第13話
かちり。また、響く。
例の音だ。
彼らにとって重要な、秘められた記憶を暴く音。
薄暗い照明が色を変える。
赤々とした夕日に染められた潔癖な白。寂しい色。備え付けられた薄いテレビと床頭台の他にはなにもない。どこにでもある病室のカーテンが、滑るような音を立てて開く。わずかに頭を高くしたベッドの上から視線を向けてくるのは、あの男だった。繁華街での邂逅からどれだけ時が流れたのか――老けた印象を受けるのは、年月の流ればかりが原因ではあるまい。
少しだけ大人びた、けれどまだ目元に未成熟さを残した透吾が床頭台の上に花瓶を置く。その姿を認めると、男は乾いて荒れた唇を少しだけ微笑ませた。
「トーゴか」
愛嬌こそ以前の面影を留めていたものの、落ち窪んだ目元に濃い翳りが見てとれた。なにか重たい病がその体を蝕んでいるのだろうとも知れた。
男を一瞥して、透吾が訊ねた。
「気分はどうだ、千里」
「あんましよくねえな。美千留は何も言わねえけど、駄目な感じなんだろうな、俺」
血色の悪い手で拳を作りながら、男が呟く。筋が強ばって半分開いた男の手を見つめながら、透吾はわずかに唇を開いた。そうだ。と、言ったようだった。
「そっか。まあそんな気はしてたっつうか――しかしお前、とことん容赦のないやつだな。医者も嫁も黙ってんのに、勝手に告知するか? 普通」
「薄々気付いていたくせに」
「そうだけどよ――」
「俺なら誤魔化したりしないって、期待もしていたんだろう?」
「…………お前は嘘を吐かないからな」
たっぷりと間をおいたあとで観念したように両手を挙げて、男は溜息を零した。
「悪い。なんつうか、半々だったんだわ。知りたい気持ちと、知りたくない気持ちと。死ぬなら死ぬってはっきり分かった方が腹割って話せることもあるだろうと思う一方で、怖かった」
上に重たいものでも乗せているような仕草で頭を上げて、疲労の濃く浮かんだ目を透吾に向ける。
「ついでだから単刀直入に訊くが……お前、俺が死んだらどうすんだ?」
「バイトを辞めるよ。もちろん」
言葉こそ短いものの、透吾の声はいくらか動揺している風にも聞こえた。
男がまた、訊ねる。
「仕事、つまらないか?」
「いや、楽しいよ。楽しくやらせてもらった」
「だったら――続けりゃいいじゃねえか」
食い下がる男に、透吾は困ったように笑っている。
「俺の世話を焼くと言ったからには、先に死なないでほしい。そういう契約だった」
「昔の約束だ。昔の……今とは違う。そうだろ、トーゴ」
男は納得できないのか、肩で息をしながらも必死に引き留める言葉を探しているようだった。
「二年も、だ。お前にとっちゃ、たかが二年かもしれないが――」
「俺にとっても、長い二年だったよ。たかが、なんて言ってほしくない」
「だったら、辞めるなんて言わないでくれよ」
「時間が経てば無効になるとか、そういう話じゃないんだ。俺にとっては」
「美千留や万里への情は? あいつらも、お前がいなくなったら寂しがる――」
なりふり構わずそんなことを言い出したところで、透吾がそれを遮った。
「そういう言い方をするのは、ずるい」
声の調子こそ抑えていたものの、肩は小刻みに震えていた。
「俺は薄情だけど、二人には随分心を許しているつもりだ。万里のことだって。生まれたばかりの万里を抱かせてもらったとき、妙に感動したことを覚えているよ。死と正反対のものを感じさせてくれたのは、あんたたち家族が初めてだった」
「トーゴ……」
悪い。と、男が辛そうに目を伏せる。
「俺やあいつらとの関係を盾にしたつもりはなくてさ。ただ、また最初からってきつくないかって」
「平気だ。これまでもずっと、そうだった」
透吾はずっと俯いている。表情は分からない。
「お前らしいっちゃ、らしいけど。でも、そういう言い方をされると寂しいな」
「寂しい?」
男の言葉を聞いて、ようやく顔を上げる。
つり上がった目の中では、悲しみとは違う激しい感情が揺れている。怒りや恨み、憎しみといった――まさに、死を語るとき透吾が見せる表情だった。
「寂しいと言ったのか、あんたは」
相手をぎろりと睨んだまま繰り返す。
「寂しいのは俺の方だ。二人で散々に俺のことを甘やかしておいて!」
透吾は押し殺した声で叫んだ。
拳の形に握りしめた両手は、力の込めすぎで色を失っていた。
「やっぱり俺は正しかった。千里みたいな世話焼きから死んでいくんだ。知った風な口を利くな、縁起でもないことを言うなと説教をしたくせに。死なないと約束したくせに。俺との距離を勝手に縮めて、大丈夫だと信用させて、結局これだ! 無責任にも程があるじゃないか!」
感情が爆発した後には、沈黙だけが残った。男は目を丸くしている。驚いているのだろう。しばらくして透吾が握り拳をほどいた頃、男もまた口を開いた。
「……お前でも怒鳴ることってあるんだな」
「言うに事欠いて、それか」
「いやだって、なあ。驚きすぎて、いろいろ吹っ飛んじまったわ」
「千里のそういう呑気で無神経なところ、出会った頃からずっと嫌いだったよ」
男の間の抜けた感想に怒気を削がれたのだろう。
透吾の肩からふっと力が抜ける。そのままベッドの上に腰を下ろした彼は、無言で床頭台の上に手を伸ばすと、そこに置き去りにされていたライターを取り上げた。
オイルは切れているのか、火はつかないようだ。
「まあ、よかったんだろうな」
男が呟く。
ライターの蓋を開け閉めしながら、透吾は訊き返した。
「何が?」
「本音が聞けて、さ。いまいち分からなかったからな。本当に、お前の考えていることだけは」
「そんなに分かりにくかったかな、俺」
「ああ。もしかしたら、気を遣わせちまってんじゃねえかと思ったこともある」
「まあ、少しは」
「そこは嘘でも、そんなことはないって言っておけよ。相変わらず失礼なやつめ」
透吾の肩を弱々しく小突くと、男は力を使い果たした顔でベッドに体を沈めた。透吾はもう微笑むこともできずに男の拳が触れた場所を押さえていた。
ぼんやりと天井を眺めながら、男がまた口を開く。
「いつか」
苦しそうに顔をしかめつつ、喋らずにはいられないらしい。
「いつか、さ」
「ん」
「お前の人生に寄り添ってくれる人が現れるといいな。親友でも、恋人でも、もっと違う関係でも」
ひび割れて血の滲んだ唇で、掠れた声で願う。
それを聞く透吾の顔には、諦めが浮かんでいた。
「じゃあ、美千留さんにプロポーズしようかな」
それでも声色だけは明るく作って、透吾は男をからかった。
「千里の代わりに俺が守るからと傷心につけ込めば、ほだされてくれるかも」
「お前の場合、その気になりゃ美千留でも口説き落とせそうで怖いからやめろ」
「冗談だよ。あんたが珍しく真面目なことを言うから、代わりにふざけてやっただけさ。美千留さんは俺に甘いし、俺も美千留さんにだけは素直になれるけど――そういう関係にはならないよ」
「そういう含みのありそうな言い方をするんじゃねえよ。くそっ」
毒づく男の位置からは、透吾の表情は見えないようだ。
透吾はその悪態にじっと耳を傾けていたが、相手が疲れて無言になるとライターを元の位置に戻して立ち上がった。
ベッドと外の空間を仕切る薄手のカーテンに手をかけて、一度だけ男を振り返る。
「なあ、千里」
呼びかけに、男が視線だけで応じた。透吾が続ける。
「一つだけ、言わせてくれ。俺は、千里のことを実の家族よりも家族らしいと思っていた。あんたと、美千留さんと、万里――三人を見ているのが好きだったし、あんたの言う人生に寄り添ってくれる人が、あんたたち家族だったらよかったと思う」
「そっか」
男は短く頷いただけだった。
透吾は――そうだよ――と答えて、別のどこかを見つめていた。
「それでも、さよならだ……兄さん」
特別な響きを含んだ決別に、男が瞠目する。透吾はそんな男と目を合わせようともせず、足早に病室を出て行った。あとには病床の男だけが残される。
喜ぶべきか悲しむべきか迷う顔で病室の入り口をじっと見つめていた。
それからすぐ、透吾と入れ代わるようにして入ってきた影があった。男はその女性らしいシルエットに呼びかけたようだった。唇は続けて動いているが、声は一向に聞こえてこない。
和泉は想いの世界から音が消えていることに気付いた。
聴覚にまで訴えてくる想いは、やはり生者の残像が運び込んだものだったのか?
ベッドの枕元で、影が屈む。
目線を合わせたのだろう。男は力のない目で女を見つめると、酷く辛そうな顔をした。飄々と振る舞っていた男が、初めて弱気になった瞬間だった。女の耳元で何事かを囁いている。真摯な表情を見るに、遺言のつもりだったのかもしれない。
女が重々しく頷くと、男は少しだけ微笑んだ。
カーテンの隙間から射し込むやけに赤い夕日が病室を寂しげな色に染め上げていたが、それもやがて色を失い、風景は漂白されたように白くなっていった。影が消え、男の姿を作り上げていたものから髪が落ち、肉が落ち、眼球が落ち、最後まで残っていた骨すら崩れ落ちて風景に溶け込む。
残ったのは、金色のライターだけだった。常に男の傍らにあり、見守り続けていた遺品。今も棚の上で鎮座している――和泉がそのことを思い出したとき、景色はがらりと色を変えた。
遺された部屋で、藤波透吾が佇んでいる。咄嗟に記憶の世界か現実か判断がつかなかったのは、想念の中の彼をあまりに長く鑑賞しすぎたせいだろう。
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