第12話


「まあ、お兄さんが奢ってやるからさ。仲良くしようぜ」


 気楽な声が観賞の再開を告げる。

 場所は例の居酒屋か。いくらか居心地が悪そうに、少年はソフトドリンクの入ったグラスを両手で抱えている。テーブルの隅には例のライターがぽつんと置かれている。橙色の照明の下できらりと小さく輝くそれは、過去の記憶を投射しているようにも見えた。

 男は煙草を吸うわけでもなく、フライドポテトを肴にジョッキビールをぐいと呷った。例の華奢な影が大皿から料理を取り分けて、それぞれの方へ寄せる。


「なあ、なんで高校生が居酒屋なんかでバイトしてんだ?」

「時給がいいから」


 短く、素っ気なく、透吾が答えた。身も蓋もない。

 男が肩を竦める。


「そっか。学校は?」

「行ってる。自分で言うのもなんだけど、成績はいい方。部活だって、熱心じゃないだけで所属はしてる。あんたが思ってるような非行少年じゃないから安心しなよ」

「可愛げねえな、おい」


 手の甲を額に当てて、男は嘆いた。


「いつから若者は年長者への敬意を忘れるようになってしまったのか――」

「尊敬する相手くらい選ばせてくれって話だろ」

「まじで可愛げねえ! なあ美千留ちゃん、こいつ死ぬほど可愛げねえぞ!」


 言葉とは裏腹に大笑しながら、少年の背中をばんばん叩く。その拍子にグラスから水が跳ねてライターを濡らしたが、特に気にした様子もなく一方的に語り続ける。


「よく分からんが、苦学生か。うちで働くか、お前。礼儀を知らないガキの更正も大人サマの義務だ。ほら、来いよガキども! みんなまとめて俺が面倒みてやるぜー」

「一杯で酔うなら飲むなよ……」

「酔ってない。酔ってないぞ、少年。ん? 少年、名前はなんだ? ちなみに俺には唐草千里って名前がある。ツレは美千留ちゃん。結婚を前提にお付き合いしてる仲だから、誘惑するなよ。最近のガキはませててるからな。釘刺しておかないとな」


 酔っているのか、それとも素なのか、男は隣に座っていた例の影――美千留にしなだれかかって、頬のあたりにちゅうっと吸い付いた。透吾はそんな二人を冷めた瞳で眺めていたが、男に再び名前を訊かれると重い溜息とともに答えた。


「……透吾。藤波透吾」

「トーゴか。生意気な名前だな。あと数年もしたら女を泣かせまくっていそうな」

「ない。彼女とかいらないし」

「それはそれで不健全な。もしかしてあっち側な感じか」


 男が少し声をひそめて、気まずげに目を逸らす。

 すぐに意味が分からなかったのだろう、透吾は訝しげな顔をしていたが、少し考えて気付くと目をつり上げて否定した。


「男も女も彼女も友達も家族もいらないから。こうして構われるのも正直、迷惑だ」

「おお、理由なき反抗」

「――だからなんなんだよ、あんたは」


 音を上げたのは透吾が先だった。

 まったくめげない男に脱力して、がくりと肩を落とす。

 男は頬杖を突いて、にししと笑った。


「実を言えば、そのこまっしゃくれた感じが見れば見るほどうちの妹と似ていてな」

「度を超したシスコン?」

「いやいや、そうじゃないぞ」


 半眼で訊ねる透吾に、慌てて否定する。


「妹は家業を継ぎたくない、やりたいことがあるとかで家を飛び出したんだが。あいつも夢に向かって勉強する傍ら、お前みたいにバイトに勤しんでるのかと思ったら、構わずにはいられなかった」

「あんたの妹と、俺は別だ」

「そう言うが、別の世話焼きがうちの妹に声をかけてくれてるかもしれないって考えたらなあ。俺がお前に声をかけたみたいに、さ。なんつうか、巡り巡ってってやつ」


 どこか別の場所を見つめて、男はまたビールを呷った。

 空になったジョッキをテーブルの隅に押しやって、メニュー表に手を伸ばす。透吾は目で男の挙動を追いながら、決まり悪げに呟いた。


「俺は別に――やりたいことがあるわけじゃない」

「ふうん?」


 曖昧な相槌で、男が訊き返す。

 聞き役に徹することにしたようだ。思ったほどの反応がなかったことに、透吾は戸惑ったようだった。開き掛けた唇を閉ざして、また迷いがちに開く。

 それを何度か繰り返しつつ、結局は誰かを頼りたい気持ちが勝ったのだろう。か細い声を吐き出した。


「探しているのに見つからないんだ。勉強も部活もバイトも遊びも、他のやつらよりよっぽど打ち込んでいる、と思う。生きている時間を無駄にしたくないから寝る間も惜しんで充実した生活を送っているはずなのに、楽しいと思えることがない」

「そりゃあ……生きることに疲れたエリートみてえな悩みだな」


 男は複雑そうな顔で呟いている。


「つうか、生きてる時間を無駄にしたくない? お前、不治の病かなんかか?」

「違うけど――でも、いつ死ぬか分からないし、死んだらそこで終わりじゃないか。だから後悔しないようにって」

「死ぬのは怖いか?」

「怖いよ」


 透吾が即答する。


「なんでだ?」


 訊ねる男の声は穏やかだった。

 風変わりな少年を理解するためだろう。にやついた笑みを引っ込めて、真摯な瞳で透吾の顔を覗き込んだ。透吾はグラスの中の氷をじっと見つめていたが、男の視線に耐えきれなくなったのか、ふいとそっぽを向いた。そのまま、ぼそぼそと呟く。


「……死は生きた人の心まで持っていってしまう。一方で、俺はどうあってもそうはなれないんじゃないかとも思う。死ねば生きているやつらの反応なんて分からないだろうけど、まったく惜しまれなかったらと考えて不安になることもある。そんなことで悩む自分に、反吐が出る」


 未成年らしい素直さと飾らない言葉で打ち明けられた本音に、男は顔を綻ばせた。少年が死を恐れる理由。その意外な人間らしさに安堵したのかもしれない。


「少なくとも、俺は惜しむぞ」

「どうして」


 訊き返す透吾の声は険しかった。


「惜しむような仲じゃないだろ。俺、そういう口先だけの慰めは嫌いだよ」

「親しみもない。可愛げもない。大人に対する口の利き方も知らない。そんなクソ生意気なガキを意味もなく慰めてやるほど、俺はお人好しじゃないぜ。こう見えて、そんなに暇人でもない」


 対照的に、男はのんびりと言った。その内容は酷く鋭かったが――


「…………」

「お前さ、嫌な言い方して他人の度量の広さを測るのはよくないぞ。説教してくれる大人が周りにいなかったんだろうが、それにしたって性格が悪すぎだ。それじゃ惜しまれるわけがない」


 自覚はあったのか、透吾は唇を噛んで俯いている。反論がなかったことを意外に思ったのか、男は視線を少年の顔に走らせて――ぎょっと目を見開いた。

 涙だ。

 不快以外の感情をほとんど表すことのなかった少年の目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。男の言葉に傷付いた、というわけではなさそうだ。本人にも理由が分からないのか、当惑して目を瞬かせている。

 慌てたのは、男の方だった。


「お、おい。泣くなよ。冗談だよ。なんちゃってってやつ、あだっ、美千留ちゃん殴らないで!」


 男を小突いた影が、黒い塊の中から何か――ハンカチだろうか――を取り出して、透吾の頬を拭う。悪者にされた男は途方に暮れた様子で、猶も言い訳を続けている。


「お兄さんが悪かったよ。ガキに説教なんて、するつもりなかったんだって。本当さ。ただ、それでも少しはむっとしたって言うか。お前が口先だけなんて可愛げのないこと言うから……」

「……泣いてない。あんたが悪いとも、思ってない」

「いやお前、美千留ちゃんのハンカチぐっしゃぐしゃに濡らしてそれはないだろ」


 最近のガキはわけが分からん。と、男がぐったりテーブルに突っ伏す。

 沈黙はしばらく続いた。


「もう大丈夫です」


 透吾が影の手を押し返す。


「ええと、なんで美千留ちゃんには敬語?」

「敬意を払う相手は選ぶって、言ったじゃないか」

「……あ、そ」


 男はふてくされた顔で両手を挙げた。

 お手上げと言わんばかりだ。透吾が少し笑う。


「ところで、トーゴ君よ」


 空気が和らいだのを感じたのか、男が慎重に切り出した。


「意味のない慰めはしないってのは、嘘じゃないぜ」


 すぐに先の続きだと察した透吾の目に、警戒が走る。

 疑いの目で探られた男は、今度は手厳しく言い返したりはしなかった。何かを呑み込む仕草で堪えて、たどたどしく言葉を続けた。


「俺はな、自分と違うタイプのやつとほど仲良くしたいと思ってるのさ。三人寄れば文殊の知恵ってわけでもねえけど、まあ楽だし。なんたって、自分一人で知恵をしぼる必要がないわけだからな」

「……怠惰だ、それは」

「そう言うなよ。人間、せっかく他人と付き合えるようにできてんだ。少しくらい横着したっていいだろう。俺は無理して賢くなろうとは思わん。足りない分は頭のいい誰かに頼るし、騒ぎ疲れたら安らぎを与えてくれる人に寄りかからせてもらう」


 ちらっと、一度だけ影へと視線を投じて――


「そうは言っても類は友を呼ぶってやつで、どうしても似たようなダチが集まっちまう。そんな人間関係にお前みたいな変なのが入ってきたら、俺の人生はもっと楽しくなるはずだと思うのさ」


 自分で言って気恥ずかしくなったのか、人差し指で鼻の下をこする。

 男に、透吾は言い返した。


「俺は、変じゃない。まっとうだ」


 余程心外だったのか、眉間に力を込めて繰り返す。


「まっとうすぎるくらいだよ。世間のやつらみたいに羽目を外せない」

「自分で言うなよ」

「事実だ。ネジの一本でも外れりゃ楽になれるんだろうけど、いつだって我に返ってしまうんだ。周りが楽しんでいるときも、悲しんでいるときも。俺だけ一人、別の場所に立っているんじゃないかって気がする」


 透吾は言うと、不意に口を噤んだ。喋りすぎた、と後悔しているような顔だった。一方で深刻さと無縁の男は、唇の端をひくひくと引きつらせていた。


「まあ、なんだ。そういうのは、青春病って言うんだ。誰もが通る道さ。俺なんかもっと重傷だった。遠い土地から流れついた異郷人って設定で夕日を眺めつつノスタルジアに浸ってみたり、川縁で佇んで孤独を感じてみたりもした。でもまったく一人じゃねえから。錯覚だから、そういうの」

「……馬鹿にしてるだろ、俺のこと」

「馬鹿にしてない。つうか、お前はあれだ。なんか辛いことがあるのかも分からんが、ガキの頭で小難しげなことばかり考えてるからそういう生意気で痛い感じになるんだ。何年か経って今日のことを思い出したら、恥ずかしさに頭を抱えて床を転げ回る羽目になる。それはもう確実に。だから少しでも妙なことを考える時間が減るように、お兄さんがバイトを紹介してやろう」

「お、おい。生意気で痛いとか、好き勝手――」


 言い返そうとする透吾の顔におしぼりを押しつけて、男はまくし立てる。


「大体、居酒屋は日常に倦んだ大人が仮初めの癒しを求める場所だ。そんな大人の愚痴とアルコール頼りの空元気にあてられたら、感性の鋭いガキなぞ一発で鬱屈するに決まってるだろうが」


 その点、うちはいいぞ。

 胸を叩く相手に、透吾は濡れたおしぼりを顔からはがして胡乱げな目を向けた。


「……一応訊いておくけど、なんの会社?」

「葬儀会社。オヤジに独立させられたばっかでさ――うちの教育方針なんだよ。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすとかそんな感じの。で、人手が足りなくて困ってんだ。お前、雑用やってよ」

「葬儀会社……」


 虚を突かれた顔で、黙りこくる。

 しばらくしてその唇から零れたのは、震える声だった。


「無理」

「なんで?」


 男が訊くと、透吾は俯きがちに答えた。

 何かに怯えるように、手の甲へと爪を立てている。


「俺、死人嫌いだから」

「そらまあ中にはゾンビ映画も真っ青みたいなのもあるけども、流石にガキには対応させんぞ」

「そうじゃなくて、死人ってやつ全般が駄目なんだよ、俺。葬式も嫌い」

「だったら裏方でいい。電話番とか美千留ちゃんの手伝いとか、できることだけで」


 男はあっけらかんと言って、透吾の手元に気付くと顔をしかめた。

 美千留ちゃん、と隣に声をかける。また影が動く。腕に触れられた透吾は、驚愕した顔をぱっと跳ね上げた。


「それで――それで、あんたになんの得があるんだ」


 訊ねる声は上擦っていた。

 忙しなく動く少年の視線を、男は真っ直ぐな瞳で受け止めた。


「自分と違うタイプのやつとほど仲良くしたいってのは、さっきも言ったとおりだ。あと、お前には世話を焼いてやる大人が必要なんじゃないかとも思ってる。正直、お前はうちの妹よりも酷い」

「酷いって」

「情緒不安定で危なっかしい。せめて人の善意くらいには慣らしてやりてえよ」


 しんみりとした男の声は予想外に大きく響いた。

 抗議の言葉を半ばから失った透吾はそのまま固まっていたが、唇を結んで喉を上下させると、苦いものを呑み込んだ顔で相手を見つめた。


「―― 一つだけ」


 躊躇いながらも、また口を開く。


「うん?」


 と男が首を傾げた。

 意を決した様子で、透吾が続ける。


「一つだけ、契約してほしい」


 それは子供の口から出た言葉にしては大仰で、滑稽にすら聞こえた。

 男も露骨に苦笑している。


「時給交渉かー」

「違う。俺の世話を焼くと言ったからには、先に死なないでほしい」


 透吾は大真面目にそう言った。

 皮肉や冗談を言っているような顔ではなかった。だが当然の如く、男は面食らっていた。おいおい、と返す声には咎める響きさえあった。


「オヤジならともかく、俺はまだ二十代だぞ? 縁起でもねえこと言うなよ」

「年齢なんて関係ない。俺の姉だった人は七歳の頃に死んだし、他にも同級生や、後輩だったやつだって。恩師だった人は三十七だったかな。あんたよりは一回り歳が上だけど、それでも死ぬには早い方だろう?」


 瞳に暗澹としたものを浮かべて語る少年に、男も杞憂で済ませる気にはなれなかったのだろう。溜息を一つ吐いて、分かったよ、と首を縦に振った。


「まったく最近のガキってやつは……まあいい。それで満足するなら、約束してやる。少なくとも、お前よりは先に死なないね。美千留ちゃんもいるんだ。百歳まででも生きてやるさ」


 断言する。

 こちらも大仰な約束に、透吾は呆れた顔をしながらも少しだけ笑ったようだった。

 男が思い出したように、ライターへと手を伸ばす。指で蓋を押し上げながら、煙草を吸っていいかと訊ねる。かぶりを振る少年と女の影とを見て、彼は諦めたように指を戻した。

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