第15話血界の貴公子

 また、この場所まで戻ってきてしまった。

 淑女と初めて出会った場所、ハイネが眷属に堕ちた場所。

 忌憚なく言っても、良い思い出はなかった。


 上弦の月明かりが降り注ぐ開けた空間。この広い大森林の中に巡り会い、運命的な何かがそこにあったとしか思えない。最初は落ち着ける場所を探し、偶然たどり着いた。今ばかりは、この場所を目指したどり着いた。目指してたどり着けるほど、ここは道標すらない。

 ハイネとクレアの運命然り、この場所にもまた、因果が刻まれているような気がする。

 ハイネと、淑女の、あるいは、遥か過去の歴史に消えた吸血鬼達の、血が染み付いている。


 もう大分、吸血鬼の眷属に成り果てたこの肉体にも慣れてきた。

 ハイネという存在における最後の目標すら失い、達観した今だからこそ解る。鼻睦をくすぐられるような臭いだった。血の臭いを、敏感に感じる。


「――久方振りだな、小僧。待ちくたびれたぞ」


 上弦の月明かりに照らされ、目映く輝く。高貴な仕草の中に、何処か古風な雰囲気を帯びた所作。

 ハイネに気づいた振り向き際、気流を孕んで流麗に流れる漆黒のドレスの行方を目で追うと、銀の髪が煌めきを帯びて付いてくる。艶かしい程白い肌が、僅かに淡い赤みを携え、その美貌を露わにした。

 月明かりに良く映える。

 深紅の唇を小さく吊り上げた微笑みで、吸血鬼は、優雅に佇んでいた。


「お待たせしました、とでも言うべきか?」

「いいや、時間なら、腐るほどあるさ」


 喉の奥を鳴らすような、口元を手で隠しながら皮肉混じりに嘲笑する。いつもの、淑女の風格だった。

 変わらないことに安心感を覚え、そこに母性を感じてしまうのは、ハイネの錯覚だろうか。妙齢に見える淑女を掴まえて母性というのも違和感はあるが、謂わば吸血鬼の眷属となった肉体の生みの親として、あながち間違ってはいないのだろう。

 血の繋がり、という意味では他人にしてあまりに色濃い。

 嘗て淑女がハイネの祖先に与えた血と、ハイネ自身に与えた血。二度に渡って吸血鬼の血を授かった今のハイネを半端者と形容することは、それこそ違和感が大きくなってきた。何よりも、その思考の持ち方は既に吸血鬼のそれである。


 忌むべき友人をその手に掛け、生まれ育った故郷を捨て、少なくとも人間らしさは皆無だ。

 まだ、人間だったと自覚していた時間の方が長いものだが、吸血鬼として染まってきている。人間の記憶も、人間の常識も、やがてハイネという人間だった頃の名前すらも悠久な時間の彼方に忘れてしまった時、純粋な吸血鬼に成り得るのだろうか。

 その時さえも待たずして、ハイネの名を呼べる対等な人間は、クレアは、もうこの世には居ない。

 人間に戻ることはもう出来ない。否、もとより、人間では無かったのだ。今この状況を受け入れることは、ハイネには苦にはならなかった。それこそ、苦しいという感情さえ、既に忘れてしまっていると言えばそれまでだが。


 人間であることはもはや関心も薄くなっている。

 未練も無ければ、むしろあの虚栄の国に戻るくらいならばこの場所に居たほうがまだしも救われる。

 とはいえ、ハイネは純粋な吸血鬼になることを望んでいるのだろうか。自問しても答えは返ってこない。人間の記憶が邪魔をして、つなぎ止めようとしているのか。それすらも分からないが、少なくとも無自覚な迷いがそんな疑問を生み出しているのだと、見当は付く。

 人間の血が流れている以上、純粋な吸血鬼には成り得ないことも、また同じく。


「大分、吸血鬼らしくなったと見受けるが、気分はどうだね?」


 そんな迷いが浮き彫りになったハイネの姿を、吸血鬼らしくなったと、淑女は評する。

 らしさとは、つまり人間らしさも垣間見える裏付けだった。何よりも吸血鬼として完全な淑女が言う、吸血鬼として未熟を表す語句である。そして淑女が評さなくとも、ハイネの自覚が告げてくるのだ。

 限りなく吸血鬼に近い人間、限りなく人間に近い吸血鬼、どちらととってもやはり中途半端という事実は如何ようにも拭えない。ハイネ自身吸血鬼であることの迷いを、自覚していた。人間ではない、だがハイネは、淑女以外の吸血鬼を歴史の中にのみ知り得なかった。完璧な、完全なる吸血鬼然とした純然たる吸血鬼を前に、吸血鬼であろうとする烏滸がましさを自分自身に誤魔化しきれないのである。

 らしくなったと、淑女から貰い受ける最大限の讃美にも、用意されていたような答えしかハイネには持てなかった。


「悪くはない。自分でも、馴染んできているのが解る」


 それは嘘ではなく、嘘である必要も無く、自分自身にも聴かせるように、掌を握り確かめる。

 他でもない、クレアを殺したのはこの力だ。永き因果に、引導を渡してくれたのは吸血鬼の力なのだ。過去の実績すら関係ない、ハイネの努力すら関係ない、それらを、クレアを凌ぐ程の力だ。淑女程の、世界を支配できる程度の力には足り得ないのかもしれない。それでも、誰もが憧れ、誰よりも憎んだ存在に復讐を遂げるにはあまりにも充分だった。充分過ぎたのだ。

 紛れも無く、ハイネの虚無を作り上げたのはこの力だ。


 人間が持てる力の限界を、クレアを簡単に凌駕する力に、自負や自惚れではない何かを覚えた。

 その何かを例えるとするならば、ハイネという自分では無くなってしまった感覚である。

 ハイネにとって復讐とは、自我を失い人生を否定してまで成し遂げたかった因果なのだろうか。否、成し遂げなければならない運命だったのだ。誰に咎められていたとしても止まることはできなかった。それは恐らく、吸血鬼の力を得てしまったことで崩壊した悲劇なのである。この力が無ければ、ハイネ自身の純粋な力だったならば、虚無以外の満たされる何かも存在していたのかもしれない。

 ハイネが、吸血鬼の血を引く子供がこの世界に生まれ落ちた時点で、既にそれは純粋な力として考えることも出来ないのだろう。

 あるいは、真実さえ知らずにいれたのなら、それを自分自身の力と盲信し続けることもできた。虚しいと、笑う者も居なかったのだ。今は他ならぬハイネ自身が最も虚しさを感じている。歴史と淑女が笑うか、誰しも自分と関係の無いところで笑われていたとしても興味は示さないだろう。割に近いところで落ちていた真実に触れてしまったのは、ハイネの運命だったのだとしか言いようがない。

 ハイネでも持て余してしまうこの力さえ、赤子同然に扱うことのできる淑女は嘲笑している。

 人間の脆さを残したハイネが馴染んできたというのは、存外笑い話にもならない。

 何者でもない純粋で純然たる吸血鬼である淑女だから許された、冒涜的な、侮辱に過ぎぬ妄言だ。


「皮肉なものだよなあ? この世に生まれて既に吸血鬼の血を引いておきながら、今更馴染んできたなんて言うのだから、笑ってしまうじゃあないか」

「それなら結構。自分でさえ惨めに思うこの姿が貴方のお気に召したのなら、それもまた身に余る光栄なことだよ」

「……皮肉も通じない、つまらん男だ」

「これはこれは、随分とわがままな姫君だ」


 皮肉の効いた会話で互いにあざ笑い、絶大な力の差を持ちながら、その立場の対等を表した。否、ハイネからの一方的な敬服は変わることはない。淑女もまたそれを受け入れ、それによる差が生じないところまでへりくだっているのだ。拗ねた態度を示す童心を思い出させるような、妙齢に見える容姿然とし、悠久の歳月を感じさせない。全てを、失った二人だからこそ、そこに均衡を保っていられるのである。


 吸血鬼としての使命を終えて孤独になった淑女と、ハイネという存在の使命としクレアをその手に掛け孤独となったハイネ。

 皮肉や嘲笑はあっても、軽蔑が無いのは、互いに自分を重ねて見てしまうからなのだろう。

 客観的に見てもハイネと淑女の二人はよく似ている。決して相入れることは無かったハイネとクレアと比べれば、あるいはその関係と同様、対極なほどに。


――自然と、ハイネは語り始めていた。


 淑女から問うでもなく、もしくは瞬間的な沈黙に耐え切れなかっただけかもしれない。静寂を破り、ハイネはクレアに語った時と同じくその半生を綴り始めた。一度、眷属の体となった目覚めの時にも同じことを話していただろう。それでも淑女は静かに聞いていた。

 順番に並べ替えただけの話を繰り返し、淑女の相槌にハイネは満足している。止まらない語り口が堪らなく心地いいのだ。同じ虚しさを共有できる唯一の存在に、その虚しさが浄化していくような気がして、次に次にと語勢が止まらなかった。

 饒舌に語る中、ああそうかと、ハイネは気づいた。結局、淑女は対等な喋り相手が欲しかっただけなのだと。

 ハイネは今、虚しさを埋めてくれるだけの心地よさを感じていた。話すことで救われるような気がして、だがそれは、誰彼構わない訳ではなく。同じ虚無と孤独を知っているからこそ、素直に話せる。これと同じ感情だったならば、ハイネに眷属の体を与えた淑女の気まぐれが妙に納得いってしまうのだ。淑女が誰かに救いを求めてハイネを選んだのなら、ハイネもまた淑女に救いを求めたからこそ今ここに居る。


 虚しさに打ちひしがれたのか、肉体には感じないはずの疲労感が随分と重い。

 軽やかな口ぶりとは相対的に、睡眠欲のような感覚が伸し掛ってくる。

 一度吸血鬼の居城から離れた時からと考えれば既に数日間、吸血鬼の血を鑑みても所詮人間には過酷ということなのだろう。否、実際に肉体の疲労は少ない。吸血鬼の血が作り上げる凄絶な力を所以に、立ち止まることなくその使命を果たせた。吸血鬼の血が生み出した虚無が、ハイネの精神をすり減らしているというのもまた疲労の原因なのだろう。

 人生に疲れたと言ってしまうのが、最も分かりやすい。


「――時に、我が主君よ。聞いてはくれぬか?」


 もちろんだともと、一しきり話を終えて不意に改まるハイネに淑女は快い返事をくれてやった。

 復讐の結末すらも曝け出し、今更遠慮も無い仲に、その言葉には覚悟があった。淡白に見えて、同じ虚無とは思えぬ覚悟だ。されど淑女は装いを改めたりはしない。

 どうせ、腐るほどの悠久な時間の中に、忘れてしまうのだから。


「どうせならこの下らない復讐劇の感想も聞いてみたいものだが、今はいい。貴方に聞いておかねばならぬことが一つある」

「そうやって、あまり勿体ぶるなよ。気になってしまうじゃあないか」

「いや、あるいは、我が主君の気に入る話ではないのかもしれない」

「いいんだよ。どうせ忘れる」


 そう言って、喉の奥を鳴らすのだ。だからこそ話しやすい。常に砕けたこの物腰に、何度救われたことか。

 まだ自分が人間だと、思っていた頃、他人に弱みを見せたことはなかった。弱さを見せたことは一度たりともなかったはずだ。他人の前で敗北を認められるのは、いずれも既に他人ではないのかもしれないが、クレアと淑女の他に居ない。その上でクレアには復讐を誓った。本当の意味で敗北を認められたのは、淑女が初めてだった。敗北を認めてしまうことでこれほど楽になるとは、高潔なハイネには考えられなかった。


「私は紛れも無く、あの男を殺したいほど憎んでいたよ。だから殺した。そしてその選択は正しかったのか、今でも分からない」

「私はその憎悪に惚れてお前にその体を与えたのだ。私に敬服があるのなら、その選択も間違っていなかんじゃあないかい?」

「無論、この選択に後悔はない。いや、運命が定めた脚本に抗うことができなかっただけだ」

「人間も吸血鬼も、生物が生ける限り何時だって運命には無力さ。私も同じだ。嘆くことはない」

「慰めはいつもハイネという存在を惨めにしてきた。それは今でも、変わらないものだな」


 どれだけの賞賛に囲まれていようと、敗北が与える屈辱はあまりにも大きい。ハイネという存在における全美すらも狂わせてしまう。

 ハイネは強い。他人から賞賛されるに然るべき存在だ。

 ハイネは惨めだ。それはハイネと淑女だけが知っている。


 他人から聞こえる慰めは屈辱にしかなり得ない。賞賛以外の何者もハイネには必要なかった。

 憎悪すらも、純粋な力があれば生まれなかったのだ。敗北が憎悪を生み出し、慰めが育んだ。

 憎悪が淑女の心を惹いたというのなら、それはただの虚偽である。吸血鬼の血を引いて生まれた、中途半端な力さえ持たなければ、ハイネとクレアが対等に居ることはなかったのだろう。ハイネに吸血鬼の力を引いた虚偽の才能さえなければ、クレアを憎むこともなかったのかもしれない。

 だがそれもまた、可能性の範疇に過ぎないのだ。


 憎むべき存在を間違えていた、ハイネの妄想だ。


「抗うことが、即ち死を表す絶大な力。そのほんの僅かな一部を授かって生まれ落ち、勘違いの中に力を奮った。そうして得た地位と名声に溺れた、そんな惨めな姿をきっと運命は笑っていたのだろう。二度に渡って吸血鬼の血を受け入れ、何れも虚偽の力を使って欲しいものを手に入れてきた。力の所為で盲目になり、何を憎むべきだったのか、見失っていた」


 勘違いが生み出した復讐の、哀れな末路。中途半端な力が下手な誇りを持たせて、退路を断っている。

 憎むべきはクレアではなかった。否、運命は恐らく、似た結末を描いたことだろう。その中に命を落としたのがクレアかハイネか、それこそ可能性や妄想の範疇に過ぎない。

 抗うこともできない運命を呪うことが間違っているのなら、憎むべきは、虚栄だらけの真実である。


「この力を与えてくれた貴方には感謝している。クレアを殺させてくれた力だ。何よりも憎んだ存在に復讐を果たした。私は運命に恵まれている。だからこそ、貴方に一つ、取り返しのつかないほどの無礼を許していただきたい」


 構わんと、短い肯定が聞こえた。

 その口元は既に綻んでいた。


「その力が拒まずとも、このハイネの忠誠に誓って刃向かうことのできないお方。だが、最早忠誠すらも関係ない。このハイネに力を与えた感謝であり、恨みである。私は貴方が憎い。このハイネとクレアの長き因果を崩壊させた、貴方が憎い。あのクレアと対等に戦えなかった……自分が憎いのだ……」


 可能性や妄想に縋ることも許されない、ハイネの後悔である。


「だからお許しください。私は、百年に一人と謳われたあの男の手向けに、貴方を殺さなければならない」


 剣を抜く。

 クレアの剣を抜く。

 切っ先は淑女に向いた。


 吸血鬼を前に無力を表す綺麗な刀身が、今再びハイネの手にある。

 もう一度。もう一度、クレアと剣を交じわうことができるのなら。

 吸血鬼の血に汚されていない、綺麗な剣でクレアと対峙できるなら。


 所詮叶わぬ可能性。夢に過ぎぬ妄想。

 せめて、あの下らない結末を書き換えてやらなければ、ハイネはクレアに顔向けできない。

 結局人間として凌ぎを削り合うことのできなかった、その強さに敬意を示し、抗うことが即ち死を表すほどの力を前に剣を握る。


 吸血鬼の本性を見せた、あの日と同じだ。

 獰猛な笑みが、淑女の表情に張り付いていた。


「――ああ、小僧。待ちくたびれたぞ」


 淑女は同じ言葉を繰り返す。

 優雅な佇まいを忘れ、野蛮な破顔を表情に出して。

 並んだ語句は同じだが、その内容は微妙に変わっている。この場所でハイネを待っていた。ハイネがこの場所に戻ってくると確信して、待ち惚けて、言葉にした。時間は腐るほどある。悠久な時間の中に取り残された淑女は、例え永遠でも待っていられる。

 淑女はその言葉を待ちわびていた。

 悠久な時間の中から解放してくれる存在を、永遠に待ち望んでいた。


「待っていた。本当に長く、待っていたよ。あの日から、ずっと……」


 それは、ハイネと出会った日からなのか。あるいは、吸血鬼という種を自らの手で滅ぼした、歴史の中の一日なのか。

 淑女にとって時間の感覚とは、長くも短くも変わらない。されど途方もない、孤独に耐えてきた。


 ハイネは思う。

 このか弱き淑女を救ってやらねば、と。

 悠久に続いた長き虚栄の歴史に終止符を打つ。

 物語の結末は、ここにあった。


「――さあハイネ、私を殺しておくれ」


 両手を広げ、剣の中に自ら歩み寄る。救いを求めて、名前を口ずさむ。

 抱擁を求めるように、悠然とした足取りだ。

 随分と、穏やかな表情だった。


 剣があっては、抱きしめてやることもできない。

 剣がなければ、淑女の最後の望みを叶えてやれない。


 ならば答えは既に決まっている。

 ハイネはそのまま剣を構え、やがて剣から伝う生の感触をその両腕で受け止めた。


 妖艶な、ドレスから溢れる肉の間を、心臓を貫く。突き立てた剣から滴る血がハイネの指に絡みついてくる。あるいは吸血鬼の強靭な肉体が壁になっているのか、存外奥まで入り込んでいかない剣に力を加えた。

 より近くに、淑女の息を感じた。今まで、遠くに感じていた淑女の存在を、ここに来て漸く、抱きしめられるほどの距離まで近付いたのだ。


 人類には余りにも大き過ぎる力。血が溢れ、吐息がか細くなっていく。その凄絶な力も同じく、小さくなっていくのを感じた。

 友人への手向けか、淑女の願いか。ハイネにはもう考える余地もない。考える時間ならば、後でいくらでも用意すればいい。悠久な孤独の中から、悠久な虚無の中から、一人の吸血鬼として一人の淑女を救った。今はそれで十分だろう。


 血の臭いが鼻睦をくすぐる。

 淑女の、弱りきった声が聞こえてくる。

 静寂に委ねなければ、耳を傾けなければまともに聞き取れないほど、小さな声。


「……最初に、言っただろう? 私を、殺せるのは……吸血鬼だけだ、と……」


 苦痛を帯びた、それでも不思議と、嬉しそうにも聞こえた。

 ハイネが吸血鬼でなければ、その肉には剣が通らなかったのだろう。確かに聞き覚えがある。他でもない、ハイネを一度絶望に叩き落とした言葉だ。誇り高きハイネをたった一言で、絶望の淵に立たせることのできた唯一の言葉だ。剣が、嘗て感じたこともないほどあまりに重い。


「……残してしまって、すまないな……ハイネ――」


 数えるほどしか呼んだこともない、その名前。最後にその名前を呼び、か細い呼吸を止めた。

 淑女は救いを求めたときにしか、その名を呼ばなかった。


 淑女は救いを、残していったのだろう。

 悠久の孤独を生きた淑女だからこそ、その言葉が許される。


 ハイネは、返事をしなかった。返事をすることが無駄だと知っているからだ。

 クレアに問うた。最後のあの質問は無駄だったからだ。

 故に、ハイネは独りでに考えている。

 自分が何者であるか、その答えを。


 人間か、吸血鬼か。

 それは恐らく、悠久の時間が答えを出してくれるに違いない。

 時間は、腐るほど残されている。


 考えるための時間なら、今この腕で静かに眠る、吸血鬼が与えてくれたのだ。

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血界の貴公子<ヴァンパイア・ロード> 八斬 @yzn

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