Sa ra i ra

篠崎彩人

「太陽と月が泣いたのは、どうしようもなく昼で」

「青、静けさ」


 そこには、風の行方が無かった。停滞以外の何も、望まれていなかった。例えば花にはその花粉その種を媒介してくれる虫や鳥が無かったし、空には夕方や夜を連れて来てくれる闇の伝播が無く、常に青くまっさらな、雲も無い無表情を彼女の無表情に返した。彼女自身、その存在が停滞していた。何かを食べる、睡眠を取る、体を洗う、等生理現象の解消動作が全く要らなくなっていた。必要性への渇望に動く動物である事を失った彼女は生命の器としての人形の様な物だった。変化無い世界で変化無く動き続ける心音は彼女にとって唯一変化を期待出来そうな物だったがそれを思う事も大分前からしなくなった、彼女には、終わりと言う事への空想力が備わっていなかったからだ。彼女の頭には、永遠以外の何も分からない、この心音が変化すると言う事はそれが早くなるか遅くなるかと言うだけの事で停止する、なんて言う事はこの世界と矛盾していて一つの幻想として保持するに値しないと思った、揺れる事無い花、流れる事無い空、途切れる事無い無変化が彼女のこの世界以外と言う事へ続こうとする夢をいつも優しく粉々にした、壊れてしまった夢の欠片を彼女が集めてもう一度作り直そうと出来ない様に、完膚無きまで。彼女の中に有った夢の資源、希望、それはもうとうに尽きていた、だから彼女はこの絶望的な環境に置かれている事を絶望として認識していない、希望を忘れた人間は絶望を理解する事は無い、望みを絶つ、望みを持つ事以前に彼女にはもう望みと言う変化への方向性因子が概念として存在していないのだ、それは二次元空間が三次元空間になろうとするような物で、一度この変化、と言う一つの次元が欠落した世界に溶け込んでしまうとそこから出る事は至難だ、そこに属している自分以外の自分を思い描く事はもはや別の人間に思いを馳せるのと同義だ。望みを持ち、笑顔を作れ、何処か光の予感の方へ力強く走り出す事が出来、弱々しい手を同じ弱々しい手でしか無い手でちょっとだけその人の力より強く握り締める事で他人に優しさを感じさせる事が出来、空から昇る太陽が疲れ切って夜に帰ろうとする時、そんな愛しい人間の在り方を太陽に印象付けまた明日も新鮮な朝を届けたいと思わせる事が出来たのかも知れない彼女はもうここには居ない、居たとしても、永久の眠りに就いている、起きて居たらこんな状態に満足している彼女を許しては居ないだろう、必死に手を引っ張ってここから彼女を連れ出し、光の予感を信じて旅立つ事だろう。世界は、昼。だが、彼女と言う存在の暗さは、間違い無く彼女が夜の側の住人である事を物語っていた。


「黒と白、出会い」


 彼女の夜に太陽が昇る。勿論彼女の時間凍結は真夜中の最中であり、真夜中に忽然として太陽が現われたとしてそれが役割を成すまでに至る為には朝焼けを待たねばならない、少なくとも、その太陽が或る側面で役割を果していたとして、そう光放つ者としての立場を誇示し行使していたとしてその存在を月ではない仮初の光の鏡ではない純然たる光の礎であると主張証明するには、朝焼けが必要だ、彼女と言う幾千の夜を真昼の明るさの只中にて身に心に染み込ませて来た暗い闇の住人に対しては。彼女は、ぼんやりとその少々明かりの領分の過剰なる月らしき光球を見つめる。鏡写しに自分を見ている様な錯覚に陥っているのかも知れない、何故なら自分の瞳の中の月と、自分の瞳の前の月、そこに有る違いを探そうにも夜の淵に沈んでいる彼女は自分の瞳の月の在り方を知らないのだ、取り囲む昼に在って消え入りそうにその存在が薄く霞んでいる、と言う。それでもその存在の確かさ、確かである事の強固さからすれば目の前の月と何ら変らない、彼女の瞳に浮かぶ真昼の硝子の月。それらだけでも錯覚を誘発するに十分な条件だが、それらに加え彼女には基本的に光の強さに対する信頼や感動が無い、以前なら光を愛し光に愛され世界を祝福しまた祝福されしていたとしてもおかしくは無い、そんな若さをその張りの有る美貌に感じさせる彼女だったが今の彼女は違う、恒常の真昼を手に入れ、光の無尽蔵を約束され光を愛する必要の無くなった-何故なら求めずともそこにずっと有る物であるから-彼女の心にはもはや、夜しか無い、かつて彼女はただただ夜が欲しく、しじまの透明に沈みたく、死の純潔を愛していた、そしてもう彼女自身が、夜を求める心すらない夜の化身となってしまった今、彼女は外界の承認と言うものを全くしないで居る、光の彩り眩い花々を見ても、物質としての、形状としての花以外を知覚せず、感覚としての、美としてのそれを肯定せずここでその在り方を留めて居る、そうする事以外に彼女の望んだ夜の監獄を封じ込める術が無かったから、光は色々な手段でその監獄の戸を抉じ開けようとする鍵師だから。

 だが、彼女にも何かが違う事が分かる、自分と目の前の月、だけでなくその花と言う第三の判断基準を加える事によって分かった、この目の前の月は、花の様に結局は受身に鑑賞されその美を悦ばせ味わわせするだけの、光の受容が有ってこそ輝く只の月ではないらしい、この光の強い光球は私が今居る真夜中に迷い込んでしまったか弱い太陽の子供らしい。だがそれが何だというのだ、太陽の提示する蒼穹さえ揺り動かす事の出来ない自分のこの身に重たく染み込んだ夜を、どうしてこんなか細い太陽の幼児が解き放つ事が出来ようか。真夜中の太陽と、真昼の月は、そうして見つめ合ったまままるで動けずに居た。


「黒、命脈」


 最初に時刻を告げたのは光の方で在った、光を己が裸身から溢れさせ解き放つ者、その光を受付けんとばかりそれを反射する事で光の衣を形成する者、両者の内前者太陽が今という刻に朝を告げる、彼女が聞いた事も無い様な、少なくともこうして静止を余儀無くされていながらそれに逆らう事も無く偽りの充足を甘受していた彼女にとっては初めての、けたたましく、耳を破るばかりに甲高い、声、それは彼女の硝子の月に容易に罅を入れた、彼女がそれ以外どうしようもない、こうである事が理想的な一状況だとして心に定着させていた、生と言う死と動の対極ですらない単調なる静の世界への対応心象その硝子の月を強烈に否定し攻撃した。彼女は、当然ながら動揺する、変化無かった心音が加速する、その心音だけがこの声が誘惑する先に在ると勝手に予想する黄金郷へ一人突っ走って行ってしまいそうに、心音を奏でる生だけが動く物としてのきちんとした生でありたいと力強く立場を欲しその宿主ですら無視し宿主という籠を抜け出し羽ばたいて行ってしまいそうに、生に踊る心臓だけが、まるで何年来と会っていなかった片思いの初恋の人を目の前にその何年と封印して来た氷の中の炎に火をつけようとするかの様に、動くという事をまるで知らない振りをして来た彼女から千切れそうに、動き始めた、その声を合図に。咄嗟彼女は心臓を押さえる、勿論その心臓が彼女を離れて行ってしまう為の足を、翼を、火薬を持っているなんて事は考えられないが、今の彼女は本気で恐れた、何故なら彼女は自分がもう行動なんて恐れ多い肉体駆動を成せる存在だと信じられないから、そう言う人としての当然は彼女から全て滑り落ちてしまっているから。余りに強く胸を押さえすぎて息苦しくなった彼女は空を仰ぐ、変化と言う淀みを一寸も垣間見せない空という完全鏡面を見据え、そしてそこに自分の姿を見出し心に平静を取り戻そうとする。心の平静という物は、やはり心臓の音楽様相を基準にしている様で今の彼女の調和の乱れに乱れた生命のオーケストラに再びハーモニーを呼び戻さなくてはそれは叶わない様だ、指揮者が壇上に今一度立ち、威厳と勇壮とを湛えた表情仕草にて指揮棒を振るい空気振動の流れならん血液の流れを紡ぐ楽団を導かねばならない様だ。だがここで問題が有る、指揮者とは、彼女を律する所の人とはすべからく彼女でなくてはならないのだが、困難である事に彼女は自己を律する術をもはや粗方忘れてしまっていた、出来る事と言えば胸を痛々しく掻き毟る事で、胸に安らぎを与えるべくそこを撫でるなりする心理的な余裕、心の安らぎの為に次の行動資源となる思想を目指す、行動が可及的速やかに要る困難に立ち向かう、そう変化する環境に対応する想像力が欠如していた。困難を自分で克服できない存在が取る行動で一番わかりやすい物と言えば何か、それは、言うまでも無かった、彼女は動きの有る世界、生が死へと弛み無く確かな足取りで歩む時の流れに沿った世界、それに即する事をずっと止めて、自分の中に、静の暗闇の中にずっと閉じこもっていた。それが、急に刺す程の明るみに照らされ、自分の檻から引き摺り出されようとしているのだ、子供と同程度の事しか出来ずにしかもそうである自分に何の違和感も抱かず来た彼女には、行動選択の余地は無かった、彼女は、声を大にして泣いていた。太陽に生命の朝を己の誕生の時以来二度目に告げられて、大きく大きく産声を上げていた。


「黒、旅立ち」


 泣き止み、暫し茫然自失。泣くと言う巨大な叫びに対応し泣かなくてはならない程の自分ではどうしようもない己の身に有る欠落を穴埋めしてくれる筈の存在、優しみの強者親にその叫びを受け入れて貰える事が無い、と言う向希望発展要素の零が判明した場合、子供は、泣き止む、余りにも弱く小さな己の抱える余りにも強く大いなる闇の中で、親鳥が狩られたかして帰って来なくなってしまった雛鳥の最期の夜の姿の様に、縮こまり、何をする事も無く、何を望む事も無く、その涙を失った黒い瞳をじんわりとその瞳より更に黒い闇の色に染め上げていく、光へ羽ばたける未来を親鳥の姿に垣間見た筈の雛鳥が、光届かぬ闇に抱かれていく。彼女は、だが、親が助けなければ死を待つ事しか出来ない子供では無かった、そしてどうしようもない様な場面で泣く事しか出来なかったのだから生命の道筋を自ら切り開く意志と力を兼ね備えた大人と言う訳でもない彼女は、助けとなる存在を必要とした、自分とその存在とでやっと一人前の大人の仲間入りと言えそうな、二本ずつ有る手足の様に自分の心にとっての対となってくれそうな。彼女は大体見当がついていた、先程の、太陽、本来の姿かどうかは定かではないが太陽の赤子として見えていた、暖かな感じのした存在、あれが多分自分にとって非常に重要な助けとなってくれるだろう、この呪われた静の絵画から脱出しようとする哀れな囚人の手を引いて確かな方向へと導いてくれる事だろう。希望を、思い出した、いや一度完全にその精神から消去した物であるから、知った彼女は、今度は泣く代わりに笑おうとしていた、笑い声がその今は彼女の泣き声に驚いたか何処かへと離れ行ってしまった太陽の赤子を探し出そうと立ち上がる自分の背中を押してくれる手、いつか健康的で元気だった頃の自分自身が押してくれる幻の手を呼ぶ魔法の声になると思ったからだ。だが、彼女は今はまだ笑えなかった、頭上の太陽が眩し過ぎた。彼女は、自分が闇に沈む事を強要し続けた、絶えず強烈に自らを照らし続けた太陽を忌み嫌っていた、そしてそれ以上に、畏れていた。それでも彼女は、そんな光の投げ掛けをする神の姿をした天の悪魔の赤子と歩を共にしたいと思った、太陽と仲良くならなくては、自分の心に再び光の芽が生える事は無い、と言う事を直感で感じ取っていたからだ。太陽の赤子とならば、きっと自分は太陽との関係改善を上手く出来るに違いない、そう信じて彼女は立ち上がった。頭上の太陽を、怖さで目蓋を閉じながら目蓋越しに透かし見た。弱弱しく彼女の目蓋を貫く光が、彼女の目蓋の裏側の闇を少しだけ削り取った。


「黒、理由」


 歩き続けてきて、世界を歩きながら観察する事を初めてしてみて、彼女は気付く、この世界には、影が無い。太陽の光にぶつかった時物体が光を遮る明確な形状を持った存在である事を示す事になるその物体の輪郭内領域、影、その有るべき彼女が光に対して弛み無く歩き続けている事の証は彼女の瞳には与えられては居なかった。その事は当然の事ながら彼女の足に括り付けられた重石となった、唯でさえ足取りの快活さを呼び込めないこの状況下に在って更なる異様さは彼女を流れに逆らって進む力強い水魚とした時の低水温に当たる程に、無視出来ない。彼女と言う水魚の体温は、今彼女の心に生じた勇気の熱であり、希望の火であり、生命の夏である訳だが、影が無い、と言う不気味な冷風は彼女が泳ぎ進む水の流れに溶け込んで徒に彼女の体を凍えさせ、泳ぎを止めさせようとしている、そして泳ぎを止めて水面に浮かんだ彼女を直接嬲りたい欲求を押さえ切れずに徒労にも水面を蹴散らしている。彼女が眺める殺風景は、その冷風が世界の調和を乱すからだ、世界を冬に留めようとするからだ、太陽の光と地上とがしっかり噛み合っていれば光に包まれたこの世界がこんなにも荒廃した冷たい印象に支配されている筈は無いのだ。それでも彼女は、その冷風に身を切り刻まれながらも彼女は進む、自分の心の火が十分に暖かく、頼りに出来る存在だから。その心情の強さは、間違い無く先に見た太陽の赤子が放つ光の強さだった、あの光を身に受けた事で手にした心の光、これだけは、真実の光だ、影を生み出す事の出来ない偽りの光が狂喜乱舞する白昼夢の只中において。彼女はこの強さをくれた、この強さのもう一人の持ち主であるあの太陽の赤子を探す、探さなくてはならない、何故なら私は光の衣を着るだけが精一杯の月だから、あの太陽の赤子と一緒に居なくてはこの真実の光を見失ってしまう、永劫の光と言う闇に包まれた孤独な彷徨い人だから。彼女の瞳の月は今、自分の真の立ち位置は永劫の光が見せる悪夢の真昼では無く、光の道標足らぬ夜であると自覚した上での、満月を示している、眩しい位に輝いていて、そして充足している瞳だ。だがこの満月は、新月から三日月、半月を経てやっと満月になった、と言う風に自然な物ではなかった、それまでの真実の光に全く照らされていなかったと言う意味での永遠の新月から突然に満月を迎えたのだ、恰も満月の裏側の暗部が今まで彼女の示していた暗闇の姿であるとでも言う様に。だから、彼女の今示している満月の瞳、満ち足りた勇敢な瞳は、危うい、その裏側にはまだ重く深い新月を抱え込んでいる、と言う事で有るからだ。彼女は自分の力で新月から満月を迎える術を知らない。あの太陽の赤子に出会って突然に訪れた満月、それを自分の力で獲得できる状態とすべく、彼女はどうしても太陽の赤子を探し出す必要が有るのだ。


「黒、優しき掌」


 世界を拒絶していた彼女。それが今ようやく世界を受け入れる準備段階を迎えようとしていたのだが、その準備段階にて世界に少しでも心許してしまった事は彼女の瞳の満月を照らす真実の光の流出を招いた、供給源の居場所が定かではない現状で限られていた彼女が世界へ真っ直ぐな視線を保つ為の勇敢さの源泉、正しき光、それが示した苛烈な現実は暖かく彩られていた彼女の瞳の潤いを無遠慮に淀んだ物とした。彼女は、前向きに明るく、幸せそうで心躍らせている様子という物を化石化した心の中枢から先程より少しずつ発掘する事に成功しそれを大事そうに抱き締め今にも歌い出しそうに軽やかな足取りで進んでいたが、それは強がりと言う事であり、油断と言う事であり無知という事若さと言う事であった。彼女はつい、そんな心持ちの今までずっと忘れて来た、記憶の彼方に置き去りにして来た快い充足を他の何かにも分けてあげたくなってしまったのだろう、影が無くてこの上無く寂しく冷たい光の世界に在ってまるでその光の描き出す七色の彫刻としての麗しい趣きを帯びていない花々の悲しげな空虚さに彩りを注ぎ足そうとして彼女は恋人の頬でも撫でるかの様な慈しみを込めた手つきでそれらを撫でてしまったのだ。彼女の手は、撫でる物が既に無くなったのにまだ空気を撫でていた、それは彼女の予測の範囲を越えていたからだ、そう花は、触った途端に砕け散り、砂と化した。彼女は悲鳴を上げた、恋人の頬を撫でた積もりが恋人の首を絞めていた自分を恐怖したのだ。今まで花を、いやその対象は花が存在した空間でしかなかったが、その空間を撫でていた彼女の手は今は必死に彼女自身を撫でていた、そしてそれも新たな悲鳴と共に終わる、彼女は自分の手が愛すべき対象への独占欲から来る殺意の手だと本気で信じ始めてしまったからだ、こんな血塗られた恐ろしい手で自分を撫でたらきっと自分という存在のあまりの愛おしさに自分の事も砕き破り捨てようとするに違いない、そして自分は月の砂となりこの世界に吹き荒ぶ冷風に吹き上げられてしまうだろう。そんな事を考えながら地面を見ると彼女は新たな狂気の思想へ行き着いてしまった、この地面が影を映さないのはこの地面自体が影だからではないだろうか、彼女はこの急に頭に浮かんで来た思想自体を噛み砕けはしなかったが、意味合いは汲み取れた、つまり、この世界は死んでいるのではないか、無なのではないかと言う事だ。この光はもしかすると無という物のネガなのかもしれない、無でしかない空虚を或る物理で行くとこんな光だけしか存在しないと言う、闇の欠片すらないと言う純粋な明るみの世界が出来上がるのかもしれない、彼女はそんな異常な考えに眩暈がした。ただ、と彼女は眩んだ頭を振ってまともにしようとしながら思う、明るさと言う物は、生の象徴だ、存在がそこに在ると言う事を裏付けしてくれる様な建設的な夢に満ちた物だ、それでもこの光の世界は、基本的に死臭しかしない、この世界としてはまだ生きている積りなのかもしれないが、私から見るとここは只の荒れ果てた人の住まぬ地、闇の大地、月の地平だ。私の手は、この生を誤解して尚生きている振りをしてしまっているのかもしれない花に代表される死や無を殺せる手と言う事なのだろうか、だとすると。彼女は恐る恐るでは有ったが再度自分の肌に触れてみる、ひんやりと少し死体の様な感触では有るが、それでもいきなり砂になってしまう訳ではない、その存在は、偽りではない。彼女はその事に平静を取り戻した、だとすると、この手で本当の生や実在に触れる事も出来る筈だ、手は何かを壊す為ではなく何かに触れる為にこんな優しい形をしているのだと思うから。


「黒、涙の川」


 どうにか理性を保って歩いて来たと言う位に負の心持ちにまた陥り掛けていた彼女の瞳の月にまたも満月らしさが帰ろうとしていた、彼女の瞳の見据える先に、乾いた大地以外の新しい景色が介入して来たのだ。そしてその新たな視覚を刺激する一線は、光を放っていた、まるで途切れる事無い光の住処で有ると言う位眩く、彼女の足に括りつけられた見えざる重石、その鎖を光の刃で断ち切ってくれる程力強く。足に翼を得た彼女は今までの重たい足取りが嘘の様に、太陽の赤子を探す決意をして立ち上がってから実に初めて、走り出していた、自分に微笑みかけてくれそうな優しさの泉を探し回る事をして初めて見つけたその自分の目指すべき愛すべき対象物へと。

 段々とその一線が近付いて来る。勿論近付いて行っているのは彼女の方だ、だが彼女がこの世界に入り込んでから今まで感じた事が無い、太陽の赤子が何処かに居ると言う曖昧な期待よりも強烈で確実な期待を胸に抱きながら疾駆する事の時間経過感は恐ろしく速く、まるで一線が彼女と一秒でも早く出会う為に大地を食らいながらこちらに迫って来ている様な錯覚を彼女に齎していたのだ、そして彼女はその錯覚が一寸も怖いとは思えなかった、その一線が自分と抱き合う為に駆け寄って来る頼るべき親の様にさえ感じられた、それ位その一線の放つ光が輝かしく見えた、彼女は、天の光を忌み嫌うあまり地面から出る光と言うものに逆に無条件過ぎる希望と信頼を持ってしまっていたのだろう。

 それが地面からの光、と言う非常に魅力的な歌を歌いしていなければ彼女の想像力は簡単にそこへたどり着いても良さそうな物だったが、想像力を働かせるには魅せられ過ぎていた彼女はやっと視覚によって失望する。一線はどうやら川だった、光はつまり天の光を反射しているに過ぎず、彼女の足取りは急に弱まった、それでも勢いが付いていたし天の光を反射しているからと言ってそれ自体が忌むべき存在と言う訳でもないと考えた彼女はその勢いを無理に留めようとはせず緩やかにスピードを落としながら川へと到着した。じっと自分の下の偽りの光の代弁者を眺める。そして違和感が有るのに気付く、川と言うのは光と言う歌よりもまず先に歌わねばならない物が有るのではないか、その本来歌うべき歌を歌っていたなら私は目で確認するよりも前にこの地の一線が何であるか判断する事が出来たのではないか。彼女が謂わんとしている事はつまり、何故、川のせせらぎが、煌びやかなる光反射と言う映像美術への伴奏が成されていないのか、と言う事だ。理由に気付いた彼女は思わず後ずさりをする、この川は、流れていなかった。変化を否定する世界に有って川でさえもその存在を歪められていると言う事だ、勿論地面にしたって風に伴う砂埃の旅が有ったり草木もまた風により可憐な舞を踊ったりするのだが、この川と言うのはそれらとは違い変化と言う物とあまりにも密接だ、変化と言う属性無しでは川と名乗る事が出来ない位に。だが、それでもこれが川であると言えてしまうのには訳が有る、この川は、全く淀んでいないのだ、清潔そのもの、砂埃や枯葉がこの川の清らかで澄んでいると言う属性を汚していない、何故なら砂埃や枯葉が発生する変化もここでは禁じられているからだ。痛い程の純粋さを宿したそれを涙の川だ、と彼女は思った、悲しみは何れ流れ消える、だからこそ人は泣いた日を忘れて笑顔を持って他人と仲良く快活に生きていこうと言う心持ちを再度獲得出来るのだが、この世界は全くその悲しい事が解決していないのだ、生がそもそもきちんと生として存在出来ていないのだ。彼女はいつかこの悲しみの川の涙を一滴残らず優しい海へと還してやろう、悲しみがなんてちっぽけな物なのだろうと思わせてくれる広く大きい、そして美しい大海原へと船出させてやろう、そう誓った。


「黒、漏れ出す影」


 川に映る自分の顔を、顔から流れる川の始まる場所である瞳を見つめている。川に映るからという事以前に潤んだ瞳、哀れな世界に同情しているのか、惨めな自分が辛いのか。彼女が川に映った自分の瞳を今凝視しているのにはそれ以上に特殊な事情が有った、想像の域を越えて彼女の瞳には本当に月が宿っていたのだ。しかも瞳の周りの部分も黒ずんでいる、完全に黒と言う訳ではないがそれでもどちらかと言うと黒に近い色になっている。嗚呼、自分は本当に夜の化身になってしまったのだな、あの太陽の赤子を除けば恐らくはこの世界で動き回っている、この世界の無変化という属性と相反しているのは私だけであり、光の昼と相対する位置に有る闇の夜、そんな闇を纏わなければ私はこの世界で動く事は、変化し続ける事は出来ないのだろう、と彼女は諦めにも近い感慨に浸っていた。これから自分はどうなっていくのだろうか。この闇を身に宿して太陽の赤子と出会って、相容れない属性の両者が出会って生じる何かとは果たして私が期待する程に喜ばしい物だろうか、それどころか、何かの益の欠片すら無いのではないか、私は闇を消さんとする光に苦しみ向こうは光を剥ぎ取らんばかりの闇に傷付く、それならばいっそこの先出会わない方がいいのではないだろうか。彼女の闇の瞳は、彼女の思考さえも闇に染め始めていた。だが川の汚れなさは彼女の思考の淀みを払拭する、譬えお互いが側に居る事で苦しむ事になったとしても、この川の持つ清廉さを遍く世界に振り撒く為にも、私が今手にしたこの変化への自由を投げ捨ててしまう訳には行かない、もう一人のこの変化と言う無変化を貫く為の剣を持つ者太陽の赤子を私は拒否してはならない、それでなくてはきっとこの世界にきちんと立ち向かっていく事は出来ないだろう、変化と言う大剣は私一人で扱うには余りにも重い。彼女はその川の透明さ神聖さで自分でも知らない内に溜まっていた疲労感を洗い流してしまおうと川に手を入れる。そして顔を洗おうとした、この世界では新陳代謝は起らないのでそれは厳密には洗うと言う動作では無かったがそれでも汚れた自分を綺麗にする時の様な新鮮な心持ちで彼女は水を顔に塗りたくろうとした。だが、出来なかった、水は彼女の手に含まれた途端にその清廉であると言う属性を失ったからだ。彼女は物凄く気色悪い物が突然自分の予測を越えて手に乗っかって来たのに怖気を覚えその只の水だと思っていた物を投げ捨てた。それはぐしゃっと音を立てて透明な粘土の様に川にばらけた。彼女は一体何が起こったのかまるで分らないと言う風で暫らくその場で尻餅をついていた。水だと思われたその固形物はガラスの破片の様に川に突き刺さっている。目の前に散らばる透明な固形物は一体何なのだ、変化を否定すると言う事が水の性質をここまで歪めてしまったと言う事なのか。彼女は恐る恐るゼリーの川に指を入れる、その指はずぶずぶと留まる事無く力を入れる限りに川に入り込んだ。そして少量指先に川の欠片を取り、舌先で舐めてみた、味は無い。覚悟を決めて口の中に放り込むと手に持った時や指先で貫いた時の感触から予想される通りの歯応えでそれはすぐに消えて無くなった。多少不快では有ったがそれでも何時以来か思い出せない程に久々の水分摂取に心潤されながら彼女はじっと考える。水面は水ガラスの破片や彼女の指の型を修復しようとしない、それもまた無変化と言う事で考えると説明が付く、この川の成分はやはり味から言って単純に水でしかないのだろうが味と言う事以外では水は水らしさを失ってしまっているらしい。自分からの変化を許されていないので、水は水面を抉られたらそれを取り戻す事が出来ないのだ。彼女はその気は無かったとは言え水面と言う一様さの美を破壊してしまった事に申し訳無い気持ちになった。粘土を整える様な要領で水ガラスが好き放題に突き刺さった表面を撫で彼女なりに水面の代わりの滑らかな面を作り上げた。撫でる、か。撫でると言う行為で今はもうはっきりと思い出す事の叶わないこの世界に入り込む以前の日常、そこで自分の愛していた物へのその愛が再び胸に浮かび上がってくるかの様な奇妙な感覚に捕らわれた彼女は、もう十分に柔らかな調和を手にした水のオブジェにまだ新しく手を加えようとしていた。段々とこの水の粘土でその自分の過去の愛しき存在の輪郭を自分なりに空想して形作ってみようか、と言う思いに彼女が手の動きの目的を革め始めた所で、彼女の闇の瞳が闇を捕らえた。自分から漏れ出す闇、そう、影だった。


「黒、夢の中へ」


 暫らく影に目線を釘付けにされる、思えばこうして真に闇の色と言うのを瞳閉ざす時以外で拝むのはこの世界に入り込んでから初めての事であり彼女は自分が空想し続けた色を食う色に見惚れていた。そしてその影が他の物にも与えられていないか、他の物もこの世界に遂に実在として認められしてはいないかと淡い期待を抱いて周りを見渡すがあいにく影を与えられそうな明確に天の方向に伸びている物体は自分の肉体以外には見当たらなかった。それでも今までの影無しと言う事の狂気を和らげるこの確かな自分と言う闇の人の地面に住まう姿は十分に先程の喉を潤した水滴相当に彼女を喜ばせた。余りの嬉しさに彼女はついさっきまで川を覗き込み黄昏れていた様歪んだ物理の水に恐れを成していた様が初めから無かった様子で有るかの表情挙動で影と踊り出した。影はどんなに自分が押さえ切れない感情に手足を振り乱し全身でその感情を表現しようとしてもその踊りを完璧に模倣してくれる最高のダンスパートナーだった、それは勿論影は自分の挙動の黒い地面への投写でしかないのだから当たり前なのだがその当たり前が当たり前では無くなっている世界を当たり前として受け止め始めていた、当たり前で有って欲しい物事の当たり前と言う性質をもはや投げ捨てようか諦めようかとしていた彼女にはそんな影の在り方それだけで堪らなく嬉しかった。だが、ずっと踊り続けて全く自分が心地良い疲労感を覚えない、踊る体の情熱に噴き出す爽やかな汗をかけない事に気付きまた心の陰りを戻した彼女は踊るのを止めてじっと川に対してした様に影を見つめ出した。そして地面に倒れ込む、愛しい影と言うかつての日常の欠片を抱き締めるかの様にうつ伏せになった。うつ伏せのまま、彼女は泣き出してしまった、この影を見た事で強烈に沸き起こって来たかつての日常への憧れが彼女をきつく苦しめた。この影は平和な日常と言う有るべき世界に繋がっているに違いない、少なくともこの世界の要素としては随分異質だ、この影としての真っ黒な私は多分平和な日常の私が落とす影、この厚く閉ざされた地面の向こうの有るべき世界に居る私が見せる幻なのだろう、これは偽りの光偽りの空偽りの太陽に見つめられる事から逃げる事が出来ない囚人を哀れに思った幸せなもう一人の与える者としての私が与えられる者としてのこの私に与える夢の餌で、その夢の餌を食べ続けてなんとか夢の無い世界であるここで生き延びて見せろと言う事なのだろう。地面の向こうにもう一人の自分が居ると言う夢を抱きながら彼女はそっと瞳を閉じた。世界は闇に沈む、影の自分が自分の視界全てを覆う程に大きくなり自分を全て取り囲んでしまった、彼女は影の自分を、もう一人の自分の闇の衣を身に纏ったのだ。彼女はまるで自分を全て取り囲んでしまえる程大きな母親に抱き締められた赤子の様に安心して眠気を覚えて来た。一つ違うのは、抱き締めてくれる母親の肌が妙に硬く優しげでは無いと言う事だがそれでも彼女は母親の様な大きな存在を感じて居られるだけで、この世界の恐ろしさを或る程度忘れさせてくれるだけで良かった。


「黒、森へ」


 鳥の夢。正確には鳥の影の夢だった。彼女は夢の中で大空を優雅に飛び続けているのであろう鳥のその影をずっと追っていた。自分が何処にいてその影をずっと追い続ける事が出来ているのか判然としないがその映像の心地良いスピード感に彼女は釘付けになっていた。鳥は全く休む事が無い、何故休まないのだろうか、休まない事が心配になる位この鳥は物凄いスピードで空を切り続けている。彼女は鳥が心配になって思わず上を見たが太陽が眩し過ぎて鳥の居場所を把握する事が出来ない。諦めてその内この鳥も休む場所を発見すれば休むのだろうと考え直して彼女は再度地表を眺める事にした。暫らくして可笑しな事に気付いた、そのスピードは間違い無く生き生きとした鳥の飛翔を思わせるのだが何かその影の在り方と一致していなかった。そして理解する、影は、微動だにしていなかった、つまり影の輪郭が全く変化していないのだ、風による翼の揺れ、気流に対しての細かな身体の調節、影の主にそれらが全く生じて居ないとでも言う様にその影には変化が見られなかった。鳥がちゃんと飛んでいれば、しっかり空を我が物として居たならばこうである筈は無いのだが、いつまで見ていても影は黒い氷のままだった。理由を全く想像出来ないまま彼女は鳥の影がずっと同じ姿で地面を流れる様を観察していた。段々と地上に草木が多くなって来た、もしかすると木々の生い茂る森の入り口に来ているのかも知れない。森に入ったら影は随分見辛くなってしまうだろうなとなんとなく思いながらも特に問題を感じる事も無く彼女は影の進行するままに任せていた。だが、影の進行はやはりその進路の先に有った森の木々によって妨害された。別に本体が森の木に止まって休み始めたと言う訳でもないのに、ただ、影と彼女の影に伴う動きが森にその影が入り込んだ途端に終わってしまった。木々が怪しく蠢いて目に見える速度で何か変化しようとし始め、鳥の影が落ちていた辺りにその輪郭を形作る様に葉が生えた。上空から鳥の無数の羽が降って来る所で彼女は目が覚めた。今の夢は何だったのだろうと考えるが良く分からない、分かった所であまり役に立つ物でもないだろう、何故ならこの世界には植物は居ても動物は居ないのだから、今のこの世界に関わり有る事では恐らく無いだろうから。だが、彼女ははっとして思い直す、今の夢はこの世界の動物が居なく植物は居ると言う事の謎を解く鍵を含んでいるのかも知れない、昔のこの世界、この世界の成り立ちについての何らかをあれは含んでいたのかもしれない。思えば夢なんて今まで彼女はこの世界で一度だって見た事は無かった、何故なら睡眠と言う事を先程初めてしたからだ。今までもこの世界の余りの眩しさに意識が遠くなる様な思いを持った事は有るが意識をこの世界以外で持ったのは初めてだ、今のがこの世界の成り行きを何より深くその身に刻み込んで来たであろう地面と強く接した事で自分の身に流れ込んで来たその大地の記憶、この偽りの眠れる世界の肉体である大地が見た夢の欠片だとしても、私が急に持つ事になったこの影に触れた地面が私を夢の世界へと誘いこの影に関する真実の鍵を手渡そうとしたのだとしてもそう可笑しいとは思わない、影はそれ程に地面と自分とを分かち難く繋ぐ絆の様にさえ思えた。今の夢をまだ十分に覚えている内にこの夢の舞台だった森を探し出す気になった彼女は川に沿って進んでいく事にした。川を正面にして彼女は左右どちらに進むべきか迷った。そして影が右に伸びている事に気付いた、つまり自分に影を与える物は左に有ると言う事だ。それが空の太陽の有る方角だった事が気に食わなかったがこの真実の影にあの偽りの光源は何も関与出来ていない筈だ、そう思い空の太陽を多少怖がりつつも睨み付けて、彼女は森を探し出す為の第一歩を踏み出した。


「黒、永遠への飛翔」


 森を目指して歩き出してから何十日と経過していた。それでも彼女は特に気にする様子は無かった、何故なら光の赤子に朝を告げられてから川へ至るまでにも一年近くが経過していたからだ。それ以前にも彼女はこの世界で幾千と言う光の昼と光の夜を身に心に深く刻み込み続けて来た、時間経過は、彼女が只の少女で有った時の若さを奪う残酷な力をもはや失っていた。彼女はそんな時間経過の長大さとこの世界の広大さに関して思う事が有る、この世界の空間と時間は恐らく人としては私一人だけに用意されているがその規模が一人用と言う概念を大きく超越している。つまり、何百万でも何千万でも、億単位でもいいがそれ位の人数の人類が所有し経験すべき時間空間が私一人の神経肉体に預けられている、もはや一人の人間にとっては単純に無限としてしか捕らえられない様な圧倒的な質量が。何故そんな膨大な質量と自分が繋がって居なくてはならないのかはまだ見えて来ないが、何となく分かるのはこの恐ろしいまでの自分の生命力、この無変化と言う世界に置いて無変化面をし続けては居るが着実な変化への足取りを弛まさずに居る、変化と言うダイヤモンドを何れ無変化と言う原石から掘り起こそうとその原石を必死で抱きかかえ歩む私の原動力であるそれを失う事は許されないと言う事だ、私は見てくれこそ普通の少女だがその実この無変化と言う巨大な岩石を持ち運ぶ事が出来る豪腕の巨人だ、そして無変化の苦しさに正気を破壊されずに耐え抜いた心の巨人でも有る。こんな立場に有る者はそうそう居る物では無いだろう、もしかしてこの世界には自分と同じ様に無変化の苦しみを与えられた選ばれし人が居るかもしれないが、少なくともその人はこの世界に勝利出来ていない、この世界の謎を完璧に解いた人間は、まだ誰も居ないのだ。彼女はこの世界の謎解きを自分の使命だと言う風に言い聞かせともすれば弛みがちな単調なる森への歩みを保ち続けている、この世界の事を理解していけば必ず自分の命に宿る変化の鼓動を無変化に伝播させる糸口が見つかる筈だ、だから今はどんなに辛くともこの歩みを休める訳には行かない、心に炎を焚き付けてくれたあの太陽の赤子に出会う為にも。彼女が森への歩みを影を与える物の有ると思われる向きへと定めたのはその為だった、彼女は自分の影はあの太陽の赤子に近づいた為に発生した物だと確信していた、自分はあの時の様にただ心の暗がりに落ち込んでいるのでは無くちゃんとした意志という物を取り戻した、その事で自分に宿る闇が光と干渉しようと外に出たがっていると思われるこの状態であの太陽の赤子に近付く事で一体お互いがどうなってしまうか、それには相変わらず全くいい予感が持てないのだがそれでも彼女はあの太陽の赤子に近付く必要が有ると思った、で無ければあの子が何の為にこの強さをくれたのか、闇の心にすら光が共存し得ると言う強い希望を寄越し、その希望を糧にして闇と光の触れ合いと言う変化を始めようと呼びかけてくれたのか分からない。傷付くばかりの孤独より、私には傷付け合う事になろうとも尚存在と存在の触れ合いが愛おしい、彼女にはもうあの赤子に出会うまでの様な何もされないと言う拷問の日々は沢山だった。彼女はふと後ろを振り返りその真夜中の空を切り抜いた様な純粋な黒を宿した影を見つめる。底無しの黒さには確かに吸い込まれてそこから二度と抜け出せなくなりそうな恐怖が有りこんな物を再び世界が取り戻してしまっても平気なのだろうかと多少心配になったが、彼女は光だけと言う冷たい風景がこの闇以上に闇で有る事を良く知っている。この闇が再び世界を覆った所でこれ以上世界が不幸になる事は有り得ない、幸福とは、きっと不幸と不幸の狭間に有るのだ。私と言う闇だけの不幸と太陽の赤子と言う光だけの不幸とで素敵な七色の幸福を得られるといいな、そう思い彼女は限り無い天に向かって大きく飛び跳ねた。影と彼女とを繋ぐ所に有る靴の金具が小さな太陽を宿していた。


「黒、壊すべき物」


 探せど探せど、森は疎か木の一本すら見つからない。彼女は溜息をつきながら苦笑する。草なら今でも時折見かける、触ると砕けてしまうのでそうしない様に注意を払って歩いて来た。花は川に沿って歩く様になってからは全く見なくなってしまったがそれでも以前には随分沢山のそれを確認する事が出来た、この死体の様な冷風の様な寂しい世界には似つかわしくない可愛らしい彩りだ。だが、木と言う物を、緑の葉、それを付ける枝、それらの更なる段階である生じる所である背丈の高い茶色の幹と言う物を見た事が無い、彼女はまだこの世界を知り尽くした訳ではないので断言は出来ないのだがどうやら彼女の背丈より高い物体は譬え植物でもその存在を許されては居ないらしい。それでも彼女はあの夢、木が鳥が確かにかつてはこの世界に存在した筈と言う夢を信じそれならそれらの存在の証も何処かに在るに違いないと考えているのであれを睡眠の中で知ってから少しも忘れない様にと懸命に日々思い出しながら歩いている。思い出すだけでは無く、あの夢がなんだったのかと言う事についても彼女は彼女なりの見解を纏めていた。あの映像は鳥の翼が散る所で終わっていた、あの鳥は恐らくは死んだのだろう、もしくは初めから死んでいてその後更にその死体が消え去ったという事かも知れないがとにかく予想出来るのはあの鳥の死体は残ってないと言う事だ、消えた死体から剥れた羽に関しても同様だろう、この世界は動物の欠片を徹底的に消去している。そして木はその動物の消去を行っていたらしい、どの様にやったのかは分からないがあの映像の中では鳥を自分の体に取り込む様な感じで葉を急速に鳥の影の有った所に生やしたと思うが速いか鳥が消滅してしまっていた。その後の木の様子を窺う事が出来ればもう少し具体的に考える事が出来るのだが今の情報不足の中ではこの程度が限界だ。あまり考えたくは無いが人間はどうだったのだろうか、鳥と同じく動物として扱われて森で処刑されたのだろうか、それにしては自分一人だけが強大な生命力を宿して活動を続けているのが理不尽だがはっきりした事は何一つ分からない。この世界に人の活動の証、建物に代表される生活の痕跡(彼女は自分の身なりからして自分が属していた筈の文化のレベルがかなりの物である事は知っていた)が見当たらないのも気になる。とにかくも森、それを見つける事が先決だ、と彼女は何十回目かになる決まりの独り言を心で呟いて何気なく綺麗な水面を湛える川に目を向けた。そして彼女は怪訝そうな顔になる、一番最初に見た時と川幅が微妙に違って見えた。まじまじと立ち止まって見つめてみるが気のせい等ではない、川幅は広がっていた。勿論森への歩行のスタート地点と現地点での川幅が単純に違うのだと言えなくも無いがもしも川幅自体が生き物の様に変化しているのだとしたらこのままでは向こう岸に渡る事が困難になって来てしまう、そんな妄想に捕らわれた彼女は今まで踏み込んだ事の無かった川の向こうの大地を踏み締めるべく川を跨いで飛び越えようとした。彼女は着地した、元の場所に。何度やってみても結果は同じだった、彼女はどうしても川の向こう側へ辿り着く事が出来なかった、川の向こうの世界はこの世界と繋がっていなかったのだ。彼女は呆然として別世界らしい川の向こう側を眺める。これと言ってこの世界と変わっている様には見えないが、森への歩みを再開して歩きつつ川の向こうを十分ほど観察して気づいた、あちらの世界の草は揺れている、風が吹いている。つまりあちらの世界はこちらより正常なのだ、それに気付いてまた彼女は何度も何度も川を越えようとジャンプしてしまったが前に飛んだ時以上の事は何も起こらなかった、彼女の体は見えない壁に毎回弾き返された。悔しくて彼女は土を掘り起こして土団子を作り向こう側へ投げた。思い切り投げてしまったので勢い良く跳ね返ってきたそれを胸元に食らってしまい彼女は悶えた。でも不思議とその痛さが嬉しかった、正常な世界は確実にまだ生きているのだ、今のままではどうしても辿り着く事が出来ないらしいが、それが在る、その事実だけで今は十分だ。彼女は胸元にぶつかって割れた土団子の欠片を集め拾い上げもう一度さっきよりも堅く作り直して今度はこの世界の太陽に向けて思い切り放り投げた。綺麗な放物線を描いて地面に落ちたそれはまるでこの世界が多少壊れた音で在るかの様な小気味のいい音で砕け散った。

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