③ 常識を疑え
色の無い広大な平野にいくつもの直線が走り、今まさに巨大な建築物の設計図が完成しつつあった。
「それではリッカ殿、アスペラでは全ての子供が基本的な読み書きと計算ができるということでしょうか?」
ミラは自分から適宜不足する情報を集め、その部屋ひとつひとつに細かい注釈を加えていった。
「全てと言うのは大げさですが、将来的にアスペラを巣立とうとしたときに、困らない程度にはしてあげようというのが基本方針となっています」
カトリのひらめきで始まったこの旅であるが、自分でも気が付かないところで、またいつもの戯れであろうと否定している部分があった。
それでも彼女に仕える自分の役目として、一人で旅立つと言って聞かないカトリを思いとどまらせ、自分と護衛を連れていくことを最低条件として飲ませたのだから、旅そのものについては愚痴ひとつこぼすことはなく従ってきたつもりであった。
しかし、リッカに長老院の機能をひとつひとつ聞かされる度に、アスペラの先進的な制度に衝撃を受けるとともに、自分が仕えるカトリの慧眼に震えさせられた。
「ミラ様、どうかされましたか。お年からくる例の奴ですか?」
リッカの回答に言葉を詰まらせるミラを無礼な言葉で覗き込むルーク。
ミラはそんなルークを叩いて、大きくため息をついた。
「お前は単純でいいですね。文字の読み書きができるということがどれだけ凄いことか理解していますか?」
「そんなこと驚かれていたのですか。目が見えないミラ様には難しいことかも知れませんが、世間では当たり前のことですよ」
ミラは再び大きくため息をついた。
「お疲れでしたら、少し休憩しましょうか?」
「お気になさらず。ちなみにリッカ殿。長老院とは長老の邸宅ではなく、アスペラの行政施設とお見受けしましたが、この建物にはあとどれくらいの機関があるのでしょうか?」
「一応、長老の家もあるんですよ。実際には住んでいないので執務室になっちゃってますが。そうですね、もうあとはあんまり見るところはないかな」
「それを聞いて安心しました。どうやらカトリ様の謁見も終わったようですし、やはり休憩させて頂きましょうか」
周囲に人の声が増えだしていることに気が付いたミラは、仕事の邪魔にならないうちにカトリとの合流を提案した。
なにより老いた身体の疲れよりも、顔には出さずにいたが驚かされてばかりいたため、心労の方が強かった。ましてや同行するルークは想定していたとはいえ何の役にも立たないのだから堪ったものではない。
肩の荷を下ろすためにも早くカトリに報告しなくては。
「そういえばリッカ殿、昨日カトリ様が捕まえたという夜盗はどこに?」
ミラの提案をよそに、ルークが余計なことを言いだした。
「あの人たちもここの留置所に居ますよ」
「留置所というと、牢獄のことですよね。そんな施設まであったのか。是非見てみたいものです」
ミラと違って学校を見ても様々な事務所を見ても、どこか凄いのか全く理解できずにいたルークは、自分の専門分野である犯罪人を捕まえておく施設があると聞いて喜々として身を乗り出した。
「あんまり、お客様にお見せするような場所ではないのですが、見てみますか?」
ミラの返事を待たずして、見学を申し出るルークであった。
※※※
アスペラの留置所はルークの想像したものとは大分異なっていた。
光の差さない湿った地下にあるわけでもなく、悪臭の立ち込める便所という名の壺が置かれていることもない。不快な虫やネズミが横行するはずもない、ただ無垢の白木で作られた頑丈そうな格子が嵌められている以外、極めて清潔な部屋がいくつもあるだけだった。
「ここが留置所ですか?」
見知ったはずの施設のはずだが、まったく様子が違うため、不思議そうに見回すルークに念の為声を掛けるリッカ。
「えっと、ルークさん。留置所と牢獄は違うのですが、大丈夫ですか?」
ルークは乏しい記憶を捻りだそうと唸るが、どこか深いところにしまい込んでいるらしく、答えが出る様子はなかった。
大丈夫ではなさそうなのでリッカが説明する。
「取り調べ中が留置所で、裁判中が拘置所で、刑が確定したら刑務所ですよ」
「思い出しました」
それは思い出したというのだろうかと、ラザフォードの近衛兵が不安になるリッカであった。ルークはそんなリッカを見て必死に弁解する。
「我々のように王宮内で働く近衛兵にとって、捕まえた段階で既に犯罪人であることが確定しているので、あまり区別することなく牢獄に入れるものなのです!」
語れば語るほど、自分の知識の無さを披露していることにも気づかないルークをよそに、またもミラは大きくため息をついた。
すると、そんな彼らをよそに小さな子供が通り過ぎていった。
いくら清潔にしてあると言っても犯罪の疑いが掛けられた者が入れられる場所に不似合いな子供は、そのまま木戸を開けて別の個室に入っていく。
「あの部屋は?」
その様子に気を抜かれたルークは声を落としてリッカに聞く。
「ただのおトイレです」
「なんでまた、こんな不便なところに?」
「不便も何も、おトイレがなかったら困りますでしょ」
お互いに要領を得ない会話を続けていると、さっきの子供が再び前を通って、格子をあけて部屋に入っていった。
「あの牢屋、鍵開いてませんか」
「鍵なんて最初からかかってませんよ」
無人の牢を指さし、そもそも鍵のかかる造りになっていないことを見せる。
「ここは牢獄、いや留置所ですよね?」
「だから言ったじゃないですか、取り調べ中の人が入る場所だって。ルークさんがもし、犯罪者かどうか取り調べられているとして、逃げられる機会があったら逃げますか?」
逃げてしまえば、罪を認めたようなものである。そのうえ、その罪はさらに重たくなる。
「環境が悪かったら逃げ出したくもなるかも知れませんが、ここは毎日ちゃんと掃除もしているし、出ていきたくなかったって言う元犯罪者の方がいるくらいちゃんと管理してあります」
「で、でも、これでは犯罪抑止効果がないのではないですか?」
こんなところに入りたくはないから罪を犯さない。ルークが言うその論理も理解できないこともない。しかし、リッカは反論する。
「そんなものは、他でいくらでもできますよ」
胸を張って答えるリッカに、さすがのルークもラザフォードの常識がアスペラでは一切通用しないことに気が付いた。
ジオグラフィカ!~アスペラの愚者~ Alternative @Alternative
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