◆それだけで全てが始まった(3)
その時、背後から信じられないくらい大きな声が洞窟に響いた。
「戻って来い、――キャロディナ!」
ハッとしてカイゲツを振り向く。
一瞬何が起こったのか分からなかった。
呼ばれたのだ。
名前を。
初めて存在が認められた気がして、あまりの嬉しさに心が震える。
カイゲツの表情を見たかったが洞窟の口はここよりも明るくて、光に背を向けたカイゲツの顔はよく見えない。
無意識に足をそちらへ向ければ、背後から鎖の落ちる音がした。
《行かないで》
感情も抑揚もない声が、キャロディナの頭で悲しく響く。
《ここは寒いよ。暗いよ。何もない》
ガチャ、ガチャと鎖が鳴る。
白い玉があちらを向いたりこちらを向いたりする。
まるで何かを探しているようだ。
《人間は怖いよ。でもキャロディナは人間だけど怖くない》
顔の近くを何かが横切った気がした。
手を、伸ばされているのだろうか。
《暗いよ。寒いよ。もう嫌だ》
独り。
その感覚をキャロディナは知っている。
兄がキャロディナに近づくまで、誰一人としてキャロディナと会話をする者は居なかった。
一日に何度か使用人が来て、できるだけこちらに触れないように、関わらないように脅えながら世話をされるだけの、置物の日々。
部屋にたった一人だけの自分。
南向きの、景色のよく見える部屋。
外に出ることは許されず、何かを求めることも既に面倒になっていた。
暗くて寒かった。
《魔王は消えたいよ》
(ああ、私はそれを知っている)
鎖の音。
目の前を、何かが横切る――前に、キャロディナは反射的にそれを握った。
その感触に、反射的に怯んでしまったが離すことだけはしなかった。
獣の毛が一切無い、つるつるとしてて筋張った感触だったから。
それはまるで人間のような。
「何も、……するなッッ!!」
暖かさのない無機物のようなその手をギュッと両手で握り、自分の額に持って行く。
少しでも手を温めようとするように、祈るように。
「ごめんなさい、私にこの子を見放すなんて出来ない。だってこの子は私と同じなんだもの! 私もこの子と同じだったんだもの!」
「それは同情で受け入れていいモノじゃない!」
「出来ないわよ、このままこれからもこの子を放って自分だけぬくぬくと優しい屋敷で過ごすなんて……!」
ゆっくりと魔王の手を自分の胸の前に持って行く。
溢れた涙が頬と顎を伝い、三つの手にボタボタと落ちた。
すると、後頭部に冷たいものが落ちる。
え、と顔を上げると、魔王の目から雫が落ちて、頬の上でキャロディナの涙に溶けた。
(魔物も泣くんだ)
キャロディナは、たまらず魔王の身体があるであろう部分を抱きしめる。
布越しではあるが、その感触は確かに人間のものだった。
恐らく男性の身体だろうと検討を付ける。
カイゲツに包まれて起きたあの朝を思い出したから。
キャロディナは人に触れることが苦手だった。
だからあの朝初めて知ったのだ。
他者の温もりは、身体だけではなく心も温めるのだということを。
魔王を安心させたい一心で、ぐっと腕に力を込めた。
「もう大丈夫。私が居るから、泣かないで」
また、どこからかゴウと風が吹く。
背後からカイゲツの戸惑う声が聞こえた。
「泣く……魔物が?」
「――きっと笑いだってするわ。だって、涙を流すんだもの」
「そんなわけ、…………そんなはずは……」
カイゲツの声は痛々しいほどに困惑している。
認めるまいとしてはいるが、完全に否定するものではない。
もしかして、カイゲツもそう思ったことがあるんじゃないだろうか。
こんな時なのに、ふと思ってしまった。
カイゲツの天魔はどのような子なのだろうと。
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