週末のヒーロー

週末のヒーロー

 蛇口を捻るとシャワーから水が出る。

 俺はシャワーのヘッドを下に向けて、暫く水を出し続けると、段々と水が温かくなって、やがて熱いお湯になる。それを確認してから俺は水の蛇口も捻って温度を調節する。

「ふう、やれやれ……」

 少し熱めに調節したお湯を頭から被ると、思わず溜息が出た。シャワーから出たら直ぐに眠るとするか。

 将来の夢はスーパーヒーロー。

 そんなふうに無邪気な夢を見ていたのは遥か昔。俺が小学生になるかならないかの頃だったような。そんなものには成れないと早々に見切りをつけたひねた子供ガキだった。就職し、結婚して、子供が生まれた今、俺はヒーローなどとは無縁の地味な会社であくせく働いている。仕事に誇りを持っている訳でもないが、毎日十時過ぎまで働いている。日中の労働で疲れ果て、帰るとそのまま寝てしまう。妻や子供の事はもちろん愛してはいるが、すれ違う日々が続いている。

 シャワーのお湯を止めて、愛用しているメントールのシャンプーを手に取り泡立てる。

 今日は残業に次ぐ残業でほぼ徹夜だ。現在時刻は午前四時。働き詰めだったこともあって体力は限界。シャワーを浴びながら目を閉じると、それだけで意識が飛びそうな状況である。幸いなことに明日は日曜日。週に一度しかない休日である(その日曜も度々潰れるのだが)。こんな時はさっさと寝て、昼過ぎまで寝るのが一番である。そう思って、シャンプーで泡立った頭を爪を立ててかきむしった。

「ねぇねぇ、お父さん」

 ふと、頭の中に我が子、勇気ゆうきの申し訳なさそうな顔が浮かんだ。これは、記憶。しかも、ごく最近の記憶だ。

「日曜日に、久しぶりに家族みんなで遊園地に行きたいんだけど、ダメ……かな?」

 おそらく、妻に聞いたのだろう。俺の休みは毎週日曜日だ。しかし、融通の利かない俺の会社は、仕事が残っていれば休みだろうがお構いなしに出勤させるので、息子との約束は一方的に破られることが多い。その度に勇気は困った笑顔で「ごめんね」を繰り返す。謝るべきは俺の方なのに。

 今回の約束は、勇気に聞かれてから俺は予定を全部確認し、日曜は完全にフリーであることを確かめてから、その日ならいいと息子との約束を取り付けたのである。しかし、案の定というか、予定外の仕事が入ったため、日曜日を無理やり空ける為に残業を繰り返したのだ。ただ、間抜けなことに俺は肝心の息子との約束をすっぽりと忘れてしまっていたらしい。今から寝たら昼過ぎまで起きられないし、このままでは約束を破ることになってしまう。

 髪の先についた水滴が浴室の床に落ちて音を立てた。

 「お父さんはヒーローなんだよね!」

 頭の中に息子の幼い声が響いた。そんな言葉を言ってくれたのは何年前だっただろう。俺は息子ゆうきに、妻と二人で考えた優しい嘘を語っていた。お父さんは毎日ヒーローをやってるんだよ。だから、昼間はいなくて、帰りが遅いんだよ、と。穢れを知らないその瞳は、キラキラと輝いて頷くのだ。俺の濁ってしまった眼にはその輝きは眩しすぎて、だけどその輝きを失くしたくなくて、この子の前だけではヒーローであろうと心に誓ったのだ。それから数年、もう勇気はあの言葉を言わない。ただ、申し訳なさそうな顔をするだけだ。そんな顔をするな。俺はその度に胸が張り裂けそうになる。

 両の頬を濡れた手で叩く。浴室に小気味いい音が響く。蛇口を捻り、勢いよく飛び出した冷水のシャワーを頭から被って、俺は浴室から出る。

 なに、一日遊園地に付き合うだけだ。無理でもなんでもない。だって俺はヒーローなんだから。

 













「ねぇねぇ、お父さん。どうしてヒーローなのに日曜日は働かないの?」

「お父さんはな、毎日世界を救うために働いているんだ。でも一週間で一日だけは家族の為に働くんだよ。日曜日はお母さんとお前、勇気の願いを何でも叶える日なんだ」

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週末のヒーロー @shinchandx

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