第15話
「ああ、そうだね。そうなんだろう。俺がおかしいんだろう」
肯定しながら、彼は支離滅裂に言葉を繋げた。
ぶつぶつと。まるで今は違うとでも言いたげな、相変わらずの過去形で。
「よくもそんなことが言えたものだ。。酷い人だと、当時は恨んだものだった」
透吾の様子に危ういものを感じて、和泉は一度彼への呼びかけを呑み込んだ。
「今は?」
代わりに、訊ねる。
今か、今か――と、透吾は問いかけを虚ろに繰り返した。
「今は……それを呪いのようにも感じている」
口元を抑えて、彼は肩を震わせた。
泣いているのか?
いいや、そうではない。低くくぐもった声が聞こえてくる。どうやら自嘲しているらしい。くく、ふふ、と奇妙な笑い声は次第に大きくなっていく。口元が見えないせいか、表情が分かりにくい。
ただ、こちらを見つめる彼の目は鋭さを増しているようにも思えた。
「藤波さん、あの……?」
戸惑いと、そして微かな怯えは彼にも伝わったのだろう。
「ああ、高坂君。君は何を恐れているんだ。君には家族も、友人もいるのに!」
透吾はやっと口元から手を離して、いつものように微笑した。形だけの笑みは、酷く穏やかで無感動だった。ぞくり、と背筋が寒くなる。
本人は誰よりもまともなつもりであろうが、雄弁さと隙のない振る舞いで武装をしたその下には何もない。新しい人間関係を築くたび、死者にすべてを奪われる。警戒をふと緩めた瞬間に訪れる、無慈悲な死によって。いつ終わるともしれない、奪われ続ける日常に彼は虚しさを覚えている。
他でもない、彼自身がそれを認めた。
「君らと出会ってから、おかしいんだ。万里にまでそれを指摘されてしまった」
彼は倦んだように呟いて、続けた。
「自分では随分とうまく立ち回ってきたつもりだったが、そうではないのだろうな。君の言うとおりだ。割り切ったつもりになったところで、過去はこうして現在にまで干渉してくる。これから先もずっとこうなんだろうと思うと、未来に期待する気にもなれない」
返す言葉を見つけられずに、和泉は押し黙った。
そんなことはない。未来まで諦める必要はない。そう言いたかった。けれど、恐ろしくもあった。無責任な言葉で彼に希望を持たせてしまうことが。
返事はもとより期待していなかったのだろう。沈黙に気を悪くした風もなく、透吾は視線をまた別のどこかへ向けた。
「ああ。期待はできない。でも、そうだとしても――」
感情のない冷たい目が、今は熱に浮かされたように燃えている。
「このままってわけにはいかない。決して勝利することのない戦いだが、やめればこれまで押し込めてきた過去に代償を支払わなければならなくなる。俺はずっと、死者とともに歩みを止めた家族や友人たちを不毛だと蔑んできたんだ。どうして今更負けを認めることができるだろう」
それこそ敗北宣言に等しいのだと、彼は気付いていないのだろうか?
「俺は器用だから、目に見えるものさえ壊せば忘れたふりをすることはできる」
自嘲の入り交じった声が、そう続けた。
「それで……」
どうするんですか。と、和泉が訊くより早く透吾は答えた。
「身近な人を喪っては遺品を燃やして、なかったことにする。死ぬまでそれを繰り返せば、俺の勝ちだ。死者が手放した人生を、そして悲しみ続けるやつらが無駄にした人生を、俺だけが何に囚われることもなく謳歌してやった――そう唾を吐きかけることで、ようやく報われる」
疑問を挟まれることに、また自らも疑問を抱くことに、彼自身が耐えられなかったのかもしれない。急かされているような早口でまくし立てて、大仰に天を仰ぐ。
それも一瞬のことで、透吾はすぐに視線を戻すと積まれた雑誌を睨みつけた。
「ああ、そういえば千里はバイクが好きだったな。酒、煙草、バイク――俺には、一つとして理解できなかった。体によくないからやめろ、とは何度か言ったような記憶がある」
ふらふらと近付いていく。
一方で彼の手は、スーツのポケットの中で何かを探していた。
「これだから遺品ってやつは忌々しい。せっかく忘れていたことを、思い出させる」
吐き捨てながら、ぞんざいな手付きで壁に掛かったダーツボードに触れる。
「ダーツやビリヤードも教えてもらった。どちらも、すぐに俺の方が上手くなってしまったけれど」
ボードに刺さったままになっていた矢を引っこ抜いて、
「この部屋を見れば分かるだろう? 多趣味なくせして飽きっぽい男だったんだよ。あの人が一つ新しいことを始めるたびに、俺にも共有する思い出が一つ増えて、挙げ句の果てに万里だ」
ぽとり、と雑誌の上に落とす。
「名前だけはどうにもしようがないじゃないか。千里の子だから万里、なんてさ。ずるい名前を付けたものだよ」
「それでも、あなたはカラクサ葬祭に残った」
「ああ」
「契約だなんて強がりだった。本当は万里さんたちへの情が勝ったんでしょう?」
「そうだよ。本当は、知っていたんだ。美千留さんが、あの人の遺品を大切にしたがっていたこと。だけど彼女は俺のためを思って、処分したふりをしてくれた。あの人がそうさせた。契約のことだって、そうさ。俺が感傷的な話を嫌うから、あくまで仕事だってことにしてくれた。甘えていたのは俺の方だ」
透吾は肯定した。
声に背筋の寒くなるような危うさを覚えて、和泉は彼の方に一歩踏み出した。藤波さん――と呼ぶ方が早かったのか、それとも彼が行動を起こす方が早かったのか。
ポケットの中にない何かを探すことは諦めたらしい。
透吾の視線が、金色のライターの上で止まった。ようやくそれを見つけた顔で、彼は手を伸ばした。こんなところにあったのか、と。
ハッとして、和泉は叫んだ。
「藤波さん、やめてください!」
慌てて透吾の腕に飛びつくが、彼が点火したライターを落とす方が早い。
「許してくれと言うつもりはない。もう弁償では済まないだろうとも分かっている」
零れ落ちた火が、雑誌の表紙をゆるやかに焼いていく。
「正気ですか!? なんてことを――」
「正気なわけがない。でも、どうしようもないんだ。辛いんだよ。この部屋にあるものすべてが俺にとってはとても懐かしくて、酷く憎い。なにより、恐ろしいんだ。俺の平穏な生活を、人間関係を脅かすものだ。今度こそ消してなかったことにしてしまわなければ、俺は今までどおりでいられなくなってしまう!」
火焔よりもよほど激しい言葉で、苦痛を感じさせる声で、彼は叫んだ。
和泉は慌てて火を消そうとしたが、羽交い締めにしてくる透吾がそれを許さない。燃料を欠いているため勢いはないが、火はゆっくりと、けれど確実に大きくなっていく。悲鳴交じりで、和泉は怒鳴った。
「離してください! 早く、火を消さないと」
「頼む、燃やさせてくれ」
「だって、火事に……!」
「頼むよ、高坂君。罪は償うから――」
「そういう問題じゃない。あなたが償って済むことではなくなってしまう!」
揉み合っているうちにも、火種は大きくなっていく。たとえば石狩三国や比良原貴士なら、彼を振りほどくこともできたのだろうが、和泉にその力はない。
(自分の言葉も持たない、純粋な腕力もない。ないものばかりだ。どうすれば……)
細く立ち上る煙が、目に沁みる。そのとき、離れ家の外から声が聞こえた。
「和泉、どうした? 何かあったのか?」
蛍だ。心配して、すぐそこまで様子を見に来ていたのかもしれない。
「蛍さん! 助けてください、蛍さん!」
あらん限りの声を絞って、和泉は彼女に助けを求めた。
ほんの子供の頃でさえ、そんな風に大声を出したことはなかった。喚き声が狭い室内で反響して、頭の奥が鈍く痛んだ。耳元では透吾が呪詛のように呟いている。駄目なんだ、千里。駄目だ。どうしても駄目なんだ。俺はあんたのようにはなれない。人生に寄り添ってくれる人なんて、見つかるはずがない。あんたは酷いやつだ――と。
そんな彼にぞっとしつつ大声を出し続けていると、外からは慌ただしく駆けてくる人の足音が聞こえてきた。間を置かずに、部屋のドアが開く。
勢いよく、音を立てて。
「蛍さん――」
胸を撫で下ろしながら、首だけで振り返る。と、
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