モンシロチョウ

公共の場所で小便をする人

そうして、両親と妹から捨てられた俺は

 俺はモンシロチョウ。長いこと、蛹だった。

 長い間、眠っていた。


 ある朝、あまりに外がうるさいのでちら、と覗くつもりで蛹の中で動くと、うっかり蛹の殻を突き破ってしまい、今はふらふら、飛んでいる。


 俺は何がしたいのか、よく、わからなかった。


 普通のモンシロチョウの羽根には一点、黒い斑点がある。


 俺にはなかった。なぜだかは知らない。ひょっとすると、幼虫の頃低い所の葉っぱばっかり齧っていたからかもしれない。俺の羽根は、真っ白だった。


 少し覗いてみるつもりだった世界は、まったく異様なものだった。


 雄も雌も、小麦粉に体を突っ込み、どれだけ羽根が白いかを、ひどく競い合っていた。


 俺が幼虫だった頃、ぼんやりと見上げていた成虫は、そんな事はなかった気がする。少なくとも、ある程度の数の雄は、そんな事はしなかった。だから、俺もしなかった。


 そうすると、他は皆から笑われた。おい、あいつの羽根を見ろよ。あんなに濁っている白、今どき見た事あるかよ? ……皆が何故笑っているのか、俺にはわからなかった。


 それでも俺はとりあえず、どうにかこうにか、ふらふら飛んでは、花の蜜を吸っていた。とんでもなくまずい種類の花の蜜で、普通の奴は吸いもしない。そこにもある程度の数のモンシロチョウは居た。しかし、不格好に、羽根を白くする事に夢中だった。それで俺は、そこでも笑われる事となった。


 他の事はどうでもよかったが、俺は笑われる事には、ひどく腹がたった。


 俺にも母親と父親のモンシロチョウが居た。そいつらが子孫を残すがために交尾し、俺を含む卵をどこかに産み付け、俺と同じようにふらふらどこかへ飛んでいった。俺が笑われる事は、そいつらまで笑われているような気がして、どうにも我慢がならなかった。


 別に彼らが好きだったわけではない。

 ただ、俺にとっては俺以外のものはどうでもいいものであり、どうでもよくない俺を構成するものの一部を笑われる事に、我慢がならなかった。


 それでもまぁ、どうせふらふら飛び、いつか、どこかで、苦しまず、飛べなくなる日が来るのだし、と、花の蜜を吸っていた。俺にとって、飛べなくなる日は、おぼろげに、いつか、ふと来るものだった。


 ある時、一匹のモンシロチョウと出会った。


 そいつは雌のモンシロチョウで、小麦粉を被る例の遊びには夢中だった。


 しかし、黒い斑点がなかった。そいつは俺を、笑わなかった。


 こんな具合だ。あら、あなたのそのくすんだ羽根も、私は好きよ。

 あら、あなたにも黒い斑点がないのね。それって、特別なモンシロチョウである証だと思うわよ。


 俺はそんなモンシロチョウを見た事がなかった。黒い斑点がなく、苦しんでいる事。またどうしても、小麦粉遊びに夢中になれない事を、少しずつ伝えた。


 俺は、一種の癒やしを得た。自分とはまったく違う性別、容姿を持つモンシロチョウとも、わかりあう事が出来ると思った。俺も生きていていいのだと思った。


 ある時、一つの物事を知った。


 そのモンシロチョウは、他のモンシロチョウにも同じ事をしていた。


 そういう風に飛べば、うまい花の蜜を吸える場所を教えてもらえる。そのモンシロチョウはそれを知っていて、そういう風に飛んでいるだけだと、思った。いや、気づいてしまった。


 俺はそれとなく、他のモンシロチョウに伝えた。彼女、俺にも同じ事をしているよ。そうすると、そのモンシロチョウは、白痴のような事を延々抜かすばかりだった。そうかよ、死んじまえ。と俺は思った。


 何もかもが、嫌になった。


 元々まずい花の蜜も、ますますうまく感じなくなった。俺の体はどんどん、細くなった。鱗粉はどんどん落ちて、まったくうまく飛べなくなった。他のモンシロチョウが居ない所でも、俺を笑う声が聞こえるようになった。


 そのうち、まずい花の蜜を吸うためにふらふら、あちこち飛び回る事が、面倒臭くなった。


 俺はまったく、飛ばなくなった。いや、飛んではいたが、いつしか結局、自分のようなモンシロチョウはどこに居ても、笑われるのだと思った。明日を生きる価値がないのだと思った。


 ある時、チョウセンアサガオが目の前にあった。俺はその花に止まった。思い切り、蜜を吸った。


 その時、解放されたのだ。全てから解放された。鱗粉は全て落ちた。俺の触覚は真っ直ぐに伸びきった。幼虫の頃に戻っていくような気分だった。


 まだ、自分が笑われている事にも気づかず、飛んでいる事にも気づかなかった、あの頃。


 それはもう、いい気分だった。体は最悪に悪い気分だったが、やっと、救われるかもしれない。という点においては、


 いや、こう言い換えよう。やっと、自分一人の世界を築けるのかもしれない。


 そういう思考になった。


 ふと、体が冷たくなった。その時俺は、一つ気づいた。モンシロチョウは俺を笑うが、陽の光はいつも、暖かった。


 そうすると、幼虫に戻ること、自分一人の世界に旅立つ事が、酷く怖くなった。そこには間違いなく、陽の光は存在しない。


 そうして、俺は、生きながらえた。


 チョウセンアサガオからふらふらと飛び立った。その目は、ジャンキーのそれだった。


 もう良い。何にも、モンシロチョウには、期待しない。


 ただ俺は、大多数のモンシロチョウよりも、どうにか、鱗粉が落ちたまま、うまく見えるよう飛び、そうして、幼虫に戻る。小麦粉遊びはしない。幼虫は、そんな事はしないから。


 俺がいくら幼虫に戻ろうと、他のモンシロチョウには関係ない。ただ、モンシロチョウが一匹居なくなるだけだ。それは、もう、他のモンシロチョウからすれば、最高級の喜劇だろう。


 死んだ後、笑い声が聞こえないようにするためには、もう、それしかない。(そうして、ぼくが死んだ後、二三年もすれば、墓の横にファック・ユウとやられちまうんだろうね。ーホールデン・コールフィールド)他に方法はない。小麦粉遊びをしない。そうして、そうして。小麦粉遊びをしないモンシロチョウの中で、最大限、素晴らしい飛び方をする。それしかない。


 いつかは死ぬ。今じゃない。俺はインドで、チョウセンアサガオと、マリファナと、コカインと、ヤーヘを、を馬鹿ほどやって、死ぬ。他にやりたい事が一つもないんだ。何をしても、虚無主義から逃れられない。こんなことなら、理性なんていらなかった。


 カントを読んだ事はあるか?そうして、苦しむ事にも、全てを発展させるための礎として必要だから、理性があるのだと、彼は説いた。要らないよ。全ての発展だなんて、興味が無い。俺はむしろ、全てに対して恨みと憎しみしか持っていない。全ての滅びしか望んでいない。俺の尊敬する、いや、はっきり言おう。父と思っている創作者は、ニヒリズムとデカダンスだけは否定する事を意識している、と言った。デカダンスは俺も嫌いだが、ニヒリズムだけはどうしても、否定する事ができない。何にも、意味があるように感じられない。全ては無駄だ。無駄なんだ。意味を求めているから苦しむんだ。滑稽だろう? どうして理性なんて持って生まれたんだ? 完全なる白痴であれば、俺は、何も、こんなに、苦しむ事はなかった。苦しみは、脳の分泌物質がもたらす、ただの不快感である。それがどうにも、我慢ならない。


 もしも生まれ変わる事が本当にあるならば、俺はもう、どこかで草を食み、ただ毎日、のんびりと暮らす動物になりたい。または、完全な無。


 何も考えず、明日を迎えたい。ただ、飛び、いつかは飛べなくなる事に疑問を何一つ感じないモンシロチョウとして、生まれ、育ちたかった。

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モンシロチョウ 公共の場所で小便をする人 @Wombat

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