第16話
「やめろ、やめろよ! トーゴ!」
金切り声を上げて部屋に飛び込んで来たのは、万里だった。
「万里?」
透吾が驚愕に見開いた目で、乱入してきた少女を見つめる。万里は呆然と部屋の中を見つめていたが、燃える火の中に写真立てを見つけると声を荒らげた。
「あたしの……あたしのパパを、いなかったことにするなよ!」
それは、切実な叫びだった。願いだった。
「トーゴ、なにやってんだよ。おかしいよ。パパと仲良かったくせに、どうしてそんな風にできるんだよ。いなかったことにできるんだよ。死んだってだけで嫌いになれるんだよ。パパのこと全然知らないあたしでさえ、こういうことされると腹が立つし、寂しいのに」
「それは――」
透吾が珍しく言葉に詰まる。
十の子供がずっとその想いを胸に秘め続けてきたのかと思うと、胸が塞いだ。それは、透吾も同じだったのだろう。和泉は動揺に緩んだ彼の腕から、ようやく抜け出すことができた。
透吾の無言にじれた万里が、躊躇いもせずに火の中に手を突っ込んで写真立てを拾い上げる。
「駄目だ、万里――」
瞬間、透吾は我に返ったようだった。まだ少し混乱と動揺の浮かぶ顔で、かぶりを振りながら少女の手から写真立てを奪う。溶けたフレームごと、火を握り潰す。
「トーゴ!」
万里が悲鳴を上げた。
父親の思い出を奪われてしまうと不安になったのか、それとも透吾の手を心配したのか。和泉は恐らく後者だろうと思ったが、透吾はまったく正反対のことを感じたようだった。酷く悲しげな顔で、万里の胸に火の消えた写真立てを押しつけた。
「分かった。分かったから、万里。これは返すから、早く手当てを!」
「それよりも先に、火! 火ですよ!」
もう何を優先すべきかも分からなくなっている彼に、言い返す。
母屋へ走るでもなく上着を脱いで火を叩き消そうとするくらいには、和泉自身も混乱していたが。背後から溜息が聞こえたのは、そのときだった。冷たい、と感じたときにはすでに火は消えていた。
濡れ鼠になりながら、和泉は振り返った。
空のバケツを抱えた蛍が、呆れ顔で突っ立っている。
「何をやっているんだ」
彼女はバケツを床に捨てて、呻いた。
「蛍さんこそ!」
そう言い返したのは、透吾だ。
「高坂君をここに招いたのは、いい。あなたの勝手だ。でも、どうして万里まで呼んだんだ! 今更、こんな。俺への当てつけか。俺が、あなたの夢を馬鹿にしたから」
怨嗟の瞳で蛍を見つめる。そんな彼に、蛍は目を大きくした。
「……お前があの日のやり取りを覚えていたことに、私は驚いている」
「忘れたりはしないよ。少し言い過ぎた、八つ当たりだったとは思っていたから」
「それは初耳だ」
面白くもなさそうに鼻を鳴らして、蛍は唇を歪めた。
「じゃあ、私もお前風に言わせてもらおう。私が和泉に協力したのは、お前への意趣返しだ。それは認める。けどな、流石に子供を巻き込むほど性格は悪くない。万里はお前を追ってきたんだよ」
「だけど……」
「万里を一人にしてしまったのは、悪かった。でも私だって動転していたんだ。お前の性格は知っているつもりだったけど、まさか火までつけるとは思わなかったから。和泉の声に気付いて、様子を見に来て、火に気付いて、水を汲みに行って……正直、今だって見た目ほど平静じゃない」
「…………」
透吾は濡れた前髪を額に張り付かせたまま、俯いた。
「蛍さん、万里を病院に連れて行ってあげてくれ。火傷しているかもしれないから」
「ああ、分かってる。それで――」
一度言葉を切って、彼女は鋭い視線を彼に向けた。
「お前はどうするつもりだ、トーゴ。この子に付き添うのか、そうしないのか」
「俺は」
透吾が小さくかぶりを振る。
「やめておく。だって、どんな顔して一緒にいればいいんだ」
叱られることを怖れる子供のような目で蛍を見つめて、
「あなたこそ、どうするんだ? 俺のこと。俺は言い訳をするつもりも、逃げるつもりも……」
「どうするつもりもない。私は兄さんとは違う。人の気を引きたくて、人の気持ちを試したくて仕方がないガキに付き合ってやるほどお人好しじゃないし、暇でもない」
辛辣な蛍の言葉に、透吾の顔が歪んだ。
口を開きかけて――また結んだのは、反論が見つからなかったためだろう。蛍はそんな彼にはもう目もくれずに、万里の肩を抱いた。
「さあ、行こう」
「トーゴは? トーゴも、火傷……」
「自分でどうにかするさ。なあ、トーゴ。今までも、そうだったんだろう?」
皮肉に、透吾は答えない。
蛍は嘆息して、今度は和泉に向き直った。
「和泉、悪いが留守を頼む」
短く言うと、彼女は万里の背を押して行ってしまった。万里はちらちらと振り返って透吾を気にしていたようだったが、彼がその視線に応えることはなかった。
外から聞こえてきた車のエンジン音が次第に遠くなって、また静寂が戻る。
「いつだって、こうだ」
蒼白な顔で俯いていた透吾が、ぽつりとそう零した。
自分の声で我に返ったらしい。そのままのろのろと部屋を出て行こうとする。そんな彼を、和泉は呼び止めた。
「藤波さん、どこへ行くんですか?」
「社に戻るんだよ。美千留さんに報告をしないと……」
「あなたの手は」
「平気だ。蛍さんも言っていただろう? 自分で、どうにかする」
「拗ねているんですか?」
「そうかもな」
透吾は力なく認めた。
驚いて凝視する和泉に、自嘲交じりで続ける。
「否定して、どうなるんだ。君には千里とのことも、それ以前のことも観られてしまっているってのに」
「藤波さん……」
「いつだってこうだった。今回もまた、同じだった。万里は何年も面倒を見てきた俺よりも、顔も名前も知らない父親を選んだ。俺には理由が分からない。君になら、きっと分かるんだろう」
――俺には分からないんだ、千里。また、駄目だった。
そう繰り返し呟いている。
途方に暮れた子供のような彼を放っておくこともできずに、和泉は答えた。分かりませんよ、と。それは事実だった。彼を慰めるために言ったわけではなかった。
「あなたが何を嘆いているのか、俺には分かりません。万里さんは思い出を大切にしたがっただけで、あなたを否定したわけではないのに」
「俺にとっては否定も同然だ」
「なぜです?」
「万里は父親のことばかり考えて、俺の存在なんか忘れてしまうに違いないから」
透吾の口から、諦めにも似た吐息が零れていく。
「みんな、そうだった」
「みんなって?」
和泉は訊き返した。
「よかったら、聞かせてください」
部屋の中を見回して見つけた、丸いパイプ椅子を引っ張り出す。
そこに腰を下ろして話を促すと、透吾は困惑したようだった。なぜ、と視線だけで訊いてくる。和泉は肩を竦めて答えた。
「中途半端に観て、あなたという人を分かった気になるのではあまりに不誠実なので。徒に過去を覗き見たと思われるのも心外ですし、毒を食らわば皿まで――というやつです」
透吾は黙って立ち尽くしていたが、和泉が再び視線を戻すと、観念したように両手を挙げた。
「……じゃあ聞いてもらうとしよう。然程、面白い話でもないが」
濡れた上着を手近な棚にかけ、口を開く。
憂鬱な瞳が過去を見つめて、始まりを探る――
「最初に死んだのは、姉だった。その日は雨だったと聞いている。俺の誕生日が近くてね。プレゼントを買いに行った帰り、事故に遭ったそうだ。多分、轢き逃げだったんじゃないかな」
ぽつり、ぽつりと。それこそ雨音のように、声が零れ落ちていく。
「俺は保育園で親の迎えを待っていたように思う」
「思う?」
「その日のことは、よく覚えていないんだ。なんせ就学前の子供だったから。何が起こったのかもよく分からない。急に姉がいなくなった。俺にとっては、それくらいのことだった」
軽い調子で言いつつも、苦い顔は自身の記憶の曖昧さを責めているように見えた。
「両親は随分と嘆いてね。特に姉を可愛がっていた母は心を病んでしまった。父も仕事以外ではずっと母に寄り添っていたから、俺のことを気に掛ける余裕はなかったんだろう。当時専業主婦をしていた伯母がうちを手伝いにきてくれていたから、困ることはなかったよ。だけど、流石に甘えることまではできなかったな。素直に、寂しかった。しばらくはいなくなった姉を恨んでいたんだが、小学生になってようやく死を理解した頃にふっと気付いてしまった」
「何に、ですか?」
「自分の薄情さに」
透吾は短く答えて、また続ける。
「それからは、いっそう家では息をひそめていたな。相変わらず家の中は死んだ姉を中心に回っていた。母は人形に姉の名前をつけて可愛がっていたし、そんな母を興奮させないようにと父や伯母もそれに倣った。そんな家族のことを、俺は薄気味悪く感じていた。だから声を出さず近寄らず。その頃には、もう寂しいとも思わなくなっていたよ。一人がよかった。気が楽だった」
その感覚は、和泉もよく知っている。
両親と不仲なわけではない。けれど、接し方が分からない。自分だけ別の場所に立っているような気がする。そんなことを考えているうちに、同じ空間で気を遣い合うことの方が億劫になってくる。広い部屋の中で、一人。
自分の世界に没頭していれば、何にも煩わされることはない――
不思議な共感を覚えながら、和泉は顎を引く仕草だけで先を促した。
「中学生になってからは部活を始めて友人も多くできたから、いくらか気は紛れた。だけど、二年の頃に親友を亡くしてね。苛められていたクラスメイトを庇ったらしかった。正義感を伴った行動を嫌うボス猿気取りの馬鹿に目を付けられた彼は、理不尽な制裁を加えられた。よくある話さ。体育倉庫でつるし上げていたら、本当に首がしまって死んでしまった。当時はニュースでも多少取り上げられた事件だったかな。彼にはガールフレンドがいて俺もよくつるんでいたんだが、彼女も母と同じだった。親友のいなくなった現実を受け入れることができなかった。どうして彼を助けることができなかったのかと俺を責め、そして自分自身を責めた。俺は彼を殺したやつらに対する憤りはあったものの、正直なところどうすればいいのか分からなかった。なにかしてやろうにも、加害者にはすぐ接触できなくなってしまったし、やつらの家族はすでに近所の人間やニュースで事件を知った野次馬から嫌がらせや脅迫を繰り返されて酷い有様だったからね。彼女はといえば、そのうち自傷行為を繰り返すようになった。なだめても叱っても慰めても、やめてくれと頼んでもどうにもならなかった。もう付き合い方も分からなくて、声をかけることも虚しかった。高校進学を機に離れて、連絡先を交換することすらしなかった」
一拍の間を、か細い溜息が繋ぎ止める。
述懐はまだ続く。
「中学を卒業してからは、寮制の高校に進学させてもらった。学校と部活、塾との往復で家にいる時間の方が少なくなっていたし、俺がいる意味もないと思ったんだ」
「ご両親からは反対されなかったんですか?」
訊いてしまってから、和泉はしまったと思った。十代半ばの子供に、いる意味がないと思わせる家庭。それが、既に問いの答えを示していた。慌てて、付け加える。
「その――放任主義な親でも、子供が親元を離れるとなると気にするんじゃないかと思ったので」
「君のところはそうなんだ?」
「……ええ」
頷いてから、その会話がいっそう透吾を傷付けてしまったことに気付いた。それでも彼は感情の揺らぎを唇の歪みだけに留めて、何事もなかったように続けた。
「うちはそうじゃなかったな。両親は何も言わなかった。悲しみを共有することのできない俺は、あの人たちにとって家族と呼べるものではなかったんだろう。それから、同じようなことが何度も続いた。後輩、先輩、恩師、バイト先の知人――」
指を折り、両手の指では足りなくなったところで、透吾は数えるのを止めた。
「前にも言ったが、人の死を嘆いたことはないんだ。一度だって。別の誰かが俺より悲しむせいで、いつだって置いてきぼりにされてしまう。一人死ぬたびに生きた人との関係まで失うものだから、死者を悼む気持ちも忘れてしまった。うんざりだった」
言葉どおり、重たげに頭を振って。
「みんな死者を愛している。俺だけが誰の大切な人にもなれない。死んだ人はすべて敵で、生きている人も憎かった。もう放っておいてくれと一人で拗ねている頃に出会ったのが、万里の父親だ」
「千里さん……」
和泉の呟きに、透吾が懐かしむ顔で頷く。
「あの人は俺にバイトの話を持ちかけてきた。最初は葬儀会社なんてごめんだと突っぱねたんだが、美千留さんと二人であまりにも俺のことを心配してくれるものだから、ほだされてしまったんだよ」
馬鹿だろう? と、透吾は寂しく笑った。
和泉はいいえ、と力を込めて否定した。
「そうは思いません」
「いいや、馬鹿だよ。意固地になって全部壊した。万里のことも傷つけてしまった」
それは彼の口から初めて聞いた、懺悔だった。
感情の分かりにくい冷えた瞳が、赤く腫れた彼自身の両手を見つめている。何もない。そこには、火傷だけが残っている。
透吾はしばらくそうしていたが、やがて和泉に視線を戻した。
「本音で人と接するのは向かないな。仕事の方がずっと楽だ」
世辞でも笑みとは呼べない、引きつった苦笑い。
「でしょうね。でも、ずっと楽なままではいられないんだと思います」
こちらも苦笑いになってしまったのは、それがまるで自身に向けた言葉のように思えたからだった。透吾は仕事に逃げている。和泉は芸術と遺された想いの世界に。そこでは誰かに傷付けられることもない。人との関わりを怖れて一人の世界に引きこもっているという点で、彼とは同類だった。
「必ず、人と向き合おうとしなかったことのしっぺ返しを食らうんでしょうから。たとえば人との距離感に鈍感な人がずかずかと踏み入ってきたとして――為す術もなく翻弄されて疲弊して、どうして放っておいてくれないのかと思いつつ、一方でその関係を許容してしまっている自分がいることに気付いたとき。自分という人間が分からなくなって、今よりももっと苦しむ羽目になるんです」
透吾が意外そうに首を傾げる。
「それは君自身の経験談かな」
「……ええ、まあ」
「そう。君は出会いに恵まれて、人とも自分とも向き合ったのか」
彼は一度だけ羨ましそうに目を細めて、両手をぱんっと合わせた。
痛みを思い出したのか、顔をしかめながら――
「さあ、俺の話はこれでおしまい。まさかこんな話をまた他人にすることになるなんて思わなかったけれど、おかげでいくらか気は紛れた」
彼はまだ乾いていない上着を脇に抱えると、思い出したように言った。
「そうだ。俺のアドレスは消しておいてくれないかな」
微笑みさえ浮かべて、なんでもない風を装っている。
そんな彼が哀れというよりは滑稽で、和泉は思わず顔をしかめてしまった。言葉の裏に見え隠れしている、別の懇願には気付いていた。
「それで、あなたはまたリセットした気になるつもりですか?」
和泉は鋭く指摘した。
透吾は珍しく眉尻を下げて、困惑しているようだ。
「そりゃあ我ながら都合のいい話だと思うよ。でも、君にだって損はないだろう」
――君も、俺のことは嫌いなはずだ。
ぼそりと呟く彼に、和泉は頷いた。
「嫌いですよ。あなたは気取っていて、話が長くて、無遠慮で、自分勝手な人です」
その自覚はなかったのか、彼は苦い顔をしている。
和泉は続けた。
「だけど、それでもボタン一つで消去できるほど浅い縁ではないとも思っています」
彼を放っておくでもなく、こうして〝観て〟しまった。
それがなによりの証拠だ。
「俺、国香さんやあなたと出会う前の自分に戻りたいと思ったことがあるんです。いえ、今もかな。面倒なことが起こるたびに、以前のように一人だったら随分と楽だったんだろうって」
透吾はいつものように長広舌で遮るでもなく、じっと話に耳を傾けている。
「国香さんはそんなこっちの気持ちなんておかまいなしです。意図的に避けても、なぜか遭遇してしまいますし。あなたとも。偶然か、あなたの言ったような因縁かは分かりませんが――」
「俺と彼女を同列に並べるのは、失礼だろう。自分で言うのもなんだと思うけど」
「俺にとっては、それほど変わりがなかったんです。あなたも国香さんも、無遠慮すぎるから」
苦笑いしている彼に、続ける。
「あなたも国香さんも顔見知りで、知り合いです。そのことを認めたくなくても、それ以下の関係を表現するための言葉が見つからない。そうして悩んでいるうちに国香さんなんて知人と言ってもでも怒るようになって、今じゃ友人扱い。まったく、笑えませんよ」
「それで――俺のことも、そのカテゴリーに入れてくれるって?」
透吾は驚いたように絶句していたが、ややあって肩から力を抜いた。
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