第14話



「高坂君」


 と呼ぶ声で、和泉ははっと我に返った。


「唐草千里――」


 思わず口走る。瞬間、透吾の表情がぴくりと動いた。どうしてその名前を、とでも言いたげな顔だった。実際、彼は訊いてきた。


「どこでその名前を聞いたのかな。万里……は違うな。あの子は父親の名前を知らない。美千留さんが言うはずもない。蛍さんも余計なことは言わないタイプだと思っていたけど……」

「あなたが、過去のあなたが言っていたんです」


 記憶の余韻を抱えてぼんやりとしたまま、和泉は告げた。


「実の家族より、家族らしい人だったんでしょう? 俺の観たあなたは、今より随分と素直でした」


 言葉に覚えがあったのか、透吾の顔が蒼白になる。それでも我を失ってしまわなかったのは、流石と言うべきか。そんな彼との距離を、和泉は一歩だけ詰めた。

 透吾が後ずさる。


「君は、なんなんだ――」


 言いかけて口を噤んだのは、それが先日のシチュエーションとまったく同じであることに気付いたからだろう。あのときとは、立場が逆転しているが。和泉は答えた。


「なんなんでしょうね。俺のこれにも理由はない……と言いたいところですが、そんなことはありえないんですよ。先日、あなたは俺を暴きました。両親でさえ知っているか分からない、俺が死というモチーフに惹かれる理由をいとも容易く推量してみせた。俺のこの性質も、鑑賞眼も、あなたが言ったとおりの環境の中で培われたものです。なんにだって理由はある。あなたのその性格にも」


 彼に口を開かせまいと、まくし立てる。


「以前、国香さんに言ったそうですね。意図的に忘れることは得意だと。あなたの場合は口だけでなく、自分の感情に影響を及ぼさない程度まで過去を切り離すことができるんでしょう」


 だが、それだけだ。

 意図的にという言葉が、かえって彼の記憶への執着を示していた。


「あなたは人の死に向き合うことなく、忘れるふりをしてやりすごしてきた」


 過去の透吾と今の言動の一つ一つを思い浮かべ――

 それを指摘しながら、和泉は彼を探った。


「あなたは、強引な人だ。けれど他人に対して妙に親身になるようなところがある。上光さんのところへ足を運んで話し相手になってみたり、俺の相談に乗ってみたり、国香さんの鍵探しに付き合ってみたり……遺品が絡まない限り、あなたは悪い人ではなかった。人格の表裏で語るにはあまりに極端で、俺はあなたのことを薄気味悪いとさえ感じていた」

「そうだな。君は俺を怖がっていた。必要以上に」

「ええ」


 頷いて、和泉はそれを認めた。


「あなたは過去を閉じ込めていた。観ることすら許さないほど徹底的に。死が憎くてたまらない、一方で生を賛美する。親切で、狭量な人。その現実だけがぽつんとあって、掴みようがなかった」


 人は得体の知れないものを恐れるようにできている。

 想像の及ばない無を忌避する。


「あなたは俺にとって、死後の世界が作られる以前の〝死〟と同じ存在だった」


 死後の世界が作られて死が禁忌ではなくなったように、過去を解き明かしてしまえば彼も得体の知れない存在ではなかった。強く断言して、和泉は透吾の腕を掴んだ。意外にも狼狽して手を振りほどこうとした彼の顔を、深く覗き込む。

 深淵のように思われていたその目には、感情のさざ波が立っていた。


「あなたは親切なわけじゃない。あなた自身が言うように善人なわけでもない。でも猫をかぶっているわけでもない。打算的でもない。単純に、媚びているだけなんだ。生きた人に!」


 屈辱に歪む透吾の顔を見つめながら、和泉は構わずに続けた。


「死者はこんな風に親身にはなってくれないだろうって――そうして他人にすり寄る反面で、あなたは生きた人のことも死者と同じくらい怖がっている。身近な人の死によって、残された人の気持ちが自分から離れていってしまうことを恐れている」


 自分でもらしくないと戸惑うほどの強気だが、勢いのままに告げてしまわなければならなかった。


「知っていますか。臆病な人ほど、他人に対して攻撃的になるんです。先制することで自分を守れると思っているから。あなたはいつも先回りして、死者を想う人の気持ちを踏みにじる。相手が離れていく前に、掌を返して突き放す。それが、あなたの得体の知れなさの正体だ。愛されたがるばかりで、相手を大切にしない」


 その気障ったらしく大仰な振る舞いや、物言いも同じだった。

 過剰なまでの演出は人の気を引く。だから藤波透吾という人間は人の目に留まるし、彼の甘い言葉にほだされた人だけでなく、彼のことを気に入らない人ですら、その言動を気に留めずにはいられないのだ。

 嵐が過ぎ去ったあとのように、二人の間には沈黙が降りた。

 和泉は退いてしまいたい気持ちを抑えて、じっと透吾の顔を睨み付けていた。透吾も唇を噛みながら、和泉の顔を見下ろしていた。


 どれだけそうしていただろう。


「お見事だよ、高坂君」


 そう言ったのは、透吾だった。


「多分、君のいうとおりなんだろう。俺に自覚はなかったけれど、今の言葉で確かにこのあたりが痛んだ」


 自分の胸のあたりを、とんと叩いて――


「いや、自覚がなかったというのは違うな。死者を憎んでいたわけだから。自覚しないようにしてきた、と言った方が正しいのかな」


 それでも猶、余裕を装って続けた。


「だって、そうだろう? 死者への想いを否定している俺が、常に死者をライバルとしてきた――そんな馬鹿げた話ってあるかい?」

「そうして、常に負け続けてもきた」


 和泉も負けじと、挑発的に言い返した。透吾はおかしそうに肩を震わせている。


「そうだ。俺という人間を明らかにしてしまった君が相手だから、正直に言ってやろう。俺は負け続けてきたよ。俺の周りの人間は、どうやっても俺より死者を選ぶんだ。なぜかな」

「あなたが人の心に寄り添うことをしないからでしょう」

「知ったようなことを言うなよ。まだ可愛げのあった子供の頃でさえ死者の二の次にされたんだ」


 一転して、声には疲労が含まれていた。

 恨めしげでもあった。


「長い片想いをしている気分だ。俺はいつだって、生きた人を選び続けてきたのに」


 呟く彼と過去の少年とが重なった。

 和泉は初めて、透吾の本音を聞いた気になった。


「だからって、あなたのやり方は過激すぎた」


 少しだけ、声を抑える。


「壊してしまえば満足するかもしれないけれど、ちっぽけな満足感の他にはなにも残らない。人との関係だって……あなたの傍には、辛うじて万里さんと美千留さんが残っているだけです」


 迷った末、それでも指摘すると透吾の顔色が変わった。


「だったら、どうすればよかった? 教えてくれないか!」


 彼は叫んだ。過去の記憶に見た少年の顔で。


「なあ、高坂君。本当に――何もかも知った風な口を利くからには、答えられるんだろう? 教えてくれ。俺はどうすればよかった。姉が死んだとき、友人が死んだとき、恩師が死んだとき、千里が死んだとき……正確に思い出そうとすれば、もっとあるだろう。身近な人が死んだとき、俺がどうすればよかったのか教えてくれ。他のやつらと同じように悲しそうな顔をしてみせればよかったのか。辛いと言って、泣いてしまえばよかったのか。ああ、そうかもしれないな。人間ってやつは、自分より先に感情的になられてしまうと冷静にならざるをえないようなところがある……」


 顔を押さえて呻く。

 そんな彼になんと声をかけるべきか迷って、


「なっ……」


 一つの過去を暴かれたことで、頑なに閉ざしていた記憶の蓋が開いたのかもしれない。透吾の内側から流れ出るどろりとした想念に気付いてしまった。彼が過去に置いてきた、いくつもの死。割り切るために切り捨ててきた、いくつもの想いが現在と混ざり合い、蠢いている。

 和泉の知らない子供が、大人が、男が、女が、入れ替わり立ち替わり現れてはまた影の中に沈んでいく。いいや、沈んでいくのではない。死者は眼窩から涙を流すこともできず、助けてくれと両手で透吾を仰いでいるが、彼はその叫びに耳を塞いで影の手で押し込めている。憎しみの鎖に繋がれた記憶は過去のものとして風化することも許されず、透吾に引きずり回されて疲弊している。


「あ……あ……」


 怖気と吐き気を覚えて、和泉は呻いた。

 理解してしまったのだ。遺品の海に意識を委ねていたとはいえ、唐草千里の想念がああも鮮明に見えた理由を。この男が、死者の世界で形成していた理由を。会話まで詳細に聞こえた理由を。


 藤波透吾。彼自身が、遺品なのだ。遺された人だ。


 部屋の中の遺品は、透吾が自らの内へ閉じ込めていた記憶を引き出す鍵となったに過ぎない。現にライターが見せた繁華街の風景に声はなかった。この部屋で観ていた過去のすべては透吾の持つ記憶だった。

 昇華されることのない想いたちは今も彼の中から出たがっている。過去のものとして決着を付けてくれと鑑賞者に助けを求めている。


「今度は、何を観た?」


 透吾が問いかけてくる。

 指の隙間から、激しい感情を宿した彼の瞳が和泉をじっと見据えていた。


「あ、あなたは……」


 和泉は喉の奥から声を絞り出した。

 それは、酷く掠れてしまったが。


「すべてをなかったことにしようとして、すべてを今に連れてきている。あなたの触れてきた死が見える。彼らは過去にしてもらえない、終わらせてもらえない、休ませてもらえない。憎みながらも、あなたがけじめをつけてくれないから。こんな――」


 辛く、わびしい光景は観たことがない。

 ぞっとしながら呟く。それを聞いた透吾は顔を押さえたまま笑った。


「ははっ、わびしいか! 随分な言われようだ」


 笑っているような、泣いているような、やぶれかぶれな声だった。

 声に含まれた悲しさに気付いてしまって、和泉は少しだけ戸惑った。彼の見せる世界への嫌忌をどうにか呑み込んで、藤波さん――と声をかける。

 その呼びかけに弾かれたように、透吾は和泉の体を突き飛ばした。


「近寄らないでくれ。君のおかげで、胸糞悪い言葉を思い出してしまった」

「何を――」

「俺の人生に寄り添ってくれるような友人や恋人が現れるよう、願っている……」


 忘れていた――

 というよりは、やはり意図的に思い出さないようにしていただけなのだろう。唐草千里とのやり取りの一部を自ら明かしてみせた彼は、眉間に深く皺を寄せた。


「馬鹿げた慰めだ。無責任な祈りだ。俺のお喋りの方が気が利いているじゃないか」

「そんな、そんな言い方は……」

「ない? 本当にそう思う? 俺を観ても、君はあいつの肩を持つのか?」

「肩を持つとか持たないとかではないんです。唐草千里さんは、あなたが人との縁を諦めなくて済むように、もう別れを経験しなくて済むようにと――そう願って……」


 今ほど切実に〝言葉〟を欲したことはなかった。

 死者の想念、記憶から得た他人の言葉ではなく、生きた自分の言葉。結局のところ、生きた人に届くのは同じ生きた人の声なのだ。

 拙い言葉を繰りながら、和泉はそれを痛感した。それでも、呼びかけるしかない。


「納得してくれとは言いません。でも、分かってください。分かろうとしてください。あなたは遺された人かもしれないけれど、彼らから大切に思われていたんです。あなたのことが憎くて死んでいった人なんていないんです。故人は、敵じゃない。故人を想う生きた人も」










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