陸上春秋~万年貧血娘~

千里亭希遊

鉄欠乏性貧血

 薄い色の空にはまばらに雲が浮いていた。とてもとてもいい天気だった。

 八月二十二日。

 某、どちらかといえば北の方にある県の、県総合運動公園陸上競技場。

 この、真夏だというのにそれほど蒸し暑さは感じられない土地で。

 六人は、始めての大きな大きな大会に臨もうとしていた――

 ────そして。

 とうとうUPの時間がやって来る。

 サブグラウンドは選手であふれていた。誰も彼もが大きく見えて、圧倒される。

「……大丈夫てー! うちらもおんなじんごと見えよっちゃけん!」

「だよね~!」

 感じていたことは皆同じだったらしい。後輩達がそんな会話をしていた。

 短距離三年女子は自分を含めて二人だけ。もう一人は砲丸投げの実力者で、リレーでは補欠に回っていた。他の四人は皆二年生だ。補欠の二年生の一〇〇Mのタイムは自分とそう変わらない。

「ちょっと思いっきり走ってみんねー。大丈夫、皆ついて来ぃきっけん」

(ちょっと思いっきり走ってみなさい。大丈夫、皆付いて来れるから)

 先生がいたずらっぽく第四走者に呼びかけた。彼女はメンバー中最速。今まで流しとはいえ手加減して走っていたというのだろうか……? こちらはこのスピードでも結構息が上がっていたりする。だとしたらやはり桁違いの実力者なのだと、今更ながらに感じる。ともあれわざと見栄を張って見せろという先生の言葉に皆頷き、思いっきり堂々と走った。地元で、低学年のメンバーと自分たちが並んで立っていたら、逆転して見られてしまったような身長しかない四人。けれど大きく見られていると信じて。そしたら少し気持ちが楽になった。先生はみんなの緊張をほぐしたかったらしい。


 三年弱前までは───

 先生が、赴任されてくる前までは───まともに活動すらしていなかったというこの部。

 それが、今日まであれだけのことをしてきて、ここまで来たのである。

 その成果を、どこよりも、今、ここで、出したい───!



 召集も済ませ、声を掛け合ってそれぞれの場所に散る。

 さすがに場内は地元と変わらないくらい暑かった。

 時間が迫る。

 補助員が自転車で荷物を持って行ってくれるのを、半ば本気で感動しながら見送った。

 時間が来る。

 役員が予選第一組に準備するよう呼びかける。バトンを受け取り第二レーンに入ってブロックを固定する。スタート練習。ほどなく指示を受け、ブロックの後ろに戻り、待つ。ここでだんだん緊張が高まっていくのはいつものこと。───けれど。

『位置について』

 気付けばどうもいつもより緊張している。心臓の音がやけに派手に耳の奥で響く。

 だからいつも以上に集中して耳を澄ます。『走る』ということだけを考える。

『……用意』

 前へ! 頭にあったのはただそれだけ。

 パァン!

(……!?)

 明らかに出遅れてしまったことが解った。何だか体が鈍い。脚も腕も動かない。スピードが出ない───第二走者がとても遠い……!

 バトンを渡したあとはただ呆然と仲間の走る姿を追っていた。頭の中はもう真っ白。何が何だかわからないまま、第四走者がものすごく辛そうに走りきる姿を目で追う。

 頭痛がする。ただ申し訳なくてたまらない……。


 ───原因は、貧血だった。

 動揺や口惜しさや罪悪感や、色々な感情が入り混じってぐちゃぐちゃで、口をついて出てくる言葉は一つとしてない。涙さえ出ない。先生にも仲間にも、こんな情けない言い訳など言えるはずもなかった。

 競技終了後。結果の貼り出された掲示板を眺め、明るい声で先生が言う。

「ありゃーこいない準決勝残いきったごたっねー……も~! あんたがいつもんごと走って来んけん第二走者がスピードに乗れんで、そいで第三走者も乗れんで、そんまんまアンカーに渡してしもーたとさ~」

(ありゃーこれなら準決勝残れたみたいねー……も~! あんたがいつもみたいに走って来ないから第二走者がスピードに乗れなくて、それで第三走者も乗れなくて、そのまんまアンカーに渡してしまったのよ~)

 冗談めかしてそう茶化して、『気にするな』と暗に言って下さっているのは分かった。

しかし、やはり何も言えない。

 ────51″90。

 常よりもはるかに遅い――その、非情な結果を示す、単なる白い紙と、それを支える単なる薄い板切れ。

 その「単なる薄っぺらいもの」が、こうも重たく圧し掛かる───


 もしいきなり貧血なんぞ起こしやがるようなのではなく、補欠になっていた後輩に走ってもらっていれば───いや、『もし』などと言っていても仕方がないわけで。出してもらえただけでも大切な思い出だ。もう一番の大舞台に限って失敗するようなことには絶対ならない……!


 そんな後悔と誓いを、嫌というほど胸に刻んでいた、そのはずだったというのに……。


 ───翌月。中学最後となった大会で一〇〇Mの自己ベストを更新。しかし十一月には練習にも出なくなり……。そして高校ではこの自己ベストに近づくこともできないまま、最後の県高校総体を迎えることになる。……ここでまたもや同じ轍を踏む。ただこの時は自分が貧血を起こしているのは知っていた。

 特にひどかったのは前日の夜。終わらない落下感。気持ち悪くてたまらない。幾度となくふりかかるほんの数秒間の眩暈──ひどく長く感じられる──はその度ごとに目を覚まさせる。加えて蒸し暑くてイライラする。

「……くっそ……ッ」

 上体だけ起こして頭を抱える。全身だるくてたまらない。睡魔に負けて横たわればまたくらくらする。こんなことを何度も繰り返す。ほとんど眠れず、もう駄目だと思った。……しかし補欠はいない……。そのうちいつの間にか眠っていた。

 当日。仲間には一応ヤバイということは伝えていた。案の定スタート直後に支えきれずにけつまづく。が、根性で走る。結果は意外にもそう悪いものではなかったが、北九行こうねという目標どころか決勝にも残れなかった。ひたすらごめんを繰り返した。みんなで泣いた。大会後の引退の挨拶の時など、言いたいことがたくさんあったのに涙ばかり出てきて、ありきたりな言葉しかかけることができなかった。つくづく情けないハナシである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

陸上春秋~万年貧血娘~ 千里亭希遊 @syl8pb313

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ