第9話
――それから三日間。
和泉は迷っていた。
繁華街で蛍に会った日のことを、彩乃に打ち明けるべきか否か。
言えば彼女は自分も行くと言うだろうが、なんとなくあの小部屋には余人を呼んではいけない気がした。それは故人の庭を踏み荒らしたくなかったからなのかもしれないし、彩乃の勢いを借りることなく透吾と対等に対峙したかったからなのかもしれない。正確な理由は和泉自身も分かりかねている。
一方で、すべてが終わったあとに話すというのも彩乃に対して悪いような気がして、結局は電話でそれを伝えることにしたのだった。
透吾と会うつもりである旨を告げると、案の定、彩乃は開口一番にこう言った。
「私も行こうか?」
「いえ、今回は俺一人で行こうと思っているんです」
和泉は間を空けずに答えた。
そのまま、返事を待つ。彩乃は――
「そう」
頷いた。ただ、それだけだった。
彼女が簡単に引き下がったことは意外だった。
「行きたいって、言わないんですか?」
思わず訊くと、彩乃の苦笑が答えた。
「何回かやり取りをして、分かったから」
「何が、です?」
「お互い、相性が悪い相手だって。私は藤波さんの人を食った態度にすぐカッとなってしまうし、あの人も感情的な私には何を言っても無駄だと思ってる……と、思う。和泉くんは、あの人と話をするつもりなのよね?」
「ええ」
「できれば外野に煩わされずに、決着を付けたいとも思ってる」
「……まあ、そうですね。正直に言えば」
彼女も分かってくれているようなので、素直に頷く。
正直すぎ、と彩乃は笑った。
「だったら、私は邪魔しないわ」
今日はやけに物分かりがいい。
それまで彼女にどう説明したものか散々考えていたため、和泉は少し面食らってしまった。そうですか、どうも――と、そんな微妙な相槌で会話が途切れる。
どうしていいかも分からないので、もういっそ適当にお茶を濁して切ってしまおうかと考えていると、彩乃が不意に呟いた。
「藤波さんね、忘れていないんだと思うわよ」
「え?」
意味が分からず、和泉は訊き返す。
「何を、ですか?」
「前に美礼さんの鍵探しを手伝ってもらったことがあったでしょう? そのときに、少し話をしたの。覚えていることは得意だって言ったあとにね、故意に忘れることも得意なんだって。そのときは気にも留めなかったんだけど――」
「自分が故意に忘れた事実を、覚えている」
そういうことなのだろう。
和泉が言葉を引き継ぐと、彼女は電話の向こうで頷いたようだった。
「ねえ、和泉くん」
「はい?」
「今度こそ、化けの皮を引っぺがしてきてよ。私の代わりに」
これは、いくらか冗談めかして。
会話がいくらか気楽になったことに安堵しながら、和泉は答えた。
「頑張ります」
ああ、なんて自分らしくない。
やはりそう思わずにもいられなかったが、一方でここ数日の不安が軽くなっていくのも感じていた。それから和泉は通話を切ると、透吾宛のメールを作成した。二十分ほど時間をかけたが、結局はシンプルに唐草蛍の家で会いたいと一言。
彼女から聞いていた休日をいくつか挙げて都合をつけてほしいと添えて送る。返信は早かった。彼の方も短く、了解、と。ちょうど三日後の午後が空いているというので、その日に会おうという運びになった。
恐ろしいほど淡々と計画が進んでいく。
少し性急なようにも思えるその流れが、自分を勢いづけてくれるものなのか、それとも罠なのか、和泉には分からなかった。
ただ機会を信じるしかない。
すべての連絡を終えて一息吐くと、和泉は携帯を放りだしてベッドに転がった。ナイトテーブルの上には、蛍に見せてそのまま持ち帰ってきた〈兵士と死〉が置きっぱなしになっている。透吾との一件に片が付いたら、こちらもどうにかしないとな。
和泉は考えながら、疲れたように目を瞑った。
***
密かに決意した決着の日は、すぐにやってきた。朝からその時間までを胸騒ぎとともに過ごした和泉は、一通だけ彩乃にメールを送った。
藤波透吾と会ってくる旨を伝える簡潔な文章で、彩乃からの返事は「いってらっしゃい」という、これまた簡潔な一言のみである。
微かな違和感を覚えつつも、和泉はそのまま家を出た。
電車を二つほど乗り換えて四十分。駅からタクシーで十分。都会の雑踏から離れた閑静な住宅街に、黒い鉄の門が存在を主張している。
まるで来訪者を拒んでいるようだ。その入り口の前に、佇む男の姿があった。
彼はいつからそこで待っていたのだろうか?
もうずっと前から、そうしているような様子だが――
「やあ、高坂君」
男は和泉の姿を見つけるなり、いつものように片手をあげて微笑んだ。流石に万里の姿はない。子供一人分の空白を伴った彼は、日頃よりも多少近寄りがたく見えた。
「驚いたよ。君が俺をここに呼び出すだなんて。蛍さんと知り合いだったんだ?」
「ええ」
「君の父親の職業を考えれば妥当ではあるにしろ、世間の狭さにはうんざりするよ」
もう開き直ったのか、透吾は憂鬱な顔を隠そうともしなかった。
「それで、この家の主は? 蛍さんは、どこかな」
「母屋に」
「そうか。まあ、こんなところで立ち話というのもなんだから行こうじゃないか。彼女と会うのも九年ぶりか」
感慨など一切なく、むしろ忌々しげに母屋へと足を向ける彼を、和泉は制止した。
「いえ、用があるのは彼女ではなく――」
あっちです。
と、離れ家を指さす。透吾は振り返りながら、訝る視線を向けてきた。
「どうして?」
「藤波さんに見せたいものがあるんです」
「俺に?」
彼は顎に手を添えて考えるそぶりをしていたが、やがて納得したように頷いた。
「ああ、そうか」
口角を歪める。
「あの人の遺品を見せようっていうんだな、俺に」
いちいちこちらの考えを読んだように先回りするのは、透吾の嫌みなところである。和泉はひやりとしながら、どう答えるべきか迷った。否定したとて嘘はすぐに知れるが、肯定すればこのまま引き返されてしまいかねない状況である。
あの部屋に誘導できれば意味がないのだが――
和泉が口を噤んでいると、透吾は大仰に両手を広げた。
「そうじゃないかと思ったんだ。でないと、君が俺をここに呼ぶ理由がないから。美千留さんはあの人の遺品を処分したと言ってくれたけれど、夫の死後すぐに遺品整理をしてしまえるような人ではなかったから、心のどこかで疑っていた」
「それでも誘いに応じてくれたということは、逃げ帰るつもりもないんですよね?」
挑発が通用するかは、ある種の賭けだった。
彼が苦笑で答える。
「ああ。気を遣わせてしまってすまないな」
見え透いている、ということなのだろう。
どこまでも一枚上手な彼の態度に不安が過ぎる。たとえ過去を観て指摘したところで、毛ほども動揺しないのではないかと感じさせる彼の態度だった。それでもここまできてしまった以上は舞台に上がるほかないのだが。
和泉は棒立ちになったまま、透吾を眺めた。
濃いグレーのスーツには、しわ一つない。控えめな模様の入ったネクタイの真ん中あたりに、シンプルなネクタイピンが光っている。仄かに甘く、清潔感のある香りが酷く彼らしくて鼻についた。優男然として見えるが、隙がない。
いつもどおりだ。
冷めた瞳と、口元の微笑も。
「さあ、高坂君。行こうか」
遺品以外の何が待ち受けているのかも知らない彼は、余裕たっぷりの口調で言うと、離れ家へ向けて歩き出した。ええ、と頷いて和泉もそのあとに続く。
当然ながら、部屋は数日前に見たときのままだった。
故人の持ち物が整然と詰め込まれた、八畳ほどのスペース。離れ家といってもプレハブ小屋のようなもので、照明と外に取り付けられた水道の他はなんの設備もない。それがかえって、ある種の墓めいた雰囲気を強めている。
ドアを開けた透吾は部屋の中を一望に収めるといくらか躊躇を覚えたようだが、背後に和泉の気配を感じたためであろう。何事もなかったように足を踏み入れた。
部屋の奥まで進んで、窓際で止まる。
透吾がなんの前触れもなくカーテンを開いたので、室内は一瞬にして光に満ちた。やや傾いた午後の日射しを背に、彼が振り返ってくるのを気配で感じる。和泉の目が眩しさに慣れた頃、光の奔流から切り取られた人の輪郭が声を発した。
「君は、あの人のことをどれだけ聞いている?」
「ほとんど、何も。蛍さんの兄で、万里さんの父親、あなたの友人だったということくらいです」
和泉は答えた。
それに対して、透吾が訂正する。
「厳密に言うなら、友人ではなく恩人だった人……だな」
「今は、どちらでもいいんです。それをこれから確かめるんですから」
「確かめる? どうやって」
面白そうに喉を鳴らす。
一方でこちらの出方が読めないのか、彼は落ち着かないようにも見えた。
「もしかして、俺に昔話でも語らせる気か?」
「いいえ」
和泉は否定して、部屋の中央まで進み入った。
「その必要はありません」
逆光の中に透吾を見る。
黒い、濃いシルエットの中に、ぼんやりと顔のパーツが浮き上がってくる。表情は、よく分からない。もしかして彼はこの効果を狙ったのだろうか――と細めた目に力を込めながら、和泉は思った。
「率直に言うと、君が何を考えているか分かりかねるんだ」
腕を組んで、思案している声で彼が言った。
「いや、狙っていることは分かる。君は俺に、俺が散々蔑んできた死者を愛する人たちへの共感を望んでいる。俺に懺悔させようとしている。だが……そのくせあの人のことを知らないと言う。実際、蛍さんは俺とあの人と美千留さんの関係に詳しいわけではない」
――まさか、この部屋を見せることだけが切り札ってわけでもないんだろう?
と、透吾は首を傾げた。
言葉の中に確かな困惑を感じて、和泉は深く息を吸った。
逸る気持ちを抑え込む。
「この間の続きに付き合ってもらいたいんです」
「この間?」
「ええ」
もう一歩。透吾との距離を縮める。
三歩ほどの距離を残して対峙すると、ようやく彼の表情が見えるようになった。深淵を覗くような、覗かれているような感覚に、いくらかの寒気を覚える。
過去のない男。空白。自分はなんなのか、という彼の問い。
それに答えなければいけない。
「あなたの名前は藤波透吾だ」
部屋に詰め込まれた遺品たちが、やり取りを興味深げに窺っている。
全身を貫く無数の視線にも似た感覚に怖じ気づきそうになりつつも、和泉は声を振り絞った。一方の透吾は怪訝な顔だった。
この間の続き――が何を指すのか、理解していないらしい。彼にしては察しが悪い。或いは余裕を装いつつも、内心ではそれなりに動揺しているのだろうか。
そんなことを考えながら、続ける。
「葬儀会社に勤めているくせに、死を、過去への感傷を酷く憎んでいる」
そして――
「そして、なんだって言うんだい?」
透吾はハッと我に返ったように問いかけてから、唇を引き結んだ。
やはり、こちらが感じていたほどの余裕はないようだ。苛立ちも隠しきれずにいる。彼自身にも、その自覚はあるのだろう。いつでも親しみと矛盾した冷たさを感じさせるその顔を、今はもどかしげに歪めていた。
そんな透吾に視線を留めて警戒しながら、和泉は一度息を吸った。
先日はどうしても続かなかったその先に、今こうして踏み込もうとしている。
「俺には……」
一度迷ってから、和泉はそれを告げた。
「俺には、少し特殊な才能があるんです」
「特殊?」
透吾は眉をひそめている。
何を言い出すのかと、ますます困惑しているようだった。だが、目には彼らしい好奇心も表れていた。和泉は彼の問いに答えず、逆に訊き返した。
「藤波さんは、音楽に心を震わせたことがありますか? 彫刻や絵画、舞台に芸術家や役者の魂を観たことは? 小説でも、なんでもいい。不可視の何かを観た経験はありますか?」
その質問は彩乃にも投げかけたことがある。
彼女は一言、あると言った。
――透吾は?
「ないよ」
即答だった。彩乃と同じように、たった一言で。
彼が肩を竦める。
「感動しないわけじゃあないんだが、すぐ我に返ってしまうのさ。どうにも芸術とは相性が悪くてね。非日常的な世界にのめり込むことができない」
「だったら、俺の話は信じてもらえないかもしれません」
彼らしい答えに納得しながら、それでもどこか出鼻を挫かれた思いではあった。
「人の手で作られ、人に長く愛された物には個性が宿ります。芸術作品だけではなく、日用品にも」
透吾の眉が、ぴくりと動く。
密かに彼を観察しながら、和泉は続けた。
「あなたがそれを感じなかったとしても、確かに人の想いは物の一部となりうる」
「へえ? 断言するんだ」
「あなたが指摘したように、俺の周りには常に芸術作品がありました。むしろ、それしかなかった。静寂の中に人の様々な想いを呑み込んだ、死というテーマを追及した作品が俺の世界のすべてだったんです。そんな日常の中で、俺は鑑賞眼を培いました。物に込められた魂を観るという――」
説明しながら、自分でもかなり胡散臭い方向に話が進んでしまっていることには気付いていた。息継ぎにかこつけて言葉を切る。刹那の逡巡ののちに、やはり他の表現がないことを再確認して、和泉はそのまま一息で告げた。
「物に込められた魂を観るという才能の一種です。焼き付けられた人の想いを、過去の記憶を、この目で見て感じ取ることができる。遺作や遺品に限りますが」
透吾の様子を窺う。
この男はどんな反応をするのだろうか、と興味もあった。
彩乃は疑う素振りも見せずに、すごいことだと言った。蛍はいくらか疑わしげだったが、反面でその力が透吾をやり込めるよう期待しているのだろうとも思えた。
そして、彼は――
「信じるよ」
その一言は、予想外だった。
鼻で笑われることも覚悟していた。
「え?」
信じられない思いで訊き返す。
呆然とする和泉に、透吾は答えた。
「意外だ、とでも言いたげだな」
本人はいつもどおり微笑してみせたつもりだったのだろうが、唇は酷く歪な形をしていた。眉間に刻まれた深い皺が、隠しようもない彼の内心の苦さを表しているようでもあった。
「意外なものか。俺は残された想いってやつの存在を誰より信じている。もしかしたら、君よりも」
「なんで」
「それを訊くかな? 物に込められた想いは、思い出は、生きた人にも影響を与える。そのことを知っているからこそ、俺は遺品が嫌いなんだぜ? 前にも話したじゃないか」
今度こそ、彼は鼻を鳴らした。
フッ――と、白々しいまでに気取った調子で。
「それに……のめり込めるたちじゃァないとは言ったが、他人の作り上げたものにまったく興味がないというわけでもなくてね。こういう話を知っている」
呼吸一つ分の空白。
相手を会話に引き込む、独特な間だ。不本意にも、和泉は目の前の男との会話に慣れ始めていた。以前ほど、彼の声を恐ろしく思うこともない。
ただ、じっと次の言葉を待つ。
予想したとおりのタイミングで、透吾が再び口を開いた。
「ある美貌の青年が肖像画を前に初めて自分の美しさに気付いたとき、老いに襲われることのない肖像画に嫉妬してこう願った。自分の美は汚されることなく、自分の老いと罪の重荷を絵が背負ってくれればいいのに――と。彼が口にした願いは、絵に作用した。いや、美への執念が彼の魂を絵の中に封じ込めてしまったのかな……」
「『ドリアン・グレイの肖像』ですか」
オスカー・ワイルドの著作。
美しい青年の魂が堕落していく退廃の物語のことは、和泉も知っている。悪魔と契約を交わすが如くに自らの魂を肉体から切り離した彼は、老いとは無縁の体になった。どれほどの罪を犯したところで、天使の美貌が歪むことはなかった。醜く老いさらばえ、腐敗していく絵の中の〈ドリアン・グレイ〉とは対照的に――
透吾は軽く顎を引いて、肯定した。
「荒唐無稽な設定だ。普通の人は、そう思うだろう」
「ええ、そうでしょうね」
「でも俺は、奇妙にリアリティのある話だと思ったよ。想念の強さ、執着心は物にも人にも作用する」
そう語る透吾の顔はうっすらと青ざめているようにも見える。
和泉は気付いた。
「あなたは、本気で恐れているんですか? 死者と、魂の実在を」
ぶるっと体を震わせた彼は、答える代わりに一度だけ目を瞑った。
「で、君はその鑑賞眼で何を観るつもりだ?」
目に見えない何かを振り払う仕草で頭を振って、また目を開く――視線が交わる。
和泉はその無感動な目を見据えたまま、答えた。
「あなたという人を」
「……俺を」
透吾は一瞬だけ、怯んだようだった。恐怖とも怒りともつかない感情が、冷えた目の中を過ぎる。けれど彼は唇を無理やり笑みの形につり上げて、応じた。
「そうだな。国香君たちの前で不躾に君という人間を批評してみせた俺が、自分の番になったら逃げるというのでは恰好がつかない。公平でもない」
公平。その単語に、和泉はぎくりとした。
それを語るならば、この状況が既に公平ではない。唐草千里の遺品に溢れたこの部屋は、名前をインターネットで検索するより遙かに多くのことを教えてくれるだろう。彼が過日に葬り去ってきた思い出の何もかもを暴いてしまうだろう。
その不公平さを知らない透吾は、いつもの気取った調子で促してきた。
「さ、やってみろよ。君の鑑賞眼とやらがどれほどのものなのか、俺も興味がある」
「……分かりました」
挑発的な透吾の視線に、後ろめたさを呑み込んで、和泉は頷いた。
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