それだけで全てが始まった(4)
キャロディナが彼の名を呼ぼうとした時、足音がこちらへ近づいてきた。
キャロディナとカイゲツのものではない。
「カイゲツ」
呼ばれて反射的に振り返ったカイゲツの背後から現れたのは、高く結い上げた白髪をキラリと瞬かせる人だった。
カイゲツとキャロディナの声が「お婆様」「サーヤ様」と重なる。
「ごきげんよう、カイゲツ、キャロディナさん」
場に似合わぬ柔らかな声に思わず息を吐いたのはどちらなのだろう。
先ほどの張り詰めた空気から一転させる声が、暗く冷たい洞窟に温い風を運んだ。
「相変わらず暗いわねぇ。レルアバド、明りを点けてくれないかしら」
サーヤが頼めば洞窟内にカチャだとかごそごそだとかいう音が響いたかと思うと、離れた所に明りが灯った。
思わず目を瞬かせたキャロディナは、ランタンを持つレルアバドの姿を確認して初めて彼の存在に気が付いた。
繋いでいた魔王の手に強く力が入りキャロディナは目を眇めたが、反射的に声を我慢した。
痛がるような素振りを見せれば魔王が手を解きそうな気がしたから。
なんとか平静な表情を保ち振り向けば、明りから姿を隠すように大きな人間が精いっぱい身体を小さくしてキャロディナの影に入ろうとしていて、思わず笑みを漏らしてしまった。
「大丈夫。誰もあなたを傷つけないから。……皆、本当はとても優しいの」
(そう、優しい。優しいはずなの。ここの人達は、優しくしたくてたまらないはずなの。私も――)
近づく足音に、魔王の身体が強張った。
キャロディナは彼の無色の瞳から目を逸らさず手を握った。
大丈夫だから、と目で言い続ける。
「お婆様!」
切羽詰ったカイゲツの声に魔王の肩が跳ねる。
しかしサーヤは何も気にしていないように一歩一歩と足音を響かせた。
「カイゲツ、もう大丈夫よ」
「何が大丈夫なんです! あいつは……、あれは、魔王だ!」
「そうね、魔王ね。あんな、あなたの大声にびっくりして震える、気の小さい子であっても」
とうとう真後ろまで来た足音が、キャロディナの肩を優しく叩く。
「キャロディナさん、そして魔王ちゃんとカイゲツも。うちへおいでなさい。温かい紅茶をいれるから、一緒jに飲みましょう。ね?」
サーヤの手は暖かく、いつの間にか緊張していたらしいキャロディナの身体に柔らかさを滲み込ませる。
「ゆっくりお話しましょう。時間はたっぷりあるんだから。だぁって、ファルクネスの呪いは消えてしまったんだもの」
え、とカイゲツとキャロディナの声が重なる。
思わず振り向いたキャロディナに、サーヤはにっこりと微笑んだ。
逆光で表情は見えなかったのだが、彼女の声と人柄からいつものようにゆったりと笑っていることが分かる。
少しだけ呆然としていたキャロディナだったが、すぐに気を取り戻して、頬に残る涙の痕を指で拭った。
すっくと立ち上がり魔王の手を引いてみるが、さすがに成人男性を立ち上がらせる腕力はない。
成人男性……、成人男性だ。
天魔は契約者が執着しているものに変化するというが、キャロディナが一体どの男性に執着していると言うのだろう。
一人だけ居るには居るのだが、彼はこんなにも大柄ではなかった。
最期に見た彼の姿は十八歳だったはずだ。今の自分と同じ年齢で、カイゲツよりも若く身長も低かった。
短くなるサーヤの影と共に、レルアバドが持つランタンの明りが近づいてくる。
「立って」
キャロディナの声に反応した魔王が鎖の音を響かせながら立ち上がった。
目の位置がスゥッと上がり、思った以上の高さに少し驚く。
そのまま手を引けば、魔王は素直にその後をついて来た。
キャロディナの目の前に立つサーヤが少し立ち位置をずらせば、すぐそこまで近づいていたランタンの明るさに思わず目を顰める。
《キャロディナ》
名前を呼ばれ、顰めていた目をぱちりと開け魔王を振り向く。
視線が合った途端に、また洞窟の奥から風が吹いた。
《ひかりだよ》
その姿を初めて確認したキャロディナの心臓がドクリと跳ね、息が止まった。
腰まで伸びた長い黒髪が彼にそっくりだったからだ。
見た目通りの硬質で、纏まることなく跳ねている、キャロディナと同じ、だがそれよりも長く重い黒髪。
いや、髪だけではない。顔の造形は彼そのものだった。
ただ、瞳と白目の色が反転した、黒に白い瞳が浮かぶその眼と高身長を除いて。
無色の瞳に浮かぶ、肉食獣のような縦長の動向がキャロディナを見据える。
彼の身長はこんなに高くなかったし肩幅も広くなかった。
あの時は確かまだ十八の少年だったか。
もし、まだ生きていたとしたらこんなにも精悍な顔立ちになったのだろうか。
息を忘れたキャロディナは、忘れたそのまま吸うことを知らず、搾り出すような声で呟いた。
「お兄、様……?」
どこから来ているのかも分からない風が、いまやごうごうと吹き荒れていた。
天魔の風唄 琴あるむ @kt-arm
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