第10話



「和泉君に相談した方がよかったかな」


 高坂巴のマンションを見上げて、彩乃は勢いで行動してしまったことを少しだけ後悔していた。どうして、和泉に何も言わずに貴士を訪ねてきてしまったのか――その理由は、自問するまでもなかった。

(つまり、耐えられないのよね)

 和泉は今日、透吾と会うことになっている。

 義務感からかメールをくれた彼に、いってらっしゃいと返信してみたものの、物分かりのいいふりをして一人待つことには耐えられそうもなかった。

(和泉君が帰ってきたときに、私も何かいい報告をしてあげられたら……なんて)

 どうにもじっとしていられないのは、狼狽しているからなのかもしれない。

 他人とのかかわりを持つことに酷く消極的だった和泉が、ここへ来て初めて自分から行動したことに。出会ってから、まだそれほど経っていないように思えるが、彼は確実に変わっている。根がお人好しで真面目なのだろう、行動し始めると結果を出すのも早い。そのことを、彩乃は意識せずにはいられなかった。

(私は……和泉君からしてみれば、何も変わったように見えないんだろうな)

 猪突猛進。感情的で、すべてが即行動に繋がってしまう。自覚がないわけではないのだ。昔からずっと、そうだった。変わりたいと思ったこともなかった。

 今の自分でなければできなかったことは多い。夢を掴むことも、人と出会うことも、今の自分だからできた。そう思っている。

 けれど一方で、これからの自分に疑問を覚えることも事実だった。

 ――そろそろ、落ち着くべきではないか?

 学生時代を引きずってがむしゃらに進むにも限りがある。

 マンションの前で立ち竦んだまま、一人頭を掻きむしる。こうして悩むくらいなら、いっそ和泉に付いて行けばよかったのかもしれない――そんなことを考えていたからだろう、人の足音に気付かなかったのは。


「あら、国香さん?」


 振り返る。買い物袋を片手に提げた巴の姿があった。

 元モデルとして活躍し、今もビジネスを手がける彼女が普通の主婦と同じように買い物をするというのは、不思議なことのように思える。

 思わず手元を凝視すると、巴は気恥ずかしそうに笑った。


「ああ、これね。料理は貴士の担当なんだけど、今は元気がないから」


 ――実を言えば、包丁を握ったことなんて片手で数えるほどしかないのだけれど。

 と、小声で付け加える。なんと返せばいいのかも分からず――いまだに、彼女と貴士の関係は理解しがたいのだ――彩乃は曖昧な顔で濁して、訊ねた。


「比良原君に合わせてもらってもいいですか?」

「ええ。今日はあなた一人?」


 首を傾げる巴に、頷く。


「はい。和泉君は用事で……突然、すみません」

「いいのよ。あの子たちのためにわざわざ足を運んでくれたんでしょう?」


 言いながら、巴は階上に続く自動ドアを開けた。

 ボタンを押して、エレベーターが降りてくるのを待つ。彼女の話は続いている。


「和泉は言葉の足りない子だし、貴士は和泉にコンプレックスを持っているから話を素直に聞かないじゃない? そして私は母親役としても恋人役としても中途半端だから、何もできない――」

「そんなことは」

「否定してくれなくていいのよ。和泉だってそう思っているだろうし、私も自分が仕事以外ではまったくの無力だったことに気付いて、愕然としているんだもの」


 エレベーターが止まった。扉が開く。

 他に住人の姿はなく、巴が仕草だけで先に乗るよう促す。


「それまでは何もかもが――とは言わないまでも、大体のことは自分の思いどおりになると思っていたのね。若い頃からみんなにちやほやされて、早くに五樹さんと出会って結婚して、和泉を生んで、それで干されることもなく。モデルとしての賞味期限が過ぎてからもデザイナーとして業界に残してもらえたわ。五樹さんとは価値観も同じだから、別居してお互いに恋人を作っても仲のいい夫婦でいられる。そんな両親を見ても、和泉は道を踏み外すことなく育った……」


 巴が細い指先でパネルを操作する。

 動き出したエレベーターは、止まることなく上昇していく。


「別居してからも和泉とは週に一度会っていたけれど、その習慣もあの子が中学生くらいの頃に自然となくなってしまった。それでもあの子は自然と育って、そのことにも満足していたはずなのね。なんて幸せなんだろうって。浅はかだったというか、ポジティブすぎたと言う他ないのだけれど」


 そこで、巴は一度言葉を切った。

 操作盤に灯っていたランプが消え、電子音が目的階への到着を告げる。先に外へ出た彩乃は、エレベーターの扉を押さえて巴を待った。


「ありがとう」


 巴が優雅に微笑んで、彩乃の隣に並んだ。

 背後の扉が閉まるのを待たずに歩き出す。


「そうそう、ポジティブすぎたという話よ。ここ何年かでようやく家族というものを考えるようになった――というのは、年を取った証拠かしらね。子供のためにあれをした、これをした。そんな話を聞くたびに、私はあの子に何をしてあげただろうと考えるようになってね。誰に相談しても?今からでも遅くない?と言ってはもらえるんだけど、もう接し方から分からなくて」


 部屋の前で足を止めた彼女は、なかなか鍵を探そうとはしなかった。


「そんなことを考えているときに出会ったのが、貴士よ。比良原さんのことは知っていたわ。五樹さんが好きだったから。同じものを尊敬している人でも、こんなに違う。だからいろいろな人と付き合うのは楽しいって、その頃はまだ恋愛感覚だったかしら。でも、貴士はああいう性格でしょう?」


 部屋の中の彼に聞かれてしまうことを恐れてか、一段と声をひそめる。


「もしも、もしもね。和泉が私と五樹さんに愛想を尽かしてぐれちゃっていたら、こういう感じだったのかなって。そう思ったことがないと言えば嘘になる。和泉に拒絶されてしまうことが怖くて、でも母親ごっこはしたくて、貴士で満たしていたわけね。指摘されて初めて気付いたの」


 そこまで話すと、巴はようやく鞄の中から部屋の鍵を取りだした。それを鍵孔に差し込んで回す。解錠される音に紛れて、小さな呟きが聞こえてくる。


「もっとも、そんな母親ごっこですら不十分だった。貴士にしたことも、結局は和泉にしたことと変わらなかった。やりたいことをやらせて、お金を出すだけ。上手くいかなくてもなんとでもなるわって、そんな傲慢さと不誠実さで貴士を甘やかして、我が子にも迷惑をかけて、どちらからも頼りにしてもらえない。当然の報いね」

「高坂さん――」


 彩乃が声をかけるより、巴が玄関のドアを開ける方が早かった。

 呼びかけは、ただいまという声に掻き消される。パンプスを脱いで先に部屋へ上がると、彼女は彩乃を振り返った。


「上がって。貴士の部屋は分かるわよね? コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら」

「あ、お構いなく」

「そう。あの子たちのこと、よろしく頼むわね」


 髪を掻き上げる仕草で憂鬱さを誤魔化すと、巴は忙しなげにキッチンの奥へ引っ込んだ。その後ろ姿を見届けてから、彩乃はリビングを横切って貴士の部屋のドアを叩いた。ゆっくりと、二度。

 返事はない。

 もう二度ほど、今度は強めに叩く。


「ねえ、比良原君。開けてもいい?」


 声をかけたところで、結果は同じだった。

 ドアに耳を付けて中の様子を窺う。音は聞こえないが、いないということもあるまい。彼は息を殺して、こちらが立ち去るのを待っているのだろうか。


「比良原君、話がしたいの。和泉君は抜きで、この間のことを謝りたいの」


 鍵はかかっていないかもしれないが、彩乃はそれを確かめる気にはなれなかった。貴士が応えてくれるのを、ドアの外でじっと待つ。ややあって――言葉が届いたのか、中で人の動く気配がした。

 ドアノブががちゃがちゃと音を立てて回る。

 小さく開いたドアの隙間から、貴士の拗ねた瞳が覗いてきた。彼は彩乃の他に人の姿がないことを確かめると、まじかよ、と顔をしかめた。


「……お前が俺に、何を謝るってんだ」


 警戒する視線に、彩乃は応えた。


「きつい言い方、したから。その、私って自分が正しいと思ったことをそのまま人に押しつけちゃうっていうか、感情よりも行動で考えちゃうところがあるっていうか……それで人に迷惑をかけることもあるし、自分でもよくないとは思っているんだけど、なかなか自覚できなくて」

「で?」


 貴士は怪訝そうだった。

 彩乃を見る目は疑い深げでもあった――そんな彼の様子に改めて先日の浅慮を痛感する。いや、もしかしたら今日のこれも浅慮なのかもしれない。考えるうちに自分が酷く臆病になっていることに気付いて、彩乃はぎゅっと両手を握りしめた。


「この間は、ごめんなさい。今度は一方的に話すだけじゃなくて、きちんと会話がしたいの。だから、まずは謝りたかった」


 素直に告げると、貴士は肩すかしを食ったような顔をした。


「……別に、謝る必要なんてない」


 長嘆息を合図に、ドアがもう少しだけ開く。

 入れよ。と、ようやく聞こえるほどの声で促されて、彩乃はドアの内側に足を踏み入れた。部屋の中を露骨にはならない程度に見回す。前回からそれほど時間が経っているわけではないが、これといった変化はない。枕元のクロッキー帳もそのままだ。

 彼はベッドの上の沈み込んだ一カ所――ずっと、そこに腰掛けていたのだろう――に座り込んだ。


「……お前は間違ってない。自分が正しいと思ったことで他人に遠慮する必要もない。正論で傷付くのは、駄目なやつだけだ。あいつもそう言った。俺は反論できなかった。手も足もでなかった」


 そうして会話に応じてくれたのは、意外だった。

 貴士自身、この停滞した空間に飽き始めていたのかもしれない。低い、呻き声のような呟きは酷く聞き取りにくかったが、その中からどうにか〈あいつ〉という単語を聞き分けて、彩乃は訊ねた。


「あいつ?」

「あいつ。カラクサ葬祭の――」


 藤波。と、名前を出すのも嫌そうに貴士は蒼白な顔で呟いた。

 瞬間、彩乃は思わず言い返していた。


「私は、藤波さんの言うことが正論だとは思わない」

「…………」


 貴士は押し黙っている。


「そして多分、和泉君はこんな風に感情だけで即答してしまう私のことを正しいと言ってはくれないんだと思う。でも、そんな彼だってすごく変わった生活をしてる。正しいってなんなのかしら?」


 答えはない。答えられないのだろう。

 ずるい質問だと自覚しつつも、彩乃は続けた。


「あなたの曾おじいさんのエピソート、私は好きよ。不謹慎だと怒られてしまうかもしれないけど、偉大な芸術家は――学者もそうだけれど、少なからず悲劇的な死を迎えて、人生そのものを一つの作品として終えているようなところがあるわ」

「……だけど、俺の曾じいさんは偉大な芸術家じゃない」

「そうだとしても、好事家の間では有名なんでしょう?」


 分野は違えど、同じ芸術という枠の中で活動しているからこそ分かることもある。こっぴどくやり込められたのか、酷く後ろ向きになっている貴士に腹立たしささえ覚えながら彩乃は言った。


「それに私の知るだけでも、三人の人生に影響を与えてる。高坂五樹さん、和泉君、あなた――私もそうなりたいと思うけど、何十年も後に生まれた人が自分の作品に生き方を左右されるようなところは想像できない。悔しいけどね」

「そうなりたい? お前、なんなんだ?」

「言わなかったかしら。私、写真家なの」


 初耳だったらしい。貴士は眉をぴくりと動かした。


「写真家……」

「そ。だから私も、夢を否定されることの悔しさを知らないわけじゃない」


 そういえば、彼とまともに話をするのは初めてのような気もする。

 今更ではあるが。


「下に二人弟がいて、家も特別裕福ってわけじゃなかった。両親は二人とも零細企業に勤めていたから、写真家になるために専門学校に進学したいって頼んだときにはやっぱり猛反対されたわ」


 それを打ち明けることは果たして正しい選択だったのかどうか。

 三国からやんわりと指摘された、デリカシーのない強さだ。迷って、言葉を切る。しかし、貴士は意外にも先を促してきた。


「……なんて」

「馬鹿なことを言うな、写真で食っていけるはずがない、時間とお金の無駄だ――」


 どこにでもある話だ。

 それを聞くと貴士は一度目を瞑って、眉間に深く皺を寄せた。


「俺も、そう言われた。曾じいさんみたいになるつもりかと怒られた」


 両親の顔でも思い出しているのだろうか。

 そんな彼を眺めるうちに、彩乃も我知らず手に力を込めていた。


「……それでも必死に頼み込んで、好きにさせてくれなきゃ死んでやるって親を脅して、でも当たり前だけど怒られて、在学中に何か別の――もしも写真家になれなかったとしても潰しの利くような資格を取るからって約束して、ようやく進学させてもらった。奨学金借りて、学生課なんかでバイトも紹介してもらって、機材も自分で揃えて……」


 親からの援助を受けない苦しさは当然のことながら、夢を追いかける楽しさで帳消しにしてしまえるものではなかった。だが一方で思い出したのは、両親が渋々ながらも折れてくれたことだった。夢を彩乃のものとして受け入れてくれたことだった。

 互いに意地になっていた部分はあったが、たまの長期休暇に帰省をすれば迎え入れてくれた。仲も、決して険悪ではなかった。


「私の親は応援こそしてくれなかったけれど、努力する機会は与えてくれた。その努力すら許してもらえない環境を、私は想像できなかった。同じ環境だと勝手に思い込んで、比良原君のことを甘いと決めつけていたんだけど――」


 違う。まったく、違う。

 三国の言った、足場のないところに一人で飛び込むことの意味に初めて気付いて、彩乃は最初よりもやや穏やかな声で彼に告げた。


「ねえ、物事って公平にできているんだと思うの」


 言葉の意味をすぐには理解できなかったのだろう。

 貴士は不意打ちを食ったような顔をしている。


「なんだよ、急に」

「私は親が譲歩してくれた。比良原君の場合はご両親には分かってもらえなかったけど、今こうして絵を勉強するための環境が揃いつつある。和泉君のお母さんも三国さんもあなたに対して親切だし、外国で勉強してきた修復師に絵の先生を紹介してもらえるなんて滅多にないことよ」

「だから――」


 かぶりを振ろうとする彼を、彩乃は遮った。


「それでも無理だって諦めるか、それともやってみようって踏み出してみるのか。やるべき、だなんて無責任なことはもう言わないわ。偉そうなことを言った私だって、専門時代に後悔をしなかったわけじゃないもの。でも、それでも……」


 不安に揺れる貴士の瞳を、じっと見つめる。


「比良原君が自分の意志で仕切り直そうって言うなら、一緒に頑張りましょうって言いたいわ。きっとお互いに学べることもあると思うから。勿論、選択の責任を負うのはあなた自身だけど」

「俺が選んで、責任を負う……」


 責任。

 貴士はもう一度だけその単語を繰り返すと、不意に俯いた。誰のせいにもできない。そのことを怖れるように彩乃から視線を逸らして、膝の上で両手を拳の形にしている。力の込めすぎで目に見えて両手が震え始めた頃に、彼はようやく声を絞った。


「俺は、俺……将来性もねえし、夢と声ばかりがでかいだけのガキだって……」

「いいじゃない。夢と声ばかりが大きくたって」


 彩乃は腰に両手を当てて、胸を反らした。


「言っておくけど、声の大きさなら私だって負けないわ。プロになりたい。私にきっかけをくれた人や、写真の魅力や技術を教えてくれた人、そんな人たちと同じ目線に立ちたい」


 ――そんな風に夢を語ることを、恥ずかしいことだとは思わない。

 言い切って、憮然と付け加える。


「そもそも将来性がないなんて、誰が決めたのよ。藤波さん?」

「……ああ」


 剣幕に気圧された様子で、貴士が頷く。

 怯える彼を見ていると、カメラを壊した男の親しげで毒のある顔が浮かんだ。鼓動がわずかに早くなるのを感じながら、彩乃は気丈に言い放った。


「自分の明日のことだって分からないのに、他人の将来にまで口を出そうだなんておこがましいわ。あなたもよく知りもしない相手の言うことを真に受けて、自分の価値を決めるんじゃないわよ!」


 言い切ったあとには、また感情的になってしまった後悔と、それに矛盾した爽快感が残った。引っ込みも付かないまま、半ば自棄になって貴士を見下ろす。

 いきなり叱りつけられて驚いたのか彼は目を大きく見開いたまま固まっていたが、やや遅れてかぁっと顔を赤くした。


「――お前、名前は?」


 脈絡もなく訊いてくる。

 彩乃は戸惑って、怪訝に貴士を見返した。


「今更?」

「クニさんとか、アヤノとか呼ばれてるのは聞いたけど、自己紹介はしてねえし」


 言い訳とともに差し出されたのは、クロッキー帳とペンだった。

 名前を書け、ということらしい。罵り合って、説教までして、改めて自己紹介をし合うというのは奇妙なことのように思えたが――


「……国香彩乃」


 素直に名前を書いて、貴士に返す。

 彼はその下に〝比良原貴士〟と自分の名前を書き加えた。文字は、想像していたより随分と整っている。意外に思いながら目を瞬かせる彩乃の隣で、貴士は小さく頭を垂れた。


「なあ、彩乃。前のときは悪かったよ」


 今度ははっきりと、聞こえてくる。謝罪だ。

 例の拗ねた表情ではない。不満げでもない。彼は途方に暮れているようだった。許されないことを恐れているようだった。再びクロッキー帳に視線を落とした彼は、そこに書かれた文字を凝視したまま、ぼそぼそと続けた。


「すぐには決められない。けど、今度は真面目に考えてみようと思う。新しい目標……曾じいさんの絵を修復するために勉強し直すか、諦めるか。諦めるなら、これから先どうすっか――」

「うん」


 それはほとんど独り言のようなもので、相槌を打つ必要があったのかも分からないが、彩乃は長いこと――貴士の気が済むまで――そうして彼の呟きに耳を傾けていた。






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