の嘘を喋ったと思うのですが今ああして森として生きているのは闇の器だった只の抜け殻、いわば亡霊なのです。彼らの理想はもう彼らが彼らを殺した時に終わっているのでしょう、彼らがそれについて語っていたとしても、それは只の理想の残骸です。
話を戻します。僕は彼らが闇の壁を作る直前に生まれました、多分太陽花が花びらを落とした時に生まれたのだと思います、そして僕が生まれた時には、最初にそれが何枚有ったかは分かりませんが、花びらは残り二枚にまで減っていました、その二枚以外の全ての力で僕は作られたのだなと思いました、それだけ僕にこの太陽花としては賭ける物が有るのだな、と。闇の壁が作られてしまえば僕はきっと闇の壁の向こうに辿り着けなくなってしまいます、僕は太陽花がお守りにと言わんばかりに落とした花びらを咥えると急いでその場を離れました。こうして今最後の花びらだけを残したみすぼらしい姿になってしまっているこの花ですが、僕がここを離れた時と同じ姿のままで居てくれたので良かったです、図らずもこの闇の壁は太陽の花を守る役目を果たしてくれた様ですね。
僕は森を駆け抜けました、森が驚きと共に僕を攻撃しようと闇の槍を飛ばして来ましたが、僕は太陽の花の全力で作られた光の戦士です、そう簡単には負けません。それを何とか切り抜けると僕は森を抜け出る事に成功しました、闇の壁に封印されてしまった太陽の花が心配では有りましたが、僕は僕の成すべき事が来るのをじっと森の外で待ち続けました。
そして、それから僕は森の宿す闇の行方を感知する事に精を費やしていたのですが、その闇の流出先がどうやら一所に偏っているらしい事に気が付きました、それが貴方だったのです。僕は貴方の所まで駆けて行きました、そして出会いました、出会って、貴方の持つ闇の力に僕は震え上がりました。僕は心閉ざした貴方にそっと鳴き声を上げ、と言うのも僕の体が子犬だからですが、そうして貴方に僕に付いて来て貰おうとしました、ですが泣き始めてしまった貴方、この世界の外部からの刺激に不快感を覚えた貴方から発せられる闇の波動は僕の体には余り有る物でした、貴方の傍にいたら一日もしない内に命を奪われる、そう感じた僕は必死にその場から逃げ去ってしまいました、自分の役目も何も考えられず、ただひたすらに。
それから何とか貴方から離れて冷静になってからは、如何に貴方に森まで来て貰うか、と言う事を考えました、貴方から離れたままでどうにか貴方を森に導く術は無いものか、と。考えてもいい方法が浮かばないので、とりあえず自分が闇の行く末、つまり貴方の行く末を感知出来る能力を利用しました、貴方は運良く僕が逃げ去った方向に歩み寄って来てくれていたので僕は暫く貴方が近付いて来るのを待つ事にしました。そして或る程度まで貴方が僕の近くまで来た時に自分の光が弱まっていく感覚を覚えました、貴方の闇に光が削り取られていたのでしょう、これを感じた時にああ、恐らく貴方も同じ様な感覚に捉われているに違いない、この感覚が有るなら貴方を上手く森まで誘導出来るだろう、と考え僕は命とも言える光を失い続ける覚悟で貴方と歩調を合わせ歩き続けました。
しばらくそれを続けていくと思いがけず、世界は夕日に沈んでしまいました、貴方と僕の干渉が長く続き過ぎたので貴方に留まっていた闇が世界に流出し過ぎてしまったのでしょう、そして貴方は歩く気力を失ってしまったのか、歩くのを止めてしまいます。僕は困りました、また貴方に向かって歩いて行って貴方に立ち上がって貰おうと鳴き声を上げる事が出来ると言う程自分の光の力はもう残っていなかったからです。そこで僕は太陽の花のくれたお守り、貴方が今手に大事に持ってくれているその花びらを風に浮かべて賭けに出ました、もし貴方の所までこの花びらが辿り着いてくれたなら、貴方はこの花びらの輝きにまた歩く気力を取り戻してくれるかも知れない、と思ったのです。そしてその賭けは成功してくれました、貴方はまた歩き出す気力を復活させてくれました。それから僕は貴方が森に入るまで森に入らないまでも程々に森に近い場所で待機していました、僕が最初に森に入ってしまうと森との戦いで僕が死んでしまう事になるかも知れないと思ったからです、貴方もお守りの光の花びらを持って来てくれていたし、そんなに直ぐに危険にさらされる事は無いだろうと思っての判断でした、彼らの恐怖を味わわせたくは無かったのですが、僕と言う意識介入の妨げを彼らのそばに置かないでおいて、貴方の存在を闇を太陽花にどうしても纏わせたがっている彼らに悟らせれば僕らに危害を加える事も無くなると思いましたし、二人が生きて太陽花に辿り着く為には仕方なかったのです。しかしもう僕の光では貴方に影を作る事は出来なくなっている様で、貴方の影が太陽花に対するものとして存在していたのには驚きました、太陽花が必要とする所の貴方は、あの闇の壁さえも越えて太陽花と共鳴出来る物なのかと。
闇の壁も貫く程の太陽花への干渉力を誇る貴方となら、きっとこの壁を通り抜けきれるだろう、そう信じて僕は貴方と一緒に闇の壁に入って行きました、広大な闇の中を、僕は太陽花がこれからなそうとしている事に必要だとする、正しい闇だと信じられる貴方と共に居たからこそ自分を失わずに歩き続ける事が出来たのだと思います。
ありがとう。
これは二人の言葉だった、初めて彼女が意識として飛ばした言葉が彼の発したそれと全く重なったのは、きっと偶然では無かった。人と犬、意識間でしか交流の出来ない二者は、だが意識を通じてより深く分かり合える。死の近いだろう二人は、そんな死などよりももっとお互いを近くに感じていたに違いなかった。
そして彼は言葉を紡ぐ、彼には死ぬまでに伝えるべき言葉が有る。それで、僕にはこの太陽花が持っていたのだろう知識が有ります、この世界に関する知識です。あの天の太陽、貴方にとって嘘くさく感じられている筈のあれは、貴方の心臓です、あれが有るから貴方は生きて来られたのです。正確に言えばこの世界の心臓なのですが、そうではなく貴方の心臓というべきなのには理由が有ります、この世界は、貴方自身だからです。この世界は貴方との関係性との中にのみ成り立っています、例えばあの森は貴方が人間界で生きていた頃に貴方が何らかの形で関わった植物です、目にしたか、触れたか、葉擦れの音を聞いたか、そうして貴方との関係を獲得した木々だけがああしてこの世界での存在理由を得ています。僕が子犬なのもそうです、人間も動物も基本的には存在できないここで僕が子犬として存在できているのは貴方がただの人間の少女だった頃に飼って愛していた子犬だからです。彼女は今、水辺で愛しい物の輪郭を形作ろうとしたと言う行為を思い返していた、いや、あれはあの時には確かに物程度への愛おしさだったのだが、果たして今感じている感情はその程度に留まるのだろうか。疑問の原型と呼ぶには余りにも目立つその概念は殆ど言葉として彼に届いた、そしてそれは彼らの間に沈黙を呼んだ。数瞬の後、彼女は初めて彼にはっきりとした疑問を投げかける、貴方は、本当に私が飼っていた子犬なの?
午前零時「藍、静けさ」
彼は目を泳がせた、それは答えを知らない悲しさ、答えを教えて欲しい悔しさ、答えを分からないままでいて欲しいもどかしさがそうさせる、満たされない心情の表れとしての動作だった。それでも、彼は口を開かねばならない、今まで話を全て黙って飲み込んでいた彼女がわざわざ放った言葉、その重みを彼は知っている、彼女は、今ただ彼が放つ言葉ではなく、彼女の言葉の欠片に嵌め込まれる失われたもう一片としての彼の言葉の正確な輪郭を必要としていた、曖昧に誤魔化した言葉ではなく、ちゃんと彼女の目を見て、淀み無く自信を持って言い切れる様なそんな力強い口調、表情、男らしさに基づく言葉が欲しかったのだ。だが彼女の望みは彼には残酷に突き刺さった、何故なら彼は分からないのだ、彼女に対しこの世界の全てを話してあげる事が出来ると言う程に喋り手としてよく完成されていたが、悲しいかな彼には自分自身については恐ろしく無知であり、やはり太陽の花から作り出された太陽の赤子でしかないのだった。太陽の赤子は、彼女の前で今男として成長する局面に立たされている。太陽花に残る一枚の花びらを蝋燭の炎として、暗がりの二人はお互いの顔を見つめ合っている。
彼は、意識の口を開いた、悲しげな表情そのままに、だが目線だけは彼女にしっかりと向けて語り出した、そうなのだと思います、でなくては貴方の世界であるここで存在できる訳は有りませんから。でも、僕は自分が只の貴方の子犬であるとは思えません、思いたく、有りません。そこで一度口を閉じた。この続きは今話す事ではないとお互いに了解が生れたからだった、今はまずこの世界と言う謎めいた真理を彼女に理解して貰う事が先決だった、二人の心の理解は、煩わしいそれらを片付けてからでも遅すぎはしない。
彼は彼女の質問が有った前までを脳内で再生し、自分が喋るべきである事を確かめ、構築しそして彼女に向けてその完成品を披露した。この世界が貴方との関係性によってのみ成り立っている、と言う話の続きでしたね、それはこの花に関してもそうです、今までにここに旅をしてくる間に幾つもの花々を目にして来た事と思いますが、あれら花は、貴方の心の希望なのです、希望と言うには少し違うのですが、ともあれ、あれが貴方の生命への意志を表しています。この世界は貴方に閉じこもった世界であり、この川の向こう側の世界、今はもう川などと呼べる程の幅ではなくなっていますが、この海になろうとしている川に浸食されていく世界と同化しなくては以前の世界を取り戻す事が出来ません、何故ならあの向こうの世界が以前人々や動植物達が太陽の微笑みの中で平和に暮らしていた世界の名残だからです。花は貴方の意志、そして川辺に有るこの花が太陽花として特別に存在しているのは、貴方の心にまだ閉じ篭り切らない以前の世界への憧れが生きているからです。でも逆に言えばこの花を失えば川辺の花は無くなる、貴方の心が閉じ篭り切ってしまうと言う事ですから状況は深刻であると言えます。僕らは、あの世界が完全にこの世界に取り込まれるまでなんとしてもこの花を生かし続けなくてはなりません、勿論、この状況を導いている貴方が以前の動物と植物が仲良く手を取り合って光の中で共存している世界を望むなら、の話なのですが…。
彼女の心には質問するとまでとはいかないまでも分からない事への疑問が幾つか生じたが、彼はそうした物を感知し選り分け的確に答えていった。あの以前の世界の名残に人々の文化の痕跡が全く見られないのは、貴方も不思議に思っているでしょうがそれは人々の活動した証の全てはあの天の太陽に封印されているからです。この世界に関わる事の出来なかった動植物は植物がこちらの世界での様に動物を食らってしまったかの真偽は置いておくとして向こうの世界に置き去りにされているそうなのですが、見ての通り侵食され続けているのでこの広がり続ける海に生命の種として吸収されてしまったのでしょうね。そして天の太陽が取り込んだ物はそうして一緒くたに吸収する訳にはいかない、何か人という生命を構築するに当たっての特別な生命の源と言う事になるのでしょうが、とにかく、貴方はあの人の生命力全ての塊と言った光の心臓で生きているのです、それを嫌な唾棄すべき鬱陶しい物だと認識してしまうのは貴方がその生を何処かでは否定し続けてしまっているからでしょうね、その生への嫌悪を克服するかそれともそのまま抱き続けるかで今後の世界の展開は変わって行く事になります、貴方は人の最後の審判を下す神の光をその手に宿しているのです。そう言われ彼女は自分が手にしている崩れ掛かった硝子球の中の花びらを見る。とても小さい光だが、彼女の目を突き刺す程に揺るぎ無く、強烈な光だと改めて感じた。
彼の話は続く。貴方の生命力が今非常に弱っているのはその太陽との繋がりが貴方の闇の流出によって薄まってしまっているせいです。あの人の太陽が貴方を支える役目を失えば今度は別の物を支える命の源として活動する事でしょう、それがいったい何なのかは僕らには知る由も有りません。ただ言えるのは、貴方の気持ちの持ち様一つでそれは悪魔にも天使にも成り得る、と言う事です。何が天使で、何が悪魔かと言う判断さえ貴方の手に委ねられていますが、僕は貴方が笑顔で良しと言い切れるような悔いの無い決断をして欲しいと願っています。
そしてただ太陽の花から受け継いだ簡単な事柄でしかなく、それを語れたならどんなにいいだろうかとつくづく思う詳細までは語れませんが、人間として生きていた貴方についてもお話しておきましょうか。貴方はごく普通の家庭に生まれ育ちましたが、それでもただ一つだけ普通ではない事が有りました、貴方は月に月の巫女として選ばれた存在だったのです。月の巫女の役目は、今貴方が選んでしまったこの世界に太陽の下に有る正常な世界を引き摺り込むか、そうしないかと言う事です。ですが人間生きていてここでは無い何処か別な世界が開けるのならそうしたい、と言う願望をなかなか捨て切れる物では有りません、人間社会と言う物が何度この月の巫女達によってリセットされ続けてきたのかは分かりませんが、恐らく全員が全員この世界を選んでしまったのではないでしょうか。この星の監視者である月としても世界の扱い方の乱雑な人間に嫌気が差して月の巫女と言う裁断者を送り込むのでしょう、だから一考して身勝手に思える月の巫女の判断もそれはそれで受け入れるべきなのかも知れません、月の巫女が全く満足な素晴らしい人生を送るのでない限りは、月がこの世界が成立してしまう事を望んでいるのですから。それに、月の巫女にはそう選ばれたに相応しい試練の様な人生が用意されていた可能性も有ります、例えば貴方の子犬が不慮の死を遂げたりしたとか…。彼の言葉にはそれ以上の含みが有った、そして彼女はその意味に彼女に封じられた過去をナイフで抉じ開けられる様な痛みを感じ身震いした、不慮の死、彼女の親しい存在が失われる事があったとして、それは本当に子犬の死だったのか、と。
彼の言葉に、彼女は我に帰る。そんな想像の話では何も分かりませんね、止めましょう。それで、あの天の太陽が嘘くさく感じられる理由がここにも有ります、あれは月なのです、この月の巫女が選んだ閉じた世界で我が物顔に天の太陽の振りをしている月なのです。あの天の太陽の嘘を暴かねばこの世界に発展は有りません、月は月ですから。ですがこうして太陽花に己の所業の全てを記録し僕に伝達させていると言う事は、月は月なりにこの負の輪廻を断ち切って欲しいのかも知れないですね、僕もそうなって欲しいです。僕らがこうした事実を知る事で覚える思いのかけらが次代の僕らの役割を受け持つ人間にひょっとして受け継がれていく可能性も有りますしね、随分楽観的な見方だとは自覚していますが僕はそう信じています。そこで彼はきっと彼女の瞳を見つめる、光に囲まれているのではっきりとは見えないが、それでも意志の強い凛とした美しい瞳が彼女には見て取れた。彼は言い放った、貴方は現実世界を捨てたいと思う様な、自分の命さえ忌み嫌ってしまう様な嫌な事をきっと経験してしまったのでしょうが、どうか勇気を振り絞ってこの太陽花の最後の一片が落ちるその時まで、僕と一緒にいて下さい、お互いの光と闇を殺し合う事になってしまうでしょうが、それでも僕と一緒に最後まで離れずいて下さい。彼女は微笑み、喜んで、と口を開いて頷いた。彼もそれに応じるつもりだったのだろう、元気良く子犬なりの精一杯の鳴き声を上げた。
二人は寄り添い、広がり続ける海を眺めながら、蝋の火が弱り切るのを待っていた、その火が消える時が、きっと二人の命の消える時だった。二人はもう何日もそうやって黙って過ごしていたが、彼が彼女に問いかけた事でその長い沈黙の日々は破られた。僕は、貴方にとって子犬ですか?それが彼の質問だった。彼女は彼の頭を優しく撫でながら冗談めかしてこう答えた、なんだっていいじゃない、貴方は私の可愛い存在なんだから。彼は悔しそうに、そんな答え、意地悪過ぎます、と返した。すると彼女は彼の頭を撫でるのを止めて、人間に対してする様に手を握り締めた、小さな子犬の手を、五つの指で大きく包み込む様に。それきり彼は何も言わず、そしてそのまま一日もしない内に息絶えてしまった。彼の光が消え、はっきりと子犬の姿が現れた。彼の死が分かっても彼女は手を繋ぐのを止めなかった、最後まで離れずに一緒に居る事、それが彼との約束だったから。生前に彼と交わした約束は一つも覚えていない彼女にとってそれが彼とのたった一つの大切な約束だった。
向こう側の世界が完全に水平線に飲み込まれた時、蝋の火が消えた。彼女は迎えの時が来たのを知った、もう私の体の闇は全て出尽くしてしまったのだろう。私から解放される天の太陽の光は、これからどんな生命を選ぶのだろうか、私は恐らく、死んでしまった恋人を求めるばかりに月の死の世界を選んでしまった情けの無い月の巫女でしかなかったが次の月の巫女はそんな事の無い様に平和な人生を歩んで欲しい、彼女はそう思った。彼女の瞳の月が彼女から離れ天に昇っていく。二つ寄りそう様にして昇る光、それは彼女と彼の魂の光だったのだろうか。彼女は消え行く薄れた意識の中で金具の音を聞いた。それは死んでしまった彼の首に掛けられた首輪に彼女が触れて鳴った音の様だった。彼女はその子犬の首輪にしてはサイズのおかしい金属の輪に刻まれた文字を何とか読もうとした、イルメイ…アス。何の言葉だろうか、この子犬の名前だったのだろうか、それとも…と彼女は自分の靴にも金具が付けられていたのを思い出した。そして彼女はそれを確認しようとしたが、瞳の月が天に昇り切ってしまっていてもうそうする事は出来なくなっていた。それでも彼女は諦めずに感触だけでそれに刻まれているであろう文字を判別しようと試みた。ファウバウ…ゼィナム。以前は読む事なんて出来ずただの模様だと思っていたのに、今は触るだけでそれを識別する事が出来た、恋人と心を触れ合わせ、失くしていた人としての記憶が蘇っていたのだろう。恐らく生前私達は名前をお互いの装身具に刻み合っていたのだろうな、と彼女は考えた。懐かしいその響きに涙毀れ、その涙は広く深い藍色の海の一滴となって彼女の命と共に消えた。
Sa ra i ra 篠崎彩人 @sinopaso2
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