第18話 エピローグ




「で、許した――と」


 後日。

 もう彩乃と待ち合わせすることもお約束のようになってしまった、カフェである。会釈をして微笑み会う彼女と店員を見るに、顔も覚えられているのだろう。静かでそれなりに気に入っていたのだが、逆に一人では足を運びにくくなってしまったな――と少しだけ落ち込みながら、和泉は事の仔細を告げた。

 そうすることは彩乃との約束でもあったし、なにより透吾に遺品を壊されている彼女には知る権利があると思ったのだ。

 話を聞き終えた彩乃の第一声が、それだった。

 ――恐らくは、彼女も自分と同じ心境なのだろう。

 透吾のことを許す気にはなれないが、怒るに怒れない。

 そんな顔をしている。


「和泉君って、意外にお人好しよね」


 彩乃とてあの場にいれば同じように――いや、もっと前向きな助言を彼にしただろうに、どうにも気持ちの整理がつかないのか、恨みの矛先をこちらに向けてきた。


「普段は他人に無関心で、文句も多いくせに。すぐにほだされちゃうんだから」

「ほだされたわけではありませんよ。ただ……」


 あまりに哀れだったのだ。

 嫌みなまでに器用な男の中身がひたすらに空虚であるというのは。


「生きにくい人だな、と」


 首を軽く左右に振って、和泉はそっと呟いた。


「本人は誰よりも生を謳歌しているつもりで、誰よりも死に囚われているんです。親しい人を失うことが怖いから、一人でも平気なのだと自分に思い込ませている。仕事だ契約だと言っていましたけれど、万里ちゃんのことも好きなんだろうと思いますよ。本人が思っているよりずっと」


 そうでなければ、万里の火傷にああも狼狽えたりはしなかっただろう。

 彼の本音は過去にあった。

 ――「生まれたばかりの万里を抱かせてもらったとき、妙に感動したことを覚えているよ」

 親しい人の死に呪われた男の想い。

 彼の激しい想念は、今もまだ目蓋の裏に焼き付いている。思い出すたびに憂鬱さをもたらすそれは、和泉の胸にしばらく余韻を残しそうだった。

 一方の彩乃は、ふうんと間の抜けた相槌を打っている。

 当事者ではないとは、そういうことなのだろう。

 人は存外、他人に関心がない。だからこそ透吾は何も持っていないことをひた隠しにして、何もかもを持っている風に装うこともできた。


「本心に気付いてくれた人ばかりを失ってきたというのも、彼の不幸なんでしょう」

「……やっぱり、お人好しなんじゃない」


 彼女はぼやくと、思い出したように続けてきた。


「藤波さんといえば――彼、カラクサ葬祭を辞めるそうよ。今は引き継ぎで忙しくしているみたい。三国さんが教えてくれたんだけど」

「石狩さんが?」

「ほら、藤波さんは遺品整理サービスに力を入れていたでしょ? 競合するやり手がいなくなる、朗報だって便利屋業界じゃちょっとした噂になっているんだって」

「そうですか」

「あら、もっと驚くかと思ったのに」


 むしろ彼らしい、と和泉は思った。


「それがけじめだったんでしょう。あの人、恰好付けしいですし」

「けじめ、ねえ。でも、万里ちゃんは寂しがるんじゃないかしら」


 そう呟く彩乃の顔には、翳りが差している。

 年上の男への憧憬と決別を経験している彼女は、万里の気持ちを想像して胸を痛めているのかもしれない――ぼんやりと考えながら、和泉は頷いた。


「そうですね。そうだといいな、と思います」


 らしくもなく願ってしまったのは、死者に負け続けている男への同情からからか。胡乱げに見つめ返してくる彩乃の視線をかぶりを振って払い、話題を変える。


「そういえば、貴士君の方はどうなっているんですか?」

「え?」

「え? じゃないでしょう。巴さんから聞いたんですよ」


 元より、彩乃が大人しく決着が付くのを待っているとは思わなかった。それにしても、一人で貴士を訪ねるとは予想外だった。

 一度は不法侵入の罪まで着せられそうになった彼女だ。


「ああ、そっか。もう少し進展してから話そうと思っていたんだけど――」


 たくましいと言うべきか、懲りないと言うべきか、彩乃はけろりとしている。


「一応、一歩前進ってところかしらね」

「へえ?」

「蛍さんに頼んで先生を紹介してもらうことになったのよ。比良原君って、独学だったじゃない。知識も技術も乏しいから、まずは基礎からやり直しってことで――」


 それを貴士が認めたというのは、一歩どころか大きな前進と言えるだろう。和泉は驚いて、彩乃の顔をまじまじと見つめた。

 いったい、彼女はどうやってあの子供じみた青年を説得したのか。


「弱みでも握ったんですか、比良原君の」

「そうそう、弱みを握って脅したの……って、違うわよ!」

「ノリツッコミとは新しい。国香さんも日々成長しているんですね」


 いつも、馬鹿の一つ覚えで「なんでよ!」と怒るばかりだった彩乃が。

 しみじみ呟きつつ、本題から大分逸れてしまったと気付いて和泉は話を戻した。


「いやまあ、それは冗談として。複雑な顔をしていたでしょう、彼」


 彩乃は――これはいつもどおり、がるがると犬のように唸っていたが、和泉の真面目な視線に気付くと少しだけ肩の力を抜いた。それから、渋々認める。


「そうね」


 それから少し考えるそぶりを見せて、


「でも、少し嬉しそうでもあったかな」


 はにかむ。

 どんな心境の変化か。貴士の前進をまるで自分のことのような喜ぶ彩乃を眺めて、和泉はそっと目を伏せた。あなたこそ随分とお人好しですね、と。これは口には出さなかったが。代わりに、


「国香さんって、やっぱり変な人ですよね」


 妙に落ち着かない心地で腕のあたりをさすりながら、呟く。

 彩乃はきょとんと目を瞬かせて――こちらの不躾さに戸惑ったようだ。


「何よ、いきなり」


 窺う視線に、和泉は口ごもった。

 どう答えたものか。自分でも不透明な胸の内に、言葉を探る。


「すごく、意外だったんです」


 何が。

 と、彩乃は間髪入れずに訊き返してきた。


「俺の言えた義理ではありませんが、彼には随分と甘えたところがあるでしょう?」

「それは……そうかもね」


 彩乃が断言しなかったのは意外だった。

 疑問は顔にも出てしまったのだろう。彼女はこちらの表情に気付くと曖昧に笑った。少しね、と言葉を濁しながらどこか照れているようにも見える。

 そんな彩乃の様子に釈然としないものを感じつつも、和泉は問いを呑み込んだ。

 先までの――透吾との一件に耳を傾けていた彼女も、同じように感じていたのだろうと理解してしまったからだ。

(なんか、貴士君もつくづく年上の女性に好かれると言うか……)

 巴から彼を初めて紹介された日の複雑さを思い出しながら、和泉は続けた。


「俺――貴士君は周りが反対していることを、やらない言い訳にしているんじゃないかと思っていたんです。チャンスが転がり込んできたとしても、適当な理由を付けて尻込みするんだろうって」


 しかし、そうはならなかった。

 今回に限って、貴士は努力することを選んで一歩踏み出した。


「付き合いの長い巴さんや、彼のことを気に掛けていた石狩さんの言葉ですら届かなかったのに」


 どうして、彩乃だったのか。


「巴さんも報われませんよ」


 問いかけに嫉妬じみた響きが交じってしまったことに気付いて、和泉は冗談めかして付け加えた。彩乃が、いつもの年上ぶった調子で答えてくる。


「同じ志を持つ人にしか分からないことって、あると思うの。周囲の反対もそうだし、挫折感もそう。共有する感情があったからこそ、比良原君も話を聞く気になってくれたんじゃないかしら」

「そういうものですか」

「そういうものなのよ」


 頷きあって、会話が途切れる。

 日頃は願ってやまないはずの沈黙が、今日はどうしてか落ち着かなかった。グラスの中で溶けた氷が、底に落ちてからんと音を立てる。

 そのタイミングで、和泉は口を開いた。


「……俺も、何か始めようかな」


 口から出たのは、およそ自分らしくない思いつきだった。


「え?」


 訊き返してくる彩乃の視線から逃げるように、顔を伏せて続ける。


「新しいことを始めるわけでしょう、貴士君も藤波さんも。だから――」


 透吾の変化が感慨深いのも、貴士の決意に妙な嫉妬をしてしまうのも、すべては今までの確執に因るのだろう。どちらも親しみを感じる人ではない。悩まされることの方が遙かに多かった。時に、傷付けられもした。だが人との付き合いを怠惰に避けてきた和泉にとって、彼らほど深く内面を探り合った人もいなかった。

 それは奇妙な感覚だった。

(厄介な知り合い、か)

 彩乃に視線を投じて、考える。

 彼女も初めは、厄介なだけの知り合いだった。

(あの二人のことも、いつか友人なんて呼ばされる日が来るんだろうか……)

 らしくもない想像だ。

 とは言え、和泉はもう何が自分らしいのかも分からなくなっていた。変化を自覚した瞬間に感じる決まりの悪さと微かな頭痛だけが、辛うじて生きた人に心を寄せることのなかった自分を思い出させてくれる。

 溜息を零す和泉と裏腹に、彩乃は呑気なものだった。


「和泉君にも対抗心なんてあったのね!」

「ツケは支払わないと、と思っただけですよ。他人にお節介を焼いてしまったので」


 苦虫を噛みつぶした顔で、和泉は答えた。


「彼らに変化を促して、俺ばかりこのままでいるわけにもいかないじゃないですか」

「そう? 二人とも、そういうことは気にしないんじゃない?」

「俺が気にするんですよ」

「変なところで律儀ねー。まあ、対抗心なんかよりよっぽど和泉君らしいけど」


 呆れた声の中には、むずがゆくなるような優しさも含まれていた。


「俺の」

「何が分かるんですかってのは、なしよ」


 先回りされてしまって、和泉は今度こそ閉口した。

 何がそんなに面白いのか――上機嫌に微笑んでいる彩乃から顔を背けて、カップに口を付ける。中の紅茶はすっかり冷え切っていた。舌先に触れた渋みをどうにか呑み込んで、またカップを置く。

 ミルクを追加しようか迷っていると、彩乃がふっと声をかけてきた。


「ねえ、和泉君」

「……なんです?」

「もし、何か新しいことを始めようっていうのなら――」


 そこで一度、言葉が途切れる。言い淀んでいるらしい空気を察して、和泉は少し視線を上げた。目が合う。視界に入ったのは、頬を上気させた彩乃の顔だった。

 照れたような、少し興奮したような調子で、彼女は早口にまくし立てた。


「カメラなんてどう? 鑑賞眼を持っている和泉君には、向いていると思うの」


 予想したとおりの提案だった。

 和泉は思わず吹き出した。


「遠慮しておきます」


 即答でかぶりを振る。

 それが不服だったのか、彩乃は頬を膨らませている。


「なんでよー。カメラ選びから付き合うのに」

「だからですよ。国香さん、うるさそうなので」

「うるさいって、どういう意味よ!」

「そのままの意味です」

「もう! 和泉君って、わたしには遠慮がないわよね!」


 ぷりぷりと怒りながら、薄くなってしまったアイスティーを呷っている。

 そんな彼女を眺めるうちに自然と唇の端がつり上がっていたことに気付いて、和泉はさりげなく口元を手で覆い隠した。







END.

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ラスト・メメント――貴族と死 鈴木麻純 @nosferatu

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