ネットな日々

やーめん

第1話

 エム氏は、美しい女性の声で目を覚ました。

 彼の部屋は狭くて、殺風景だが、眩(まぶし)い光が差し込む窓の外には、見渡す限りの緑の草原が広がっており、小鳥の囀(さえず)りが遠くに聞こえた。

 彼のベッド脇には、ここ何ヶ月か連れ添ってきた『妻』が、微笑みながら立っていた。

 彼女は、エム氏に柔らかな声をかけた。

「おはようございます。お目覚めになりましたか。」

 しかし、エム氏は、不機嫌そうに起き上がると、ぶっきらぼうに

「ああ」とだけ言った。

「朝食は何になさいますか。」

「たまには、焼肉でも食べたいな」エム氏はぼそりと言った。

「お肉の買い置きはございませんが、ネットで注文なさいますか?」

 彼女が聞くと、エム氏は、あわてて、

「いや、あるものでいい。」と答えた。

「それでは、トーストと野菜ジュースになりますが、よろしいですか?」

 彼女が訊くと、エム氏はまた

「ああ」とだけ答えた。

「かしこまりました。」

 彼女は愛らしい笑顔で答えた。


 エム氏は、服を着替えると、ぼそりと言った。

「散歩をする。」

 エム氏は、食事が出来上がるまでの間の時間つぶしと、健康維持をかねて、毎朝散歩をするのが習慣だった。

「どちらに行かれますか?」

 先ほどの彼女が、彼に微笑みかけた。

「いつもの桜並木かな。いや、何かもっと変わったところはないかな?」

 彼女は、しばらく考えてから、

「『牧場の散策』という最近配信されたソフトがありますけど・・・。」

と言った。

「フリーか?」

「フリーですわ。」

「ではそれにしよう。」

 エム氏は、部屋の隅にある小さなベルトコンベアのようなものに乗った。すると、たちまち彼は、明るい牧場の草原の中にいた。

 清清(すがすが)しい朝の雰囲気の中で、カッコウの鳴き声が遠くに聞こえ、エム氏はちょっと満足そうな顔になった。

 少し暑くて、空気が乾燥しているが、気分は爽快である。

 しばらく歩いていくと、『絞りたての牛乳』と書いてある自動販売機があった。

 エム氏はのどの渇きを感じて、ふらふらと自動販売機に近づいた。

 そこには『産地直送。新鮮牛乳。ご購入はココをタッチして下さい。』と書いてあったが、値段を見てやめた。今は給料日前で、金欠なのだ。

 のどの渇きを我慢して、しばらく歩くと、今度は何やら美味しい匂いがしてきた。

 見ると傍らで、農夫がバーベキューをしていた。

 エム氏は堪らなく空腹を覚えてふらふらと近づいていった。

 農夫が

「霜降り牛肉だよ。美味しいよ。買うならこのボタンを押してくれ。」

と言って、ハンドベルのようなボタンをエム氏の前に差し出した。

 エム氏は、危うくボタンを押しそうになって、ボタンの下に書かれた金額を見て、目をむいて後ずさり、その場を離れた。そして、

「やっぱりフリーソフトはだめだ」

とため息をつきながら、

「エスケープ」

と言った。

 すると、彼はまた先ほどの狭い殺風景な部屋の中にいた。


 エム氏がユウツな顔をしてベッドに腰掛けようとした時、ドアチャイムが鳴る音がした。

 エム氏がインターホンのボタンを押すと、ディスプレイに「宅配便です」と言っている若い男が映し出された。

 エム氏は首をかしげた。ネット注文の日用品は、宅配ボックスに投げ込まれるはずだし、戸口配達を希望するような高級品や冷凍品などは注文していないはずである。

「戸口配達が無料サービスになっているものでも注文したかな?」

 そう考えて、エム氏がドアを開けると、その若い男は玄関先に立ったまま一方的にしゃべり始めた。

「おはようございます。お客様は幸運にも『若返り化粧品』のモニターにご当選されました。今話題の『男性用お肌すべすべクリーム』が、なんと一箱たったの5万クレジットでご購入できます。この機会に是非お試し下さい。ご購入の際には、このボタンを・・・」

 男が言い終わらないうちに、エム氏は

「お断りだ」

と怒鳴って、ドアをバンッと閉めた。

 近頃は、宅配便を装ったこの手のセールスが横行していると聞いていたが、それにしても無遠慮なやり方に、エム氏は腹が立った。こちらも手荒に断ったが、まあ、どうせ本当に訪ねてきているわけではないのだ。


「だんな様、お食事が出来ております。『ネット朝妻』はそろそろ終了のお時間となります。なお、今月の契約は本日までとなっております。ご契約は自動更新となっておりますが、契約を終了される場合は、お手数ですが、朝妻ドットコムにアクセスをお願いします。」

 姿がだんだん見えなくなっていく彼女の声を聞き流しながら、エム氏はパンの保存庫を兼ねた『ネットトースター』の扉を開けて、焼き立てのトーストを取り出し、『ネット冷蔵庫』の『コップ取り出し口』から自動的に注がれた野菜ジュースの入ったコップを取り出し、一人テーブルに着いた。

 窓の外では、緑の草原をバックに『ネットコントロール自動運転車』のコマーシャルが流れて、その下に天気予報と時刻表示が映し出されている。

 エム氏は、それらのものには目もくれずに、大急ぎで食事を詰め込んだ。


 エム氏が部屋を出ようとしてドアを開けると、先ほどの『妻』が突然目の前に現れて、

「いってらっしゃい」

と微笑みながら手を振った。

 『妻』は、しかし、ときどき雑音が入るためか、横に線が入り、色が乱れたかと思うと、突然消えてしまった。

エム氏は、立体映像の『ネット妻』のいたあたりをぼんやり見やり、つぶやいた。

「廉価版だから仕方ないか。人型機械妻(アンドロイドワイフ)を持てる身分でもないし・・・。立体映像妻(ネットビジュアルワイフ)のフリーソフトってないのかな。」


 エム氏は、ドアを閉め、隣の小部屋に入り、背広に着替えると、立体映像カメラの前に立った。

 エム氏が、カメラのネット接続スイッチを操作すると、目の前にどこかの家の玄関が映し出された。

 今月のノルマの残りはあと二十件、なんとしても今日中にこなさなければならない。

 エム氏は深呼吸して笑顔を作ると、ドアチャイムを押して言った。

「おはようございます。立体映像愛玩動物(ネットビジュアルペット)をお飼いになりませんか?人気の犬や猫のほか、各種の動物を取り揃えてございます。ネット配信の立体映像ですので、面倒なエサやりなどは不要です。ライオンのような猛獣でも危険はありません。象などの大型動物でも手ごろな大きさでお楽しみいただけます。今なら体験版をお手ごろ価格でお試しいただけます。ご契約いただける場合は、このボタンを・・・」

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ネットな日々 やーめん @yahmehn

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