第17話




「君は……」


 情けない泣き笑いのような表情を浮かべながら、和泉をじっと見下ろしている。

 どうにか嗚咽は呑み込んだのか、しばらくして彼は何かを押し殺したような低く掠れた声で続けてきた。


「君はなかったことにはさせないと言ってくれたが、これだけは訂正させてほしい」

「なんです?」

「君のことさ。青春病を引きずった、引きこもりの痛いお坊ちゃんと評しただろう」

「引きこもりの痛いお坊ちゃん?」

「ああ、いくらかはオブラートに包んだかもしれない。とにかく、そういう風に思っていたんだよ」


 腑に落ちないが、そう思われたとて仕方のないところではある。

 すぐそこまで出かかった文句を呑み込んで、和泉は恨めしげな半眼で先を促した。透吾は苦笑いで続ける。


「悪意はなかったと言いたいところだが、そうじゃなかった。実を言えば、出会ったばかりの頃に、君に少しだけ親近感を抱いていたことがあった。タイプこそ違うが、君も人からの干渉を嫌っているように見えたし、感情表現も乏しかった……千里と出会った頃の俺と似ているように見えた」

「でも、違った」

「ああ、そうだ。君は俺とは違った」


 上光朝子のところで和泉が彼女の息子の真意を代弁してみせたとき、透吾は愕然としたのだろう。和泉はただ性質を異にするわけではなく、彼が避けてきた〝死への感傷〟を愛するタイプの人間だったのだから。


「そのときは自覚しなかったが、多分面白くなかったんだと思う。誰の前でも上手くやってきた、どれだけ気に入らないことがあっても無茶だけはしなかった俺が、あの日ネックレスを捨てた。それから、国香君のカメラだ。前にも言ったとおり、俺は国香君の写真から彼女の価値観を誤解していたんだよ。比良原君の絵もそうだな。両親に反発する彼のことも勝手に自分と重ね合わせて、勝手に失望して腹を立てた。一つ箍が外れると、もう止まらなかった。誰も、彼も、結局は俺と違う。長く一緒にいた万里でさえね。それが酷く忌々しかった」

「藤波さん……」

「君の価値観を青春病だなんて決めつけて悪かった。お坊ちゃんだなんて侮って、悪かった。俺の客に、どうして君の言葉だけが届いたのか。今なら少しだけ分かる」


 透吾の眼差しは、憑き物が落ちたようにあたたかだった。

 寂しげでもあった。


「君が故人の想いを鑑賞できるのはさ、他人の想いや価値観を受け入れるだけの度量の広さがあるからなんだと思う。生者も、死者でさえも、君に話を聞いてもらいたくなってしまうんだろうな」


 羨望の入り交じった吐息とともに、すっと手を差し出してくる。


「お言葉に甘えて、またなと言わせてもらおう」

「ええ。縁があれば、また」


 幾分か極まりが悪いのか視線を泳がせている彼を見つめて、和泉は少しだけ笑った。彼の手に、短く手のひらを重ねる。

 すべてを水に流すつもりはないが、責める気持ちも失ってしまった。


「縁、か。俺にとっては恐ろしい言葉だ」


 透吾は不吉な言葉でも聞いたように声を震わせたが、こちらの視線に気付くと気を取り直したように笑んでみせた。

 情けない姿をさらし尽くした彼なりの意地だったのだろう。


「だが……国香君と出会った君の日常が変わったように、君たちと出会った俺の人生にも変化があるのではないかとも期待したい気持ちもある。いや、願うのは俺自身の変化かな」

「あなたにしては他力本願なことを言うんですね」


 これまでのお返しと言わんばかりに揶揄すると、透吾は笑みをますます苦くした。


「俺のこの性格は、もう自分じゃどうにも改善しようがなさそうだから――って、分かっていて言わせているだろう。君も、意地が悪いな」

「あなたほどではありませんよ」

「俺は意地が悪いんじゃなくて、君らの言うところの寂しがりなのさ。生きた人に媚びて、俺だけを見てくれと強いている。君の見立てじゃ、そうなんだろう?」


 肩を竦めて体を引くと、透吾は踵を返した。

 部屋を横切って、恐れる瞳で窓の外を窺う――蛍たちが帰ってくるより早く、ここを去ってしまいたかったのだろう。そんな彼に、和泉は声をかけた。


「藤波さん、最後に一ついいですか?」

「なにかな」


 振り返ってくる彼に告げる。


「気が向いたら、千里さんのライターを受け取ってあげてください」

「……どうして」


 透吾は俯いて、まるでそんな資格などないとでも言いたげだった。


「それが彼の望みだったんです」


 和泉は彼を真っ直ぐに見つめて、言葉を重ねた。

 透吾が少し顔を上げる。視線が交わる。

 そのまま数秒、彼は根負けしたように溜息を零した。


「まあ、気が向いたらそのうち。ほとぼりが冷めた頃にね」


 小火を起こした後とあっては、気が引けるのも仕方ないことではあった。前向きな答えを引き出せただけでも、今はよしとすべきだろう。

 頷きかけて――和泉はもう一つだけ思い出した。


「それと……」

「一つだけじゃなかったのかい?」


 苦い顔の透吾は無視して、続ける。


「右手、痛いんでしょう。いい大人なんですから病院くらい素直に行ってください」

「いつからそんなに世話焼きになったんだ、君は」


 溜息を零しながらも、彼はようやく――ほんの少しだけ唇の端をつり上げた。


「ここは素直に従っておくとしよう。君の言う〝次〟に、借りを返せるようにね」


 気取った調子で片手を挙げて、今度こそ部屋を出て行く。

 やはりその方が彼らしい。こちらも笑いながら、和泉は透吾の後ろ姿を見送った。ずっと得体の知れない存在だと思い続けていた彼の背は、正体を暴いてしまえばその辺にいるサラリーマンとなんら変わりない。

 それが、藤波透吾とのやり取りのすべてだった。


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