第11話


 緊張に手が震える。

 視線の先、棚の上ではライターのくすんだ金色が鈍い輝きを放っている。それは早く続きを語らせてくれとせがんでいるようにも見えた。

 カーテンの隙間から射し込んでくる一条の光をちらちらと反射して、酷く落ち着きがない。いや、落ち着きがないのはライターばかりではない。部屋全体が、なんらかの意思を持った生き物のごときささめきを発している。恐る恐る棚の上から視線を遠ざけて、狭い室内を見回す――

 統一感のない部屋だ。

 蛍がそうしたのか、遺品がただ詰め込まれているわけではなく、一応は部屋の体をなしている。ステンレス製の机に、いくつかのアルミ棚、プラスチック製の衣装ケース。文字盤の歪んだ鳩時計に、戦車や戦闘機のプラモデル、ダーツボードに、和泉には用途の分からない機械の部品、バイク雑誌、アイドル雑誌、釣りの専門誌、サーフボードやスノーボードまで立てかけてある。

 棚の隅には申し訳程度に各宗派の入門書なども置かれているが、ほとんど新品同様。一方で経営書などはいくらか使い込まれているようだ。

 多趣味というよりは、節操がない印象である。

 和泉はこの遺品たちの持ち主にも、どこか落ち着きのない子供じみた印象を受けた。その言動からまったく私生活を窺わせない透吾とは、対照的に。

 興味深げにこちらを見つめている透吾の存在を意識から追い出すことは難しいだろうと思えたが、意外にもすぐに気にならなくなった。

 彼の視線にも、慣れたのかもしれない。

 すっと息を吸い込む。

 木造の離れ家独特の微かな黴と埃の臭いは、古い劇場を思わせる。

 遮光カーテンが揺れて幕開けを告げた。天然の照明が射し込み、舞台道具たち――いや、語り手たちを照らしていく。まったく使い込まれていないギターが、過去に奏でたたどたどしく耳障りな音を記憶として伝えてくる。

 好き勝手なざわめきは、やがて集合して一人の人物の形を織りなす。


 ――役者は、過去を語る物語の登場人物は、どこだ?


 景色が流れる。

 部屋の中に溢れた遺品たちが持つ記憶を頼りに、背景が作り込まれていく。

 その中には、一度観た繁華街での光景もあった。男と少年が出会い、別れていく。一瞬の邂逅。けれど、別れは短い。ライターの蓋が、カチンコのように高らかな音を立てた。次の瞬間から、過去の再生は始まっていた。


 あ――


 耳慣れない音。いや、音ではない。それは、声だ。

 すぐにそうと分からなかったのは、それがあまりに想念の世界には相応しくないからだった。無声映画のような記憶の世界に登場するはずのなかった、声。

 それをもたらしたのは、藤波透吾というイレギュラーな生者の存在なのかもしれない。もっとも、第一声は透吾のものではなかったが。



「よう、奇遇だな!」


 軽薄そうな見た目から想像していたより落ち着いた、男の声だった。

 どこにでもある居酒屋だ。男は、やはり女性と思われる細身の影を伴っていた。塗りつぶされた人の影でごった返す店の中に、今度は居酒屋の制服に身を包んだ少年がすっと立っている。少年はやはり作り込まれた表情でカウンター席の客から注文を取っていたが、男の声に気付くと顔を上げた。

 男が片手を挙げる。少年――在りし日の透吾だ。彼は相手のことを覚えていなかったのか、或いは忘れたふりをしたのか、少し首を傾げると素っ気なく答えた。


「いらっしゃいませ。二名様ですか? ご案内しますので、少々お待ちください」


 彼らしからぬ愛想のなさだ。

 両の口角は面白みもなく下がったまま。緊張しているようでもなく、また相手を小馬鹿にしているようでもなく、ただただ無感動というのが似合う表情だった。そんな少年を見て、男は大袈裟に肩を落としてみせた。


「おいおい、覚えてないのかよ。つい二時間も前に会ったばかりなのに」


 その馴れ馴れしさにこそ、今の透吾を彷彿とさせるものがある。


「…………?」

「ほら、俺のライターを拾ってくれたろ。さっき、外で」


 首を傾げる少年に、男は言った。

 ポケットから例のライターを取り出して親指で蓋を押し上げ、閉じる。かちり、と。硬質な音色に記憶を刺激されたわけでもないのだろうが、透吾が発したのは――あ――と、無感動なその音だけだった。言葉ですらない。思い出したからといってそれ以上何を言うわけでもなく、通りがかった店員の一人をこれ幸いと呼び止める。


「あ、先輩。すみませんが、お客さまを席に案内してさしあげてください」

「おい、無視かよ!」


 男は流石に唇を引きつらせて口を挟んだが、連れに軽く腕を叩かれて渋々といった様子で引き下がった。ちぇっと呟いて、年齢よりはもう少し子供っぽい拗ねた目で無愛想な少年を見つめる。

 当の透吾は、もう彼らには目もくれず厨房の方へ引き返していた。



 その瞬間――いや、もう少し遡って透吾少年が男のライターを拾い上げていたときに縁は生まれていたのだろう。金色の小さな金属の塊に秘められた、記憶の断片が胸を満たしていく。このあたたかな感情を当事者である透吾が感じられないというのは、和泉にしてみれば不思議だった。

 意識の端で、部屋のカーテンがまた揺れる。

 第一幕が幕を閉じ、穏やかに過ぎ去った時間が流れる。高校生に無視された男の意地と、微かな興味が伝わってくる。

 そう、無感動で無愛想な少年への興味だ。この奇妙な縁の源泉は。

 傍らに必ず華奢な影を伴って、男は居酒屋に足を運び続ける。そのたび透吾は初めて会った顔で彼を迎える。両者の間に会話はない。男ばかりが一方的に言葉を投げつけ、少年の反応を窺う。時にはからかい、時には怒ったふりで、時になだめすかしてみたりもして――何度か繰り返されるうち、透吾も流石にうんざりしたようだった。


「……なんなんだ、あんた」


 それが男個人に向けた第一声だったというのは、意外であると言うほかない。

 あの透吾が。

 ぞんざいすぎる疑問にも、しかし男は気分を害した風ではなかった。ぱっと顔を明るくして、根気強く少年と男の攻防に付き合った連れを振り返り、聞いたかと一言。影が小さく顎を引く。それを認めた男はいっそう嬉しそうに破顔して、手のひらで自分の胸をたんっと叩いた。


「俺の勝ちだな」


 困惑している少年に、男が告げる。


「このあと、少し付き合え」

「なんで」

「いいだろ。俺が勝ったんだから」

「何に」

「お前にだよ。こういうのは、しつこい馬鹿を相手にした方が負けなんだ」


 その言葉に納得したのか、諦めたのか。

 透吾は露骨に迷惑そうな顔をしつつも首を縦に振ったのだった。天井からぶら下がる照明の光にあたためられて、陽炎のように風景が歪む。かちりと、また聞こえてきたのはライターの蓋が閉じる音だった。それは男の癖だったのか?




 はっと我に返る和泉の視界に、人好きを装った透吾の顔が飛び込んでくる。

 少年の面影を残しているが、むしろぴたりと重なるのは記憶の中で少年に勝利を告げた男の方だった。


「何か分かったかい?」


 揶揄する瞳で訊いてくる。

 まだだ。まだ、過去を突きつけるには足りない。無言でかぶりを振ると、和泉はまた意識をささめきの中に投じた。射し込む光は、一方で室内に濃い影を作り上げている。長く沈黙を強いられてきた過去の闇だ。ライターから伸びた小さな影もまた、語られることのなかった記憶を秘めている。


 再び、音が。

 目の前の透吾が溜息をついたのか。いいや。







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